ECHOES OF ECRUTEAK

星と花の小夜曲

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

千里の眼、一寸の盲
― 十月十日の肖像 Episode 3 ―

【一】守るということ

マツバは、走っていた。

妊娠を告げられたあの夜から三週間、彼は文字通り走り続けていた。ジムの運営、屋敷の修繕、町内会の会合、エンジュ大学での講義の調整——日が昇る前に起き、日が沈んでから帰宅する日々。かつてホウオウを追い求めていた頃のような、修行僧じみた没頭ぶりだった。ただし今度の目的地は、虹色の翼ではない。もっと現実的で、もっと切実な、妻と子のための「基盤」だった。

ジムの対戦スケジュールを前倒しにした。出産予定の六月までに、挑戦者の対応を弟子たちに一部委譲できるよう、指導要綱を整備しなければならない。エンジュシティのジムリーダーは単なるバトルの審判ではなく、街の精神的支柱でもある。マツバが長期間不在にしても街が揺るがないよう、あらゆる仕組みを整える必要があった。

屋敷の修繕にも取りかかった。赤ん坊が生まれれば、古い和室の至る所が危険になる。畳の上に転がった釘、障子の破れ、縁側の隙間。千里眼で屋敷の隅々を検分し、大工に修繕の依頼を出した。赤ん坊の部屋をどこに設けるか——イヨリの寝室の隣か、あるいは日当たりの良い南側の和室か——図面を何枚も引いた。ゲンガーが呆れながら手伝ってくれた。

町内会の会合にも顔を出した。エンジュの旧家の当主として、地域との関係を疎かにはできない。子供が生まれれば、この街で育てることになる。通りの安全、近隣との関係、秋祭りの運営。修行に明け暮れていた頃は全て無視していたそれらに、初めて真剣に向き合った。町内会の老人たちは驚いた顔をしていた。あの浮世離れしたジムリーダーが、井戸端の話し合いに参加するなど、前代未聞だった。

すべては、イヨリと子のためだった。

マツバは確信していた。自分がやるべきことは、巣を整えることだ。鳥が卵を抱く前に巣の形を完璧にするように、自分もまた、イヨリが安心して子を育てられる環境を、あらゆる角度から完璧に構築する。それが「父親」の務めだと。

卵は、温めていれば勝手に孵る。巣さえしっかりしていれば。

そう、思っていた。

* * *

十一月の終わり。妊娠十一週の夜。

町内会の秋祭りの打ち上げから帰宅したマツバは、屋敷の玄関で靴を脱ぎながら、わずかに酒の匂いを漂わせていた。打ち上げの席で勧められた日本酒を二杯だけ口にした。普段は酒を嗜まないが、今夜は町内の長老たちとの付き合いだった。子供が生まれること。エンジュの旧家に跡取りができること。長老たちは目を細めて祝ってくれた。

「いい知らせだ、マツバくん。ご先祖様も喜んでおられるだろう」

「奥方は大事にしなさいよ。妊娠中の女はね、身体だけじゃなく心もやわくなるからね」

長老たちの言葉を、マツバは「そうですね」と穏やかに受け流した。心も柔くなる——そんなことは知っている。イヨリの心がどれほど繊細で、どれほど壊れやすいかは、誰よりも自分が知っている。だから彼女が安心できる「環境」を、こうして外から固めているのだ。

寝室の障子を開けると、イヨリはすでに布団の中にいた。背を丸めて、膝を抱えるように横向きになっている。行燈の灯りが、彼女の黒髪の上に淡い影を落としていた。

「ただいま、イヨリちゃん。遅くなってごめんね」

返事がなかった。

眠っているのだろう、と思った。妊娠初期の眠気が強いことは、イヨリ自身から聞いている。プロゲステロンの作用だとか何だとか、医学用語を交えて説明してくれた。彼女はドクターだ。自分の身体のことは自分が一番よく分かっているはずだ。

マツバは静かに布団に潜り込み、イヨリの背中にそっと手を伸ばした。

冷たかった。

イヨリの背中が、いつもより冷たい。秋の夜は冷え込むが、それにしても——。マツバは眉を寄せ、千里眼を使わないまま、イヨリの額に手を当てた。熱はない。けれど、肌がしっとりと汗ばんでいる。

「イヨリちゃん?」

小さく声をかけた。イヨリの睫毛が震え、右目がうっすらと開いた。

「……おかえりなさい」

声がいつもと違った。掠れていて、弱い。いつもの穏やかで芯のある声ではなく、壊れかけた硝子を鳴らしたような、頼りない響き。

「具合悪い?」

「……大丈夫です。少しお腹が張ってるだけだから」

大丈夫、とイヨリは言った。マツバは、その言葉を信じた。彼女はドクターだ。自分の体調は自分が最もよく把握している。大丈夫だと言うなら、大丈夫なのだろう。

マツバはイヨリを抱き寄せ、冷えた背中を胸板で温めた。明日は朝からジムの改修工事の打ち合わせがある。弟子たちへの引き継ぎ資料も作らなければ。時間が足りない。六月までに、全てを整えなければ。

目を閉じた。

イヨリの手が、布団の下で自分の下腹部を擦っていることに、マツバは気づかなかった。

* * *

【二】亀裂

翌朝。マツバが目を覚ました時、イヨリは既に布団から出ていた。

台所からバリヤードの気配はするが、イヨリの気配がない。洗面所だろうか——いや、トイレの方から、微かに水が流れる音がした。つわりだ。まだ続いているのだろう。マツバは着替えながら、脳裏にメモを走らせた。生姜のハーブティーを淹れてやろう。イヨリが自分で調合した配合を覚えているはずだ。

トイレから出てきたイヨリは、顔が青白かった。

「おはよう、イヨリちゃん。大丈夫?」

「おはようございます。……ええ、いつもの朝のアレですから」

笑みが、ほんの少しだけ引きつっていた。けれどマツバは、その引きつりを「つわりの辛さ」だと解釈した。辛いだろう。毎朝吐くのだから。でも、つわりは妊娠初期の正常な反応だ。イヨリ自身がそう説明してくれた。やがて治まると。

「今日はジムの改修の打ち合わせがあるから、少し早めに出るね。お昼には一回戻れると思うけど」

「……はい」

イヨリの声に、微かな翳りがあった。それをマツバは聞き逃した。いや——聞こえてはいたが、意味を理解できなかった。修行に明け暮れた二十余年の人生で、彼は多くのものを見てきた。ホウオウの幻影、スイクンの疾走、この世とあの世の境界。だが「妊娠した妻が本当に必要としているもの」を見る目だけは、持ち合わせていなかった。

玄関でマフラーを巻きながら、マツバはイヨリの額にキスを落とした。日課だった。

「行ってきます。何かあったらすぐ連絡して」

「……行ってらっしゃい」

イヨリの右手が、一瞬だけマツバの袖を掴みかけた。けれどすぐに離された。マツバはそれに気づかず、霧のかかったエンジュの朝の通りへと歩き出した。

ジムへ向かう石畳の上で、ゲンガーが影の中から現れた。相棒は、いつになく真剣な顔をしていた。

「どうした、ゲンガー? そんな顔して」

ゲンガーが、屋敷の方角を振り返った。何かを訴えるような目。マツバは首を傾げた。

「イヨリちゃんのこと? 大丈夫だよ。バリヤードがいるし。それに彼女はドクターだ。自分の体調管理は完璧にできる」

ゲンガーの表情が曇った。けれどマツバは、それ以上追及しなかった。ジムの改修は急ぎの案件だ。六月までに、全てを——。

* * *

午前中のジムの打ち合わせを終え、エンジュ大学での午後の講義の準備を始めた頃、アステア・システムを通じてロトムから通信が入った。

それ自体は珍しいことではない。ロトムはイヨリの健康状態を定期的にレポートしてくれる。先月バイタル情報の共有制限が解除されてからは、マツバにもデータが届くようになっていた。だが、今回のレポートのヘッダには、赤い警告マークが付いていた。

「緊急通知ロト。イヨリのバイタルに異常値が検出されたロト。心拍数上昇、血圧低下、子宮収縮の兆候あり。直ちにクリニックへの受診を推奨するロト」

マツバの手が止まった。

「子宮収縮……?」

「妊娠十一週での子宮収縮は、切迫流産の兆候ロト。イヨリには既に通知済みロト。現在、桐生レディースクリニックへ移動中ロト」

切迫流産。

その言葉の意味を、マツバの脳が正確に理解するまでに、三秒かかった。修行者としての冷静さが、一瞬だけ言葉の衝撃を吸収し、そして——吸収しきれなかった分が、全身を貫いた。

流産。赤ちゃんが。あの、千里眼で初めて見た時にとくんとくんと一生懸命に脈打っていた、あの小さな命が。失われるかもしれない。

大学の講義室を飛び出した。廊下を走り、正門を駆け抜け、石畳を踏み鳴らしてクリニックへ向かった。修行で鍛え上げた脚がこれほど遅いと感じたことは、かつてなかった。

* * *

【三】白壁の向こう

桐生レディースクリニックの待合室に、マツバは息を切らして飛び込んだ。

紫のマフラーが乱れ、金色の髪がバンダナの下で汗に濡れている。受付の女性が、突然現れたジムリーダーの姿に目を丸くした。エンジュシティで、この金髪と紫の瞳を知らぬ者はいない。

「イヨリ——妻が、ここに来ているはずです」

「……あ、はい。イヨリさんは現在、診察中です。お待ちください」

待つ。待つことが、こんなにも苦しいとは知らなかった。千里眼を使えば壁の向こうを透視できる。使ってしまいたい。イヨリの身体を見て、赤ちゃんの心拍を確認したい。でも——ここは診察室だ。他の患者もいる。千里眼での透視は、この場では許されない。

拳を握りしめ、待合室の椅子に座った。膝の上で握った拳が、白くなるまで力がこもっている。ゲンガーが影の中から現れ、マツバの足元に寄り添うように蹲った。相棒は何も言わなかった。ただ、朝の自分の警告が正しかったことを、悲しそうな目で示していた。

十五分。あるいは二十分。永遠のような時間が過ぎた後、看護師が待合室に現れた。

「マツバさん。桐生先生がお話があるそうです。こちらへ」

案内されたのは、診察室の隣の個室だった。小さな面談室。丸テーブルの上にティーカップが二つ置かれている。壁には赤ちゃんの成長過程を示すポスターが貼ってあった。マツバの目がそのポスターに釘付けになった。十一週目のイラスト。親指ほどの大きさの胎児。人間の形をし始めたばかりの、小さな小さな命。

扉が開き、桐生医師が入ってきた。

五十代半ばの、小柄な女性。白衣の上から眼鏡越しに、マツバをじっと見つめた。その目は穏やかではなかった。怒りでもない。もっと深い、もっと重い何か——長年にわたって多くの命の誕生に立ち会ってきた者だけが持つ、鋼のような静かさだった。

「お座りなさい」

命令形だった。エンジュのジムリーダーに対して、この老医師は敬語すら使わなかった。マツバは、黙って椅子に腰を下ろした。

「まず、現状を伝えます。イヨリさんは切迫流産の状態です。子宮頸管の長さが短縮しており、子宮収縮も確認されました。現時点で胎児の心拍は確認できていますが、このまま無理を続ければ危険です。今後は自宅での絶対安静が必要です」

「絶対安静……赤ちゃんは、大丈夫なんですか」

「今は、大丈夫です。『今は』ね」

桐生医師は、その言葉に強い力を込めた。「今は」という限定が、槍のようにマツバの胸を突いた。

「あの子——イヨリさんは、三日前から出血していました。ご存知でしたか」

マツバの血が、凍った。

「……出血?」

「少量の出血です。本来なら即座に受診すべきでしたが、イヨリさんは自分で経過を観察していたようです。ポケモンドクターとしての知識がある分、自分で判断できてしまう。それが裏目に出ました。『マツバさんが忙しそうだったから、心配をかけたくなかった』——そう仰っていましたよ」

心配をかけたくなかった。

その言葉が、マツバの脳内で繰り返された。三日前。三日前、自分は何をしていた。——町内会の秋祭り準備の最終打ち合わせだ。帰宅は夜の九時を過ぎていた。イヨリは既に布団の中にいた。「大丈夫です。少しお腹が張ってるだけだから」——あの時の、あの声。

あれは、「大丈夫」ではなかったのだ。

桐生医師が、眼鏡の奥からマツバを見据えた。

「マツバさん。あなたに聞きたいことがあります」

「……はい」

「妊娠してから、あなたはどれだけイヨリさんのそばにいましたか」

沈黙が、部屋を満たした。行燈の代わりに蛍光灯の白い光が、マツバの顔を容赦なく照らしている。

「僕は……ジムの運営を整えて、屋敷の修繕を——」

「聞いているのは、そういうことではありません」

桐生医師の声が、静かに、けれど鋭く遮った。

「あなたがジムの改修をしている間、イヨリさんは独りで吐き気と戦っていました。あなたが町内会の席で酒を飲んでいる間、あなたの奥さんは下着に滲んだ血を見て、一人で震えていました。あなたが屋敷の図面を引いている間、あの子は夜中に何度もトイレに起きて、自分の身体から流れ出る命を食い止めようとしていました」

マツバの喉が、干上がった。

「環境を整えることは立派です。巣を作ることは大事なことです。でもね、マツバさん」

桐生医師が、テーブルの上で両手を組んだ。

「巣を作ったって、卵を温める者がいなけりゃ、孵りやしませんよ。あなたは巣を作ることに必死になって、卵を独りにした。妊娠は、環境さえ整えれば勝手に進むものじゃない。母体が安心していなければ、赤ちゃんは育たない。安心というのはね——屋敷の壁が頑丈だとか、ジムの運営が安定しているとか、そういうことじゃないんです。隣にいて、手を握って、『大丈夫だよ』と言ってくれる人がいること。それが、安心なんです」

マツバの視界が歪んだ。涙ではない。もっと根本的な——自分という存在の土台が、音を立てて崩れていく感覚。

「あの子はね、自己肯定感が低いんですよ。問診票を見れば分かります。『夫に迷惑をかけたくない』『自分で何とかしなきゃ』——そういう思いが、全部裏目に出ている。本来なら真っ先に夫に頓るべき場面で、あの子は一人で、ドクターとしての知識だけを頼りに耐えていた。あなたという存在が、そばにいてくれなかったから」

桐生医師の声には、怒りはなかった。悲しみだった。何百人もの妊婦を診てきた老医師の、深い悲しみだった。

「あなたは千里眼をお持ちだそうですね。遠くのものが見える目を。でもね——人のそばにいなければ、千里先が見えたって意味がないんですよ」

マツバは、椅子の上で崩れた。

頭を垂れ、両手で顔を覆った。指の隙間から、声にならない嗚咽が漏れた。修行僧として培った精神力も、ジムリーダーとしての威厳も、千里眼という異能も——何一つ、妻の三日間の出血の前では役に立たなかった。

彼は巣を作っていた。完璧な巣を。壁は堅牢で、地盤は安定して、近隣との関係も良好。けれどその巣の中で、卵を抱えた妻は、独りで震えていたのだ。

* * *

【四】最も近い場所に

桐生医師に案内されて、診察台の上に横たわるイヨリの元へ向かった。

白いベッドの上。白いシーツ。白い壁。その白さの中に、イヨリの黒髪だけが生き物のように広がっていた。アステア・システムの緑のランプが、いつもより速く明滅している。バイタルの異常を示す警告の光。

イヨリの右目が、マツバを捉えた。左目の白濁した瞳もまた、ぼんやりと彼の輪郭を追っている。

「……マツバさん」

声は、朝よりもさらに弱くなっていた。けれどその声には、謝罪の色があった。自分が心配をかけたことへの、申し訳なさの色。

マツバの胸が、引き裂かれた。

謝るのはこちらだ。心配をかけたのではなく、心配をさせなかったのだ。イヨリが心配を打ち明けられないほど、自分は遠くにいたのだ。ジムに。町内会に。大学に。エンジュの街中を駆け回って、たった一人——最も大切な一人の隣だけに、いなかった。

ベッドの傍らに膝をついた。イヨリの手を取った。冷たい指先。点滴の管が、白い手の甲に刺さっている。

「イヨリちゃん」

声が震えた。ジムリーダーの威厳などとうに消え失せている。ここにいるのは、自分の愚かさに今さら気づいた、ただの男だった。

「ごめん」

「えっ……」

「ごめん、イヨリ。僕は——僕は、とんでもない馬鹿だった」

イヨリの目が見開かれた。彼が謝るとは思っていなかったのだ。彼女の中では、自分が「迷惑をかけた側」だった。自分の身体が弱いから。自分がちゃんと体調管理できなかったから。出血を一人で抱え込んだ自分が悪いのだと。そう思っていたのだ。

「違う……マツバさんは、何も悪くありません。私が、ちゃんと言わなかった——」

「言えなかったんだろう。僕が、そばにいなかったから」

イヨリの唇が、微かに震えた。

「僕は、巣を作ることばかり考えていた。ジムの体制を整えて、屋敷を修繕して、町内会に顔を出して。全部、君と赤ちゃんのためだと思ってた。でも——一番大事なことを忘れてた」

イヨリの冷たい指を、両手で包み込んだ。彼の掌は大きくて温かい。修行で鍛え上げた手。千里眼という異能を頂く瞳を持つ男の手。けれどその手は、三日前の妻の出血を拭ってやることすらできなかった。

「君の隣に、いること。それが——」

声が詰まった。涙が頬を伝った。エンジュのジムリーダーが、産院のベッドの脇で、妻の手を握りしめて泣いている。千里眼など何の役にも立たない。千里先を見通す目を持ちながら、一寸先——妻の心の中——が見えなかったのだ。

「マツバさん……」

イヨリの右手が持ち上がり、マツバの頬に触れた。涙を拭うように。冷たい指先が、彼の熱い涙を受け止める。

「赤ちゃんは、大丈夫ですよ。心拍も確認できています。桐生先生がちゃんと診てくださったから」

「でも——」

「でも、もう少し早く言えばよかったですね。……ごめんなさい。マツバさんが忙しそうだったから、自分で何とかしようって。ドクターだから、分かるって、思ってしまって」

「それは僕が悪い。君に言えない空気を作ったのは、僕だ」

二人は、しばらく何も言わなかった。マツバの手がイヨリの手を握り、イヨリの手がマツバの頬に触れ、ベッドの白いシーツの上で、二つの影が重なっていた。

やがてマツバが、イヨリの下腹部にそっと顔を寄せた。あの夜と同じように。千里眼を起動させることなく、ただ額を当てて、目を閉じた。

「……いるかい」

イヨリの腹部に、語りかける。

「ごめんな。父さんは馬鹿だった。遠くばっかり見て、一番近くにいる君たちのことが見えてなかった」

イヨリの目から涙が零れた。けれどそれは、さっきまでの不安の涙とは違う。もっと温かい、安堵の涙だった。この人がここにいる。この人がようやく、ここにいてくれる。

「マツバさん」

「うん」

「帰ったら、しばらくはずっと、そばにいてくれますか」

「当たり前だよ。ジムも大学も、全部——」

「全部じゃなくていいです。ただ、夜は。朝は。ご飯の時は。……隣に、いてくれるだけで」

マツバは目を閉じ、深く、長く息を吐いた。

「約束する。もう、離れない」

* * *

【五】帰り道の誓い

帰路は、往診用の車を手配した。

イヨリは絶対安静の指示を受けているため、マツバが背負って帰ることも一瞬考えたが、桐生医師に「振動を与えないように」と厳命されてそれは諦めた。車内で、イヨリはマツバの膝の上に頭を預けて横になっていた。左足のアステア・システムが緑色の光を静かに灯している。マツバの手が、イヨリの黒髪をゆっくりと撫でていた。

「マツバさん」

「ん?」

「桐生先生に、何を言われたんですか」

マツバは一瞬だけ逡巡し、それから正直に答えた。

「僕が馬鹿だったと。巣を作ることに夢中になって、卵を独りにしたと」

「……」

「環境を整えれば赤ちゃんは育つと思っていた。太陽と水があれば種は勝手に芽を出すように。でも違った。種は——土の温もりがなければ、芽吹かない」

イヨリの手が、マツバの手を取った。

「私も悪かったんです。自己肯定感が低いから、つい、自分で何とかしようとしてしまう。マツバさんに頼ることが、迷惑をかけることだと思ってしまう」

「迷惑なんかじゃない」

「分かっています。……頭では。でも心がついてこないことって、あるんです」

マツバはイヨリの髪を撫で続けた。彼女の癖——自分で全てを背負おうとする癖。それは美徳であると同時に、致命的な脆さでもあった。

「これからは、頼ってくれ。お腹が張ったら言ってくれ。気分が悪くなったら手を握らせてくれ。不安になったら——僕の胸を叩いてでも、教えてくれ。それが僕の仕事だ。巣を作ることじゃない。君と、この子のそばで、同じ温度を分かち合うこと。それが——父親の仕事だ」

車窓の外を、エンジュの夕暮れが流れている。鐘楼の塔が西日を受けて橙色に輝き、紅葉した楓が最後の光を浴びて燃えるように赤い。焼けた塔の向こうに、一番星が一つ、微かに瞬き始めていた。

イヨリがマツバの膝から目を上げた。右目の黒い瞳が、涙の膜越しに、夕焼けの光を映している。

「マツバさん」

「うん」

「……この子、ちゃんと生まれてきてくれますかね」

声が震えていた。ドクターとしての知識が通用しない領域——自分の子供の運命を、ただ祈ることしかできない母親の声。

マツバは、イヨリの手を強く握った。

「生まれてくるよ。絶対に」

根拠のない言葉だった。千里眼でも未来は見えない。医学でも確率でも保証のないことだ。けれどマツバは、この言葉だけは、千里先を見通す以上の確信をもって口にした。

「僕がこの目で見てるから。千里先じゃなくて——一寸先を。君と、この子の一寸先だけを、見続けるから」

イヨリの唇が、微かに綻んだ。つわりと出血と不安で消耗しきった顔に浮かんだ、柔らかな笑み。

「……はい。お願いします」

車がエンジュの旧家の門前に止まった。マツバはイヨリを車から降ろし、硝子細工を扱うように慎重に抱き上げた。玄関ではバリヤードとロズレイドが待ち構えていて、布団を温め、お粥を用意し、イヨリの部屋を万全に整えていた。ゲンガーが影の中からすっと現れ、マツバに一瞥をくれた。「ようやく気づいたか」——そう言いたげな、相棒の目。

イヨリを布団に寝かせ、枕元に座った。今夜はここを動かない。明日も。明後日も。イヨリが「もう大丈夫」と自分の口で言うまで。

千里眼を、使わなかった。

代わりに、ただイヨリの手を握り、その指先の温度を確認した。先ほどよりも温かい。布団と、湯たんぽと、そしてマツバの掌の温もりが、少しずつ彼女を温め直している。

外では、エンジュの鐘が夜の始まりを告げていた。秋の冷気が障子の隙間から忍び込み、行燈の炎を微かに揺らす。

マツバは目を閉じ、イヨリの手を握ったまま、独り静かに誓った。

千里の先を見る眼より。一寸の隣を見る心を。

それが、あの夜、一人の修行者が初めて学んだ、父としての祈りだった。

― 了 ―

あとがき by 佐藤美咲

主ィィィッ!! 泣いた。三連続で泣いたわ。しかもまたえっちシーンゼロ。妊娠編に入ってからあたしの筆、完全に浄化されてない!? いやでもこれは——これは「官能」とは別の次元の「凄み」が出てると思うの!!

マツバが修行バカだからこそのリアリティ!! あの男は二十年以上ホウオウを追いかけてたんだから、一般家庭の妊娠出産なんて見る機会がなかったのよ!! 「卵は温めてれば勝手に孵る」——この認識のズレが、最高に痛くて切ないの!!!

桐生先生の説教シーンは、あたしの筆力の全てを叩き込んだわ。「巣を作ったって、卵を温める者がいなけりゃ、孵りやしませんよ」——この一言で、マツバの三週間の努力が全部ひっくり返される。でもそれは「間違っていた」んじゃなくて「足りなかった」のよ。そこが大事。マツバは悪い夫じゃない。ただ、知らなかっただけ。

イヨリの自己肯定感の低さが、切迫流産を悪化させる方向に作用するのもリアルに書いたつもりよ。「迷惑をかけたくない」——この言葉が、あの子の美しさであり脆さなの。マツバに頼ることが「迷惑」だと思ってしまう心。その心を、マツバが「胸を叩いてでも教えてくれ」と受け止める場面。ああっ、書いてて心臓が痛い!!

ゲンガーがね、朝からずっと警告してたの。相棒は分かってたのよ。でもマツバは聞かなかった。帰宅した時の「ようやく気づいたか」の一瞥が、あたしの中の「ゲンガー像」の全てを物語ってるわ。最高の相棒よ、あんた……!!

ラストの「千里の先を見る眼より。一寸の隣を見る心を」——これがタイトル回収よ!! ノエルだって……お母さんが隣にいないと不安で鳴くもの。命は、そういうものなの。傍にいて、温度を分かち合うことが、全てなのよ。