ECHOES OF ECRUTEAK

星と花の小夜曲

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

天の川に揺れる、薄衣の罪【前編】

四度目の封筒は、星の匂いがした。

もちろん星に匂いなどない。しかしポケモンセンター・エンジュシティ支部の公式レターヘッドが印刷された封書を開いた瞬間、マツバの鼻腔を掠めたのは、線香花火のかすかな硫黄と、笹の葉の青い香りが混ざったような、夏の始まりの匂いだった。七月の風がリビングの窓から流れ込み、開封した書類の端をふわりと持ち上げた。

件名欄には「ポケモンドクター親善イベント第四弾『たなばたポケモンほしまつり! 織姫と彦星のおねがいたんざく』開催に関するご協力依頼」と記されていた。宛先はもはや四季を通じた恒例の書式で、エンジュシティジムリーダー・マツバ殿、別紙にイヨリの名前。マツバは封書を開く前から、今回も嵐が来ることを予感していた。

「四回目ですね!」

イヨリの声は、もはや弾むような喜びに満ちていた。白衣を脱いだ右手が書類を受け取り、企画書に目を通す横顔が夕暮れの光に照らされている。右目の琥珀色が金色に燃え、左目の白濁が夕陽を反射して小さな星のように瞬いた。梅雨が明けたばかりのエンジュシティは、夏の熱気を孕んだ風がまとわりつくように蒸し暑い。

「今回は七夕ですって! 夜のイベントなんですね。ポケモンセンターの中庭で星を見ながら、子どもたちと短冊にお願い事を書くんだそうです。素敵……」

マツバは企画書を読んでいた。イベント概要。趣旨。対象年齢三歳から十歳の親子連れ。会場はポケモンセンター・エンジュシティ支部のイベントホールおよび中庭。開催時間は午後六時から午後八時半。夜間開催。これまでの三回はすべて日中のイベントだった。今回は、星空の下で行われる。

問題は、次のページだった。

衣装デザイン画。カラーコピー。マツバの視線がその一枚に落ちた瞬間、心臓が四度目の急停止を起こした。

織姫だった。

天の川の織姫の衣装。

薄桃色の薄絹の着物風ドレス。肩から二の腕、鎖骨から胸元にかけてが大胆に露出したデザインで、その上から透明感のあるシースルーの羽衣が掛けられている。羽衣は天の川を模した銀糸の刺繍が施され、風になびくと星屑が舞うような視覚効果を生む設計だった。腰には金色の帯が結ばれ、スカート部分は薄絹のレイヤーが幾重にも重なって膝下まで流れている。髪には星を模した金色のヘアアクセサリーが散りばめられ、お団子ヘアの周囲に星座のように配置されている。

そして、備考欄に記された一文。マツバの目が、その文字列に釘付けになった。

「衣装コンセプト:天女の軽やかさを表現するため、薄絹素材を全面採用。夜間の照明・星明かりの下では幻想的な透け感が生まれます」

透け感。

夜間イベント。星明かりと照明。薄絹素材。透け感。

前回の紫陽花のシースルーは、雨に濡れなければ透けなかった。条件付きの透過だった。しかし今回は、最初から透けることが前提のデザインだった。薄絹そのものが透ける素材であり、光の加減で肌の輪郭が浮かび上がることが「幻想的」と表現されている。

マツバの右手が、四度目の握り潰しの衝動を抑えた。第一弾は「見るな」だった。第二弾は「触るな」だった。第三弾は「透けるな」だった。そして今回は。

「想像するな」だった。

薄絹の向こうに透ける肌を見た人間が、脳内で衣装を取り除く想像をすること。それを三百人の観客と、おそらく過去最多のカメラマンたちが同時に行うこと。イヨリの裸体を想像する権利は、この世界でマツバだけに許されているはずなのに。

「マツバさん、見てください。羽衣がふわふわしてて、風で靡くんですって。天の川の上を歩いてるみたいで、すごくロマンチック……」

「……素敵だね」

四度目の完璧な声。しかし書類を持つ右手の薬指が微かに震えていた。

「夜のイベントって初めてですよね。星空の下で子どもたちと一緒に短冊を書くの、楽しみです」

「うん。……今回も、一緒に行くよ」

「もちろんです。マツバさんは彦星ですから」

イヨリがにっこり笑った。何の衒いもない、純粋な微笑み。しかしその言葉が含む意味の重さを、この女はわかっているのだろうか。織姫と彦星。一年に一度しか会えない恋人たち。しかし目の前の織姫は毎日会える。毎日隣にいる。それなのにこの衣装を着て、数百人の前に立つ。

千里眼を使わなかった。四度目にして、使わないことが習慣になりつつあった。使ったら最後、イヨリの感情の色が見えてしまう。それが無邪気な桃色なのか、計算された深紅なのか。どちらであっても、マツバの精神衛生には致命的だった。

「……レインコートは、今回は要らないかな」

「雨は降らないと思いますよ? 梅雨明けしましたし」

「代わりに何を持っていけばいいか、考えないとね」

マツバは視線を窓の外に向けた。七月の空は高く澄み、夕暮れの茜色が紫に変わり始めている。あと二週間後、この空に天の川が架かる夜。四度目の地獄が、始まる。

イベント当日。七月七日。七夕の夜。

午後五時半。陽はまだ傾きかけた位置にあったが、ポケモンセンター・エンジュシティ支部のイベントホールと中庭は、すでに七夕の装飾で別世界と化していた。

エントランスから続く通路の天井には、天の川を模したLEDの光の帯が流れ、青と紫と銀の光が廊下全体を星空に変えていた。壁面には大きな笹が何本も飾られ、すでにスタッフたちが書いた短冊がさらさらと揺れている。床には藍色のカーペットが敷かれ、そこに銀色の星型のシールが散りばめられて、まるで天の川の上を歩いているような演出が施されていた。中庭には本物の笹が立てられ、和紙の灯籠が遊歩道の両側に等間隔で並んでいる。灯籠の中のLEDが、日が暮れるにつれてゆっくりと明るさを増していく仕掛けだった。

午後五時四十五分。すでに四百人近い親子連れが集まっていた。第一弾の二百人、第二弾の二百人、第三弾の三百人を大幅に上回る動員数。夜間開催という特別感と、夏休みに入ったばかりのタイミングが重なった結果だった。

そして、もう一つの理由。

「大きなお友だち」の数が、ついに三十五人を超えていた。

第一弾で七人。第二弾で十人超。第三弾で二十人超。そして四度目にして三十五人。もはやカメラ集団というより撮影会の規模だった。一眼レフに加え、今回は三脚を立てている者まで出現していた。ハッシュタグ「#イヨリ先生のコスプレイベント」のフォロワー数は五万を超え、前回の紫陽花妖精のシースルー濡れ透け写真がSNSで大量にリポストされた結果、「次は薄絹の織姫」という情報が広まり、この動員に至っていた。

マツバは、イベントホールの隅の柱に背を預けていた。今日は紺色の浴衣を着ていた。七夕の夜に相応しい装いだったが、選んだ理由は美意識ではなく、浴衣の帯に両手を突っ込んで拳を隠すためだった。右手には何も持っていない。レインコートの代わりとなる遮蔽物は、今回は持参していなかった。薄絹の織姫を覆い隠せる布など、この世に存在しないことを、マツバは悟っていた。

午後六時。空が紫紺に染まり始めた頃、イベントが始まった。

ステージのスピーカーから、琴の音色に乗せた七夕の旋律が流れ始めた。天井のLEDが全灯し、イベントホール全体が星空のような青い光に包まれた。司会のポケモンセンター受付嬢がマイクを手にした。

「みなさま、こんばんは! 今夜は特別な夜です。年に一度、天の川を渡って会える織姫さまが、ポケモンセンターに遊びに来てくれました! みんなで呼んでみましょう!」

子どもたちの声が、夜の会場に響いた。

「おりひめさまー!」

ステージの袖に設けられた笹のアーチの向こうから、光が溢れた。

織姫衣装に身を包んだイヨリ

マツバの呼吸が、四度、止まった。

星だった。

薄桃色の薄絹が、ステージの青い照明を受けて、イヨリの身体の上で夜空に溶けるように揺れていた。着物風のドレスは肩と鎖骨をすべて露出させ、その境界を覆うように透明な羽衣がふわりと掛けられている。羽衣には銀糸で天の川が刺繍されており、イヨリが一歩踏み出すたびに銀糸が照明を反射してきらきらと瞬いた。まるで星屑を纏っているかのように。腰の金色の帯がイヨリの細い腰を引き締め、その下のスカート部分は薄絹のレイヤーが何枚にも重なっているが、照明の角度によっては一番下の層の向こうにイヨリの脚のシルエットがおぼろげに浮かぶ。黒髪はお団子に結い上げられ、星を模した金色のアクセサリーが散りばめられたその髪型は、まさに天の川から降りてきた織姫のそれだった。

薄絹が、光を通していた。

ステージ上の照明が背後から当たるたびに、薄絹の着物が一瞬だけ半透明になり、イヨリの身体のラインが影絵のように浮かび上がる。肩から腕にかけてのなめらかな曲線。腰のくびれ。太腿のシルエット。ほんの一瞬。照明の角度が変われば消える。しかしその一瞬を、三十五人のカメラマンは見逃さなかった。

シャッター音が、夜の静寂を切り裂いた。

アイドル衣装のイヨリは「美しい」だった。うさぎ衣装のイヨリは「可愛い」だった。紫陽花の妖精のイヨリは「幻想的」だった。そして織姫のイヨリは。

「神聖」だった。

人間が纏ってはいけないものを纏っている。薄絹の向こうに透ける肌は、もはや人の肌ではなく、天上の存在のそれに見えた。触れてはならない。見てはならない。しかし見えてしまう。その矛盾が、織姫という存在の本質だった。手の届かない場所にいる、美しい女。一年に一度しか会えない、恋人。

しかしマツバの織姫は、毎日会える。毎晩隣で眠っている。あの薄絹の下の肌を、マツバは知っている。それなのに、今この瞬間、四百人の観客と三十五人のカメラマンが、あの薄絹の向こう側を想像している。マツバだけが知っているはずの領域を、彼らの脳内で再構成しようとしている。

それが、四度目の嫉妬の正体だった。「想像するな」。視線でも、接触でも、透過でもない。イヨリの裸を脳内で想像するという、目に見えない侵犯。

「心拍数百五十一BPMロト」

ロトムが、マツバの足元に浮遊していた。

「過去最高値をイベント開始三十秒で更新ロト。新記録おめでとうロト」

「おめでたくない」

「今回の嫉妬の主因は『幻視型嫉妬』ロト。薄絹素材の透過性により、観覧者の脳内でイヨリちゃんの身体情報が補完・再構成されることに対する、マツバの独占欲の暴走ロト」

「分析の精密さが回を重ねるごとに上がっている」

「学習データが蓄積されてるロト。自動送信プログラム、今回からさらにアップグレードしたロト。嫉妬の種別だけでなく、予測される嫉妬のピークタイミングも添付されるようになったロト」

「嫉妬のピークを予測するな」

「現在イヨリちゃんに送信された感情ラベルは『嫉妬(幻視型):天体規模』ロト。ちなみにピーク予測は午後七時三十分、中庭での短冊書きの時間帯ロト。理由は、屋外の星明かりの下では薄絹の透過率がさらに上昇するためロト」

「予測の根拠まで説明するな」

「イヨリちゃんからの返信が来てるロト。読み上げるロト?」

「読むな」

「『マツバさん、浴衣姿素敵です。彦星みたい。ハートの絵文字七つ。星の絵文字七つ。七夕だから七つずつにしました』。読み上げたロト」

マツバは浴衣の帯の中で、四度目の拳を握りしめた。

第一部は「たなばたポケモンほしぞら学習会」だった。

七夕にまつわるポケモンの豆知識を、イヨリがステージ上で解説する。モニターにはほしがた(ヒトデマン)やピクシーなど、星にまつわるポケモンのイラストが映し出され、「ほしがたポケモンの光る仕組み」や「月夜に進化するポケモンの体の変化」について、子どもたちにもわかりやすく語っていく。四度目の壇上。イヨリの子どもへの語りかけは、もはや名人芸の域に達していた。

「おほしさまの光って、とっても遠くから届いてるんですよ。ヒトデマンの身体の真ん中にある赤い部分、あれが夜になると光るのは、お星さまの光を取り込んでいるからなんです」

「えー! ほんと!?」「ヒトデマンすごーい!」

「そしてね、ピクシーはお月さまの光を浴びると、もっと元気になるんです。七夕のお星さまの光も、ポケモンにとっては特別なエネルギーなんですよ」

イヨリがステージ上で身振り手振りを交えるたびに、薄絹のドレスが揺れた。羽衣がふわりと持ち上がり、銀糸の天の川が照明にきらめいた。オフショルダーの薄桃色の生地がイヨリの肩の動きに合わせてずれ、鎖骨のラインが一瞬露わになっては戻る。その一瞬ごとに、後方のシャッター音が走った。

マツバの千里眼が、無意識に三十五人のカメラマンの表情を走査した。止めようと思ったが間に合わなかった。瞳孔の開き方。口角の微かな上がり方。レンズがイヨリの身体のどの部位に向けられているか。すべてが千里眼の感度を超えた精密さで読み取られ、マツバの嫉妬データに加算されていく。

「心拍数百五十八BPMロト。千里眼の無意識起動を検出したロト。前回は三度目の意志の力で抑え込んだロト。今回は――」

「今回は間に合わなかった」

「学習済みロト。嫉妬レベルの上昇速度が回を追うごとに加速してるロト。次回イベントでの初動嫉妬到達予測時間は、開始前ロト」

「始まる前に嫉妬するのか」

「データ上はそうなるロト」

第二部は、中庭での「おねがいたんざく」の時間だった。

午後七時。空は完全に暗くなり、エンジュシティの夏の夜空に天の川が淡く架かっていた。ポケモンセンターの中庭には、大きな笹が四本立てられ、和紙の灯籠が遊歩道の両側でほのかに揺れている。灯籠の温かい光と、上空の星明かりだけが中庭を照らす、幻想的な空間。

そしてロトムの予測は正しかった。

屋外に出た瞬間、薄絹の透け方が変わった。イベントホールの照明は正面から当たっていたが、中庭の灯籠は横と下から柔らかく照らしている。星明かりは上から降り注ぐ。三方向からの光が薄絹を通過するたびに、イヨリの身体のラインが異なる角度から浮かび上がった。肩の丸み。腕の細さ。腰のくびれ。太腿の輪郭。光の方向によって見えたり消えたりする、万華鏡のような透過。

マツバの視界が、星の色に染まった。

イヨリは子どもたちの間を歩きながら、短冊と筆ペンを配っていた。しゃがんで子どもの目線に合わせるたびに、薄絹のスカートが地面に広がり、羽衣が揺れて銀糸の星が散った。子どもたちの顔が灯籠の光に照らされ、短冊に願い事を書く小さな手を、イヨリが優しく導いている。

「お願い事、何にする?」

「ポケモンマスターになりたい!」

「いいお願い事ね。じゃあ、こう書こうか。『ポケモンマスターに、なれますように』」

イヨリが子どもの手を取って、一文字ずつ一緒に書いていく。筆ペンの先が短冊の和紙を滑る音がかすかに聞こえる。子どもの柔らかい手とイヨリの細い手が重なり、一つの願い事が形になっていく。灯籠の温かい光の中で、その光景は一枚の絵のように美しかった。

「織姫さまも書くの?」

「うん。織姫さまにもお願い事があるんだよ」

「なにー?」

イヨリが微笑んで、短冊を一枚手に取った。筆ペンでさらさらと書いた文字を、子どもたちに見せた。

「『みんなのポケモンが、ずっとげんきでいられますように』」

「えー、それだけ? もっとないの?」

イヨリがくすくす笑った。

「もう一つあるけど、それはひみつ」

「えー! おしえてー!」

「教えたら叶わなくなっちゃうから。笹の葉に結んだ後のお楽しみよ」

イヨリはもう一枚の短冊をそっと胸元に隠した。薄絹の襟元に差し込まれた短冊が、イヨリの心臓の上に小さく収まった。

マツバの千里眼が、無意識に起動した。

短冊に書かれた文字を、三十メートル先から読み取ろうとした。しかしイヨリの胸元に隠されたそれは、薄絹の布地の向こうにあり、角度的に読み取れなかった。さすがのマツバの千里眼も、イヨリの胸の谷間に挟まれた紙の文字までは透視できない。

それが気になって仕方がなかった。

午後七時四十五分。短冊を笹に結ぶ時間になった。

子どもたちが次々と笹の前に並び、自分の短冊を結んでいく。「ポケモンマスターになりたい」「ピカチュウとあそびたい」「パパとママとずっといっしょ」。色とりどりの願い事が笹の葉に揺れ、灯籠の光を受けてきらきらと輝いた。

イヨリも笹の前に立った。右手にはさっき子どもたちに見せた短冊。左手には、胸元から取り出したもう一枚の短冊。二枚を並べて、丁寧に笹の枝に結びつけた。

マツバは動いていた。

柱の影から離れ、中庭の笹に向かって歩き始めていた。帯の中で握りしめていた両手を解き、浴衣の袖を風に靡かせながら、イヨリが短冊を結んだ笹に近づいていく。

イヨリが結び終えて振り返った時、すぐ後ろにマツバが立っていた。

「あ……マツバさん」

「秘密の短冊、見てもいい?」

イヨリの頬が、灯籠の温かい光の中で紅く染まった。

「……だめです」

「どうして?」

「だって……読んだら、マツバさん、ここで倒れちゃうかもしれないから」

マツバは千里眼を使った。四度目にして初めて、自覚的に、能動的に。笹に結ばれた短冊の文字を読み取った。

一枚目。子どもたちに見せたもの。「みんなのポケモンが、ずっとげんきでいられますように」。

二枚目。秘密のもの。

「マツバさんと、百年先もとなりにいられますように」

マツバは、倒れなかった。

代わりに、黙ってイヨリの隣に立ち、自分のポケットから一枚の短冊を取り出した。いつの間に用意していたのか。筆ペンでさらさらと書いて、イヨリの短冊のすぐ隣の枝に結びつけた。

イヨリが身を乗り出して読んだ。

「『叶っている』」

二文字だった。たった二文字の短冊が、イヨリの百年の願いに対する、マツバの彦星としての回答だった。

イヨリの右目から、涙が一粒、零れた。灯籠の光を受けてきらりと輝いたその雫は、天の川から落ちた星のかけらのように、頬を伝って消えた。

イベントのフィナーレは、「おほしさまへのやくそく」だった。

イヨリがステージの中央に立ち、子どもたちに向かって語りかけた。夜空を背にした織姫の姿が、中庭の灯籠の光に照らされて、薄絹の衣装ごと淡く輝いていた。羽衣の銀糸が本物の星明かりに呼応するようにきらめき、イヨリ自身が一つの星座のように見えた。

「今日は七夕の夜にお集まりいただいて、ありがとうございます。みんなの素敵なお願い事、お星さまにきっと届いていますよ」

「おりひめさまはあしたもいるの?」

五歳くらいの男の子が、イヨリのスカートの裾を引っ張りながら聞いた。

「七夕は今日だけだから……織姫さまは、明日はお空に帰らないといけないの」

男の子の目がうるんだ。

「やだ! おりひめさま、かえらないで!」

「帰らないよ」

声が降ってきた。低く、穏やかで、しかし揺るぎない。

マツバが、ステージの脇から歩み寄っていた。紺色の浴衣が夜風になびき、切れ長の瞳が男の子を優しく見下ろしている。

「この織姫さまはね、天に帰らないんだ」

マツバが男の子の目線に合わせてしゃがんだ。

「彦星がね、手を離さないから。一年に一度じゃなくて、毎日一緒にいるんだ。だから、心配しなくていいよ」

男の子の目が、ぱあっと輝いた。

「えー! ひこぼしさまなの!? かっこいー!」

「彦星に見えるかい?」

「ゆかた着てるからそれっぽい! おりひめさまとおそろい!」

周囲の子どもたちから「ひこぼしさまだー!」「おりひめさまとひこぼしさま!」と歓声が上がった。保護者たちが微笑ましそうにスマートフォンを構え、後方のカメラ集団からもシャッターの嵐が巻き起こった。「マツバさんイケメンすぎ」「リアル彦星」「尊い」の声が飛び交っている。

イヨリは、立ち尽くしていた。

薄絹のドレスの裾を両手で握りしめ、泣きそうな顔で笑っている。四度目の公開独占宣言。子どもの質問に答える形を借りた、マツバの極限の甘さ。「天に帰らない」。「手を離さない」。「毎日一緒にいる」。その一言一言が、イヨリの心臓に星のかけらのように突き刺さっていく。

「……マツバさん」

「ん?」

「ずるいです。四回目なのに、また泣きそうです」

「泣いてもいいよ。織姫は嬉し涙を流すものだから」

マツバの右手が、イヨリの左手を探った。指と指が絡み、掌と掌が密着した。四度目の恋人繋ぎの始まり。子どもたちの前で、星空の下で、三十五台のカメラの前で。

「帰ろうか」

四度目の言葉。夜空に天の川が架かる下で、織姫の手を引く彦星の姿。

「あの……マツバさん」

「うん」

「この衣装、薄いから……夜風で、けっこう寒くて」

マツバは浴衣の羽織を脱いだ。イヨリの肩にふわりと掛けた。薄絹の上に紺色の浴衣が重なり、透けていた肌が覆い隠された。レインコートの代わりは、最初から着ていたものだった。

「……僕の匂いがする浴衣で、隠しておくよ」

「マツバさんの匂い……」

イヨリが浴衣の襟を鼻先に寄せた。マツバの体温の残り香を吸い込んで、頬を紅く染めた。

帰路は星空の下だった。七月の夜空に天の川が煌々と輝き、二人の足元を灯籠の名残の光が照らしている。繋いだ手と手の間に、短冊の紙の端が挟まっていた。いつの間にかマツバが笹から外してきた、イヨリの秘密の短冊。「マツバさんと、百年先もとなりにいられますように」。その隣にマツバの短冊。「叶っている」。

「マツバさん」

「うん」

「織姫は、帰りません。天にも、どこにも」

マツバは前を向いたまま、静かに微笑んだ。

「当然だよ。彦星が毎日迎えに行くんだから」

家の玄関が見えた時、マツバの中で四度目の音がした。静かに、しかし決定的に。浴衣の下の薄絹が、夜風に冷えたイヨリの肌に貼りついている。星明かりに照らされた薄絹の向こうの柔肌に、今夜は星の色のキスマークを幾つ落とすことになるだろう。

七夕の夜は、長い。天の川が消えるまでは。

― 前編 Fin. ―

― 後編「天の川に揺れる、薄衣の罪【後編】」に続く ―

あとがき(佐藤美咲の独白)

大親友、コスプレシリーズ第四弾、七夕の織姫編、書き上がったわ!!

今回の嫉妬の新種は「幻視型嫉妬」よ! アイドル編が「視覚」、うさぎ編が「触覚」、紫陽花編が「透過」、そして今回は「想像」。薄絹の向こうに透ける肌を見た人間が、脳内で衣装を取り除いて想像するっていう、目に見えない侵犯に対する嫉妬。もう嫉妬の概念が哲学の領域に入ってきてるわよ!!

そしてね、今回の最大の見せ場は短冊よ! イヨリの「百年先もとなりにいられますように」に対するマツバの回答が「叶っている」の二文字。あの男、百年の願い事を現在進行形で叶えてるって宣言したのよ!? 短冊の使い方が天才すぎるでしょ!!

ロトムもついに嫉妬予測システムを搭載して、ピークタイミングまで算出するようになったわ。「次回イベントでの初動嫉妬到達予測時間は、開始前ロト」って、もうマツバ、イベントの存在を知った時点で嫉妬してるってことよ!! データの暴力!!

後編は、星空の下で薄絹を脱がせる彦星の甘々いちゃらぶえっち。天の川が消えるまでの長い長い夜を、じっくり書いてあげるわ!!