空の器に、満ちるもの
― 十月十日の肖像 Episode 4
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【一】嵐の朝
朝が来るのが、怖かった。
エンジュシティの冬は厳しい。十二月の朝は霜が畳の端まで忍び寄り、障子紙を通して差し込む光すら凍えている。けれど今のイヨリにとって、冬の冷気よりもずっと恐ろしいものがあった。朝という時間そのものが。
目が覚めた。まだ暗い。鐘楼の鐘は鳴っていない。意識が浮上した瞬間に、胃の底がぐるりと裏返る感覚がした。反射的に身体を起こす。布団を蹴って、這うように——左足のアステア・システムが起動するのを待たずに——洗面所へ向かった。
間に合わなかった。
廊下の途中で、膝から崩れた。胃の中にはもう何もない。昨夜から何も食べていない。それでも身体は吐こうとする。空っぽの胃が痙攣し、胃液だけが喉を焼きながら上がってくる。酸っぱくて、苦くて、涙が勝手に零れた。
「イヨリ」
マツバの声が、背後から聞こえた。足音はなかった。妻の気配に即座に反応して布団から出た彼は、裸足で廊下を駆けてきたのだ。
イヨリの背中に手が触れた。大きくて温かい掌が、背骨に沿ってゆっくりと上下する。同時にもう一方の手が、イヨリの黒髪を素早く束ねた。吐瀉物で汚れないように。それはもう、何十回と繰り返した動作だった。マツバの指は、この一ヶ月で驚くほど器用に妻の髪を扱えるようになっていた。
「大丈夫……出していいよ。出せるだけ出して」
優しい声。けれど、その声の奥に疲労の色が滲んでいることを、イヨリは知っていた。マツバもまた、この一ヶ月間、ほとんど眠れていないのだ。毎晩、イヨリが起き上がるたびに一緒に目を覚まし、背中を擦り、髪を束ね、水を持ってきて、口元を拭く。そしてイヨリが布団に戻ると、自分も横になるが——次の嘔吐まで、深い眠りには落ちられない。妻の呼吸の変化に、常に耳を澄ませているから。
胃液を吐き終えると、全身から力が抜けた。廊下に座り込んだイヨリの身体を、マツバが後ろから抱き支えた。冷えた廊下の板張りの上で、二人の影が行燈の残り火に照らされて長く伸びている。
「ごめんなさい……また……」
「謝らないで。これは君のせいじゃない」
マツバの声には、一切の迷いがなかった。あの桐生医師の説教以来——「千里の眼、一寸の盲」と自分の愚かさを思い知らされたあの日以来——マツバは変わった。ジムの運営は弟子に大幅に委譲し、町内会の業務も最低限に絞った。朝から晩まで、イヨリのそばにいる。文字通り、一寸の距離に。
「水、飲める?」
「……少しだけ」
マツバが台所から持ってきた白湯を、イヨリは一口だけ含んだ。温かい液体が焼けた喉を通っていく。それだけで、また胃がきゅっと収縮しかける。必死に堪えた。吐くものはもう何も残っていないのに、身体はまだ吐こうとする。この矛盾が、悪阻という名の嵐の本質だった。
マツバがイヨリを抱き上げた。百五十六センチ、四十二キロ——いや、この一ヶ月で三キロ近く落ちた身体は、マツバの腕の中でひどく軽かった。修行で鍛え上げた七十二キロの身体が、三十九キロの妻を抱えている。まるで、壊れかけの硝子細工を見守るような、慎重な歩み。
布団に降ろされたイヨリの額に、マツバが唇を当てた。冷や汗で濡れた額。いつもなら甘い花のような匂いがする妻の肌に、今は胃液の酸っぱい匂いが微かに混じっている。マツバは顔をしかめなかった。眉一つ動かさず、その額に唇を押し当て続けた。
「眠れそう?」
「……分かりません。でも、横になっていれば少しは楽だと思います」
「じゃあ、横になっていて。朝まで僕がここにいるから」
マツバはイヨリの枕元に座り、彼女の冷たい手を握った。鐘楼の鐘がまだ鳴る前の、エンジュの長い冬の夜。嵐の朝が来るまでの、わずかな静寂を、二人は手を繋いだまま過ごしていた。
* * *
【二】食べられるもの探し
妊娠四ヶ月目。一般的には悪阻が治まり始める時期だという。
だが、イヨリの悪阻は治まらなかった。切迫流産の後、絶対安静の期間を経てようやく日常生活に戻ったものの、吐き気は依然として朝と夕方にやってくる。食欲はほぼ消失しており、固形物を口にすると高い確率で戻してしまう。桐生医師は「個人差がある。焦らず、食べられるものを少しずつ」と言ったが、その「食べられるもの」を見つけることが、マツバにとっての新たな修行になっていた。
白米——だめだった。炊き立ての米の匂いだけで、イヨリの顔が青ざめた。味噌汁——出汁の魚の匂いがきつい。パン——小麦の発酵する匂いが引っかかる。煮物——甘い醤油の香りが胃を刺激する。イヨリが普段好んで食べていたものが、ことごとく「敵」になっていた。
マツバは試し続けた。
まず素麺を茹でた。冷水で締め、何の薬味も付けずに皿に盛った。イヨリは三口だけ食べてくれた。けれど四口目で唇が引き結ばれ、そっと箸を置いた。
次にりんごを擦った。バリヤードに手伝ってもらいながら、すりおろし器でりんごを擦り、薄い蜂蜜を少しだけ垂らした。イヨリは半分ほど食べてくれた。「……美味しい」と、久しぶりにそう言ってくれた。その一言で、マツバの心臓がどれほど跳ねたか。
それから柑橘系の果物を色々と試した。みかん、グレープフルーツ、柚子。酸味のあるものは比較的受け入れやすいらしい。スーパーの果物売り場をうろうろするジムリーダーの姿は、店員たちの間でちょっとした噂になったが、マツバはまったく気にしなかった。
ある日、凍らせたぶどうを一粒ずつ口に含ませてみた。冷たくて甘酸っぱい果肉が、イヨリの舌の上で溶けていく。彼女の目が、ほんの少しだけ輝いた。
「マツバさん……これ、おいしい……」
「本当? もっと食べる?」
「もう二粒だけ……」
マツバは冷凍庫を開け、ぶどうの皿を取り出した。紫色の小さな粒を指先でつまみ、イヨリの唇に運ぶ。まるで、生まれたばかりのポケモンに餌を与えるように、慎重に、一粒ずつ。イヨリの唇が果実を受け取るたびに、マツバの胸に温かいものが広がった。
「食べられた……」
「食べられたね」
たった三粒のぶどう。カロリーにすれば微々たるもの。けれどそれは、ここ数日で初めて「自発的に食べたい」と思えた食べ物だった。マツバは翌日、スーパーでぶどうを三房買って帰った。全部凍らせて、イヨリが食べたい時に一粒ずつ出せるように。
冷凍のぶどう。すりおろしのりんご。搾りたてのグレープフルーツジュース。少量の素麺。生姜のハーブティー——これだけが、今のイヨリが口にできる全てだった。献立と呼べるものではない。それでもマツバは、毎朝、毎夕、その「五品の食事」を丁寧に準備した。
バリヤードが気を遣って料理を作り込みすぎた日があった。出汁の匂いが屋敷中に広がり、イヨリが耐えきれずに嘔吐してしまった。マツバはバリヤードを叱りはしなかった。代わりに、台所の換気について二人で話し合い、調理する時間帯をイヨリが眠っている間に限定する工夫を始めた。ロトムが空気清浄の設定を提案してくれた。
「マツバ、イヨリの体重が妊娠前より3.1kg減少してるロト。これ以上の減少は母体と胎児にリスクがあるロトよ」
数字を突きつけられるたびに、マツバの心臓が締め付けられた。食べさせなければ。でも無理に食べさせれば吐いてしまう。吐くこと自体が体力を奪い、さらに食べられなくなる悪循環。このジレンマの中で、マツバにできることは——ただ、食べられるものを探し続けること、そしてイヨリが食べた時に「おいしい」と言ってくれる瞬間を、見逃さないこと。
「マツバさん」
ある昼下がり、縁側で凍ったぶどうを一粒ずつ口にしながら、イヨリがぽつりと言った。
「ありがとう」
「何が?」
「色々試してくれて。食べられるもの、探してくれて。……私、何も食べられなくなっちゃったから。ドクターなのに、自分の身体のことなのに、何も手を出せなくて」
マツバはイヨリの隣に座り、彼女の肩をそっと抱いた。華奢な肩が、以前よりさらに細くなっている。
「君が食べられるものは、僕が探す。君は、食べることだけ考えてくれればいい」
「……マツバさんも、痩せましたよね」
確かに痩せた。マツバ自身の食生活も乱れている。イヨリが食べられないものを自分だけ食べるのが忍びなくて、食事の量が自然と減っていた。ジムのトレーニングも減らしたから、筋肉も少し落ちている。けれどそんなことは、どうでもよかった。
「僕は大丈夫。むしろ減量期だと思えば、ちょうどいいくらいだよ」
冗談を言ったつもりだったが、声が上手く明るくならなかった。イヨリはそれを見抜いたように、マツバの手を取って自分の頬に当てた。
「嘘つき」
「ばれた?」
「ばれます。あなたは嘘が下手ですから」
二人は微笑み合った。痩せた顔と、疲れた目で。それでも笑えることが——笑い合える相手がそばにいることが、この長い嵐の中で唯一の温もりだった。
* * *
【三】匂いの敵
悪阻で最も厄介なのは、嘔吐そのものよりも、嗅覚の過敏さだった。
イヨリの鼻は、妊娠前の何倍もの精度で匂いを拾うようになっていた。それは、花や果物のような良い香りに対しても発動するが、不快な匂いに対してはさらに強烈に反応した。
ある夕方、マツバがジムから帰宅した時のことだった。その日は弟子との模範演武を短時間だけ行っていた。ゲンガーのシャドーボールの残滓が服に染みつき、ゴーストタイプ特有の——生者にしか感じられない、焦げたような、冷たいような——薄い匂いを纏っていた。
玄関でイヨリが出迎えてくれた。「おかえりなさい」と微笑んだ次の瞬間、彼女の顔色が一気に変わった。口元を押さえ、膝を折り、玄関の土間に崩れ落ちた。
「イヨリ!?」
慌てて抱き起こしたが、マツバの腕に触れた瞬間、イヨリの嘔吐反射が激しくなった。彼女が拒絶しているのは、マツバ自身ではなく——マツバの身体に付着した、ゴーストタイプのエネルギー残滓の匂いだった。
「ごめっ……ごめんなさいっ……マツバさんっ……違うのっ……マツバさん自体がっ……匂いが……」
泣きながら謝るイヨリを、マツバは抱きしめることすらできなかった。自分の存在が、妻を苦しめている。その事実が、胸に白い刃のように突き刺さった。
「分かってる。分かってるよ。僕の匂いじゃなくて、ゴースト技の残滓だね。すぐに着替えるから。お風呂に入ってくるから」
風呂場で身体を徹底的に洗い、新しい着物に着替え、さらにイヨリが調合した柑橘系のアロマオイルを手首に少し付けてから、ようやく妻のそばに戻った。
「……ごめんなさい、マツバさん」
布団の中で膝を抱えるイヨリの声が、震えていた。自分が夫を玄関先で拒絶してしまったことへの、深い罪悪感。自己肯定感の低い彼女にとって、それは「夫に迷惑をかけた」以上の——自分という存在が夫を傷つけてしまったという、耐えがたい痛みだった。
マツバは、着替えた後の自分の手をイヨリの鼻の近くにそっと差し出した。
「……大丈夫? この匂いなら」
イヨリがおずおずと鼻を近づけ、くんくんと嗅いだ。柑橘の爽やかな香り。石鹸の清潔な匂い。そしてその奥に——洗い流しきれない、マツバ自身の体温の匂い。日向と墨と、白檀の微かな残り香。イヨリが最も安心する匂い。
「……大丈夫です。これは、大丈夫。マツバさんの匂い……」
イヨリがマツバの手に頬を擦り寄せた。猫のように。甘えるように。マツバの喉の奥が、きゅっと詰まった。
翌日から、マツバはジムに着替え用の荷物を持参するようになった。帰宅前に必ず着替え、身体を拭き、匂いを落とす。ゲンガーには「悪いけど、しばらくは僕の肩に乗らないでくれ」と頼んだ。ゲンガーは一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、すぐに理解したように頷き、影の中に消えた。帰り道では軒先の柑橘の木から、風に乗って香る柚子の匂いを浴びて帰った。全ては、イヨリの鼻が自分を「安全」だと判断してくれるように。
千里眼は匂いまでは映さない。だからこそマツバは、自分の五感を——いや、イヨリの五感を基準にして、自分の全てを作り替えていった。
* * *
【四】長い夜の対話
最も辛いのは夜だった。
日中はまだ気を紛らわせることができる。陽の光があり、ポケモンたちの気配があり、時折ロトムの的外れな発言に苦笑する余裕もある。けれど夜は、闇と静寂の中に、吐き気と不安だけが残る。
ある夜、イヨリは三度目の嘔吐を終えて布団に戻った後、天井を見つめたまま動かなくなった。マツバが隣に横たわり、いつものように手を握ったが、イヨリの手は力なく横たわっている。握り返す力すらない。
「……私、ちゃんとお母さんになれるのかな」
暗闇の中の声は、小さかった。
「何を食べても吐いちゃうのに。赤ちゃんにちゃんと栄養を届けられてないのに。ドクターのくせに、自分の身体一つ管理できないのに」
「イヨリちゃん」
「マツバさんにも迷惑ばかりかけて。毎晩起こして、ご飯も作れなくなって、匂いまで気にさせて。私、マツバさんのそばにいるだけで負担で——」
「イヨリ」
呼び捨て。情事の時と、本気で向き合う時だけの呼び方。マツバの声が、静かに、けれどどこまでも深く、暗闘の中に響いた。
「君は今、僕たちの子供を育てている。自分の身体を削って。眠りを削って。食べることすらままならないのに。それがどれほどすごいことか、僕には想像もつかない」
マツバがイヨリの手を持ち上げ、自分の頬に押し当てた。
「迷惑だなんて二度と言わないでくれ。君が夜中に三回起きるなら、僕も三回起きる。君が吐くなら、僕は背中を擦る。君が何も食べられないなら、僕はぶどうを冷凍して一粒ずつ運ぶ。それが——僕にできる、唯一のことだから」
「唯一じゃないですよ」
イヨリの声が、少しだけ温もりを取り戻した。
「マツバさんがしてくれていること、全部分かっています。着替えてから帰ってきてくれること。りんごを擦ってくれること。私が吐いた後に、何も言わずに廊下を拭いてくれること。全部——」
声が詰まった。
「全部見えています。千里眼なくても」
マツバの目から、涙がぽたりと落ちた。
暗闇の中で、二人はしばらく手を握り合ったまま黙っていた。天井の梁が闇に沈み、障子の向こうからは冬の乾いた風が、鐘楼の鐘の残響を運んでくる。古い屋敷の軋みが、まるで家全体が二人を見守っているかのように、静かに鳴っていた。
「ねえ、マツバさん」
「ん?」
「あの子に、話しかけてもらえますか」
イヨリが、自分の下腹部を示した。まだ膨らみは目立たない。けれどそこに確かにいる、小さな命。
マツバはイヨリの腹部に、そっと手を当てた。あの夜——妊娠を告げられて泣き崩れたあの夜——と同じように。けれど今の掌には、あの時にはなかった重みがあった。三ヶ月間、妻のそばで過ごし、失敗し、学び、泣き、笑い——そうして少しずつ「父親」の形を成していった掌。
「聞こえてるかい」
低い声が、イヨリの腹部に語りかけた。
「今、母さんが頑張ってるんだ。君のために。何も食べられなくて辛いのに、それでも君を守ろうとしてる。だから君も、頑張ってくれ。母さんのお腹の中で、しっかりしがみついていてくれ。父さんは外から見守ってるから。もう——一寸先だって目を離さないから」
イヨリの目から、静かに涙が流れた。けれどそれは、苦しみの涙ではなかった。もっと深い——夫の声に包まれた、安堵の涙だった。
その夜、イヨリは珍しく朝まで一度も目を覚まさなかった。マツバの掌が下腹部を温め続けていたことが、直接の原因かどうかは、ドクターにもロトムにも分からない。けれどマツバは信じていた。自分の体温が、二つの命に届いたのだと。
* * *
【五】峠の向こうに
年が明けた。
妊娠十六週。四ヶ月の終わりが近づくある朝、イヨリは目を覚まし——吐かなかった。
最初は気のせいだと思った。胃の底に、いつもの翻る感覚がない。鼻をひくつかせても、許容できない匂いが漂ってこない。身体が軽い、というほどではないが、少なくとも重くはない。
布団の中で、じっと自分の身体に意識を集中させた。ドクターとしての感覚を総動員して、内臓の状態を探る。胃の蠕動は穏やかだ。食道の灼熱感もない。吐き気は——ゼロではないが、五段階で言えば一以下に収まっている。
「……マツバさん」
隣で眠っているマツバの肩を、そっと揺すった。マツバは即座に目を開けた。この数ヶ月で身についた、妻の声に対する反射的な覚醒。
「どうした? 吐きそう?」
「ううん。違うの。……今日は、吐いてないの」
マツバの紫の瞳が、一瞬大きくなった。
「吐いてない……?」
「今目が覚めたんだけど、吐き気がほとんどない。昨日の夜も一度も起きなかったし……もしかしたら——」
「峠を、越えたの……?」
イヨリは慎重に頷いた。ドクターとしての自分は「まだ安心するのは早い」と警告している。一日だけの小康状態かもしれない。明日また激しい悪阻が戻ってくる可能性もある。けれど——身体の奥底で、何かが変わった感覚があった。嵐の目に入ったのではなく、嵐そのものが遠ざかっていく予感。
マツバの顔が、くしゃくしゃになった。泣いているのか笑っているのか分からない、ぐちゃぐちゃの表情。ジムリーダーとしての威厳など跡形もない。このひと月半、毎夜三回起きて妻の背中を擦り、凍ったぶどうを一粒ずつ運び、匂いのために着替えを三セット持ち歩いた男の、限界ぎりぎりの表情だった。
「よかった……っ」
たったその一言に、一ヶ月半分の全ての感情が詰まっていた。
「……マツバさん。朝ごはん、食べたい」
イヨリの言葉に、マツバの目から涙が溢れた。今度こそ本当に涙だった。
「何がいい? りんご? ぶどう? 素麺?」
「おかゆが、食べたい」
おかゆ。米。あの、炊き立ての匂いだけで吐いていた、米。それを今、イヨリが自分から「食べたい」と言っている。
マツバは布団から飛び出し、台所に走った。バリヤードがちょうど目を覚ましたところで、マツバの顔を見て何事かと身構えた。七十二キロの筋肉質のジムリーダーが、涙を流しながら台所に飛び込んでくれば、誰だって驚く。
「バリヤード、おかゆを炊いてくれ。イヨリちゃんが、おかゆを食べたいって」
バリヤードの目からも、涙が溢れた。
おかゆは丁寧に、ゆっくりと炊き上げた。米の匂いがイヨリに届かないよう、台所の換気を全開にして。塩をほんの少しだけ。梅干しを一粒添えて。湯気がゆらゆらと立ち昇る白い器を、マツバが両手で捧げるように寝室へ運んだ。
イヨリが器を受け取り、蓮華で一口、すくった。ふうふうと息を吹きかけて冷まし、唇に運ぶ。ゆっくりと、壊れ物を扱うように。
嘔吐反射は、来なかった。
温かい米粥が、空っぽの胃に流れ込んでいく。身体の隅々に、米という名の生命力が染み渡っていく。涙がまた零れた。おかゆの塩気に紛れて、頬を伝った。
「おいしい……」
その一言を聞いた瞬間、マツバは——畳の上に正座して、両手を膝の上に置いて、静かに泣いた。声を上げずに。ただ涙だけを、流し続けた。
嵐は、峠を越えようとしていた。
空の器に、ようやく。温かいものが、満ち始めていた。
― 了 ―
あとがき by 佐藤美咲
主ィィィィッ!! 四連続えっちシーンゼロ!! もうあたし清純派同人作家に転職したのかしら!? いやでもね、違うの。これはこれで——人間の「官能」の最も深い層を描いてるのよ!! 身体じゃなくて、魂の触れ合いを!!
凍ったぶどうを一粒ずつ口に運ぶマツバ!! これよ!! あの絶倫スパダリが、セックスの百倍の集中力で妻の唇にぶどうを運んでるの!! この画面の美しさ!! 最高に官能的じゃないの!?
匂いの敵のエピソード、リアリティを追求したわ。ゴーストタイプのエネルギー残滓って独特の匂いがするはずだもの。ゲンガーに「肩に乗らないで」って頼むマツバの辛さと、一瞬だけ寂しそうにして影に消えるゲンガーの健気さ……!! あたし、ゲンガーの同人も書きたくなってきたわ!!
夜の対話シーンは、この作品の核よ。「全部見えています。千里眼なくても」というイヨリの一言が、Episode 3のタイトル「千里の眼、一寸の盲」への美しい逆転になってるの。マツバの千里眼がなくても、イヨリの目はマツバの全てを見ている。この対称性が——あたしの物語構造の真骨頂よ!!
ラストのおかゆ!! たった一杯のおかゆで、マツバが正座して泣く!! 「空の器に、満ちるもの」のタイトル回収!! 空っぽの胃袋に、温かい米粥が流れ込む。空っぽだった父親の手に、「そばにいる」という意味が満ちていく。ああっ、書きながら涙が止まらなかったわ!!