STELLAR CRADLE #5

今日のチヒロは、今日だけなんです

― ホウオウより大切な任務 ―
マツバ独白 / 超・子煩悩 / 沐浴タイム / シリーズ第5回 / 【真】全文掲載

エンジュシティ東区の町内会館は、築四十年の木造建築だ。

畳の大広間に折り畳み式のテーブルが並んでいて、天井の蛍光灯が一本だけチカチカしている。壁には「エンジュシティ東区自治会」の額がかかっていて、その横に年間行事予定表と不審者情報の掲示板がある。畳は少し擦り切れていて、入り口にはスリッパが雑然と並んでいる。休日の午後四時、冬の日差しが障子越しに柔らかく差し込んでいた。

マツバは奥のテーブルに座っていた。

正確に言えば、「座らされていた」に近い。

町内会の定例会議。年末の餅つき大会の打ち合わせ。ジムリーダーという肩書は、この場では何の役にも立たない。むしろ逆だ。「ジムリーダーさんが来てくれるなら客寄せになる」という理由で、マツバは毎年この会議に出席させられている。

テーブルの向かいに、七十代の町内会長・ゲンベエさんが座っている。横に副会長のトメさん。その隣に会計のゴロウさん。全員がお茶を飲みながら、のんびりとした空気を漂わせている。

議題は餅つき大会の日程と担当者の振り分けだった。マツバは手元の資料に目を落としている。今年は十二月の第二日曜日。場所は町内会館の前庭。準備委員長は——

「マツバさん、今年も餅つきの手伝い、お願いしますよ」

ゲンベエさんが言った。穏やかな声だ。

「はい。喜んで」

「去年は見事な杵さばきでしたなぁ。さすがジムリーダーは力が違う」

「いえ、あれはゴーストタイプの訓練で腕力を——」

「ゴーストで餅をつく男は初めて見たよ」

ゴロウさんが笑った。周りのおじさんたちもつられて笑う。マツバも小さく笑った。こういう和やかな空気は嫌いではない。エンジュの東区は古い住宅街で、顔なじみが多い。マツバが子どもの頃から知っている人もいる。

「ところでマツバさん」

トメさんが湯呑みを持ったまま身を乗り出した。

「お子さん、大きくなったでしょう」

「はい。もう七ヶ月になりました」

「七ヶ月! 早いもんだねぇ。男の子だったよね」

「はい。チヒロといいます」

マツバの声のトーンが、わずかに変わった。「チヒロ」と口にした瞬間、それまでの丁寧な敬語の中に、蜜のような甘さが一滴、混ざった。口角が自然に上がる。目元が緩む。本人はまったく気づいていない。

テーブルの向こう側で、ゲンベエさんとゴロウさんが目配せをした。「また始まった」とでも言いたげな、呆れと微笑みが半分ずつの目配せだ。

マツバのこの症状——チヒロの名前を出すと無意識に顔がとろけるという症状——は、東区の町内会ではすでに周知の事実だった。

会議は滞りなく進んだ。

餅つき大会の担当が決まり、予算の確認が終わり、年末の大掃除のスケジュールが共有された。マツバは几帳面にメモを取りながら、時折ポケギアで時間を確認していた。

午後四時三十五分。

まだ大丈夫だ。チヒロの沐浴は午後五時半からだ。イヨリが準備をしているはずだが、沐浴自体はマツバがやると決めている。決めている、というより——やりたいのだ。どうしても。

チヒロの沐浴は、マツバにとって一日の中で最も神聖な時間だった。

ベビーバスにぬるま湯を張って、チヒロの服を一枚ずつ脱がせて、ゆっくりとお湯に入れる。最初は「うひゃ」という顔をするチヒロが、お湯に慣れてくると手足をバタバタさせ始める。指の間を一本ずつ洗う。耳の後ろを丁寧に拭く。頭の柔らかい黒髪を——イヨリ譲りの、さらさらの黒髪を——泡で包んで、流す。

その間、チヒロはマツバの顔をじっと見つめている。七ヶ月の目で、真剣に、父親の顔を見ている。何を考えているのか分からない。でも確実に、目の焦点がマツバに合っている。その視線が——マツバの心臓を、毎日、毎日、貫通する。

沐浴が終わると、タオルで包んで、イヨリに渡す。イヨリが保湿剤を塗って、新しい服を着せて、ミルクを飲ませる。その間マツバはベビーバスを片づけながら、チヒロの声を聞いている。ミルクを飲む時の「くちゅ、くちゅ」という音。満足した時の「ふぁ」という声。

その音が聞こえなくなったら——チヒロはイヨリの腕の中で眠っている。毎日同じ。毎日同じなのに、毎日新しい。昨日のチヒロと今日のチヒロは違う。明日のチヒロも違う。七ヶ月と一日目のチヒロと、七ヶ月と二日目のチヒロは、顔も手も声も少しずつ違う。

今日のチヒロは、今日だけだ。

マツバはもう一度、ポケギアを確認した。午後四時四十分。あと五十分。

「マツバさん、もう一杯どうですか」

トメさんがやかんを持っている。マツバは反射的に湯呑みを差し出して——止めた。

「あ、すみません。そろそろ——」

立ち上がろうとした。

「おや、もうお帰りですか?」

ゲンベエさんが不思議そうな顔をした。

「はい。申し訳ありません。今日は——息子の沐浴がありますので」

その一言に、テーブル周りの空気が微妙に変わった。

「沐浴?」

ゴロウさんが眉を上げた。

「えーっと……お風呂ってことかい?」

「はい。赤ちゃんの入浴です。七ヶ月なので、まだベビーバスで」

「奥さん、家にいるんでしょう?」

ゴロウさんが言った。悪気はない。心からの素朴な疑問だ。

「はい。イヨリは家にいます」

「じゃあ奥さんにお願いすればいいじゃないですか。こっちの話、もう少しで終わるんだし」

マツバは——一瞬だけ、黙った。

ゴロウさんの世代では、それが自然な感覚なのだろう。妻が家にいるなら、子どもの世話は妻がやる。夫は仕事や町内会の用事を済ませてから帰ればいい。合理的だ。効率的だ。何も間違っていない。

だが。

「今日のチヒロは、今日だけなんです」

マツバが言った。

声は穏やかだった。怒っているわけではない。主張しているわけでもない。ただ、事実を述べている。当たり前のことを、当たり前に口にしている。

テーブルの周りが、静かになった。

「今日のチヒロは、今日だけなんです。明日になったら、もう今日のチヒロじゃない。一日分大きくなって、一日分違う顔になって、一日分違う声で泣く。だから——今日の沐浴は、今日しかできないんです」

マツバの目が、真っ直ぐにゴロウさんを見ていた。千里眼の紫色の瞳が、行燈の灯りではなく蛍光灯の白い光に照らされている。修行者の目だった。嘘をつけない目。本気でそう思っている目。

ゲンベエさんが、先に口を開いた。

「……行きなさい」

マツバが頭を下げた。

「すみません。残りの議題、後日確認させてください」

「ああ。——チヒロ君によろしくな」

「ありがとうございます」

マツバが立ち上がって、折り畳みテーブルの脇を通って出口に向かった。スリッパを脱いで靴を履く。戸口で振り返って、もう一度頭を下げた。

戸が閉まった。

残されたおじさんたちは、しばらく黙っていた。

沈黙を破ったのは、ゴロウさんだった。

「……俺が悪かったのか?」

困惑した顔をしている。トメさんが首を振った。

「悪くないよ、ゴロウさん。ただ——あの人は本気だったねぇ」

「本気も何も、沐浴だよ? 赤ん坊の風呂だよ? 奥さんがいるのに自分でやりたいって——」

「やりたいんじゃなくて、やらなきゃいけないと思ってるんだよ。あの人は」

ゲンベエさんが茶を啜った。七十年生きてきた男の、穏やかな声。

「『今日のチヒロは今日だけ』か。言われてみりゃ、そりゃそうだわな。赤ん坊ってのは毎日変わるもんだ。俺が子育てしてた頃は——まあ、そんなこと考えもしなかったが」

「俺もだよ。女房に任せっきりだった」

ゴロウさんが腕を組んだ。

「でもな——あの目は、ジムリーダーの目だったぞ。バトルの時と同じだ。真剣も真剣、冗談が一ミリも入ってない」

「そりゃそうだろう。あの人にとっちゃ、息子の沐浴はバトルと同じくらい大事なんだよ」

トメさんが笑った。

「いやいや。バトルより大事だろう。あの人の優先順位は、チヒロ君が一番、奥さんが二番、ジムが三番だ。町内会は——」

「圏外ですな」

全員が声を上げて笑った。畳の上に笑い声が転がって、障子の隙間から冬の空気の中に消えていった。

「でもな」

ゲンベエさんが湯呑みを置いた。

「ああいう父親がいるってのは、いいもんだ。この町のジムリーダーは、この町で父親をやってる。それが嬉しいよ、俺は」

誰も何も言わなかった。ゲンベエさんの言葉が、蛍光灯の白い光の下で、静かに響いていた。

マツバは走っていた。

走る必要はなかった。家まで歩いて十分、走れば五分。沐浴の時間まではまだ余裕がある。なのに走っていた。

理由は分かっている。

早く帰りたいのだ。チヒロに会いたいのだ。一秒でも早く、あの小さな手に触れたいのだ。

商店街を駆け抜けた。八百屋のおばちゃんが「マツバさん、どうしたの!」と声をかけてきたが、手を振って応えるだけで止まらなかった。和菓子屋の前を過ぎる。花屋の前を過ぎる。石畳の道を右に曲がって、裏路地に入る。冬の日差しが傾いていて、古い塀に長い影を作っている。

走りながら、マツバは考えていた。

「奥さん、家にいるんでしょう?」

ゴロウさんの言葉が、頭の中でリフレインしている。悪意のない言葉だ。世间一般の感覚だ。妻が家にいるなら、夫が急いで帰る必要はない——それは、多くの家庭では正しい考え方なのかもしれない。

だが、マツバの中では違った。

イヨリが家にいる。それは事実だ。イヨリは子育てに専念するために、今はポケモンドクターとしての往診の仕事を受けていない。かつてはエンジュシティ全域を回って、病気のポケモンの治療をしていた。どんな遠方にも、どんな悪天候でも、呼ばれれば駆けつけていた。それが、イヨリの選んだ道だった。

だが今は——チヒロのそばにいることを選んでいる。

それはイヨリにとって、簡単な選択ではなかったはずだ。助けを求めるポケモンがいるのに、自分は家にいる。その葛藤を、イヨリは一度だけマツバに漏らしたことがある。

「……私、役に立ってないんじゃないかって、時々思うんです」

夜中、チヒロが寝静まった後の台所で。洗い物をしながら、小さな声で。

マツバはその時、イヨリの肩に手を置いて言った。

「イヨリちゃん。チヒロにとって、君の代わりはいないんだよ。ポケモンドクターは他にもいるけど——チヒロの母親は、世界に君だけだ」

イヨリは黙って、少しだけ目を赤くして、それ以上何も言わなかった。

だからこそ——イヨリが家にいるからといって、マツバが帰らなくていい理由にはならない。イヨリが家にいてくれるからこそ、マツバは全力で帰るのだ。イヨリが一人でチヒロを見ている間——その「一人」の時間を、一分でも短くしたい。イヨリの肩にかかっている重さを、一秒でも早く分かち合いたい。

それが、マツバの夫としての矜持だった。

自宅の門が見えた。

走る速度を落として、呼吸を整えた。息が白い。十二月の空気は冷たいが、走った身体は熱い。門の前で一度止まって、額の汗を拭いた。

玄関の戸を開けた。

「ただいま」

「おかえりなさい」

イヨリの声が、奥から聞こえた。いつもと同じ、穏やかで静かな声。

靴を脱いで居間に入ると、イヨリが畳の上に座ってチヒロを膝に乗せていた。チヒロは——何かに夢中だった。自分の足の指を掴んで、じっと見つめている。七ヶ月の赤ん坊にとって、自分の足の指はどうやら宇宙一の不思議らしい。

マツバの心臓は、この光景を見るたびに一回余計に打つ。

「早かったですね。町内会、もう終わりましたか?」

「うん。途中で抜けてきた」

「え——大丈夫ですか?」

「大丈夫。僕が帰るって言ったら、ゲンベエさんが送り出してくれた」

イヨリが小さく首を傾げた。その仕草がチヒロに似ている——いや、チヒロがイヨリに似ているのだ。

「理由は聞かれなかったんですか?」

「聞かれたよ。沐浴がありますって言った」

「……それだけですか?」

「もう少しだけ言った」

「何を?」

「『今日のチヒロは、今日だけなんです』って」

イヨリが——動きを止めた。

チヒロの足を支えていた手が止まって、マツバの顔を見た。まっすぐに。黒い目で。

「……マツバさん」

「うん」

「……町内会の方々、困惑されたんじゃないですか」

「多分。でも、嘘は言ってない」

「嘘じゃないのは分かりますけど……」

「イヨリちゃん」

「はい」

「僕は、今日のチヒロに会いたくて走って帰ってきたんだよ。明日のチヒロじゃなくて。今日のチヒロに。七ヶ月と十三日目のチヒロに」

イヨリはまた黙った。黙って——小さく、笑った。

「……数えてるんですか。日数」

「数えてるよ。毎日」

「……ふふ」

チヒロが、マツバの声に反応して顔を上げた。足の指から注意が離れて、父親の顔を見た。口を開けて、手を伸ばした。

「パパに会いたかったみたいですよ」

イヨリがチヒロをマツバの方に差し出した。マツバは両手でチヒロを受け取った。左腕で頭を支え、右手で腰を包む。いつもの抱き方。何百回と繰り返した抱き方。

チヒロの顔が、マツバの顔の真下にある。黒い髪。丸い頬。イヨリ譲りの大きな目がマツバを見つめている。口の端がきゅっと上がった——笑った。

マツバの呼吸が、一瞬だけ止まった。

七ヶ月と十三日目のチヒロが、笑った。この笑顔は今日だけだ。明日はもう少し口角の筋肉が発達して、もう少し上手に笑うようになる。でも今日のこの笑い方は、もう二度と見られない。

帰ってきてよかった。走ってきてよかった。ゴロウさんに頭を下げて、テーブルを離れて、スリッパを脱いで靴を履いて、走ったかいがあった。

「イヨリちゃん。お風呂、準備しよう」

「はい。お湯はもう張ってあります」

「ありがとう。——イヨリちゃんはいつもすごいね」

「すごくないです。お湯を張っただけです」

「お湯を張って待ってくれてるのが、すごいんだよ」

イヨリの耳が、わずかに赤くなった。

沐浴が始まった。

脱衣所にベビーバスを置いている。三十八度のぬるま湯。イヨリが温度計で確認済み。マツバがチヒロの服を脱がせる。ボタンを一つずつ外す。肌着を持ち上げる。おむつを外す。

チヒロが裸になった。小さな身体。掌に収まりそうなほど小さい。でも確実に大きくなっている。生まれた時より、もう何倍も重い。

「はい、チヒロ。お風呂だよ」

マツバが左手でチヒロの首を支えて、右手で腰を持ち上げて、ゆっくりとお湯に入れた。

チヒロが「うひゃ」という顔をした。目が丸くなって、手足が一瞬硬直して——それからすぐに、緩んだ。お湯が気持ちいいのだ。手足がバタバタし始める。水面に小さな波が立つ。

「ご機嫌ですね」

イヨリが横からタオルを渡した。マツバがタオルをお湯に浸して、チヒロの胸に乗せた。

「今日のチヒロは、昨日よりお湯の中での動きが大きいね」

「そうですか?」

「うん。手の振りが……こう、昨日より五ミリくらい大きくなってる」

「五ミリって……分かるんですか、そんなの」

「千里眼は使ってないよ。父親の目で見てる」

イヨリが呆れたような、でも嬉しそうな顔をした。

マツバはチヒロの指の間を洗い始めた。右手の指を一本ずつ。親指。人差し指。中指。薬指。小指。一本ずつ丁寧に、泡で包んで、流す。チヒロはマツバの指を握り返す。反射で握っているのか、意思で握っているのか分からない。でもその力が強くなっていることは分かる。昨日より、確実に。

「イヨリちゃん」

「はい」

「チヒロの握力、上がってるよ」

「……毎日報告しなくても大丈夫ですよ」

「大丈夫じゃないよ。記録しないと。今日のチヒロの握力は今日だけだから」

「……また、その言い方」

イヨリの声が柔らかかった。呆れと愛情が半分ずつの声。

マツバは頭を洗い始めた。黒い髪。イヨリ譲りの、さらさらした黒い髪。泡をつけて、指の腹でそっと洗う。頭蓋骨がまだ柔らかいから、力を入れすぎないように。

チヒロが目を閉じた。気持ちいいのだ。マツバの指が頭を洗う感触が。目を閉じて、口を少し開けて、まるで眠るような顔をしている。

その顔が——イヨリの寝顔に似ていた。

マツバは泡を流しながら、思った。この子の中に、イヨリが生きている。目元のラインも、頬の丸みも、眠る時の表情も、全部がイヨリだ。そしてもしかしたら、鼻の形とか、頑固なところとか、そういう部分は自分に似ているのかもしれない。

二人の遺伝子が混ざって、一つの命を作っている。その命が今、ぬるま湯の中で手足をバタバタさせている。これ以上の奇跡を、マツバは知らない。

お風呂が終わった。

マツバがチヒロを持ち上げて、イヨリが広げたバスタオルで受け取った。チヒロが「きゃっ」と声を上げた。冷たい空気に触れたのか、ただ楽しくて声を出したのか。イヨリがタオルでチヒロを包んで、頭の水滴を丁寧に拭いた。

マツバはベビーバスの水を抜きながら、チヒロの声を聞いていた。イヨリが保湿剤を塗る音。チヒロが身じろぎする音。新しいおむつのテープを留める音。パジャマのボタンをはめる音。

全部が——今日だけの音だった。

ミルクの時間。

イヨリがチヒロを抱いて、哺乳瓶をくわえさせた。チヒロが目を細めて、両手で瓶を持って飲み始めた。くちゅ、くちゅ、くちゅ。規則正しい音。彼なりの真剣さで、一口ずつ、確実に飲んでいる。

マツバは向かい側に座って、その光景を見つめていた。イヨリの左腕の銀色のデバイスが、行燈の灯りを反射している。その腕の中にチヒロがいる。デバイスの冷たい金属と、イヨリの温かい肌と、チヒロの柔らかい身体が、一つの形を作っている。

「イヨリちゃん」

「はい」

「今日、ゴロウさんに言われたんだ。『奥さん家にいるんでしょう?』って」

「……ええ」

「悪気はないんだよ。ゴロウさんの世代では、それが普通の感覚だから。でも僕は——帰りたかった。イヨリちゃんが家にいてくれることが分かってるからこそ、帰りたかった」

「分かります」

「分かる?」

「はい。——私が家にいるのは、マツバさんが帰ってきてくれるからです。マツバさんが帰ってこない家で、一人でチヒロを見てたら……きっと、もっと辛いと思います」

マツバは、その言葉を噛みしめた。

「だから『奥さんに任せれば』って言われた時、マツバさんが帰ってきてくれて——嬉しかったです」

イヨリの声は、いつもと変わらなかった。穏やかで、静かで、抑制されていた。でも——「嬉しかった」の三文字だけが、少しだけ震えていた。

「イヨリちゃん」

「はい」

「僕は——毎日帰ってくるよ。チヒロが何歳になっても。町内会があっても、ジムの挑戦者が来ても、たとえホウオウが降臨しても。沐浴の時間には帰る」

「……ホウオウが来たら、さすがにそっちが優先じゃないですか」

「チヒロの方が優先だよ」

「……本気で言ってます?」

「本気だよ。ホウオウは何百年も待った。もう少し待てる。でもチヒロの七ヶ月と十三日目は、今日しかない」

イヨリが——小さく吹き出した。

声を殺して、肩を震わせて、笑った。チヒロがミルクを飲むのを一瞬やめて、母親の揺れに不思議そうな顔をした。

「……マツバさん。ホウオウと息子の沐浴を天秤にかけるジムリーダーは、多分あなただけです」

「でも正解でしょ?」

「……はい。正解です」

チヒロがミルクを飲み終わった。哺乳瓶を離して、満足げに「ふぁ」と声を出した。イヨリが肩にチヒロを乗せて、背中をとんとんと軽く叩いた。

げっぷが出た。小さな、柔らかい、赤ん坊のげっぷ。

「今日の沐浴、完了」

マツバが小さくガッツポーズをした。

「ミッション・コンプリート。七ヶ月十三日目のチヒロ、無事確認」

「……ミッションって言わないでください。任務みたいで」

「任務だよ。僕の人生最大の任務だよ」

「大げさです」

「大げさじゃないよ」

チヒロが、二人の会話を聞いているかのように、「あうー」と声を上げた。まだ言葉にならない声。でもそこに意思があるような、ないような——七ヶ月の赤ん坊だけが持つ、曖昧で、柔らかくて、無限の可能性を含んだ声。

マツバは思った。

この声も、今日だけだ。明日にはもう少し違う音域の声を出すようになるだろう。あさってにはもっと違う。一週間後にはもっと。一ヶ月後にはもっともっと。

だから今日、ここにいる意味がある。

ゴロウさんには悪いけど——町内会の打ち合わせは、明日でもできる。来週でもできる。でもチヒロの七ヶ月十三日目の沐浴は、今日しかできない。

それが、マツバの答えだった。

チヒロが眠った。

イヨリの腕の中で、まるでスイッチが切れるように。ミルクを飲んで、げっぷをして、少しだけぐずって、そしてすとんと落ちた。

イヨリがチヒロを布団に寝かせた。掛け布団をそっとかけて、頭の位置を調整した。チヒロは口を少し開けて、規則正しい寝息を立て始めた。

二人は布団の横に並んで座った。

「……静かですね」

「うん」

「マツバさん」

「うん」

「今日のチヒロは、良い一日でしたか?」

「最高の一日だった」

「何が最高でしたか?」

「全部。朝、起きた時にチヒロが僕を見て笑ったこと。イヨリちゃんがミルクの温度を腕の内側で確認してた横顔。チヒロが自分の足の指をじっと見つめてたこと。お風呂で『うひゃ』って顔したこと。指の間を洗った時に握り返してきたこと。ミルク飲み終わった時の『ふぁ』。全部。全部が最高だった」

「……そんなに覚えてるんですか」

「全部覚えてるよ。今日のチヒロは今日だけだから」

イヨリが——マツバの肩に、頭を預けた。

珍しいことだった。イヨリは自分から甘えることが少ない。触れ合いは好きだが、自分から寄り添うことは稀だ。それは育ってきた環境によるものなのか、性格によるものなのか——マツバには分からない。でも、時々こうして、不意に寄りかかってくれる。

「私も、覚えてます」

「何を?」

「今日のチヒロの全部。朝、私が授乳してる時に、初めて私の指を掴んだまま離さなかったこと。お昼に窓の外を見て、犬が通るのを目で追ってたこと。午後、私が洗濯物を畳んでたら、タオルの端を掴んで引っ張ってたこと」

「タオル引っ張ってたの? それ、初めて聞いたよ」

「今言いました」

「もっとリアルタイムで教えてほしかった……ポケギアで……写真で……」

「マツバさん、会議中でしょう」

「チヒロの方が大事だよ」

「……本当に困った人ですね」

でもイヨリの声は笑っていた。マツバの肩に頭を乗せたまま、小さく笑っていた。

行燈の灯りが揺れている。チヒロの寝息が聞こえている。十二月の夜は冷たいけれど、この部屋の中だけは温かい。三人分の体温と、行燈の灯りと、ハーブティーの湯気が作る、小さな温室。

「マツバさん」

「うん」

「明日も——帰ってきてくれますか?」

「当たり前だよ。明日のチヒロは明日だけだから」

「……ふふ」

「明後日のチヒロも明後日だけだし、来月のチヒロも来月だけだし、一歳のチヒロも一歳の時だけだし——」

「分かりました。ずっと帰ってきてくれるんですね」

「ずっと。一日も欠かさず」

イヨリの右手が、マツバの左手を探した。指が指の間に滑り込んで、絡まった。マツバの左手の薬指の指輪と、イヨリの右手の薬指の指輪が、かちりと触れ合った。

チヒロが寝返りを打った。小さな声で寝言を言った。まだ言葉にならない寝言。

明日のチヒロは、今日より少しだけ大きくなっている。明日の寝言は、今日とは少しだけ違う音程になっている。

でもそれでいい。毎日違うチヒロに会えることが、マツバにとっては——世界中のどんな宝物よりも、価値がある。

ホウオウの羽よりも。千里眼の力よりも。ジムリーダーの称号よりも。

今日のチヒロに、間に合ってよかった。