第三話 雨宿りの迷子と、隠しきれない独占欲
― 誰にでも優しい君が、私にだけ向けた特別 ―
六月になった。
梅雨の季節。エンジュシティの空は、灰色の雲に覆われている日が多くなった。
じめじめとした空気の中でも、教室の中は相変わらず賑やかだった。なぜなら——文化祭が近いのだ。
エンジュシティ高等学校の文化祭は「焼き塔祭」と呼ばれている。エンジュの焼けた塔にちなんだ名前で、毎年かなり大規模に行われる。二日間にわたって各クラスが出し物をして、地域の人も来場する、秋の一大イベント——の、準備が六月から始まるのだ。
イヨリのクラスは、喫茶店をやることになった。
「よーし! 喫茶店に決まり! じゃあ誰が何やるか決めよー!」
仕切っているのはカナミだ。転校してきて一ヶ月ちょっとしか経っていないのに、クラスの中心にいる。元バスケ部キャプテンの統率力が遺憾なく発揮されていた。
「マツバ君はホール担当ね! イケメンが接客したらお客さん増えるでしょ!」
「はは、そんなことないけど……わかった」
マツバが苦笑しながら引き受ける。
「ミカゲちゃんはメニュー考案! オシャレなやつ頼む!」
「わかりました。少し研究してみますね」
「イヨリちゃんは——」
カナミがイヨリの方を向いた。にやりと笑う。
「会計! 学年一位の頭脳で完璧な会計をお願いします!」
「え、会計……うん、わかった」
「あと、裏方の買い出しリストの管理もお願い! イヨリちゃんにしか頼めない!」
「そんなに信頼されても困るんだけど……」
「信頼してるよ! だってイヨリちゃんだもん!」
カナミがウインクした。
イヨリは苦笑しながらも、少しだけ嬉しかった。頼りにされるのは、悪い気はしない。
文化祭の準備は、放課後を使って少しずつ進められた。
装飾を作る人、看板を描く人、衣装を縫う人。教室がわいわいと賑やかになる。
イヨリは会計と買い出しリストの管理を担当していたので、教室で作業をすることが多かった。エクセルで予算表を作り、必要な材料のリストを整理し、近くの店の値段を比較する。
「イヨリちゃん、この材料の値段わかる?」
「えっと、ここの店だと一個百二十円だけど、駅前の方が九十八円だから——」
「安い方がいいよね! さすが!」
クラスメイトが感心する。イヨリの几帳面さは、こういう時に発揮される。
図書室での勉強は——文化祭の準備期間中は、少し減っていた。
マツバもホール担当として準備に参加しているので、放課後は教室にいることが多い。イヨリも同じ教室にいる。
同じ教室にいるのに——距離が遠い。
マツバの周りには、いつもクラスメイトがいる。「マツバ君、この看板の色どっちがいい?」「マツバ君、テーブルの配置これでいいかな?」と、次々と声がかかる。マツバは誰にでも穏やかに対応する。
その中に、ミカゲもいる。
「マツバさん、メニューの試作を作ってみたのですが、味見していただけますか?」
ミカゲが小さなタッパーを差し出す。中には、見た目も美しいスコーンが入っていた。
「わあ、すごい。ミカゲさん、こういうの作れるんだね」
「母に教わったんです。良かったら」
マツバがスコーンを一つ手に取って食べる。「おいしい」と笑顔で言う。ミカゲが嬉しそうに微笑む。
その光景を、イヨリは教室の隅から見ていた。
——やっぱり、お似合いだ。
大人っぽくて、品があって、会話も弾んで。マツバ君とミカゲちゃんは、まるで映画のワンシーンのように絵になる。
自分には——あんな風にはなれない。
スコーンを焼く腕前もなければ、試食をお願いする度胸もない。イヨリにできるのは、予算表を整理して、買い出しリストを作って、地味な裏方作業をこなすことだけだ。
——でも、それでいい。
自分のできることを、自分のペースでやる。それが、イヨリのやり方だから。
ただ——時々、マツバと目が合う。
教室の端と端。マツバが誰かと話している途中で、ふとイヨリの方を見る。紫色の瞳が、一瞬だけイヨリだけを捕まえる。
その視線に気づくと、イヨリは反射的に目を逸らしてしまう。
——なんで見てたの、マツバ君。
気のせいかもしれない。たまたま目が合っただけかもしれない。
でも——気のせいにしては、回数が多すぎる。
文化祭の準備が本格化してきた、ある雨の日のことだった。
放課後。教室で装飾の最終確認をしていた時、カナミが叫んだ。
「やっば! 模造紙が足りない! 看板用の大きいやつ、あと三枚いるのに!」
「えっ、在庫ないの?」
「ない! 先生に聞いたら、学校の備品庫にもないって! 画材屋さんに買いに行かないと!」
教室がざわつく。雨が降っている。しかも、かなり強い雨だ。窓の外では、灰色の雨粒が叩きつけるように降り注いでいる。
「こんな雨の中、買いに行くの? 画材屋って駅の向こうじゃん」
「でも、明日中に看板仕上げないと間に合わないし……」
クラスメイトたちが顔を見合わせる。誰も行きたがらない。当然だ。この大雨の中、駅の向こうの画材屋まで往復するのは億劫だ。
イヨリは——手を挙げた。
「わたし、行ってくる」
教室が静かになった。全員の視線がイヨリに集まる。
「え、イヨリちゃん? この雨の中?」
「うん。買い出しリストの管理はわたしの担当だし、必要な材料の確認もできるから。ついでに他に足りないものもチェックしてくる」
「でも——」
「大丈夫。傘あるし」
イヨリは立ち上がって、鞄から折り畳み傘を取り出した。
カナミが心配そうな顔をした。
「一人で行くの? あたしも行こうか?」
「いいよ。カナミちゃんは装飾の仕上げがあるでしょ。わたし一人で大丈夫」
「でも——」
「行ってくるね」
イヨリはにっこり笑って、教室を出た。
マツバは——その瞬間、教室の反対側にいた。
ホール用のテーブルクロスのサイズを測っていたところだった。イヨリが教室を出ていくのを見て、すぐに立ち上がろうとした。
でも——ミカゲに声をかけられた。
「マツバさん、これ、テーブルの配置図の最終案なんですが、確認していただけますか? 明日の全体ミーティングまでに決めないと——」
「あ、うん。ちょっと見せて」
配置図を確認しながらも、マツバの視線は何度も教室のドアに向かった。
——イヨリちゃん、一人で行ったのか。この雨の中。
胸がざわつく。でも、ミカゲの質問に答えないといけない。クラスの準備は大事だ。自分の役割がある。
五分。配置図の確認が終わった。
マツバは窓の外を見た。
雨は——さっきより強くなっていた。
イヨリは画材屋で模造紙を三枚買った。
ついでに、買い出しリストと照合して、マスキングテープと両面テープも追加で購入した。レジでお金を払いながら、店員さんに「学生さん? 文化祭の準備? 大変だねえ」と声をかけられた。
「はい。頑張ります」
模造紙を紙袋に入れてもらって、店を出た。
外に出た瞬間——風が吹いた。
強い風。横殴りの雨。折り畳み傘が、ばきっと音を立てた。
——あ。
傘の骨が折れた。
安物の折り畳み傘。風に煽られて、骨が二本折れてしまった。もう差せない。
イヨリは傘を畳んで、とりあえず近くの軒下に駆け込んだ。
画材屋から学校までは歩いて十五分くらい。でもこの雨の中、傘なしで歩いたら確実にずぶ濡れになる。模造紙も濡れてしまう。
——どうしよう。
軒下に立って、雨が弱まるのを待つことにした。
でも——雨は弱まる気配がない。むしろ、どんどん強くなっている。遠くで雷の音がした。
五分が経った。十分が経った。
六月とはいえ、雨に濡れた体は冷える。制服のブラウスが湿気で肌に張り付く。寒い。
スマホを取り出して、天気予報を確認した。「午後六時頃まで強雨」。あと一時間以上ある。
——学校に連絡しようか。
でも、誰に?
カナミちゃんに電話して迎えに来てもらう? この雨の中? そんなの申し訳なさすぎる。
マツバ君——いや。マツバ君は準備で忙しい。わざわざ呼び出すなんてできない。
「大丈夫。わたし一人で大丈夫」って言って出てきたのは自分だ。自分で何とかしないと。
でも——寒い。雨は止まない。模造紙の紙袋を抱きしめるように持って、イヨリは軒下でうずくまった。
——こういう時、わたしはいつも一人だ。
中学で転校してきた時も一人だった。教室の隅で、誰にも話しかけられずに、一人で過ごした。
高校でも——マツバ君がいなければ、きっと一人だった。
カナミちゃんとミカゲちゃんが来てくれたのは嬉しい。でも、二人はマツバ君がきっかけで近づいてきた。マツバ君がいなかったら——。
——やめよう。こういうことを考えるのは。
雨のせいだ。寒さのせいだ。ネガティブになっているだけだ。
また雷が鳴った。
イヨリの体がびくっと震えた。
雷は——苦手だ。小さい頃から。大きな音が怖い。
ぎゅっと目を閉じて、膝を抱えた。
——マツバ君。
心の中で、無意識にその名前を呼んでいた。
教室に戻ると、イヨリの姿がなかった。
マツバの視点だ。
配置図の確認を終え、他のクラスメイトの質問にも答え、自分の作業に戻ろうとした時——ふと気づいた。
イヨリがまだ帰ってきていない。
出て行ってから、もう三十分近く経っている。画材屋は駅の向こう側だけど、往復しても三十分はかからないはずだ。
窓の外を見た。雨は——さっきとは比べ物にならないくらい強くなっていた。風も出ている。
嫌な予感がした。
「カナミさん」
マツバがカナミに声をかけた。穏やかな声。でも——目が真剣だった。
「ん? どした、マツバ君」
「イヨリちゃん、まだ帰ってきてない?」
カナミの表情が変わった。
「え——あ、ほんとだ。まだ帰ってきてない。電話してみる——」
カナミがスマホを取り出してイヨリに電話をかけた。コール音が鳴る。三回。四回。五回。
——出ない。
もう一度かけた。また出ない。
「出ない……」
カナミの声に不安が滲んだ。
マツバの胸の中で、何かがスイッチのように切り替わった。
不安が——衝動に変わった。
「マツバ君——」
ミカゲが声をかけた。「マツバさん、この——」と言いかけて、マツバの顔を見て、言葉を止めた。
マツバの表情が——変わっていた。
いつもの穏やかな笑顔が、完全に消えていた。代わりにあるのは——ミカゲが初めて見る、剥き出しの感情。
心配。焦り。そして——恐怖に近い何か。
「ごめん。僕、ちょっと行ってくる」
マツバは鞄も持たず、教室を飛び出した。
廊下を走った。下駄箱で靴を履き替えた。正門を出た。
雨が叩きつける。傘は——持っていない。取りに行く時間すら惜しかった。
走った。
画材屋への道を、全力で走った。
制服がみるみるうちにずぶ濡れになる。髪が額に張り付く。靴の中に水が入る。
でも、止まれない。
——イヨリちゃんが外にいる。この雨の中で、一人で。
走りながら、マツバは自分の感情を分析する余裕すらなかった。普段なら冷静に考えるところだ。「画材屋で買い物が長引いているだけかもしれない」「店の中で雨宿りしているかもしれない」「心配しすぎだ」と。
でも今は——考える前に体が動いている。
理性じゃない。本能だ。
イヨリが一人でいるかもしれない。寒い思いをしているかもしれない。怖い思いをしているかもしれない。
それだけで、走れる。何も考えなくても、走れる。
画材屋の前を通り過ぎた。店は開いているが、中にイヨリの姿は見えない。
——もう出たのか。
どこだ。どこにいる。
マツバは周囲を見回しながら走った。雨で視界が悪い。人通りもほとんどない。
画材屋から学校への道を辿る。裏通り。商店街。
二本目の路地を曲がった時——見えた。
軒下にうずくまっている、小さな姿。
紙袋を抱えて、膝を抱えて、震えている。
黒い髪が雨に濡れて、頬に張り付いている。制服のブラウスが肩に貼りついて、その下の華奢な体のラインが見えてしまっている。
——イヨリちゃん。
「イヨリちゃん!」
マツバが叫んだ。
イヨリが顔を上げた。
雨の音しか聞こえない世界の中で、聞き慣れた声がした。
顔を上げた。
雨の中に、ずぶ濡れの男の子が立っていた。
茶色い髪が額に張り付いている。制服のシャツが体に貼りついて、肩と胸のラインが透けている。紫色の瞳が——雨の中でも鮮やかに光って、まっすぐイヨリを見ている。
傘も持っていない。鞄も持っていない。
——マツバ、君。
なぜ。どうして。どうしてここに。
「マツバ、君……? なんで——」
声が出た。震えていた。寒さのせいか、驚きのせいか、わからない。
マツバが駆け寄ってきた。軒下に飛び込むように入ってきた。膝をついて、イヨリの前にしゃがんだ。
「大丈夫? 怪我はない? 寒くない?」
矢継ぎ早の質問。声が上擦っている。いつもの穏やかなマツバとは全然違う。
「だ、大丈夫——傘が壊れちゃって、雨宿りしてただけ——」
「三十分も!? こんなところで!?」
マツバの声が——大きかった。
イヨリは初めて、マツバが声を荒らげるのを聞いた。穏やかで優しくて、誰に対しても同じトーンで話すマツバが。
「なんで電話に出なかったの。カナミさんが電話してたのに」
「え……スマホ、マナーモードにしてて、気づかなかった——」
「一人で行くなんて言わないで。せめて——せめて僕に言ってくれたら——」
「だって、マツバ君は準備で忙しかったし——」
「忙しくない!」
マツバが叫んだ。
雨の音にかき消されそうなくらい大きな声で。
「忙しくなんかない。イヨリちゃんが雨の中で一人でいるのに、忙しいなんて理由で——」
言葉が途切れた。マツバが大きく息を吸った。吐いた。
震えている。寒さだけじゃない。感情が——溢れている。
「……ごめん。大きい声出した」
「ううん——」
「怖かったんだ」
マツバの声が、急に小さくなった。
「電話に出ないし、雨は強くなるし。もし何かあったらって——怖かった」
その声を聞いた瞬間、イヨリの胸の奥で何かが崩れた。
——怖かった。
マツバ君が。わたしのことで。怖、かった——?
「マツバ君……傘も持ってないの?」
「取りに行く時間が惜しかった」
「鞄は?」
「教室に置いてきた」
「……走って来たの?」
「走った」
マツバが正直に答えた。ずぶ濡れの制服。乱れた呼吸。汗と雨が混じって、額から雫が垂れている。
——この人は。
鞄も傘も持たず、この土砂降りの中を、走ってきたのだ。
わたしを、探しに。
「……ばか」
イヨリの口から、その言葉が漏れた。
「マツバ君の、ばか。風邪ひくよ。こんなずぶ濡れで——」
「イヨリちゃんこそ。もっとずぶ濡れじゃないか」
「わたしはいいの」
「よくない。全然よくない」
マツバが制服のブレザーを脱いだ。ずぶ濡れのブレザー。意味がないかもしれない。でも——イヨリの肩にかけた。
「濡れてるけど、風よけにはなるから」
「……ありがとう」
濡れたブレザーは冷たかった。でも——マツバの体温が、ほんの少しだけ残っていた。
それだけで——泣きそうになった。
「学校に戻ろう。模造紙は僕が持つ」
「でも——」
「二人で走れば、そんなに時間かからない。行こう」
マツバが立ち上がって、紙袋を受け取った。もう片方の手を——イヨリに差し出した。
「手、貸して」
イヨリは——その手を見つめた。
マツバの右手。大きくて、指が長くて、シャーペンのタコができている手。
この手に何度、ノートを渡してもらっただろう。何度、帰り道に手を振ってもらっただろう。何度、触れたいと思っただろう。
イヨリは——その手を取った。
冷たかった。雨で冷えている。でも、イヨリの手よりは温かかった。
二人は雨の中を走った。
手を繋いだまま。
マツバの手が、ぎゅっとイヨリの手を握っている。離さないように。はぐれないように。
雨が顔を打つ。風が吹く。でも——怖くなかった。
マツバ君が手を握ってくれている。それだけで、世界から怖いものが全部なくなった。
学校に着いた時、二人はずぶ濡れだった。
正門をくぐって、校舎に駆け込んだ。廊下に水たまりができるくらいの濡れっぷりだった。
「ちょ、ちょっとこのまま教室には戻れないね……」
イヨリが自分の姿を見下ろして、苦笑した。制服が体に張り付いている。髪から雨水が滴っている。
「保健室に行こう。タオルと着替えがあるはずだ」
マツバが言った。手は——まだ繋いだままだった。
二人とも、離すタイミングを見失っていた。
保健室に行くと、保健の先生は不在だった。机の上に「会議中・急用は職員室まで」と書かれたメモが置いてある。
「先生いないみたい……」
「勝手に入っていいかな。とりあえずタオルだけでも——」
マツバが保健室のロッカーを開けて、清潔なタオルを二枚取り出した。一枚をイヨリに渡す。
「はい。まず髪を拭いて」
「ありがとう……」
イヨリがタオルで髪を拭き始めた。びしょ濡れの黒髪が、タオルの白にべったりと張り付く。
マツバも自分の髪をタオルで拭いた。茶色い髪がぐしゃぐしゃになる。いつものきちんとした姿からは想像できない、乱れた姿。
……でも——かっこいい、とイヨリは思ってしまった。場違いにも。
こんな状況で、そんなことを考えてしまう自分が恥ずかしかった。
「イヨリちゃん、ブラウス換えた方がいいよ。保健室に予備の制服があるはず——」
マツバが言いかけて、イヨリの方を見て——固まった。
イヨリの白いブラウスが——完全に透けていた。
雨に濡れて肌に張り付いたブラウスの下から、淡い色の下着のラインが見えている。
マツバは一瞬で視線を逸らした。顔が——赤い。耳まで赤い。
「っ——ごめん、僕向こう向いてるから。着替えて」
マツバが背を向けた。声が上擦っている。
イヨリも自分の姿を見下ろして——瞬時に顔が沸騰した。
「ひっ——見てない!?」
「見てない。見てない。絶対見てない」
「絶対って言うところが怪しいんだけど——!」
「見てない!」
マツバが壁に向かって突っ立っている。首の後ろまで真っ赤だ。
イヨリは大急ぎでロッカーから予備のブラウスを取り出して着替えた。サイズが少し大きくて、袖が余っている。
「……着替えた」
「本当? 振り向いていい?」
「いいよ……」
マツバがおそるおそる振り向いた。目が合った瞬間、二人とも顔が赤いまま、数秒間見つめ合って——同時に目を逸らした。
気まずい沈黙。
でも——不思議と、嫌じゃなかった。
マツバも予備の制服に着替えた(イヨリが廊下に出ている間に)。
二人とも着替え終わって、保健室のベッドの端に並んで座った。
窓の外では、まだ雨が降り続いている。保健室は静かだ。時計の秒針の音と、雨の音だけが聞こえる。
「……ごめんね、マツバ君。心配かけて」
イヨリが小さく言った。
「謝らないで。僕が勝手に心配しただけだから」
「勝手じゃないよ。走って来てくれたの、すごく——嬉しかった」
マツバが横を向いた。イヨリの方を見た。
紫色の瞳。さっきまでの焦りや恐怖は消えて、代わりに——柔らかい光が宿っている。
「イヨリちゃん」
「なに?」
「僕が走ったの——当たり前だよ」
「当たり前なんかじゃ——」
「当たり前なんだ。イヨリちゃんのことになると、僕は当たり前じゃないことが当たり前になる」
意味がわかるようでわからない。でも——胸が熱くなった。
「ミカゲさんが配置図の確認してくれって言ってた。カナミさんが装飾の相談したいって言ってた。クラスの準備は山積みだった」
マツバが淡々と言った。
「でも——イヨリちゃんがいないってわかった瞬間、全部どうでもよくなった」
「……え」
「ひどいよね。みんなの準備を放り出して走ってきた。最低だ」
「最低なんかじゃ——」
「でも、後悔はしてない」
マツバがまっすぐイヨリを見た。
「イヨリちゃんが雨の中で震えてるかもしれないのに、教室で配置図なんか見てられない。イヨリちゃんが一人で心細い思いをしてるかもしれないのに、スコーンの味見なんかしてる場合じゃない」
——スコーンの味見。
ミカゲちゃんのスコーン。あの時、マツバ君がミカゲちゃんと楽しそうに話していたのを見て、胸が痛んだ。
でも今——マツバ君は「そんなことしてる場合じゃなかった」と言っている。
「僕は——」
マツバが言葉を区切った。何かを決心するように、大きく息を吸った。
「僕は、誰にでも優しくありたいと思ってる。それは本当だ。でも——」
紫色の瞳が、揺れた。
「イヨリちゃんに対してだけは、『誰にでも』なんて嫌だ。イヨリちゃんにだけは——特別でいたい」
心臓が、止まった。
比喩じゃなく。本当に、一拍、止まった。
「……え。な——え?」
「ずっと言えなかった。でも——言わなきゃいけない」
マツバの手が、震えていた。膝の上で握りしめられた拳が、小刻みに震えている。
穏やかなマツバ。冷静なマツバ。誰に対しても同じ温度で接するマツバ。
その仮面の下で——この人はずっと、こんなにも揺れていたのだ。
「雨の中を走りながら思った。もしイヨリちゃんに何かあったら——僕はどうなるんだろうって。そう考えたら、怖くてたまらなかった」
「マツバ君——」
「告白——ここでするつもりじゃなかった。もっとちゃんとした場所で、ちゃんとした言葉で。でも——」
マツバが苦笑した。ずぶ濡れの髪。借り物の制服。保健室のベッドの端。
こんな場所で、こんなタイミングで。最高にかっこ悪い。
「でも、もう我慢できない」
その言葉が——保健室の静かな空気を震わせた。
イヨリは——何も言えなかった。
頭が真っ白だった。心臓がうるさすぎて、マツバの言葉が本当なのかどうか確認できない。夢を見ているのかもしれない。雨に打たれて体調を崩して、幻を見ているのかもしれない。
でも——マツバの手の温度は本物だった。
膝の上で震えている拳。その指先が——イヨリの方に伸ばされた。
触れるか触れないかの距離で、止まった。
「……ここから先は、第四話で言う」
マツバが——突然、ふっと笑った。
「は?」とイヨリは素で声を出した。
「今の僕、ずぶ濡れで、借り物の制服で、保健室で。こんなかっこ悪い状態で告白の続きはしたくない」
「え、ちょ、ちょっと待って——」
「ちゃんと準備する。ちゃんとした場所で、ちゃんとした言葉で。イヨリちゃんには——一番いい形で伝えたいから」
マツバの紫色の瞳が、きらりと光った。さっきまでの焦りは消えている。代わりに——強い決意が宿っている。
「だから——待ってて」
「ま、待ってってなに……今のは何——」
「聞いたでしょ? 僕は、イヨリちゃんに特別でいたいって」
「だ、だからそれは——」
「それの意味は——次に会う時に、ちゃんと伝える」
マツバが立ち上がった。
そして——イヨリの頭をぽんと撫でた。
たった一回だけ。軽く、優しく。でも——その手の温もりが、頭の天辺から全身に広がって、イヨリの体を震わせた。
「模造紙、無事だった。ちゃんと守ってくれたんだね。さすがイヨリちゃん」
「そ——そんなことより——」
「それじゃ、教室に持っていくね。イヨリちゃんはもう少しここで休んでて」
「マツバ君!!」
イヨリが声を上げた。初めて——マツバに向けて、大きな声を出した。
マツバが振り返った。
イヨリの顔は真っ赤だった。耳も首も真っ赤だった。目が潤んでいた。
「——ずるい」
声が震えた。
「あんなこと言って、途中でやめるなんて——ずるいよ、マツバ君」
マツバは——少しだけ驚いた顔をした。
そして——今日一番の、やわらかい笑顔を浮かべた。
「ずるくてごめん。でも——次は、ちゃんとする。約束」
マツバが保健室を出ていった。
残されたイヨリは——保健室のベッドに倒れ込んだ。顔を枕に埋めて、ばたばたと足を動かした。
何今の。何今の。何今の。
特別でいたい——って。
告白の続きは次で——って。
「待ってて」——って。
心臓が爆発しそうだった。顔が熱すぎて溶けそうだった。
——好き。
マツバ君が好き。大好き。四年間の片思いが、今、とんでもないことになっている。
教室ではちょっとした騒ぎになっていた。
マツバがずぶ濡れで飛び出していったのは、クラス全員が見ていた。そして三十分後、ずぶ濡れの二人が戻ってきた(マツバが先に模造紙を持って教室に来て、イヨリは少し遅れて保健室から合流した)。
クラスメイトたちがざわめく。
「マツバ、イヨリちゃん迎えに行ったの?」「あの雨の中を?」「傘も持たずに?」
男子の一人が——イヨリに密かに憧れていたやつだ——がくりと肩を落として呟いた。
「……あれ見たらもう無理だわ。勝てるわけねえ」
「お前まだ諦めてなかったの?」
「今諦めた」
男子たちの間で、静かな敗北宣言が交わされていた。
カナミは——イヨリが教室に戻ってきた瞬間、飛びついた。
「イヨリちゃーーーん! 大丈夫!? 心配したよーー!!」
「か、カナミちゃん、苦しい——」
「ごめんって言ったのにあたしが止めなかったのが悪い! 一人で行かせるべきじゃなかった!」
「わたしが勝手に行ったんだから、カナミちゃんのせいじゃないよ」
「でもー!」
カナミが泣きそうな顔でイヨリを抱きしめている。
ミカゲは——少し離れた場所から、その光景を見ていた。
そして——マツバの方を見た。
マツバは着替えを終えて教室に戻り、何事もなかったかのように片付けを手伝っている。穏やかな笑顔。いつもの「誰にでも優しいマツバ」の顔。
でも——ミカゲにはわかった。
さっき教室を飛び出した時のマツバの顔。あの顔は——「誰にでも」の顔ではなかった。
あの顔は——たった一人のための顔だった。
ミカゲは小さくため息をついた。
……知っていた。
最初からわかっていたのかもしれない。
マツバは——イヨリさんしか見ていない。最初から、ずっと。
ミカゲ自身のアプローチは、丁寧で上品で、自分なりに精一杯だった。でも——マツバの心の中の特等席には、最初からイヨリが座っていた。そこに入り込む隙間は、最初からなかった。
悔しいか——と問われたら。
少しだけ、悔しい。
でもそれ以上に——清々しかった。
正々堂々と負けた。相手がイヨリさんなら——仕方がない。むしろ、納得できる。
ミカゲは静かにイヨリの元に歩いていった。
「イヨリさん、大丈夫でしたか?」
「あ、ミカゲちゃん。うん、大丈夫。ちょっと濡れただけ」
「マツバさんが——すごい勢いで飛び出していったので、驚きました」
イヨリの頬がほんのり赤くなった。
「う、うん……迷惑かけちゃって」
「迷惑なんかじゃないと思いますよ。マツバさんにとっては——当然のことだったのでしょう」
ミカゲの声が——どこか、優しかった。
いつもの上品な口調の中に、何か——温かいものが混じっている。
「イヨリさん」
「なに?」
「……やっぱり、私の勘違いじゃなかったみたいです」
「え?」
「マツバさんの目の色が違う、という話。今日の——あの飛び出し方で、確信しました」
イヨリは言葉に詰まった。
「ミカゲちゃん——」
「私は——少し時間が必要です。でも、イヨリさんのことは、これからも大切な友人でいたいと思っています」
ミカゲが微笑んだ。少しだけ寂しそうな、でも——潔い笑顔。
「ミカゲちゃん……ごめん——」
「謝らないでください。謝られると、私の気持ちが安っぽくなってしまいます」
「……うん。ごめん。ありがとう」
「『ありがとう』は受け取ります」
ミカゲが小さく笑った。
カナミがその場の空気を読んで——珍しく——黙っていた。でも、ミカゲの肩をぽんと叩いた。何も言わずに。
ミカゲはカナミを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
三人の間に、言葉にならない何かが流れた。
その夜、イヨリは自分の部屋のベッドの上で、天井を見つめていた。
「イヨリちゃんにだけは——特別でいたい」
マツバの声が、何度も何度も頭の中でリフレインする。
あの時のマツバの目。震える手。ずぶ濡れの姿。
全部が——全部が、イヨリのためだった。
傘も持たず、鞄も持たず、クラスの準備を放り出して、雨の中を走ってきた。「イヨリちゃんがいないってわかった瞬間、全部どうでもよくなった」と言った。
——嘘じゃ、ない。
あの目は、嘘をつく目じゃなかった。
四年間、「誰にでも優しいから、わたしだけが特別じゃない」と思い続けてきた。自信がなかった。マツバ君に好かれているなんて、そんな都合のいいこと、ありえないと思っていた。
でも——今日のあれは。
「特別でいたい」は——どう解釈しても、友達の言葉じゃない。
マツバ君は——わたしのことが——
枕に顔を埋めた。
足をばたばたさせた。
「うー……」と意味のない声を出した。
スマホが光った。通知。LINEだ。
カナミちゃんからのメッセージ。
「ねえイヨリちゃん。マツバ君、あの雨の中を傘も持たず走ってきたんでしょ。あれは100%ガチだよ。応援団長より」
続いて、ミカゲちゃんから。
「イヨリさん。風邪を引かないよう、温かくしてお休みくださいね。……今日のマツバさん、とても素敵でしたね」
そして——マツバ君から。
「今日はごめんね。大きい声出したり、変なこと言ったり。でも——後悔はしていません。明日、学校で」
イヨリはスマホを胸に抱きしめた。
涙が——また、こぼれた。
嬉しくて。怖くて。期待して。不安で。
四年間の片思いが——今、動き始めようとしている。
「待ってて」とマツバ君は言った。
「次は、ちゃんとする」と。
——待ってる。
ずっと待ってたんだよ、マツバ君。四年間、ずっと。
だから——次が来たら、今度こそ——わたしも、逃げない。
布団を頭まで被って、イヨリは目を閉じた。
心臓はまだうるさかった。
明日が来るのが、今までの人生で一番——怖くて、楽しみだった。
― 第三話 了 ―