エンジュシティ東区の町内会館は、築四十年の木造建築だ。
畳の大広間に折り畳み式のテーブルが並んでいて、天井の蛍光灯が一本だけチカチカしている。壁には「エンジュシティ東区自治会」の額がかかっていて、その横に年間行事予定表と不審者情報の掲示板がある。畳は少し擦り切れていて、入り口にはスリッパが雑然と並んでいる。休日の午後四時、冬の日差しが障子越しに柔らかく差し込んでいた。
マツバは奥のテーブルに座っていた。
正確に言えば、「座らされていた」に近い。
町内会の定例会議。年末の餅つき大会の打ち合わせ。ジムリーダーという肩書は、この場では何の役にも立たない。むしろ逆だ。「ジムリーダーさんが来てくれるなら客寄せになる」という理由で、マツバは毎年この会議に出席させられている。
テーブルの向かいに、七十代の町内会長・ゲンベエさんが座っている。横に副会長のトメさん。その隣に会計のゴロウさん。全員がお茶を飲みながら、のんびりとした空気を漂わせている。
議題は餅つき大会の日程と担当者の振り分けだった。マツバは手元の資料に目を落としている。今年は十二月の第二日曜日。場所は町内会館の前庭。準備委員長は——
「マツバさん、今年も餅つきの手伝い、お願いしますよ」
ゲンベエさんが言った。穏やかな声だ。
「はい。喜んで」
「去年は見事な杵さばきでしたなぁ。さすがジムリーダーは力が違う」
「いえ、あれはゴーストタイプの訓練で腕力を——」
「ゴーストで餅をつく男は初めて見たよ」
ゴロウさんが笑った。周りのおじさんたちもつられて笑う。マツバも小さく笑った。こういう和やかな空気は嫌いではない。エンジュの東区は古い住宅街で、顔なじみが多い。マツバが子どもの頃から知っている人もいる。
「ところでマツバさん」
トメさんが湯呑みを持ったまま身を乗り出した。
「お子さん、大きくなったでしょう」
「はい。もう七ヶ月になりました」
「七ヶ月! 早いもんだねぇ。男の子だったよね」
「はい。チヒロといいます」
マツバの声のトーンが、わずかに変わった。「チヒロ」と口にした瞬間、それまでの丁寧な敬語の中に、蜜のような甘さが一滴、混ざった。口角が自然に上がる。目元が緩む。本人はまったく気づいていない。
テーブルの向こう側で、ゲンベエさんとゴロウさんが目配せをした。「また始まった」とでも言いたげな、呆れと微笑みが半分ずつの目配せだ。
マツバのこの症状——チヒロの名前を出すと無意識に顔がとろけるという症状——は、東区の町内会ではすでに周知の事実だった。
会議は滞りなく進んだ。
餅つき大会の担当が決まり、予算の確認が終わり、年末の大掃除のスケジュールが共有された。マツバは几帳面にメモを取りながら、時折ポケギアで時間を確認していた。
午後四時三十五分。
まだ大丈夫だ。チヒロの沐浴は午後五時半からだ。イヨリが準備をしているはずだが、沐浴自体はマツバがやると決めている。決めている、というより——やりたいのだ。どうしても。
チヒロの沐浴は、マツバにとって一日の中で最も神聖な時間だった。
ベビーバスにぬるま湯を張って、チヒロの服を一枚ずつ脱がせて、ゆっくりとお湯に入れる。最初は「うひゃ」という顔をするチヒロが、お湯に慣れてくると手足をバタバタさせ始める。指の間を一本ずつ洗う。耳の後ろを丁寧に拭く。頭の柔らかい黒髪を——イヨリ譲りの、さらさらの黒髪を——泡で包んで、流す。
その間、チヒロはマツバの顔をじっと見つめている。七ヶ月の目で、真剣に、父親の顔を見ている。何を考えているのか分からない。でも確実に、目の焦点がマツバに合っている。その視線が——マツバの心臓を、毎日、毎日、貫通する。
沐浴が終わると、タオルで包んで、イヨリに渡す。イヨリが保湿剤を塗って、新しい服を着せて、ミルクを飲ませる。その間マツバはベビーバスを片づけながら、チヒロの声を聞いている。ミルクを飲む時の「くちゅ、くちゅ」という音。満足した時の「ふぁ」という声。
その音が聞こえなくなったら——チヒロはイヨリの腕の中で眠っている。毎日同じ。毎日同じなのに、毎日新しい。昨日のチヒロと今日のチヒロは違う。明日のチヒロも違う。七ヶ月と一日目のチヒロと、七ヶ月と二日目のチヒロは、顔も手も声も少しずつ違う。
今日のチヒロは、今日だけだ。
マツバはもう一度、ポケギアを確認した。午後四時四十分。あと五十分。
「マツバさん、もう一杯どうですか」
トメさんがやかんを持っている。マツバは反射的に湯呑みを差し出して——止めた。
「あ、すみません。そろそろ——」
立ち上がろうとした。
「おや、もうお帰りですか?」
ゲンベエさんが不思議そうな顔をした。
「はい。申し訳ありません。今日は——息子の沐浴がありますので」
その一言に、テーブル周りの空気が微妙に変わった。
「沐浴?」
ゴロウさんが眉を上げた。
「えーっと……お風呂ってことかい?」
「はい。赤ちゃんの入浴です。七ヶ月なので、まだベビーバスで」
「奥さん、家にいるんでしょう?」
ゴロウさんが言った。悪気はない。心からの素朴な疑問だ。
「はい。イヨリは家にいます」
「じゃあ奥さんにお願いすればいいじゃないですか。こっちの話、もう少しで終わるんだし」
マツバは——一瞬だけ、黙った。
ゴロウさんの世代では、それが自然な感覚なのだろう。妻が家にいるなら、子どもの世話は妻がやる。夫は仕事や町内会の用事を済ませてから帰ればいい。合理的だ。効率的だ。何も間違っていない。
だが。
「今日のチヒロは、今日だけなんです」
マツバが言った。
声は穏やかだった。怒っているわけではない。主張しているわけでもない。ただ、事実を述べている。当たり前のことを、当たり前に口にしている。
テーブルの周りが、静かになった。
「今日のチヒロは、今日だけなんです。明日になったら、もう今日のチヒロじゃない。一日分大きくなって、一日分違う顔になって、一日分違う声で泣く。だから——今日の沐浴は、今日しかできないんです」
マツバの目が、真っ直ぐにゴロウさんを見ていた。千里眼の紫色の瞳が、行燈の灯りではなく蛍光灯の白い光に照らされている。修行者の目だった。嘘をつけない目。本気でそう思っている目。
ゲンベエさんが、先に口を開いた。
「……行きなさい」
マツバが頭を下げた。
「すみません。残りの議題、後日確認させてください」
「ああ。——チヒロ君によろしくな」
「ありがとうございます」
マツバが立ち上がって、折り畳みテーブルの脇を通って出口に向かった。スリッパを脱いで靴を履く。戸口で振り返って、もう一度頭を下げた。
戸が閉まった。
残されたおじさんたちは、しばらく黙っていた。
沈黙を破ったのは、ゴロウさんだった。
「……俺が悪かったのか?」
困惑した顔をしている。トメさんが首を振った。
「悪くないよ、ゴロウさん。ただ——あの人は本気だったねぇ」
「本気も何も、沐浴だよ? 赤ん坊の風呂だよ? 奥さんがいるのに自分でやりたいって——」
「やりたいんじゃなくて、やらなきゃいけないと思ってるんだよ。あの人は」
ゲンベエさんが茶を啜った。七十年生きてきた男の、穏やかな声。
「『今日のチヒロは今日だけ』か。言われてみりゃ、そりゃそうだわな。赤ん坊ってのは毎日変わるもんだ。俺が子育てしてた頃は——まあ、そんなこと考えもしなかったが」
「俺もだよ。女房に任せっきりだった」
ゴロウさんが腕を組んだ。
「でもな——あの目は、ジムリーダーの目だったぞ。バトルの時と同じだ。真剣も真剣、冗談が一ミリも入ってない」
「そりゃそうだろう。あの人にとっちゃ、息子の沐浴はバトルと同じくらい大事なんだよ」
トメさんが笑った。
「いやいや。バトルより大事だろう。あの人の優先順位は、チヒロ君が一番、奥さんが二番、ジムが三番だ。町内会は——」
「圏外ですな」
全員が声を上げて笑った。畳の上に笑い声が転がって、障子の隙間から冬の空気の中に消えていった。
「でもな」
ゲンベエさんが湯呑みを置いた。
「ああいう父親がいるってのは、いいもんだ。この町のジムリーダーは、この町で父親をやってる。それが嬉しいよ、俺は」
誰も何も言わなかった。ゲンベエさんの言葉が、蛍光灯の白い光の下で、静かに響いていた。
マツバは走っていた。
走る必要はなかった。家まで歩いて十分、走れば五分。沐浴の時間まではまだ余裕がある。なのに走っていた。
理由は分かっている。
早く帰りたいのだ。チヒロに会いたいのだ。一秒でも早く、あの小さな手に触れたいのだ。
商店街を駆け抜けた。八百屋のおばちゃんが「マツバさん、どうしたの!」と声をかけてきたが、手を振って応えるだけで止まらなかった。和菓子屋の前を過ぎる。花屋の前を過ぎる。石畳の道を右に曲がって、裏路地に入る。冬の日差しが傾いていて、古い塀に長い影を作っている。
走りながら、マツバは考えていた。
「奥さん、家にいるんでしょう?」
ゴロウさんの言葉が、頭の中でリフレインしている。悪意のない言葉だ。世间一般の感覚だ。妻が家にいるなら、夫が急いで帰る必要はない——それは、多くの家庭では正しい考え方なのかもしれない。
だが、マツバの中では違った。
イヨリが家にいる。それは事実だ。イヨリは子育てに専念するために、今はポケモンドクターとしての往診の仕事を受けていない。かつてはエンジュシティ全域を回って、病気のポケモンの治療をしていた。どんな遠方にも、どんな悪天候でも、呼ばれれば駆けつけていた。それが、イヨリの選んだ道だった。
だが今は——チヒロのそばにいることを選んでいる。
それはイヨリにとって、簡単な選択ではなかったはずだ。助けを求めるポケモンがいるのに、自分は家にいる。その葛藤を、イヨリは一度だけマツバに漏らしたことがある。
「……私、役に立ってないんじゃないかって、時々思うんです」
夜中、チヒロが寝静まった後の台所で。洗い物をしながら、小さな声で。
マツバはその時、イヨリの肩に手を置いて言った。
「イヨリちゃん。チヒロにとって、君の代わりはいないんだよ。ポケモンドクターは他にもいるけど——チヒロの母親は、世界に君だけだ」
イヨリは黙って、少しだけ目を赤くして、それ以上何も言わなかった。
だからこそ——イヨリが家にいるからといって、マツバが帰らなくていい理由にはならない。イヨリが家にいてくれるからこそ、マツバは全力で帰るのだ。イヨリが一人でチヒロを見ている間——その「一人」の時間を、一分でも短くしたい。イヨリの肩にかかっている重さを、一秒でも早く分かち合いたい。
それが、マツバの夫としての矜持だった。
自宅の門が見えた。
走る速度を落として、呼吸を整えた。息が白い。十二月の空気は冷たいが、走った身体は熱い。門の前で一度止まって、額の汗を拭いた。
玄関の戸を開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
イヨリの声が、奥から聞こえた。いつもと同じ、穏やかで静かな声。
靴を脱いで居間に入ると、イヨリが畳の上に座ってチヒロを膝に乗せていた。チヒロは——何かに夢中だった。自分の足の指を掴んで、じっと見つめている。七ヶ月の赤ん坊にとって、自分の足の指はどうやら宇宙一の不思議らしい。
マツバの心臓は、この光景を見るたびに一回余計に打つ。
「早かったですね。町内会、もう終わりましたか?」
「うん。途中で抜けてきた」
「え——大丈夫ですか?」
「大丈夫。僕が帰るって言ったら、ゲンベエさんが送り出してくれた」
イヨリが小さく首を傾げた。その仕草がチヒロに似ている——いや、チヒロがイヨリに似ているのだ。
「理由は聞かれなかったんですか?」
「聞かれたよ。沐浴がありますって言った」
「……それだけですか?」
「もう少しだけ言った」
「何を?」
「『今日のチヒロは、今日だけなんです』って」
イヨリが——動きを止めた。
チヒロの足を支えていた手が止まって、マツバの顔を見た。まっすぐに。黒い目で。
「……マツバさん」
「うん」
「……町内会の方々、困惑されたんじゃないですか」
「多分。でも、嘘は言ってない」
「嘘じゃないのは分かりますけど……」
「イヨリちゃん」
「はい」
「僕は、今日のチヒロに会いたくて走って帰ってきたんだよ。明日のチヒロじゃなくて。今日のチヒロに。七ヶ月と十三日目のチヒロに」
イヨリはまた黙った。黙って——小さく、笑った。
「……数えてるんですか。日数」
「数えてるよ。毎日」
「……ふふ」
チヒロが、マツバの声に反応して顔を上げた。足の指から注意が離れて、父親の顔を見た。口を開けて、手を伸ばした。
「パパに会いたかったみたいですよ」
イヨリがチヒロをマツバの方に差し出した。マツバは両手でチヒロを受け取った。左腕で頭を支え、右手で腰を包む。いつもの抱き方。何百回と繰り返した抱き方。
チヒロの顔が、マツバの顔の真下にある。黒い髪。丸い頬。イヨリ譲りの大きな目がマツバを見つめている。口の端がきゅっと上がった——笑った。
マツバの呼吸が、一瞬だけ止まった。
七ヶ月と十三日目のチヒロが、笑った。この笑顔は今日だけだ。明日はもう少し口角の筋肉が発達して、もう少し上手に笑うようになる。でも今日のこの笑い方は、もう二度と見られない。
帰ってきてよかった。走ってきてよかった。ゴロウさんに頭を下げて、テーブルを離れて、スリッパを脱いで靴を履いて、走ったかいがあった。
「イヨリちゃん。お風呂、準備しよう」
「はい。お湯はもう張ってあります」
「ありがとう。——イヨリちゃんはいつもすごいね」
「すごくないです。お湯を張っただけです」
「お湯を張って待ってくれてるのが、すごいんだよ」
イヨリの耳が、わずかに赤くなった。
沐浴が始まった。
脱衣所にベビーバスを置いている。三十八度のぬるま湯。イヨリが温度計で確認済み。マツバがチヒロの服を脱がせる。ボタンを一つずつ外す。肌着を持ち上げる。おむつを外す。
チヒロが裸になった。小さな身体。掌に収まりそうなほど小さい。でも確実に大きくなっている。生まれた時より、もう何倍も重い。
「はい、チヒロ。お風呂だよ」
マツバが左手でチヒロの首を支えて、右手で腰を持ち上げて、ゆっくりとお湯に入れた。
チヒロが「うひゃ」という顔をした。目が丸くなって、手足が一瞬硬直して——それからすぐに、緩んだ。お湯が気持ちいいのだ。手足がバタバタし始める。水面に小さな波が立つ。
「ご機嫌ですね」
イヨリが横からタオルを渡した。マツバがタオルをお湯に浸して、チヒロの胸に乗せた。
「今日のチヒロは、昨日よりお湯の中での動きが大きいね」
「そうですか?」
「うん。手の振りが……こう、昨日より五ミリくらい大きくなってる」
「五ミリって……分かるんですか、そんなの」
「千里眼は使ってないよ。父親の目で見てる」
イヨリが呆れたような、でも嬉しそうな顔をした。
マツバはチヒロの指の間を洗い始めた。右手の指を一本ずつ。親指。人差し指。中指。薬指。小指。一本ずつ丁寧に、泡で包んで、流す。チヒロはマツバの指を握り返す。反射で握っているのか、意思で握っているのか分からない。でもその力が強くなっていることは分かる。昨日より、確実に。
「イヨリちゃん」
「はい」
「チヒロの握力、上がってるよ」
「……毎日報告しなくても大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃないよ。記録しないと。今日のチヒロの握力は今日だけだから」
「……また、その言い方」
イヨリの声が柔らかかった。呆れと愛情が半分ずつの声。
マツバは頭を洗い始めた。黒い髪。イヨリ譲りの、さらさらした黒い髪。泡をつけて、指の腹でそっと洗う。頭蓋骨がまだ柔らかいから、力を入れすぎないように。
チヒロが目を閉じた。気持ちいいのだ。マツバの指が頭を洗う感触が。目を閉じて、口を少し開けて、まるで眠るような顔をしている。
その顔が——イヨリの寝顔に似ていた。
マツバは泡を流しながら、思った。この子の中に、イヨリが生きている。目元のラインも、頬の丸みも、眠る時の表情も、全部がイヨリだ。そしてもしかしたら、鼻の形とか、頑固なところとか、そういう部分は自分に似ているのかもしれない。
二人の遺伝子が混ざって、一つの命を作っている。その命が今、ぬるま湯の中で手足をバタバタさせている。これ以上の奇跡を、マツバは知らない。
お風呂が終わった。
マツバがチヒロを持ち上げて、イヨリが広げたバスタオルで受け取った。チヒロが「きゃっ」と声を上げた。冷たい空気に触れたのか、ただ楽しくて声を出したのか。イヨリがタオルでチヒロを包んで、頭の水滴を丁寧に拭いた。
マツバはベビーバスの水を抜きながら、チヒロの声を聞いていた。イヨリが保湿剤を塗る音。チヒロが身じろぎする音。新しいおむつのテープを留める音。パジャマのボタンをはめる音。
全部が——今日だけの音だった。
ミルクの時間。
イヨリがチヒロを抱いて、哺乳瓶をくわえさせた。チヒロが目を細めて、両手で瓶を持って飲み始めた。くちゅ、くちゅ、くちゅ。規則正しい音。彼なりの真剣さで、一口ずつ、確実に飲んでいる。
マツバは向かい側に座って、その光景を見つめていた。イヨリの左腕の銀色のデバイスが、行燈の灯りを反射している。その腕の中にチヒロがいる。デバイスの冷たい金属と、イヨリの温かい肌と、チヒロの柔らかい身体が、一つの形を作っている。
「イヨリちゃん」
「はい」
「今日、ゴロウさんに言われたんだ。『奥さん家にいるんでしょう?』って」
「……ええ」
「悪気はないんだよ。ゴロウさんの世代では、それが普通の感覚だから。でも僕は——帰りたかった。イヨリちゃんが家にいてくれることが分かってるからこそ、帰りたかった」
「分かります」
「分かる?」
「はい。——私が家にいるのは、マツバさんが帰ってきてくれるからです。マツバさんが帰ってこない家で、一人でチヒロを見てたら……きっと、もっと辛いと思います」
マツバは、その言葉を噛みしめた。
「だから『奥さんに任せれば』って言われた時、マツバさんが帰ってきてくれて——嬉しかったです」
イヨリの声は、いつもと変わらなかった。穏やかで、静かで、抑制されていた。でも——「嬉しかった」の三文字だけが、少しだけ震えていた。
「イヨリちゃん」
「はい」
「僕は——毎日帰ってくるよ。チヒロが何歳になっても。町内会があっても、ジムの挑戦者が来ても、たとえホウオウが降臨しても。沐浴の時間には帰る」
「……ホウオウが来たら、さすがにそっちが優先じゃないですか」
「チヒロの方が優先だよ」
「……本気で言ってます?」
「本気だよ。ホウオウは何百年も待った。もう少し待てる。でもチヒロの七ヶ月と十三日目は、今日しかない」
イヨリが——小さく吹き出した。
声を殺して、肩を震わせて、笑った。チヒロがミルクを飲むのを一瞬やめて、母親の揺れに不思議そうな顔をした。
「……マツバさん。ホウオウと息子の沐浴を天秤にかけるジムリーダーは、多分あなただけです」
「でも正解でしょ?」
「……はい。正解です」
チヒロがミルクを飲み終わった。哺乳瓶を離して、満足げに「ふぁ」と声を出した。イヨリが肩にチヒロを乗せて、背中をとんとんと軽く叩いた。
げっぷが出た。小さな、柔らかい、赤ん坊のげっぷ。
「今日の沐浴、完了」
マツバが小さくガッツポーズをした。
「ミッション・コンプリート。七ヶ月十三日目のチヒロ、無事確認」
「……ミッションって言わないでください。任務みたいで」
「任務だよ。僕の人生最大の任務だよ」
「大げさです」
「大げさじゃないよ」
チヒロが、二人の会話を聞いているかのように、「あうー」と声を上げた。まだ言葉にならない声。でもそこに意思があるような、ないような——七ヶ月の赤ん坊だけが持つ、曖昧で、柔らかくて、無限の可能性を含んだ声。
マツバは思った。
この声も、今日だけだ。明日にはもう少し違う音域の声を出すようになるだろう。あさってにはもっと違う。一週間後にはもっと。一ヶ月後にはもっともっと。
だから今日、ここにいる意味がある。
ゴロウさんには悪いけど——町内会の打ち合わせは、明日でもできる。来週でもできる。でもチヒロの七ヶ月十三日目の沐浴は、今日しかできない。
それが、マツバの答えだった。
チヒロが眠った。
イヨリの腕の中で、まるでスイッチが切れるように。ミルクを飲んで、げっぷをして、少しだけぐずって、そしてすとんと落ちた。
イヨリがチヒロを布団に寝かせた。掛け布団をそっとかけて、頭の位置を調整した。チヒロは口を少し開けて、規則正しい寝息を立て始めた。
二人は布団の横に並んで座った。
「……静かですね」
「うん」
「マツバさん」
「うん」
「今日のチヒロは、良い一日でしたか?」
「最高の一日だった」
「何が最高でしたか?」
「全部。朝、起きた時にチヒロが僕を見て笑ったこと。イヨリちゃんがミルクの温度を腕の内側で確認してた横顔。チヒロが自分の足の指をじっと見つめてたこと。お風呂で『うひゃ』って顔したこと。指の間を洗った時に握り返してきたこと。ミルク飲み終わった時の『ふぁ』。全部。全部が最高だった」
「……そんなに覚えてるんですか」
「全部覚えてるよ。今日のチヒロは今日だけだから」
イヨリが——マツバの肩に、頭を預けた。
珍しいことだった。イヨリは自分から甘えることが少ない。触れ合いは好きだが、自分から寄り添うことは稀だ。それは育ってきた環境によるものなのか、性格によるものなのか——マツバには分からない。でも、時々こうして、不意に寄りかかってくれる。
「私も、覚えてます」
「何を?」
「今日のチヒロの全部。朝、私が授乳してる時に、初めて私の指を掴んだまま離さなかったこと。お昼に窓の外を見て、犬が通るのを目で追ってたこと。午後、私が洗濯物を畳んでたら、タオルの端を掴んで引っ張ってたこと」
「タオル引っ張ってたの? それ、初めて聞いたよ」
「今言いました」
「もっとリアルタイムで教えてほしかった……ポケギアで……写真で……」
「マツバさん、会議中でしょう」
「チヒロの方が大事だよ」
「……本当に困った人ですね」
でもイヨリの声は笑っていた。マツバの肩に頭を乗せたまま、小さく笑っていた。
行燈の灯りが揺れている。チヒロの寝息が聞こえている。十二月の夜は冷たいけれど、この部屋の中だけは温かい。三人分の体温と、行燈の灯りと、ハーブティーの湯気が作る、小さな温室。
「マツバさん」
「うん」
「明日も——帰ってきてくれますか?」
「当たり前だよ。明日のチヒロは明日だけだから」
「……ふふ」
「明後日のチヒロも明後日だけだし、来月のチヒロも来月だけだし、一歳のチヒロも一歳の時だけだし——」
「分かりました。ずっと帰ってきてくれるんですね」
「ずっと。一日も欠かさず」
イヨリの右手が、マツバの左手を探した。指が指の間に滑り込んで、絡まった。マツバの左手の薬指の指輪と、イヨリの右手の薬指の指輪が、かちりと触れ合った。
チヒロが寝返りを打った。小さな声で寝言を言った。まだ言葉にならない寝言。
明日のチヒロは、今日より少しだけ大きくなっている。明日の寝言は、今日とは少しだけ違う音程になっている。
でもそれでいい。毎日違うチヒロに会えることが、マツバにとっては——世界中のどんな宝物よりも、価値がある。
ホウオウの羽よりも。千里眼の力よりも。ジムリーダーの称号よりも。
今日のチヒロに、間に合ってよかった。
了