白百合は闇に屈さず【前編】
【一】獣の眼差し
男の名は、堂島健吾。三十二歳。コガネシティで運送業を営む、ごく普通の男だった——三ヶ月前までは。
変わったのは、エンジュシティへの配送ルートが追加されたあの日からだ。古都特有の狭い路地を荷台を揺らしながら走り、ジムリーダーの屋敷の近くにある診療所に医薬品を届ける。週に二度の、何の変哲もない仕事だった。
最初に彼女を見たのは、診療所の裏口だった。
白衣を纏った小柄な女が、段ボール箱を受け取るために出てきた。黒髪のセミロング。少しだけタレ目がちの大きな瞳。左手首に何か光るデバイスを巻きつけており、僅かに足を引きずるように歩いている。それなのに——いや、だからこそ——その儚さが、堂島の視線を釘付けにした。
白衣のボタンを二つ外していた。暑い日だったのだろう。鎖骨の下に覗くのは、華奢な身体に不釣り合いなほど豊かな胸の谷間で、白衣の生地がそこだけ丸く膨らんでいた。前屈みで段ボールを持ち上げたとき、谷間はさらに深くなり、清楚な顔立ちとの落差が堂島の脳を焼き切った。
「ありがとうございます。お疲れ様です」
柔らかい敬語。穏やかな微笑み。堂島は辛うじて「ど、どうも」と返した。トラックに戻り、ドアを閉めた瞬間、自分の下半身が熱く硬くなっていることに気づいた。たった一目しか見ていないのに。名前すら知らないのに。
その日から三ヶ月。堂島は配送のたびに彼女を観察し続けた。
名前はイヨリ。エンジュシティのジムリーダー・マツバの妻。元ポケモンセンターの夜勤専従医で、現在はポケモンドクターとして往診業務を行っている。左目と左足に障がいがあり、左手首のデバイスが生活を補助している。週に三日、午前中に診療所で勤務し、午後は往診に出る。往診日は一人でエンジュの旧市街を廻る。ジムリーダーの護衛がつく日もあるが、つかない日もある。
堂島が「つかない日」のパターンを見抜くのに、一ヶ月半かかった。
ジムリーダーの予定は公開されている。公式戦がある日は終日ジムに缶詰めになる。つまり——公式戦の日の午後が、もっとも手薄になる。
堂島は自分でも分かっていた。これは犯罪だ。人生を棒に振る行為だ。理性が何百回も警告を発している。けれど三ヶ月間、毎晩彼女の姿を思い出しながら自分を慰めても、渇きは癒えるどころか深くなる一方だった。白衣の下に隠された、あの柔らかそうな身体。足を引きずりながらも懸命に歩く、あの健気さ。丁寧な敬語の奥に、たまに零れる無防備な笑み。
一度でいい。一度だけでいいから、あの身体を自分の下に組み敷きたい。
堂島は貯金を崩し、準備を始めた。
【二】落とし穴
その日の午後、エンジュの空は曇天だった。鐘楼の鐘が一つ鳴り、旧市街の路地に鳩が舞う。
イヨリは往診カバンを肩にかけ、最後の患者の家を後にしたところだった。左手首のアステア・システムが淡い緑の光を灯している。バイタル安定。左足のアクチュエータが、石畳の凹凸を検知して歩行を補助する。今日は三件の往診を終え、あとは屋敷に帰るだけだ。
マツバは今日、公式戦。朝から「今日は早く終わらせるから、夕飯は一緒に食べよう」とメッセージが届いていた。イヨリは微笑んで「楽しみにしています」と返した。
旧市街の裏路地に入ったとき、前方に運送会社のトラックが停まっていた。荷台の後部が開いており、中に積み上げられた段ボールの一つが路上に落ちている。
「すみません、お姉さん! その箱、持ち上げるの手伝ってもらえませんか! 腰やっちゃって……」
トラックの影から、見覚えのある配送員の男が腰を押さえながら出てきた。堂島だ。イヨリは何度か診療所で顔を合わせたことがある。人の良さそうな笑顔で、いつも「お疲れ様です」と丁寧に挨拶してくれる男。
「大丈夫ですか? よかったら診ましょうか。私、一応医者なので」
イヨリは往診カバンを開きかけた。医者としての本能が条件反射で動く。堂島が「中に座らせてもらっていいですか」と荷台の中を指さした。
イヨリが荷台に一歩踏み込んだ瞬間。
背後で、金属の扉が閉まる音がした。
「え——」
振り返った時には遅かった。荷台の後部シャッターが完全に閉じ、内部は真っ暗になった。左手首のアステア・システムの緑の光だけが、段ボールに囲まれた狭い空間をぼんやりと照らしている。
「堂島さん……? これ、どういう——」
暗闇の中に、荒い息遣いが聞こえた。段ボールの山の向こう側に、堂島の影が立っている。月明かりも差さない完全な闇の中で、彼の目だけが異様に光っていた。
「ごめんなさい、先生。三ヶ月間、ずっと我慢してたんです」
イヨリの全身に、氷水を浴びせられたような悪寒が走った。
「一度だけ。一度だけでいいんです。先生の身体に、触らせてください」
堂島が一歩近づいた。イヨリが後退る。背中が段ボールの壁にぶつかった。逃げ場がない。左足のアクチュエータが警告音を鳴らしている——急激なストレスを検知したのだ。
「やめてください。あなた、自分が何をしているか分かっていますか」
イヨリの声は、震えていたが、崩れてはいなかった。ポケモンドクターとしてのプロフェッショナリズムが、恐怖を押し殺して冷静さを維持しようとしている。けれど指先は白くなるほど往診カバンの取っ手を握りしめており、心臓は胸を突き破りそうなほどに暴れていた。
「分かってます。分かってるんです。でも、もう止められない」
堂島の手が伸びた。イヨリの白衣の襟を掴む。乾いた布が引っ張られる音。ボタンが一つ弾け飛んだ。
「やめっ——!」
イヨリが往診カバンを振り上げたが、堂島の大きな手がそれを叩き落とした。カバンが金属の床に落ち、聴診器と薬瓶が散乱する。その衝撃で体勢を崩したイヨリを、堂島が押し倒した。冷たい荷台の床に背中が叩きつけられ、肺から空気が押し出される。
「あ……っ!」
体重差。華奢な156cmの身体に、堂島の80kg近い体躯がのしかかる。左足のアクチュエータが異常を検知して赤いランプを点滅させている。動けない。抵抗しようにも、片足が不自由で、両腕は太い手に押さえつけられている。
「先生、すごい……近くで見ると、やっぱり綺麗だ……」
堂島の視線が、弾けたボタンの隙間から覗くイヨリの鎖骨と胸元を舐め回している。白衣の下のインナーが、豊かな乳房の形を忠実に浮き立たせている。堂島の指がインナーの裾に掛かった。
「お願い……やめてください……っ!」
イヨリの声が、初めて悲鳴に近いものになった。涙が目尻に溜まり、白濁した左目からも生理的な涙が零れている。恐怖と屈辱と、何よりも——この身体に触れていいのはたった一人だけなのに、という激しい拒絶が、全身を震わせていた。
アステア・システムが赤く明滅した。ロトムが緊急プロトコルを起動した。バイタル異常。ストレス指数限界突破。GPS信号発信——
インナーが引き上げられかけた、その瞬間だった。
【三】星の王が堕ちてくる
荷台の天井が、爆発した。
そう見えた。実際には、金属製の天板を何かが上から突き破ったのだ。凄まじい轟音と共に、トラックの荷台全体が横揺れし、段ボールの山が雪崩のように崩れ落ちた。
堂島が驚愕して顔を上げた瞬間、引き裂かれた天板の穴から——紫色の光が、落ちてきた。
ゲンガーだった。
マツバのゲンガーが、影から実体化しながら天井を突き破り、堂島とイヨリの間に着地したのだ。その背後から、冷気を纏ったユキメノコが穴を広げるように滑り込んでくる。そしてもう一体——フワライドが、穴の縁に巨大な身体を引っ掛けながら、中を覗き込んでいた。
堂島は凍りついた。文字通りだ。ゲンガーの「かなしばり」が堂島の全身の筋肉を一瞬で拘束し、指一本動かせない状態にした。
そして——穴から、一人の男が降りてきた。
金色の髪。紫色のバンダナ。普段穏やかに細められている紫の瞳が、今は完全に開き切り、瞳孔が針のように収縮している。行燈の灯りを含んだ優しい色ではない。液体窒素のように冷たく、研ぎ澄まされた、殺意そのものの色だった。
マツバ。
エンジュシティのジムリーダーが、ゲンガーの肩の上からゆっくりと荷台の床に降り立った。その足音は静かだった。静かすぎた。嵐の前の無風のような沈黙が、荷台の中を支配している。
マツバは、床に倒れたまま白衣を乱されたイヨリを見た。弾けたボタン。捲り上げられかけたインナー。涙で濡れた頬。白濁した左目から零れた涙の跡。
その全てを、千里眼など使わずに——いや、使えなかった。使ったら、この男が過去にイヨリをどんな目で見ていたかまで全て見えてしまう。見えたら、殺してしまう。本当に。物理的に。だから視力を閉じたまま、マツバは肉眼だけで状況を把握し——そして、静かに口を開いた。
「ゲンガー」
低い声。感情が一切乗っていない、平坦な声。イタコ衆のキヨばあが聞いたら「この声の時が一番あかん」と言うだろう。
「この男が今後二度と、人に触れる気力を起こさないようにしてくれ。殺さない程度に」
ゲンガーの笑みが、三日月のように裂けた。
堂島の口から、声にならない絶叫が漏れた。かなしばりで身体は動かないのに、ゲンガーの「シャドーボール」が至近距離で堂島の腹に直撃し、荷台の壁を突き破って外に吹き飛ばされた。外で待機していたヨノワールの巨体が、墜落した堂島を冷たく見下ろしている。
ユキメノコが出入り口のシャッターを凍らせて粉砕し、荷台に光が差し込んだ。曇天の弱い光でも、暗闇の中にいたイヨリの瞳には眩しかった。
マツバが、イヨリの傍に膝をついた。
「イヨリちゃん」
声が変わっていた。さっきの殺意を削ぎ落とした氷の声ではなく、ガラス細工に触れるような、壊れそうなほど繊細な声。紫の瞳が、一瞬で殺意から心配へと色を変え、震える手がイヨリの頬に添えられた。
「大丈夫? 怪我はない? どこか痛いところは——」
「マツバ、さん——」
イヨリの声が、堰を切ったように震え出した。ずっと必死に保っていた冷静さが、マツバの声を聞いた瞬間に全て崩壊した。安堵と恐怖と屈辱が混ざり合い、涙が止まらなくなった。
「怖かった……っ。怖かったですっ……マツバさん……っ!」
マツバがイヨリを抱き上げた。散乱した聴診器や薬瓶を踏まないように、慎重に、けれどしっかりと。156cmの小さな身体が、マツバの広い胸に完全に収まる。白衣越しに伝わる彼女の震えが、マツバの腕の中で少しずつ弱くなっていく。
「ごめん。遅くなった。ロトムからの緊急通報が入って——公式戦の途中だったけど、相手に降参して飛んできた」
「降参……って……公式戦を……?」
「当たり前だよ。君より大事な試合なんて、この世に存在しない」
フワライドが荷台の穴からゆっくりと降りてきて、二人を包むように大きな身体を寄せた。マツバがイヨリを抱えたまま、フワライドの背に乗る。ゲンガーとユキメノコは、外で動けなくなっている堂島の傍に残った。後は警察が来るまでの見張り番だ。
フワライドが、エンジュの灰色の空をゆっくりと浮上する。イヨリはマツバの胸に顔を埋めたまま、震え続けていた。マツバはその背中を撫で、髪をゆっくりと梳き、何度も何度も「もう大丈夫だよ」と繰り返した。
「僕がいる。もう誰にも触らせない。君に触れていいのは、この世界で僕だけだ」
独占欲ではなかった。いや、独占欲ではあったけれど——今この瞬間においてそれは、イヨリを守るための最も純粋な盾だった。
エンジュの屋敷が、眼下に見えてきた。
― 前編 了 ―