湯けむりの、二人と半分
― 十月十日の肖像 Episode 7
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【一】旅支度
「イヨリちゃん、週末、空いてる?」
三月の半ば。ジムから戻ったマツバが、夕食後のハーブティーの席で、不自然なほどさりげなく切り出した。マツバが何かを企んでいるときは、紫の瞳が微妙に左を向く癖がある。イヨリはそれを見逃さなかった。
「空いていますけど……何ですか、その怪しい顔」
「怪しくないよ。純粋な提案」
「マツバさんが『純粋な』と前置きする時は、大抵純粋じゃないです」
マツバが観念したように、ポケットからパンフレットを取り出した。「鷹の湯 霧隠(きりがくれ)」——エンジュシティから車で一時間ほどの山間にある、老舗の温泉旅館。竹林に囲まれた一軒宿で、全室離れ形式、客室露天風呂付き。パンフレットの写真には、檜の露天風呂から望む山桜と、霧に煙る渓谷の絶景が映っていた。
「マタニティプランっていうのがあるらしくて。段差を解消したバリアフリーの部屋で、妊婦さんでも安心して入れる温度設定の温泉と、マタニティ向けの懐石料理が出るんだって」
「調べたの?」
「ロトムに」
「ロトムに、頼んだの?」
「……はい」
イヨリの唇が、ゆっくりと弧を描いた。この男は。修行と霊的修練に人生の大半を費やしてきたこの男が、妻のためにマタニティ温泉プランをロトムに検索させたのだ。
「桐生先生にも確認したロト。妊娠七ヶ月で安定期なら、近場の温泉は問題ないって。ただし長湯はだめ、ぬるめのお湯で、入浴時間は十分以内。滑りやすいから付き添い必須ロト」
ロトムが補足した。桐生医師のお墨付き。マツバの目が、子犬のような期待に満ちてイヨリを見ている。千里眼の修行者が、妻の返事を待って落ち着かないそわそわした目をしている。
「……行きたい」
イヨリの返事は、静かだった。けれどその言葉の裏に、七ヶ月分の——悪阻と切迫流産と不安と疲労の全てを越えてきた身体が訴える、切実な休息への渇望が震えていた。
マツバの顔が、ぱあっと明るくなった。二十七歳のジムリーダーが、旅行の許可をもらった少年のような顔をしている。
「予約する。明日すぐ予約する」
「マツバさん、もう予約してあるでしょう」
「……なんで分かるの」
「目が左を向いてるから」
マツバが自分の目を手で隠した。千里先を見通す眼が、妻の前ではガラス張りだった。
* * *
【二】霧隠の宿
週末。車で一時間。山道を登り、竹林を抜け、渓谷に沿って細い道を進むと、「鷹の湯 霧隠」の木造の門が現れた。
苔むした石段——ではなく、その隣に設けられたスロープを、マツバがイヨリの手を引いて歩いた。左足のアステア・システムが砂利の感触を補正し、イヨリの歩行を安定させている。右手にマツバの手。左腕にアステアの補助。彼女を支える二つの力が、ゆるやかな上り坂をゆっくりと進む。
番頭が出迎えてくれた。マツバが予約時に伝えていたのだろう、「マタニティのお客様ですね」と柔和に微笑み、車椅子を用意してくれていた。イヨリは「歩けますから」と辞退したが、マツバが「念のため」と言って受け取り、荷物を載せた。結局、車椅子は荷物カートとして活用された。
離れの客室は、想像以上だった。
十二畳の和室。入口から室内まで段差が一切ない。障子を開ければ、竹林の向こうに渓谷が望める。三月の山はまだ冬枯れの色が残るが、早咲きの山桜が所々でぽつぽつと花を解き始めていた。薄紅色の花弁が、霧の中に浮かぶように咲いている。
そして——部屋の奥に、客室専用の露天風呂。
檜の浴槽が、竹垣に囲まれた小さな庭に据えられていた。湯気がゆらゆらと立ち昇り、硫黄の微かな匂いが漂っている。浴槽の脇には手すりが付き、底にはすべり止めが施してある。湯温は三十九度に調整されていると、番頭が説明してくれた。妊婦に負担のない温度。
「マツバさん……これ、すごい」
イヨリが窓辺に立ち、渓谷を見下ろした。霧が谷底から立ち昇り、竹林の葉先を濡らしている。遠くで鶯が鳴いた。春を告げる声。エンジュの鐘楼の鐘とは違う、自然の音だけが満ちた静寂。
マツバがイヨリの背後から、そっと肩に手を置いた。
「よく頑張ったね、イヨリちゃん」
不意打ちだった。イヨリの目が、一瞬で潤んだ。
「悪阻も、切迫流産も、全部——。君はずっと頑張ってた。僕は途中まで気づけなかったけど。だから、今日は何もしなくていい。ドクターの顔もしなくていい。エンジュの旧家の嫁の顔もしなくていい。ただの——イヨリちゃんでいて」
「……ずるい。そういうこと急に言うの、ずるいです」
「ずるいのはお互い様でしょう。一ヶ月も妊娠を隠してた人に言われたくないな」
イヨリが泣き笑いの顔で、マツバの胸に額を押し当てた。七ヶ月分の張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩むのを感じた。
* * *
【三】湯の手
夕方、露天風呂に入ることにした。
脱衣所はなく、客室から直接露天に出られる造りだった。イヨリが帯を解く手がもたつくのを見て、マツバが背後に回った。
「手伝うよ」
「……お願いします」
帯を解き、着物を肩から滑り降ろす。七ヶ月の腹部が現れた。マツバは何度も見ている。毎晩撫でて、千里眼で覗いて、チヒロの名を呼んで蹴りを待った、あのお腹。けれど夕暮れの自然光の中で見るそれは、行燈の下で見るのとは違った印象を与えた。
丸みを帯びた腹部の皮膚が、斜めに射し込む夕日を受けて、淡い桃色に染まっている。妊娠線の薄い筋が、腰から臍の下にかけて数本走っている。イヨリが気にしている——けれどマツバにとっては、妻の身体が命を育てた証以外の何物でもない。美しくないはずがなかった。
イヨリの下着を外す時、マツバの手はどこまでも丁寧だった。情事の夜の手つきとは根本的に違う。あれは欲望に導かれた手だが、今は——介助の手だった。労りの手。壊れ物を包むような手。七ヶ月の腹を抱えた妻が、段差のない床をゆっくり歩いて露天風呂の縁に立つまで、マツバは片手でイヨリの腕を支え、もう片手を彼女の腰に添えていた。
「足元、気をつけて。ゆっくりね」
イヨリが湯に足を入れた。三十九度の温泉が、左足のくるぶしを、脹脛を、膝を順に包んでいく。アステア・システムは防水仕様だが、入浴時は外すことをイヨリは選んだ。補助なしの左足で湯底を踏みしめるのは不安定だが、マツバの腕がしっかりと彼女を支えている。
腰まで浸かったところで、イヨリは深い息を吐いた。
温泉の湯が、七ヶ月間の疲労を吸い込んでいくような感覚。背中の張り、腰の鈍痛、むくんだ足首——全てが、ぬるい湯の中でゆっくりと溶けていく。硫黄の匂いが鼻腔に入り、悪阻の記憶を一瞬呼び覚ましかけたが、今はもう大丈夫だった。この匂いは「不快」ではなく「温泉」だと、身体が正しく認識してくれる。
「肩まで浸からなくていいからね。半身浴で」
「分かってます、ドクターですから」
「ドクターの顔しなくていいって言ったのに」
「これは職業病です」
マツバが湯の中でイヨリの背後に回った。彼の広い胸板が、イヨリの背中に触れる。肌と肌の間に、湯の膜だけ。マツバの両腕が、イヨリの身体を後ろから緩やかに包み込んだ。膨らんだ腹部にまで回さず、肋骨の下あたりを支えるように。妊婦の身体を圧迫しない、絶妙な位置。
イヨリの後頭部が、マツバの鎖骨のくぼみに収まった。黒髪が湯に濡れて、マツバの肩に流れている。湯気の向こうに、竹林の隙間から夕焼けの空が覗いていた。茜色と紫が溶け合う空。鶯の声が遠く、代わりに湯の音だけが耳に届く。ちゃぽん、ちゃぽん、という微かな水面の揺れ。
「……気持ちいい」
イヨリの声は、溶けていた。エンジュの旧家の嫁としての丁寧語も、ドクターとしての理知的な口調も消えて、ただの——湯に身を委ねた女の、甘く蕩けた声。
「髪、洗おうか」
「え……」
「ここに来たら、今日は僕が全部やるって決めてたんだ。イヨリちゃんは何もしなくていい」
マツバが湯船の縁に用意されていた桶と手ぬぐいを取り、湯を汲んだ。イヨリの黒髪を掌で束ね——あの悪阻の朝に嘔吐する妻の髪を束ねた手つきで——今度は、ゆっくりと湯をかけた。温かい湯が、頭皮を伝って首筋に流れ、鎖骨の窪みに溜まって、やがて湯船に還っていく。
「目、閉じてて」
イヨリが目を閉じた。マツバの指が、彼女の頭皮を優しく揉みほぐしていく。修行で鍛えた手は力加減を知っている。強すぎず、弱すぎず、イヨリの髪の付け根から毛先までを丁寧に洗い流す。旅館に備え付けの柑橘系のシャンプーの香りが、湯気と混ざって鼻腔に届いた。柑橘——あの悪阻の日々に唯一許された香りが、今は贅沢な癒しの香りとして、二人を包んでいる。
「次、身体」
手ぬぐいに石鹸を含ませ、イヨリの肩から腕へと滑らせた。鎖骨のラインを辿り、肩甲骨の間を撫で、腰の曲線に沿って下りていく。妊娠で変化した身体の全てに、マツバの手が触れていく。膨らんだ腹部に手ぬぐいが到達した時、マツバの手が一瞬だけ止まった。
「……ここは、直接でいい?」
「はい」
手ぬぐいを置き、石鹸をつけた素手で、膨らんだ腹部をそっと撫でた。泡が丸い曲面に沿って伸び、湯で流される。マツバの掌が腹部の頂点を通過した時、内側から——ポコ、と小さな蹴りが返った。
「チヒロ、起きてる」
「お風呂が気持ちいいのかもしれません。羊水も温かくなりますから」
「ドクターの顔」
「……すみません」
二人は笑った。湯気の中で、笑い声が竹林に溶けていった。
* * *
【四】浴衣の夜
湯上がりのイヨリは、反則だった。
マツバは心の中でそう思いながら、妻の浴衣の帯を結んでやっていた。旅館が用意してくれたマタニティ用の浴衣は、腹部にたっぷりとゆとりがあり、柔らかい生地が膨らんだお腹を優しく包んでいる。藤色と白の縞模様。湯上がりの火照った肌に、浴衣の涼やかな生地が触れるたびに、イヨリの頬がほんのりと紅い。湿った黒髪が首筋に貼りつき、白い項が覗いている。
反則だ、と思った。この女性の美しさは、妊娠によって損なわれるどころか、深みを増している。かつての華奢で壊れそうな美しさに、命を育てる者特有の力強い丸みが加わって、全く新しい——けれど紛れもなくイヨリである——美しさが生まれている。
「マツバさん、帯、きつくないですか?」
「ん? あ、ごめん。ぼうっとしてた」
「何を見てたの?」
「イヨリちゃんを」
「……もう」
イヨリが耳まで赤くなった。七ヶ月の妊婦が、夫の一言で少女のように頬を染める。その姿がまた、反則だった。
夕食は部屋食だった。仲居が運んできた懐石料理は、マタニティプランに合わせた特別な献立だった。生ものを避け、鉄分と葉酸が豊富な食材を中心に構成されている。蓮根と鶏肉の煮物、ほうれん草の白和え、鯛の蒸し焼き、蕪の磯辺揚げ、十六穀米のご飯。全てが温かく、全てが身体に優しく、全てが美しく盛り付けられている。
「マツバさん、お酒は?」
「飲まないよ。イヨリちゃんが飲めないのに、僕だけ飲むのは気が引ける」
「気にしなくていいですよ。温泉旅館のお酒って美味しいって聞きますし」
「いい。僕は——イヨリちゃんと同じものを飲みたい」
仲居が運んできたのは、二人分の柚子の白湯割り。ノンアルコール。グラスの縁に柚子の皮が添えられ、立ち昇る湯気が柑橘の香りを運んでいる。
乾杯をした。グラスが触れ合う、澄んだ音。
「何に乾杯する?」
「チヒロに」
即答だった。二人の声が重なった。どちらが先に言ったか、またしても分からない。互いの顔を見て、笑った。
食事を進めながら、自然と話題はチヒロの未来に移っていった。
「この子が生まれたら、まず何をしたい?」
イヨリが煮物を口に運びながら聞いた。マツバは少し考えて——
「抱っこしたい。それだけ。最初の瞬間は、ただ——自分の腕で抱きたい」
「マツバさんの腕は大きいから、チヒロがすっぽり埋まりそう」
「ゲンガーにも抱かせてあげたいな。あいつ、ずっと影から心配そうに見てるんだ」
「ゲンガーは……ゴーストタイプだから、赤ちゃんが怖がらないか少し心配ですけど」
「大丈夫。ゲンガーは僕より優しいよ。僕より先にイヨリちゃんの異変に気づいたのもあいつだし」
あの朝のことを、マツバは忘れていなかった。切迫流産の前兆にゲンガーが気づき、自分は気づかなかった朝のことを。相棒の直感は、千里眼を超えることがある。
「バリヤードが、もう離乳食のレシピを研究し始めてるの、知ってますか?」
「え、もう? まだ三ヶ月も先なのに」
「バリヤードにとってチヒロは孫なんですよ。亡きお義母様——イノリさんの代わりにバリヤードが私を育ててくれたから。その私の子供ということは、バリヤードにとっては孫も同然で」
マツバの表情が、一瞬だけ柔らかく翳った。亡き母イノリのことを思い出したのだろう。イヨリの義母であり、マツバの友人であった女性。彼女がいたから、今のイヨリがある。
「イノリさんが生きていたら、きっと大喜びしただろうね」
「ええ。きっと——毎日『チヒロちゃん、チヒロちゃん』って離さなかったと思います」
二人は微笑み合った。そこにいない人の不在が、温かい形で満たされる瞬間。失われた者への想いが、新しい命への期待と溶け合って、悲しみではなく慈しみに変わる。
* * *
【五】月と湯けむりの間に
夜が深まり、もう一度露天風呂に入ることにした。
今度は月が出ていた。三月の半月が、竹林の上に冴え冴えと懸かっている。湯面に月光が映り、揺れている。マツバが先に湯に入り、イヨリの手を取って慎重に導いた。
夕方と同じ体勢。マツバの胸にイヨリの背中を預け、二人で月を見上げる。湯気が月光を乱反射させて、二人を包む空気全体がぼんやりと銀色に光っている。
「マツバさん」
「ん」
「来てよかった」
「うん」
「本当に。こんなに穏やかな時間、いつ以来だろう」
イヨリの声が、湯気に溶けていく。穏やかな時間。あの悪阻の朝も、切迫流産の恐怖も、ここには届かない。渓谷の底から立ちのぼる霧と、檜の浴槽の湯気と、竹林を抜ける夜風だけがある世界。
マツバの掌が、湯の中でイヨリの腹部にそっと触れた。チヒロは今、静かにしている。さっきの入浴の時はぽこぽこと蹴っていたが、母親がリラックスしているのを感じ取ったのか、今は穏やかに眠っているようだった。
「ねえ、イヨリちゃん」
「はい」
「こうやって二人で入れるのも、あと何回かな」
「どういう意味?」
「チヒロが生まれたら、二人きりの時間は減るでしょう。夜中の授乳とか、おむつ替えとか。二人で温泉に来るなんて、しばらくは無理かもしれない」
イヨリは少し考えて、微笑んだ。
「だったら——三人で来ればいいじゃないですか」
「赤ちゃん連れの温泉?」
「客室露天風呂なら、他のお客さんに迷惑をかけずに入れますよ。チヒロが泣いても大丈夫。一歳くらいになったら、ベビーバスで隣に——」
イヨリの言葉が途切れた。自分が何を言っているのか——「チヒロと三人で温泉に行く」という未来を、当然のように前提にしている自分に気づいたからだ。あの切迫流産の夜、「この子、ちゃんと生まれてきてくれますかね」と震えた声で問うた自分が、今、チヒロとの温泉旅行を計画している。
「……笑っちゃいますね。あの頃は、無事に生まれてくれるかどうかで精一杯だったのに」
「今は?」
「今は——チヒロと何をしようか、って考えてる。初めてのお宮参りは焼けた塔にしようかとか、一歳のお誕生日には何を食べさせようかとか」
「一歳って、もう離乳食だよね。バリヤードに任せれば最高級の離乳食が出てくるよ」
「絶対に出汁を利かせすぎると思います」
くすくすと笑い合った。月明かりの中の、静かな笑い。湯面が二人の笑い声に合わせて微かに揺れ、月の影が砕けては集まる。
「マツバさん」
「うん」
「ありがとう。この旅行。……全部」
「全部って?」
「全部です。毎朝背中を擦ってくれたこと。凍ったぶどうを一粒ずつ運んでくれたこと。匂いのために着替えを三セット持ち歩いてくれたこと。おかゆを炊いてくれたこと。ぶかっこうな補血粥を作ってくれたこと。チヒロの靴下のもう片方を編む約束をしてくれたこと。そして今、こうやって温泉で背中を支えてくれていること」
イヨリの声が、一つ一つの記憶を丁寧に拾い上げていく。七ヶ月間のエピソードの全てが、この湯けむりの中に凝縮されている。
マツバは何も言わなかった。代わりに、イヨリの背中をもう少しだけ強く、自分の胸に引き寄せた。湯の中で二つの体温が重なり、その間に——チヒロの体温が挟まれている。三十七度の母体と、三十六度の湯と、その狭間で眠る、まだこの世界の空気を吸ったことのない命。
二人と、半分。
この湯けむりの中にいるのは、二人の大人と、まだ半分だけこちら側にいる命。掌で触れれば蹴りを返し、名前を呼べば反応し、けれど顔も性別も見せてくれない、秘密主義の半分。
「あと三ヶ月で、半分が一人になるんだね」
マツバが囁いた。
「はい。あと三ヶ月で——チヒロは、ちゃんと一人の人間として、ここに来る」
「楽しみだな」
「怖くないですか?」
「怖いよ。でも——楽しみの方が、ずっと大きい」
イヨリがマツバの手を取り、自分の腹部に当てた。月明かりに照らされた湯の中で、四つの掌が丸い丘を包む。いつもの儀式。祈り。
チヒロは眠っていた。月の光も、湯の温もりも、両親の声も、全て心地よい振動として羊水を通り抜け、丸くなった小さな身体を包んでいるのだろう。秘密主義の赤ちゃんは、この夜だけは蹴り返さずに、静かに夢を見ている。
宿の時計が十時を告げた。十分の入浴時間を少しだけ過ぎていた。桐生医師の指示を思い出して、二人は名残惜しげに湯から上がった。マツバがバスタオルでイヨリの身体を丁寧に拭き、浴衣を着せた。布団が敷かれた部屋に戻ると、湯上がりの深い脱力感が二人を包んだ。
布団に横たわったイヨリの背後に、マツバが身体を寄せた。いつものスプーンの体勢。掌が、浴衣越しのお腹にそっと当てられる。
「おやすみ、チヒロ」
「おやすみ、チヒロ」
二つの声が重なった。竹林を渡る風が障子を微かに鳴らし、渓谷の底から立ちのぼる霧が、月明かりの中で白い帯のように漂っていた。
エンジュとは違う夜。鐘楼の鐘は聞こえない。けれど、二人の鼓動と、その間で脈打つ小さな命のリズムが、この静かな山間の宿に、確かな音楽を奏でていた。
湯けむりの中の、二人と半分。
あと三ヶ月で、その半分が一人になる日を、二人は温泉の余韻に包まれながら、幸福に待っていた。
― 了 ―
あとがき by 佐藤美咲
主ィィィッ!! 七連続えっちシーンゼロ!! いやでも今回は裸体を描いてるわよ!? 温泉だもの!! でもこれはえっちじゃないの!! えっちと裸体は違うの!! マツバがイヨリの身体を洗う場面は、情事の百倍丁寧で情事の百倍神聖なの!! これが「官能」の最高到達点よ!!
マツバの旅行準備のシーン大好き!! ロトムにマタニティ温泉プランを検索させるジムリーダー!! しかも「もう予約してあるでしょう」って見破られる!! 「目が左を向いてるから」!! 千里眼がガラス張り!! あはははっ、最高よ!!
湯上がり浴衣のイヨリを「反則」って表現したマツバの内心が、あたしの筆の全てよ。妊娠で変化した身体が「損なわれる」のではなく「深みを増す」——この視点が書けたことが、十月十日編を書いてきた意味そのものだわ。七ヶ月間、マツバの中で「美しさ」の定義が根本から書き換えられたのよ。
「二人と半分」のコンセプト。まだ完全にはこちら側に来ていない命。掌で触れれば蹴りを返す。名前を呼べば反応する。でも顔も性別も見せてくれない。「半分だけこちら側にいる」。あと三ヶ月で、その半分が一人になる——この表現が書けた時、あたし少し泣いた。ノエルの子猫時代を思い出して。命が「来る」って、こういう感覚なのよ……。