GAKUEN LOVE COMEDY

誰にでも優しい君が
私にだけ向けた特別

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

第一話 図書室の特等席と、騒がしい春
― 誰にでも優しい君が、私にだけ向けた特別 ―

イヨリ視点 / 約13,000字 / 学園ラブコメ

 放課後の図書室は、イヨリにとって世界で二番目に好きな場所だ。

 一番目は——まだ、秘密。

 西日が差し込む窓際の席。埃が舞う光の筋の中で、イヨリは数学の参考書を広げていた。シャーペンの先が紙の上を滑る音だけが、静かな空間に響いている。

 イヨリの成績は、学年一位だ。

 別に自慢したいわけじゃない。ただ、勉強が好きだった。新しい知識が頭の中で繋がっていく感覚が好きだった。問題を解いて正解に辿り着いた時の、静かな達成感が好きだった。

 担任の先生からは「このまま順当にいけば、難関大学への推薦を出せる」と言われている。親からは医学部を勧められている。将来のことはまだぼんやりとしか考えていないけれど、選択肢が多いのは悪いことじゃない——と、イヨリは思っている。

 でも今、参考書の文字が頭に入ってこない。

 理由は、簡単だ。

「イヨリちゃん、ここ座っていい?」

 声がした。

 顔を上げると、図書室の入り口からこちらに歩いてくる男子生徒がいた。

 柔らかい茶色の髪。穏やかな紫色の瞳。制服のネクタイをきちんと結んで、シャツの第一ボタンまでしっかり留めている。清潔で品があって、それでいてどこか儚げな——エンジュシティ高等学校で知らない人はいない、学校一のイケメンにして人格者。

 マツバ君。

 イヨリの、四年間の片思いの相手。

「う、うん。どうぞ」

 声が裏返りそうになるのを必死に堪えた。

 マツバは当たり前のようにイヨリの向かいの席に座った。鞄からノートと筆箱を取り出して、自分も勉強の準備を始める。

 この席は——イヨリの「特等席」だ。

 窓際の二人掛けのテーブル。向かい合わせに座ると、ちょうど二人分のスペースがある。イヨリがこの席に座り始めたのは高校に入ってすぐの頃で、マツバが向かいに座るようになったのも、ほぼ同時だった。

 誰が決めたわけでもない。だけど、イヨリがこの席に座ると、少し遅れてマツバがやってくる。マツバが先に来ていると、向かいの席にイヨリのための場所が空けてある。

 暗黙の了解。二人だけの習慣。

「今日は数学?」

「うん。明後日テストだから」

「イヨリちゃんがテスト勉強してると、なんだか安心する。やっぱり一位の人でもちゃんと勉強するんだなって」

「一位だからこそ、落とせないんだよ……プレッシャーが、すごいの」

「ふふ、そうだよね。でも大丈夫。イヨリちゃんなら絶対大丈夫」

 マツバが笑った。優しい笑顔。この笑顔を向けられると、イヨリの心臓は毎回暴れ出す。

 でも——知っている。この笑顔は、イヨリだけに向けられるものじゃない。

 マツバは、誰にでも優しい。

 クラスメイトが困っていれば助け、後輩が相談に来れば親身に聞き、先生からの信頼も厚い。男子からも女子からも慕われている。笑顔を向ける相手を選ばない。

 だから、イヨリに向けられる笑顔も——きっと、その「誰にでも」の中の一つなのだ。

 そう思うと、胸がちくりと痛む。

「マツバ君は何の勉強?」

「古典。係り結びが苦手でさ」

「あ、それなら——」

 イヨリは身を乗り出して、マツバのノートを覗き込んだ。

「ここ、『ぞ・なむ・や・か』が連体形で、『こそ』が已然形って覚えると——」

「うん、うん」

 マツバがイヨリの説明に頷きながら、ノートにメモを取っている。その横顔を、イヨリはこっそり見つめた。

 睫毛が長い。横から見ると、紫色の瞳に西日が差し込んで、透き通った宝石みたいに光っている。

 ——きれいだな。

 思った瞬間、マツバがふいにこちらを向いた。

「ん? どうかした?」

「なっ、なんでもない! えっと、それで、ここの問題なんだけど——」

 慌てて視線を逸らした。耳が熱い。絶対赤くなっている。

 こういうところが、だめなのだ。四年も片思いしているのに、全然慣れない。マツバ君の近くにいるだけで、心臓がうるさくなって、頬が火照って、言葉が上手く出てこなくなる。

 でも——この時間が好きだ。

 放課後の図書室。向かい合って勉強する、この何でもない時間。マツバ君の「誰にでも」の中に含まれているだけだとしても、この席だけは、今のところイヨリだけのものだ。

 この「特等席」だけは——誰にも譲りたくない。

 イヨリがマツバのことを好きになったのは、中学二年生の四月だった。

 親の仕事の都合で、イヨリの家族はジョウト地方の南部の町からエンジュシティに引っ越してきた。父親の転勤だった。

 引っ越し自体は珍しいことじゃない。でも、中学二年という微妙な時期に、知り合いが一人もいない町に放り込まれるのは——正直、怖かった。

 転校初日。

 教室の前に立って自己紹介をした時、三十人の視線が一斉にイヨリに集中した。

 「えっと……イヨリ、です。よろしくお願いします」

 声が小さかった。聞こえたかどうかも怪しい。教室の後ろの方で「え、なんて?」という声が聞こえた。

 恥ずかしくて死にたかった。

 先生が「じゃあ、今日の日直のマツバ君、イヨリさんを案内してあげて」と言った。

 席から立ち上がった男の子を見て、イヨリは少し驚いた。

 茶色い髪に、紫色の瞳。背が高くて、でもどこか柔らかい雰囲気がある。他の男子とは少し違う——なんだか、大人っぽい子だと思った。

 「マツバです。よろしくね、イヨリさん」

 穏やかな声だった。

 目が合った瞬間、マツバは笑った。優しい、だけど少し控えめな笑顔。その笑顔を見た瞬間、ガチガチに固まっていたイヨリの肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。

 昼休み、マツバが学校を案内してくれた。

 「ここが理科室。あっちが音楽室。屋上は立入禁止だけど、こっそり上がれる裏道がある——って、僕は上がったことないけどね」

 冗談を交えながら、穏やかに話してくれた。

 イヨリはずっと敬語だった。

 「ありがとうございます」「すみません」「よろしくお願いします」

 他に何を言えばいいかわからなかった。緊張していたし、初対面の男の子と二人で歩くこと自体が初めてだった。

 校舎の端にある中庭に着いた時、マツバが足を止めた。

 「ここ、僕の好きな場所なんだ」

 小さな庭だった。古い木が一本あって、その下にベンチがある。花壇にはまだ何も咲いていなかったけれど、土が丁寧に耕されていた。

 「春になると、ここにすごくきれいな花が咲くんだ。去年、園芸部の先輩が植えたやつ。イヨリさんも、きっと気に入ると思う」

 そう言って、またあの穏やかな笑顔を向けてくれた。

 ——ああ。

 その瞬間、イヨリの胸の奥で、何かが芽吹いた。

 それが恋だと気づいたのは、もう少し後のことだ。でも、振り返ればあの瞬間——中庭の古い木の下で、まだ何も咲いていない花壇を前に、マツバ君が笑ってくれたあの瞬間が、全ての始まりだった。

 中学時代のイヨリは、マツバに対してずっと敬語だった。

 「マツバさん、おはようございます」

 「マツバさん、ここの問題がわからないんですが」

 「マツバさん、ありがとうございました」

 敬語の壁は、距離の壁だ。どれだけ親しくなっても、イヨリは「さん」付けを崩せなかった。崩したら、自分の気持ちがバレてしまいそうで怖かったのだ。

 高校に上がって、同じ学校に進学できた時——イヨリは決心した。

 もう少しだけ、マツバ君に近づきたい。敬語をやめよう。「さん」を「君」にしよう。それくらいなら、友達として自然だ。

 「マツバ君、おはよう」

 初めてそう呼んだ時、マツバは一瞬驚いた顔をして、それからふわっと笑った。

 「うん、おはよう。……イヨリちゃん」

 「ちゃん」付けで返ってきた。

 心臓が破裂するかと思った。

 図書室での勉強を終えて、二人で校舎を出た。

 春の夕暮れ。空がオレンジと紫のグラデーションに染まっている。エンジュシティの古い街並みが、黄金色の光に包まれている。

 「今日もありがとう、イヨリちゃん。古典、だいぶわかるようになった」

 「私、教えるの下手だから、わかりにくかったらごめんね」

 「全然。イヨリちゃんの説明、すごくわかりやすいよ。さすが学年一位」

 「やめてよ、そういうの恥ずかしいから……」

 マツバと並んで歩く帰り道。これもイヨリにとっての特別な時間だった。

 二人の家は方向が同じだ。途中まで一緒に歩いて、交差点で別れる。中学の時からずっとそうだった。高校になっても変わらない。

 変わったのは——距離の近さだけ。

 中学の時は、腕一本分の距離を空けて歩いていた。高校になってからは、それが半分くらいになった。時々、腕が触れそうになる。触れそうで触れない、微妙な距離。

 イヨリはその距離を縮める勇気がなくて、マツバはその距離を慎重に保っているように見えた。

「あ、イヨリちゃん。靴紐ほどけてる」

「え? あ、ほんとだ——」

 しゃがんで靴紐を結び直そうとした瞬間、マツバが先にしゃがんだ。

「僕がやるよ」

「え、いいよ自分でやる——」

「いいからいいから」

 マツバの長い指が、イヨリの靴紐に触れた。

 丁寧に、ゆっくりと結び直していく。その手つきが優しくて、まるで壊れ物を扱うみたいで、イヨリは自分の心臓が破裂しそうになるのを感じた。

 ——こういうところが、ずるい。

 誰にでも優しいマツバ君は、きっと他の女の子の靴紐がほどけていても同じことをするのだろう。イヨリだけが特別なわけじゃない。わかっている。わかっているのに——

「はい、できた」

 マツバが顔を上げた。しゃがんだ姿勢から見上げてくるマツバの紫色の瞳が、夕日に照らされて琥珀色に光っている。

「……あ、ありがとう」

 声が震えた。

 立ち上がったマツバが、ズボンの膝をぱんぱんと払った。

「気をつけてね。転んだら大変だから」

「うん……」

 ——好き。

 こういう何気ない優しさの一つ一つが、イヨリの胸に降り積もっていく。四年分の雪のように。溶けない雪のように。

 交差点に着いた。いつもの別れ道。

「じゃあ、また明日」

「うん、また明日。マツバ君」

「おやすみ、イヨリちゃん」

 マツバが手を振って、反対方向に歩いていく。その背中を、イヨリはいつものように見送った。

 角を曲がってマツバの姿が見えなくなるまで。

 見えなくなってから、イヨリは自分の胸に手を当てた。

 とくとくとくとく。心臓がまだうるさい。

 好き。マツバ君が好き。四年間、ずっと好き。

 でも——言えない。

 言ったら、この距離すら失ってしまうかもしれない。今の関係が壊れてしまうかもしれない。図書室の特等席も、帰り道の隣のポジションも、全部なくなってしまうかもしれない。

 だから、このままでいい。このままが、いい。

 ——そう、自分に言い聞かせた。

 翌朝。

 イヨリが教室に入ると、席の周りに人だかりができていた。

 いつもは静かな朝の教室が、やけに騒がしい。何事かと思いながら近づくと、一人の女の子の声が聞こえた。

 「——でさぁ、前の学校ではバスケ部のキャプテンだったんだけど、こっちにはバスケ部ないんだって! まじウケるー!」

 明るい。とにかく明るい声だった。太陽みたいに、周囲を問答無用で照らすような声。

 人だかりの中心にいたのは、イヨリが見たことのない女の子だった。

 ショートカットの髪。日に焼けた健康的な肌。大きな目をきらきらさせて、周囲のクラスメイトと楽しそうに話している。制服のスカートは校則ギリギリの短さで、カーディガンの袖はまくり上げていて、全身から「活発」「元気」「明るい」というオーラが溢れ出ている。

 転校生だ。

 「あたし、カナミ! よろしくー!」

 カナミと名乗った女の子は、教室中の全員に向かって、満面の笑みで手を振った。

 ——わあ、すごい。

 イヨリは、率直にそう思った。

 自分が転校してきた時とは大違いだ。イヨリは蚊の鳴くような声で自己紹介をして、一週間くらい誰とも話せなかった。でもこの子は、初日からもう教室の中心にいる。

 「へー、カナミちゃんってバスケやってたんだ。かっこいい!」

 「ていうか話おもしろすぎ! もっと聞かせて!」

 あっという間にクラスに溶け込んでいくカナミを、イヨリは自分の席から眺めていた。

 ——すごいなぁ。あんな風に、誰とでもすぐに仲良くなれる人って。

 羨ましいとは思わない。人にはそれぞれのペースがある。イヨリのペースは、静かに、ゆっくりと、少しずつ。それでいい。

 でも——ほんの少しだけ、眩しかった。

「おはよう、イヨリちゃん」

 聞き慣れた声がした。振り向くと、マツバが鞄を肩にかけて教室に入ってきたところだった。

「おはよう、マツバ君」

 いつもの朝の挨拶。いつもの穏やかな笑顔。これだけで、イヨリの一日はもう満たされる。

「なんか今日、教室騒がしいね。何かあった?」

「転校生が来たみたい。カナミちゃんって子」

「へえ」

 マツバが人だかりの方をちらりと見た。ちょうどその時、カナミがマツバの視線に気づいた。

 目が合った瞬間——カナミの表情が変わった。

 好奇心に満ちた目。きらきらと輝く瞳。口角がぐいっと上がる。

「ねえねえ、君! 名前なんていうの!?」

 カナミが人だかりをかき分けて、まっすぐマツバの方に歩いてきた。距離感がバグっている。初対面の男子に、もう腕が触れそうな距離まで近づいている。

「マツバだよ。よろしく、カナミさん」

「カナミでいいよ! さん付けとかいらなーい!」

 カナミがにかっと笑った。白い歯が見える、屈託のない笑顔。

「マツバ君ってさ、めっちゃイケメンじゃん! 彼女いるの!?」

 直球。ど直球。

 教室がざわついた。女子たちが「うわ、初日からそれ聞く!?」とひそひそしている。男子たちは「おー」と野次を飛ばしている。

 イヨリは——心臓が止まりそうだった。

 マツバ君の返事が怖い。怖いけど、聞きたい。聞きたくないけど、耳がそっちを向いてしまう。

「いないよ」

 マツバが穏やかに笑って答えた。

 ——いない。

 よかった——と思ってしまう自分が、少しだけ嫌だった。

「まじ!? じゃあチャンスあるじゃーん!」

 カナミが冗談めかして言った。周囲がどっと笑う。マツバも苦笑している。

 イヨリだけが、笑えなかった。

 カナミの存在は、教室の空気を一変させた。

 元が元気で社交的な性格だから、クラスに溶け込むのは一瞬だった。朝来れば大きな声で「おはよー!」と挨拶し、昼休みには男女問わず誰とでも話し、放課後には「部活見学行こー!」と友達を誘って走り回る。

 太陽みたいな子だ、とイヨリは思った。

 周りを明るく照らす。一緒にいると自然と笑顔になる。人を惹きつける力がある。

 そして——案の定、カナミはマツバにぐいぐい近づいていった。

 「マツバ君マツバ君! 今日の昼、一緒にご飯食べよ!」

 「マツバ君、ここの問題わかんなーい! 教えて!」

 「ねえマツバ君、今度の日曜ヒマ? みんなでカラオケ行かない?」

 距離の詰め方が、すごい。イヨリが四年かけて到達した距離を、カナミは三日で飛び越えてきた。

 しかも、カナミには悪意がない。純粋に「マツバ君って優しくてかっこいい! 一緒にいたい!」と思っているだけだ。それが余計につらい。嫌いになれないのだ。

 マツバは相変わらず誰にでも優しいので、カナミの誘いも嫌な顔一つせずに受ける。断る時も「ごめんね、今日は用事があって」と柔らかく断る。

 でも——イヨリは気づいてしまった。

 マツバがカナミに向ける笑顔と、イヨリに向ける笑顔が、同じだということに。

 ——やっぱり、同じなんだ。

 誰にでも優しいマツバ君。イヨリに向ける優しさも、カナミに向ける優しさも、他の誰に向ける優しさも、きっと同じ。

 ——わたしは、特別じゃない。

 その事実が、静かにイヨリの胸を刺した。

 昼休み。

 イヨリがいつものように教室の隅で弁当を広げていると、カナミがやってきた。

 「イヨリちゃん! 一緒に食べよ!」

 「え……わ、わたし?」

 「そう、あんた! 朝からずっと思ってたんだけどさ、イヨリちゃんってめっちゃ可愛いよね! そのおっとりした感じ、すっごい好き!」

 面食らった。

 カナミはいきなりイヨリの隣にどすんと座って、自分の弁当箱を開けた。中身は唐揚げとおにぎりという、いかにも体育会系なメニューだった。

 「ていうかさ、イヨリちゃんってマツバ君と仲いいよね? 幼馴染?」

 「えっと……幼馴染っていうか、中学からの……」

 「えーいいなぁ! あたしもマツバ君と仲良くなりたい! ねえねえ、マツバ君ってどんな子が好きなの?」

 心臓がぎゅっと痛んだ。

 でもカナミは全く悪気がない。きらきらした目で、純粋に知りたがっている。

 「わ、わかんない……そういう話、したことないから……」

 「えーまじか! 仲いいのに!? じゃあさじゃあさ、マツバ君の好きな食べ物は? 趣味は? 休みの日何してるの?」

 矢継ぎ早の質問に、イヨリは困りながらも答えた。

 マツバ君の好きな食べ物は和菓子。趣味は読書と散歩。休みの日はエンジュの古い寺社仏閣を巡っていることが多い。

 ——全部、知っている。四年間、静かに見つめ続けてきたから。

 「へー! イヨリちゃん、めっちゃ詳しいじゃん! やっぱ仲いいんだねー!」

 カナミが無邪気に笑った。

 イヨリは曖昧に笑い返した。仲がいい——うん、そうだ。仲が良い。ただの、仲の良い友達。

 それ以上のことを望んでいるのは、イヨリだけだ。

 その日の放課後。

 イヨリがいつものように図書室に向かうと、入り口のところでマツバと鉢合わせた。

 「あ、イヨリちゃん。今日も勉強?」

 「うん。マツバ君も?」

 「もちろん。いつもの席、空いてるかな」

 二人並んで図書室に入った。窓際のテーブルは、いつものように空いていた。まるで二人のために用意されているみたいに。

 向かい合ってそれぞれの勉強を始めた。

 参考書を開いて、問題を解いて。時々わからない箇所を教え合って。穏やかで、静かで、心地いい時間。

 ——でも、今日のイヨリは少しだけ、いつもと違っていた。

 カナミの存在が、頭の隅にちらついている。

 あの子は明るくて、元気で、誰とでもすぐに仲良くなれる。マツバ君の隣に立っても、全然不自然じゃない。イヨリなんかより、ずっとお似合い——

「イヨリちゃん?」

 はっとした。顔を上げると、マツバが心配そうにこちらを見ていた。

「ぼーっとしてたけど、大丈夫? 疲れた?」

「ううん、大丈夫。ちょっと考え事してただけ」

「考え事? 何か悩みがあるなら聞くよ?」

 ——あなたのことで悩んでるなんて、言えるわけない。

「ほんとに大丈夫。ありがとう、マツバ君」

 イヨリが笑うと、マツバは少しだけ眉を下げて、でも頷いた。

「無理しないでね。イヨリちゃんは頑張り屋さんだから、たまに心配になる」

 ——ほら、こういうところ。

 こういう、さりげない気遣い。優しい言葉。心配してくれる目。全部が全部、イヨリの胸に降り積もっていく。

 好き。大好き。でも——

「マツバ君」

「ん?」

「カナミちゃん、元気な子だね」

 なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからない。

 マツバは少し意外そうな顔をして、それから穏やかに笑った。

「そうだね。明るい子だね」

「マツバ君のこと、好きなんだと思う」

 ——なぜ、こんなことを。

 口から勝手に出てしまった。言った瞬間、後悔した。でも、もう取り消せない。

 マツバの表情が、一瞬だけ変わった。何かを考えるような、少しだけ真剣な顔。でもすぐにいつもの柔らかい笑顔に戻った。

「そうかな。カナミさんは、誰にでもフレンドリーな子だから」

「でも、マツバ君に対しては特に——」

「イヨリちゃん」

 マツバが静かに遮った。

 紫色の瞳が、まっすぐイヨリを見ている。

「僕は、自分にとって大切な人が誰か、ちゃんとわかってるよ」

 その言葉の意味を、イヨリは正しく受け取れなかった。

 「大切な人」——それは、友達として? 幼馴染として? それとも——

 わからない。わからないけど、マツバ君の目がやけにまっすぐで、胸が苦しくなった。

「……うん」

 それだけ答えて、イヨリは視線を参考書に戻した。

 文字が滲んで見えた。泣きそうだったわけじゃない。ただ、胸がいっぱいで、焦点が合わなかっただけだ。

 ——大切な人。

 わたしも、マツバ君にとっての大切な人でいたい。できれば、一番大切な人でいたい。

 でもそれは、わがまますぎる願いだ。

 数日後。

 教室に、もう一人の新しい顔が加わった。

 「ミカゲです。よろしくお願いいたします」

 丁寧なお辞儀。落ち着いた声。艶のある長い黒髪を一つに結んだ、大人っぽい女の子だった。

 カナミとは対照的に、物静かで上品な雰囲気を持っている。でも近づくと、ふわっとフローラル系の香りがして、肌が陶器みたいに白くて、まつげが長くて——要するに、めちゃくちゃ美人だった。

 「ミカゲちゃんって、お嬢様系?」「モデルとかやってた?」

 クラスメイトの質問に、ミカゲは少しだけ困ったように笑った。

 「いいえ、普通ですよ。お花を生けるのが趣味で……」

 おっとりとした口調。でも目は聡明に光っている。頭が良さそうだ、とイヨリは思った。

 そして案の定——ミカゲの視線も、マツバの方に向いた。

 穏やかで品のある男の子と、穏やかで品のある女の子。雰囲気が似ている。相性が良さそうに見える。

 イヨリの心が、また少しだけ沈んだ。

 ミカゲは、カナミとは違うアプローチでマツバに近づいていった。

 グイグイ押すのではなく、そっと寄り添うように。

 「マツバさん、同じ古典の教科書を使っていらっしゃるんですね。よかったら、一緒に予習しませんか?」

 「マツバさん、このお茶、母が淹れてくれたものなんですが、よかったら」

 「マツバさんはエンジュの歴史にお詳しいんですか? 私も古いものが好きで……」

 品の良い距離感で、でも確実に距離を詰めていく。マツバとの共通点を見つけて、自然に会話を広げていく。

 ——上手いな、とイヨリは思った。

 同時に、胸がぎゅっと痛んだ。ミカゲちゃんの方が、わたしよりずっとマツバ君にお似合いだ。大人っぽくて、上品で、会話も上手で。

 でも——不思議なことが起きた。

 昼休み。ミカゲがイヨリの席にやってきたのだ。

「イヨリさん、ですよね。学年一位の」

「え、あ、はい……」

「私、前の学校では学年三位だったんです。トップの人がどんな勉強をしているのか、すごく興味があって。……もしよかったら、お話聞かせていただけませんか?」

 ミカゲの目が、きらきらと輝いていた。知的好奇心に満ちた目。マツバに向ける時とは違う——純粋な、同志を見つけた時の喜びのような目。

「わ、わたしなんて、特別なことはしてないんだけど……」

「『特別なことをしていない』というのが、きっと特別なんだと思います。ぜひ」

 ミカゲは丁寧に頭を下げた。

 その日から、イヨリの周りの景色が少し変わった。

「えーミカゲちゃんもイヨリちゃんと仲良くなったの!? ずるーい! あたしが先なんだけど!」

 カナミが割り込んできた。

 「先も後もないでしょう」とミカゲが苦笑する。

 「あるある! イヨリちゃんのおっとり系可愛いの良さをあたしが最初に発見したの!」

 「発見って……イヨリさんは別に新種の生き物じゃ——」

 「似たようなもんだって! だってイヨリちゃんってさ、普段は大人しいけど、ふとした時に見せる笑顔がめっちゃ可愛いの! 妖精みたいじゃない!?」

 「……それは、同意します」

 ミカゲが真顔で頷いた。

 「ちょ、ちょっと二人とも……」

 イヨリは耳を真っ赤にしてうつむいた。

 二人の女の子に挟まれて、褒められて、なんだか居心地が悪いけど——嬉しかった。

 こうして、イヨリの周りに「カナミ」と「ミカゲ」という二つの新しい存在が加わった。

 二人ともマツバに好意を持っている。でも同時に、二人ともイヨリのことも大好きになってくれた。

 不思議な三角形——いや、マツバを含めれば四角形の関係が、春の教室に生まれた。

 さて。

 ここまで、イヨリの視点で物語を語ってきた。

 ここで少しだけ、視点を変えよう。

 マツバの視点を。

 マツバがイヨリのことを好きになったのは、中学二年生の四月だった。

 日直として転校生の案内を任された日。教室の前でガチガチに緊張して、蚊の鳴くような声で自己紹介をした女の子。

 ——かわいい。

 最初の印象は、それだった。

 小柄で、大人しくて、黒髪がさらさらしていて、伏せた目の睫毛が長くて。教室の喧騒の中で、一人だけ静かな空気を纏っている。うるさい世界の中にぽつんと置かれた、小さくて可憐な花のような。

 昼休みに学校を案内した時、イヨリはずっと敬語だった。

 「ありがとうございます」「すみません」「よろしくお願いします」

 ぎこちなくて、でも一生懸命で。マツバが冗談を言うと、少しだけ目を丸くして、それから控えめに笑う。その笑い方が——たまらなく可愛かった。

 中庭の木の下で「春になるときれいな花が咲く」と教えた時、イヨリが初めて表情を緩めた。「楽しみです」と小さく笑った、あの瞬間。

 マツバの胸の奥で何かが弾けた。

 ——この子の笑顔を、もっと見たい。

 それが、マツバの長い片思いの始まりだった。

 中学の三年間、マツバはイヨリをずっと見ていた。

 勉強ができること。真面目で努力家なこと。大人しいけれど、芯が強いこと。困っている人がいると、自分から声をかけることはできなくても、そっとノートを差し出したりプリントを渡したりする優しさがあること。

 そして——笑顔がとびきり可愛いこと。

 それは、マツバだけが知っている秘密——ではなかった。

 イヨリの可愛さに気づいているのは、マツバだけじゃない。

 クラスの男子たちの中にも、イヨリに密かに惹かれている人間は少なくなかった。

 「なあ、イヨリちゃんってさ……可愛くない?」

 「わかる。派手な子よりああいう大人しい子の方が俺は好きなんだよな~」

 「成績いいし、性格もいいし、顔も可愛いし。最強じゃん」

 男子の間でひそひそと交わされるそんな会話を、マツバは何度も耳にした。

 そのたびに、胸の奥がざわついた。

 嫉妬——とは違う。もっと穏やかだけど、もっと根深い何か。

 誰にでも優しくあろうとするマツバだけれど、イヨリのこととなると、自分でも驚くくらい感情的になる。他の男子がイヨリに近づこうとすると、笑顔のまま——でも確実に——間に入るようになった。

 「あ、イヨリちゃん、今日の掃除当番僕と一緒だったよね。行こうか」

 「イヨリちゃん、帰り道同じだから一緒に帰ろう。日が暮れると危ないし」

 「イヨリちゃんの隣の席、空いてる? ここ座っていい?」

 自然に。さりげなく。でも絶対に他の誰にもそのポジションを渡さないように。

 マツバは、自分が「誰にでも優しい」という評判を利用していることに気づいていた。誰にでも優しくするから、イヨリに特別優しくしても、周囲は「マツバ君はいつも通りだね」で済ませてくれる。

 でも本当は違う。

 イヨリに向ける優しさだけは——温度が違う。

 高校に上がって、イヨリが敬語をやめた時。

 「マツバ君、おはよう」

 ——君。

 「さん」から「君」になった。たったそれだけのことなのに、マツバは心臓が跳ね上がるのを感じた。

 近づいてくれた。イヨリが、一歩、こっちに近づいてくれた。

 嬉しくて、気づいたら「イヨリちゃん」と呼び返していた。「さん」では遠すぎる。「呼び捨て」は近すぎる。「ちゃん」が——ちょうどいい。

 それから二年。

 放課後の図書室で、向かい合って勉強するのが日課になった。帰り道を一緒に歩くのが当たり前になった。

 マツバにとって、イヨリの隣は「特等席」だ。世界で一番大事な場所だ。

 でも——告白はできずにいた。

 イヨリが自分のことをどう思っているのか、わからなかったから。

 友達として大切に思ってくれているのは感じる。でも、それ以上の気持ちがあるのかどうかは——わからない。イヨリは照れ屋で感情を表に出さないから、読み取れない。

 もし告白して、断られたら。今の関係すら壊れてしまうかもしれない。図書室の特等席も、帰り道の隣のポジションも、全部失うかもしれない。

 その恐怖が、マツバの足を止めていた。

 ——両片思い。

 二人とも、同じ理由で一歩を踏み出せずにいた。

 そして——春に、嵐が来た。

 カナミが転校してきた日。初日からマツバに「彼女いるの!?」と直球を投げてきた時、マツバは内心で少し困っていた。

 困った理由は、カナミのことではない。

 イヨリの表情が気になったのだ。

 教室の隅で、イヨリが小さくなっているのが見えた。いつもの控えめな笑顔で、でも——何かを堪えているような表情。

 あの顔は、知っている。辛い時のイヨリの顔だ。笑顔の形をしているけれど、目が笑っていない。

 ——どうしたの、イヨリちゃん。

 聞きたかった。でも、あの場で聞くわけにはいかなかった。

 そして数日後、ミカゲという女の子も転校してきた。

 品のある子だ。大人っぽくて、頭も良さそうで、会話も上手い。マツバ自身、話していて心地いいと感じた。

 でも——それだけだ。

 マツバの心の中の特等席には、四年前からずっと、一人の女の子しかいない。

 最も気がかりなのは、イヨリの変化だった。

 カナミとミカゲが来てから、イヨリの態度が少しずつ変わり始めている。以前なら自然にマツバの隣にいてくれたのに、最近はカナミやミカゲに場所を譲るかのように、一歩引くことが多くなった。

 図書室の特等席にも、来る時間が遅くなっている。まるで、先に誰かがマツバの向かいに座っていないか確認してから来るように。

 ——嫌だ。

 マツバの中で、静かに、でも確実に焦りが募っていた。

 イヨリに避けられている。イヨリが、自分から離れようとしている。理由は——多分、わかる。

 ある日の放課後。

 マツバがいつもより早く図書室に行き、いつもの窓際の席に座って待っていた。

 しばらくして、入り口にイヨリが現れた。マツバの姿を見て、ほっとしたような、でも少し申し訳なさそうな顔をした。

「あ……マツバ君。今日もここ?」

「うん。イヨリちゃんの席、空けてあるよ」

 イヨリが小さく笑って、向かいに座った。鞄から参考書を出して、いつものように勉強を始める。

 ——よかった。来てくれた。

 マツバは内心でほっとしながら、自分もノートを開いた。

 しばらく無言で勉強した。図書室の時計がかちこちと音を刻む。西日が窓から差し込んで、二人のテーブルを黄金色に染める。

 ふと顔を上げると、イヨリがシャーペンを止めて、窓の外を見ていた。

 夕暮れの光が、イヨリの横顔を照らしている。黒い髪が透けて、ほんの少し茶色がかって見える。睫毛の影が頬に落ちている。唇が小さく動いて、何か考え事をしているみたいだった。

 ——きれいだ。

 四年間、何度も見てきた横顔。でも毎回思う。毎回、胸が苦しくなる。

 この横顔を独り占めできたらいいのに。この特等席が、永遠に二人だけのものであり続けたらいいのに。

 イヨリがこちらに顔を戻した。目が合った。

「……何?」

「ん、なんでもない。イヨリちゃんがきれいだなって思って」

 ——言ってしまった。

 口が滑った。心の中の言葉がそのまま出てしまった。

 イヨリの目が大きく見開かれた。頬がみるみるうちに赤くなっていく。耳まで真っ赤だ。

「な、何言って……からかわないでよ、マツバ君……」

「からかってないよ。本当のこと」

「っ——!」

 イヨリが顔を伏せた。参考書に顔を押しつけるようにして、赤くなった耳を隠している。

 その姿が可愛くて、マツバは小さく笑った。

 ——ああ、だめだ。この子のこと、好きすぎる。

 特等席の向かいで赤くなっているイヨリを見ながら、マツバは思った。

 カナミさんがどれだけ明るくても。ミカゲさんがどれだけ上品でも。

 僕の特別は——最初から、この子だけだ。

 でも、まだ言えない。

 まだ、この穏やかな日常を壊す勇気がない。

 二人の両片思いの春は、まだ始まったばかりだった。

― 第一話 了 ―