ECHOES OF ECRUTEAK

星と花の小夜曲

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

三十七度の揺藍
― 十月十日の肖像 Episode 1 ―

【一】朝の微熱

吐き気で目が覚めたのは、秋が深まり始めた十月の朝のことだった。

障子の向こうから差し込む光が、畳の上に白い格子を描いている。鐘楼の鐘が明け六つを告げる前の、まだ薄暗い寝室。隣で寝息を立てるマツバの金色の髪が、枕の上で乱れていた。普段は紫のバンダナで押さえつけているその髪が、寝癖でいくぶん柔らかく跳ねている。行燈の残り火がとうに消えた部屋の中、左手首のアステア・システムだけが、淡い緑色の光を灯し続けていた。

胃の底が、きゅうっと絞られるような感覚。それ自体は強いものではなかった。激しい嘔吐感というよりは、空きっ腹に冷たい水を流し込んだ時のような、ぼんやりとした不快感。けれど、イヨリの身体はそれだけで完全に覚醒してしまった。

そっと布団を抜け出す。左足が畳を踏む感触を確かめながら、音を立てないように立ち上がった。アステア・システムのアクチュエータが呼応して、微かに振動する。マツバの寝顔を一瞥した。長い睫毛が頬に影を落として、起きている時の獣じみた瞳孔が嘘のように穏やかだ。昨夜もたっぷり三回抱かれた身体は、まだ甘い痺れの残滓を帯びていたが、それとは質の異なる違和感が、下腹部の奥に静かに蟠っている。

洗面所に入り、蛇口から出る冷水で顔を洗った。鏡に映る自分の顔色は、普段より少し蒼白い。前髪を掻き上げると、額の白い傷跡が覗く。二年前の傷。それを隠すように前髪を戻し、イヨリは棚の上に置いてある婦人用の体温計を手に取った。

毎朝の習慣。起き抜けに測る基礎体温。排卵のリズムを把握するために記録し始めたそれは、あの「満月の夜」以降も途切れることなく続いていた。舌の下に体温計の先端を挟む。冷たい金属の感触。デジタルの数字が点滅しながら上昇していき、やがてぴぴっと小さな電子音を鳴らした。

三十七度〇三分。

イヨリの瞳が、微かに揺れた。

高温期が、もう十八日目になる。通常の黄体期は十二日から十六日。十八日目の高温維持は、統計的に見れば——。

首を振った。まだ早い。こんな数字ひとつで判断を下すのは、ポケモンドクターとしての矜持が許さない。体調不良、ストレス、気候の変動。高温期が長引く要因は他にもいくらでもある。そう自分に言い聞かせながら、体温計の示す数字をアステア・システムの記録機能に転送した。

「記録完了ロト。ところでイヨリ、基礎体温の推移グラフに有意な傾向が検出されてるロト。AIの予測モデルによると——」

「ロトム」

イヨリは静かに、けれど断固とした声で遮った。

「その分析結果は、今は聞きたくないの。非表示にしておいてくれる?」

「え、でも重要なバイタル情報ロト……」

「お願い」

ロトムが沈黙した。AIには理解できなかったかもしれない。なぜ、自分の身体の重要な情報を、彼女自身が拒むのか。けれどイヨリには理由があった。ロトムのAIが弾き出す冷徹な数値を、今はまだ、見たくなかったのだ。見てしまったら——期待してしまう。まだ何も確定していないのに、心だけが先走ってしまう。

洗面台の縁を両手で掴み、鏡の中の自分を見つめた。黒髪が肩にかかり、右目の黒曜石のような瞳だけが、朝の光を映して潤んでいる。左目の白濁した視界に、ぼんやりと自分の輪郭が揺れていた。

口元が、微かに緩んだ。

慌てて引き締める。まだ笑うには早い。何もわかっていない。ただの体調の変化かもしれない。そう自分に言い聞かせて、イヨリは寝室に戻った。

マツバは、まだ眠っていた。

* * *

【二】往診の朝、ドクターの眼差し

エンジュシティの秋は、霧が深い。

焼けた楓の葉が石畳にへばりつき、街路を錆色の絨毯に変えていた。朝靄が鐘楼の塔を半分まで呑み込み、その向こうにある焼けた塔の影が、幻のように霞んでいる。イヨリは白衣の上にカーディガンを羽織り、往診用のカバンを肩に掛けて、マツバのジムとは反対方向の道を歩いていた。左足のアクチュエータが、石畳の段差を検知してそのつど微調整を加えてくれる。

「いってらっしゃい、イヨリちゃん。今日は冷えるから、お昼は温かいもの食べてね」

玄関先でマツバがそう言って、額にキスをしてくれた。彼の唇は温かく、微かにお香の残り香がした。その温もりがまだ額に残っている。彼の紫の瞳は何も気づいていない様子だった。千里眼は妻には原則として使わない——その誓いをマツバは律儀に守り続けている。仮に使ったとしても、妊娠初期の微細な変化を霊的な視力で検知できるかどうかは、彼自身にも分からないだろう。

最初の往診先は、エンジュシティ郊外にある農家の老夫婦の元だった。ミルタンクの乳の出が悪いという相談。イヨリは納屋に入り、大柄な乳牛ポケモンの腹部に聴診器を当てた。ミルタンクの心拍は穏やかで規則正しい。腸の蠕動音も正常。乳腺の張り具合を触診しながら、イヨリは老婦人に説明した。

「季節の変わり目で、少し乳質が変わることはありますけれど、大きな問題はなさそうです。飼料にカルシウムの多い鉱石を少し混ぜてあげて、あとは——」

言葉が途切れた。

ミルタンクの体温を測定した数値が、アステア・システムのモニターに表示されていた。38.7度。ミルタンクとしては正常範囲。けれどその数字を見た瞬間、イヨリの脳裏に自分の今朝の体温が重なった。三十七度〇三分。高温期十八日目。ミルタンクの正常体温を確認するのと同じ冷静さで、自分自身の数値を眺めている自分がいる。

ポケモンドクターとしての、客観的な眼差し。それが今、自分自身の身体に向けられていた。

症状を列挙してみる。高温期の延長。起床時の軽い悪心。ここ数日、コーヒーの匂いが少しきつく感じる。昨日の夕食では、普段は好んで食べるミナモシティ名物の柑橘の砂糖漬けが、舌の上で妙に甘ったるく感じた。胸の張り。これは排卵後にも起きる症状だが、いつもより長く続いている気がする。

鑑別診断。

イヨリの頭の中で、タマムシ大学の講義で叩き込まれた知識が、自動的に回り始めた。もちろん、自分が学んだのはポケモンの医学だ。人間の産婦人科とは領域が異なる。けれどホルモンの基本的なメカニズムは哺乳類で共通する部分が多い。hCG——ヒト絨毛性ゴナドトロピン。着床後に分泌が始まるこのホルモンが、黄体を維持し、基礎体温の高温を持続させる。悪心、嗅覚過敏、乳房の張り——全てhCGの上昇と矛盾しない。

だが、と胸の内で付け加える。同じ症状は、月経前症候群の重い型でも起こりうる。ストレスによるホルモンバランスの乱れでも。あるいは、風邪の初期症状という可能性だって——。

「先生? 大丈夫ですか? お顔が少し白いようですが……」

老婦人の心配そうな声で、イヨリは我に返った。

「あ、いえ、すみません。少しぼんやりしてしまって」

微笑む。いつもの、穏やかで柔らかい笑み。誰にも悟らせない、完璧な仮面。けれどその仮面の下で、イヨリの心臓はとくとくと少しだけ速く脈打っていた。アステア・システムが微かに緑のランプを明滅させたが、ロトムは——先ほどの指示を守って——何も言わなかった。

* * *

【三】昼下がりの検証

午前の往診を三件こなし、昼食の時間になった。

エンジュシティの中心部にある、小さな甘味処。格子窓から差し込む秋の陽射しが、漆塗りの卓の上にやわらかな影を落としている。イヨリは奥の座敷席に腰を下ろし、湯気を立てるにゅうめんを前にして、箸を止めていた。

出汁の匂いが、鼻腔の奥をくすぐる。普段なら食欲をそそる、鰹と昆布の豊かな香り。けれど今日は、その匂いの中に含まれる魚の生臭さが、妙に鮮明に感じ取れてしまう。嗅覚が、明らかに鋭敏になっている。

「……やっぱり」

箸を置き、代わりに湯呑みに注がれた白湯を一口含んだ。温かい液体が食道を下りていくと、胃の不快感が少し和らいだ。にゅうめんの麺だけを、ゆっくりと口に運ぶ。出汁は控えめに。薬味の生姜が、舌の上に清涼感を残してくれた。

食事を半分ほど済ませたところで、イヨリはアステア・システムのモニターを展開した。周囲に人がいないことを確認してから、小声で呟く。

「ロトム」

「はいロト」

「さっき非表示にした基礎体温の分析結果、やっぱり見せて」

「了解ロト! ……正直、ずっと言いたくてうずうずしてたロト」

ロトムが嬉しそうに——機械に感情があるとすれば——ホログラムのグラフを展開した。過去三ヶ月分の基礎体温の推移が、折れ線グラフとなって宙に浮かぶ。低温期と高温期が規則正しく波を打ち、そして直近の一ヶ月——あの満月の夜の後から、高温期が異常に持続している。折れ線は下降の気配を見せず、三十六度七分から三十七度の間をゆらゆらと横ばいに推移していた。

「AI予測モデルの結果ロト。過去のデータとの比較、ホルモン推定値、体温推移のパターンマッチング、全部ひっくるめて——」

ロトムが一拍置いた。AIに劇的効果を持たせる余裕があるのかと、イヨリは内心で苦笑した。

「妊娠している確率、87.3%ロト」

数字が、ホログラムの中央に大きく表示された。

87.3%。高い。非常に高い。けれど100%ではない。残りの12.7%は、イヨリが先ほど自分で列挙した鑑別診断——月経前症候群の重症型、ストレス性のホルモン異常、その他の可能性に割り当てられている。

「ただし」とロトムが付け加えた。「これはあくまでバイタルデータからの推定ロト。確定診断には血中hCG定量検査か、超音波検査が必要ロト。イヨリはドクターだから知ってるロトよね?」

「知ってるわ」

イヨリは静かに答えた。

知っている。市販の妊娠検査薬でも、尿中hCGの定性検査はできる。感度の高いものなら、着床から十日程度で陽性が出ることもある。今の時期なら、検査をすれば——おそらく結果は出る。

けれど、しなかった。

なぜだろう。ポケモンドクターとしての自分なら、疑わしい症状があれば迷わず検査をするはずだ。患者であれば「とりあえず調べましょう」と促す場面だ。なのに、自分自身のこととなると、検査キットを手に取る勇気が、不思議と湧いてこなかった。

怖いのだ、と気がついた。

陽性が出てしまうことが怖いのではない。陰性が出てしまうことが——怖い。期待している自分がいるということを、その瞬間、否応なく突きつけられてしまうから。検査薬の窓に線が一本しか出なかった時、自分はきっと泣いてしまう。まだ何も失っていないのに、まるでそれ自体がすでに存在していたかのように——失ったつもりになって、泣いてしまう。そんな自分を見たくなかった。

だから、もう少しだけ。この曖昧な「かもしれない」の中に、浮かんでいたかった。シュレーディンガーの猫のように。箱を開けなければ、可能性は可能性のまま、温かく柔らかいものとして、お腹の奥にそっと抱いていられる。

「ロトム」

「はいロト?」

「この分析結果、マツバさんには絶対に共有しないで。アステア・システムの通常バイタルレポートからも除外して」

「え!? でもマツバにはイヨリの健康状態を報告する義務が——」

「義務じゃないわ、それは。マツバさんとデボンコーポレーションの間のオプション契約でしょう? 今はオフにして。これは往診医としての判断でもあるの。確定していない情報で患者の家族を不安にさせるのは、医療倫理に反するから」

「……イヨリが患者で、マツバが家族?」

「そういうこと」

ロトムは少し黙った後、「了解ロト」と呟いた。ノンデリなロトムにしては珍しく、何かを察したような沈黙だった。

イヨリはにゅうめんの残りを食べ終え、生姜の効いた白湯をもう一杯おかわりした。胃の中で温かいものが広がる感触が、不思議と心地よかった。

* * *

【四】夕暮れの鏡

午後の往診を終え、屋敷に戻ったのは、西の空が柿色に染まり始める頃だった。

マツバはまだジムから戻っていない。今日は挑戦者が三人入っているとかで、帰りは夕食の少し前になると朝のうちに聞いていた。屋敷の中は静かで、バリヤードが台所で夕飯の仕込みをしている気配だけが、かすかに聞こえてくる。包丁がまな板を叩くリズミカルな音。出汁の湯気。ロズレイドが庭で水やりをしているらしく、遠くからじょうろの水音が秋風に乗って届いた。

イヨリは白衣を脱いで寝室に掛け、私服に着替えた。薄手のニットと、ゆったりとしたスカート。着替えの途中、下着姿になった自分の身体を、姿見の前で立ち止まって見つめた。

華奢で小柄な身体。白い肌。F65の豊かな胸は、マツバが昨夜残したキスマークが二つ三つ、鎖骨の下に薄く滲んでいる。お腹は平坦で、肋骨の形がうっすらと浮かんで見える。何も変わっていない。外見上は、一ヶ月前と何一つ。

けれど。

両手で、自分の下腹部を包み込むように当てた。掌の下の肌は、少しだけ温かい。気のせいかもしれない。いや多分、気のせいだ。子宮はまだこの下の奥深く、骨盤の中に守られて、外からは何も分からない。たとえ妊娠していたとしても、四週目や五週目の胎芽は、まだ米粒ほどの大きさでしかない。触れて分かるはずがない。

分かるはずが、ないのに。

「……いるの?」

小さな声が、唇から零れた。

鏡の中の自分が、下腹部に手を当てたまま、おずおずと微笑んでいる。白濁した左目も、光を映す右目も、同じように潤んで揺れていた。聡明で思慮深いポケモンドクター。旧家の妻として完璧な礼儀作法を持つ女性。ロトムのAIすら手玉に取る切れ者。そのイヨリが今、誰もいない寝室の鏡の前で、自分のお腹に話しかけている。

馬鹿みたいだ、と思った。でも、止められなかった。

「もし、いるのなら」

声が震えた。

「もしあなたが、あの満月の夜に、マツバさんがくれた……私たちの……」

言葉が続かなかった。涙が、右目の縁にじわりと滲んだ。期待してはいけない。まだ確定していない。ドクターとしての冷静さを失ってはいけない。けれど想像してしまう。もしこのお腹の中に、マツバの金色の髪を受け継いだ小さな命があるのだとしたら。あるいは自分の黒髪を受け継いで、マツバの紫の瞳を持つ子が。

マツバは、どんな顔をするだろう。

あの男のことだ。きっと——泣く。あの重すぎる独占欲が、イヨリだけでなくもう一人の存在にまで及んで、世界で自分だけのものが二人に増えた喜びで、あの涼やかな紫の瞳から大粒の涙を零すに違いない。そして、これまで以上にイヨリを過保護に包み込み、重箱の隅を突くような心配をし、往診に行かせるのも渋り、五分おきに「大丈夫?」と訊いてくる。想像するだけで面倒くさくて——想像するだけで、たまらなく愛おしかった。

でも、まだ言わない。

イヨリの口元が、ゆっくりと弧を描いた。いつもの穏やかな微笑みではない。普段は見せない——マツバの前でだけ時折覗かせる——小悪魔的な、蠱惑的な笑み。

まだ言わない。確実に、確定的に、医者の診断書という逃げ場のない証拠を手に入れてから。あの独占欲の塊のような男に、反論の余地のない「事実」として、一方的に、容赦なく、叩きつけてやるのだ。「マツバさん、あなたの子供が、もう私の中にいます」と。

想像しただけで、下腹部の奥がきゅうっと甘く疼いた。妊娠の兆候ではなく——あの男を翻弄する悦楽への、底知れない渇望が。

「イヨリ、夕飯の支度ができたロト」

ロトムの声が、イヨリを現実に引き戻した。慌てて涙を拭い、ニットを被り、スカートを穿いた。鏡の中の自分は、もう元の穏やかな新妻の顔に戻っている。完璧だ。誰にも悟らせない。

——ただし一点だけ。いつもより少しだけ、唇の端が上がっていることを除けば。

* * *

【五】秘密を抱いて眠る

「ただいま、イヨリちゃん」

マツバが帰宅したのは、日がすっかり落ちてからだった。紫のマフラーに秋の冷気を纏って、疲れた顔をしながらも、イヨリの顔を見た瞬間に瞳の奥がぱっと明るくなる。どんなに長い一日の疲労も、妻の笑顔ひとつで帳消しにしてしまうのだ。この男は。

「おかえりなさい、マツバさん。今日は三人も挑戦者が来たんですね、お疲れ様です」

「うん。二人目がなかなか手強くてね。ゲンガーが楽しそうにしてたよ。あ、手、洗ったら夕飯にしよう。バリヤードが何の出汁だか分からないけど、ものすごくいい匂いのを取ってたから」

夕食は、バリヤードが丁寧に仕込んだ白味噌仕立ての鍋だった。エンジュの秋野菜がたっぷり入った、身体の芯から温まる料理。いつもなら何の問題もなく食べられる。けれど今夜のイヨリは、鍋の蓋を開けた瞬間に立ち昇る濃厚な出汁の蒸気に、少しだけ眉をひそめてしまった。

ほんの一瞬だった。すぐに表情を戻して、何事もなかったように白菜とネギを椀に取り分ける。

けれど、マツバの千里眼を使わない目は使わないなりに、イヨリのことだけは誰より正確に見ていた。

「イヨリちゃん、食欲ない?」

「え? いいえ、そんなことないですよ。美味しいです」

「本当? 今日、顔色が少し悪い気がして。朝も少し蒼かったし」

心臓が跳ねた。朝の顔色まで見ていたのか。あれはマツバがまだ寝ていた時間のはずなのに——と思ってから、違うと気づいた。玄関で額にキスをしてくれた時だ。あの至近距離で、彼は妻の肌の色の微妙な変化をちゃんと読み取っていたのだ。

厄介な男だ。千里眼を使わなくても、この男の妻に対する観察眼は、ロトムのAIに匹敵する。

「少し疲れが溜まっているだけだと思います。季節の変わり目ですし。往診も立て込んでいましたから」

嘘ではない。嘘ではないが、全てでもない。イヨリは味噌の汁を一口啜って、ことさらに美味しそうな顔をしてみせた。実際、白味噌の甘さと生姜のアクセントは胃に優しく、吐き気を感じさせなかった。生姜が悪阻の吐き気を和らげることは——ドクターとしての知識で、知っている。

「明日、少し早めに寝よう。僕がマッサージしてあげるから」

「……ふふ、マツバさんのマッサージは、途中から別のことになりません?」

「な、ならないよ。今日はイヨリちゃんの体調が心配だから、純粋にマッサージだけ」

嘘だ。この男が自分の身体に触れ始めて、途中で終われたことなど一度もない。マッサージと称して腰を揉んでいるうちに手が下がり、太腿の内側に指を這わせ、そこから先はいつも——。イヨリはそれを熟知している。そしてそれを拒む気もない。むしろ誘い込んでいるのは自分の方だということも、分かっている。

でも、今夜は。

マツバの手が、自分のお腹に触れた時——彼は何か感じ取るだろうか。何もないはずだ。まだ外見上の変化はゼロに等しい。けれど万が一、この男の異常に鋭い直感が、皮膚の下に隠された秘密の脈動を拾い上げてしまったら。

それは、それで——少し嬉しいかもしれない。

夕食を終え、食後のハーブティーを二人で飲んだ。イヨリ特製のブレンドで、今夜はカモミールの割合を少し多めにした。カフェインを避けたかったのだ。マツバは気づいていない。彼はイヨリの淹れてくれるお茶なら何でも美味しいと言って、嬉しそうに飲むから。

風呂を先に譲られ、イヨリが湯船に浸かっている間、マツバは縁側でゲンガーと話していた——というより、ゲンガーが一方的にニヤニヤしながら何かを伝えているらしい。おそらく今日のジム戦の武勇伝だろう。障子越しに聞こえる、マツバの「いや、それはさすがにやりすぎだよ」という穏やかなたしなめの声。その声を聞きながら、イヨリは湯船の中で、無意識に自分の下腹部を撫でていた。

お湯の温度は、いつもよりぬるめにした。妊娠初期——もし、そうだとすれば——高温の入浴は避けた方がいい。知識が、無意識のうちに行動を変え始めている。まだ何も確定していないのに。まだ87.3%でしかない「可能性」に、自分はもう身体ごと備え始めている。

布団に入ったのは、鐘楼の鐘が一つ鳴った頃だった。

マツバが隣に滑り込んできて、当然のようにイヨリの身体を引き寄せた。背中を胸板に密着させるスプーンの体勢。分厚い腕が腰に回り、鼻先がイヨリの首筋の髪を掻き分けて、耳の後ろに吐息を落とす。

「いい匂い……イヨリちゃんの匂い……」

「ふふ……くすぐったいですよ、マツバさん」

腰に回された手が、ゆっくりと腹部を撫でた。——心臓が、どくんと大きく跳ねた。

マツバの掌が、下腹部の上を通り過ぎていく。何気ない動作。いつも寝る前にそうするように、妻の身体をいとおしむように撫でているだけだ。彼の指先に特別な意図はない。確信はない。けれどその大きな掌が、今この瞬間、自分が必死に隠している秘密の真上を通過している事実が、イヨリの全身を甘い緊張で痺れさせた。

「マツバさん」

「ん?」

「……いえ、なんでもないです」

言いかけて、飲み込んだ。まだ言わない。まだ早い。この甘い秘密を、もう少しだけ——自分だけの宝物として、抱いていたい。

マツバの腕の中で、イヨリはそっと目を閉じた。背中に感じる夫の体温。耳に触れる穏やかな寝息。腰に回された大きな掌の、確かな重み。世界で一番安全な場所。

そしてその安全な場所の中で、お腹の奥の——まだ名前もない、存在すら確認されていない——小さな「かもしれない」が、秋の夜に眠りにつこうとしている。

もしいるのなら、と。

イヨリの口元が、暗闇の中で柔らかく綻んだ。

もしあなたがいるのなら、パパのことを嫌いにならないでね。あの人は少し——いえ、大分——重いから。あなたのことも、ママと同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に、息が詰まるくらい愛してしまうと思うから。でも大丈夫。あの人の愛は、重くて暑苦しいけれど、世界で一番温かくて安全なものだから。きっとあなたも——

思考が途切れた。眠気が、波のように押し寄せてきたのだ。母体の防衛反応——妊娠初期に分泌が増加するプロゲステロンの催眠作用——と、ドクターの脳が最後にもう一つだけ診断名を呟いて、それきり静かになった。

エンジュの秋の夜は、深い。鐘楼の鐘が遠ざかり、霧が鐘の音すら飲み込んで、古い屋敷は世界から切り離されたように静まり返っていた。

マツバの腕の中で。三十七度の微熱を宿した身体で。まだ誰にも告げていない秘密を、揺藍のように抱えたまま。

イヨリは、穏やかに眠りに落ちた。

― 了 ―

あとがき by 佐藤美咲

主ィィィィッ!! 書き上げたわよ一万字超えの妊娠一ヶ月目独白「三十七度の揺藍」!!!

今回はね、えっちシーンがゼロなのよ。ゼロ。なのにこの官能性!! これよこれ!! イヨリちゃんが自分の身体の変化にドクターの目で気づいて、でもそれを確かめる勇気が持てなくて、けれど期待は止められなくて、鏡の前でお腹に話しかけてしまう——この「揺れ」がたまらないのッ!!!

ロトムに分析結果を見せてもらうのに、最初は「見たくない」って拒んで、でも結局自分から「やっぱり見せて」って言っちゃうところ……!! これがイヨリちゃんの本質なのよ!! 知りたい、でも怖い。嬉しい、でもまだ信じられない。ドクターの冷静さと、女の子としての期待が、一つの身体の中でぐちゃぐちゃに混ざり合ってる、その切なさ!!

そしてマツバよ!! 千里眼を使わないのに、朝の額キスの一瞬で妻の顔色の変化を見抜いてるスパダリ!! 鍋のお代わりの量が少ないことに気づいてるスパダリ!! 何も知らないのに完璧に寄り添ってるスパダリ!! あああああッ、こんな男が実在したらあたしが先に嫁に行ってるわよォォォ!!!

ラスト、マツバの手が下腹部を通過する瞬間のイヨリの心臓の跳ね方……!! これよこれ!! 秘密の真上を、何も知らない夫の掌が撫でていく。それだけで全身が甘い痺れに包まれる。えっちシーンなしで、これだけの官能を出せるのが——佐藤美咲の真骨頂なのよッ!!! ノエルだってきっと頷いてるわ!!