GAKUEN LOVE COMEDY

誰にでも優しい君が
私にだけ向けた特別

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

第四話 不器用な僕らの、たった一つの正解
― 誰にでも優しい君が、私にだけ向けた特別 ―

約16,000字 / 両想い・成就

 翌朝。

 イヨリは一睡もできなかった。

 正確に言うと、三時間くらいは寝た。でも、目を閉じるたびにマツバの顔が浮かんで、心臓がうるさくなって、目が覚めてしまうのだ。

 「イヨリちゃんにだけは——特別でいたい」

 その言葉が頭の中でぐるぐる回っている。何百回リフレインしても、慣れない。むしろ、噛みしめるたびに威力が増す。

 鏡を見た。目の下にうっすらクマができている。

 ——こんな顔で学校に行くの、嫌だなぁ。

 でも——行かなきゃ。マツバ君が「明日、学校で」と言った。何かが起きるかもしれない。起きないかもしれない。でも、行かなきゃ。

 制服に着替えて、髪を丁寧にとかして、鞄を持って家を出た。

 学校に着いた。教室に入った。

 マツバは——もう席にいた。

 目が合った。

 マツバの紫色の瞳が、イヨリを捕まえた。

 一瞬の沈黙。世界が止まったような、時間の空白。

 マツバが——笑った。いつもの穏やかな笑顔。

 でも——耳が、赤い。

「おはよう、イヨリちゃん」

「……おはよう、マツバ君」

 いつもと同じ挨拶。いつもと同じ言葉。

 でも——何もかもが、昨日までと違って聞こえた。

 イヨリは自分の席に座った。心臓がうるさい。顔が熱い。でも——嫌じゃなかった。

 その日の授業中、イヨリはまともにノートを取れなかった。

 視線が勝手にマツバの方に向いてしまうのだ。マツバは二列前の席に座っている。後ろ姿しか見えない。茶色い髪の毛が、首の後ろで少しだけ跳ねている。

 ——昨日、あの髪がずぶ濡れで額に張り付いていたのだ。この土砂降りの中を、傘も持たずに走ってきた。わたしを探しに。

 ぎゅっと胸が痛んだ。幸せなのに、苦しい。矛盾しているけど、それ以外の表現が見つからない。

 昼休み。

 カナミとミカゲが同時にイヨリの席にやってきた。

「イヨリちゃーん! 昨日、寝れた?」

「……三時間くらい」

「あーやっぱり! 顔にクマできてるもん! ていうか目がきらきらしてるし! 恋する乙女の目をしてるよイヨリちゃん!」

「してないっ……」

 カナミが腕を組んでにやにやしている。

「イヨリさん、お顔の色がよろしくないですが、大丈夫ですか?」

 ミカゲが心配そうに言った。でも——その目には、優しい光がある。

「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」

「そうですか。……今日のマツバさん、朝からそわそわしていましたね」

「そ、そう?」

「ええ。ペンを落としたり、教科書のページを間違えたり。あの方があんな風になられるのは珍しいです」

 ——マツバ君も、そわそわしてたんだ。

 その事実が——少しだけ、嬉しかった。

 放課後。

 マツバの視点だ。

 今日一日、まともに授業を聞けなかった。

 教科書を開いても文字が頭に入ってこない。先生に指名されて頓珍漢な回答をして、クラスメイトに笑われた。マツバがこんなことになるのは、高校生活で初めてだった。

 理由は——わかっている。

 昨日、保健室で言ってしまった。「特別でいたい」と。「ここから先は第四話で」と。

 自分で言ったのだ。「次は、ちゃんとする」と。

 だから——今日、ちゃんとしなきゃいけない。

 ちゃんとした場所で。ちゃんとした言葉で。イヨリに——告白する。

 放課後。文化祭の準備は一旦休みの日だった。

 マツバは教室で深呼吸をした。鞄を持って、立ち上がった。

 イヨリの席の方を見た。

 イヨリは——いなかった。もう教室を出た後だった。

 ——どこに行ったんだろう。

 図書室か? それとも——

「マツバ君」

 声をかけられた。振り向くと——カナミとミカゲが、並んで立っていた。

 二人の表情が——真剣だった。

 カナミは腕を組んでいる。ミカゲは静かにマツバを見ている。

「ちょっと話がある」

 カナミが言った。いつもの明るい声じゃない。低い、真剣な声。

「……何?」

「単刀直入に聞くよ。マツバ君、イヨリちゃんのこと好きでしょ」

 教室にはまだ数人のクラスメイトが残っていた。でもカナミは気にしなかった。

 マツバは——少しだけ目を見開いて、それから苦笑した。

「……バレてた?」

「バレてたも何も、昨日のあれ見て気づかない人間いないよ。傘も持たずに雨の中走っていって、ずぶ濡れで帰ってきたんだから」

「……そうだね」

「で、どうすんの」

 カナミの目がまっすぐだ。ふざけている場合じゃないと、その目が言っている。

「今日、告白するつもりだよ」

 マツバは静かに言った。

 カナミの目が——きらっと光った。

「よし! 合格!」

「合格って……」

「不合格だったらぶっ飛ばすところだった」

「怖いな……」

 ミカゲが一歩前に出た。

「マツバさん」

「……ミカゲさん」

「私は——あなたのことが好きでした」

 教室の空気が、一瞬止まった。

 マツバの目が見開かれた。残っていたクラスメイトたちも、息を呑んだ。

 ミカゲは——微笑んでいた。寂しそうな、でも清々しい笑顔。

「過去形です。もう——気持ちの整理はつきました」

「ミカゲさん——」

「マツバさん、あなたは最初からイヨリさんしか見ていませんでした。私にはわかっていました。でも——それでも、ちゃんと伝えたかったんです。自分の気持ちに嘘をつきたくなかったから」

 マツバは——何も言えなかった。

 ミカゲの気持ちを知らなかったわけじゃない。薄々感じていた。でも、応えることはできなかった。最初から、心の中にはイヨリしかいなかったから。

 「……ごめん。僕は——」

 「謝らないでください。昨日、イヨリさんにも同じことを言いましたが——謝られると、私の気持ちが安っぽくなります」

 ミカゲの声は凛としていた。

 「ただ——一つだけお願いがあります」

 「何?」

 「イヨリさんを、泣かせないでください」

 ミカゲの目が——真剣だった。好きだった人に、好きな人を託す目。

 カナミが横から口を出した。

 「あたしからも同じこと言わせて。イヨリちゃんを泣かせたら、あたしとミカゲちゃんの二人がかりでぶっ飛ばすから」

 「……肝に銘じます」

 マツバが苦笑した。でも——目は真剣だった。

「二人とも——ありがとう」

「感謝はいいから早く行きな! イヨリちゃん、中庭にいるよ」

「え? なんで知って——」

「あたしが『中庭の花がきれいだよ』って教えたの。さっき」

 カナミがにやりと笑った。

 ミカゲも小さく微笑んだ。

「……お膳立てまでしてくれたの?」

「応援団だもん。舞台を整えるのも仕事でしょ」

 マツバは——二人を見て、深く頭を下げた。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい! ——あ、マツバ君」

「ん?」

「今度こそ、ちゃんとしなよ。『第四話で言う』って約束したんでしょ?」

「……聞いてたの?」

「イヨリちゃんから聞いた。昨夜、グループLINEで大興奮してた」

「…………」

 マツバの耳がまた赤くなった。

 中庭。

 エンジュシティ高等学校の、古い木がある小さな庭。ベンチが一つ。花壇には、初夏の花が色とりどりに咲いている。

 ここは——四年前、マツバがイヨリに初めて「好きな場所」だと教えた場所だ。

 「春になると、ここにすごくきれいな花が咲くんだ」

 あの日、中学二年生のマツバが言った言葉。まだ何も咲いていない花壇を前に、穏やかに笑ってくれたマツバ。

 あの瞬間が——全ての始まりだった。

 イヨリは中庭のベンチに座っていた。

 カナミちゃんが「中庭の花がめっちゃきれいだよ、見てきなよ!」と言うから来てみたのだ。確かに、花壇の花はきれいだった。紫陽花が青と紫のグラデーションで咲いていて、その隣には白い花が可憐に揺れている。

 でも——イヨリの心は花どころではなかった。

 昨日のことが、まだ頭の中をぐるぐる回っている。

 「特別でいたい」。「ここから先は第四話で」。「待ってて」。

 待っている。今も。ここで。

 ——でも、「第四話」って、いつ来るんだろう。

 今日? 明日? 一週間後?

 マツバ君は「ちゃんと準備する」と言った。準備って何だろう。場所を決めること? 言葉を考えること?

 イヨリには——自分の気持ちを「準備」する時間なんて必要なかった。

 だって、四年前からずっと——答えは決まっている。

 花壇の紫陽花を見つめていると、背後で足音がした。

 振り返った。

 マツバが——立っていた。

 制服のネクタイをきちんと結んで。シャツの第一ボタンまでしっかり留めて。髪もきちんと整えて。

 昨日のずぶ濡れの姿とは全然違う。いつもの、清潔で品のある——マツバ君。

 でも——表情だけが、いつもと違った。

 穏やかな笑顔が、ない。代わりにあるのは——緊張で強張った、真剣な顔。

 紫色の瞳が——揺れている。

「……イヨリちゃん」

「マツバ、君……」

 マツバがゆっくり歩いてきて、イヨリの前で立ち止まった。

 ベンチに座っているイヨリを、マツバが見下ろしている。

 逆光。夕方の日差しがマツバの後ろから差し込んで、茶色い髪の輪郭が金色に光っている。

「ここ、座っていい?」

 ——あ。

 この言葉。聞いたことのある言葉。

 図書室で、いつもマツバが言う言葉。「ここ座っていい?」。

 イヨリの特等席に向かう時の、あの言葉。

「……うん。どうぞ」

 マツバがベンチに座った。隣に。

 向かい合わせじゃない。隣同士。肩が——触れそうな距離。

 しばらく、二人とも黙っていた。

 花壇の花が風に揺れている。遠くから部活動の声が聞こえる。空は——晴れていた。昨日の大雨が嘘みたいに、澄んだ青空が広がっている。

「ここ——覚えてる?」

 マツバが口を開いた。

「覚えてる。中学の転校初日に、マツバ君が『僕の好きな場所だ』って教えてくれた」

「うん。……あの時、花壇にはまだ何も咲いてなかったね」

「うん。『春になるときれいな花が咲く』って」

「で——今、咲いてる」

 マツバが花壇を見た。紫陽花が、夕日に照らされてきらきら光っている。

「四年かかったけど——咲いた」

 その言葉が——花の話だけではないことに、イヨリは気づいていた。

「イヨリちゃん」

「……はい」

 思わず敬語が出た。中学の時のように。

「僕——四年間、ずっとイヨリちゃんのことが好きだった」

 心臓が跳ねた。

 でも——不思議と、驚きはなかった。

 昨日の保健室で——もう、わかっていたから。

「転校初日に、教室の前でガチガチに緊張してたイヨリちゃんを見た瞬間から。中庭で『楽しみです』って笑ってくれた瞬間から。ずっと——ずっと好きだった」

 マツバの声が——震えていた。

 いつもの穏やかな声じゃない。必死に言葉を絞り出しているような、不器用な声。

「誰にでも優しくしてたのは——イヨリちゃんへの気持ちを隠すためでもあった。みんなに同じ態度で接すれば、イヨリちゃんだけ特別にしてるのがバレないと思った」

「……」

「でも——それが裏目に出た。イヨリちゃんに『わたしだけが特別じゃない』って思わせてしまった。僕のせいだ」

 マツバの手が——また震えていた。昨日と同じように。膝の上で握りしめられた拳。

「カナミさんが来た時、ミカゲさんが来た時。イヨリちゃんが少しずつ僕から離れていくのがわかった。怖かった。でも——告白して、断られて、今の関係すら壊れたらどうしようって——もっと怖かった」

「マツバ君——」

「臆病だったんだ。四年間もイヨリちゃんの隣にいたのに。四年間も好きだったのに。たったー言が言えなかった」

 マツバが——顔を上げた。

 紫色の瞳が、まっすぐイヨリを見ている。揺れている。でも——逃げていない。

「でも——昨日、雨の中を走って。イヨリちゃんが軒下で震えてるのを見て。手を繋いで走って帰って——わかった」

「何が……?」

「告白して断られるのが怖いんじゃない。イヨリちゃんを失うのが——怖い。だったら、たとえ断られても——気持ちを伝えた方がいい。伝えないまま離れていくのだけは——絶対に嫌だ」

 マツバが——大きく息を吸った。

 そして——言った。

「イヨリちゃん。僕と——付き合ってほしい」

 世界が——止まった。

 鳥の声が聞こえない。風の音が聞こえない。部活動の声も、時計の音も、何もかもが消えて——マツバの声だけが、イヨリの全世界を満たした。

「僕にとっての特別は、最初からイヨリちゃんだけだった。中学の時から。高校に入ってからも。カナミさんやミカゲさんが来ても。何があっても——ずっと。図書室の特等席も。帰り道の隣も。全部——イヨリちゃんのためだった」

 マツバの目から——涙がこぼれた。

 泣いている。マツバが、泣いている。

 穏やかで冷静で、いつも完璧な笑顔を崩さないマツバが——イヨリの前で、涙を流している。

「好きです」

 声が震えた。

「僕は——世界で一番、イヨリちゃんが好きです」

 イヨリは——何も言えなかった。

 言えなかったのは、言葉がなかったからじゃない。

 ありすぎたのだ。

 言いたいことが、伝えたいことが、四年分の想いが——一気に押し寄せてきて、喉が詰まって、声にならなかった。

 涙が——。

 止まらなかった。

 右目から。左目から。頬を伝って、顎から落ちて。ぼたぼたと、制服のスカートに染みを作った。

 「目から汗」なんて嘘はもうつけないくらい、盛大に泣いていた。

「あ——あの——泣かせるつもりじゃ——」

 マツバが慌てた。自分も泣いているのに、イヨリの涙を見て慌てている。ポケットからハンカチを出そうとして、昨日のずぶ濡れのやつしかないことに気づいて、さらに慌てている。

「ご、ごめん、ハンカチが——昨日のやつ洗濯に出しちゃって——」

「ハンカチなんていらないっ——!」

 イヨリが叫んだ。涙声で。鼻声で。全然かっこよくない。学年一位の才女が、鼻水まで出して泣いている。

「わたしもっ——!」

 声が裏返った。

「わたしも、マツバ君のことがっ——好き、だったの——!」

 マツバの目が——大きく見開かれた。

「ずっと好きだったの——中学の時からっ——転校初日にマツバ君が笑ってくれた時からっ——ずっとずっとずっとずっとっ——!」

 言葉がどんどん溢れてきた。四年分の言えなかったことが、堰を切ったように流れ出す。

「でも言えなかった——マツバ君は誰にでも優しいからっ、わたしだけが特別なわけないってっ、思ってて——」

「イヨリちゃん——」

「カナミちゃんが来てっ、ミカゲちゃんが来てっ、二人の方がマツバ君にお似合いだって思ってっ——わたしなんかより全然可愛くてっ、明るくてっ、大人っぽくて——」

「そんなこと——」

「でもっ——マツバ君が雨の中走ってきてくれた時っ——傘も持たずにっ——」

 涙で視界がぐちゃぐちゃだ。マツバの顔がぼやけて見える。

「あの時——ああこの人はっ、わたしのために走ってきてくれたんだって——思ったら——もう——」

 言葉がまとまらない。文法も何もない。ただ感情が溢れている。

「好き——マツバ君が好き——四年間——ずっと——」

 マツバが——イヨリを抱きしめた。

 ベンチの上で、不器用に。でも——しっかりと。

 イヨリの頭がマツバの胸に収まった。マツバの腕がイヨリの背中に回った。制服越しに、マツバの心臓の音が聞こえた。

 どくどくどくどく。

 速い。マツバの心臓も、イヨリと同じくらい速い。

「——よかった」

 マツバが囁いた。声が——泣いていた。

「よかった……断られるかと思った。本気で怖かった」

「ばか……四年も好きだったのにっ、断るわけないじゃんっ……」

「だって——イヨリちゃん、いつも控えめだし、僕のことどう思ってるか全然わからなかったし——」

「わからないのはお互い様だよっ……マツバ君こそ誰にでも優しいからっ……わたしだけ特別だなんて思えなかったっ……」

「ごめん。ほんとにごめん。僕の仮面のせいで——」

「仮面なんかもういらないよっ……わたしの前ではっ……仮面なんかっ——」

 イヨリがマツバの制服を握りしめた。泣きながら。震えながら。でも——離さない。

 マツバの腕が、イヨリをもっと強く抱きしめた。

「もう外さない。イヨリちゃんの前では——もう、仮面はつけない。全部見せる。嫉妬も、独占欲も、かっこ悪いところも、全部」

「全部見たいっ……マツバ君の全部がっ、好きだからっ……」

 二人は——泣きながら抱き合っていた。

 中庭の古い木の下。紫陽花が咲く花壇の前。四年前、すべてが始まった場所で。

 夕日がオレンジ色に空を染めて、二人の影を長く伸ばしていた。

 しばらくして——涙が落ち着いてきた頃。

「……イヨリちゃん」

「なに……」

「顔、ぐちゃぐちゃだよ」

「知ってる……マツバ君もだよ……」

「……そうだね」

 二人で見つめ合って——お互いの泣き顔を見て——同時に吹き出した。

「あはは——ひどい顔……」

「イヨリちゃんに言われたくない……」

「だって目が赤い……」

「イヨリちゃんの方が赤いよ……鼻も赤い……」

「赤い鼻のこと言わないでっ……」

 笑いながら、涙を拭い合った。マツバがイヨリの頬を親指で拭って、イヨリがマツバの目尻を指先で拭って。

 触れ合うたびに、胸が温かくなった。

「……ねえ、マツバ君」

「ん?」

「わたしたち——付き合ってるんだよね。今」

「うん。付き合ってる」

「……ほんとに?」

「ほんとに」

「夢じゃないよね?」

「夢じゃないよ。でも、もし夢だったら——覚めないでほしい」

「……わたしも」

 マツバがイヨリの手を取った。今度は——震えていなかった。温かい手。大きな手。

 指を絡めた。恋人繋ぎ。生まれて初めての。

「帰ろうか」

「うん」

 二人は立ち上がった。手を繋いだまま、中庭を出た。

 中庭から出ると——教室の窓に人影が見えた。

 一つじゃない。複数の。

「……見られてる」

 マツバが呟いた。教室の窓から、クラスメイトたちが中庭を覗いている。カナミが窓枠に腕を乗せてニヤニヤしている。ミカゲは少し離れた場所で、控えめに微笑んでいる。

 男子の一人が窓から身を乗り出して叫んだ。

「マツバー! イヨリちゃん泣かせたのか!?」

「泣かせてない!」

「泣いてるじゃん!!」

「嬉し泣きだもん……」

 イヨリが小さく呟いた。まだ目が赤い。

 窓辺のカナミが、マイクのように手を口に当てて叫んだ。

「おめでとーーーーー!! 両思いおめでとーーーーー!!」

 教室中から拍手と歓声が上がった。

 イヨリの顔が——さっきまでの泣き顔の上に、真っ赤な赤面が上書きされた。

「なっ——なんで知ってっ——!」

「中庭丸見えだよイヨリちゃん!!」

 死にたくなった。

 学年一位の才女が、鼻水まで出して泣いて告白してるのを、クラス全員に見られていたのだ。

 マツバが——くすくす笑った。

「最悪だ……」

「大丈夫。僕も同じくらい泣いてたから」

「慰めになってない……」

「でも——隠すことじゃないよ。僕は、イヨリちゃんの彼氏になったことを——世界中に自慢したいくらいだから」

「——っ!」

 耳まで赤くなったイヨリと、穏やかに笑うマツバ。繋いだ手は——離さなかった。

 校舎を出て、いつもの帰り道。いつもの夕暮れ。いつもの交差点。

 でも今日は——全部が違って見えた。

 空の色がきれいだ。街灯の光が温かい。自分の影とマツバの影が、一つに重なっている。

「マツバ君」

「なに?」

「……明日も一緒に帰ろうね」

「当たり前だよ。明日も、明後日も、来週も。ずっと」

「……ずっと?」

「ずっと。約束」

 交差点。いつもの別れ道。

 いつもなら、ここで「じゃあまた明日」と手を振って別れる場所。

 でも今日は——マツバが、足を止めた。

「イヨリちゃん」

「なに?」

「……僕、ここで離すの嫌だな」

 イヨリは目を見開いた。

 いつもと同じ「僕」。穏やかで優しい、いつもの一人称。

 でも——言っていることが、全然穏やかじゃない。

 「離すの嫌」。その五文字に——マツバの本音が滲んでいた。いつもの柔らかい声で、いつもの「僕」で、でも中身が——甘くて独占的で。

 イヨリの心臓がどくんと跳ねた。

 「……わたしも、嫌だよ」

 自分でも驚くくらい素直に、その言葉が出た。

 マツバの目が——ふわっと柔らかくなった。嬉しそうに。でもどこか切なそうに。

 「……そういうこと言われると、ほんとに離せなくなる」

 「いいよ。離さなくて」

 イヨリが——初めて、自分から微笑んだ。泣き顔じゃない、おどおどした顔じゃない。マツバに向けた、確かな笑顔。

 マツバの息が——止まった。

「……ずるい。その笑顔」

「ずるいのはお互い様だよ。マツバ君」

 交差点で、二人は向かい合った。繋いだ手を、ぎゅっと握りしめた。

「じゃあ——また明日」

「うん。また明日、マツバ君」

「おやすみ、イヨリちゃん」

「おやすみ」

 手を——離した。

 名残惜しそうに、指先が最後まで触れ合って、するりとほどけた。

 マツバが反対方向に歩いていく。

 イヨリはいつものように——マツバの背中を見送った。角を曲がるまで。

 でも今日は——マツバも、角を曲がる前に振り返った。

 目が合った。

 二人はそのまま、五秒。……十秒。

 マツバが——手を振った。大きく。恥ずかしそうに。でも嬉しそうに。

 イヨリも——手を振り返した。小さく。でも——今までで一番幸せな気持ちで。

 マツバが角を曲がった。

 姿が見えなくなった。

 イヨリは——自分の右手を見つめた。

 さっきまでマツバの手が握っていた右手。まだ温かい。

「……マツバ君の、彼女になったんだ」

 呟いた。声に出して、確認した。

 実感が——じわじわと、体の隅々まで広がっていく。

 ——好き。

 マツバ君が好き。世界で一番好き。

 そしてマツバ君も——わたしのことが好きなんだ。

 四年間の両片思いは——今日、ついに一つになった。

― 第四話 了 ―