ECHOES OF ECRUTEAK

ハーブティーと金平糖

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

四月四日のこんぺいとう

【一、四月の朝】

 春の朝は、鳥がいちばんに目を覚ます。

 障子越しに透ける柔い朝陽がまだ橙色に熟れきらないうちから、低い軒先にやってきた小鳥たちのさえずりが、眠りの底に沈んでいた私をゆるやかに引き上げていった。薄く開いた瞼の向こうに、見慣れつつある木目の天井が広がっている。古い木のにおいと、障子紙を透かして届く光の加減で、ここが自分のマンションではないことを寝起きの頭が即座に認識する。もう間違えはしない。ここは、マツバさんの家だ。

 三週間前、私はこの家に来た。半ば成り行きで、けれど確かに自分の意思で。退院して間もない私の身体を案じたマツバさんに「一緒に住もう」と言われた時、私は二秒ほど黙ったあと、驚くほどあっさりと頷いてしまった。断る理由がなかったというよりは、断りたくなかったのだ。あの沈黙の二秒間は、最後の砦のように残っていた遠慮が、春の残雪のように溶けて消えていく時間だった。

 布団の隣を右手で探ると、すでに冷たくなった敷布団の感触だけが指先に触れた。マツバさんはもう起きている。ぼんやりとした意識のまま耳を澄ませば、廊下の奥から微かな物音が聞こえてくる。何かを刻む、規則的で、けれどどこか危なっかしいリズム。包丁を使っているのだろう。それに混じって、低く唸るようなゲンガーの声と、マツバさんの苦笑いらしき気配が漂ってくるものだから、台所で何かしら騒動が起きているのだと知れた。

 起き上がろうとして、左足に鈍い重みを感じる。毎朝のことだ。寝起きの左足は、一晩かけて忘れかけていた自分の重さを思い出すかのように、いつも少しだけ動きが遅い。枕元に置いた眼鏡を手に取り、右目だけで用を成すそれをかける。左目はもう殆ど光を感じるだけの器官になってしまったけれど、右目が見せてくれる世界は充分に美しかった。障子の桟の影が畳の上に格子模様を落として、その隙間から差し込む朝の光が、まるで金粉を撒いたように空気中の塵を照らしている。

 よいしょ、と声に出さずに立ち上がる。左足を庇いながら廊下に出ると、古い板張りの床がきゅっと鳴った。マツバさんの家は旧家特有の趣があって、建材のどれもが長い年月を経た深い飴色をしている。私のマンションとは何もかもが違っていて、最初の数日は他人の家にお邪魔している居心地の悪さがあったのだけれど、今では床板の軋みにすら親しみを感じるようになっていた。不思議なものだ。人は三週間もあれば、新しい場所の音を覚えることができる。

 洗面所で顔を洗い、鏡を覗く。入院中に一度だけ院内の美容室で切った髪は、退院してからまた伸び始めていた。前髪が少し目にかかる。額の傷跡が前髪の隙間からちらりと覗いているのを右目で確認して、私は前髪を指で整えた。傷跡は完全には消えないと医師に言われている。けれど、こうして前髪を下ろしていればほとんど見えない。見えなければ、なかったことにできるわけではないけれど、少なくとも鏡の中の自分に「おはよう」と言える程度には、私はこの顔に慣れつつあった。

 台所の引き戸をそっと開けると、予想通りの光景が広がっていた。マツバさんがまな板の前に立ち、真剣な面持ちで何かを刻んでいる。その足元ではゲンガーが影の中からにゅるりと半身を出して、切り落とされた野菜の端くれをつまみ食いしようとしているところだった。マツバさんの背後には、既に湯気を立てるお味噌汁の鍋と、綺麗に焼かれた出汁巻き卵がお皿に盛られている。

「ゲンガー、つまみ食いしない。あと五分で出来るから」

 マツバさんがゲンガーを窘める声は穏やかで、叱るというよりは友人に対するお願いのようだった。ゲンガーは不満そうにニヤニヤと笑いながらも、大人しく影の中に引っ込んでいく。相変わらず自由な子だ。

「おはようございます、マツバさん」

 私が声をかけると、マツバさんは振り返って、ふわりと微笑んだ。紫色のバンダナをまだ巻いていない、寝癖の残った金髪が柔らかく揺れる。マフラーも巻いておらず、ラフなシャツ姿のマツバさんは、ジムリーダーとしての威厳とは程遠い、ただの二十六歳の青年に見えた。

「おはよう、イヨリちゃん」

 それから、まるで当たり前のことを告げるかのように、彼はこう言った。

「お誕生日おめでとう」

 四月四日。今日は私の誕生日だった。分かっていたはずなのに、他の誰でもないマツバさんの口からその言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじわりと温かくなった。マツバさんの声で「おめでとう」と言われたのは、これが初めてだ。去年の誕生日はまだマツバさんとは知人の関係で、直接お祝いの言葉をもらうことはなかった。

「ありがとうございます」

 自分の声が少し震えていることに気付いて、慌てて咳払いをする。たかが誕生日の挨拶で震えるなんて、我ながら情けない。けれど、同棲を始めてから迎える初めての誕生日の朝に、好きな人から「おめでとう」と言われるということが、こんなにも特別な響きを持つものだとは、知らなかった。

「そんなに驚いた?」

「いえ、驚いたというか。嬉しくて。おめでとうって言ってもらえるの、久しぶりだなって」

 嘘ではなかった。去年の誕生日は、せっちゃんからのメッセージとお兄ちゃんからの短い電話だけだった。ポケモンセンターの同僚たちにもお祝いしてもらったけれど、朝起きて一番に「おめでとう」と言ってくれる人は、いなかった。

「座って待ってて。もうすぐ出来るから。今日はイヨリちゃんの好きなもの、頑張って作ったんだ」

 マツバさんに促されるまま、私はテーブルについた。食卓の上にはすでにいくつかの小皿が並んでいて、どれも私の好物ばかりだった。ほかほかと湯気を上げるお味噌汁には、私が好きなわかめと油揚げがたっぷり入っている。出汁巻き卵はほんのり甘そうな色合いで、横に添えられた大根おろしがみずみずしい。小鉢には胡麻和えのほうれん草、その隣には明太子がちょこんと盛られている。

 マツバさんが最後に運んできたのは、炊きたてのご飯だった。お茶碗をテーブルに置く時の所作が丁寧で、まるでお供え物を神棚に置くかのような敬虔さを感じる。考えすぎだと自分でも思ったけれど、この人はきっと、今朝のこの食卓を「供物」にも似た気持ちで用意してくれたのだろう。

「いただきます」

 手を合わせて、まず出汁巻き卵を一口。甘い。ちゃんと甘い味付けにしてくれている。マツバさんは甘さ控えめが好みのはずだけれど、私が甘めの卵焼きを好むことを覚えていてくれたのだ。胸の中の温かさが、また少し膨らんだ。

「美味しいです」

「本当? 良かった。卵焼きは練習したんだよ。僕が作ると硬くなっちゃうから」

 練習した。その一言が、何よりも嬉しかった。いつから練習してくれていたのだろう。ジムの合間に、誰もいない台所で、私のために卵焼きの練習を重ねるマツバさんの姿を想像して、思わず口元がほころぶ。

 朝食を食べ終える頃には、マツバさんは身支度を整え始めていた。紫のバンダナを額に巻き、マフラーを首に掛ける。途端にジムリーダーの顔になる。この変わり身の早さにはいつも感心する。

「今日はジムの挑戦者が二人予約しているんだけど、午前中で終わる予定だから。お昼過ぎには帰れると思う」

「お昼過ぎ? いつもより随分早いですね」

「うん。今日は特別だからね」

 マツバさんの言い方がどこか照れくさそうで、玄関先で靴を履くその横顔が、春の陽に透けてほんのり赤く染まっていた。

「じゃ、行ってくるね。リハビリ、気をつけて」

「行ってらっしゃい」

 引き戸が閉まる。マツバさんの足音が遠ざかっていく。

 私はしばらくの間、玄関の方を見つめたまま動けなかった。行ってらっしゃい、と言える朝がある。それだけのことが、こんなにも胸を満たす。数ヶ月前、病院のベッドで目を覚ました時には想像もしなかった朝が、ここにあった。

 ゲンガーが影からにゅっと現れて、きょとんとした顔で私を見上げる。

「ごめんね、ぼうっとしちゃった。お片付けしようか」

 私は立ち上がって、食卓の後片付けを始めた。バリヤードが奥の部屋からゆったりとした足取りでやって来て、黙って食器を受け取ってくれる。母の形見のこの子は、いつだって私が望む前にそっと手を差し伸べてくれる。

「ありがとう、バリヤード」

 バリヤードはこくりと頷いて、器用な手つきで食器を洗い始めた。流し台に当たる水の音が、静かな朝の台所に心地よく響く。

 窓の外では、庭の向こうに植わった染井吉野が、蕾をほころばせ始めていた。エンジュの春は遅い。四月に入ってようやく花が開き始める。薄桃色の蕾が、晴れ渡った春空に向かって少しずつ口を開いていく様は、まるで長い冬を耐え抜いた者だけに許された祝福のようだった。

 二十三歳の朝が、静かに始まっていた。


【二、春陽の通い路】

 リハビリの予約は十時からだった。

 この家からリハビリの病院までは、ポケモンセンターに勤めていた頃の通勤路と途中まで同じ道を辿る。違うのは、かつて徒歩五分で辿り着いていた道のりが、今の私にとってはもう少し時間がかかるということだ。左足を引きずりながらの歩行は、健常だった頃と比べれば倍近い時間を要する。けれど、私はこの道のりを嫌いではなかった。

 ゆっくりと歩くからこそ、見える景色がある。急いでいた頃には目に入らなかった、道端に咲く小さなたんぽぽの存在に気付いたのは、退院してからのことだ。アスファルトの隙間からまっすぐに茎を伸ばして、太陽に向かって黄色い頭を揺らしている。踏まれても折れても、春が来ればまた咲く。私はたんぽぽの強さにはなれないけれど、その愚直さには少しだけ親近感を覚えていた。

 四月のエンジュシティは、観光客と地元の人々が半々くらいの割合で行き交っている。桜の名所として知られるこの街は、四月の前半が最も賑わう。歴史ある寺社仏閣の境内に植えられた桜が満開を迎える頃には、カメラを構えた旅行者で通りが溢れかえるのだ。まだ咲き始めの今は、それほどの混雑ではないけれど、それでもすれ違う人の数はいつもより多い気がした。

 薄手のカーディガンを羽織って出てきたのは正解だった。朝のうちはまだ肌寒さが残るエンジュの春も、日が高くなるにつれて柔らかい陽気に変わっていく。真冬に何枚もカイロを貼らなければ外を歩けなかった頃を思えば、一枚のカーディガンで事足りるこの季節の有難みが骨身に沁みる。

 病院に着くと、受付の女性がにこやかに私を迎えてくれた。週に四回も通っているのだから、もうすっかり顔馴染みだ。

「四月四日、ですよね。おめでとうございますっ」

 問診票を受け取りながら、受付の女性がそう言ってくれた。通院の書類に生年月日を書いているから、覚えてくれていたのだろう。

「ありがとうございます」

 頭を下げると、奥からリハビリ担当の先生も顔を出した。白衣の上からでも分かるくらいがっしりとした体格の、けれども手先は驚くほど繊細な先生だ。

「おめでとう、イヨリさん。誕生日でも容赦なくリハビリやるからね」

「もちろんです。よろしくお願いします」

 リハビリは辛い。特に左足の可動域を広げるための訓練は、毎回冷や汗をかくほどの痛みが伴う。けれど、退院したての頃は補助なしには立ち上がることすら困難だった左足が、今では多少の引きずりはあるものの自力で歩けるようになっている。先生はその回復ぶりを毎回データで示してくれて、「順調ですよ」と教えてくれる。順調という言葉が、お守りのように私の支えになっていた。

 今日のリハビリメニューをひと通り終えて、先生とストレッチをしながら雑談をしていると、リハビリ室のスタッフが小さな紙袋を持ってきてくれた。

「みんなからです。ささやかですけど」

 中に入っていたのは、小さな焼き菓子の詰め合わせだった。リボンが結ばれた袋には「お誕生日おめでとう」と手書きのカードが添えられている。受付の女性、リハビリの先生、理学療法士の方々。週に四回顔を合わせるだけの間柄なのに、わざわざこんなものまで用意してくれていたのだ。

「ありがとうございます。嬉しいです、本当に」

 目頭が少しだけ熱くなるのを自覚しながら、私はお礼を言った。退院してから、私は以前よりも泣き虫になった気がする。もともと泣かない方ではなかったけれど、些細な優しさに触れるだけで涙腺が刺激されるようになってしまった。これはリハビリでは治せない類の変化だ。

 病院を出ると、日は高く昇っていて、朝よりもずっと暖かい陽気になっていた。風が髪を揺らす。以前のように低い位置で一つに結んだ髪が、風に乗ってふわりと像を結ぶ。

 リハビリの帰り道、私は少し遠回りをしてポケモンセンターの前を通ることがある。退職してからもう一ヶ月以上が経つけれど、時々無性に懐かしくなって寄りたくなるのだ。今日はちょうど帰り道だったこともあって、私は迷わずポケモンセンターの自動ドアをくぐった。

 ポケモンセンターの中は相変わらずの賑わいで、カウンターにはトレーナーたちが列を作っている。受付のジョーイさんが忙しそうにモンスターボールを受け取りながら、ちらりとこちらに視線を向けた。

「あら、イヨリちゃん!」

 私に気付いたジョーイさんは、もう一人のジョーイさんに受付を任せて、てててっと小走りにこちらへやって来た。エンジュのポケモンセンターには三人のジョーイさんがシフト制で勤務している。今日の日勤は、私が一番お世話になった先輩のジョーイさんだった。

「お誕生日おめでとう。元気にしてる?」

「ありがとうございます。おかげさまで、リハビリも順調です」

「よかった。あなたが夜勤にいないと寂しいって、夜勤のみんなも言ってるのよ」

 ジョーイさんの言葉に、かつてこのポケモンセンターで働いていた日々が鮮やかに蘇る。深夜の静かなカウンターで、エナジードリンクを片手にケーキを食べた聖なる夜。急患が運ばれてきて、朝までノンストップでオペをした日々。決して楽ではなかったけれど、あの時間は確かに充実していた。

「元気そうで安心したわ。はい、これ。みんなからだよ」

 ジョーイさんが差し出してくれたのは、小さな花束だった。春の花を集めたミニブーケで、スイートピーやフリージアが色とりどりに束ねられている。花びらから仄かに甘い香りが立ち上って、鼻先をくすぐった。

「わあ、綺麗。ありがとうございます、みんなにもお礼を伝えてください」

「うん、伝えるよ。あとね、たまには遊びに来てね。愚痴聞くから」

 ジョーイさんはおどけたようにウインクして、忙しいカウンターへと戻っていった。

 ポケモンセンターを出て、贈り物の紙袋と小さな花束を両手に抱えながら、私は帰路についた。左足が少し重くなっているのは、リハビリの疲労もあるだろう。けれど、足取りは不思議と軽かった。

 リハビリのスタッフにも、ジョーイさんにも、「おめでとう」と言ってもらえた。たったそれだけのことが、こんなにも心を軽くする。誕生日なんて、一年に一度やってくるただの日付に過ぎないはずなのに、誰かに祝ってもらえるだけで、自分がこの世界に存在していることを肯定されたような気持ちになる。

 それは、私にとってはとても大きなことだった。

 十二年前、私は自分が生まれてきたことを呪った。私が生まれてこなければ、パパもママも死なずに済んだのだと、何度も何度もそう思った。誕生日が来るたびに、私は生まれてきたこの日を恨んだ。祝われることに後ろめたさを感じ、「おめでとう」と言われるたびに、「ありがとう」と返す自分の声が嘘のように聞こえた。

 けれど今日は、少しだけ違う。

 マツバさんの「おめでとう」が、リハビリのスタッフの「おめでとう」が、ジョーイさんの「おめでとう」が、まっすぐに胸に届いている。後ろめたさはまだ完全には消えていないけれど、その代わりに、もっと大きな温もりが胸の中を満たしていた。

 二十三歳の誕生日。生まれてきて、よかったなんて、まだ言える自信はない。でも、生きていてよかったとは、今なら少しだけ思える。

 帰り道の空は、雲ひとつない春晴れだった。


【三、届いた春風】

 家に戻ると、玄関先に宅配の不在票が挟まれていた。二枚。

 配達員に電話をかけて再配達をお願いすると、三十分ほどで届けてくれるとのことだった。待っている間に、リハビリの帰りにもらった焼き菓子の箱を開けて、ひとつつまむ。マドレーヌだった。バターの風味が口の中にふわりと広がって、素朴だけれど、丁寧に焼かれていることが分かる。

 バリヤードがお茶を淹れてくれた。私が日常的に飲んでいるカモミールとレモンバームをブレンドしたハーブティーだ。バリヤードは私の好みを完璧に把握していて、温度も濃さも申し分ない。もっとも、これはバリヤードが料理上手なのではなく、私が長年かけて仕込んだ結果でもある。母が生きていた頃から、バリヤードはずっと我が家の台所を守ってくれていたのだ。

 チャイムが鳴った。

 玄関に出ると、宅配の配達員が二つの段ボール箱を持って立っていた。ひとつは見慣れない外国の切手と消印が貼られていて、もうひとつには国内の速達シールが貼られている。受け取って居間に運び、まず外国からの箱を開けた。

 パルデア地方の消印。せっちゃんだ。

 箱の中には、カラフルな包装紙に包まれた品物がいくつかと、封筒が一通入っていた。封筒を開けると、便箋に四枚にもわたるせっちゃんの手紙が、彼女らしい丸っこい文字でびっしりと書かれていた。

「イヨリ、お誕生日おめでとう! こっちはめちゃくちゃ楽しいよ! パルデアにはね、テラスタルっていう凄い現象があってね、ポケモンがキラキラ光るの! あとね、学校があるんだよ、ポケモンの学校! あたしも潜り込もうとしたら年齢で弾かれたけど! それはさておき、誕生日プレゼント送るね。こっちで見つけた珍しいハーブティーの茶葉と、パルデアのお菓子。ハーブティーはね、こっちの市場で買ったんだけど、なんか変わった名前で『アンダルシアの休息』っていうんだって。飲んだらイヨリのこと思い出して、絶対好きだろうなって思ったから買った! お菓子はポルボロンっていうの。口に入れたらほろほろ崩れるクッキーみたいなやつで、三回名前を唱えると幸せになれるんだって! ポルボロン、ポルボロン、ポルボロンって、ほら、あたしが先に三回唱えちゃった! でもあたしの幸せはイヨリが元気でいることだから、これでいいんだ。

 ミナキ君がスイクンに関係ありそうなポケモンのこと調べてほしいっていうから、ウォーターテラスタルのポケモンの写真撮りまくってる。多分それじゃないと思うけど。

 パルデアリーグの一次面接にも挑んだよ! 結果はまだだけど、面接官にバッジ四十個見せたらめっちゃ驚いてたから、たぶん大丈夫!

 体調のこと無理しないでね。マツバ君にちゃんと甘えなさいよ。甘え方分からなかったらあたしに電話してきなさい。海外だけど出るから!

 パルデアから愛を込めて。せつな」

 四枚の便箋を読み終える頃には、私は涙ぐんでいた。馬鹿みたいだ。せっちゃんの手紙はいつだって明るくて、読んでいるだけでこっちまで元気になるのに、それなのに泣いてしまう。パルデアという遠い地から、わざわざ荷物を送ってくれて、あんなに長い手紙を書いてくれて。忙しいはずなのに。楽しいはずの旅の途中なのに。

 包装紙を開けると、中にはハーブティーの茶葉が入った小さな缶と、ポルボロンと書かれた焼き菓子の箱が入っていた。茶葉の缶を開けて鼻を近づけると、嗅いだことのない、けれどどこか懐かしい花の香りがした。これは後でゆっくり味わおう。

 ポルボロンを一つ手に取って、口に入れる前に三回唱えてみた。

「ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン」

 口に含むと、せっちゃんの言った通り、ほろほろと崩れた。バターと砂糖とアーモンドの素朴な甘さが舌の上に広がって、それは遠い異国の温もりのような味がした。

 次に、もうひとつの箱を開けた。こちらは国内からの速達。送り主の欄には、兄の名前が書かれていた。

 箱の中には、小さな桐箱と、二つ折りにされた一筆箋が入っていた。兄の手紙はいつだって短い。せっちゃんの四分の一にも満たない、けれど一字一字に重みのある言葉が並んでいる。

「イヨリ。誕生日おめでとう。任務の合間にコガネのデパートに寄ったら、お前が好きそうなものを見つけた。腹が減ったら食べろ。あまり無理はするな。兄より」

 たったそれだけ。たったそれだけなのに。

 桐箱を開けると、中には色とりどりの金平糖が詰められていた。淡い桜色、空色、若草色、菫色、それから陽だまりのような薄黄色。どれもこれも春を閉じ込めたような色合いの金平糖が、桐箱の中できらきらと光っている。コガネデパートの銘菓だ。箱の底に添えられた紙には「春限定」の文字がある。

 兄は忙しいのだ。カントー地方で大きな任務があると言っていた。Gメンとしての責務を果たしながら、それでもコガネのデパートに立ち寄って、妹のために春限定の金平糖を選んでくれた。不器用で寡黙な兄なりの精一杯の愛情が、この小さな桐箱に詰まっている。

 パパとママがまだ生きていた頃、家族四人で出かけた先で金平糖を買ってもらうのが楽しみだった。あの頃の私にとって、金平糖は世界でいちばん綺麗なお菓子だった。角砂糖を核にして、何日もかけて少しずつ糖蜜をまぶしていくことで、あの小さな突起が生まれる。金平糖ができあがるまでには、途方もない時間と手間がかかる。そのことを知った時、私はなおさら金平糖が好きになった。

 時間をかけて、少しずつ形になっていくもの。それは、きっと今の私にも通じるものがある。

 金平糖をひとつつまんで、口に含んだ。ほろりと溶けるその甘さは、子どもの頃に食べた味と何も変わらなかった。

 ふと、手元のスマホが震えた。画面を見ると、たくさんの通知が溜まっていた。

 ミナキさんからは「誕生日おめでとう。セツナとパルデアに行く約束をしたが、あちらにスイクンの手がかりがあると聞いた。楽しみにしている」という、お祝いとスイクンの話題が半々のメッセージが届いていた。ミナキさんらしい。

 ジムのイタコさんたちからは連名で「イヨリちゃんお誕生日おめでとうございます! ジムリーダーが朝からソワソワしていたのは秘密です」というメッセージが来ていて、思わず吹き出してしまった。マツバさんがソワソワ。そんな姿は想像するだけで微笑ましい。

 元同僚のジョーイさんたちからも個別にメッセージが届いている。夜勤で一緒だったジョーイさんからは「誕生日おめでとう! 今年のクリスマスはエナジードリンクじゃなくてシャンパンにしようね」と書かれていた。ポケモンセンターでシャンパンを飲んでいいのかは甚だ疑問だけれど、その気持ちが嬉しい。

 ひとつひとつのメッセージを読み返しながら、私は居間に座ったまま、しばらく動けなかった。

 せっちゃんからのハーブティーと焼き菓子。兄からの金平糖。リハビリのスタッフからの焼き菓子。ジョーイさんからの花束。ミナキさんやイタコさんたちからのメッセージ。そして今朝のマツバさんの朝ごはんと「おめでとう」。

 ひとつひとつは小さな祝福だ。けれど、それが幾重にも重なって、今の私を包み込んでいる。

 どうしてだろう。こんなにもたくさんの人が、私のことを想ってくれている。私は特別な人間ではない。特別なことを成し遂げたわけでもない。ただ、ここで生きているだけだ。それなのに、こんなにも多くの人が、私が生まれた日を祝ってくれるのだ。

 金平糖の甘さが、まだ舌の上に残っていた。

 指先で涙を拭って、私はせっちゃんに返信を打ち始めた。

「ありがとう、せっちゃん。ポルボロン、三回唱えたよ。幸せになれるかな」

 送信して、すぐに既読がついた。時差があるはずなのに、せっちゃんは即座に返事をくれた。

「もうなってるよ! だってイヨリの周りにはイヨリのことが好きな人がいっぱいいるんだから。幸せじゃないはずないじゃん」

 せっちゃんのメッセージを読んで、私はまた少しだけ泣いた。二十三歳の、新しい私が始まっていく。幸せじゃないはずない。その言葉が、金平糖みたいに甘く、胸の中で溶けていった。


【四、金色のゆうべ】

 午後の日差しが西に傾き始めた頃、引き戸の向こうから足音が聞こえた。普段の帰宅時間よりもずっと早い。まだ三時を少し過ぎたばかりだ。

「ただいま」

 マツバさんの声だった。宣言通り、本当に早く帰ってきてくれたのだ。私は居間から玄関へと向かった。左足を引きずる分だけ、ほんの少し遅れて辿り着く。

「おかえりなさい。本当に早かったですね」

「言っただろう、今日は特別だって」

 玄関で靴を脱ぎながら、マツバさんはどこか得意そうに微笑んだ。それから、おもむろに背中の後ろに隠していた右手を差し出した。

 手の中にあったのは、鮮やかな黄色の花束だった。ミモザだ。丸い綿毛のような花が枝に鈴なりに連なって、まるで小さな太陽が幾つも集まったかのように明るく輝いている。その金色の花束を見た瞬間、私の中で何かが弾けた。

「入院していた時にさ、一緒に外に出た日があったでしょう。あの時、病院の庭にミモザが咲いてて」

「覚えています」

 もちろん、覚えている。あの日、マツバさんと一緒に病院の敷地内を散歩した。私はまだ点滴を引きずっていて、歩くのもやっとだった。あの時のミモザは、長い冬の終わりを告げるように咲き誇っていて、その明るさに心を掬い上げられたような気がした。あの散歩の帰りに、マツバさんが簪をくれた。白百合の簪を。

「あの日のミモザが綺麗だったなぁって、ずっと覚えていてね。イヨリちゃんの誕生日には、ミモザを贈ろうって思ってたんだ」

 差し出された花束を両手で受け取ると、ミモザの軽やかな甘い香りが鼻先を擽った。花束の重さは驚くほど軽い。けれど、その軽さの中に込められた気持ちの重さを、私は確かに感じ取っていた。

「ありがとうございます、マツバさん。ミモザ、大好きです」

「うん、似合うと思ったんだ。春の花だし」

 マツバさんは照れたように視線を逸らして、紫色のマフラーの端を触った。この人は、こういう瞬間にいつも少年のような仕草をする。堂々としたジムリーダーの姿からは想像もつかない、不器用で真っ直ぐな照れくささ。その姿を見るたびに、好きだという気持ちが胸の中で勢いよく膨らんでいく。

 ミモザの花束をジョーイさんからいただいたミニブーケと一緒に居間に飾ると、部屋がぱっと華やいだ。黄色と淡いピンクと紫の花々が、和室の落ち着いた色合いの中に春の彩りを添えている。

「ねえ、今日の夕飯は僕が作るよ」

「え、朝ごはんだけでなく夕飯も?」

「誕生日だからね。いつもイヨリちゃんに作ってもらってるし、たまには僕にもやらせてよ」

 マツバさんは割烹着を身につけて、意気揚々と台所に立った。割烹着は私が以前から使っていたものだけれど、マツバさんが着ると袖が若干短い。がっしりとした腕が袖口から覗いて、この人は本当に着痩せするのだなと改めて思った。

「何を作ってくれるんですか?」

「うん、イヨリちゃんの好きな、ちらし寿司を作ろうと思って。あと、お刺身と茶碗蒸しも。ジムを出る前にイタコさんが材料を買いに行ってくれてね」

 イタコさんまで巻き込んでいたのか。朝からソワソワしていたのは秘密です、というメッセージの意味がようやく腑に落ちた。マツバさんは私の誕生日のために、ジムのみんなにまで協力を仰いでいたのだ。

「私も手伝いますよ」

「駄目。今日はイヨリちゃんは座ってるだけ。ゲンガーも手伝ってくれるし」

 ゲンガーが影の中からにゅるりと現れて、器用に菜箸を持った。あの手つきは確かに手慣れている。マツバさんとゲンガーは長い付き合いだから、息は合っているのだろう。もっとも、先ほどのつまみ食いを見る限り、ゲンガーの手伝いがプラスに作用するかどうかは甚だ疑わしかったけれど。

 結局、私はテーブルに座って、台所で奮闘するマツバさんとゲンガーの背中を眺めていた。バリヤードが横からそっと調味料の場所を教えてあげている姿が微笑ましい。ゲンガーが味見と称して煮物をつまみ食いした瞬間にマツバさんに見咎められ、ニヤニヤ笑いながら菜箸で軽く叩かれている。賑やかだった。台所がこんなにも賑やかな場所だったなんて、一人暮らしの時には知らなかった。

 ユキメノコがいつの間にか私の隣に佇んでいた。クールな表情で台所の喧騒を眺めている。

「ユキメノコさんは、あちらに加わらないんですか?」

 問いかけると、ユキメノコは小さくため息をついて、首を横に振った。呆れているのだろう。ゲンガーのはしゃぎようは確かに呆れるに値するけれど、その呆れ顔がどことなく慈愛に満ちていて、私は声に出さずに笑った。

 夕食の支度が整ったのは、日が暮れかけた頃だった。テーブルの上には色鮮やかなちらし寿司が大皿に盛られ、その周りを茶碗蒸し、お刺身、筑前煮、あさりのお吸い物が囲んでいる。素人の手によるものとは思えない出来栄えだった。いや、よく見ると錦糸卵の切り方は少々不揃いだし、お刺身の盛り付けも微妙に斜めに傾いている。けれど、不格好な部分にこそ、手作りの温もりが宿っているように感じた。

「わあ、すごい。こんなに作ったの」

「ちょっと張り切りすぎたかも。でも、イヨリちゃんに美味しいって言ってもらいたくて」

 マツバさんはエプロン代わりの割烹着を外しながら、少し恥ずかしそうに頬を掻いた。指先には絆創膏が貼られている。きっと包丁で指を切ったのだろう。朝ごはんの時にはなかった絆創膏だ。

「指、大丈夫ですか?」

「え? ああ、これ。ちょっとね。大したことないよ」

 大したことなくはないだろうに。私のポケモンドクターとしての本能が、すかさず彼の手を取って、絆創膏の下の傷を確認しようとした。浅い切り傷だ。出血は止まっているし、化膿もしていない。大丈夫だけど。

「マツバさん、今度怪我したらちゃんとすぐに消毒してくださいね。台所は雑菌も多いですから」

「はい、先生」

 おどけるマツバさんに、私は苦笑しつつも彼の指先を離せなかった。この温かくて大きな手が、今朝私のために卵焼きを練習して、夕方には私のためにちらし寿司を作って、その過程で小さな傷を負った。馬鹿みたいだ、こんなことで泣きそうになるなんて。でも、私のために傷ついたこの手が、どうしようもなく愛おしかった。

「いただきます」

 向かい合って座り、手を合わせた。ちらし寿司を一口。酢飯の加減がちょうどよくて、甘めの煮物が具材として混ぜ込まれているのが私の好みに合っていた。錦糸卵は見た目こそ不揃いだけれど、ふんわりとした食感で口当たりがいい。海老も一つ一つ丁寧に処理されている。

「美味しいです。本当に美味しい」

「そう? 味付けはジョーイさんに電話して聞いたんだ。イヨリちゃんの好みに近い味付けを知ってるのは、一緒に働いていた人だろうと思って」

 ジョーイさんにまで。この人は、一体どれだけの人を巻き込んで、今日この日のために準備をしてくれたのだろう。

「マツバさん、涙目になってますよ」

「え。嘘、そんなことないよ」

 確かに涙目になっているのは私の方だった。マツバさんに指摘されて、慌てて目元を手の甲で押さえる。

「泣いてるのはイヨリちゃんの方じゃないか」

「だって、嬉しくて」

「嬉しいなら、泣かなくていいのに」

「嬉しいから泣いちゃうんですよ」

 マツバさんは困ったように笑って、テーブルの上のティッシュの箱を私の方へ寄せてくれた。その所作がまた優しくて、ますます涙が溢れそうになる。悪循環だ。でも、幸せの悪循環なら、いくらでも溺れていたかった。

 食事が落ち着いた頃、マツバさんは冷蔵庫から何かを取り出してきた。白い箱だ。

「ケーキも買ってきたんだ。イヨリちゃんはショートケーキが好きだったよね」

 箱を開けると、真っ白なクリームに苺が飾られたホールのショートケーキが現れた。その上には、チョコレートプレートに「おたんじょうびおめでとう」と手書きの文字が書かれている。あまりにも素直な文面に、思わず頬が緩んだ。

「ジムの帰りに、エンジュで一番美味しいって評判のお店で買ってきたんだ。チョコプレートの文字は自分で書いたよ」

 だから少し歪んでいるのか。「め」の字が若干潰れていて、「う」の字が微妙に大きい。でも、それがいい。既製品の完璧な文字よりも、マツバさんが書いたこの不格好な文字の方が、ずっとずっと私の心に響く。

 蝋燭を一本立てて、マツバさんが火を灯してくれた。居間の照明を少し落とすと、蝋燭の小さな炎が揺れて、マツバさんの横顔をオレンジ色に照らした。

「願い事、してから吹き消して」

 私は目を閉じて、願い事をした。何を願ったかは、言わない方がいいのだろう。願い事は口にしたら叶わないと、子どもの頃に誰かに教わった気がする。

 ふう、と息を吹きかけると、小さな炎が揺れて消えた。一瞬だけ、蝋燭から立ち上る細い煙が、暗がりの中で白い糸のように夜空へと伸びていった。

「おめでとう、イヨリちゃん」

 何度目かの「おめでとう」だった。だけど、暗がりの中でマツバさんが言うその言葉は、朝の明るい台所で聞いたものとはまた違う温度を持っていた。静かで、深くて、胸の一番奥の方まで沁み込むような。

 ケーキを切り分けて、二人で食べた。マツバさんはいつも通り甘いものを半分残して私に譲ろうとするので、私はいつも通りそれを遠慮なく受け取った。この遠慮のなさだけは、この三週間で身につけた数少ない成果だ。


【五、いちばんの贈り物】

 食後、私はハーブティーを淹れた。いつものカモミールとレモンバームのブレンドではなく、せっちゃんがパルデアから送ってくれた「アンダルシアの休息」を開封した。マツバさんにも飲んでもらいたかったのだ。

 茶葉をポットに入れてお湯を注ぐと、見たこともない深い琥珀色の液体が広がっていった。ラベンダーに似た、けれどもっと温かみのある花の香りが湯気に乗って立ち上る。二人分のカップに注ぎ分けて、テーブルに運んだ。

「せっちゃんがパルデアから送ってくれたんです。『アンダルシアの休息』というハーブティーだそうで」

「へぇ、素敵な名前だね。セツナさんは元気にしてるかい?」

「とっても元気みたい。パルデアリーグの一次面接にも挑んだらしくて」

「流石だねぇ。あの子は本当にバイタリティがある」

 マツバさんは感心したように相槌を打ちながら、カップに口をつけた。目を閉じて、味わうように一口。それからゆっくりと目を開けて、こう言った。

「美味しい。イヨリちゃんのブレンドとはまた違った良さがあるね。セツナさんに感謝だ」

 マツバさんがそう言ってくれたことが、なんだか自分のことのように嬉しかった。せっちゃんの選んだものを、大切な人が「美味しい」と言ってくれること。それは、私の大好きな人たちが繋がっている証のようで、温かかった。

 お兄ちゃんからもらった金平糖の桐箱を持ってきて、テーブルの上に置いた。蓋を開けると、春の色をした金平糖が蝋燭の残り火のような居間の照明を受けて、宝石のようにきらきらと光る。

「お兄ちゃんから。コガネデパートの春限定だそうです」

「お兄さん、忙しいのにわざわざ。相変わらず不器用だけど優しいね」

「そうなんです。手紙なんて、たった三行ですよ。でも、それがお兄ちゃんらしくて」

 マツバさんは金平糖をひとつ摘まんで、しげしげと眺めた。薄桃色の金平糖を光に透かすその仕草が、まるで宝石を鑑定する職人のようで、私はくすりと笑ってしまった。

「綺麗だな。金平糖って、出来上がるまでにすごく時間がかかるんだってね」

「そうなんです。二週間以上かかるものもあるそうです。少しずつ、少しずつ、糖蜜を重ねていって」

「イヨリちゃんみたいだね」

「え?」

「少しずつ、少しずつ、時間をかけて。ちゃんと自分の形を作っていく。金平糖もイヨリちゃんも、すぐには出来上がらないけど、出来上がった時にはちゃんと綺麗で、甘いんだ」

 マツバさんは時々、こういう、不意打ちのようなことを言う。本人にそのつもりはないのかもしれない。けれど、何気なく放たれた言葉が、まっすぐに私の胸の真ん中を射抜く。私は返す言葉を見つけられず、熱くなった頬を誤魔化すように、ハーブティーのカップに両手を添えた。カップ越しに伝わる温もりが、指先から身体中に広がっていく。

 窓の外は、すっかり夜の帳が下りていた。エンジュの夜は静かだ。都会のコガネシティのような喧騒もなく、観光客も宿に戻った時間帯には、虫の鳴き声と、遠くのスズの塔から微かに聞こえる風鳴りだけが夜を満たしている。

 マツバさんがふいに、落ち着いた声で尋ねた。

「イヨリちゃん。何かしてほしいこと、ある?」

 その問いかけは、穏やかだった。何の気負いもない、自然な問いかけ。けれど、その言葉を受け取った私の中で、何かがゆっくりと動き始めた。

 何かしてほしいこと。

 思い返せば、私はこれまでの人生で「してほしい」と口にしたことが殆どない。人に頼ることが苦手だった。甘えることが苦手だった。「助けて」の一言が言えなかったことで、取り返しのつかないことを引き起こした過去がある。だからこそ、私は一人で抱え込み、一人で処理し、一人で立ち上がることを選んできた。

 せっちゃんは手紙にこう書いてくれた。「マツバ君にちゃんと甘えなさいよ」と。甘え方が分からなかったら電話してこいと。海外だけど出るからと。

 甘える、ということ。

 わがままを言う、ということ。

 それは私にとって、崖から飛び降りるのと同じくらいの勇気を必要とする行為だった。

 マツバさんは、私の答えを急かすことなく待ってくれていた。カップの中のハーブティーの水面が微かに揺れている。私の手が震えているのだと気付いたのは、しばらく経ってからだった。

 深呼吸を、ひとつ。肺の奥まで春の夜の空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。テーブルの上に並ぶ金平糖の色彩が、涙で滲んだ視界の中できらきらと瞬いた。

「あの、マツバさん」

「うん」

「わがままを言っても、いいですか」

 マツバさんは一瞬だけ目を丸くして、それからすぐに柔らかく微笑んだ。

「もちろん。何でも言って」

「……笑わないでくださいね」

「笑わないよ」

 私は覚悟を決めた。たった一言が、こんなにも重い。「助けて」が言えなかった少女の私が、十二年の歳月をかけて、ようやく誰かに差し出す「お願い」。

「私、これまでずっと、遠慮ばかりしていました」

 声が震えてもいい。格好悪くてもいい。今日という日に、今この瞬間に、言わなければならないことがある。

「迷惑をかけたくないからって、一人で頑張ろうとして。助けてって言えなくて。欲しいものがあっても、我慢して。食べたいものがあっても、何でもいいですって言って。本当は寂しいのに、大丈夫ですって笑って」

 テーブルの上に置いた私の手に、マツバさんの手がそっと重なった。大きくて温かい手。包丁で小さな傷を作った、不器用で優しい手。その手の温度が、私の震えを少しだけ鎮めてくれた。

「でも」

 長い、長い沈黙の後に、私は言った。

「これからは、甘えても、いいですか」

 声が裏返りそうになるのを堪えた。面と向かってこんなことを言うのは、世界で一番恥ずかしい行為だと思う。顔が燃えるように熱い。マツバさんの顔をまともに見ることができなくて、私は俯いたまま金平糖の桐箱を見つめていた。

「わがまま、言ってもいいですか。困っていたら、助けてって、言ってもいいですか。寂しかったら、そばにいてほしいって、言ってもいいですか」

 それが、私の精一杯のわがままだった。

 マツバさんの手が、私の手を強く握った。強く、けれど優しく。握り締められた手の中に、マツバさんの温度が流れ込んでくる。

 顔を上げると、マツバさんの紫の瞳が、蝋燭のように仄かに揺れていた。

「当たり前だよ」

 マツバさんの声は震えていた。笑わないと言った通り、笑ってはいなかった。けれど、その目尻には光るものが浮かんでいて、私は私以上にマツバさんが泣きそうになっていることに気付いた。

「当たり前じゃないか。甘えていいに決まってる。わがまま、もっと言ってよ。困った時は助けてって言ってよ。寂しい時はそばにいてほしいって言ってよ。僕はずっとさ、イヨリちゃんにそう言ってほしかったんだ」

 マツバさんの声がだんだんと熱を帯びていく。

「イヨリちゃんはいつも一人で頑張ろうとするから。泣きたい時だって我慢するし、辛い時だって笑おうとするし。僕はそれが、ずっと苦しかったんだ。もっと僕を頼ってほしいって、もっと僕に甘えてほしいって、ずっと思ってた。でも、イヨリちゃんのペースがあるから、強制はしたくなくて」

 ああ、この人はやっぱり。

「だからさ。イヨリちゃんの方からそう言ってくれて、僕は……うん、僕は嬉しい。すごく、嬉しいよ」

 最後の方は、もうほとんど涙声だった。マツバさんが泣いている。私のわがままに応えて、嬉し泣きしてくれている。この人は本当にどこまでもまっすぐで、どこまでも温かくて、どこまでも私のことを想ってくれている。

 私は立ち上がって、テーブルを回り込み、マツバさんの隣に座った。左足が少しもたつく。でも構わなかった。もたつく足取りのまま、彼のそばへ行きたかった。完璧でなくていい。格好悪くていい。この人の隣に、いたい。

 マツバさんの肩に、そっと頭を預けた。肩の骨の硬さと、その下にある筋肉の温かさが、頬を通じて伝わってくる。マフラーの代わりに首元に掛けたストールから、この人の匂いがした。お香のような、静かで深い匂い。三週間前からこの匂いの中で眠りにつくようになって、いつしかこの匂いが世界で一番安心できる匂いになっていた。

「マツバさん」

「うん」

「わがまま、もうひとつ言ってもいいですか」

「いくつでも」

「今日、私が生まれてきた日を、マツバさんに祝ってもらえて、本当に嬉しかったです。だから。来年も、再来年も、その先もずっと。私の誕生日を、マツバさんに祝ってもらえたら嬉しいです。ずっと。私の隣にいてくれたら、嬉しいです」

 声に出すのが恥ずかしくて、最後はほとんど囁くような声量になってしまった。それでもマツバさんはちゃんと聞いてくれていた。私の頭の上に、マツバさんの顎がそっと乗る。彼の呼吸が、髪を通じて温かく感じられた。

「僕の方こそ。イヨリちゃんが隣にいてくれる限り、毎年、お誕生日も何でもない日も、全部全部、大事にするよ。僕はイヨリちゃんの隣にいたいんだ。ずっと前からそう思っていたし、これからもずっとそう思ってるよ」

 マツバさんの腕が、ゆっくりと私の肩に回された。抱き寄せられると、彼の心臓の音が聞こえた。とくん、とくん、と。少しだけ早い、一定のリズム。こんなにも穏やかな夜なのに、マツバさんの心臓はいつもより少しだけ速い。照れているのか、緊張しているのか、嬉しいのか。たぶん、全部だ。

 私の心臓も同じくらいの速さで鳴っている。二つの心臓の音が重なって、静かな春の夜に溶けていった。

「泣いてる?」

 マツバさんが聞いた。

「泣いてません」

 嘘だった。マツバさんのシャツの肩口に、小さな染みが広がっていくのが分かった。

「泣いてるじゃないか」

「泣いてません。目から汗が出てるだけです」

「その言い訳、前にも聞いたことがある気がするな」

 マツバさんが笑った。笑いながら、私の頭をそっと撫でてくれた。大きな手が、髪の上を滑っていく。労わるように、慈しむように。

 テーブルの上では、ハーブティーがすっかり冷めていた。桐箱の中の金平糖が、静かな光を浴びてきらきらと輝いている。ミモザとスイートピーの花束が、かすかに揺れている。

 それは、たくさんの人の想いが形になった誕生日だった。せっちゃんの手紙と異国のハーブティー。兄の金平糖と三行の手紙。リハビリのスタッフの焼き菓子。ジョーイさんのミニブーケ。ミナキさんのメッセージ。イタコさんたちの連名メール。そしてマツバさんの卵焼きと、ミモザの花束と、ちらし寿司と、ケーキと、「おめでとう」という言葉。

 どれひとつとして、同じ「おめでとう」はなかった。それぞれの人が、それぞれのやり方で、私という人間が生きていることを祝福してくれた。

 金平糖のように、時間をかけて、少しずつ形になっていくもの。

 私の幸せも、きっとそういうものなのだと思った。一朝一夕では出来上がらない。たくさんの人の温もりが、少しずつ少しずつ重なっていって、いつしかひとつの形になる。不格好で、歪で、角のある形。でも、角砂糖が金平糖に変わるとき、気の遠くなるような時間がかかるように、私の幸せもまた、長い長い時間をかけて、ようやくここに辿り着いたのだ。

 マツバさんの腕の中は温かかった。

 窓の外ではエンジュの夜桜が、街灯に照らされてぼんやりと浮かび上がっている。四月四日の夜は、穏やかに更けていく。明日も、明後日も、一年後も十年後も、こうして隣にいてほしいと願った。わがままだと分かっている。でも、わがままを言ってもいいと、この人が言ってくれたから。

「マツバさん」

「ん?」

「お誕生日、ありがとうございました。今日が、人生でいちばん幸せな誕生日でした」

「そうだね。でもさ、来年はもっと幸せにするよ。再来年は、もっともっと」

「欲張りですね」

「イヨリちゃんにだけは言われたくないな」

 鼻先をこすり合わせるくらいの距離で笑い合って、私たちの四月四日は終わった。

 テーブルの上に残された金平糖が、二人の笑い声の余韻の中で、いつまでもきらきらと光っていた。