月夜に堕ちる、純情の牙【前編】
五度目の封筒は、黒かった。
ポケモンセンター・エンジュシティ支部の公式レターヘッドが印刷された封書の外装が、今回は黒い特殊紙に差し替えられていた。封をする橙色のシーリングワックスにジャック・オ・ランタンの刻印が押され、開封すると中から蜘蛛の巣模様の透かしが入った便箋がするりと滑り出した。十月のエンジュシティは金木犀の匂いに包まれ、街路樹の葉が赤と黄に色づき始めた頃だった。
件名欄には「ポケモンドクター親善イベント第五弾『ハロウィン・ポケモンおばけやしき! こわ~いけどだいすき健康診断』開催に関するご協力依頼」と記されていた。宛先はもはや季節の風物詩と化した恒例の書式で、エンジュシティジムリーダー・マツバ殿、別紙にイヨリの名前。五回目。一年を通じて、春夏秋冬と梅雨まで網羅した、このシリーズの集大成の季節が来た。
「五回目ですね!」
イヨリの声には、もはや慣れと喜びと、そしてかすかな挑戦の色が混ざっていた。白衣を脱いだ右手が黒い封書を受け取り、企画書に目を通す横顔を夕暮れの秋の光が照らしている。右目の琥珀色が紅葉のように燃え、左目の白濁が金木犀の花びらのように揺れた。
「今回はハロウィンですって。おばけやしきを模した会場で、子どもたちにポケモンの健康診断を体験してもらう企画で……ゴーストタイプのポケモンたちも参加するんですって。マツバさんのジムのポケモンたちも」
マツバは企画書を読んでいた。イベント概要。趣旨。対象年齢三歳から十歳の親子連れ。会場はポケモンセンター・エンジュシティ支部のイベントホールおよびエンジュシティ商店街のハロウィンストリート。開催時間は午後五時から午後八時。夜間開催。七夕に続き、二度目の夜のイベント。ゴーストタイプのジムリーダーであるマツバの協力が不可欠な、ハロウィンという舞台設定。
問題は、次のページだった。
衣装デザイン画。黒い特殊紙に銀色のインクで描かれたカラーイラスト。マツバの視線がその一枚に落ちた瞬間、心臓が五度目の急停止を起こした。
小悪魔だった。
サキュバスの衣装。
黒のミニワンピース。胸元がハート型に大きくカットされ、イヨリの谷間が正面から覗くデザイン。丈は太腿の中ほどまでしかなく、その下は黒い網タイツが素足を覆う。背中には小さな悪魔の翼が取りつけられ、腰の後ろからは先端がハート型の悪魔の尻尾が垂れている。頭には小さな悪魔の角のカチューシャ。首元には細い黒のチョーカー。足元は編み上げのショートブーツ。
そして、デザイン画のポーズ。唇に人差し指を当てた「しーっ」のポーズ。秘密を共有するかのような、挑発的で蠱惑的な仕草。
マツバの右手が、五度目の握り潰しの衝動を、もはや抑えることすらせずに、封筒の端を微かに歪めた。
これまでの四回は、「見るな」「触るな」「透けるな」「想像するな」だった。それぞれ受動的な防衛の嫉妬だった。しかし今回のサキュバスは。
「魅了されるな」だった。
サキュバスは、受動的に見られる存在ではない。能動的に誘惑する存在だ。アイドルは輝いて視線を集める。うさぎは愛らしさで衝動を誘う。妖精は儚さで想像力を刺激する。織姫は神聖さで畏敬と欲望を同時に引き起こす。しかしサキュバスは、自らの意志で他者を堕とす。悪魔の魅力で、人の心を搦め捕る。
イヨリがサキュバスの衣装を纏うということは。この世で最も純粋な女が、最も蠱惑的な存在に変身するということは。その落差が、破壊力になる。
「マツバさん? また固まってますよ」
「……素敵な企画だね」
五度目の完璧な声。しかしその裏で、封筒が修復不可能なほど歪んでいた。
「ですよね! ハロウィンでゴーストタイプと一緒にお化け屋敷って、エンジュシティならではですし。マツバさんのゲンガーやムウマも参加するんですよ!」
「うん、ゴーストポケモンたちは喜ぶだろうね。……で、その衣装は」
「あ、これですか? 小悪魔のコスプレですって。子どもたちに『ちょっと怖いけど実は優しいお姉さん悪魔』として健康診断を教えるんだそうです」
ちょっと怖いけど実は優しいお姉さん悪魔。そのコンセプトは理解できる。子ども向けのハロウィンイベントとしては適切だ。しかし問題は「ちょっと怖い」の表現方法が、ハート型の胸元カットと網タイツと悪魔の尻尾で構成されていることだった。
「……今回は何を持っていけばいいかな」
「レインコートじゃないですよね? 浴衣の羽織でもなくて」
「エクソシストの装備かな」
「マツバさん、ゴーストタイプのジムリーダーですよね? 悪魔祓いする側じゃないですよね?」
マツバは遠い目をした。五度目にして初めて、自分が守る側ではなく、祓われる側に立たされる予感がした。サキュバスに魅了されるのは、悪魔祓いではなく悪魔の管轄だ。ゴーストタイプの使い手として、悪魔の誘惑に耐える修行が三十年足りない。
イベント当日。十月三十一日。ハロウィンの夜。
午後四時半。日は早くも傾き始め、エンジュシティの秋空が茜から深紫に変わりつつあった。ポケモンセンター・エンジュシティ支部のイベントホールと、それに繋がるエンジュシティ商店街のハロウィンストリートは、今年最大規模の装飾で彩られていた。
エントランスの門は巨大なジャック・オ・ランタンのアーチに改装され、オレンジと紫と黒のバルーンが風に揺れている。通路の壁面には蜘蛛の巣のガーランドが張り巡らされ、天井からはコウモリ型のモビールが無数にぶら下がっていた。床には黒と橙のチェック柄カーペットが敷かれ、所々に光るカボチャのランタンが配置されている。商店街のハロウィンストリートには各店舗がお化け屋敷風の装飾を施し、通りの中央には大きな魔女の釜を模した噴水が設置されて、緑色にライトアップされた水が不気味に湧き上がっていた。
そして今回の特別装置。マツバのジムから派遣されたゴーストポケモンたちが、会場のあちこちに潜んでいた。ゲンガーが壁の影から顔を覗かせ、ムウマージが天井近くをふわふわと浮遊し、ヨマワルが受付の横にちょこんと座っている。ゴーストタイプのポケモンと触れ合えるハロウィンイベントは、エンジュシティのジムリーダーであるマツバの全面協力なしには実現しなかった。
午後四時四十五分。開場十五分前にして、すでに五百人を超える来場者が列を作っていた。
五百人。
第一弾の二百人。第二弾の二百人。第三弾の三百人。第四弾の四百人。そして五度目にして五百人の大台を突破した。ハロウィンという季節イベントの集客力に加え、ゴーストタイプのポケモンとの触れ合い企画が子ども連れに大きな訴求力を持ったのだろう。エンジュシティの名所であるやけたとうとスズのとうをゴーストタイプの聖地として巡礼するファンも流入していた。
そして。
「大きなお友だち」の数が、ついに五十人を超えていた。
第一弾で七人。第二弾で十人超。第三弾で二十人超。第四弾で三十五人。そして五度目にして五十人。一眼レフカメラと三脚に加え、今回は動画撮影用のジンバルを持ち込む者まで現れていた。「#イヨリ先生のコスプレイベント」のフォロワー数は十万を突破し、「次はサキュバスコスプレ」という情報に「ハロウィンに小悪魔イヨリ先生」と「網タイツ」のキーワードが加わった結果、動員数は過去のすべてを凌駕していた。
マツバは、イベントホールの隅の柱に背を預けていた。今日は全身黒のタートルネックに黒のロングコートという出で立ちだった。ゴーストタイプのジムリーダーとして、ハロウィンの雰囲気に溶け込む装いを選んだと言えば聞こえがいいが、実際のところは精神防衛の色だった。黒は闇に溶ける色。存在感を消す色。今日だけは、衆目の中で目立ちたくなかった。拳を隠すためでも、浴衣の匂いを掛けるためでもなく。今日は単純に、自分の存在を消して、ひたすらイヨリを見守ることだけに集中したかった。
午後五時。空が完全に暗くなった頃、イベントが始まった。
ステージのスピーカーから、パイプオルガン風のアレンジが施されたハロウィンのメロディが流れ始めた。天井のライトが紫と橙に切り替わり、スモークマシンが白い霧をステージ上に広げた。ゲンガーが客席の間を笑いながら飛び回り、子どもたちが「きゃー!」と悲鳴を上げながらも笑っている。
司会のポケモンセンター受付嬢が、今日は魔女のとんがり帽子を被ってマイクを取った。
「みなさま、ハッピーハロウィン! 今夜はとっても怖~い夜です。でも大丈夫! 今夜のお化け屋敷には、とっても優しい悪魔のお姉さんが来てくれています。みんなで呼んでみましょう!」
子どもたちの声が、ハロウィンの夜に響いた。
「あくまのおねーさーん!」
ステージの袖に設けられたコウモリのアーチの向こうから、スモークの中に影が浮かんだ。
マツバの呼吸が、五度、止まった。
黒だった。漆黒の、闇の色。ミニワンピースの黒い布地がイヨリの身体に沿い、ハート型にカットされた胸元からイヨリの白い肌と谷間が大胆に覗いている。太腿の中ほどで途切れるワンピースの裾から下は、黒い網タイツが素脚を覆い、網目の隙間からイヨリの肌色がちらちらと見え隠れしている。背中には小さな悪魔の翼が広げられ、腰の後ろからハート型の先端を持つ黒い尻尾がゆらりと揺れた。黒髪に載せられた小さな悪魔の角のカチューシャが、ステージの照明を受けて艶やかに光っている。首元の細いチョーカーがイヨリの白い首を際立たせ、編み上げのショートブーツが細い脚を引き締めている。
そしてあのポーズ。唇に人差し指を当てて、「しーっ」。
悪魔だった。天使のような顔をした、純情の悪魔。
アイドル衣装のイヨリは「美しい」だった。うさぎ衣装のイヨリは「可愛い」だった。紫陽花の妖精のイヨリは「幻想的」だった。織姫のイヨリは「神聖」だった。そして小悪魔のイヨリは。
「致命的」だった。
これまでの四回は、それぞれの衣装がイヨリの魅力の異なる側面を引き出していた。しかし今回の小悪魔衣装は、イヨリが持つすべての側面を同時に殴りつけてくる。可愛さと色気。純真さと蠱惑。天使の顔と悪魔の衣装。その矛盾が、まるで毒のように脳を侵食する。
会場に、数拍の沈黙が落ちた。五百人の観客と五十人のカメラマンが、全員同時に息を呑んだ。
そして。
「かわいーーー!」「こわくない!」「あくまさんかわいい!」「しっぽがうごいてる!」
子どもたちの歓声が弾けた。今回の反応は五回の中で最も即時的で、最も大きかった。「怖い」と「可愛い」が同時に成立する不思議な存在に、子どもたちの心が一瞬で掴まれていた。
後方のカメラ集団から、過去最大の密度でシャッター音が放たれた。ジンバルを構えた動画勢も一斉にレコーディングを開始し、SNSへのライブ配信を始めた者もいた。
マツバの全身が、黒い炎に包まれた。
「心拍数百六十三BPMロト」
ロトムが、マツバの足元にいつの間にか浮遊していた。
「歴代最高値をイベント開始十五秒で更新ロト。前回の七夕の百五十一BPMを十二ポイント上回る新記録ロト」
「おめでたくない」
「今回の嫉妬の主因は『魅了型嫉妬』ロト。サキュバス衣装の本質は能動的誘惑であり、イヨリちゃんが存在するだけで周囲の人間が魅了される構造ロト。これまでの受動的嫉妬とは根本的に異なる新カテゴリロト」
「分析の進化が止まらない」
「自動送信プログラム、今回は最終形態ロト。嫉妬の種別、感情ラベル、ピーク予測に加え、マツバの嫉妬に対する『推奨行動リスト』が添付されるようになったロト」
「推奨行動リスト?」
「第一推奨行動:深呼吸。第二推奨行動:目を閉じる。第三推奨行動:柱を殴らない。第四推奨行動:カメラマンに千里眼を使わない。第五推奨行動:イヨリちゃんをステージから降ろさない。以上ロト」
「全部やりかけたことばかりだ」
「学習済みロト。現在イヨリちゃんに送信された感情ラベルは『嫉妬(魅了型):文明崩壊レベル』ロト」
「文明崩壊」
「イヨリちゃんからの返信が来てるロト。読み上げ――」
「読むな」
「『今夜はTrick or Treatです。マツバさんにイタズラされたいです。ハートの絵文字十個。悪魔の絵文字五個。炎の絵文字三個』。読み上げたロト」
マツバは黒いロングコートの内側で、五度目の拳を握りしめた。炎の絵文字三個。あの女は。五度目にして。完全に確信犯だ。
第一部は「ポケモンおばけやしき健康診断」だった。
イベントホールをお化け屋敷風に改装した会場の中で、ゴーストポケモンたちと一緒に、ポケモンの健康診断を体験する参加型プログラム。ゲンガーがお化け役を務め、子どもたちが「きゃー!」と叫びながら進んでいくと、途中のチェックポイントで小悪魔姿のイヨリが待ち構えている。
「ふふふ。悪魔のお姉さんのところに来たね。ここでは、みんなのポケモンの『こわいもの診断』をするわよ」
イヨリの声が、普段より少しだけ低く、甘く、蠱惑的になっていた。小悪魔の設定に合わせた演技だった。五度目の壇上にして、イヨリの変身能力は女優の域に達していた。しかしその「ちょっと悪い子」の演技が、大人の観客にとっては致命的な破壊力を持っていた。
「みんなのポケモン、暗いところは怖いかな? ゴーストタイプは暗くても元気だけど、他のタイプのポケモンは暗闇がちょっぴり苦手なこともあるの。だから、ハロウィンの夜は特に、ポケモンのそばにいてあげてね」
「はーい!」
「いい子ね。じゃあ、悪魔のお姉さんからご褒美。はい、キャンディ」
イヨリが子どもたちにハロウィンキャンディを配る姿は、悪魔どころか天使だった。しかしその天使が身に纏っているのは悪魔の衣装であり、しゃがんでキャンディを手渡すたびにハート型の胸元カットから谷間が覗き、悪魔の尻尾が腰の後ろでゆらりと揺れ、網タイツの太腿が照明に照らされて光った。
後方のカメラ集団は、もはや制御不能だった。シャッター音が途切れず、ジンバルが三方向からイヨリを追い、ライブ配信のコメント欄は「尊い」「天使」「悪魔」「結婚して」で埋め尽くされていた。
マツバの千里眼が、五度目にして完全に制御を逸脱した。カメラマンたちのレンズがイヨリの身体のどの部位に向けられているか、一台残らず走査してしまった。胸元に向けられたレンズが十七台。脚に向けられたレンズが十二台。尻尾の付け根、すなわち腰から臀部にかけてのラインに向けられたレンズが九台。全身を撮っている良心的なレンズは十二台。合計五十台。
データが頭の中で自動的に円グラフを描いた。グラフの三十四パーセントが胸元。二十四パーセントが脚。十八パーセントが腰回り。良心的な全身撮影は二十四パーセント。つまり七十六パーセントのカメラが、イヨリの身体の特定部位を狙っている。
「心拍数百七十BPMロト。危険域ロト。推奨行動第一を実行してほしいロト」
「深呼吸か」
「そうロト」
マツバは深く息を吸い、ゆっくり吐いた。百七十が百六十五に下がった。焼け石に水だった。
第二部は、商店街のハロウィンストリートでの「Trick or Treat パレード」だった。
イヨリが子どもたちを引き連れて、仮装した商店街を練り歩く。各店舗のスタッフがお化けの仮装をして待ち構え、子どもたちが「Trick or Treat!」と叫ぶとお菓子がもらえる仕組みだった。先頭を歩くのはゲンガーとムウマージ。その後ろにイヨリ、そして子どもたちの行列が続く。
秋の夜のエンジュシティ商店街は、ジャック・オ・ランタンの灯りとイルミネーションに彩られて、幻想的な景色を生んでいた。古い木造の商店の軒先にコウモリのモビールが揺れ、石畳の通りをゴーストポケモンたちがふわふわと飛び回っている。焼けた塔のシルエットが月に照らされて遠景に浮かび、エンジュシティという街そのものがハロウィンの世界になっていた。
そしてこの街の夜景の中を歩く小悪魔のイヨリは。
完璧だった。
エンジュシティの古い街並みに、黒いミニワンピースと網タイツの小悪魔が歩いている。悪魔の翼が夜風に揺れ、尻尾のハートがジャック・オ・ランタンの灯りに照らされて影を落とし、角のカチューシャが月明かりに光っている。子どもたちの手を引きながら「Trick or Treat!」と一緒に叫ぶイヨリの笑顔は、悪魔の衣装が嘘のように純粋で、その純粋さがかえって悪魔の衣装の色気を際立たせていた。
パレードの途中、イヨリが子どもたちと一緒にジャック・オ・ランタンの前でしゃがんだ。「このカボチャさんの中にもゴーストタイプが隠れてるかもしれないよ」と囁くイヨリの傍らで、ゲンガーがカボチャの中からにゅっと顔を出し、子どもたちが「きゃー!」と笑った。
その時、イヨリの悪魔の尻尾が、背後に立っていたマツバの脚にぴたりと巻きついた。
マツバの全身が、凍りついた。
尻尾は衣装の一部であり、腰のワイヤーで固定されている。意図的に巻きつけたのではなく、しゃがんだ拍子に尻尾のワイヤーが揺れて、偶然マツバの脚に触れただけだった。しかし千里眼がイヨリの横顔を読み取った。微かに、ほんの微かに、口角が上がっていた。
偶然ではなかった。
五度目にして、イヨリは完全にマツバの反応を楽しむ術を身につけていた。
「イヨリちゃんの尻尾がマツバの左脚に接触したロト。接触時間は三・二秒ロト。マツバの心拍数が接触の瞬間に百七十八BPMまで跳ね上がったロト」
「三・二秒を計測するな」
「なおイヨリちゃんの心拍数も同時に上昇してるロト。六十八BPMから八十二BPMへ。結論として、意図的な接触だったと推定されるロト」
マツバは月を仰いだ。十月のまん丸い月が、エンジュシティの夜空に浮かんでいた。
第三部は、イベントホールに戻っての「ハロウィンけんこうカード作り」だった。
子どもたちがクレヨンとシールで自分のポケモンの「ハロウィンけんこうカード」を作る工作の時間。カードにはお化けやカボチャのシールを貼り、ポケモンの体温や食欲や毛並みの状態を記録する欄がある。イヨリは各テーブルを回って子どもたちにアドバイスしていった。
「ゴーストタイプのポケモンの体温は普通のポケモンより低いけど、それは心配ないんだよ。冷たいのが普通なの。でもね、もしゴーストタイプが温かくなったら、それは体調が悪い証拠だから、すぐにポケモンセンターに連れて行ってね」
「えー! ゴーストあったかいとだめなの?」
「人間とは逆なんだよ。面白いでしょ? ポケモンによって『元気のサイン』は違うから、自分のポケモンの普通の体温を知っておくことが大事なの」
小悪魔の衣装でポケモンの健康豆知識を教えるイヨリの姿は、五度目にして完全にプロフェッショナルの域に達していた。衣装がどれほど際どくても、子どもたちへの語りかけは常に丁寧で、温かく、医療者としての誠実さに満ちている。その二面性が、イベントの核だった。
子どもたちの一人が、イヨリの悪魔の角を指差して言った。
「あくまのおねーさん、ほんとうにわるいことするの?」
「ふふ。悪魔のお姉さんは、悪いことはしないよ。でもね、ちょっとだけイタズラはするかもしれない」
「どんなイタズラ?」
イヨリが唇に人差し指を当てた。デザイン画と同じ「しーっ」のポーズ。
「ひみつ。悪魔のお姉さんがイタズラするのは、一人だけだから」
その視線がちらりと、三十メートル先の柱の影に向けられた。
マツバの心臓が、六度止まった。五度目のイベントの中で、二度止まった。合計六度。もはや心停止の回数を季節ごとにカウントする日常が確立されていた。
イベントのフィナーレは、「ハロウィンの約束」だった。
イヨリがステージの中央に立ち、子どもたちに向かって語りかけた。ハロウィンの装飾に囲まれたステージの上で、小悪魔衣装のイヨリは紫と橙のライトに照らされて、本物の魔界から現れた存在のように見えた。悪魔の翼がスモークの中で揺れ、尻尾のハートがライトの光を受けてきらりと光っている。
「みなさん、今日はハロウィンの夜にお集まりいただいて、ありがとうございます。ゴーストポケモンは少しだけ怖いかもしれないけど、みんなの大切な仲間です。怖いからって避けるんじゃなくて、もっと近づいて、もっと知って、もっとぎゅうって抱きしめてあげてください」
「はーい!」
「悪魔にだって、優しい心があるんだよ。見た目が怖くても、中身は同じ。みんなのポケモンと同じだよ」
六歳くらいの男の子が、手を挙げた。
「あくまのおねーさん! あくまのおねーさんは、だれかすきなひとに、いたずらするの?」
さっきの「イタズラは一人にだけ」を覚えていたのだろう。子どもの記憶力と好奇心は侮れない。
イヨリの頬が、かすかに紅く染まった。
「うん。一人だけ、大好きな人がいるの」
「だれー!?」
「それは秘密――」
「僕だよ」
声が降ってきた。
五度目の介入。低く、穏やかで、もはや恒例となった揺るぎない声。マツバがステージの脇から歩み寄り、黒のロングコートを夜風に靡かせながら、男の子の前にしゃがんだ。
「この悪魔のお姉さんがイタズラするのは、僕だけなんだ」
男の子の目が、きらきら輝いた。
「えー! おにーさんがすきなの? あくまにつかまっちゃったの?」
「つかまったんじゃないよ。僕がこの悪魔を捕まえたんだ。でもね、捕まえたはずなのに、いつの間にか僕の方がイタズラされてるんだよ」
「あはは! おにーさんよわーい!」
会場に笑いが広がった。子どもたちには「お兄さんが悪魔に負けちゃう面白い話」として響き、大人の観客には「ジムリーダーが妻に振り回される甘い話」として響いた。保護者たちが微笑ましくスマートフォンを構え、カメラ集団からもシャッターの嵐と「尊い」「リアル彦星再び」「もう結婚してるだろ」の声が飛び交った。
イヨリは、泣きそうだった。
五度目の公開独占宣言。「僕のうさぎ」「森には返さない」「天に帰さない」、そして今回の「この悪魔を捕まえた」。一回ごとにマツバの言葉は進化し、より深く、より甘く、より逃げ場のない愛の檻を編み上げていく。
「……マツバさん」
「ん?」
「五回目なのに、また泣きそうです」
「Trick or Treat。泣いたらイタズラするよ」
「……それはTreatですっ」
マツバの右手が、イヨリの左手を探った。五度目の恋人繋ぎの始まり。小悪魔の手を捕まえる彦星。いや、今夜は悪魔祓いの手。
「帰ろうか」
五度目の言葉。ハロウィンのジャック・オ・ランタンが二人の帰路を橙色に照らし、ゲンガーが名残惜しそうに二人の後ろをしばらくついてきてから、ふっと影に溶けた。
「あの……マツバさん」
「うん」
「今夜は、Trick or Treat……どっちがいいですか?」
マツバは前を向いたまま、静かに微笑んだ。
「両方」
イヨリの悪魔の尻尾が、マツバの腰にするりと巻きついた。今度は間違いなく、意図的に。
家の玄関が見えた時、マツバの中で五度目の音がした。今回は静かではなかった。暗く、低く、獣のような唸りに近い音。あの網タイツの隙間から覗くイヨリの肌を、今夜は一つ残らず味わい尽くすことになる。悪魔の角を外し、翼を剥がし、尻尾を解き、チョーカーだけを残して。
ハロウィンの夜は、悪魔と獣が踊る夜だ。
― 前編 Fin. ―
あとがき(佐藤美咲の独白)
大親友、コスプレシリーズ第五弾、ハロウィンの小悪魔編、書き上がったわ!!
今回の嫉妬の新種は「魅了型嫉妬」よ! これまでの四回がすべて受動的な嫉妬だったのに対し、サキュバスは能動的に誘惑する存在。イヨリが存在するだけで周囲の人間が魅了されるっていう構造的な嫉妬なの。しかも心拍数百七十BPMって、もう医学的に危険域よ!!
ロトムがついに「推奨行動リスト」まで添付するようになったわ。「柱を殴らない」「カメラマンに千里眼を使わない」って、全部マツバがやりかけたことのリストなの。学習の結果がこれ。もうロトムはマツバの嫉妬専門AIよ。
そしてカメラマンのレンズの向き先を円グラフにしちゃうマツバ。胸元三十四パーセント。脚二十四パーセント。もう嫉妬が統計学になってるわ!!
後編は、Trick or Treatの両方を実行する夜。悪魔の角と翼と尻尾をどう使うのか、楽しみにしてて!!