GAKUEN LOVE COMEDY

誰にでも優しい君が
私にだけ向けた特別

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

第五話 僕だけの特等席と、甘すぎる放課後
― 誰にでも優しい君が、私にだけ向けた特別 ―

イヨリ視点 / 約20,000字 / 甘々

 マツバとイヨリが付き合い始めて、三日が経った。

 何が変わったかと言うと——実は、あまり変わっていない。

 朝、教室で「おはよう」と言う。昼休みにカナミやミカゲと一緒にお弁当を食べる。放課後は図書室で向かい合って勉強する。帰り道を一緒に歩く。

 四年間ずっとやってきたことと、ほとんど同じだ。

 でも——一つだけ、決定的に違うことがある。

 手を繋いでいる。

 帰り道で、自然に。当たり前のように。マツバの大きな手が、イヨリの小さな手を包み込む。指を絡める。恋人繋ぎ。

 たったそれだけのことなのに——イヨリの心臓は毎回爆発しそうになる。

「イヨリちゃん、手、汗かいてない?」

「か、かいてないっ……」

「かいてるよ。緊張してる?」

「してないっ……」

「嘘。耳、赤いよ」

「見ないでっ……」

 マツバが——くすくす笑う。穏やかで優しい、いつもの笑顔。でもその目が——甘い。以前は隠していた甘さが、今は隠す必要がなくなった分、ストレートに向けられてくる。

 破壊力が、十倍になった。

 教室では——まだ少しぎこちなかった。

 クラスメイト全員に告白現場を目撃されているので、二人が付き合っていることはもう周知の事実だ。でも、だからこそ教室では距離感が難しい。

 「マツバ君、イヨリちゃんの席近くない? さっきから三回見てたよ」

 「見てないよ」

 「見てた見てた。授業中に」

 男子にからかわれるマツバ。耳が赤い。

 イヨリも——教室で目が合うたびに、反射的にうつむいてしまう。四年間やってきた「気持ちを隠す」癖が、まだ抜けないのだ。

 ——もう隠さなくていいのに。

 マツバ君の彼女なのに。堂々としていいのに。

 でも——恥ずかしい。好きな人と両思いだということが、まだ信じられなくて、恥ずかしくて、くすぐったくて。

 昼休み。

 カナミとミカゲと三人でお弁当を食べていると、カナミが突然言った。

「ねえイヨリちゃん。付き合い始めてからマツバ君とどこまでいったの?」

 イヨリが弁当の玉子焼きを落とした。

「ど、どこまでって——」

「手は繋いだでしょ。ハグは? キスは?」

「してないっ!」

「えー! マツバ君ヘタレすぎない!? 三日も経ったのに!」

「三日しか経ってないの! 早すぎるよ!」

 ミカゲが横から静かに口を出した。

「カナミさん、人にはそれぞれのペースがあります。焦らなくても——」

「でもさー! マツバ君、あんだけ雨の中走ったり告白で泣いたりしたくせに、付き合い始めたら超紳士じゃん。もっとがっつけよ!」

「がっつくって言い方……」

「だってイヨリちゃん可愛いのに! もったいない! もっと甘えさせてもらいなよ!」

 イヨリは真っ赤になって玉子焼きを拾い上げた(三秒ルール)。

「……マツバ君は、優しいから。わたしのペースに合わせてくれてるんだと思う」

「それがヘタレだって言ってんの! 合わせすぎ! イヨリちゃんからいっちゃいなよ!」

「む、無理だよそんなの……」

 ミカゲが小さく微笑んだ。

「でも——マツバさんは、本当はもっとイヨリさんに触れたいと思っていると思いますよ」

「え……」

「あの方、イヨリさんと手が離れる瞬間——毎回、少しだけ名残惜しそうな顔をしていますから」

 ——名残惜しそうな顔。

 マツバ君が。わたしの手を離す時に。

 ……気づいてなかった。

「ほらー! ミカゲちゃんが言うなら間違いないって! ミカゲちゃん観察力鬼だもん!」

「鬼って……」

「とにかく! この週末、作戦会議しよう! イヨリちゃんを最強に可愛くして、マツバ君の理性をぶっ壊す計画!」

「理性をぶっ壊すって物騒すぎるんだけど——」

「乗りました」

 ミカゲが即答した。

「え、ミカゲちゃんまで!?」

「イヨリさんの可愛さを最大限に引き出すことには——非常に興味があります」

 二対一。また二対一だ。イヨリに勝ち目はなかった。

 週末。

 コガネシティのショッピングモール。

 カナミとミカゲに連れられて、イヨリは服を買いに来ていた。

「じゃあまずこれ着てみて!」

 カナミが突きつけてきたのは、淡いラベンダー色のワンピースだった。ふんわりとしたシフォン素材で、胸元にレースがあしらわれている。スカートの丈は膝上。

 「こ、これは……露出が——」

 「膝上なだけじゃん! 全然普通! イヨリちゃんの脚きれいなんだから見せなきゃ損!」

 「損とかそういう問題じゃ——」

 「イヨリさん、一度試着してみてはいかがですか。似合わなければやめればいいですし」

 ミカゲの冷静な提案に押されて、イヨリは渋々試着室に入った。

 着替えて、鏡を見た。

 ——あ。

 可愛い。

 自分で言うのもおかしいけど——可愛い。ラベンダー色が色白の肌に映えて、黒髪とのコントラストがきれいだ。ふんわりとしたシルエットが、イヨリの華奢な体にちょうどいい。

 カーテンを開けた。

「——ほら! 言った通り! めっちゃ可愛いじゃん!」

 カナミが飛び跳ねた。

「とても——お似合いです」

 ミカゲが目を細めた。

 結局、ラベンダーのワンピースと、白いカーディガンと、小さなヘアピンを買った。ヘアピンはミカゲが選んでくれた。銀色の、小さな花の形をしたもの。

 「イヨリさんの髪に映えると思います」

 「ありがとう、ミカゲちゃん……」

 買い物の後、三人でクレープを食べながらベンチに座った。

「で、いつマツバ君に見せるの? このコーデ」

「えっと……文化祭の打ち上げ——」

「遅い! 明日! 明日のデートで着なさい!」

「デートなんて——」

「え、してないの? 付き合ったのにデートしてないの!? マジで!?」

「だって……学校以外で二人きりで会うの、まだ——」

「信じらんない。マツバ君に今すぐLINEして。明日、デートしようって」

「自分からそんな——」

「イヨリちゃん」

 カナミが——真剣な目をした。

「マツバ君は多分、イヨリちゃんに負担をかけたくなくて控えてる。でもイヨリちゃんが誘ったら——絶対、めちゃくちゃ喜ぶよ」

「……そう、かな」

「間違いない。あたしが保証する」

 ミカゲが静かに頷いた。

「カナミさんの言う通りだと思います。マツバさんは——自分から踏み込みすぎることを恐れている節があります。イヨリさんからの一歩が、あの方を安心させると思いますよ」

 二人にそう言われて——イヨリは、スマホを取り出した。

 手が震える。

 LINEを開いた。マツバとのトーク画面。最後のメッセージは昨日の「おやすみ」。

 「明日、お出かけしない? 二人で」

 送信。

 三秒で既読がついた。

 五秒後に返信が来た。

 「行く。絶対行く。どこでも行く。何時でもいい」

 返信の速度と文面に——イヨリは、思わず笑ってしまった。即答すぎる。「絶対」「どこでも」「何時でも」。いつもの穏やかなマツバらしくない、食い気味の返信。

 カナミがイヨリのスマホを覗き込んで、爆笑した。

 「マツバ君必死すぎて草」

 ミカゲも口元を手で押さえて笑っていた。

 日曜日。初デート。

 待ち合わせ場所は、コガネシティの駅前。時間は午前十時。

 イヨリは九時四十分に着いた。

 昨日買ったラベンダーのワンピースに白いカーディガンを羽織って、銀色の花のヘアピンを右側の髪に留めている。薄くリップを塗った。カナミに「せめてリップ! リップだけは!」と言われて買ったもの。

 鏡で確認した時、自分が自分じゃないみたいだった。

 ——こんな格好、マツバ君に変だと思われないかな。

 不安になる。いつもは制服かジーンズとパーカーなのに、急にワンピースなんて。気合い入りすぎだと笑われたらどうしよう。

 九時四十五分。

 「イヨリちゃん」

 声がした。振り向いた。

 マツバが——立っていた。

 紺色のシャツにベージュのチノパン。シンプルだけど、清潔感があって爽やか。いつもの制服姿とは違う、私服のマツバ。

 ——かっこいい。

 というか——十五分前に来てるということは、もっと早くから待っていたのだろうか。

「おはよう、マツバ君。早いね」

「うん。九時半には着いてた。……心配で」

「何が心配なの?」

「イヨリちゃんが来てくれなかったらどうしようって。夢だったらどうしようって」

「……来るに決まってるし、夢じゃないよ」

「そうだよね。……あ」

 マツバの視線が——イヨリの全身をなぞった。

 ラベンダーのワンピース。白いカーディガン。花のヘアピン。

 マツバの目が——止まった。数秒、イヨリを見つめて。

「——すごく、可愛い」

 声が——低かった。いつもの穏やかなトーンより、少しだけ低い。

 イヨリの顔が熱くなった。

「か、カナミちゃんとミカゲちゃんが選んでくれて——」

「そうなんだ。二人にお礼言わなきゃ」

「え?」

「こんなに可愛いイヨリちゃんを見せてくれたんだから」

「……マツバ君、最近そういうこと言うの躊躇なくなったよね」

「うん。もう隠さないって決めたから」

 イヨリは——目を逸らした。直視できない。マツバの甘い視線を、真正面から受け止める技術がまだない。

「行こうか」

 マツバが手を差し出した。

 イヨリは——今度は迷わず、その手を取った。

 初デートのプランは、イヨリが考えた——というか、ほとんどカナミとミカゲに考えてもらった。

 まず、コガネのカフェでお茶。それから、ショッピングモールをぶらぶら。お昼は少しおしゃれなレストランで。午後は公園を散歩して、夕方に解散。

 王道中の王道だ。でもイヨリにとっては、全部が初めてで、全部が特別だった。

 カフェに入った。窓際の席に並んで座った。

 メニューを二人で覗き込む。

 「イヨリちゃんは何にする?」

 「えっと……抹茶ラテ」

 「じゃあ僕はカフェオレ。……あ、ケーキも頼まない? ここのチーズケーキ、評判いいらしいよ」

 「いいね。じゃあ一つ頼んで——」

 「二つ頼もうよ。一つずつ違うの頼んで、シェアしよう」

 「……シェア?」

 「僕はチーズケーキ。イヨリちゃんは好きなの選んで。一口ずつ交換」

 ——一口ずつ交換。

 それは——カップルがやるやつだ。

 「……いちごのショートケーキ」

 「了解」

 マツバが注文した。

 ケーキが来た。マツバがフォークでチーズケーキを一口分切り取って、イヨリの方に差し出した。

 「はい、どうぞ」

 「じ、自分で取るから——」

 「いいから。口開けて」

 ——あーん、ってやつだ。

 イヨリは周囲をきょろきょろ見た。他のお客さんに見られたら死ぬ。

 でもマツバの紫色の瞳が——じっと待っている。穏やかな笑顔で。でもどこか——有無を言わせない雰囲気で。

 「……あ」

 小さく口を開けた。マツバがフォークを差し入れた。チーズケーキが舌に乗った。

 濃厚で、甘くて、おいしい。

 「おいしい?」

 「……うん」

 「よかった。次、イヨリちゃんの番」

 「え——わ、わたしがマツバ君に?」

 「うん」

 イヨリは——震える手でショートケーキを一口分切り取った。フォークをマツバの方に差し出す。

 マツバが何のためらいもなく口を開けて、フォークを受け取った。

 「うん。おいしい」

 「……マツバ君、恥ずかしくないの?」

 「恥ずかしいよ。でも——イヨリちゃんとこういうことがしたかったから。ずっと」

 ——ずっと。

 四年間の「ずっと」が、また出た。この人、四年間でどれだけ妄想を溜め込んでいたんだろう。

 カフェを出て、ショッピングモールに入った。雑貨屋を覗いたり、本屋で二人とも同じ文庫本を手に取って笑ったり。

 ある雑貨屋で、マツバがカップルの香りのするキャンドルの前で足を止めた。ラベンダーの香り。

 「これ、イヨリちゃんの今日のワンピースの色と同じだね」

 「ほんとだ。……いい匂い」

 「買ってもいい?」

 「え?」

 「部屋に置きたい。イヨリちゃんの色の匂いがする方がいいから」

 何を言ってるんだこの人は。

 イヨリは顔を真っ赤にしながら「好きにして……」と呟いた。

 マツバは嬉しそうにレジに向かった。

 お昼は、少しおしゃれなイタリアンレストラン。パスタを頼んで、サラダをシェアした。

 「イヨリちゃん、口元にソースついてる」

 「え、どこ——」

 マツバが親指でイヨリの口元を拭った。自然に。当たり前のように。

 イヨリは——固まった。

 「……ナプキンでいいのに」

 「ごめん、つい」

 「つい、で人の口元触らないでよ……」

 「触りたかったんだよ」

 「——っ!」

 この人は。この人は。「僕」って言いながら、やることがずるすぎるのだ。

 午後。公園を散歩した。

 六月の空は高くて、風が気持ちいい。梅雨の合間の晴れ間で、空気がさっぱりしている。

 公園のベンチに並んで座った。アイスクリームを二つ買ってきた。マツバはバニラ、イヨリは抹茶。

「今日、楽しいね」

 イヨリが言った。

「うん。すごく楽しい。……正直に言うと、もっと前からこういうことしたかった」

「もっと前って?」

「高二くらいから。二人で出かけたいなとか、カフェで向かい合いたいなとか。でも——友達として誘うか、デートとして誘うか、わからなくて」

「……わたしも。マツバ君と二人で出かけたいって、何度も思ったよ。でも、迷惑かなって——」

「迷惑なんかじゃ——もう。イヨリちゃんの『迷惑かな』禁止ね。僕にとってイヨリちゃんの存在が迷惑になることなんて、一生ないから」

「一生って——大きく出たね」

「本気だよ」

 マツバがイヨリを見た。紫色の瞳に——真剣な光。

「……ねえ、マツバ君」

「ん?」

「マツバ君ってさ、わたしに対して——独占欲、ある?」

 マツバの動きが——一瞬、止まった。

 アイスを舐めていた舌が止まった。

「……なんで急に?」

「前に、男子に勉強教えてた時、『距離近づきすぎない方がいい』って言ったでしょ。あの時——ちょっとびっくりした。マツバ君がそういうこと言うんだって」

「……あー。あれは——」

「あと、図書室で『イヨリちゃん以外に座ってほしくない』って言った時も。カナミちゃんが聞いたら『独占欲やば』って言ってた」

 マツバが——苦笑した。

「……ある。正直に言うと、めちゃくちゃある」

「やっぱり」

「隠してたんだけどね。『誰にでも優しい僕』の仮面の下で。でも——イヨリちゃんのこととなると、どうしても——」

 マツバが、アイスのコーンをかじった。

「イヨリちゃんが他の男子と話してるだけで、胸がざわつく。イヨリちゃんが誰かに笑顔を見せると、その笑顔は僕のだ、って思ってしまう。最低でしょ」

「最低じゃないよ」

「最低だよ。イヨリちゃんは誰にでも優しくていいのに。僕が独り占めしていいわけないのに——でも、したい。心の底から、独り占めしたい」

 その言葉を——イヨリは、真っ赤になりながら聞いていた。

 でも——嫌じゃなかった。むしろ——胸の奥がぎゅっと甘く締まる。

「……独り占め、していいよ」

「え?」

 イヨリが——マツバの方を向いた。

「わたし——マツバ君に独り占めされるの、嫌じゃない。むしろ……嬉しい」

 マツバの目が——見開かれた。

「だって——四年間、マツバ君にとっての特別になりたいって思ってたんだよ。マツバ君が独り占めしたいって思ってくれるなら——それって、わたしが特別だってことでしょ?」

「……うん。特別。世界で一番」

「じゃあ——思う存分、独り占めしてよ。わたしはどこにも行かないから」

 マツバの右手が——イヨリの左手を掴んだ。

 強く。今までで一番強く。

 でも痛くはない。ただ——離さない、という意志だけが伝わってくる。

「——僕のそういう部分、引かない?」

「引かないよ。マツバ君のそういうところも含めて、好きだから」

「……参った。イヨリちゃん、最近攻めるようになった」

「カナミちゃんに鍛えられてるから」

「カナミさんの影響力すごいな……」

 二人で笑った。

 手を繋いだまま、公園のベンチで、夏の風に吹かれて。

 デートの帰り道。夕暮れ時。

 電車の中で、イヨリがうとうとし始めた。一日歩き回って疲れたのだ。

 イヨリの頭が——ふらっと傾いて、マツバの肩にこつんと当たった。

 マツバは——動かなかった。息を殺すように、じっとしていた。

 イヨリの黒い髪が、マツバの肩に広がる。シャンプーの匂いがする。甘くて、清潔で、イヨリの匂い。

 ——かわいい。

 寝顔が、かわいい。長い睫毛が頬に影を落としている。小さな唇が僅かに開いている。呼吸のたびに胸が規則的に上下している。

 マツバは——イヨリの寝顔を見つめながら、頭の中で同じ言葉を何度も繰り返していた。

 好きだ。好きだ。好きだ。

 四年間片思いしていた人が、今、僕の肩で眠っている。僕を信頼して、安心して、体を預けてくれている。

 これ以上の幸せが、この世にあるだろうか。

 降りる駅に着いた。

 「イヨリちゃん、着いたよ」

 そっと揺り起こした。イヨリがまどろみの中で目を開ける。

 「ん……あ、ごめん、寝ちゃった——」

 「いいよ。可愛かった」

 「寝顔見たの……」

 「見た。世界一可愛い寝顔だった」

 「もう……」

 イヨリがぷくっと頬を膨らませた。その顔も可愛い。全部可愛い。

 駅から出て、いつもの帰り道。いつもの交差点。

 手を繋いだまま。

「今日、ありがとう」

 イヨリが言った。

「初デート、すごく楽しかった。……マツバ君と二人きりで、一日過ごせて——夢みたいだった」

「夢じゃないよ。来週も、再来週も——ずっとデートしよう」

「ずっと?」

「ずっと。飽きないよ。イヨリちゃんには、一生飽きない」

 交差点。別れ道。

 マツバが足を止めた。

「イヨリちゃん」

「なに?」

 マツバが——イヨリの手を引いた。

 ふっと距離が縮まった。イヨリがマツバの胸のすぐ近くまで引き寄せられる。

 紫色の瞳が——至近距離で、イヨリを見つめている。

「……おでこ、出せて」

「え——」

「ちょっとだけ。いい?」

 イヨリの心臓が——暴れた。

 でも——頷いた。前髪をそっと分けて、おでこを出した。

 マツバが——ゆっくり顔を近づけた。

 唇が——イヨリのおでこに、触れた。

 軽い。柔らかい。温かい。

 一秒にも満たない、おでこへのキス。

 マツバが顔を離した時、イヨリの目から——涙がこぼれた。

「な——泣いてない——」

「泣いてるよ、イヨリちゃん」

「目から——」

「汗は出ません」

「……うるさい」

 マツバが笑った。優しく、甘く。

「おやすみ、イヨリちゃん。今日、本当に楽しかった」

「……おやすみ。マツバ君」

 マツバが角を曲がるまで見送って——イヨリは、おでこに手を当てた。

 さっきまでマツバの唇があった場所。

 熱い。ここだけ、熱い。

 ——好き。

 死ぬほど好き。

 走って帰った。嬉しすぎて。おでこが熱すぎて。

 翌週からの日々は——甘すぎた。

 マツバとイヨリが付き合い始めたことで、放課後の図書室の風景が少しだけ変わった。

 以前は「向かい合って勉強する二人」だった。今は——「向かい合って勉強する恋人同士」だ。

 やっていることは同じなのに、空気が違う。

 マツバがシャーペンを走らせている手を止めて、ふとイヨリの顔を見る。イヨリがそれに気づいて顔を上げる。目が合う。マツバが微笑む。イヨリが赤くなってうつむく。

 ——この一連の流れが、十五分に一回くらい発生する。

「マツバ君、勉強してないでしょ」

「してるよ。イヨリちゃんの横顔分析学」

「そんな学問ないってば……前も同じこと言ってたよ」

「前は冗談だったけど、今は本気」

「どっちにしても勉強じゃない……」

 でも——嬉しかった。

 以前は「マツバ君がわたしを見てるのは気のせいだ」と思い込もうとしていた。今は——「彼氏がわたしを見てる」とわかる。それだけで、世界が全然違う。

 ある日の図書室。

 マツバがノートにメモを書き込んでいた。英語の予習だ。

 イヨリも自分の化学の問題集を解いていた。

 ふと、イヨリの手が止まった。難しい問題に行き詰まったのだ。

 シャーペンをくるくると回しながら考え込んでいると——マツバの手が伸びてきた。

 イヨリのシャーペンを回す手を、そっと押さえた。

「くるくるしてると気が散るから、やめて」

「え——ごめん」

「嘘。くるくるしてるイヨリちゃんが可愛くて、僕の方が気が散るからやめてほしいの」

「……それ、わたしのせいじゃないよね?」

「イヨリちゃんのせい。イヨリちゃんが可愛いのが全部悪い」

 マツバの手が——イヨリの手に重なったまま、離れなかった。

 図書室のテーブルの上で、二人の手が重なっている。

 他の生徒がいないことを確認して——マツバが、イヨリの指に自分の指を絡めた。

「……こうしてると、集中できない」

「集中しなくていいよ。今は」

「テスト近いのに?」

「イヨリちゃんは学年一位だから、少しくらいサボっても大丈夫」

「ダメだよ……勉強しないと……」

「じゃあ——五分だけ。五分だけ手繋がせて。そうしたら集中する。約束」

 五分。

 たった五分の手繋ぎのために、マツバが交渉してくる。この穏やかな声で、この「僕」で、こういう甘いことをさらりと言う。

 ギャップが——殺傷力を持っている。

「……五分だけだよ」

「うん。五分だけ」

 五分が経った。マツバは——手を離さなかった。

「マツバ君、五分過ぎたよ」

「もう五分」

「約束したのに……」

「ごめん。イヨリちゃんの手が気持ちよすぎて」

「……もう」

 結局、閉館時間までずっと手を繋いでいた。

 勉強の効率は——著しく落ちた。でも、イヨリの学年順位は落ちなかった。さすがは学年一位の底力だ。

 「マツバ君! イヨリちゃんを独占しすぎ!!」

 ある日の昼休み。カナミが教室で叫んだ。

「あたしとミカゲちゃんもイヨリちゃんと遊びたいのに! 放課後全部マツバ君に取られてる!」

「取ってないよ。図書室で勉強してるだけだし」

「勉強って名目で手繋いでるのバレてるから! 図書室の常連がSNSで呟いてたから! 『特等席カップルがまた手繋いでた』って!」

 マツバの耳が赤くなった。イヨリは机に突っ伏した。

「えっ……わたしたちのこと呟かれてるの……」

「バズってたよ。『学年一位の静かな女の子と穏やか系イケメンの図書室デート激甘すぎ問題』ってタグまで——」

「タグ!? やめて!!」

 ミカゲがため息をついた。

「お二人とも、もう少し場所を選んだ方がよいのでは」

「ミカゲちゃんの言う通り……」

「というわけで!」

 カナミがびしっと指を立てた。

「今日の放課後は、あたしとミカゲちゃんがイヨリちゃんを預かります! マツバ君は一人で勉強してて!」

「……え」

 マツバが——露骨に困った顔をした。いつもの穏やかな笑顔が、消えている。

「一人で……? 図書室で?」

「そう! たまには離れなさい! イヨリちゃんはあたしたちの友達でもあるの!」

 マツバが——イヨリの方を見た。「助けて」という目。

 イヨリは——カナミとミカゲを見て、それからマツバを見て——小さく笑った。

「マツバ君、今日は我慢して? カナミちゃんたちとも遊びたいの」

 マツバの表情が——ほんの一瞬だけ、寂しそうに揺れた。でもすぐに穏やかな笑顔に戻った。

「わかった。楽しんできて」

「うん。明日は図書室、行くから」

「……約束だよ」

「約束」

 カナミが腰に手を当てて、大きく頷いた。

 「はいよくできました。じゃ、イヨリちゃん行こう! 今日は被服室借りたの!」

 「被服室? 何するの?」

 「文化祭の衣装の試着とか! あとイヨリちゃんの可愛さを最大限に引き出す研究!」

 「研究って……」

 被服室。

 カナミとミカゲが、大量の小物とヘアアクセサリーを並べていた。

「え、何これ……」

「イヨリちゃんコーデ大会! 文化祭の喫茶店で着る衣装、イヨリちゃん仕様を作るの!」

 クラスの喫茶店では、メイド喫茶風にエプロンとヘッドドレスを着けることになっていた。カナミが張り切って衣装を手配し、ミカゲがデザインを考えた。

「イヨリさん、こちらのエプロンを着けてみてください。色を合わせたいので」

 ミカゲが白いフリル付きのエプロンを差し出した。イヨリが着けてみると——驚くほど似合った。

「やば……イヨリちゃん、メイド服似合いすぎ……」

「そ、そう?」

「マツバ君が見たら死ぬよこれ。理性消し飛ぶよ」

「理性って——大げさだよ——」

「大げさじゃないです」

 ミカゲがきっぱり言った。

「イヨリさんが自覚していないだけで——あなたのこういう姿は、マツバさんにとって相当な破壊力を持っていると思います」

「ミカゲちゃんまで……」

 カナミがスマホを構えた。

「はい、ポーズ! 写真撮るよ! マツバ君に送ったろ!」

「えっ、ダメ——!」

「いーから! はいチーズ!」

 パシャ。

 メイド服姿のイヨリが映った写真が、マツバに送信された。

 三秒で既読。

 一秒後に電話がかかってきた。

 カナミが爆笑しながら電話に出た。

「もしもーし♡」

 スピーカーから、マツバの声が漏れた。

「——その写真、他の人に見せないでください。お願いします」

 声が——低い。いつもの穏やかなトーンの中に、切実な何かが混じっている。

「えー、なんでー?」

「なんでもです。イヨリちゃんのああいう姿は——僕だけのものにしてください」

 カナミが「僕だけの!」と復唱して大爆笑した。ミカゲも口元を押さえて肩を震わせている。

 イヨリは——真っ赤になって被服室の隅に逃げた。

「マツバ君! カナミちゃんが勝手に——!」

「わかってる。カナミさんの仕業でしょ。……でも——可愛すぎるから。ほんとに。冗談じゃなく。見せないで。僕以外の人に」

「……わかった。見せない」

「約束ね」

「約束」

 電話を切った後、カナミが満面の笑みで言った。

「ね? 言ったでしょ? 理性消し飛んでたじゃん」

「消し飛んでない……あれがマツバ君の通常運転だよ……」

「通常で『僕だけのものにして』って言うの、もっとやばいんだけど」

「……否定できない」

 三人で笑った。被服室の窓から、夕日が差し込んでいた。

 文化祭当日。

 エンジュシティ高等学校の「焼き塔祭」は、二日間にわたって開催される。

 イヨリたちのクラスの喫茶店は、初日から大盛況だった。カナミの声出し宣伝が効いて、開店と同時にお客さんが並んだ。

 イヨリは会計担当。レジの前に座って、お金を受け取って、お釣りを渡す。

 ——メイド服のエプロンとヘッドドレスを着けた状態で。

 恥ずかしい。恥ずかしすぎる。でも、クラスの決定だから仕方がない。

 マツバはホール担当。トレーを持って教室を行き来している。穏やかな笑顔でお客さんに対応するマツバの姿に、女性客がきゃあきゃあ言っている。

 「あのウェイターさんかっこいい!」「笑顔が素敵!」「彼女いるのかな?」

 イヨリはレジから、その光景を見ていた。

 ——いるよ。彼女。ここにいる。

 ちょっとだけ——胸がざわついた。

 でもすぐにマツバが振り向いて、イヨリの方を見た。紫色の瞳が——イヨリだけを捕まえる。にっこり笑って、口パクで何かを言った。

 「可愛い」。

 イヨリは——レジの下で拳を握りしめて、耳を赤くした。

 昼休憩の時間。交代で休みを取る。

 マツバがイヨリの元に来た。

「イヨリちゃん、一緒にお昼食べよう。……って言おうとしたけど」

「ん?」

「その格好のまま外に出るの、ちょっと嫌だな」

「え? なんで?」

「他のクラスの男子に見られたくない」

 また——独占欲だ。穏やかな「僕」で言う独占欲。

「マツバ君、それは——」

「わかってる。わがままだよね。でも——ほんとに可愛すぎるから。そのメイド服」

 イヨリは——カーディガンを羽織った。ヘッドドレスも外した。

「これでいい?」

 マツバの表情が——ほっと緩んだ。

「……うん。ありがとう」

「マツバ君って、意外とやきもち焼きだよね」

「意外じゃないよ。いつもだよ。隠してただけ」

「隠さなくていいからね。わたしの前では」

「……それ言われると調子に乗るよ?」

「乗ってもいいよ」

 マツバが——イヨリの手を取った。恋人繋ぎ。

 文化祭で賑わう校舎を、二人で歩いた。

 屋台で焼きそばを買って、中庭のベンチで食べた。告白した場所。

 焼きそばを食べながら、マツバがぽつりと言った。

「僕、今すごく幸せだよ」

「……わたしも」

「文化祭の賑やかな中でも、イヨリちゃんの隣にいるとすごく静かに感じる。心地いい静けさ」

「マツバ君のそういうところが好き」

「どういうところ?」

「静かなことを、大切にしてくれるところ。わたしの静かさを——否定しないところ」

 マツバが——イヨリの手をぎゅっと握りしめた。

「否定なんかしない。イヨリちゃんの静けさは——僕の特等席だよ」

 文化祭の喧騒の中で、二人だけの静かな場所。中庭のベンチ。紫陽花を過ぎ、向日葵が咲き始めた花壇。

 この場所は——二人の特等席になった。図書室の窓際のテーブルに続く、もう一つの。

 文化祭が終わった。

 打ち上げの後、帰り道。いつもの交差点。

 夕暮れが——すごくきれいだった。空がオレンジとピンクと紫のグラデーションに染まっている。

「マツバ君」

「ん?」

「ありがとう。文化祭、楽しかった。……マツバ君のおかげで、高校生活がこんなに楽しくなった」

「僕の方こそ。イヨリちゃんがいなかったら——文化祭なんて、ただの行事でしかなかった」

 交差点で立ち止まった。いつもの別れ道。

 マツバが——イヨリの顔を見つめた。

「イヨリちゃん」

「なに?」

「目、閉じて」

 心臓が跳ねた。

 わかる。何をしようとしているか、わかる。

 前回はおでこだった。今度は——。

 イヨリは——目を閉じた。

 暗闇の中で、マツバの気配だけを感じる。体温が近づいてくる。吐息が頬にかかった。

 唇に——柔らかいものが触れた。

 軽い。優しい。壊れ物に触るような、慎重なキス。

 一秒。二秒。三秒。

 離れた。

 イヨリが目を開けた。

 マツバの顔が——すぐ近くにあった。紫色の瞳が、夕焼けの光を反射して、きらきら光っている。

 マツバの耳が真っ赤だった。

「……ごめん。いきなりで」

「謝らないで」

「え?」

「謝られると……嬉しいのが薄まるから」

 マツバが——微笑んだ。少しだけ照れくさそうに。でも幸せそうに。

「……もう一回、していい?」

「……うん」

 二回目のキスは——さっきより、少しだけ長かった。

 マツバの手がイヨリの頬に触れた。大きな手。温かい手。

 イヨリの目から——また涙がこぼれた。

「また泣いてる」

「だって——幸せすぎて——」

「僕も。幸せすぎて、怖いくらい」

「怖がらなくていいよ。わたしはどこにも行かない」

「……うん。イヨリちゃんは——僕の特等席にいてくれる」

「ずっと」

「ずっと。約束」

 夕焼けの交差点で、二人は手を繋いだまま、しばらく立っていた。

 帰りたくなかった。この時間が終わってほしくなかった。

 でも——明日もある。明後日もある。来週も。来月も。

 ずっと——この人の隣にいられる。

 マツバのいる世界は——全部が特等席だ。

 誰にでも優しい君が、わたしにだけ向けてくれた特別。

 それは——四年間の片思いの果てに見つけた、たった一つの宝物。

― 第五話 了 ―