玄関先の罪と罰【前編】
午後二時十四分。宅配便のトラックがエンジュシティの古き良き街並みを、慎重な速度で進んでいた。
運転席の安西竜也は、ダッシュボードに貼り付けた配達リストに目を落とした。次の届け先は、エンジュジムの広大な敷地の隅に佇む、歴史を感じさせる平屋の古民家。荷物はAmazonの箱が二つ。軽い方と、やや重い方。伝票には「マツバ様方 イヨリ様」と書かれていた。平日の午後だから、在宅かどうかは五分五分。不在票を書く準備もしておく。それがこの仕事のルーティンだった。
安西は今年で二十六歳になる。この仕事を始めて三年。一日百五十件前後の配達をこなす。朝七時に営業所を出て、夜八時に戻る。体力勝負で、頭は使わない。考えるのは、最短ルートと、不在の多い時間帯くらいだ。
安西はトラックをジムの門扉の近くに停め、手押し車に荷物を載せて庭先へと向かった。エンジュの象徴である「焼けた塔」が、遠くにシルエットを覗かせている。古民家の呼び鈴を鳴らした。
数秒の沈黙。
不在かと思って伝票を取り出しかけた時、インターホンのスピーカーから声が聞こえた。
「はーい、今行きまーす」
柔らかい女の声だった。少し気の抜けた、午後のまどろみをそのまま声にしたような響き。安西はダンボール箱を二つ重ねて持ち直し、玄関の前で待った。
ドアが開いた。
安西の思考が、一瞬だけ停止した。
小柄な女が立っていた。年齢は二十歳前後だろうか。栗色の髪が肩より少し長くて、寝起きのままなのか、片側だけが跳ねている。頬に枕の跡が薄く残っていた。午後二時。昼寝をしていたのだろう。
問題は、服装だった。
薄いグレーのスウェットを着ていた。オーバーサイズで、袖が手首より先まで余っている。男物だった。明らかにサイズが合っていない。夫か、恋人のスウェットを借りて着ているのだと、安西は即座に理解した。首元が大きく開いていて、鎖骨が両方とも完全に見えていた。その下に、何も着ていないことが分かった。ブラをしていない。スウェットの柔らかい生地が胸の膨らみに沿って、自然な丸みを描いていた。小ぶりだが、形の良い輪郭。そして、肌寒いのか、先端がほんのり生地越しに主張していた。乳首の突起が、グレーの布地に小さな影を落としている。
安西は視線を逸らした。逸らさなければいけなかった。
下半身はショートパンツだった。淡いピンクの、おそらくパジャマの一部だろう。丈が極端に短くて、太腿の付け根近くまで脚が露出していた。白い肌。細いが、適度に肉がついている。膝から足首にかけてのラインが、まっすぐで綺麗だった。素足。ペディキュアは塗っていない。爪が自然なピンク色で、小指の爪が小さかった。
「宅配便でーす。お届けものでーす」
安西は、自分がプロであることを思い出した。声を出した。営業スマイルを作った。視線は相手の顔に固定した。胸元を見ない。脚を見ない。プロだ。宅配のプロだ。
「あ、来た来た。ありがとうございます」
女がにっこりと笑った。その笑顔が、致命的だった。
目が柔らかかった。眠気がまだ少し残っているのか、瞼が半分だけ降りていて、蕩けたような目だった。口元が自然に上がっていて、えくぼが右頬だけにできた。左右非対称の笑顔。計算のない、天然の愛嬌。
安西は、自分の心臓が一拍だけ飛んだのを感じた。
「こちらにサインかハンコをお願いします」
端末を差し出した。女が「はーい」と間延びした返事をして、端末に手を伸ばした。
その時、女の身体が前に傾いた。荷物を受け取ろうとして、自然に前傾姿勢になった。スウェットの首元がだらりと開いて、胸元が見えた。鎖骨の下、乳房の上側の膨らみが、白い肌が、影になった谷間が、安西の視界にぬるりと滑り込んできた。
安西は、古民家の高い天井を仰ぎ見た。歴史を感じさせる太い梁。素晴らしい建築だ。シミ一つない。素晴らしい家だ。
「あれ、ここにサインでいいですか?」
「はい、そこで大丈夫です」
女が端末にサインを書いた。少し丸みを帯びた筆跡で「イヨリ」と。ペンを持つ左手の薬指に、銀色の指輪が光っていた。結婚指輪。人妻。誰かの奥さん。
安西の脳内で、理性がサイレンを鳴らした。人妻だ。見るな。考えるな。荷物を渡して、次の配達先に行け。これは仕事だ。ルーティンだ。一日百五十件のうちの一件に過ぎない。
「重い方、どこに置きましょうか」
「あ、玄関の中でいいですか? ちょっと重くて……」
「はい、もちろんです」
安西は大きい方のダンボール箱を持ち上げて、玄関の中に一歩入った。靴は脱がない。規則だ。玄関のたたきに箱を置いた。
その時、室内の匂いが鼻に届いた。
甘い匂いだった。柔軟剤の匂いと、それとは別の、もっと生々しい甘さ。女の身体の匂い。石鹸の残り香。肌から立ち上る、微かな体温の匂い。居心地の良い、清潔で温かい、人が暮らしている部屋の匂い。
安西は箱を置いて、すぐに一歩下がった。これ以上この空間にいてはいけない。本能がそう告げていた。
「ありがとうございます。助かりました」
女が笑った。またあの笑顔だった。えくぼが右頬だけに浮かんで、目が蕩けていて、殺傷力が高すぎる笑顔だった。
「あ、ちょっと待ってください」
女が言った。小走りでリビングに戻っていった。背中が見えた。スウェットが背中でたるんでいて、腰のラインが覗いていた。ショートパンツから伸びる脚が、小走りの動きに合わせて弾んでいた。太腿の裏側の、柔らかそうな肌。ヒップラインが布地の中で揺れるのが見えた。ブラをしていないのと同様に、ショートパンツの下も、一枚しか履いていないように見えた。生地が臀部に食い込んで、丸みの輪郭がはっきりと浮かんでいた。
安西は目を閉じた。閉じなければいけなかった。
女が戻ってきた。手に小さな紙袋を持っていた。
「これ、よかったら。旦那さんの実家から送ってもらったみかんなんですけど、多すぎて食べきれなくて」
紙袋の中に、みかんが五つほど入っていた。安西は断るべきだった。原則として、配達先から物品を受け取ることは禁止されている。しかし。
女が紙袋を差し出した時、その手が安西の手に触れた。
指先が、冷たかった。末端冷え性なのだろう。細い指。小さな手。人差し指の先が、安西の親指の付け根にちょんと触れて、すぐに離れた。ほんの一瞬の接触。何の意味もない、偶然の接触。
なのに、その冷たさが、安西の手のひらにじわりと焼き付いた。
「あ……すみません、手、冷たかったですよね。暖房つけてるんですけど、末端だけ冷えちゃって」
女が申し訳なさそうに笑った。その時、寒そうに自分の腕を抱いた。腕を組むようにして、自分の身体を抱え込んだ。
その動作が、胸を下から持ち上げる形になった。
ブラをしていないスウェット越しの胸が、腕に押されて形を変えた。柔らかい膨らみが横に広がって、上に持ち上がって、首元の開きから谷間のラインがくっきりと見えた。乳首の突起が生地に押し当てられて、先ほどよりも鮮明な立体感を持って浮かび上がった。
安西は受け取ったみかんの袋を見た。みかんを見た。オレンジ色。丸い。安全な色。安全な形。みかんのことだけ考えろ。みかんだ。みかんだ。愛媛県産温州みかん。糖度十二度。ビタミンCが豊富。みかんだ。
「ありがとうございます。では、お届け物は以上になります」
「はーい、ありがとうございました。いつもお疲れ様です」
女が、ぺこりとお辞儀をした。
お辞儀をした時、スウェットの首元から、胸が覗いた。重力に従って、ブラに支えられていない乳房が柔らかく垂れ下がった。白い肌。薄桃色の乳輪の端。ほんの一瞬だけ見えて、すぐに消えた。女が身体を起こしたから。
安西は、自分の顔が熱くなっているのを感じた。
「それじゃあ、失礼します」
「はい。お気をつけて」
ドアが閉まった。
安西は静かな庭に立ち尽くした。みかんの袋を持ったまま。心臓が、仕事の後のように激しく打っていた。汗が、背中にじわりと滲んでいた。
配達を三年やっている。一日百五十件。年間で約四万五千件。様々な人がドアを開ける。パジャマ姿の人、化粧をしていない人、裸にバスタオルだけの人もいた。慣れたはずだった。プロだった。
なのに。
あの女は、何だったのだ。
露出度が高かったわけではない。スウェットにショートパンツ。部屋着としては普通だ。ブラをしていないのは、自宅にいるのだから当然だ。何もおかしくない。
なのに。
あの無防備さが、安西の脳を焼いていた。
色気を出そうとしていなかった。誘惑しようとしていなかった。あの女は、ただ宅配便を受け取りに来ただけだ。昼寝から起きて、旦那のスウェットを羽織って、玄関まで歩いてきただけ。鏡も見ていないだろう。化粧もしていない。髪も整えていない。ありのままの、午後二時の姿。
それが、あんなにも色っぽかった。
無意識だから色っぽいのだ、と安西は理解した。計算がないから、隙があるから、防御がないから。あの柔らかい笑顔と、蕩けた目と、寝起きの声と、ブラのない胸と、露出した太腿と、指先の冷たさ。全部が、全部、計算なしに安西の前に差し出された。
そして、左手の薬指の指輪。
あの女は誰かの奥さんで、誰かを愛していて、誰かの帰りを待っている。あの無防備さは、安西に向けられたものではない。旦那といる時の延長線上にある、油断だ。宅配の兄ちゃんなんか、背景の一部だ。家具と同じだ。だから緊張しない。だから無防備でいられる。
それがむしろ、安西には堪えた。
自分は背景だった。あの色気を浴びておきながら、自分は相手にとってはインターホンを押す機械と同じだった。見られてすらいなかった。あの笑顔は、宅配員という役割に向けられた社交辞令で、安西という個人を認識してはいなかった。
安西は庭を抜け、ジムの門を通ってトラックに戻った。運転席に座り、みかんの袋を助手席に置いた。次の配達先を確認した。「鈴木」。二丁目のアパート。荷物は書籍。軽い。
ハンドルを握った。右手の親指の付け根に、まだあの女の指先の冷たさが残っている気がした。
安西はエンジンをかけた。
忘れろ。人妻だ。配達先の客だ。今日の百五十件のうちの一件だ。明日には忘れている。来週には顔も思い出せない。
そう自分に言い聞かせながら、安西はトラックを発進させた。
でも本当は分かっていた。忘れられない。あの午後二時の玄関先は、安西の記憶に永久に刻まれた。グレーのスウェット。ピンクのショートパンツ。右頬だけのえくぼ。蕩けた目。薄桃色の乳輪の端。指先の冷たさ。銀色の指輪。
全部、全部、忘れられない。
それは安西にとって、罪のない罰だった。何も悪いことはしていない。ただドアが開いて、ただ荷物を渡して、ただみかんをもらった。なのに、あの光景が脳裏から離れない。それが罰だ。配達員であるというだけで与えられた、甘美な罰。
次の信号で停まった時、安西はふと気づいた。
あの女の旦那は、あの光景を毎日見ているのだ。毎朝、あの寝起きの顔を見て、あのスウェット姿を見て、あの笑顔を浴びて。毎晩、あの身体を抱いて眠る。
世界で一番幸せな男だ、と安西は思った。
信号が青に変わった。安西はアクセルを踏んだ。次の配達先へ向かった。午後二時二十三分。今日はまだ、あと六十七件残っている。
― 前編・了 ―
あとがき(佐藤美咲の独白)
主。これ、あたしが今まで書いた中で一番挑戦的な構造よ。一人称じゃない。三人称限定視点で、宅配員の安西竜也の目を通してだけ、イヨリを描いた。
イヨリは一言も心情を語らない。「はーい」「ありがとうございます」。新妻の日常の台詞だけ。それなのに、安西の目を通すと、全部がえっちに見える。ブラなしのスウェット、短すぎるショートパンツ、前かがみの谷間、お辞儀の瞬間の乳輪。全部、イヨリは無意識。
安西のみかんへの逃避が気に入ってる。胸が見えそうになるたびに「みかんだ、みかんだ、愛媛県産温州みかん」って必死に別のことを考えようとする。これが男の理性と本能の戦いよ。
最後の一行「あと六十七件残っている」。日常に戻る安西。でもあの玄関先の光景は永遠に消えない。これが「罪のない罰」。何も悪いことをしていないのに、記憶だけが残り続ける。
後編ではマツバとイヨリのいちゃらぶえっちを書くわ。安西が見た「あの姿」のイヨリを、マツバだけが味わえる。お楽しみに。