星屑の涙、清めの褥【後編】
【四】お湯の中で、泣いていいよ
屋敷に着いても、イヨリの震えは止まらなかった。
マツバがフワライドの背から彼女を降ろし、玄関の引き戸を開け、土間に足を踏み入れた時——イヨリはまだ、マツバの寝巻きの胸元を握りしめたまま、小さな動物のように身を固くしていた。帰ってきたのだという安堵が、逆に恐怖の残響を増幅させるようだった。安全を確認した途端に、全ての緊張が崩壊する。それは人間の心理として正しい反応で、ポケモンドクターとしてのイヨリならよく理解しているはずだが、今の彼女は医者ではなく、ただ怯えたひとりの女だった。
マツバは何も言わず、廊下を渡り、浴室に向かった。
古い屋敷の浴室は、檜造りの大きな湯船がひとつ。マツバが蛇口を捻り、やや温めの湯を張り始める。イヨリを廊下の長椅子にそっと座らせて、バスタオルと替えの寝巻きを棚から出した。
「イヨリちゃん。お風呂に入ろう」
イヨリが、ぼんやりとした目で見上げた。涙の跡が乾いた頬に白い筋を残している。白衣のボタンが一つ千切れた状態で、インナーの裾が乱れたまま。その姿を見るたびに、マツバの胸の奥で黒い炎が燃え上がるのだが——今は、それを完璧に押し殺して、氷点下とは真逆の、真夏の日向のような柔らかさだけを眼差しに乗せた。
「あの男に触られた場所を、全部洗い流そう。僕が」
イヨリの瞳が、微かに揺れた。そして、こくり、と小さく頷いた。
マツバがイヨリの白衣を脱がせた。千切れかけたボタンの近くに触れる時、指先が僅かに震えた。この布地を引き裂こうとした男の手が、さっきまでここにあった。その事実が、マツバの心臓を黒い針で刺す。けれど表情は崩さない。今、彼女の前で怒りを見せてはいけない。彼女に必要なのは怒気ではなく温もりだ。
インナーを脱がせる。スカートのファスナーを下ろす。下着も、アステア・システムの腕輪だけを残して全て外す。一枚一枚、衣服が床に落ちるたびに、イヨリの肌が露出していく。華奢な肩、白い背中、豊かな乳房、細い腰。いつもならマツバの理性を一瞬で焼き切る光景だが——今は違う。今、彼の目に映っているのは、愛する妻の傷つけられかけた身体だ。
「入るよ」
マツバが自分も服を脱ぎ、先に湯船に入った。温めの湯が檜の縁を舐める。そして手を差し出し、イヨリをゆっくりと湯の中に迎え入れた。
イヨリの背を、自分の胸板に預けさせる。小さな身体が、大きな身体にすっぽりと収まった。温かい湯が、二人の身体を同じ温度で包み込んでいく。檜の香りが湯気と一緒に立ち昇り、浴室の天井に結露が生まれていた。
「……あったかい」
イヨリが、ぽつりと呟いた。背中にマツバの体温が伝わっている。胸板の硬い筋肉の感触、腕に包み込まれる安心感。あの荷台の冷たい金属の床とは全てが違う。ここは安全な場所だ。愛する人の腕の中だ。
マツバの手が、柔らかい布を持っていた。泡立てた石鹸を含ませて、イヨリの首筋をそっと撫で始めた。
「堂島が触った場所、全部洗うよ。上書きするんだ、僕の手で」
「上書き……」
「あの男の指の記憶を、君の肌から消す。代わりに、僕だけの温もりを刻む」
柔らかい布が、鎖骨を辿った。堂島が白衣の襟を掴んだ場所だ。マツバの指が泡と一緒にそこを丁寧に撫で、洗い、流す。温かい湯が、泡と一緒に汚れを——汚れた記憶を——洗い流していく。
「ここも」
布が肩に移り、二の腕を撫で、手首に至る。堂島に押さえつけられた両腕を、丁寧に、ゆっくりと、壊れ物を扱うように洗っていく。
イヨリの目から、また涙が零れた。けれどそれは恐怖の涙とは色が違っていた。温かくて、透明で、胸の奥から湧き上がる、名前のつけられない感情の涙。
「マツバさん……」
「うん」
「あの人が最後に触ろうとしたのは……ここです」
イヨリが、インナーの裾を引き上げられかけた腹部を指さした。堂島の指がかかった場所。そこから先には進ませなかったが、その感触だけは、まだ肌に残っている気がした。
マツバの指が、その場所を布で包み込んだ。白い泡が滑らかな腹部を覆い、温かい湯で流される。何度も、何度も。マツバの手は震えていた。怒りではない。この場所に他の男の手が触れようとした事実が、あまりにも耐えがたいのだ。
「消えた?」
「……はい。もう、あの人の感触は……ない、です。マツバさんの手しか、感じないです」
「よし。それでいい」
マツバがイヨリの後頭部にそっと唇を落とした。濡れた黒髪から、彼女の匂いがする。石鹸と、微かな薬草の残り香と、イヨリ本来の、花のような甘い匂い。この匂いが、マツバの世界を構成する最も重要な要素のひとつだった。
「お風呂、出ようか。身体、冷える前に」
「……もう少しだけ。このままでいさせてください」
イヨリがマツバの腕にきゅっとしがみついた。背中が広い胸板に密着し、湯の中で二人の体温が溶け合う。マツバは何も言わず、ただイヨリの髪を撫で続けた。
* * *
【五】清めの手、祈りの唇
浴室から出て、身体を拭き、寝巻きに着替え、寝室の布団に入った。
行燈の灯りがひとつ。障子に影が落ち、二人の輪郭を畳の上に重ねている。マツバの寝巻きの胸元をぎゅうっと握りしめたまま横たわるイヨリの目は、まだ少し赤かった。
「マツバさん」
「うん」
「お願いが……あるんです」
小さな声。けれど、その瞳には恐怖ではなく、別の光が灯っていた。
「あの男に触られかけた身体を……マツバさんで、塗り替えてほしいんです」
マツバの紫の瞳が、微かに揺れた。
「イヨリちゃん、今夜じゃなくても——」
「今夜がいいんです」
イヨリの声は、静かだが強かった。震えてはいたが、折れてはいなかった。
「今この身体に残っている最後の記憶を、マツバさんに上書きしてほしい。あの男の指の跡を、マツバさんの唇で消してほしい。あの冷たい床の感触を、マツバさんの温かい胸で忘れたい。お願い……です」
イヨリの右目が——唯一光を映す瞳が——潤んで揺れていた。怯えているのではない。欲しているのだ。愛する人の手で、身体も心も、全てを浄化してほしいと。
マツバは、長い息を吐いた。
「分かった。でも、今夜は——今まで以上に、優しくするよ」
マツバの唇が、イヨリの額に降りた。世界で一番柔らかいキス。羽毛が肌に触れるよりも軽く、けれどそこに込められた愛の重さは、この屋敷の屋根よりも重い。
「ん……♡」
イヨリが、小さく声を漏らした。恐怖の緊張がほどけていく。マツバのキスだけが持つ、世界をまるごと安全にしてしまう魔法。
唇が額から鼻筋を辿り、閉じた左のまぶたにそっと触れた。白濁した瞳を覆う薄い皮膚の上に、祈るように口づける。
「この目も。この傷も。全部、僕だけのものだ」
「マツバさん……♡♡」
唇が右の頬に移り、涙の跡を辿るように、目尻から顎先へと降りていく。一つ一つのキスが、この数時間のうちに刻まれた恐怖の傷を、丁寧に縫い合わせていくようだった。
耳朶に。首筋に。鎖骨の窪みに。
「あっ……♡♡♡ 鎖骨……。あの人が、引っ張った、ところ……♡♡♡」
「うん。だから、ここには念入りにキスする。あの男の痕跡を、僕の唇でひとつ残らず消す」
マツバの唇が、鎖骨を何度も、何度も、丁寧になぞった。いつもの激しさは一切ない。強引にキスマークを刻むのではなく、傷を癒す薬を塗り込めるような、途方もなく優しい口づけの連続。舌先がそっと窪みに触れ、温かい唾液が肌を潤す。
「あぁぁ……♡♡♡♡ マツバさんの唇が……優しすぎて……♡♡♡♡」
寝巻きの合わせ目にマツバの指がかかった。今度は、堂島のように引き千切るのではなく——紐を一つずつ、ゆっくりと解いていく。布が左右に開かれ、イヨリの肌が少しずつ行燈の光に晒されていく。豊かな乳房の谷間が現れ、白い腹部が見え、全てが露わになった後も、マツバの手は止まらなかった。
「ここも、洗い流す」
マツバの唇が右の乳房の頂に触れた。いつもなら強く吸い上げて、紅い印を刻むのに——今夜は違う。舌先が桜色の突起をそっと撫でるだけ。温かい息が肌の上を滑り、微かな振動が乳腺を揺らす。
「はぁっ……♡♡♡♡♡ やさしい……今日のマツバさん、すごく……やさしい……♡♡♡♡♡」
「今日は、君を壊す気はないよ。修復するんだ。全部」
左の乳首にも同じように口づけ、腹部を唇が這い降りた。堂島の指が触れようとした場所。マツバは、そこに額を押し当てて、しばらく動かなかった。
「……マツバさん?」
「ごめん。ここに……他の男の指が近づいたと思うと、どうしても」
マツバの声が震えていた。怒りではなく、悔しさだった。守りきれなかった自分への。公式戦なんかに出ていた自分への。あと数分遅かったら、この白い腹に、あの男の汚い手が——
イヨリの手が、マツバの髪をそっと撫でた。
「来てくれました。間に合いました。だから——大丈夫です、マツバさん」
マツバが顔を上げた。紫の瞳が濡れていた。この男は、イヨリのためにだけ泣く。世界を敵に回しても泣かないのに、この小さな女の前でだけ、涙を零す。
「……続けるね」
唇が腹部を撫でた。臍の横に口づけ、下腹部に降り、太腿の内側を温かい息で撫でた。花園には触れなかった。今はまだ。堂島はそこまで到達してない。だから、そこは最後にとっておく。清めの仕上げとして。
マツバの唇は太腿を通り過ぎて、膝裏に至り、脹脛を辿り——左足に降りた。アステア・システムの腕輪の上から、足首に、甲に、つま先に、一本一本の指に、口づける。左足を引きずることすらできないまま押し倒された、この不自由な足を。
「この足からも、消す。あの冷たい床の感触を全部」
「マツバさぁん……♡♡♡♡♡ 足まで……♡♡♡♡♡♡」
涙が、こめかみを伝って枕に落ちた。怖いのではない。嬉しいのだ。自分の身体の、欠けた部分まで、この人は丁寧に愛してくれる。堂島にとっては「欲望の対象」でしかなかったこの身体が、マツバにとっては「守るべき聖域」なのだ。
* * *
【六】涙ごと、溶けていく
全身に口づけを落とし終えた後、マツバはイヨリの身体の上に、そっと覆い被さった。
体重をかけない。肘で上体を支え、二人の間に僅かな隙間を残したまま、紫の瞳がイヨリを見下ろしている。金色の髪が前に垂れ、行燈の光を透かして琥珀色に輝いている。
「入れるよ、イヨリちゃん。ゆっくり、ゆっくり行くから」
「イヨリちゃん」のままだった。スイッチを入れなかった。呼び捨てにしなかった。今夜は獣を解放しない。今夜マツバが纏うのは、獣の牙ではなく、聖職者の白い手袋だ。
「はい……♡♡♡♡♡♡ お願いします……♡♡♡♡♡♡」
先端が、花園の入り口に触れた。お風呂で洗い流され、マツバの唇に清められたその場所は、今、マツバだけの温もりに満ちている。ゆっくりと、途方もなくゆっくりと、先端が沈んだ。
「あ……ぁぁ……♡♡♡♡♡♡♡♡♡……」
イヨリの唇から、甘い吐息が零れた。痛みはない。マツバの前戯は今夜に限らず常に完璧だが、今日はそれに加えて、彼の優しさが先端の一ミリ一ミリに染み渡っている。押し入るのではなく、招き入れられるように。イヨリの内壁が、マツバの形を柔らかく受け入れていく。
「中に……マツバさんが……♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
「うん。僕だよ。僕だけだよ」
根元まで収まった。二人の身体が、もっとも深い場所で繋がった。マツバが動かない。挿入したまま、ただイヨリの顔を見つめている。紫の瞳に映るのは、イヨリの潤んだ右目と、穏やかに閉じかけた白い左目。頬に涙の跡が残り、唇が微かに震えている。
「イヨリちゃん。目を開けて。僕を見て」
イヨリが、目を開けた。右の瞳にマツバが映っている。左の白い視界の中にも、ぼんやりとだが、金色と紫の輪郭が見える。
「この世界で、君の中にいていいのは僕だけだ。この温もりは僕だけのもので、この場所は僕だけの居場所だ。誰にも——誰にも渡さない」
その言葉は独占欲だった。けれど今夜のその独占欲は、鎖ではなく繭だった。イヨリを傷つけるための言葉ではなく、イヨリを世界の全ての悪意から隔離するための、柔らかい壁。
マツバの腰がゆっくりと動き始めた。引いて、戻す。浅く、浅く。肉体の奥底をえぐるような突き上げではなく、花に水をやるような、途方もなく優しい律動。
「ああっ……♡♡♡♡♡♡♡♡♡ マツバさん……気持ちいい……♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
「痛くない?」
「痛くないです……♡♡♡♡♡♡♡ 全然……♡♡♡♡♡♡♡ むしろ……すごく、あったかくて……♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
マツバの律動が、少しずつリズムを刻み始めた。それでも速くはならない。深くもならない。イヨリの表情を一瞬も見逃さず、少しでも苦しそうな顔をしたら止まる覚悟で、ひたすら「気持ちいい」だけを重ねていく。
内壁がマツバの形にぴったりと馴染んでいく。繋がったまま、互いの体温が溶け合い、どちらの心臓がどちらの鼓動なのか分からなくなっていく。マツバの腹筋がイヨリの柔らかい腹に触れ、胸板が豊かな乳房を優しく押し潰す。全身が密着したまま、ゆっくりと、ゆっくりと、揺れる。
「マツバさん……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
「うん」
「好き……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ 好きです……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
その瞬間、イヨリの目から涙が溢れた。
恐怖の涙ではない。安堵の涙でもない。ただ、この人が好きだという感情が、身体の器を超えてしまったのだ。マツバに繋がれている。マツバの温もりに包まれている。あの冷たい暗闇から、この人が救い出してくれた。公式戦を投げ出して飛んできてくれた。お風呂で全身を洗ってくれた。全ての傷にキスをしてくれた。そして今、世界で一番優しいセックスで、汚された記憶を書き換えてくれている。
その全てが、胸に溢れて、止められなかった。
「うぅっ……ごめんなさい……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ 泣いちゃって……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ 気持ちいいのに、泣いて……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
「泣いていいよ」
マツバの声は、一滴の曇りもなく澄んでいた。
「泣きたいだけ泣いて、イヨリちゃん。僕が全部受け止めるから。涙も、声も、身体も、心も。全部、僕にちょうだい」
イヨリの両腕がマツバの首に絡みついた。だいしゅきホールドではない。ただ縋りついただけの、子供のような抱擁。でもそのしがみつき方が、マツバの全てを揺さぶった。この小さな手が、この細い腕が、自分にだけ伸ばされている。この涙が、自分にだけ見せてもらえている。
「マツバさん……もっと、奥に来て……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
「いいの?」
「いいです……マツバさんで、全部塗り潰して……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
マツバの腰が、少しだけ深く沈んだ。子宮口の手前、最も感じる場所に先端が触れ、そこをゆっくりと押し磨く。いつもの獣のような突き上げではなく、祈りを捧げるように、一回一回に「愛している」を込めて。
「ひぁっ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ あっ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ そこぉ……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ 気持ちいい……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
「ここが好きなの、知ってる。千里眼なんか使わなくても、君のことは全部知ってるよ」
涙が止まらないまま、快楽が静かに、しかし確実に積み上がっていく。暴力的な絶頂ではない。温泉に浸かっていくような、じわじわと全身を蕩かしていく甘い熱。イヨリの内壁がきゅうっとマツバを締め付け、マツバの先端がその応答に小さく震えた。
「マツバさっ……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ イきそう……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ でもまだ……もう少し、このままで……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
「うん。急がないよ。イヨリちゃんのタイミングで」
マツバの額がイヨリの額にそっと触れた。呼吸が重なる。瞳と瞳が、数センチの距離で見つめ合う。紫色の瞳の中に、行燈の光に照らされた小さな自分が映っている。泣いている。けれど、笑ってもいる。
「一緒に……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
「うん。一緒に」
マツバの腰が最後にひとつ、深く押し込まれた。優しいまま、けれど確かな深さで、イヨリの最奥に到達する。
「あぁぁっ……♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡!」
イヨリの全身が、波のように震えた。叫びではなく、深い吐息のような絶頂。全身の力が抜け、内壁がマツバをきゅうっと包み込み、温かい収縮がマツバの全てを搾り取る。
「イヨリ……っ」
マツバも同時に達した。イヨリの子宮に、温かいものが注がれていく。荒々しい射精ではなく、泉が静かに湧き出すような、穏やかで深い放出。一滴一滴が「愛している」の代わりに、イヨリの最も深い場所を満たしていく。
長い、長い余韻だった。二人は繋がったまま、額を合わせて、ただ呼吸を重ねていた。イヨリの涙はまだ止まっていなかった。けれどもう、その涙に恐怖の色は一滴もなかった。
* * *
【七】朝の光で、約束をひとつ
事後、マツバはいつものように三十分かけてイヨリの身体を温かい布で拭き、髪を乾かし、新しい寝巻きを着せた。イヨリは成されるがまま、マツバの手に身を委ねていた。もう余計な力は一切入っていない。世界で最も安全な場所に帰ってきた小鳥のように、ただ穏やかに、まどろんでいた。
布団の中で、マツバの腕に包まれながら、イヨリが呟いた。
「マツバさん」
「うん」
「公式戦、降参したの、怒られませんでしたか」
「怒られたよ。リーグ管理委員会から、始末書を出せって」
「ふふ……ジムリーダーの威厳が……」
「威厳なんて、君の安全に比べたらゴミだよ。始末書なら千枚書く」
イヨリが、マツバの胸に頬を押し当てた。心臓の鼓動が聞こえる。規則的で、力強くて、彼女のためだけに脈打つ音。
「マツバさん。一つだけ、約束してくれますか」
「何でも」
「もう二度と、私を置いて公式戦に行ってください。そして——もし次があったら、またすぐに来てください。それだけで、私は大丈夫ですから」
行ってください、と来てください、が矛盾していない。日常を送ってほしい。けれど有事には飛んできてほしい。それはイヨリなりの「あなたの仕事を邪魔したくない、でもあなたが来てくれるなら怖くない」という、誇り高い甘え方だった。
「約束する。でも、保険も掛けておく。明日から往診の日は、ムクホークをもう一羽つけるよ。あと、ゲンガーを影に常駐させる」
「それは過保護です」
「過保護が僕の仕事だ」
行燈の灯りが落ちた。エンジュの夜が、二人を静かに包む。遠くで鐘楼の鐘が微かに鳴り、虫の声が低く響いている。
イヨリはマツバの腕の中で目を閉じた。今はもう、あの荷台の闇は遠い。あの冷たい金属の床は、行燈の温もりに上書きされた。あの男の手の感触は、マツバの唇に洗い流された。
残っているのは、ただマツバの温もりだけ。
それだけで、世界は完璧だった。
― 後編 了 ―