雨花の精霊と、夏至の境界【前編】
三度目の封筒は、雨に濡れていた。
ポケモンセンター・エンジュシティ支部の公式レターヘッドが印刷された封書が、一粒の雨滴を吸って角がほんのわずかに波打っている。郵便受けから取り出したイヨリの指先が封筒の湿り気に触れ、「あ、今日も降ってますね」と呟いたのは、エンジュシティが厚い雲に覆われ始めた六月の午後のことだった。
件名欄には「ポケモンドクター親善イベント第三弾『つゆどきポケモンげんきだより! 紫陽花の森のけんこうチェック』開催に関するご協力依頼」と記されていた。宛先はもはや恒例となった、エンジュシティジムリーダー・マツバ殿、そして別紙にイヨリの名前。マツバがリビングのソファで書類に目を通し始めたのは、窓の外で紫陽花の蕾がようやく色づき始めた、じっとりとした梅雨の夕刻だった。
「三回目ですね」
イヨリの声は、もはや企画書に怯えるふうでもなく、むしろ瞳の奥に小さな星を点すような期待に満ちていた。白衣を脱いで診察室から戻ったばかりの右手がテーブルの上の書類を整え、左手はダイニングチェアの背もたれに添えられている。右目の琥珀色が薄暗い室内でもきらりと光り、左目の白濁も雨模様の空の色を映してしっとりと潤んでいた。
「今回のテーマは、梅雨どきの健康管理だそうです。じめじめした環境はポケモンにとっても負担がかかるので、この時期こそ大切なポケモンの体調を見直しましょう、っていう企画で……」
マツバは書類を読んでいた。企画概要。イベント趣旨。対象年齢三歳から十歳の親子連れ。会場はポケモンセンター・エンジュシティ支部のイベントホールおよび隣接する紫陽花庭園。梅雨時に増加するポケモンの皮膚トラブルや体温調節障害についての啓発活動。ここまでは、まだ大丈夫だった。
問題は、次のページだった。
カラーコピーされた衣装デザイン画。マツバの視線がその一枚に落ちた瞬間、指先の血の気が引いた。
妖精だった。
紫陽花の、精霊の衣装。
薄紫のオフショルダードレス。肩から二の腕にかけてはシースルーのオーガンジーが配され、その透ける布地の上に紫陽花の小花が散るように刺繍されている。スカートは幾層にもフリルが重ねられ、淡い紫とラベンダーと水色のグラデーションが、まるで紫陽花の手毬のように膨らんでいた。オフショルダーの縁には紫陽花を模したフリルが飾られ、鎖骨から肩のラインが大胆に露出するデザイン。髪には紫陽花の花飾りが散りばめられたカチューシャ。スカートの至る所に小さな紫陽花の造花が縫い付けられ、歩くたびにふわふわと揺れる仕様。足元は透明感のあるクリアサンダルで、足の甲にも紫陽花の飾り。
そして、最も重要な一点。素材欄にはっきりと記されていた。
オーガンジー。シースルー。雨に濡れると、透ける。
マツバの右手が、書類をごく静かに、しかし確実に握り潰しかけた。第一弾のアイドル衣装は「見るな」だった。第二弾のうさぎ衣装は「触るな」だった。そして今回の紫陽花の妖精は。
「透けるな」だった。
梅雨のイベントを、シースルー素材で行う。屋外の紫陽花庭園で行う。雨が降ったらどうなるか。あの薄い布地が水を吸い、その下のイヨリの肌が、うっすらと、しかし確実に。
「マツバさん?」
イヨリが首を傾げた。
「……素敵な企画だね」
マツバの声は完璧だった。三度目ともなれば、この手の衝撃への初動対応は洗練されつつある。しかし書類を持つ右手の親指の爪が、紙の表面にかすかな半月形のくぼみを残していたことを、マツバ自身は気づいていなかった。
「ですよね! 妖精さんのコンセプトって、子どもたちに親しみやすいですし。紫陽花は梅雨の象徴ですから、季節感もぴったりで」
イヨリの笑顔は無邪気だった。無邪気だったからこそ、マツバの胸の底で黒い炎がちろちろと揺れ始めていた。この女は、あの布地がどういう素材であるかを理解しているのだろうか。梅雨どきのイベントにシースルー素材を身につけることが何を意味するのか、本当に、本当にわかっていないのだろうか。
千里眼を使えばわかる。使わなかった。もし使って、イヨリの感情の色が淡い桃色を帯びていたなら。三度目の自覚的な挑発だったと知ってしまったなら。書類ごとテーブルを裏返してしまいかねない。
「……当日はレインコートを持っていこうかな」
「え? マツバさんが着るんですか?」
「君に掛けるために」
イヨリの頬がほんのり紅くなった。マツバの声に込められた意味を、正確に受け取ったのだろう。そして、恥じらいながらも嬉しそうに微笑んだその顔を見て、マツバは覚悟を決めた。
三度目の地獄に、赴こう。
イベント当日。六月二十一日。夏至の日。
エンジュシティは、重く垂れ込めた灰色の雲に覆われていた。雨はまだ降っていない。しかし空気が纏わりつくように湿り、肌の上に薄い膜を張るような不快な蒸し暑さが街を包んでいた。ポケモンセンター・エンジュシティ支部のイベントホールは、空調が効いているにもかかわらず、窓ガラスの内側にうっすらと結露が浮かんでいた。
イベントホールの装飾は、今回もスタッフたちの力作だった。受付から続く通路の両側に、紫陽花のアーチが組まれている。青、紫、薄紅、白。色とりどりの紫陽花が、まるで妖精の国への入り口のように通路を彩っていた。床にはしずく型のブルーのカーペットが敷かれ、壁面には梅雨の森を模したタペストリーが掛けられている。天井からは透明なビーズのカーテンが垂れ下がり、照明を受けるたびにきらきらと雨のように煌めいた。
朝九時半。すでに三百人近い親子連れが集まっていた。第一弾のアイドルイベントの二百人、第二弾のイースターイベントの二百人を遥かに上回る動員数。SNSでの拡散効果に加え、梅雨どきの健康管理という実用的なテーマが保護者層の関心を強く引いたのだろう。
そして、もう一つの理由。
「大きなお友だち」の数が、過去最多だった。
観覧エリアの後方に、一眼レフカメラを構えた成人男性の集団。第一弾で七人。第二弾で十人超。今回は、すでに二十人を超えていた。「イヨリ先生」のファンコミュニティがSNS上で急速に成長し、ハッシュタグ「#イヨリ先生のコスプレイベント」がトレンド入りした結果だった。しかも今回の衣装情報がリークされたらしく、「紫陽花の妖精」「シースルー素材」という単語が事前に飛び交っていた。
マツバは、イベントホールの隅の柱に背を預けていた。今日はマフラーを巻いていなかった。梅雨の蒸し暑さにはさすがに、あの精神安定剤は使えない。代わりに、紫色のストールを肩にかけていた。そして右手には、折り畳んだ薄手のレインコートが、固く握りしめられていた。
ステージのスピーカーから、しっとりとした雨音のSEに乗せて優しいメロディが流れ始めた。司会のポケモンセンター受付嬢がマイクを手に取った。
「みなさん、おはようございまーす! 今日は『つゆどきポケモンげんきだより! 紫陽花の森のけんこうチェック』にあつまってくれて、ありがとうございます! 今日は特別なお友だちが、紫陽花の森からやってきてくれました! みんなで呼んでみよう!」
子どもたちの声が揃った。
「ようせいさーん!」
ステージの袖に設けられた紫陽花のアーチの向こうから、姿が見えた。
マツバの呼吸が、三度、止まった。
紫だった。淡い、淡い、紫陽花の紫。オフショルダーのドレスがイヨリの肩と鎖骨のラインをすべて露出させ、その境界にはイヨリの白い肌の上を、紫陽花の小花を散りばめたオーガンジーのフリルが覆っている。透けていた。かすかに、ほんのかすかに。シースルーの布地の向こうに、イヨリの肩の輪郭が柔らかく滲んでいる。スカートの幾層ものフリルが薄紫からラベンダー、水色へとグラデーションを描き、歩くたびに紫陽花の手毬がふわりふわりと揺れた。黒髪には紫陽花の花飾りが散りばめられたカチューシャが載り、艶やかな髪が肩の上を滑って、露出した鎖骨の上に流れている。
妖精だった。紫陽花の森から抜け出してきた、梅雨の精霊。人の形をした花。雨の中でだけ姿を現す、儚い幻。
アイドル衣装のイヨリは「美しい」だった。うさぎ衣装のイヨリは「可愛い」だった。そして紫陽花の妖精のイヨリは。
「幻想的」だった。
現実感がない。あまりにも世界に馴染みすぎている。紫陽花の装飾に彩られたステージの中で、イヨリの姿は背景と溶け合うように自然で、まるで最初からそこに咲いていた花のようだった。人間離れした美しさとはこういうことを言うのだと、マツバは初めて言語化できた。自分の妻が、人間の範疇を超えた何かに見えてしまう瞬間。
会場が、ため息のような静寂に包まれた。一、二秒。そして。
「ようせいさんだー!」「きれい!」「おはな、いっぱい!」「しょくぶつえんみたい!」
子どもたちの歓声が弾けた。今回の反応は、前二回とは質が違った。アイドルの時は「キラキラ」、うさぎの時は「もこもこ」。今回は「きれい」が先行している。三歳児ですら、美しいものを美しいと感じ取っている。紫陽花のドレスに包まれたイヨリは、子どもの原始的な美意識にまで訴えかける何かを放っていた。
イヨリはステージの中央に歩み出た。クリアサンダルのヒールが床を優しく叩き、スカートのフリルがさらさらと音を立てた。紫陽花の花飾りが揺れ、オーガンジーのオフショルダーの縁がイヨリの動きに合わせてふわりと浮いた。その瞬間、シースルーの布地の向こうに、鎖骨から肩にかけての白い肌が蜃気楼のように揺らめいた。
後方のカメラ集団から、シャッターの嵐が巻き起こった。
マツバのレインコートを握る手が、白くなった。
「おはようございます。紫陽花の森から来た、妖精のイヨリです」
イヨリの声が、マイクを通してイベントホールに響いた。いつもの丁寧語を少し柔らかくした、子ども向けの語りかけ。しかし今回はそこに「妖精」という設定が加わり、少しだけ声のトーンを高く、囁くように、秘密めいた調子で話していた。
「梅雨のじめじめ、みんなのポケモンは元気ですか? 雨の日が続くと、ポケモンもちょっぴり体調を崩しやすくなるんです。今日は妖精のお友だちと一緒に、みんなのポケモンの健康を確かめましょうね」
マツバは深く息を吐いた。今回の嫉妬は、前二回とは性質が異なることを直感していた。アイドル衣装は華やかさで視線を集め、うさぎ衣装は触感で衝動を刺激した。だがこの紫陽花の妖精は、もっと根源的な何かに触れている。「見える」と「見えない」の境界。「透けている」という状態がもたらす、想像力への挑発。シースルーの布地の向こうに、イヨリの肌があるのか、ないのか。ほんの薄い一枚の布が隔てる世界の手前と向こう。それを三百人の観客と二十人以上のカメラマンが、同時に見つめている。
見えそうで見えない。だからこそ、見たいと思わせる。
最悪の衣装だった。これまでで最も危険な。
第一部は「つゆどきポケモンけんこうチェック」だった。
梅雨の湿気がポケモンに与える影響を、イヨリがステージ上で解説する。モニターにはポケモンの皮膚の断面図やアレルギー反応のメカニズムが映し出され、しかしそれを五歳児にもわかるように翻訳していくイヨリの手腕は、三度目ともなれば完全に円熟していた。
「雨の日が続くとね、ポケモンのお肌がかゆくなっちゃうことがあるんです。人間のみんなも、じめじめした日にかゆくなったことありませんか?」
「あるー!」「あしがかゆい!」「おなかもー!」
「そうですよね。ポケモンも同じなんですよ。特にくさタイプのポケモンは、じめじめが好きなようで実は湿度が高すぎるとカビが生えちゃうことがあるんです」
「えー! カビ!?」
子どもたちが目を丸くした。イヨリはくすくす笑いながら、アステア・システムの湿度センサーを起動し、会場内の湿度をリアルタイムで表示した。「現在七十八パーセントロト! くさタイプのポケモンには注意が必要なレベルロト!」とロトムが大きな声でアナウンスし、子どもたちが「おおー」と歓声を上げた。
ステージ上のイヨリが身を乗り出して子どもたちに湿度計を見せる動作の中で、オフショルダーの縁がずるりと片肩だけ少し落ちかけた。ほんの一瞬。紫陽花のフリルが肩の丸みを滑り、その下のオーガンジーの透け感がわずかに増した。イヨリはすぐに直したが、その一瞬をカメラ集団は逃さなかった。連続シャッター音。
マツバの千里眼が、無意識に起動しかけた。視線の追跡を始めようとする本能を、三度目の意志の力で押さえ込んだ。見るな。覗くな。カメラマンたちが何をフレーミングしているか知ったら、塔を守る一族の末裔としての技能がキルスイッチを超えて暴走する。
ここまでアステア・システムのモニターに赤い通知マークが点滅していた。ロトムが、マツバの足元にいつの間にか浮遊していた。
「マツバの心拍数、現在百二十六BPMロト。イースターイベントの最高値をイベント開始二十分で更新したロト。新記録おめでとうロト」
「おめでたくない」
「原因分析済みロト。今回の嫉妬の主因は『透過性不安』。衣装のシースルー素材がイヨリちゃんの皮膚を視覚的に暗示することで、周囲の観覧者の視線がこれまでのイベントよりも身体的情報に接近しているとマツバの脳が判断しているロト」
「分析が精密すぎる」
「自動送信プログラム、前回アップグレードしたロト。今回から感情ラベルも添付されるようになったロト。現在イヨリちゃんに送信された感情ラベルは『嫉妬(透過性):極めて深刻』ロト」
「感情にラベルをつけるな」
「イヨリちゃんからの返信が来てるロト。読み上げるロト?」
「読むな」
「『マツバさん、今日も見ていてくれてるんですね。ハートの絵文字三つ』。読み上げたロト」
マツバは柱に額を押しつけた。
第二部は「紫陽花の森をおさんぽしよう!」だった。
ポケモンセンターに隣接する紫陽花庭園への屋外プログラム。エンジュシティの紫陽花庭園は、もとは焼けた塔の跡地に整備された市民公園の一角で、梅雨の時期には数千株の紫陽花が競い咲く名所として知られている。整備された遊歩道の両側に、青、紫、ピンク、白の紫陽花が溢れるように咲き誇り、雨の日にはしっとりと濡れた花弁が宝石のように輝く。
イヨリは子どもたちを引き連れて庭園に出た。紫陽花の妖精が、本物の紫陽花の森に立つ。その光景の完成度に、保護者たちが思わず息を呑んだ。イヨリの薄紫のドレスが紫陽花の花群に溶け込み、本当に紫陽花の中から生まれた妖精のように見えた。花飾りのカチューシャから垂れた黒髪が紫陽花の葉に触れ、フリルのスカートが庭園の石畳の上でさらさらと歌うように揺れている。
「梅雨のおさんぽでは、ポケモンの足元に気をつけてあげてくださいね。雨の日は地面がつるつるして、小さいポケモンはすべりやすくなるんです」
イヨリがしゃがんで、庭園の遊歩道の端を指差した。石畳の隙間に苔が生えていることを示しながら、「こういう場所はとくにつるつるするから、くさタイプ以外のポケモンはきをつけてね」と教えている。しゃがんだ姿勢では、スカートのフリルが石畳の上に広がり、紫陽花のドレスが地面の紫陽花と境界を失うように混ざり合った。
そして、イヨリが庭園の奥の紫陽花のトンネルに子どもたちを導いた時。
雨が降り始めた。
予報通りだった。朝から垂れ込めていた雲がついに決壊し、細い銀の糸のような雨が紫陽花庭園に降り注いだ。子どもたちが「あめだー!」と歓声を上げた。スタッフが慌てて傘を配り始め、保護者たちがレインコートを被り始めた。
イヨリは、笑っていた。
「大丈夫ですよ。妖精さんは雨が好きなんです。紫陽花は、雨が降ると一番きれいに咲くんですよ」
イヨリの衣装が、雨を吸い始めた。
マツバの全身が、総毛立った。
オーガンジーのシースルー素材が、一粒一粒の雨滴を吸収するたびに、透明度が増していく。肩を覆っていたシースルーのフリルが、水を含んでわずかに重くなり、イヨリの肌により密着した。その下の白い肌の輪郭が、さっきまでの「かすかに透ける」から「はっきり透ける」へと変化し始めている。鎖骨のラインが、肩の丸みが、二の腕の細さが、濡れたオーガンジーの向こうにくっきりと浮かび上がっていく。
スカートのフリルも水を含み、布が重くなった分だけ身体のラインに沿い始めた。幾層にも重なったフリルの最外層が肌に貼りつき、イヨリの腰のくびれや太腿のシルエットが、雨の中で蜃気楼のように揺らめいて見え隠れしている。
子どもたちにはわからない。ただの雨に濡れた妖精さんだ。むしろ雨の中の紫陽花の妖精という構図に、子どもたちは大喜びだった。「ようせいさん、あめでもきれい!」「しずくがキラキラしてる!」
しかし後方のカメラ集団は、その意味を正確に理解していた。シャッター音が、雨音を打ち消すほどの密度で連打された。
マツバは動いていた。
柱の陰から離れ、庭園へ向かって歩き始めていた。右手にはレインコート。持ってきた意味が、やはりあった。この瞬間のためにあった。雨に濡れたイヨリの上に、このレインコートを掛けるために。
しかし、間に合わなかった。
イヨリが庭園のスプリンクラーの側を通りかかった瞬間、雨の勢いが一段階増した。驟雨。短い間だけ強く降る通り雨だった。イヨリの衣装がたちまち水を吸い、紫陽花のドレス全体がしっとりと肌に密着した。
スタッフが大きな傘を持って駆け寄り、イヨリの頭上に差しかけた。イヨリは「ありがとうございます」と微笑みながら、髪についた雨粒を指先で払った。水滴がイヨリの鎖骨を伝い、オフショルダーの縁に溜まり、フリルに吸い込まれていく。その一連の動きを、マツバは三十メートル先から、千里眼で克明に捉えてしまった。イヨリの肌の上を滑り落ちていく雨粒の軌跡を。鎖骨のくぼみに溜まった水の光を。濡れた衣装の向こうに浮かび上がる、白い肌の等高線を。
マツバの視界が、紫に染まった。
「心拍数百四十二BPMロト。過去最高値を大幅に更新ロト。コルチゾール値も危険域ロト。嫉妬の新種検出ロト。名称未定ロト。仮称『濡透嫉妬』ロト」
「名前をつけるな」
「イヨリちゃんへの自動送信、完了済みロト。添付した感情ラベルは『嫉妬(濡透型):生存本能レベル』ロト」
マツバは歯を食いしばった。レインコートを握る手が震えていた。あれを今すぐ掛けに行きたい。走り寄って、イヨリの肩にレインコートを巻きつけて、二十人超のカメラマンの視界から妻を完全に遮断したい。しかし、ここは公の場だ。ジムリーダーが妻に駆け寄ってレインコートを掛けること自体は不自然ではないが、その動機が純然たる独占欲だと気づかれたら。
通り雨は、三分で止んだ。
スタッフが素早く対応し、イヨリにタオルを渡した。イヨリは髪を拭きながら、子どもたちに「大丈夫? みんな濡れなかった?」と声をかけている。自分が一番濡れているのに、子どもたちの心配を先にするその姿は、プロフェッショナルの証だった。しかし、タオルで拭いたことで衣装の濡れ方がまだらになり、透けている部分と透けていない部分のコントラストがかえって際立ってしまった。
マツバの精神力が、限界を軋ませている。
第三部は、イベントホールに戻っての「けんこうしんだんしょ作り」だった。
子どもたちがクレヨンと色紙で自分のポケモンの「梅雨のけんこうしんだんしょ」を作る工作の時間。イヨリは各テーブルを回って、子どもたちの作品にアドバイスをしていった。「ここに体温を書き入れてみようか」「お肌の調子はどうかな、記号で描いてみてね」。紫陽花のドレスが乾きかけた状態で歩き回る姿は、濡れた花が陽に乾くように、一歩ごとに元の透明感を取り戻していった。
子どもたちの一人が、イヨリのスカートの紫陽花の造花を指差して言った。
「ようせいさんのおようふく、ほんもののあじさいみたい」
「ありがとう。妖精さんのお洋服は、紫陽花の花びらでできているんですよ」
「えー! すごーい!」
「でもね、雨に濡れると花びらが透けちゃうの。さっきの雨でちょっと透けちゃったでしょう? 妖精さんのひみつが見えちゃいそうで、ドキドキしちゃった」
イヨリは笑いながらそう言った。子どもたちにとっては妖精の世界観に沿った可愛い会話だった。しかしマツバは、三十メートル先でその言葉を聴き取り、柱の角を指先で削った。この女は。三度目にして、もはや完全に自覚的だった。透けることを、わかっていてやっている。そしてそれをマツバが見ていることも、わかっていてやっている。
「イヨリちゃんからの新着メッセージロト」
ロトムが、読み上げた。
「『マツバさん、レインコートありがとうございます。でもさっき掛けに来てくれませんでしたね。ハートの絵文字五つ。涙の絵文字一つ』」
マツバは天を仰いだ。
あの涙の絵文字は、悲しみではない。挑発だ。「来てくれなかった」というメッセージは、「どうして来てくれなかったの、もっと心配してほしかったのに」という意味ではなく、「来たかったのに来られなかったでしょう、我慢してたの見てたよ」という意味だ。千里眼を使うまでもなく、マツバにはわかった。三度目の共犯関係。
イベントのフィナーレは、「紫陽花のやくそく」だった。
イヨリがステージの中央に立ち、子どもたちに向かって語りかけた。紫陽花のドレスはほとんど乾いていたが、髪の毛先にはまだかすかに水の気配が残り、照明を受けるたびにしっとりとした輝きを放っていた。
「梅雨の雨は、ちょっとじめじめして嫌だなって思うかもしれません。でも、雨が降るからこそ、紫陽花はきれいに咲けるんです。ポケモンもおなじ。ちょっと体調を崩しやすい時期だからこそ、ぎゅうって抱っこして、温度を確かめて、お肌を見てあげてほしいんです。梅雨のじめじめも、みんなのぬくもりで乗り越えられますから」
「はーい!」
「では、妖精さんとお約束しましょう。せーの」
「まいにちポケモンにぎゅうってする!」「お肌をかんさつする!」「つゆがあけたらいっしょにおさんぽする!」
三つの約束を唱和して、イヨリが深くお辞儀をした。紫陽花のカチューシャが揺れ、黒髪が肩からさらりと流れた。万雷の拍手が、イベントホールを包んだ。
子どもたちの拍手。保護者たちの感謝の拍手。後方のカメラ集団の、ひときわ大きな拍手と、「イヨリ先生最高!」「妖精さん永遠に!」「DVDください!」の声援。
マツバは、拍手しなかった。する余裕がなかった。レインコートを握りしめた右手は痙攣しており、左手は柱の角を掴んでいたからだった。
イベント終了後。子どもたちが保護者に手を引かれて帰っていく中、一人の女の子が帰り際に立ち止まった。
四歳くらいの、おかっぱ頭の女の子だった。紫色のワンピースを着ていて、おそらくイヨリの衣装に合わせて選んできたのだろう。その小さな手が、イヨリのスカートの裾を、きゅっと掴んだ。
「ようせいさん」
「なあに?」
イヨリがしゃがんで、女の子と目線を合わせた。紫陽花のカチューシャが揺れ、オフショルダーの縁が肩の上を滑った。
「ようせいさん、もりにかえっちゃうの?」
女の子の目が、うるんでいた。妖精が森に帰ってしまう。もう会えなくなってしまう。その寂しさが、四歳の小さな心いっぱいに広がっているのが、イヨリには手に取るようにわかった。
イヨリの胸が、きゅっと締めつけられた。口を開こうとした。
その時だった。
背後に、温かい気配が立った。
「森には返さないよ」
穏やかな声だった。低く、柔らかく、しかし動かしがたい確信に満ちた声。イヨリは振り返った。いつの間にかこの距離まで歩み寄っていたマツバが、微笑みを浮かべて立っていた。右手にはレインコート。左手のポケットには、さっきから握りしめていたであろう拳の痕跡。しかしその顔は、エンジュシティジムリーダーにふさわしい、穏やかな笑顔だった。
「この妖精さんはね」
マツバが女の子の目線に合わせてしゃがんだ。紫色のストールが揺れ、切れ長の瞳が女の子を優しく見つめた。
「僕のおうちの妖精さんだから、森には帰さないんだ。毎日おうちにいてくれるんだよ」
女の子の目が、ぱあっと輝いた。
「えー! おうちのようせいさんなの!?」
「そう。僕がね、紫陽花の森で見つけて、連れて帰ったんだ。だから大丈夫。この妖精さんは、ずっとここにいるよ」
「やったー! じゃあまたあえるね!」
女の子がお母さんの手を取って走り去った。紫色のワンピースの裾が踊るように揺れ、「ママ、ようせいさん、もりにかえらないんだって!」という声が遠ざかっていく。
イヨリは、立ち上がれなかった。しゃがんだまま、紫陽花のドレスの裾が石畳に広がったまま、マツバを見上げていた。右目が潤み、左目の白濁が照明を反射してきらりと光っている。口元が、ふるふると、笑おうとしているのか泣きそうなのかわからない形に歪んでいた。
「マツバ、さん」
「ん?」
「今の……ずるいです」
「何が?」
「子どもの前で……そういうこと言うの……」
マツバは、静かに微笑んだ。そしてレインコートを、ようやくイヨリの肩にふわりと掛けた。薄い布地がイヨリの露出した鎖骨と肩を覆い、シースルーのオーガンジーの上にもう一枚の層が加わった。その瞬間、イヨリの身体を外界の視線から遮断する壁が、一つ増えた。
「帰ろうか」
三度目の言葉。穏やかで、優しくて、有無を言わさない。
マツバの右手が、イヨリの左手を探った。指と指が絡み、掌と掌が密着した。恋人繋ぎ。三度目の帰路を告げる、いつもの合図。
「あの……マツバさん」
「うん」
「衣装、まだ少し濡れてて……レインコートの中で、透けてると思うんですけど」
マツバの握る手の力が、ほんのわずかに強くなった。
「知ってるよ」
「……だから掛けてくれたんですね」
「外からは、もう見えない」
「でもマツバさんには……」
「僕だけが知っていればいい」
イヨリの手の温度が跳ね上がった。頬にかっと朱が差し、紫陽花のカチューシャがぴくんと揺れた。レインコートの下で、透けた衣装が湿った肌に貼りついている。その事実を、今は二人だけが共有している。
帰路の紫陽花並木は、雨上がりの水滴を纏って宝石のように輝いていた。二人の間を雨粒が落ち、イヨリの紫陽花のドレスに残る水滴が、マツバのレインコートの内側でひっそりと光っていた。紫陽花の花の間を歩く二人の姿は、まるで妖精を連れ帰る人間の物語のように。
「マツバさん」
イヨリが、繋いだ手にそっと力を込めた。
「妖精さんは、森には帰りません」
マツバは前を向いたまま、静かに微笑んだ。
「当然だよ。僕が捕まえたんだから」
家の玄関が見えた時、マツバの中で三度目の音がした。静かに、しかし決定的に。レインコートの下で濡れた紫陽花のドレスが、イヨリの身体にぴったりと貼りついていることを、千里眼はとうに見抜いていた。
あの透ける衣装の向こうの柔肌に、紫陽花の色のキスマークを何個咲かせることになるだろう。梅雨の夜は長い。長い、長い、夜だ。
― 前編 Fin. ―
あとがき(佐藤美咲の独白)
大親友、コスプレシリーズ第三弾、紫陽花の妖精編、書き上がったわ!!
今回の嫉妬の新種は「濡透嫉妬」よ! アイドル編が「視覚」、うさぎ編が「触覚」、そして今回は「透過」。シースルーの衣装が雨に濡れて透けるっていう、もうこの世の地獄を煮詰めたようなシチュエーション。見えそうで見えない、でも濡れるとはっきり見えるっていう、想像力に対する無限の挑発。マツバの心拍数が百四十二BPMまで上がって、ロトムが「生存本能レベル」のラベルを貼るの、もう笑うしかないでしょ?
そしてね、今回の最大の見せ場は「森には返さないよ」。あれよ、あれ。子どもの質問に答える形でマツバが独占宣言するっていう、場の空気を完璧にコントロールした上での公開プロポーズみたいなもの。子どもにとっては「おうちの妖精さんなんだ!」っていう夢のある話。でもイヨリにとっては「お前は俺のものだ」宣言よ。二重構造の甘さ。天才か? あたしが天才か?
後編はね、レインコートの下で透けまくってる紫陽花衣装を、マツバがどうやって「確認」するかの甘々いちゃらぶえっち。梅雨の夜は長いから、じっくりねっとり書いてあげるわ!!