第二話 秘密の勉強会と、すれ違う視線
― 誰にでも優しい君が、私にだけ向けた特別 ―
イヨリが少しずつ変わり始めたのは、カナミとミカゲが来てから二週間ほど経った頃だった。
変わった、というのは正確ではないかもしれない。イヨリ自身は何も変わっていない。変わったのは、イヨリの「立ち位置」だ。
具体的に言うと——マツバの近くにいる時間が、減った。
朝、教室に入る時。以前なら真っ先にマツバの席の方を見て、「おはよう」と声をかけていた。でも最近は、先にカナミやミカゲがマツバの周りにいることが多くなった。二人が楽しそうにマツバと話しているのを見ると、イヨリはそっと自分の席に座って、静かに教科書を広げる。
「おはよう、マツバ君」
声をかけるタイミングも、カナミたちがマツバから離れた後になった。人の輪に割り込むのが苦手なのだ。昔から。
昼休み。以前はマツバと二人で教室の隅や廊下のベンチで食べることもあった。でも最近は、カナミが「みんなで食べよ~!」と声をかけてくるので、四人で食べることが多くなった——というか、イヨリはカナミとミカゲに引っ張られて女子三人で食べることが増えた。
放課後。図書室には行く。でも、以前より少しだけ行く時間を遅らせるようになった。
理由は——マツバの向かいの席に、先にカナミやミカゲが座っていたらどうしよう、と思うからだ。あの席は誰のものでもない。イヨリが勝手に「特等席」だと思い込んでいるだけで、マツバはきっと誰が向かいに座っても同じように優しく接するのだろう。
——わたしじゃなくても、いいんだ。
その思いが、日に日に大きくなっていく。
火曜日の放課後。
カナミが教室でマツバに声をかけているのが見えた。
「マツバ君! 今日の放課後ヒマ? あたし、数学の追試があるんだけど、教えてくれない?」
カナミの声は大きくて明るい。教室中に響く。周りの生徒たちがちらちらとこちらを見ている。
マツバは困ったように微笑んで、少し考えるような仕草をした。
その瞬間、イヨリの体が動いていた。
「カナミちゃん、数学なら私が教えようか」
自分でも驚くくらい自然に、その言葉が出た。
カナミが目を丸くした。マツバも、少しだけ驚いた顔をした。
「えっ、いいの!? イヨリちゃんに教えてもらえるとか最高じゃん! 学年一位だもんね!」
「一位は関係ないけど……数学なら、多分力になれると思う」
「やったー! じゃあ放課後、教えてね!」
カナミが飛び跳ねるように喜んだ。
マツバが、イヨリの方を見ていた。何か言いたそうな目。でもイヨリはそれに気づかないふりをした。
——マツバ君の時間を、取らないようにしないと。
カナミちゃんがマツバ君に勉強を教えてもらいたいなら、それでいい。でも、わたしが代わりにやれることなら、わたしがやればいい。そうすれば、マツバ君はカナミちゃんに対して「断る」必要がなくなる。マツバ君は誰にでも優しいから、断るのが苦手なのだ。
これは——マツバ君のためだ。
そう自分に言い聞かせた。本当は、カナミちゃんとマツバ君が二人きりで放課後を過ごすのが嫌だっただけだと、心のどこかでは気づいていたけれど。
放課後。
図書室ではなく、空き教室でカナミに数学を教えることになった。
「えー、ここってこの公式使うの? マジで? あたし公式とか覚えるの無理なんだけどー」
「覚えなくてもいいよ。どうしてその公式になるのか、理屈がわかれば自然に使えるようになるから」
「理屈……? えっと、つまり……」
「こういうことだよ」
イヨリがノートに図を描きながら説明すると、カナミの表情がぱっと明るくなった。
「あーーー! そういうことか! わかった! なんで先生はこうやって教えてくれないの!?」
「先生も同じこと言ってると思うけど……」
「違うよ! イヨリちゃんの方がぜんっぜんわかりやすい! イヨリちゃん天才!」
カナミがイヨリの手を両手で握った。きらきらした目で見つめてくる。
「あ、ありがとう……でも天才じゃないよ、わたし。コツコツ積み上げてきただけだから」
「コツコツ積み上げられるのが天才だって言ってんの! あたしなんか三日坊主だもん!」
カナミの言葉は真っ直ぐだ。裏表がない。思ったことをそのまま口にする。イヨリとは正反対のタイプ。
——でも、嫌いじゃない。
むしろ、カナミと一緒にいると、不思議と肩の力が抜ける。イヨリが大人しくても、カナミは気にしない。沈黙が続いても「イヨリちゃんは静かなのがいいよね~」と言って、勝手にしゃべり続けてくれる。
イヨリのペースを、そのまま受け入れてくれる。
一時間ほど勉強を教えた後、カナミがぐーっと伸びをした。
「あーー疲れた! でもめっちゃわかった! イヨリちゃんマジ神!」
「よかった。追試、頑張ってね」
「うん! ……あのさ、イヨリちゃん」
カナミが急に声のトーンを落とした。きらきらしていた目が、少しだけ真剣になる。
「なに?」
「イヨリちゃんって、マツバ君のこと好きでしょ」
心臓が跳ねた。
「えっ——なっ、何を——」
「わかるよ。マツバ君の話になると、イヨリちゃん目がきゅってなるもん」
「きゅっ……ってならない……」
「なるなる。めっちゃなる。でさ、マツバ君の話が出ると、ちょっと悲しそうな顔するの。最近特に」
イヨリは言葉に詰まった。
——そんなに、わかりやすかったのだろうか。
カナミが、イヨリの手をぎゅっと握った。
「あのさ。あたしさ、正直に言うね」
「……うん」
「あたし、マツバ君のこと、かっこいいなって思ってる。好き——まではいかないけど、めっちゃ気になってる。でもね」
カナミがまっすぐイヨリの目を見た。
「あたし、イヨリちゃんのことも大好きだから。イヨリちゃんが悲しい顔するくらいなら、あたしはマツバ君を追いかけない」
「そ、そんな……わたしのために、そんなこと——」
「ためとかじゃないよ。あたしの気持ちの話。あたしは、友達を泣かせてまで誰かを好きになりたくないの」
カナミの目が真剣だった。
イヨリの目が潤んだ。
「で、でも——わたし、マツバ君とはそういう関係じゃ——」
「イヨリちゃん」
「……はい」
「四年も同じ人のこと好きでいられるのって、すごいことだよ。あたしだったら三ヶ月で飽きてる」
「飽きるって……恋愛は飽きるとかじゃ——」
「だからすごいって言ってんの。イヨリちゃんの気持ちは本物だよ。自信持ちな」
カナミがにかっと笑った。太陽みたいな笑顔。
イヨリは——何も言えなかった。胸がいっぱいで、言葉が出てこなかった。
この子は、すごい。
出会ってまだ二週間しか経っていないのに、イヨリの心の一番柔らかい部分を、こんなにも的確に掴んでくる。
「……ありがとう、カナミちゃん」
やっとそれだけ言えた。声が震えていた。
「いーのいーの! じゃ、あたしはマツバ君の恋のライバルから、イヨリちゃんの恋の応援団に転向しまーす!」
「応援団って……」
「でも、もしマツバ君がイヨリちゃんを泣かせたら、あたしがぶっ飛ばすから」
「ぶっ飛ばさないで……」
二人で笑った。
窓の外では、夕日がオレンジ色に燃えていた。
翌日の昼休み。
今度はミカゲがイヨリの元にやってきた。
「イヨリさん。お昼、ご一緒してもいいですか」
「うん、もちろん」
ミカゲが隣の席にすっと座った。お弁当箱を開ける。中身は色とりどりのおかずが美しく配置されていて、まるで料理雑誌の写真みたいだった。
「わあ……すごくきれい」
「母が作ったんです。見た目にこだわる人で」
「お母さん、お料理上手なんだね」
「ええ。少し——いえ、かなりこだわりが強くて。ミカゲ、これを学校に持っていきなさい、恥ずかしくないものを持ちなさいって」
ミカゲが少し困ったように笑った。
「ミカゲちゃんのお母さんも大変だね」
「イヨリさんのご両親は?」
「うちは——お父さんが料理担当で。お弁当もお父さんが作ってくれる」
「お父様が? 素敵ですね」
「見た目はあんまりだけど、味はおいしいの」
イヨリが弁当箱を開けた。玉子焼きとウインナーと、きんぴらごぼう。見た目は普通だけど、イヨリにとっては世界一のお弁当だ。
ミカゲがくすりと笑った。
「温かいお弁当ですね。作った方の愛情が伝わってきます」
「……ありがとう」
二人がもくもくとお弁当を食べていると、案の定カナミが飛んできた。
「あーーー! 二人だけで食べてるー! あたしも混ぜてー!」
「……どうぞ」
「カナミさん、声が大きいです」
三人並んでお弁当を食べる。カナミがひっきりなしに話し、ミカゲが時々ツッコミを入れ、イヨリは控えめに笑う。
不思議な組み合わせだ。元気系と、お嬢様系と、大人しい系。性格も雰囲気も全然違うのに、一緒にいると妙に心地いい。
「ねえねえ、今度の週末、三人で遊びに行かない?」
カナミが突然提案した。
「遊びに? どこへ?」
「コガネシティ! あっちにでっかいショッピングモールあるじゃん! イヨリちゃんの服とか選びたい! 絶対似合うやつあるって!」
「わ、わたしの服……? 別に今のままでいいんだけど——」
「いいの! イヨリちゃんは素材がいいんだから、ちょっと服変えるだけで激変するって! ね、ミカゲちゃんもそう思うでしょ!?」
ミカゲが少し考えてから、静かに頷いた。
「イヨリさんは色白で黒髪が綺麗ですから、淡い色の服がよく映えると思います。……行きましょう。私も興味があります」
「えっ、ミカゲちゃんまで……?」
二対一では勝ち目がなかった。
「……わかった。行く」
イヨリが折れると、カナミが「やったー!」と飛び跳ね、ミカゲが「楽しみですね」と微笑んだ。
——友達って、こういうものなのかもしれない。
イヨリにとって、仲の良い女友達というのは新鮮な経験だった。中学時代は引っ越してきたばかりで、高校に入ってからは勉強に没頭していて、気づけば「マツバ以外との深い付き合い」がほとんどなかった。
カナミとミカゲは、イヨリの世界を少しだけ広げてくれた。
問題は——この二人と仲良くなればなるほど、マツバとの距離が開いていくような気がすることだった。
カナミはもう「マツバ君を追いかけない」と宣言してくれたけれど、ミカゲはまだマツバに好意を持っている——ように見える。
ミカゲのアプローチは品があって、押しつけがましくない。でも確実に、一歩ずつ距離を詰めている。
「マツバさん、明日の古典の予習、ご一緒しませんか? 私もあの範囲は少し不安で」
「マツバさん、この前おっしゃっていたエンジュの焼き塔のお話、もう少し聞かせていただけますか? すごく興味深くて」
ミカゲの声は柔らかくて上品だ。マツバと二人で話している姿は絵になる。雰囲気が合っている。大人っぽさが合っている。
イヨリはそれを見るたびに、胸がきゅっと痛む。
でも、ミカゲのことを嫌いにはなれない。嫌いになる理由がない。ミカゲは正々堂々とアプローチしているだけだ。しかも、イヨリに対してはいつも丁寧で優しい。
むしろ——ミカゲの方が、マツバ君にお似合いかもしれない。
そう思ってしまう自分が、情けなかった。
ある日の放課後。イヨリが図書室に行くのをためらっていると、ミカゲが声をかけてきた。
「イヨリさん、今日はいつもの図書室じゃないんですか?」
「え、あ……今日はちょっと、教室で勉強しようかなって」
「そうですか。……マツバさんは、先に図書室に行かれたみたいですけど」
ミカゲの目が、わずかに細くなった。何かを見透かすような目。
「イヨリさん」
「なに?」
「最近、マツバさんと距離を置いているように見えるのですが。何かありましたか?」
心臓がどくんと鳴った。
「そ、そんなことない。いつも通りだよ」
「そうですか? 以前は、放課後になるとすぐに図書室に向かっていたように思うのですが」
ミカゲは観察力が鋭い。大人しい外見とは裏腹に、周囲をよく見ている。
イヨリは答えに詰まった。
「……わたしは、別に……マツバ君は忙しいだろうし、わたしだけが図書室で一緒にいたら迷惑かなって——」
「迷惑?」
ミカゲが小さく首をかしげた。
「マツバさんが、イヨリさんのことを迷惑だと思っていると?」
「そういうわけじゃ——」
「失礼ですが、それはないと思います」
ミカゲの声はきっぱりしていた。
「私はまだ転校してきて日が浅いですが、一つだけ確かにわかることがあります。マツバさんは——イヨリさんに対してだけ、少し態度が違います」
「えっ……?」
「具体的に何が違うとは言いにくいのですが……目の色が、違うんです。イヨリさんのことを見る時の目が、他の人を見る時と違う」
イヨリは目を見開いた。
——嘘だ。
そんなはずない。マツバ君は誰にでも優しい。誰に対しても同じ笑顔を向ける。イヨリだけ特別なんてことは——
「……ミカゲちゃんの勘違いだよ」
「そうでしょうか」
「マツバ君は、誰にでも優しいから。わたしだけ特別ってことはないの」
ミカゲが少しの間イヨリを見つめて、それから静かに微笑んだ。
「そうかもしれませんね。……でも、イヨリさん」
「なに?」
「『誰にでも優しい人』が、特定の誰かにだけ優しくしようとしている時——それは、その人にとっての最大限の告白かもしれませんよ」
その言葉が、イヨリの胸に深く刺さった。
でも、受け止めることはできなかった。自信が、なかったから。
マツバは焦っていた。
視点を変えよう。ここから先は、マツバの頭の中だ。
イヨリが、図書室に来なくなった。
正確には、来る日もある。でも頻度が減った。以前は毎日のように向かいの席に座ってくれたのに、最近は三日に一回。来ても、以前より早く帰ってしまう。
理由は——わかっている。多分。
カナミさんやミカゲさんが来てから、イヨリが自分から身を引いているのだ。「わたしなんかよりカナミちゃんやミカゲちゃんの方がマツバ君にお似合い」——イヨリならそう考える。自己評価が低いのだ、この子は。学年一位の頭脳を持っていて、クラスの男子が密かに憧れるくらい可愛いのに、本人だけがそれに気づいていない。
だから、引く。遠慮する。場所を譲る。
そのたびに、マツバの胸が締め付けられる。
——違う、と言いたい。
カナミさんがどれだけ元気でも、ミカゲさんがどれだけ美しくても、僕の隣にいてほしいのはイヨリちゃんだけだと——言いたい。
でも、言ったらどうなる。
イヨリは驚くだろう。困るだろう。「冗談でしょ」と笑って流すか、「わたしなんかに」と否定するか、どちらかだ。そしてその後、もっと距離を置かれるかもしれない。
告白のリスク。四年間ずっと抱えてきた恐怖。
でも——このまま何もしなければ、イヨリはどんどん離れていく。
放課後、マツバは図書室の窓際の席に座っていた。向かいの席は空いている。イヨリのための席。鞄を置いて場所を取ってある。
五分。十分。十五分。
イヨリは来ない。
図書室の入り口が開くたびに、マツバの視線が動く。でも、入ってくるのは他の生徒ばかりだ。
二十分が過ぎた時、諦めかけた。
——今日も、来ないのか。
胸が痛い。物理的に。心臓のあたりが、ぎゅっと締め付けられている。
マツバはノートに目を落とした。文字が頭に入ってこない。シャーペンを持つ手に力が入らない。こんなことで勉強が手につかなくなるなんて、自分でも情けない。
——マツバ君は、誰にでも優しいから。
イヨリが以前言った言葉が、頭の中でリフレインする。
誰にでも優しい。その通りだ。マツバは意識的にそうしてきた。誰にでも同じ態度で接することで、特定の誰かとの関係を特別視されないようにしてきた。
でもそれは——イヨリへの気持ちを隠すためでもあった。
「誰にでも優しい」という仮面を被ることで、「イヨリにだけ特別優しい」ことに周囲が気づかないようにしてきた。
でもその仮面が、今、イヨリとの間に壁を作ってしまっている。「誰にでも優しい」から「わたしだけが特別じゃない」とイヨリに思わせてしまっている。
自分で作った仮面が、自分を苦しめている。
なんて皮肉だろう。
三十分。イヨリは来なかった。
マツバは静かにノートを閉じて、鞄を持って図書室を出た。
廊下を歩いていると、三年二組の教室から声が聞こえた。
「——だからここは、二辺を使って面積を出すの。sin使うと楽だよ」
「うおー!? すげー! わかった! サンキュー、イヨリちゃん!」
イヨリの声と——知らない男子の声。
マツバの足が止まった。
教室の窓から中を覗くと、イヨリが机を囲んで三人の男子生徒に勉強を教えていた。
イヨリは——笑っていた。控えめだけど、柔らかい笑顔で。「こうすると簡単でしょ?」と言いながら、ノートに数式を書いている。男子たちは「イヨリちゃんすげー」「マジ天才」と口々に言っている。
距離が、近い。
男子の一人が「ここ、もうちょっと詳しく教えて?」と言いながら、イヨリの方に身を乗り出している。イヨリの肩に手が当たりそうだ。
マツバの胸の中で、何かがぎゅっと締まった。
——行かなきゃ。
頭では「イヨリは勉強を教えているだけだ」とわかっている。何も問題はない。イヨリは優しい子だから、頼まれれば誰にでも勉強を教える。それだけのことだ。
でも——体が動いた。
「イヨリちゃん」
教室のドアを開けて、マツバは中に入った。
穏やかな声。穏やかな笑顔。いつもの「誰にでも優しいマツバ」の顔。
でも——目が、笑っていなかった。
「あ、マツバ君。どうしたの?」
「今日、一緒に帰ろうと思って。もう終わった?」
「え、あ——うん、ちょうど終わったところ」
イヨリが慌ててノートを閉じた。男子たちが「あ、マツバ」「サンキューイヨリちゃん、あとは自分でやるわ」と言って、何かを察したように散っていった。
——よかった。散ってくれた。
マツバは自分の中のどろりとした感情に蓋をした。嫉妬。独占欲。自分でも嫌になるような暗い感情。
イヨリには、見せたくない。
「行こうか」
「うん」
二人並んで廊下を歩く。
しばらく無言だった。春の夕方。窓から差し込む光が長い影を作る。
マツバが口を開いた。
「イヨリちゃん、最近勉強教えてるんだね。いろんな人に」
「あ、うん……カナミちゃんに数学教えたら、それがクラスで広まっちゃって。教えてくれって頼まれることが増えたの」
「そうなんだ」
「迷惑だったら、やめるけど——」
「迷惑じゃないよ。イヨリちゃんが楽しいなら、いいと思う」
マツバの声は穏やかだった。でも、次の言葉は——少しだけ、声の温度が下がった。
「でも、男子に勉強教える時は、あんまり距離近づきすぎない方がいいかも」
イヨリが足を止めた。
「え……?」
「いや——ごめん、余計なこと言った」
マツバが慌てて取り繕った。いつもの柔らかい笑顔を貼り付ける。
「忘れて。なんでもない」
「……うん」
イヨリは小さく頷いた。
でも、内心では驚いていた。
——マツバ君が、あんなことを言うなんて。
「距離が近い」なんて、マツバ君らしくない。誰にでも優しくて、誰のことも否定しないマツバ君が、他の男子との距離について口を出すなんて。
なぜ?
わからない。考えても、答えが出ない。
もしかして——いや、そんなはずはない。
「自分が特別だから」なんて都合のいい解釈をしたら、後で傷つくのはイヨリ自身だ。
きっと、友達として心配してくれただけ。それだけ。
——それだけのはず。
交差点に着いた。いつもの別れ道。
「じゃあ、また明日」とイヨリが言おうとした時、マツバが先に口を開いた。
「イヨリちゃん」
「なに?」
「明日の放課後、図書室に来てくれる?」
その声が——少しだけ、懇願するような響きを帯びていた。
普段の穏やかなマツバからは想像できないような、切実な声。
「……いつもの席で、待ってるから」
「え——」
「来てくれると、嬉しい」
マツバが微笑んだ。でもその笑顔の奥に、何か——イヨリが見たことのない感情が滲んでいた。
不安。焦り。あるいは——寂しさ。
イヨリの心臓がどくんと大きく鳴った。
「……うん。行くよ。明日、行く」
「ありがとう」
マツバの表情が、ほっと緩んだ。本当に安心したように。
その顔を見た瞬間、イヨリの胸の奥で何かがぐらりと揺れた。
——嬉しい。マツバ君が、わたしに図書室に来てほしいと言ってくれた。
でも同時に——怖い。期待してしまう。「特別」なんかじゃないのに、期待してしまう。
「じゃあ、また明日。マツバ君」
「うん。おやすみ、イヨリちゃん」
いつもの別れ。いつもの場所。
でも今日は——マツバの「おやすみ」が、いつもより少しだけ優しく聞こえた。
それは——イヨリの気のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
翌日。
イヨリは約束通り、放課後すぐに図書室に向かった。
窓際の席。マツバはもう座っていた。向かいの席には——鞄が置いてある。イヨリのための場所。
イヨリの姿を見た瞬間、マツバの顔がぱっと明るくなった。
——そんな顔、するんだ。
他の誰かが来た時には見せない顔。図書室の入り口に立ったイヨリを見て、花が咲くように笑うマツバ。
「来てくれた」
「……約束したから」
向かいの席に座った。鞄を置いて、参考書を出して。いつもの配置。いつもの距離。
——やっぱり、ここが好きだ。
マツバ君の向かいの席。西日が差し込む窓際のテーブル。二人だけの特等席。
ここにいると、世界で一番安心する。世界で一番幸せな気持ちになる。
「イヨリちゃん、今日は何の勉強?」
「化学。来週テストだから」
「あ、僕も化学やろうかな。イヨリちゃんに教えてもらいたいし」
「マツバ君の化学、そんなに悪くないでしょ」
「イヨリちゃんに教えてもらう口実が欲しいだけかも」
「……!」
耳が熱くなった。何それ。何それ。
マツバは何でもないことのように笑って、自分もノートを開いた。
二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。シャーペンが紙を走る音。時計の秒針の音。遠くから聞こえる部活動の声。
——この時間がいい。この時間が好き。
余計なことを考えないでいられるから。マツバ君の向かいにいるだけで、世界は完結するから。
しばらく勉強して、イヨリがふと顔を上げると——マツバが、勉強をしていなかった。
ノートは開いているけれど、ペンは止まっている。そして——イヨリの方を、じっと見ていた。
「……マツバ君?」
「ん」
「勉強してないでしょ」
「してるよ。イヨリちゃんの横顔を観察する勉強」
「何の教科にも入らないよそれ……」
マツバがくすくす笑った。
イヨリは——笑い返しながら、胸の奥がぎゅっと締まるのを感じた。
こういう時間が、永遠に続けばいいのに。
でも——永遠なんてない。春が来れば夏が来る。夏が来れば秋が来る。高校生活にも終わりがある。この特等席にも、いつか期限が来る。
だから——今は、この瞬間を大切にしよう。マツバ君の向かいに座れるこの瞬間を。
図書室の閉館時間になって、二人は校舎を出た。
いつもの帰り道。いつもの夕暮れ。
でも今日は、少しだけ——距離が近い気がした。
腕と腕が触れそうな距離。いつもの「触れそうで触れない」距離よりも、ほんの少しだけ近い。
それがイヨリの気のせいなのか、マツバが意図してそうしているのか——わからない。
「イヨリちゃん」
「なに?」
「明日も、一緒に図書室行こう」
「……うん」
「明後日も」
「うん」
「来週も」
「……マツバ君、なんか今日変だよ」
「変じゃないよ。普通だよ」
「普通の人は毎日の予約を入れたりしないよ……」
マツバが笑った。でもその笑顔の奥に——さっきと同じ感情が見えた。
寂しさ。不安。そして——何か、もっと強いもの。
イヨリにはわからないもの。
名前をつけられないもの。
「……ねえ、マツバ君」
「ん?」
「わたし、最近ちょっと図書室に行く回数減っちゃってたでしょ。ごめんね」
マツバの表情が、一瞬だけ揺れた。
「……気にしてたの?」
「うん。カナミちゃんやミカゲちゃんと一緒にいることが増えて、それで——」
「イヨリちゃん」
マツバが足を止めた。
イヨリも止まった。二人が向き合う。交差点の手前。街灯がぽつりと灯り始める時間。
「カナミさんやミカゲさんと仲良くなるのは、すごくいいことだと思う。友達が増えるのは、いいことだ」
「うん」
「でも——」
マツバが言葉を切った。何かを飲み込むような、一瞬の沈黙。
そして——穏やかに、でもはっきりと言った。
「でも、図書室の向かいの席は、イヨリちゃん以外に座ってほしくない」
心臓が止まった。
比喩じゃなく、一瞬本当に止まったような気がした。
マツバの紫色の瞳が、街灯の光を反射してきらりと光った。
「……え」
「わがまま言ってるのはわかってる。でも——あの席は、イヨリちゃんの席なんだ。僕の中では」
イヨリの右目から涙がこぼれたのは——自分でも予想外のことだった。
「な、泣いてない——ごめん、変なところに汗が——目から汗が——」
「目から汗は出ないよ、イヨリちゃん」
マツバが小さく笑って、ポケットからハンカチを取り出した。白いハンカチ。きちんとアイロンがかかっている。
イヨリの頬に当てて、涙を拭ってくれた。
「——泣かせるつもりじゃなかったんだけど」
「泣いてない……」
「泣いてるよ。でも——泣き顔も可愛い」
「マツバ君のばか……」
涙声でそう言うと、マツバがまた笑った。今度は——本当に嬉しそうに。
交差点。いつもの別れ道。
「明日、図書室で待ってるからね」
「……うん。絶対行く」
「約束だよ」
「約束」
二人は別々の方向に歩き出した。
イヨリは角を曲がるまでマツバの背中を見送って、角を曲がってから——走った。
涙が止まらなかった。嬉しくて。切なくて。怖くて。
「イヨリちゃんの席」と言ってくれた。「座ってほしくない」と言ってくれた。
——でも、それは友達として? それとも——?
わからない。まだわからない。
でも、一つだけわかることがある。
明日も図書室に行く。明後日も。来週も。
マツバ君が待っていてくれる限り——わたしは、あの特等席に座り続ける。
両片思いの春は、少しだけ——ほんの少しだけ——距離を縮めた。
― 第二話 了 ―