仕事が長引いた。
ジムの挑戦者が立て続けに来て、最後の一人が帰ったのは午後九時を回っていた。ゲンガーの欠伸が大きくなっていて、ジュペッタもムウマもとっくにボールの中で丸まっている。マツバは行燈を一つずつ消して回り、ジムの裏口から夜の中に出た。
十一月のエンジュシティは、もう冬の気配がする。
吐く息が白い。石畳が冷えている。空を見上げると、雲のない夜空に星が散りばめられている。いつもなら千里眼で遠くの気配を感じるところだが、今日は使わなかった。疲れているわけではない。ただ——早く帰りたかった。千里眼より先に、自分の足が家に向かっていた。
商店街を抜ける。和菓子屋は暖簾を下ろしている。八百屋のシャッターが降りている。金木犀の季節はもう終わって、代わりに冷たい空気の中に、どこかの家の夕飯の名残——味噌汁の匂いだろうか——が微かに漂っている。
マツバは歩きながら、ポケギアを確認した。イヨリからの最後のメッセージは午後七時に届いていた。
「チヒロ、お風呂入りました。ご機嫌でした。今からミルクです」
その下に写真が一枚。湯上がりのチヒロが、タオルに包まれて目を丸くしている顔。黒い髪が濡れて額に貼りついている。頬が桃色に上気している。母親譲りの大きな右目が、カメラを不思議そうに見つめている。
マツバは歩きながら、その写真を三回見た。三回見て、三回とも口元が緩んだ。ポケギアをしまおうとして、やっぱりもう一回見た。四回目だ。四回目でも、口元は緩んだ。
自宅の門が見えた。引き戸の隙間から、微かな灯りが漏れている。行燈の灯り。居間のだ。
玄関の鍵を開けた。
「ただいま」
声を出して、すぐに気づいた。返事がない。
いつもなら、どんなに小さな声でも、イヨリは「おかえりなさい」と返事をくれる。台所にいても、二階にいても、物音で帰宅を察して、必ず声をかけてくれる。それがない。
靴を脱いで、廊下を歩いた。居間の襖が少しだけ開いている。行燈の灯りが、廊下に細い橙色の線を引いている。
襖をそっと開けた。
そして——息が、止まった。
居間のこたつの横に、布団が敷いてあった。
イヨリが使っている薄い敷布団。その上に、掛け布団が一枚。わずかに乱れた裾から、小さな足が一つ——チヒロの足が、はみ出している。
そしてその隣に、イヨリが横たわっていた。
チヒロを左腕の中に抱いて、右手をチヒロの背中に添えて、二人で布団の上に丸まって眠っている。チヒロの顔はイヨリの胸元に埋まっていて、小さな拳がイヨリのパジャマの襟元をきゅっと握っている。イヨリの顎がチヒロの頭の上に乗っていて、黒い髪と黒い髪が混ざり合っている。
行燈の灯りが、その二人を橙色に照らしている。
マツバは——襖を開けたまま、動けなかった。
息ができなかった。いや、正確には、息をすることを忘れていた。目の前の光景が——あまりにも、あまりにも美しくて、呼吸という行為が意識の外に消えていた。
天使だ、と思った。
天使が二人、眠っている。
チヒロの寝顔を見た。丸い頬。閉じた瞼の上に、長い睫毛が影を落としている。小さな鼻。小さな唇。少し開いた口から、規則正しい寝息が漏れている。生後五ヶ月の、壊れそうなほど柔らかい生き物。
そしてその寝顔が——イヨリに似ている。
目元が、同じだった。閉じた瞼の形。睫毛の長さ。眉の角度。頬の丸みから顎にかけての輪郭線。口元の、力が抜けた時の柔らかさ。全部が、イヨリだった。
チヒロの寝顔の隣に、イヨリの寝顔がある。母親と息子が、ほとんど同じ表情で、ほとんど同じ角度で首を傾けて、同じリズムで呼吸している。二つの寝顔が、鏡のように向かい合っている。大きい天使と、小さい天使。小さい方は大きい方のコピーのように精巧で、でもスケールだけが違う。
マツバの膝から、力が抜けた。
音を立てないように、その場にしゃがみ込んだ。
しゃがみ込んだまま、マツバは二人の寝顔を見つめていた。
目が離せなかった。
イヨリの寝顔を、マツバは何百回と見ている。結婚してから二年と少し。毎晩、隣で眠る妻の寝顔を見てきた。寝る前のイヨリの習慣——右手で左手の指を一本ずつ曲げて、今日あった良いことを数える癖——が終わって、最後に「おやすみなさい」と呟いて目を閉じて、呼吸が深くなっていく過程を、何百回と見てきた。
だが、チヒロと並んで眠るイヨリは——いつもとは違って見えた。
母親の顔だった。
イヨリの右腕が、チヒロの背中に巧みに回されている。チヒロが寝返りを打っても落ちないように。チヒロが寒くないように。チヒロの鼻が塞がらないように。眠りながらも、身体が自動的にチヒロを守る構えをとっている。
それは技術ではない。本能だ。母親の本能が、眠っている間もチヒロを包んでいる。
マツバは、イヨリの手を見た。右手がチヒロの背をつかんでいる。細い指。薄い爪。左手は、チヒロの足元に置かれている。その左腕の肘から下には、銀色の腕輪型の医療用デバイスが装着されている。金属の冷たさがチヒロに触れないように、わざと少しだけ離してある。眠りながらも、デバイスの位置を調整している。
その配慮が——マツバの胸を、内側からえぐった。
イヨリは、自分の身体に残る過去の傷跡や、左腕のデバイスを、チヒロに対して決して負担にしない。全部を隠すのではなく、チヒロに不快な思いをさせないように、静かに、用心深く、調整している。起きている時も、眠っている時も。意識的にも、無意識的にも。
マツバは目を閉じた。
目を閉じると、千里眼が微かに反応した。普段は意図的に使わないと発動しない能力が——今だけは、勝手に動いた。千里眼の視界の中に、二つの気配が見えた。
一つは、温かくて、清らかで、小さな灯りのような気配。チヒロだ。生まれて五ヶ月の、純粋な命の気配。まだ何の傷も、何の曇りもない、生まれたてのろうそくの炎のような存在。
もう一つは、複雑だった。温かいけれど、深い。明るいけれど、影がある。美しいけれど、壊れたことのある美しさ。ひびの入った陶器を金で継いだような——傷があるからこそ、より一層輝いている存在。イヨリだ。
二つの気配が、重なっていた。母の気配が子を包み、子の気配が母に寄り添っている。互いの温度が混ざり合って、布団の上に一つの小さな光を作っている。
マツバは千里眼を閉じた。目を開けた。
行燈の灯りに照らされた二人が、そこにいた。
涙が出た。
静かに。音もなく。ただ、目の奥が熱くなって、頬を一筋の涙が滑り落ちた。悲しいのではない。苦しいのではない。ただ——あまりにも美しいものを見た時に、人間の心は泣くようにできているのだと、マツバはこの瞬間に知った。
マツバは、手を伸ばした。
チヒロの頭に、そっと触れた。黒い髪。湯上がりの名残で、まだ少しだけしっとりしている。指先に、チヒロの体温が伝わってきた。三十七度。赤ん坊の体温は高い。その熱が、マツバの指の腹から掌へ、掌から手首へ、手首から腕へと伝播していく。
チヒロが、わずかに身じろぎした。マツバの指の感触に反応したのか、眉がぴくりと動いて、口が動いて——けれど目は開かなかった。夢の中で何かを探すように、小さな手をもぞもぞと動かして、イヨリのパジャマの襟元をさらに強く握り直した。
その仕草が、イヨリに似ていた。
イヨリは眠る時、マツバのパジャマの袖を握る癖がある。無意識に。夢の中でも、マツバの存在を確認するように、指先が布地を探る。初めてそれに気づいた夜、マツバは心臓が破裂するかと思った。
チヒロも同じことをする。母親の服を握って、安心して、もっと深い眠りに落ちていく。親子だ。同じ血が、同じ癖を作っている。
マツバは、チヒロの手を見た。小さな手。指が五本、完璧に揃っている。爪が透明で、指の一本一本が、信じられないくらい小さい。この手が大きくなったら、何を掴むのだろう。何を握るのだろう。誰の手を引くのだろう。
この手を守りたい、と思った。
この手と、この手の持ち主と、この手が今握りしめているパジャマの持ち主を。全力で。全存在で。千里眼も、ゴーストタイプの技術も、修行で鍛えた精神力も、全部をこの二人のために使いたい。
マツバの視線が、チヒロからイヨリに移った。
イヨリの寝顔。行燈の灯りが、右頬を橙色に染めている。左頬は影の中にある。その肌には、過去の手術の跡が薄く残っている。
マツバは知っている。イヨリがその傷を負った経緯を。十二歳の時に何があったかを。あの夜以来、イヨリが時々見る悪夢のことを。左腕のデバイスを調整しながら、夜中に飛び起きて、声も出せずに震えている時の、イヨリの心拍数のことを。
そしてマツバは知っている。イヨリがその傷を乗り越えて——いや、傷と共に生きることを選んで、ポケモンドクターになったことを。無数の傷跡が残る生身の身体で、それでも他者を助ける道を選んだことを。チヒロをこの腕に抱くために、命がけの出産をしたことを。
イヨリの右目の下に、微かな隈がある。チヒロの夜泣きで眠れない夜が続いている。昼間はポケモンセンターで働き、帰宅後はチヒロの世話をし、合間に家事をこなし、夜中に泣き出すチヒロをあやし、朝が来ればまた仕事に向かう。それを文句一つ言わずに続けている。
疲れているはずだ。眠いはずだ。しんどいはずだ。
なのにイヨリは、マツバが帰宅する時、必ず笑って迎えてくれる。「おかえりなさい」と言って、お茶を淹れてくれて、今日のチヒロの様子を話してくれる。チヒロが新しいことをした日は——寝返りを打った日は、おもちゃに手を伸ばした日は、初めて声を出して笑った日は——興奮を抑えきれない様子で報告してくれる。普段は感情を表に出さないイヨリが、チヒロのことだけは、嬉しそうに、誇らしそうに話す。
その姿が、マツバには——たまらなく愛しかった。
世界中の何を差し出しても、この二人には足りない。千里眼で見通せる全ての距離を合わせても、この二人への愛の深さには及ばない。
マツバは思った。
僕は——この二人のためなら、何でもできる。何にでもなれる。ジムリーダーであることも、千里眼の使い手であることも、修行者であることも、全部が——この二人を守るための道具に過ぎない。
チヒロの寝顔を、もう一度見た。
イヨリに似ている。本当に、よく似ている。
鼻の形だけは少しだけマツバに似ているかもしれない。でも、目元、口元、頬の丸み、耳の形、額の広さ、全部がイヨリだ。黒い髪もイヨリ譲りだ。寝ている時の表情の作り方も。眉をわずかに顰めて、でも口元はゆるく開いていて、どこか考え事をしているような寝顔ことも。
この子が大きくなったら、きっとイヨリのように美しい子になるだろう。
そして——イヨリのように、不器用で、寡黙で、でも芯の通った人間になるだろう。困っている人を放っておけない性格。自分の痛みより他者の痛みに敏感な心。言葉より行動で愛を示す生き方。
それは——イヨリがイゴウさんから受け継いだものだ。
イヨリの父。マツバが会うことは叶わなかった、無口で不器用な整体師。イヨリが「パパ」と呼ぶ、あの人。イヨリの中に生きている、あの温もりの源泉。
チヒロの中にも、それは流れている。イゴウさんからイヨリへ。イヨリからチヒロへ。言葉にならない愛情が、血液のように、遺伝子のように、世代を超えて流れている。
マツバは——その流れの中に、自分も入りたいと思った。
マツバ家の男として。チヒロの父として。イヨリの夫として。イゴウさんが築いた「沈黙の愛」の系譜に、自分なりの方法で加わりたい。
イゴウさんは、手の温もりで愛を伝えた。イヨリは、行動で愛を伝えた。
では、マツバはどうだ。
マツバには千里眼がある。千里先を見通す目がある。ならば——この目で、家族の安全を見守ろう。どこにいても。どんなに離れていても。イヨリとチヒロの気配を感じ取って、危険があれば駆けつけて、平穏であればそっと見守って。
それが、マツバの愛の形だ。
千里眼は、かつては修行の果てに手に入れた特殊能力だった。霊的な存在を感知し、距離を超えて視る力。だが今は——違う。この力の本当の意味は、家族のためにあったのだ。
千里先を見通せる目は、千里先にいる家族を守るための目だ。
イヨリが怖い夢を見て震えている夜、マツバはいつも千里眼で気づく。隣の部屋でチヒロが泣き出す二秒前に、マツバの千里眼が反応する。それは意識的なものではない。身体が覚えてしまった。家族の気配の変化を、呼吸よりも先に感じ取る。
その力を、一生、この二人のために使おう。
マツバは、静かに誓った。
どれくらいの時間が経ったのか分からない。
五分か。十分か。あるいは三十分か。マツバは布団の横にしゃがみ込んだまま、二人の寝顔を見つめ続けていた。
行燈の灯りが少し弱くなっていた。油が減っているのかもしれない。橙色の光が揺れて、二人の顔に柔らかい陰影を作っている。影が動くたびに、チヒロの睫毛が光を受けて金色に輝く。イヨリの黒髪が、光を吸い込んで深い藍色に見える。
チヒロが、夢の中で笑った。
口の端が、きゅっと持ち上がった。社会的微笑——イヨリならそう説明するだろう。だがマツバには、チヒロが夢の中で何か幸せなものを見ているとしか思えなかった。
何を見ているのだろう。生後五ヶ月の赤ん坊の夢に、何が映っているのだろう。
母親の顔だろうか。ミルクの味だろうか。お風呂の温かさだろうか。ゲンガーのおどけた顔だろうか。
マツバは思った——きっと、全部だ。チヒロの世界は、まだ小さい。イヨリの腕の中と、この家と、ジムと、商店街。それだけの小さな世界に、愛と温もりが溢れている。だから夢の中でも笑うのだ。
この世界を、壊させない。
誰にも。何にも。どんな脅威にも。どんな不条理にも。
イヨリが十二歳の時に経験したような——あの悪夢のような出来事が、チヒロの人生に起こることを、マツバは絶対に許さない。千里眼で全ての方角を見張って、ゴーストタイプの全てを動員して、修行者としての全ての力を使って、この小さな世界を守り抜く。
チヒロの笑顔は、守られるべきだ。イヨリの寝顔は、守られるべきだ。この二人が安心して眠れる夜は、守られるべきだ。
それを守ることが——マツバの、夫としての、父としての、一生の仕事だ。
イヨリが、目を覚ました。
正確には、半分だけ覚めた。右目が薄く開いて、ぼんやりとマツバの輪郭を捉えた。
「……マツバ、さん?」
寝ぼけた声だった。普段の抑制された声ではない。低くて、掠れていて、甘えを含んだ、寝起きの声。
「うん。おかえり——じゃなくて、僕がただいま、だね」
「……おかえり、なさい」
イヨリの右目が、マツバの顔を見つめた。暗い部屋の中で、行燈の光を受けて、右目だけがきらりと光った。
「チヒロは?」
「寝てるよ。すごくぐっすり」
「……そう。よかった。お風呂の後、ミルク飲んで……そのまま……」
イヨリの瞼が重くなっている。落ちかけている。チヒロを抱いたまま、寝落ちしたのだ。
「イヨリちゃん」
「……ん」
「僕も入っていい?」
イヨリが、微かに笑った。控えめな、でも確かな微笑み。
「……どうぞ」
マツバは羽織を脱いだ。帯を解いて、着物を脱いで、寝間着に着替えた。洗面所で顔を洗って歯を磨いて、居間に戻った。
布団の中に、そっと潜り込んだ。チヒロの反対側——イヨリの右側に。イヨリの背中に自分の腹をつけて、右腕をイヨリの腰に回した。
三人になった。
チヒロがイヨリの胸元に。イヨリがマツバの腕の中に。マツバの手がイヨリの腹の上で止まり、その手をイヨリの右手が覆った。
三人の体温が、一つの布団の中で混ざり合った。
「イヨリちゃん」
「……はい」
「今日の報告。チヒロの写真、四回見た」
「……四回も?」
「可愛かったから」
「……ふふ」
イヨリの笑い方が、寝ぼけていて、いつもと違う。警戒心のない笑い方。無防備な笑い方。チヒロと同じくらい、小さくて柔らかい笑い方。
「イヨリちゃん」
「……ん」
「チヒロが、君に、すごく似てる」
「……よく、言われます」
「目元が同じ。寝顔も同じ。服を握って寝る癖も同じ」
「……癖は……私のせいですか」
「うん。多分。遺伝的に」
「……困りますね、そういうの」
「困らないよ。最高だよ」
マツバはイヨリの髪に顔を埋めた。シャンプーの匂い。ラベンダーの匂い。その奥に、イヨリ自身の匂い——マツバにしか分からない、柔らかくて、少しだけ甘い、イヨリの匂い。
「天使が二人、眠ってたよ」
「……誰が天使ですか」
「イヨリちゃんとチヒロ。並んで寝てるところ見て——僕、泣いちゃった」
「えっ……泣いたんですか?」
「うん。綺麗すぎて」
イヨリの身体が、わずかに硬くなった。それから——ゆっくりと、溶けるように力が抜けた。
「……私は天使じゃないです。身体中に傷跡があって、左腕にはこんな人工的な機械がついていて」
「だから天使なんだよ」
「意味が分かりません」
「傷があるから——美しいんだよ。痛みを知っているから、強いんだよ。生身の身体で全てを受け止めて、チヒロを抱いて眠るイヨリちゃんは、この世で一番綺麗だった。僕の千里眼は、たくさんのものを見てきたけど——あの寝顔より美しいものは、見たことがない」
沈黙。
長い沈黙。
イヨリの右手が、マツバの手を握り返した。強く。細い指が、マツバの指と指の間に潜り込んで、きつく絡みついた。
「……ずるい」
声が——震えていた。
「……そういうこと言うの、ずるい」
「ずるくていい。何回でも言う」
「……何回も言わないでください。泣きます」
「泣いてもいい」
「……もう泣いてます」
マツバは、イヨリの手をさらに強く握った。左手の薬指の指輪が、イヨリの薬指の指輪に触れた。プラチナの冷たい金属が、二人の体温で温まっていく。
「イヨリちゃん」
「……はい」
「僕は——この家族を守る。千里眼で全部見えなくても、ゴーストで全部防げなくても、それでも、僕は全力で守る」
「……知ってます」
「知ってる?」
「はい。マツバさんがそう思ってることは、最初から知ってます。千里眼で覗かなくても分かります。だって——目を見れば、分かりますから」
マツバは、言葉を失った。
千里眼は、千里先を見通す力だ。だがイヨリは——千里眼なしで、マツバの心の奥底を見透かしている。
「イヨリちゃん」
「……ん」
「君は、千里眼より上だ」
「……何ですか、それ」
「そのまんま」
チヒロが、二人の間で小さく身じろぎした。夢の中で何かを探すように手を伸ばして——マツバの指に触れた。小さな指が、マツバの人差し指を握った。
三人の手が繋がった。
チヒロの小さな手が、マツバの指を握っている。マツバのもう片方の手が、イヨリの手を握っている。イヨリの腕が、チヒロを包んでいる。三人の温度が、一つの円を描いている。
行燈の灯りが、最後に一度だけ大きく揺れて——静かに安定した。
橙色の光の中で、三人は眠りに落ちていった。
マツバの最後の意識は——二人の寝息だった。大きい天使と、小さい天使。母親と息子。まったく同じリズムで、まったく同じ深さで呼吸している二人の寝息。
その寝息より美しい音楽を、マツバは知らない。
エンジュの夜は深く、行燈の灯りは温かく、布団の中の三角形は——完璧だった。
了