蒼穹の偶像に、千の視線が降る【前編】
マツバが最初に感じたのは、怒りでも嫉妬でもなく、まぎれもない恐怖だった。
企画書は、ポケモンセンター・エンジュシティ支部の公式レターヘッドが印刷された、いかにも事務的な書類の体裁をしていた。件名欄には「ポケモンドクター親善イベント『ドクターとなかよし!』開催に関するご協力依頼」と記されており、宛先はエンジュシティジムリーダー・マツバ殿、そして別紙にイヨリの名前があった。マツバが書類に目を通したのは、イヨリがポケモンセンターから帰宅した、ある秋の夕方のことだった。
「子どもたちにポケモンドクターという職業を身近に感じてもらうためのイベントなんです」
イヨリは、脱いだばかりの白衣をハンガーに掛けながら、抑えきれない高揚を声ににじませていた。ダイニングテーブルの上に広げられた書類を挟んで、マツバは向かい側の椅子に腰を下ろしていた。窓の外ではエンジュの五重塔が夕焼けに溶け始めており、秋の空気がガラス越しにも伝わるほど澄んでいた。イヨリの頬はほのかに紅潮しており、その表情はポケモンセンターでの勤務を終えたばかりとは思えないほど生き生きとしていた。
「ポケモンセンターさんとエンジュシティの共同企画で、子どもたちが楽しみながらポケモンの健康管理を学べるようなステージをやるんですって。それで……その主役を、私にやってほしいと」
マツバは書類の文面から顔を上げた。妻の瞳が、キッチンの灯りを反射して琥珀色にきらめいている。右目だけが。左目は白く濁ったまま、けれども今この瞬間は、それさえもどこか誇らしげに輝いて見えた。
「理由を聞いてもいいかい」
「はい。あの……大柄な男性の先生方だと、小さなお子さんが怖がってしまうことがあるそうなんです。特に三歳から五歳くらいのお子さんは、白衣の大人というだけで泣いてしまう子が多くて。それで、できるだけ小柄で、柔らかい雰囲気の女性のドクターがいいだろうという話になって……」
イヨリは少し照れたように、セミロングの黒髪を耳の後ろへ流した。低い位置でひとつに結わえた髪が、指先に触れてさらりと揺れる。その仕草の自然さが、マツバの胸奥をちくりと刺した。
「それで、衣装なんですけど」
イヨリがテーブルの上の書類の一枚を引き出した。そこには、衣装デザインのカラーコピーが添付されていた。マツバの視線が、その一枚に吸い寄せられた。
青を基調とし、無数の星屑が散りばめられたようなフリルの多い衣装だった。袖はオフショルダー風で肩口を大胆に露出し、デコルテと豊満な胸の谷間が強調されたビスチェタイプのトップス。幾重にも重なるボリューミーなレイヤードスカートは膝上の丈で、星の装飾が裾に輝いている。首には星のチョーカー、両腕には星をあしらったカフス。髪は艶やかに下ろされ、サイドを可愛い星のアクセサリーでまとめたダウンスタイルで、足元は上端に星の飾りがついた白いオーバーニーソックスだった。
一言で言えば、それはアイドルの衣装だった。
テレビの向こう側にしか存在しないと思っていた、あの煌びやかなアイドルたちが纏うのと同じ種類の衣装。しかもそこに医療モチーフが加わっている。白い十字のエンブレムが衣装のあちこちに散りばめられ、腕にはアステア・システムを模したと思われる銀色の腕輪型アクセサリーのデザインまで描かれていた。
マツバの口が、わずかに開いた。
衣装デザインの隣には、企画概要が記されていた。イベント名は「ドクターとなかよし! エンジュの星になろう!」。会場はエンジュシティ中央公園の特設ステージ。対象は未就学児から小学生までの子どもたちとその保護者。内容は、ポケモンの健康診断の実演、応急処置のレクチャー、ポケモンとの触れ合いコーナー、そしてステージ上でのトークショー。
そのすべての中心に立つのが、イヨリだった。
「マツバさん?」
イヨリが不安そうに声をかけた。マツバの沈黙が長すぎたのだろう。彼女の右目がこちらを見上げている。タレ目がちの、大きな瞳。その中に映る自分の顔が、どんな表情をしているのかをマツバは千里眼なしでは判断できなかった。
「あの、もちろんマツバさんが嫌でしたら……」
「嫌なわけがないだろう」
マツバの声は、自分でも驚くほど穏やかだった。微笑みさえ浮かべていた。長年のジムリーダー業で培われた、感情を表に出さない技術がここに来て最大限に発揮されている。内心では、千里眼が勝手に起動しかけるほどの感情の波が渦巻いていたが、それを妻に悟らせるわけにはいかなかった。
「イヨリが子どもたちのために頑張りたいなら、僕は全力で応援するよ。素敵な企画じゃないか」
イヨリの顔が、ぱっと花が咲いたように輝いた。
「ありがとうございます! 実は、とても楽しみなんです。ポケモンセンターでの診療だと、なかなか子どもたちとゆっくりお話しする時間がなくて……こういう機会に、ポケモンドクターって怖くないんだよって伝えられたら嬉しいなって」
彼女の言葉には嘘がなかった。千里眼を使うまでもなく、イヨリの声の温度でわかる。この女は本心から、子どもたちのためにこの仕事を引き受けたのだ。医師としての矜恃と、人を救いたいという純粋な願い。それがイヨリの根幹にある光だと、マツバは誰よりもよく知っていた。
だからこそ。
マツバは、自分の中で暴れ狂う感情の名前を、まだ口にすることができなかった。
イベント当日は、雲ひとつない秋晴れだった。
エンジュシティ中央公園の紅葉は燃えるような朱に染まり、銀杏の葉が黄金色の絨毯を地面に敷き詰めていた。園内に設営された特設ステージは、青と白の布で飾られ、銀色の星型バルーンがスタンドの両脇にふわふわと揺れている。朝の十時を回った頃には、すでに百人近い親子連れがステージ前の観覧エリアに集まっていた。子どもたちの黄色い声と、保護者たちの談笑が、秋の乾いた空気に溶けて響いている。
マツバは、ステージから少し離れた銀杏の木の下に立っていた。
ジムリーダーとしての公務ではなく、あくまで「イヨリの夫」としてイベントを見守るという名目で来ていた。いつもの紫色のマフラーを巻いた私服姿は目立たないはずだったが、エンジュシティにおいてマツバの存在感はそもそも隠しようがなかった。既に数人の保護者がこちらに気づいてひそひそと話しており、「あれ、ジムリーダーじゃない?」「奥さんのために来てるのかしら」という声がちらほらと聞こえていた。
マツバは気にしなかった。いや、気にする余裕がなかったというべきだった。
彼の視線は、ステージ袖のテントに釘付けだった。そこで今、イヨリが衣装に着替えている。書類に添付されていたあのデザイン画の衣装を、今まさに身に纏おうとしている。その事実だけで、マツバの心拍数は平常値の一・五倍に達していた。
ステージのスピーカーから、軽快な音楽が流れ始めた。司会を務めるポケモンセンターの受付嬢が、マイクを手にステージの中央に立った。
「みなさん、おはようございまーす! 今日はエンジュシティとポケモンセンターが贈る、特別なイベント『ドクターとなかよし! エンジュの星になろう!』にお越しいただき、ありがとうございます! さっそく、今日の主役をお呼びしましょう! みんなで一緒に呼んでね! せーのっ!」
「イヨリせんせーい!」
子どもたちの合唱が、秋空に吸い込まれていった。
そして。
テントの幕が開いた。
マツバの呼吸が、止まった。
イヨリが、ステージの袖から姿を現した。
青を基調とした衣装は、デザイン画で見た時の百倍の破壊力を持っていた。星が散りばめられたボリューミーなレイヤードスカートが、歩くたびにふわりと揺れ、膝上から覗く白いオーバーニーソックスが秋の陽光を反射して輝いている。オフショルダーから伸びる白い二の腕と、惜しげもなく強調された胸の谷間が、彼女の美しいデコルテのラインに視線を誘導する構造になっていた。黒髪はいつもの低い位置のひとつ結びではなく、風になびくダウンスタイルで、サイドの髪が可愛い星のアクセサリーでまとめられている。額の傷跡を隠す前髪の隙間から、星の飾りがきらきらとこぼれ落ちるように輝いていた。
左手首のアステア・システムは、衣装に合わせた青いカバーで覆われ、銀色の星のチャームがぶら下がっていた。本物の医療デバイスとは思えないほど可愛らしい装いに変わっているが、機能はそのままだ。右手には小さな星形のステッキが握られていて、その先端からは淡い青色のLEDライトが点滅している。
イヨリは、ステージの中央まで歩き、小さくお辞儀をした。
「おはようございます。ポケモンドクターのイヨリです。今日はみなさんと一緒に、ポケモンのことをたくさんお勉強しましょうね」
柔らかい声だった。いつもの丁寧語に、ほんの少しだけ砕けた親しみやすさが加わっている。子どもたちの目線に合わせるように腰を落とし、右目を細めて微笑む。左目の白濁は、前髪の影でほとんど目立たない。小柄な身体にボリュームのあるフリルの衣装と、少し背伸びをした胸元の露出が絶妙なバランスで映え、まるで輝く星の世界から舞い降りたアイドルのようだった。
子どもたちが一斉に歓声を上げた。
「せんせい、かわいい!」「おほしさまだ!」「まほうつかいみたい!」
黄色い声が波のように押し寄せ、イヨリは少し照れたように頬を染めながら、星形のステッキを振った。先端のLEDが青い光の軌跡を描き、子どもたちの目がきらきらと輝く。
マツバは、銀杏の木の幹に背中をつけ、腕を組んだまま、その光景を見つめていた。
妻が、美しかった。
ただ、それだけのことだった。けれどもその「それだけのこと」が、マツバの内臓を鷲掴みにして離さなかった。イヨリの美しさは、マツバが誰よりも深く、誰よりも近くで知っている。寝起きの顔も、診察中の真剣な横顔も、情事の後の蕩けた表情も、泣いた後の赤い目も。すべてを知り尽くしているはずだった。なのに、今、あの衣装を纏ったイヨリは、マツバの知らない顔をしている。百人以上の視線を一身に浴びながら微笑む、公人としてのイヨリ。マツバだけに向けるのではない笑顔。
その笑顔が、万人に向けられている。
マツバの奥歯が、かすかに軋んだ。
イベントは、順調に進行した。
最初のプログラムは「ポケモンけんこうしんだん たいけん」だった。イヨリがステージ上にロトムを呼び出し、子どもたちが連れてきたポケモンの健康状態を、わかりやすく解説しながらチェックしていく。聴診器を当て、体温を測り、目や口の中を観察する。その一連の動作の美しさは、さすが主席卒業のドクターだとマツバは思った。無駄のない手つき。ポケモンを怖がらせないための柔らかい声かけ。小さな患者の飼い主である子どもに対して、膝をついて同じ目線に立ち、丁寧に症状を説明する姿勢。
「このピチューちゃん、とっても元気ですよ。でも、ほっぺの電気袋がちょっとだけ熱くなっています。きっと、今日のイベントが楽しみで興奮しているんですね」
イヨリがそう言いながらピチューの頬を指先で撫でると、ピチューは嬉しそうにぴぃぴぃと鳴いた。飼い主の女の子が「せんせい、ありがとう!」と抱きついてきて、イヨリは少し驚いた顔をしてから、優しく抱き返した。
その仕草にマツバの胸が温かくなると同時に、観覧エリアの後方からカメラのシャッター音が聞こえた。マツバは千里眼を使うまでもなく、その音の方向に視線を向けた。
大人の男性だった。
二十代後半から三十代前半と思われるその男は、一眼レフカメラを構え、望遠レンズをステージ上のイヨリに向けていた。連れの子どもはいない。単独で来ている。隣にはもう一人、同じようにカメラを持った男性が並んでおり、二人は小声で何かを話しながら、熱心にシャッターを切り続けていた。
マツバの視界が、かすかに紫色を帯びた。千里眼が無意識に起動しかけている証だった。
意識して能力を抑え込んだ。他人の心を覗くことは、原則としてしない。それがマツバの矜持だった。ましてやイベント会場で、一般の来場者に対して千里眼を行使するなど、ジムリーダーとしてあるまじき行為だ。彼らはただ写真を撮っているだけかもしれない。ポケモンドクターのイベントを記録したい、純粋な好奇心かもしれない。
しかし。
マツバの耳は、彼らの会話の断片を拾った。
「やべえ、めちゃくちゃ可愛くない?」「ガチ天使」「あのアイドル衣装ヤバすぎる、谷間が……」「脚ほっそ」「つーかドクターでこのスタイルって奇跡だろ」
マツバは、銀杏の木の幹から背中を離した。
呼吸を整えた。奥歯を噛み締めた。肩の力を抜いた。手の中で、無意識にマフラーの端を握りしめていた指を、一本ずつ解いた。
落ち着け、と自分に言い聞かせた。彼はジムリーダーだ。エンジュシティの顔だ。公衆の面前で感情を暴発させることは許されない。
だが、マツバの内心では、凄まじい速度で感情が膨張していた。
彼女を見るな。
その一念が、炉心のように熱く脈動していた。あの笑顔はマツバのものだ。あの白い肌も、あの華奢な身体も、あの柔らかい声も。ニーハイの奥に隠された太腿の肌理も、スカートの裾がはらむ秋風のぬくもりも、すべてマツバだけが知っていればいい。知るべきなのだ。他の誰にも、見せたくない。見せてはいけない。
それなのに。
イヨリは今、無防備に、満面の笑みでステージの上に立っている。百人以上の視線を浴びながら、あの衣装で、あの笑顔で。
マツバは右手を口元に当て、小さく息を吐いた。吐いた息が白く見えるほど、秋の空気は冷たかった。それなのに、身体の奥だけが焼けるように熱い。
イベントの第二部は、「ポケモンおうきゅうしょちレッスン」だった。
イヨリはステージ上に大きなぬいぐるみのポケモン――ピカチュウ型の練習人形を置き、子どもたちに基本的な応急処置の方法を教え始めた。傷の手当ての仕方、やけどの冷やし方、ポケモンが弱っている時のサインの見分け方。専門的な内容を、五歳児にも理解できるように噛み砕いて説明するイヨリの言葉選びは見事だった。
「もしポケモンが倒れちゃったら、まず大人の人を呼んでね。それから、このステッキみたいに」イヨリが星形のステッキを掲げてみせた。「キラキラの光で場所を教えてあげるの。暗い場所でも見つけてもらえるように、明るい色の物を使うといいですよ」
子どもたちが「はーい!」と元気よく返事をする。イヨリが満足そうに頷いて、次のステップに進もうとした、その時だった。
「先生! 先生! ぼくのメリープが変なの!」
観覧エリアの最前列で、五歳くらいの男の子が声を上げた。腕の中に抱いたメリープの毛がくしゃくしゃに逆立ち、小さな放電を繰り返している。怯えた表情の男の子の隣で、母親が慌てた様子で声をかけている。
イヨリの表情が、一瞬で切り替わった。
ステージ上のアイドル衣装を纏った「お星さまの先生」から、ポケモンドクターの顔へ。しかし声は、子どもを怖がらせないように、変わらず柔らかいままだった。
「大丈夫ですよ。ちょっと見せてもらえるかな?」
イヨリはステージを降り、スカートの裾を軽く押さえながら男の子の前にしゃがんだ。左手首のアステア・システムを本来の医療モードに切り替え、メリープの身体にそっと手を当てた。アステアのモニターが青く光り、ロトムが即座にバイタルデータを読み取る。
マツバは、その光景を三十メートル離れた銀杏の木の下から凝視していた。
イヨリがしゃがんだ拍子に、フリルスカートの裾が風をはらんで揺れた。ニーハイの白いストッキングの上端と、スカートの裾の間に、ほんの数センチだけ素肌が覗いた。いわゆる絶対領域。しかもしゃがんだ姿勢のせいで、後ろから見ればスカートの奥が……いや、さすがにそこまでは見えない。見えないはずだ。信じたい。
マツバの視線が、カメラを持った男性の方に向いた。
彼らは、今この瞬間もシャッターを切っていた。しかもレンズの方向が、明らかにイヨリのしゃがんだ姿に向けられている。
マツバの右手が拳を握った。
握った拳の中で、爪が掌に食い込んだ。痛みが理性を繋ぎ止めた。ここで動けば、すべてが台無しになる。イヨリの晴れ舞台を、マツバ自身の嫉妬で壊すわけにはいかない。それは、イヨリを傷つけることだ。千里眼を持つ男が見通せない唯一のものは、自分自身の愚かさだと、マツバは思った。
「この子は静電気が溜まりすぎちゃっただけですよ。大丈夫。イベントの音楽が大きくてびっくりしちゃったのかな? ね?」
イヨリがメリープの頭をそっと撫でると、逆立っていた毛が少しずつ収まっていった。アステア・システムから微弱な電磁波が放出され、メリープの帯電を穏やかに放電させている。ロトムが無言で最適な周波数を計算し、デバイスにフィードバックしていく。
一分もかからなかった。メリープは嬉しそうに「メェ」と鳴き、男の子の腕の中に顔を埋めた。
「すごーい!」「先生、まほうみたい!」
周囲の子どもたちから感嘆の声が上がった。男の子の母親が何度も頭を下げ、イヨリは「大したことではありませんから」と柔らかく微笑んだ。立ち上がる時に、フリルスカートの裾がきれいに広がり、秋の風にさらわれた一枚の銀杏の葉が、まるで彼女を祝福するかのようにその肩に舞い降りた。
その瞬間を、観覧エリアの保護者たちが一斉にスマートフォンで撮影した。カメラを持った男性たちだけではなく、母親たちまでもが。イヨリの姿が、SNSに拡散されていく音が聞こえるようだった。
マツバは、歯を食いしばった。
第三部は「ポケモンとなかよしタイム」だった。子どもたちがステージに上がり、イヨリと一緒にポケモンと触れ合う時間だ。イヨリはバシャーモを呼び出した。普段は寡黙で近寄りがたい雰囲気のバシャーモだが、今日はイヨリの指示のもと、子どもたちの前で穏やかに振る舞っている。子どもが恐る恐る触ろうとする小さな手に、バシャーモが自分から頭を低くして差し出す。イヨリが「バシャーモ、偉いね。ありがとう」と声をかけると、バシャーモは無表情のまま、しかしどこか誇らしげに胸を張った。
続いてロズレイドが登場し、花の香りで会場を優しく包んだ。バリヤードがひかりのかべで虹色のシャボン玉のような光を見せれば、子どもたちは歓声を上げて追いかけ回し、保護者たちは和やかに笑い合った。
しかし、マツバの目は子どもたちのではなく、観覧エリアの後方に増殖しつつある「一般来場者」に向けられていた。
イベント開始時には二人だったカメラ持ちの男性が、いつの間にか七人に増えていた。明らかに子ども連れではない成人男性が、望遠レンズを構えてステージ上のイヨリを撮影している。その中には、スマートフォンで動画を撮っている者もいた。
さらに、SNSを見て駆けつけたのか、若い女性のグループも到着していた。「えっ、この先生マジで可愛い」「アイドルの推し活みたいじゃん」「てかスタイル良すぎない? 現役ドクターだよ?」という声が聞こえてきた。
マツバの喉の奥で、無意識にうなり声が鳴った。
嫉妬だった。正真正銘の、言い訳のしようがない嫉妬。マツバは自覚していた。この感情が理不尽であることも。イヨリは仕事をしているだけだ。子どもたちのために全力を尽くしている、それだけのことだ。彼女の美しさも可愛さも、隠すべきものではない。イヨリ自身が、誰かに見せびらかしたくてこの衣装を着ているわけでもない。
わかっている。すべてわかっている。
わかっていて、なお。
マツバの中の獣は、イヨリに向けられるすべての視線を噛み砕きたいと吠えていた。
あの笑顔は僕の花だ。僕だけの花だ。お前たちが向ける視線の一つ一つが、僕の花びらに触れている。それが許せない。許容できない。
「ロトー?」
不意に、声がした。マツバの足元にいつの間にかロトムが浮かんでいた。イヨリのアステア・システムから分離した個体だろう。小さな液晶画面に、マツバのバイタルデータらしきものが表示されている。
「マツバ、心拍数が異常ロト。現在百二十三BPM。平静時の平均が六十五BPMだから、約一・九倍ロト。ストレスホルモン指数も急上昇中ロト。原因を分析中……分析完了ロト。原因:嫉妬。確信度九十九・七パーセントロト」
「……ロトム」
「ちなみにこのデータ、イヨリちゃんにリアルタイム転送中ロト」
マツバの顔から、わずかに血の気が引いた。
「今すぐ止めてくれないか」
「もう遅いロト。イヨリちゃん、今ステージ上でちらっとこっち見たロト。あ、笑ってるロト。『マツバさん、また嫉妬してる』って顔ロト」
マツバがステージに目を向けると、確かにイヨリがこちらを見ていた。子どもたちにロズレイドの花の名前を教えながら、その視線だけがマツバに向いていた。口元にはかすかな笑み。あの笑みの意味を、マツバは嫌というほど知っていた。
小悪魔の微笑み。
「もしかして、わかっていてやっているのか……」
マツバの呟きに、ロトムが即答した。
「イヨリちゃんの過去のデータから推測すると、マツバの嫉妬を煽るのはイヨリちゃんの趣味ロト。確率的には七十八パーセント、意図的にマツバの視界に入る位置を選んでパフォーマンスしてるロト」
「趣味と言うな」
「でも事実ロト」
ロトムがけらけらと電子音で笑った。マツバは深い溜息を吐き、再びステージに目を向けた。
イベントのクライマックスは、「おほしさまとやくそくタイム」と銘打たれた締めのプログラムだった。
イヨリがステージの中央に立ち、星形のステッキを掲げる。子どもたちが一人ずつステージに上がり、「ポケモンドクターとのやくそく」を大きな声で唱える。「ポケモンをだいじにします」「ケガしたらおとなによびます」「ポケモンとなかよくします」。子どもたちが一つ約束するごとに、イヨリがステッキを振り、小さな星のシールを一枚ずつ子どもの手に貼っていく。
その光景は、温かかった。秋の陽光の下、紅葉に囲まれたステージで、青い衣装のイヨリが子どもたちと向き合い、一人一人の目を見て微笑む。子どもたちの目にはイヨリが星そのもののように映っているだろう。近くで見守る保護者たちも、感動の入り混じった表情で我が子とイヨリの姿を見つめていた。
マツバは、その光景に胸を打たれていた。打たれながら、同時に、胸を掻きむしりたいほどの衝動に苛まれていた。
美しいのだ。あまりに美しかった。
子どもたちに向けるイヨリの笑顔に嘘はなかった。あの顔は、かつてマツバが初めて恋に落ちた時に見た、エンジュの月明かりの下で微笑むイヨリと同じ顔だった。あの時も、こんなふうに世界そのものが彼女を祝福するように輝いていた。そして、あの笑顔を独り占めしたいと思った瞬間から、マツバの地獄は始まったのだ。
最後の子どもがステージを降りた。イヨリがマイクを手に取った。
「今日は来てくれて、ほんとうにありがとうございました! みなさんが元気よくお約束してくれて、先生、とっても嬉しかったです。これからも、ポケモンのことをいっぱい好きでいてくださいね」
イヨリが、最後に深くお辞儀をした。艶やかに下ろされた長い黒髪がさらりと肩から流れ、星のアクセサリーが秋の光を反射して輝いた。
万雷の拍手が、会場を包んだ。
子どもたちの拍手。保護者たちの拍手。そして、後方に陣取った「大きなお友だち」たちの、ひときわ大きな拍手。「イヨリ先生!」「最高でした!」「次もお願いします!」という声が、あちこちから飛んだ。
マツバは、拍手をしなかった。
できなかった。両手が、マフラーの端を握りしめたまま動かなかった。
イベント終了後。
撤収作業に入ったスタッフたちの間を縫って、イヨリがマツバの元へ駆け寄ってきた。衣装のままだった。フリルスカートが走るたびに揺れ、星のブローチがきらきらと弾ける。少し息を切らしたイヨリの頬は紅潮しており、額にうっすらと汗がにじんでいた。秋の冷たい空気の中でも、身体を動かし続けた熱が残っている。
「マツバさんっ」
イヨリが、マツバの前で立ち止まった。右目を輝かせ、少し息を弾ませながら、上目遣いでマツバを見上げる。ダウンスタイルにまとめた黒髪が、胸の谷間にかかるように揺れている。
「見ていてくださいましたか?」
マツバは、三秒かけて呼吸を整えた。
「見ていたよ。ずっと」
声は穏やかだった。表面上は。いつもの柔らかいトーンで、妻の活躍を讃える夫の声。しかし、イヨリにはわかったはずだった。その「ずっと」という一語に、どれほどの重さが込められているのかが。ステージ上の妻だけでなく、彼女に向けられるすべての視線を、一つ残らず数えていたという意味であることが。
案の定、イヨリの唇がかすかに弧を描いた。
「子どもたちが、すごく楽しんでくれて……私、嬉しかったです」
「ああ、子どもたちは本当に楽しそうだったね」
「おっきいお兄さんたちも、たくさん写真を撮ってくれました」
マツバの笑顔が、ほんの一瞬、凍った。
今、この女は、意図的に言った。間違いない。あの小悪魔は、マツバの嫉妬の導火線に、笑顔で火をつけたのだ。マツバの千里眼が瞬時に起動し、イヨリの感情の色を読み取った。彼女の心は淡い桃色に染まっていた。悪意はない。ただ、マツバの独占欲が燃え上がる様を見ることが、イヨリにとってはこの上ない愛情の確認作業なのだ。「この人は、私を手放さない」という安心感を、わざと嫉妬の炎で確かめようとする。それがイヨリの、12年前のトラウマから生まれた歪な愛情確認の方法だった。
マツバは、それを知っていた。知っていて、なおイヨリの手の上で踊ることを選んだ男だった。
「そうかい。それは良かった」
声のトーンは変わらなかった。しかし、マツバの右手がイヨリの左手首を取った。アステア・システムの青いカバーの上から、指がそっと巻きつく。触れるか触れないかの力加減。けれどもその指先の温度は、秋風よりもずっと高かった。
イヨリの睫毛が、ぴくりと震えた。
「……マツバ、さん?」
「帰ろうか、イヨリ」
マツバの声は静かだった。穏やかで、優しくて、けれども有無を言わさない響きを持っていた。イヨリはその声のトーンを知っている。普段の「僕」ではなく、あの夜の「僕」に限りなく近い温度。公の場だからかろうじて抑えているだけの、獣の呼吸。
「あ、あの、スタッフさんにお礼の挨拶を……」
「もう済んでいるよ。さっき僕から伝えておいた」
嘘だった。まだ何も伝えていない。しかしマツバは、この瞬間、一秒でも早くイヨリを衆目から引き剥がしたかった。この衣装のまま、人々の前に晒し続けることに、これ以上耐えられなかった。
「あ……」
イヨリが、マツバの表情を読んだ。右目が大きく見開かれ、頬にさらに深い朱が差した。マツバの目の奥に灯っているものの名前を、彼女は正確に理解したのだろう。恐怖ではなかった。あの目に怯えるイヨリではもうなかった。ただ、彼女の心臓が大きく跳ね上がったのを、マツバの千里眼は明確に捉えていた。
「……はい」
小さな返事だった。イヨリの声は、ほんの少しだけ上擦っていた。
マツバはイヨリの手首から指を滑らせ、代わりにその手を取った。華奢な指を、自分の大きな手で包み込む。繋いだ手のひらから伝わるイヨリの体温は、ステージの余韻でまだ熱かった。
二人はステージから離れた。紅葉の並木道を、手を繋いで歩く。背後では、スタッフたちが撤収作業を続けており、子どもたちの名残惜しそうな声と、「イヨリ先生、また来てねー!」という黄色い叫びが追いかけてきた。
マツバは振り返らなかった。イヨリの手を握る力が、ほんの少しだけ強くなった。
紅葉が舞っていた。銀杏の葉が、二人の間を通り抜けて黄金色の軌跡を描いた。秋の夕陽が、エンジュの五重塔を茜色に染め始めていた。
どちらも、何も言わなかった。
言葉は要らなかった。繋いだ手の温度と、握る力の強さが、すべてを物語っていた。マツバの指先が、イヨリの手の甲を何度も何度も撫でている。その動きは愛撫のようであり、確認のようであり、そして刻印のようだった。「お前は僕のものだ」という声なき宣言を、指先だけで繰り返し刻んでいる。
イヨリは、その指の動きに抗わなかった。否、抗う気など最初からなかったのだろう。フリルスカートの裾が秋風にはためき、ニーハイの白と素肌の対比が夕陽に照らされて、マツバだけに見える角度で揺れていた。
自宅への帰路は、歩いて十五分ほどだった。
その十五分間、マツバの指はイヨリの手を離さなかった。イヨリも、マツバの手を振りほどこうとはしなかった。ただ一度だけ、紅葉が特に美しい石畳の道に差し掛かった時、イヨリがそっとマツバの腕に身体を寄せた。星の髪飾りが、マツバの肩口に触れてかちりと小さな音を立てた。
「マツバさん」
イヨリの声は、囁きに近かった。
「今日、楽しかったです」
マツバは、足を止めなかった。前を向いたまま、ただ一言だけ返した。
「……あの衣装は、脱がさないでくれ」
イヨリの歩みが、一瞬だけ詰まった。
「え?」
「家に着くまで。僕が脱がすから」
沈黙が落ちた。
紅葉が二枚、風に巻かれて宙を舞った。どこかでムクバードが鳴いた。石畳を踏む二人の足音だけが、夕暮れのエンジュに響いていた。
やがて、小さな笑い声が聞こえた。
イヨリが笑っていた。頬を真っ赤に染めながら、マツバの腕にさらに強く身体を押しつけて、声を殺して笑っていた。
「……はい」
その一言に、マツバの足が速まった。
エンジュの夕陽が、二人の影を長く伸ばしていた。星のブローチが最後の陽光を受けて瞬き、フリルスカートの裾が揺れるたびに、銀色の星が散った。
自宅の玄関が見えた時、マツバの中でかろうじて保たれていた何かが、静かに、しかし決定的に音を立てた。
千里眼のジムリーダーは、鍵を開ける手がかすかに震えていることを、自分自身の能力で知覚していた。
そしてイヨリは、その震えを、繋いだ手のひらから確かに感じ取っていた。
― 前編 Fin. ―
あとがき(佐藤美咲の独白)
大親友、あたし、書き上がったわ。
これはね、もう拷問よ拷問。マツバにとっての。イヨリちゃんがアイドル衣装でキラッキラ輝いて子どもたちに慕われてるのを見てるだけで、あの男の理性がメキメキと軋む音が聞こえるんだもの。しかも「大きなお友だち」がカメラ持って絶対領域を狙ってくるわ、ロトムは嫉妬を数値化して逐一報告するわ、地獄、完全なる地獄。なのに公共の場だから表向きは穏やかな笑みを保つしかないっていう。千里眼持ちの独占欲マシマシ男にとって、これ以上の試練があるかしら。
でもね、本当に恐ろしいのはイヨリちゃんの方よ。この女、意図的にマツバの嫉妬を煽ってるの。「おっきいお兄さんたちも、たくさん写真を撮ってくれました」って、あの顔で言うんだから。あの清楚な顔で。魔性、魔性of魔性。マツバの独占欲に火をつけて、その炎で愛を確かめるって、やってることは完全にサキュバス。
そして最後の「あの衣装は、脱がさないでくれ」「僕が脱がすから」。ここ、あたし書きながらぞわっとした。マツバの声がさ、穏やかなのに有無を言わさないあの感じ。日中ずっと我慢してた独占欲が、たった二言にぎゅうっと凝縮されてんのよ。帰宅後に何が起こるか、大親友、わかるわよね? 後編を楽しみに待っててちょうだい。