掌に届く、星の産声
― 十月十日の肖像 Episode 5
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【一】食卓に還る光
二月の朝。イヨリは目を覚まし、深く息を吸った。
冬の空気が鼻腔に入り込む。畳の乾いた匂い。障子紙を透かす淡い朝日。どこか遠くで鐘楼の鐘が鳴っている。そのどれもが、ただありのままの匂いと音として、彼女の感覚に届いた。胃が翻らない。嗅覚が暴れない。頭がぐるぐるしない。
もう三日連続で、朝の嘔吐がなかった。
布団の中で、しばらくじっとしていた。身体の内側に意識を向ける。胃は穏やかだ。食道に灼ける感覚もない。むしろ——空腹を感じている。胃が「何かを入れてくれ」と静かに訴えている。この単純な生理的欲求が、どれほど尊いものか。四ヶ月目の悪阻の地獄を経験した今のイヨリには、痛いほどに分かった。
隣を見た。マツバは珍しく深い眠りの中にいた。あの悪阻の日々、毎夜三度の覚醒に付き合い続けた男の身体が、妻の安定を感じ取って、ようやく本当の休息を許し始めたのだろう。金色の前髪が額にかかり、寝息が規則正しく、穏やかだった。紫の瞳を閉じた顔は、ジムリーダーの威厳もホウオウの求道者の険しさも消えて、ただの二十七歳の青年の顔だった。
起こさないように布団を出た。左足のアステア・システムが緑のランプを灯す。台所へ向かうと、バリヤードが既に起きて朝食の仕込みをしていた。イヨリの顔を見て、バリヤードの目が輝いた。この数ヶ月、台所の換気に気を配り、匂いの出る調理を制限され、自慢の料理の腕を封じられていたバリヤードにとって、イヨリが台所に自分から来るという事実自体が、嬉しくてたまらないのだ。
「バリヤード、おはよう。今朝は——お出汁の匂い、大丈夫みたい」
バリヤードが両手を胸の前で合わせ、天を仰いだ。感謝の祈りのような仕草。それから勢いよく冷蔵庫を開け、ありとあらゆる食材を取り出し始めた。堰を切ったように、昆布と鰹節を惜しみなく使った出汁を引き、根菜を刻み、卵を溶いた。イヨリは苦笑しながら、久しぶりに台所の椅子に座ってその様子を眺めた。
出汁の香りが、屋敷全体に広がっていく。鰹節の芳醇な香り、昆布の海の匂い、大根が煮える湯気。あの頃なら一瞬で吐いていた匂いたちが、今は——温かかった。懐かしくて、心の底から安心する匂いだった。
涙が出そうになった。匂いが許されるということが。食べたいと思えるということが。これほどまでに幸福だということが。
「……いい匂い」
その呟きを聞きつけたのか、寝室の方から足音がした。湯上がりではない、起き抜けのままの、裸足のぺたぺたという音。障子が開いて、寝癖だらけの金髪が台所の入り口に現れた。
「イヨリちゃん……台所にいるの?」
マツバの寝ぼけた目が、台所に立つ妻の姿と、張り切るバリヤードの背中と、湯気を上げる鍋を順番に捉え——そしてゆっくりと、その意味を理解した。
「朝ごはん、食べる?」
イヨリが、微笑みながら言った。数ヶ月ぶりの、食卓に座って一緒に食事をしようという誘い。マツバの紫の瞳が、行燈の灯りではなく朝日の中で潤んだ。
「……食べる。食べるよ」
二人は向かい合って座った。バリヤードの渾身の朝食——大根と油揚げの味噌汁、卵焼き、ほうれん草の胡麻和え、炊きたてのごはん。質素だが、全てが温かく、全てが丁寧で、全てに愛が詰まっている。
イヨリが味噌汁を一口すすった。出汁の旨味が舌の上に広がり、温かい液体が喉を通って胃に落ちる。胃が、それを穏やかに受け入れた。拒絶しなかった。二口目、三口目。卵焼きに箸を伸ばし、ふわふわの黄色い一切れを口に運んだ。甘くて、柔らかくて、バリヤードの優しさがそのまま形になったような味がした。
「おいしい……」
マツバが、箸を持ったまま、固まっていた。妻が「おいしい」と言いながら朝食を食べている光景を、ただ呆然と見つめている。凍ったぶどうでも、すりおろしりんごでもなく。ちゃんとした食事を、きちんと食卓で、味わって食べている。
「マツバさん、食べないの?」
「……食べるよ。うん。食べる」
マツバは照れ隠しのように味噌汁を口に運んだ。その目の縁が赤いことを、イヨリは見逃さなかった。台所の窓からは冬の朝日が二人の食卓を照らし、味噌汁の湯気が光の中で金色に揺れている。
* * *
【二】修行僧の包丁
安定期に入ったイヨリに、栄養をたっぷり摂らせなければならない。
マツバは決意した。バリヤードの料理は素晴らしいが、イヨリの身体が今何を必要としているのかを理解した上で献立を組み立てるには、自分自身が台所に立つ必要がある。ロトムに妊婦の栄養学を調べさせ、葉酸、鉄分、カルシウム、タンパク質——必要な栄養素のリストを暗記した。修行で経典を暗誦するのと同じ要領だった。
バリヤードに師事した。
「包丁の持ち方が違うロト。親指と人差し指で挟むように持つロトよ」
「こう?」
「それだとゴーストタイプの手刀ロト。料理じゃないロト」
ロトムの的確な突っ込みを受けながら、マツバは真剣な顔で大根を刻んだ。刻むという動作自体は修行者の身体能力で問題ない。問題は力加減だった。バトルで鍛えた手は、大根を半月切りにしようとして円盤型のチップスにしてしまう。ゲンガーが台所の影から覗き込み、くすくす笑った。
三日間の特訓の後、マツバはどうにか形になる料理を作れるようになった。味付けは相変わらず大雑把だが、バリヤードの監修が入るので食べられないものにはならない。何よりマツバが自分で考案した「葉酸たっぷり補血粥」は、ほうれん草と血合いの鶏レバーと枸杞の実を刻んで、出汁で炊いた粥に混ぜ込んだもので、見た目は正直言ってひどかったが、栄養価だけは完璧だった。
イヨリは、その見た目のひどい粥を、一口食べて目を丸くした。
「……おいしい。マツバさん、これ本当に自分で作ったの?」
「うん。見た目は僕も分かってるよ。その、ゲンガーのシャドーパンチの後みたいな色だよね」
「あはは……確かに。でも、味はとても良いですよ。出汁がちゃんと効いてる」
「バリヤードに三回やり直しさせられた」
イヨリが笑った。声を出して笑った。あの悪阻の日々には、笑い声すら出せなかった。唇の端が上がるだけで精一杯だった。それが今、声を上げて、目尻に涙を浮かべるほど笑っている。マツバの胸の中で、何かがじんわりと溶けていくのを感じた。凍っていた何かが。あの長い冬の間、ずっと凍りついていた何かが。
それから毎朝、マツバは台所に立つようになった。メニューは限られている。粥と汁物と、簡単な煮物くらいしか作れない。けれどイヨリは、マツバが作ったものをいつも美味しそうに食べてくれた。三キロ以上落ちた体重が、ゆっくりと戻り始めた。頬に血色が戻り、髪に艶が戻り、その目に——ドクターとしての聡明な光が、再び宿り始めた。
「マツバ、イヨリの体重が妊娠前の水準に回復したロト。胎児の発育も順調ロトね」
ロトムの報告を受けた夜、マツバは台所で一人、包丁を洗いながら、静かに目を閉じた。ホウオウの虹色の翼を追い求めていた日々が、遠い前世のように感じられた。包丁を握る手。大根を刻む手。粥をかき混ぜる手。修行で鍛えた手は、今、妻と子のために食事を作る手になっている。千里眼の修行者から、台所に立つ父親へ。その変化が——不思議と、悪くなかった。
* * *
【三】膨らむ世界
妊娠五ヶ月。イヨリのお腹は、目に見えて膨らみ始めていた。
まだ冬服の上からは分かりにくい程度だが、入浴時や着替えの際に見ると、下腹部が緩やかな丘のように盛り上がっている。硬くもなく柔らかくもない、独特の弾力。その丘の中に——あの米粒ほどの命が、今はレモンほどの大きさに成長している。
手持ちの着物が窮屈になり始めた。帯の位置を少し上げないと、下腹部が苦しい。イヨリは往診時に使う白衣は元々ゆったりしたデザインだったので問題なかったが、普段着の着物は調整が必要だった。
「マツバさん、そろそろマタニティ用のものを見に行きたいのですが」
「一緒に行こう」
即答だった。むしろ一人で行かせるつもりなど微塵もない、という声だった。あの切迫流産の経験を経て、マツバは「イヨリを一人にする」ということに対して、ほとんど病的なまでの警戒心を持つようになっていた。イヨリ自身は苦笑しつつも、その過保護さを——心の奥底では——心地よく受け入れていた。
エンジュシティの商店街を、二人で歩いた。冬の終わりの日差しが石畳を照らし、焼けた塔の方角から柔らかい風が吹いている。イヨリの左手にはマツバの右手。左足の歩行を補助するアステアの腕輪と、マツバの大きな掌が、彼女の歩みを二重に支えている。
呉服屋の女将が、イヨリのお腹を見て破顔した。
「あらまあ、イヨリ先生! おめでたなのね! マツバさん、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
マツバの頬が、微かに赤くなった。エンジュの街の人々に妊娠を知らせるのは、これが初めてではない。桐生医師の指導で安定期に入ってから周囲に知らせ始めたのだが、いまだにおめでとうと言われるたびに、マツバの耳の先が赤く染まる。千里眼で霊界すら見通す男が、妊娠を祝われるだけで照れる。その姿がおかしくて、イヨリは「ふふ」と笑みを漏らした。
女将が勧めてくれたマタニティ用の着物は、腹部にゆとりのある仕立てで、帯の位置を月齢に合わせて調整できるようになっていた。イヨリは二着選んだ。一着は普段用の紺地に白い小花柄。もう一着は——薄い藤色の、上品な訪問着。エンジュの旧家の嫁として、正装が必要になる場面に備えて。
試着室から出てきたイヨリを見て、マツバの息が止まった。
藤色の訪問着が、膨らみ始めた腹部の曲線に沿って優雅に流れている。腰紐の位置が高くなった分、胸元が強調され、妊婦特有の豊かな丸みがシルエットに柔らかさを添えている。黒髪をいつもの低い位置で一つに結い、白濁した左目と澄んだ右目が、藤色の衣に映えて——マツバは言葉を失った。
「……どうですか?」
「綺麗だ」
それだけしか言えなかった。語彙力を全て持っていかれた顔で、マツバはイヨリを見つめていた。女将が「まあまあ」とにやにやしながら、もう一着のお仕立ても急ぎますねと請け負ってくれた。
帰り道、商店街の甘味処で休憩した。イヨリが温かいぜんざいを注文し、マツバは抹茶を頼んだ。ぜんざいの小豆が、甘くとろりとイヨリの舌の上で溶ける。あの悪阻の日々には想像もできなかった——甘いものを美味しいと感じる幸福。
「マツバさん」
「ん?」
「一口、食べますか? おいしいですよ」
イヨリが匙を差し出した。マツバは少し躊躇してから、妻の匙からぜんざいを受け取った。甘い小豆と餅の弾力が口の中に広がる。
「……甘いね」
「マツバさん、甘いもの苦手でしたよね」
「うん。でも、おいしいよ。イヨリちゃんが『おいしい』って顔で食べてるのを見るのが、一番おいしい」
イヨリの頬が、ぜんざいの湯気のせいだけではなく、紅く染まった。
* * *
【四】ポコッ
その夜のことだった。
寝支度を終え、布団に入った二人。行燈の灯りが障子に柔らかい影を描いている。エンジュの冬の夜は静かで、遠くの鐘楼から風に乗って鐘の余韻が届いてくる。
いつものように、マツバがイヨリの背後から身体を包み込んだ。大きな腕がイヨリの肩を抱き、掌が自然と下腹部に降りてくる。膨らみ始めたお腹。あの夜——妊娠を告げられた夜——には何もなかった場所に、今は確かな丘がある。マツバの掌がその丘にそっと乗り、温もりを伝えるように、ゆっくりと撫でた。
「今日は楽しかったね」
「はい。着物を選ぶのも楽しかったですし、ぜんざいも美味しかったです。……マツバさんは苦手でしたでしょうけど」
「あれは甘すぎたよ。でも、イヨリちゃんの匙から食べたから、まあいいかなって」
「何ですか、それ」
「事実だよ」
くすくすと笑い合いながら、マツバの掌がイヨリの腹部を撫で続ける。いつものルーティン。毎晩、こうしてお腹を撫でながら眠りにつく。千里眼を使えば中の赤ちゃんの様子は見えるが、マツバは最近、あえて使わないことが多かった。見る代わりに、触れる。感じる。掌に伝わる体温と、微かな鼓動の振動だけを頼りに、壁の向こうの小さな命を愛おしむ。
イヨリの呼吸が、ゆっくりと深くなっていく。眠りに落ちかけているのだ。マツバも目を閉じ、妻の背中の温もりと、掌の下の丘の重みに意識を委ねた。
その時だった。
ポコッ。
掌に、小さな衝撃が走った。
マツバの目が、ばっと開いた。
何だ今のは。気のせいか。イヨリの胃の動きか。いや違う。今の衝撃は、腹部のもっと深い場所から来た。掌を当てていた位置——子宮のある場所——の、皮膚と筋肉を通して伝わってきた、明確な「打撃」だった。
息を止めた。掌を動かさず、同じ場所に当てたまま、全神経を集中させた。修行でゴーストのかすかな気配を捉える時の、あの極限の集中力。千里眼ではなく、触覚だけを研ぎ澄ませて——。
ポコ。ポコッ。
来た。二連続。今度ははっきりと分かった。掌の真下で、何かが——何かが内側から外に向かって押している。蹴っている。小さな足か、小さな手か、あるいは小さな膝か。確かめようもないが——中の命が、明確に「動いた」。
「……っ」
マツバは息を呑んだ。心臓が跳ね上がった。掌が微かに震えている。千里眼で赤ちゃんの姿を見たことはある。心拍を確認したこともある。けれどそれは「見る」という行為であって、「触れる」ではなかった。今、自分の掌に伝わってきたのは——視覚ではなく触覚で、初めて直接受け取った、子供からの信号だった。
「イヨリちゃん」
声が震えていた。自分でも分かるくらい、声が上ずっている。
「……ん……? なに、マツバさん……」
イヨリが眠りの淵から声を上げた。半分寝ている。
「今、動いた。蹴った。ここ、ここで——」
イヨリの意識が、一瞬で覚醒した。身体を仰向けに寝返らせ、マツバの手が当てられている場所を見た。自分ではまだ胎動を感じたことがなかった——いや、数日前から「お腹の中で金魚が泳いでいるような」微かな感覚はあったが、それが胎動なのか腸の動きなのか確信が持てなかった。けれど今、マツバの掌がそれを外側から捉えている。
「本当……? マツバさんが先に感じたの?」
「うん。ポコッて。二回」
イヨリが自分の手をお腹に当てた。マツバの手の隣に。二つの掌が並んで、膨らんだ丘の上で待った。
十秒。二十秒。三十秒——。
ポコッ。
「あっ……!」
イヨリの口から、小さな叫びが漏れた。感じた。確かに感じた。内側から、皮膚を押す小さな力。自分ではない誰かが、この中から世界に触れようとしている。
「いま……蹴りました……!」
イヨリの声は、笑っているのか泣いているのか分からなかった。両方だった。目から涙が溢れているのに、口元は最大限の弧を描いている。
マツバは——動けなかった。
掌の下に感じた三度目の衝撃が、彼の中の何かを決定的に変えた。千里眼で見ることは、まだどこか「他人事」の距離があった。モニター越しに命を確認するような、一枚のスクリーンを挟んだ体験。けれど今、掌に伝わったこの「ポコッ」は、スクリーンを突き破ってきた。子供が、自分の手に触れてきたのだ。壁越しに、初めて。
「……泣いてるの? マツバさん」
イヨリの声が、柔らかく問いかけた。マツバの頬を、涙が伝っていた。金色の前髪を通して行燈の灯りが濡れた頬を照らしている。
「……この子が。僕に、触ってきた」
声は、ぼろぼろだった。ジムリーダーの威風も、修行者の厳しさも、何もかも吹き飛んだ、むき出しの男の声。子供の足が自分の掌を蹴った。その事実だけで、世界が変わった。
「初めて……この子に触れた。見るんじゃなくて。千里眼じゃなくて。この手で」
マツバの掌がイヨリの腹部を包み込んだ。壊れ物を扱うように、けれど離すまいとするように。掌の下で、赤ちゃんはもう動いていなかった。蹴ったのはきっとほんの一瞬の気まぐれで、今はまた胎内の温かい水の中で丸くなっているのだろう。けれどマツバの掌には、あの「ポコッ」の感触が、焼き印のように残っていた。
* * *
【五】星が名を待つ夜
二人は、もう眠れなかった。
布団に横たわったまま、互いの手をイヨリの腹部に当てて、次の胎動を待っている。まるで天体観測のように——流星がいつ見えるか分からないけれど、見逃したくなくて、ただひたすら空を見上げ続けるように。
「ロトムによると、妊娠五ヶ月目の胎動は最初は不規則ロト。毎日感じるようになるのはもう少し先ロトね」
ロトムの解説を聞きながら、マツバはイヨリの腹部から手を離さなかった。
「ねえ、イヨリちゃん」
「はい?」
「さっきの蹴り。結構強かったよ」
「そうなんですか? 私は内側からだから、マツバさんほどはっきりとは……」
「うん。しっかりした蹴りだった。サッカー選手になれるかもしれない」
「マツバさん、この世界にサッカー選手はいるの?」
「いないか。じゃあ——将来ジムリーダーになった時に、バトルで強いキックを繰り出せるかも」
「まだ生まれてもないのに、もうジムリーダーにするつもりですか」
「冗談だよ。この子は好きなことをすればいい。ドクターでも、トレーナーでも、パン屋さんでも」
「パン屋さん……マツバさんから出てくる選択肢として、新鮮ですね」
「バリヤードに感化されたんだ。あいつの料理を見てたら、食で人を幸せにするのも悪くないなって」
イヨリが笑った。透き通った、穏やかな笑い。あの嵐の日々を越えた後だからこそ、この笑いの温かさが比類なく尊い。
「ねえ、マツバさん」
「うん」
「そろそろ、名前を考えませんか。本格的に」
マツバの掌が、腹部の上でぴたりと止まった。名前。あの夜——「名もなき星に、名を与える夜」——に「名前を考えなきゃ」と二人で言い合ってから、実はまだ具体的には決めていなかった。性別もまだ分からない時期だったし、悪阻や切迫流産の騒動で、それどころではなかったのだ。
けれど今、安定期に入り、胎動を感じ、この子が確かに「ここにいる」と主張し始めた今——名前を与える時が、来たのかもしれない。
「男の子でも女の子でも使える名前がいいですね。まだ性別は分からないから」
「そうだね。……エンジュの旧家には命名のしきたりがあるけど、僕はそういうのにあまりこだわりたくない」
「私もです。この子は、しきたりじゃなくて、私たちの想いで名付けたい」
マツバは天井を見つめた。行燈の灯りが揺れる天井板の木目を目で追いながら、考えている。ホウオウの虹色の翼から取って「虹」の字を入れるか——いや、それは自分の執着を子供に背負わせることだ。星にまつわる名前にするか——いや、イヨリのことだから、もっと地に足のついた名前を望むだろう。
「……焦らなくていいよ。まだ五ヶ月もある。ゆっくり考えよう」
「はい。でも、少しずつ。二人で」
イヨリがマツバの手を取り、自分の腹部に重ねた。四つの掌の下で、名もなき星は静かに眠っている。さっきの三回の蹴りが嘘のように、今は穏やかだ。
ポコ。
四回目が来た。今度は本当に小さくて、マツバの掌が感じるかどうかの微かな振動。けれどイヨリは感じた。内側から。自分の身体の中を流れる温かい水を通して、子供が寝返りを打ったのが分かった。
「……今、動いた」
「分かった。感じたよ」
二人は顔を見合わせて、笑った。涙混じりの、けれどどこまでも穏やかな笑み。あの嵐の四ヶ月間を越えてきた二人だけが交わせる、静かな喜びの笑み。
外ではエンジュの冬空に、星が煌めいていた。焼けた塔の向こう、鐘楼の屋根の上に、冬の大三角形が鮮やかに瞬いている。冬の星は夏の星よりも明るい。空気が澄んでいるから。嵐が去った後の空が、最も星を美しく映すように——苦しみを越えた後の喜びは、何よりも深く心に刻まれる。
マツバの掌の中で、名もなき星が産声の代わりに蹴りを放つ。まだ声を出せない小さな命が、足の裏というたった数センチの接点で、世界に向かって叫んでいる。
ここにいるよ、と。
お父さんの手、あったかいよ、と。
マツバは掌を離さなかった。一晩中。眠りに落ちてもなお、その手はイヨリの腹部に添えられたまま、名もなき星の小さな蹴りを、夢の中でも待ち続けていた。
― 了 ―
あとがき by 佐藤美咲
主ィィィィッ!! 五連続えっちシーンゼロ!!! もう誰もあたしを成人向け同人作家とは呼ばないわ!! でもね——聞いて。凍ったぶどうから始まって、おかゆ、味噌汁、ぜんざい、補血粥——食のモチーフだけでイヨリの回復を辿れるように設計してあるのよ!! 食べられないことの地獄と、食べられることの天国。この対比が、妊娠編という物語の背骨なの!!
マツバの料理修行シーン最高に好きよ!! ゴーストタイプの手刀で大根を刻むな!! でも三日間の特訓で「葉酸たっぷり補血粥」を開発するマツバ、見た目はゲンガーのシャドーパンチの後みたいだけど味は完璧——この男、修行の才能だけは本物なのよね!!
そして初めての胎動の場面!!! 「ポコッ」——たったこの三文字にどれだけの感情を込めたか分かる!? マツバがイヨリより先に胎動を感じるっていう構造がポイントなの!! 千里眼でいつも「見て」いた男が、初めて「触れた」瞬間。「見る」と「触れる」の決定的な違い。スクリーンを突き破る生の感触。あたしが書きたかったのはこれよ!!
エピローグの「ここにいるよ、と。お父さんの手、あったかいよ、と」は——あたしが泣いた。ノエルが夜中に布団に潜り込んできた時に肉球でぽこぽこ踏んでくるアレを思い出して泣いた。命が「ここにいる」と主張すること。それが全てなのよ……