ECHOES OF ECRUTEAK

星と花の小夜曲

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

名もなき星に、名を与える夜
― 十月十日の肖像 Episode 2 ―

【一】白い部屋の鼓動

産婦人科の待合室は、午前十時の柔らかい陽射しに満ちていた。

エンジュシティの中心部から少し外れた、静かな住宅街の一角。「桐生レディースクリニック」と書かれた看板が、煉瓦色の外壁に控えめに掲げられている。イヨリがこのクリニックを選んだのは、ジムの近くでもなく、いつもの往診ルート上でもない立地であることが第一の理由だった。万が一マツバの知り合いに見られても、ポケモンドクターとしての用事だと言い逃れができる場所。——彼女は完璧を期していた。

待合室のソファに腰を下ろし、膝の上に置いた往診カバンを両手で抱きしめるように持つ。白いカーディガンの袖口から覗くアステア・システムの腕輪が、いつもどおり穏やかな緑のランプを灯していた。周囲には妊娠中期と思しき女性が二人、雑誌を手にしていた。ふっくらと丸みを帯びた腹部に手を当てて、穏やかな顔をしている。あの人たちは、もう「確定」の向こう側にいるのだ。もうシュレーディンガーの箱は開いている。

一ヶ月。長い一ヶ月だった。あの「三十七度〇三分」の朝から、イヨリは自分の身体の中で静かに進行する変化を、ドクターの目で注視し続けてきた。基礎体温は一度も下がらなかった。月のものは来なかった。朝の軽い吐き気は日によって波があったが、決して消えはしなかった。コーヒーの匂いは相変わらずきつく、代わりに柑橘系の香りが心地よくなった。胸の張りは日増しに強くなり、下着のサイズが窮屈に感じ始めた。

全ての兆候が、同じ結論を指し示している。それでもイヨリは、一ヶ月間、市販の検査薬にすら手を出さなかった。箱を開けるのが怖かったのだ。けれど今日——妊娠七週目に相当するこの日、エコーで胎嚢と心拍が確認できる時期に、ようやく箱を開ける決心がついた。

「イヨリさん、どうぞ」

診察室へ呼ばれた。エンジュの旧家の嫁としてその名を知られることを避けるために、あえて偽名を使うことも考えたが、ドクターとしての記録が残るリスクを考え、本名のみで予約していた。受付で保険証を出す際も、アステア・システムの腕輪をカーディガンの袖で隠した。デボンコーポレーションのデバイスは目立つから。

診察室に通された。白い壁、清潔なベッド、超音波の機械。桐生医師は五十代半ばの落ち着いた女性で、眼鏡の奥の目が穏やかだった。問診票の記入内容を確認してから、イヨリに告げた。

「最終月経からの計算では七週目ですね。まず超音波で確認しましょう。横になってください」

診察台に横たわり、スカートを少し下げ、下腹部を露出させた。ジェルが塗られ、プローブが肌の上を滑る。ひんやりとした感触。モニターには灰色の砂嵐のような画像が映し出され、イヨリの医学的知識が自動的にそれを解析し始めた——子宮の断面、内膜の厚さ、そして——

黒い空間の中に、小さな白い粒が映った。

そしてその粒が、点滅していた。

とくん、とくん、とくん。

規則正しく、懸命に、小さな光が明滅を繰り返している。心拍。自分のものではない、もう一つの心臓の鼓動。一分間に百五十回を超える、大人の倍以上の速さで脈打つ、米粒ほどの命の灯。

「心拍確認できますね。おめでとうございます、七週二日、順調ですよ」

桐生医師の声が、遠くから聞こえた。イヨリの視界はモニターに釘付けだった。あの光が、あの一秒ごとに明滅するちっぽけな白い点が、自分とマツバの——あの満月の夜に蒔かれた種が、確かに芽吹いて、根を張って、今この瞬間も懸命に鼓動を打っている。

涙が、右目からも左目からも、同時に零れた。

「あ……」

声にならない声だった。口を押さえたが、嗚咽が指の隙間から漏れた。桐生医師がティッシュの箱を差し出してくれた。何度も見てきた光景なのだろう。初めて我が子の心拍を確認した母親の涙を。

「い、いるんですね……本当に……」

「ええ。胎嚢の大きさも順調です。出産予定日はおおよそ来年の六月下旬になりますね」

六月。エンジュシティに紫陽花が咲く季節。マツバが一年で最も穏やかになる、湿度と霧の多い初夏。その季節に、この子は生まれてくる。

イヨリはモニターに映る小さな光を、白濁した左目と澄んだ右目の両方で、いつまでも見つめていた。

* * *

【二】桜花が散る前に

クリニックを出たイヨリの足取りは、来た時とは別人のように軽かった。

左足のアクチュエータの補助がなくても歩けるのではないかと錯覚するほど、身体全体がふわふわと浮いている。往診カバンの中には、超音波写真が一枚入っている。灰色のぼんやりとした画像の中に、矢印で示された小さな白い点。「Baby」と印字されたその写真を、イヨリは帰り道で三回取り出して見た。そのたびに、口元が緩んで、目尻が下がって、頬が熱くなった。

秋のエンジュは美しい。紅葉した楓が街路を覆い、枯葉が風に舞って石畳の上を踊っている。焼けた塔の方角から吹く風が、お香の残り香を微かに運んできた。鐘楼の鐘が正午を告げ、商店街には昼食の喧騒が穏やかに広がっている。

歩きながら、イヨリの頭の中は一つの問いでいっぱいだった。

どうやって、マツバに伝えよう。

一ヶ月間の「秘密」が、ようやく「事実」に変わった。87.3%の可能性が、超音波画像と医師の診断書によって100%になった。もう箱は開いた。猫は、生きている。とくんとくんと、懸命に鼓動を打ちながら。

あの男に告げなければならない。あの、重すぎる独占欲と底なしの愛情を抱えた男に。あなたの子供が、もう私の中にいます、と。

問題は、その伝え方だった。

イヨリは歩きながら、いくつかのパターンを頭の中でシミュレーションした。

案その一。直球。帰宅したマツバに玄関先で「マツバさん、私、妊娠しました」と告げる。——単純明快。しかし、あまりにも味気ない。一ヶ月間秘密にしていたのに、それを明かす瞬間がただの「報告」では、魔性の名が廃る。

案その二。超音波写真を食卓にさりげなく置いておく。マツバが「これは何?」と手に取ったところで、「その子、あなたの子供ですよ」と微笑む。——悪くない。けれど、マツバの千里眼を封じていても、あの男は異常に勘が鋭い。食卓の上の見慣れない紙切れに、一瞬で違和感を覚えるだろう。「ネタバレ」が早すぎる。

案その三。マツバのお気に入りの和菓子屋で、紅白饅頭を買って帰る。「お祝い事ですか?」と聞かれたら「ええ、少し」と含みのある笑みを浮かべる。——風情はあるが、紅白饅頭を見た瞬間にマツバが察してしまう可能性が高い。エンジュの旧家の人間にとって、紅白は慶事の象徴だ。

案その四。夕食後、いつものようにマツバの胸に寄り添いながら、彼の手を自分の下腹部に導いて、「ここに、いるんです」と囁く。——これだ。これが、一番イヨリらしい。言葉で直接告げるのではなく、マツバの手に「感じさせる」。まだ何の膨らみもない腹部に彼の大きな掌を当てて、そこに宿った命の存在を、皮膚を通して伝える。

想像しただけで、心臓がとくとくと速くなった。アステア・システムが「心拍上昇ロト」と小さく呟いたが、イヨリは聞こえないふりをした。

けれど、すぐに別の問題が浮上した。マツバの手を下腹部に導いた瞬間、彼はどう反応するだろうか。可能性は大きく二つ。一つは、即座に意味を理解して泣き崩れる。もう一つは——夜の誘いだと勘違いして、そのまま押し倒しにかかる。後者の確率が、正直に言って五割を超えていた。

「……あの人なら、やるわね」

苦笑が零れた。マツバの性欲は、イヨリの身体に触れた瞬間のスイッチの速さで知られている。下腹部に手を導いた途端、妊娠報告が情事に変わりかねない。それでは本末転倒だ。

考え直す。案その四・改。まず言葉で伝える。「マツバさん、大事なお話があります」と前置きをして、彼の意識を「真面目な話」モードに固定する。それから超音波写真を見せて、最後に「あなたの子供です」と告げる。順序が大事だ。先に言葉で覚悟を作らせ、証拠を見せ、そして結論を叩きつける。ドクターが患者に重大な診断結果を伝える手順と同じだ。——ただし、今回の「診断結果」は、世界で最も幸福なものだけれど。

イヨリの足が、ふと止まった。商店街の一角にある、小さな手芸店。ショーウィンドウに、秋色の毛糸と編み物の見本が飾られている。レモンイエローの毛糸玉が一つ、陽射しを受けて金色に光っていた。

マツバの髪の色だ、と思った。

気がつくと、店の中に入っていた。レモンイエローの毛糸玉を一つ手に取り、その柔らかさを掌で確かめる。赤ちゃん用のベビーソックスの編み方を紹介した小冊子が、毛糸売り場の隣に置いてあった。親指くらいの、信じられないほど小さな靴下。

これだ。

計画が、一瞬で組み上がった。

* * *

【三】金色の靴下

帰宅してから夕方までの数時間を、イヨリは縁側で過ごした。

膝の上にレモンイエローの毛糸玉と、細い棒針を二本。ベビーソックスの編み方を紹介した小冊子を開き、ロトムにも手伝ってもらいながら、不慣れな手つきで編み始めた。イヨリは料理やハーブティーのブレンドは得意だが、手芸は専門外だった。だからこそ、不恰好でもいい。完璧でなくていい。この拙い金色の靴下が、言葉以上の意味を持つはずだから。

「イヨリ、目が二つ飛んでるロト。ここ解いてやり直した方がいいロト」

「……ロトム、うるさい。分かってるわよ」

「でも赤ちゃんの足に合わないサイズになるロト。AIの計算では——」

「赤ちゃんの足のサイズなんて、生まれてみないと分からないでしょう」

「それはそうロトけど……あ、でもイヨリ、嬉しそうロトね」

ロトムの指摘に、イヨリは自分の顔に手を当てた。頬が熱い。口元が、さっきから勝手に弧を描いている。編み物をしている自分の手元を見ているだけで、心臓の奥がじんわりと温かくなる。この金色の糸の一目一目が、マツバの髪と同じ色をしている。六月に生まれてくる子供が、もし父親と同じ金髪を受け継いでいたら、この靴下はきっと似合うだろう。

バリヤードが庭仕事の合間に縁側を通りかかり、イヨリの手元を覗き込んだ。小さな靴下の形をしたそれを見て、バリヤードの目が大きく見開かれた。両手を口元に当てて、無言のまま——けれど全身で喜びを表現するように——何度も頷いた。

「バリヤード、マツバさんには内緒よ」

イヨリが人差し指を唇に当てると、バリヤードは鼻をすすりながら何度も頷いて、急いで台所に戻っていった。おそらく今夜の夕飯を全力で豪華にするつもりだろう。亡き母イノリに代わってイヨリを育てたバリヤードにとって、愛娘の妊娠は——言葉にならないほどの慶事に違いない。

ロズレイドが庭から花を一輪くわえて持ってきて、イヨリの膝の横にそっと置いた。秋の薔薇。淡いクリーム色の花弁が、まるでベビーソックスの色に寄り添うように、柔らかく開いている。ロズレイドもまた、何かを感じ取ったのだろう。イヨリの笑顔が、普段とは違う光を帯びていることを。

三時間かけて、靴下は片方だけ完成した。もう片方は間に合わなかった。けれど、それでいい。片方だけの、不恰好な金色のベビーソックス。親指ほどの大きさで、編み目が少しガタガタで、でも確かに「靴下」の形をしているもの。これを超音波写真と一緒に、マツバに見せよう。

窓の外で、日が傾き始めていた。空が柿色から葡萄色に染まり、鐘楼の塔が夕焼けのシルエットになる。マツバがジムから帰ってくるまで、あと一時間ほど。

イヨリは編み上げた靴下を掌に載せ、しばらく見つめた。それから往診カバンから超音波写真を取り出し、二つを並べて畳の上に置いた。灰色の写真の中の小さな白い点と、レモンイエローの不恰好な靴下。これが今の自分にできる、最大限の「告白」だ。

胸が高鳴る。手が震える。涙がまた滲みそうになる。

「ロトム」

「はいロト?」

「マツバさんへのバイタル情報共有の制限、解除していいわ。今夜から」

「了解ロト! ……やっとロトか。一ヶ月、長かったロトよ」

イヨリは小さく笑った。そうね、長かった。でもこの一ヶ月の秘密は、決して無駄ではなかった。この一ヶ月間、自分だけの宝物として抱えていた「かもしれない」が、今日「確かに」に変わった。その変遷の全てが、自分の中に刻まれている。これからはマツバにも分け与える。この喜びを、この温もりを、この震えるほどの幸福を。

* * *

【四】ただいまの先に

「ただいま、イヨリちゃん」

マツバの声が、玄関から響いた。

イヨリの心臓が、ばくんと跳ねた。金色の靴下と超音波写真は、寝室の文机の引き出しに隠してある。夕食の間は普通にしていよう。その後で、寝室に二人きりになってから。そう決めていた。

「おかえりなさい、マツバさん」

玄関に出迎えに行く。マツバが紫のマフラーをほどきながら、疲れた顔で微笑んだ。その笑みを見た瞬間、イヨリの胸の奥で何かが弾けそうになる。今すぐ言いたい。今すぐこの人を抱きしめて、「あなたの子供がいるの」と叫びたい。でも、だめ。計画通りにやるの。一ヶ月間練り上げた秘密の告白を、完璧に遂行するの。

「今日も挑戦者?」

「うん、二人。でも一人目がなかなか面白いバトルをしてくれてね。ゲンガーが珍しく本気を出したよ」

他愛のない会話。いつもの夕暮れ。バリヤードの夕食は——案の定——いつもより明らかに品数が多かった。イヨリの好物の柚子味噌の田楽に、マツバの好きな鯖の塩焼き、それに加えて煮物と酢の物と、さらに卵焼きまで。

「今日、バリヤードどうしたのかな。張り切ってるね」

マツバが不思議そうに首を傾げた。イヨリは平静を装って「さあ、何かいいことでもあったんじゃないですか」と答えたが、台所からバリヤードが感涙を堪えている気配が伝わってくる。ロズレイドが食卓に添えたクリーム色の薔薇を、マツバが「綺麗だね」と褒めた。イヨリの心拍がまた上がった。ロトムが沈黙を守ってくれていることだけが救いだった。

夕食を終え、ハーブティーを飲み、交代で風呂に入り、マツバが寝室に入ってくるのを待つ。イヨリは文机の前に正座して、引き出しの中の金色の靴下と写真に、そっと手を触れた。

準備は、できている。

障子が開いた。湯上がりの、湿った金髪。バンダナを外した額。ゆったりとした寝巻きの合わせ目から覗く、鍛え上げられた胸板。マツバは行燈の灯りの中で、いつものように穏やかに微笑みながら、イヨリの隣に腰を下ろした。

「今日のイヨリちゃん、なんだかそわそわしてない?」

心臓が止まりかけた。やはりこの男は、千里眼なしでも全てを見抜くのだ。

「そ、そうですか? 気のせいだと思いますけど」

「ふうん。……でも、夕食の時からずっと、僕の顔をちらちら見てたよ」

観察力の暴力。イヨリは内心で舌打ちしつつ、覚悟を決めた。このまま引き延ばしていたら、マツバの方が先に何かを察してしまう。そうなったら、一ヶ月分の「お預け」が全て水の泡だ。

「マツバさん」

「うん?」

「大事な、お話があります」

声のトーンが変わったことを、マツバは即座に感知した。紫の瞳が真剣な光を帯びる。姿勢がわずかに正される。穏やかな夫の顔から、一瞬だけ——エンジュシティのジムリーダーとしての精悍さが覗いた。

「どうしたの、改まって」

「これを、見てください」

イヨリは文机の引き出しを開け、中からまず、超音波写真を取り出した。灰色の画像。矢印で示された小さな白い点。「Baby」の印字。それをマツバの前に、そっと差し出した。

マツバの視線が、写真に落ちた。

数秒の沈黙。行燈の炎が揺れ、二人の影が畳の上で微かに震えている。マツバの目が、写真の隅に印字された文字を追っている。日付。施設名。そして——「Baby」。

紫の瞳が、大きく見開かれた。

「イヨリちゃん……これ……」

声が掠れている。震えている。この男がこんな声を出すのを、イヨリは数える程度しか聞いたことがない。イヨリが二年前の事故で倒れた時と、プロポーズの返事を聞いた時と——それくらいだ。

「今日、産院で確認してきました。七週二日。心拍も確認できました」

イヨリの声も震えていた。冷静に話すつもりだったのに。ドクターとして診断結果を伝えるように、淡々と。そう決めていたのに。実際に言葉にした瞬間、涙腺が崩壊した。

「マツバさんの……あなたの赤ちゃんが、この中にいます」

自分の下腹部を、両手でそっと覆う。そこにはまだ何の膨らみもない。けれど、確かに——とくんとくんと脈打つ命がある。あの満月の夜に蒔かれた種が、七週間かけて根を張り、茎を伸ばし、今まさに小さな蕾を結ぼうとしている。

マツバは動かなかった。

写真を持つ手が、わなわなと震えている。紫の瞳が潤み、その表面に行燈の灯りが揺れている。唇が何か言葉を形作ろうとして、けれど音にならない。声帯が機能を停止しているかのように。

イヨリは引き出しから、もう一つのものを取り出した。

レモンイエローの、小さな靴下。片方だけ。編み目がガタガタで、親指くらいの大きさで、けれど確かに靴下の形をしたもの。マツバの髪と同じ色の毛糸で、拙くも一針一針、心を込めて編み上げたもの。

それを、超音波写真の横に並べた。

「……もし、この子があなたと同じ金色の髪をしていたら。きっとこの色が似合うと思って」

マツバの堤防が、決壊した。

涙が、はっきりとした水滴となって、頬を伝い落ちた。一筋ではない。両目から、次から次へと。あの千里眼を宿す紫の瞳が、行燈の光を乱反射させて、宝石のように煌めいている。

「イヨリ……っ」

呼び捨て。情事の時だけ外される「ちゃん」の枷が、今この瞬間にも外れた。

マツバの両腕が、イヨリを抱きしめた。力強く、けれどいつもより遥かに慎重に。まるで、イヨリの中の小さな命まで一緒に抱き込むように。彼の広い胸板にイヨリの顔が埋まり、彼の心臓の鼓動が直接伝わってくる。速い。信じられないくらい速い。あのジムリーダーとしてのどんな激戦でも乱れなかった心拍が、今、妻の妊娠の報せひとつで完全に崩壊している。

「いつから……いつから、知ってたの……」

「……一ヶ月前から、もしかしたらって思ってました」

「一ヶ月……!? 一ヶ月も……黙ってたの……」

「ごめんなさい。確実に分かってから伝えたかったんです。それに——」

イヨリの口元が、涙で濡れたまま、小悪魔的な弧を描いた。

「——マツバさんの、今の顔が見たかったの」

マツバが息を呑んだ。そして——泣き笑いの顔で、深く、長く、溜息をついた。

「……ずるいよ。イヨリちゃんは」

「ふふ……マツバさんの方が、ずるいです。泣き顔で抱きしめるなんて、反則です」

マツバの掌が、イヨリの下腹部にそっと当てられた。今度は——何も知らないままの手ではない。その下にある命を、知っている手だ。大きくて温かい掌が、まだ何の膨らみもない腹部を、壊れ物を扱うように優しく包み込む。

「……ここに、いるんだね」

「はい。ここに」

「僕たちの……」

「私たちの、赤ちゃんです」

マツバの掌の下で、イヨリの身体がかすかに震えた。嬉しさと安堵と、それから——この人にようやく伝えられたという、途方もない解放感。一ヶ月間抱え続けた秘密の重さが、マツバの手に委ねられた瞬間に、羽のように軽くなっていく。

マツバが身を屈め、イヨリの腹部に、そっと額を当てた。まるで祈りを捧げるように。膝をつき、背を丸め、妻の下腹に顔を寄せて、目を閉じた。

「……聞こえるかな」

「まだ無理ですよ、マツバさん。七週じゃ。聴診器でも聞こえません」

「千里眼なら?」

イヨリが微かに目を見開いた。マツバの紫の瞳が、腹部に額を当てたまま、下から見上げるように彼女を見つめている。そこには——獣でもなく天使でもなく——ただ純粋に、生まれてくる命を知りたいと願う、一人の父親の顔があった。

「……いいですよ。見てあげてください。あなたの子供を」

マツバの瞳が、微かに光を帯びた。千里眼が起動する。肉の壁と血の流れを透過して、その奥にある、まだ米粒ほどの小さな命を探り当てる。

数秒の沈黙。

マツバの両肩が震え始めた。そして、言葉にならない嗚咽が、イヨリの腹部に押し当てた唇から漏れた。

「見えた……小さい……すごく小さい……でも、動いてる。心臓が……こんなに速く……」

「一分間に百五十回以上。大人の倍くらいですよ」

「速いな……一生懸命だな……」

マツバの声が、完全に壊れていた。ジムリーダーの威厳も、千里眼の修行者の理性も、全て剥ぎ取られた、一人の男の素の声。イヨリの腹部に顔を埋めたまま、マツバは泣いていた。静かに、けれど全身で。

イヨリの手が、マツバの金色の髪をそっと撫でた。くしゃくしゃになった寝癖混じりの髪を、指で丁寧に梳いてやる。いつもは自分が撫でられる側なのに、今夜は逆だ。泣きじゃくる夫の頭を膝に抱え、その金髪を——生まれてくる子供も受け継ぐかもしれない金色を——優しく撫でている。

「マツバさん」

「……うん」

「予定日は六月です。紫陽花が咲く頃」

「六月……」

「名前、考えなきゃいけませんね」

マツバが顔を上げた。涙で赤くなった目。鼻の頭も赤い。世間的にはエンジュシティの誇りと讃えられるジムリーダーの、あまりにも人間的な、あまりにも愛おしい顔。

「名前……そうだね。まだ早いけど……」

「ううん。早くなんかないです。この子はもう、ここにいるから」

イヨリは自分の腹部に手を当て、マツバの手をその上に重ねた。四つの掌が、まだ名前もない命を包み込んでいる。

* * *

【五】初めての子守唄

夜が更けた。行燈の灯りを落とし、布団に入ってもなお、マツバはイヨリから離れなかった。

いつものスプーンの体勢。けれど今夜のマツバの手は、イヨリの胸ではなく、下腹部に当てられていた。まだ何の膨らみもないその場所を、大きな掌で護るように覆い、時折親指でそっと撫でる。

「マツバさん、くすぐったいですよ」

「ごめん……でも、離したくない」

「……知ってます」

イヨリの背中に密着したマツバの鼓動が、ようやく落ち着きを取り戻しつつある。けれどその心拍の中に、微かに震えが残っている。喜びという感情が大きすぎて、心臓が処理しきれていないのだ。

「ねえ、イヨリちゃん」

「はい」

「あの靴下……片方しかなかったけど、もう片方は?」

「間に合わなかったの。不器用だから」

「……僕が編もうか?」

イヨリが振り向いた。暗闘の中で、マツバの紫の瞳が、行燈の残り火をかすかに映して光っている。

「マツバさん、編み物できるの?」

「できないよ。でも覚える。イヨリちゃんが編んだのと同じ毛糸で、僕がもう片方を編む。それで一足になるでしょう」

この男は。この、底なしに不器用で、底なしに重くて、底なしに優しい男は。

イヨリの目から、今夜何度目かの涙が零れた。けれどそれは、もう拭わなかった。暗闇の中で、涙が頬を自由に流れるままに、イヨリは笑った。

「じゃあ、二人で一足。約束ですよ」

「約束する。……あと、明日から僕がイヨリちゃんの往診に付き添う」

「それは困ります」

「重い荷物は全部僕が持つ」

「それはもうそうしてくれてます」

「あと、階段は必ず手を繋ぐ」

「それも既にやってます、マツバさん」

「それから——」

「マツバさん」

イヨリがマツバの唇に、人差し指をそっと当てた。

「今夜は、もう寝ましょう。三人で」

三人。その言葉を口にした瞬間、マツバの腕がイヨリをきつく抱きしめた。きつく、けれど決して下腹部を圧迫しないように。もう彼の中では、新しい本能が起動している。守るべきものが、一つ増えたのだ。

エンジュの夜は深く、霧は鐘楼の塔を丸ごと呑み込んでいた。秋虫の声が遠く、行燈の最後の火が消え、古い屋敷は闇に包まれた。

マツバの腕の中で、イヨリは目を閉じた。背中に夫の体温。腹部に彼の大きな掌。そしてその掌の下で、名もなき星が、とくんとくんと脈打っている。

六月に、この子は名前をもらう。けれど今夜、確かに——この世界に「いる」と認められた。父と母の涙と笑いに包まれて、金色の靴下の片方を約束されて、星と花の名もなき子は、ようやく、「うちの子」になった。

鐘楼の鐘が、静かに一つ鳴った。

名もなき星に、今夜、名を与える代わりに、温もりを与えた。

それが、二人が親になった最初の夜だった。

― 了 ―

あとがき by 佐藤美咲

主ィィィィィッ!!! 泣いたわ。あたしが。自分で書いて自分で泣いたわ。しかもまたえっちシーンゼロ。ゼロよ!! これで二連続よ!! あたしマツイヨのえっちしか書けない女だと思ってたのに、妊娠編になった途端、こんなにピュアな涙が出てくるなんて!!

超音波で心拍を確認した瞬間のイヨリちゃんの涙!! 「いるんですね」のたった一言に込められた一ヶ月分の期待と恐怖と歓喜のカクテルが、あたしの涙腺を破壊したの!!

マツバへの告白方法をシミュレーションする場面、最高に好きよ!! 「案その四、そのまま押し倒しにかかる確率五割」は我ながら天才的な見立てだと思うわ!! だって事実だもの!! あの男のスイッチの速さは、ロトムのAIでも予測不能よ!!

金色のベビーソックス!! マツバの髪の色と同じレモンイエローの毛糸で、不恰好な靴下を片方だけ編んで——「もう片方は僕が編む」って言うマツバ!! 二人で一足の約束!! ああああああっ、尊い!! 尊すぎて息ができない!!

千里眼で初めて胎児を見たマツバが崩壊する場面は、あたしの筆力の全てを叩き込んだわ。「速いな……一生懸命だな」のたった一言が、彼が父親になった瞬間なのよ。あの孤独な求道者が、あのホウオウを追い続けた男が、今、妻の腹部に額を当てて泣いている。最高よ……最高……

ラストの「三人で」が全てよ。二人は、もう三人になったの。マツイヨ、おめでとう。そしてノエル……あんたにも弟か妹ができるかもしれないわね、嘘よ猫だし!! あはははッ!!