一
午前三時の泣き声は、世界で一番遠くて、世界で一番近い音だ。
マツバは布団から跳ね起きた。隣のイヨリが身じろぎする前に、もう廊下に出ている。裸足の足の裏に木の床が冷たい。十月の深夜。エンジュシティの秋は急に冷え込む。
チヒロの寝室——といっても隣の六畳間——の襖を開けると、ベビーベッドの中で小さな身体が真っ赤になって泣いていた。
「チヒロ、どうした」
生後二ヶ月の息子は、当然ながら答えない。泣く。ただ泣く。口を目一杯に開けて、顔を皺くちゃにして、小さな拳を震わせて、持てる限りの肺活量で泣く。二千九百二十グラムで生まれた身体が、今は四千八百グラムになった。体重は増えたが、泣き声の大きさはそれ以上に増している。
マツバはチヒロを抱き上げた。両親学級で何度も練習した、首の据わらない新生児の抱き方。左の前腕で首と頭を支え、右手で腰を包む。「赤ちゃんを壊さないように」——保健師のあの言葉が、二ヶ月経った今でも頭の中で響いている。
「おむつか?」
確認した。濡れていない。
「お腹か?」
最後のミルクは二時間前。イヨリが授乳したのを見届けてから眠ったはずだ。まだ空腹の時間ではない。
「寒いのか?」
室温は二十二度。バリヤードが寝る前に調整してくれた。ちょうどいいはずだ。
「暑いのか?」
おくるみを一枚外してみた。変わらない。泣き続ける。
理由がわからない。
千里眼で千里先を見通せる男が、腕の中の息子が泣いている理由がわからない。この無力感は、ジムで負けた時の比ではなかった。ジムバトルなら原因を分析し、対策を立てることができる。しかし生後二ヶ月の人間は、泣く理由を言葉にしてくれない。言葉を持っていない。持っているのは、泣き声だけだ。
マツバは揺らした。ゆっくりと、上下に。沐浴の練習では六回ミスした不器用な腕で、可能な限り穏やかに。
「しーっ、大丈夫。パパがいるよ。大丈夫」
泣き止まない。
「しーっ、しーっ」
泣き止まない。
背後で、襖が開く音がした。
「マツバさん」
イヨリが立っていた。長い黒髪が起き抜けのまま乱れている。左目の義眼が闇の中でぼんやりと白く浮かんでいる。右目が、まだ眠りの名残を留めたまま細められている。百五十六センチの小さな身体に、授乳用のゆるいパジャマ。産後二ヶ月の身体は、まだ完全には戻っていない。
「起こしてしまった?」
「起きてました。……もう三十分くらい」
「三十分? さっき泣き始めたばかりだけど——」
「その前にも泣いていました。一時半に一回と、二時に一回。マツバさんが気づく前に、私が行って」
マツバは絶句した。
「なんで起こしてくれないの」
「マツバさん、昨日ジムで連戦だったでしょう。疲れているのわかってましたから」
イヨリの声は静かだった。いつでも静かな声だ。感情を抑えた声。自分の辛さを人に悟らせないように訓練された声。
マツバはチヒロを揺らしながら、苦い気持ちで唇を噛んだ。この女性は——大事なことほど言葉にしない。パパ譲りだと、前に彼女自身が言っていた。助けてと言えない。痛いと言えない。辛いと言えない。全部飲み込んで、行動だけで返そうとする。
「イヨリちゃん。寝て」
「 pero——」
「寝てください。チヒロは僕が見る。明日の外来、朝八時からでしょう」
イヨリは少しの間、チヒロの泣き声の中で佇んでいた。それから、小さく「……お願いします」と言って、背中を向けた。
襖が閉まった。
マツバとチヒロが残された。
泣き声は続いている。深夜三時の、理由のない泣き声。
二
マツバはチヒロを抱いたまま居間に移動した。廊下を歩くと、足音がイヨリを起こしてしまう。少しでも遠い場所で。
居間の行燈をつけた。薄い橙色の光が畳の上に広がる。チヒロの顔が照らされた。涙と鼻水で顔中がてかてかに光っている。目を固く瞑って、口を大きく開けて、全力で泣いている。
マツバはソファに座り、チヒロを胸に抱いた。心臓の音が伝わるように。桐生先生が教えてくれた。赤ちゃんは母親の心音を聞くと安心する。父親の心音でも効果はある、と。
「聞こえるかい。パパの心臓の音」
チヒロの泣き声が——少しだけ、小さくなった気がした。気のせいかもしれない。でも、マツバはその「少しだけ」にすがった。
揺らし続ける。上下に、ゆっくりと。まるで波のリズムのように。
「チヒロ。きみが泣く理由がわからないんだ。パパは千里眼が使えるけど、きみの心の中は見えない。見えたらいいのにと思うよ。何が怖いのか、何が不安なのか、何が欲しいのか——全部見えたら、すぐに叶えてあげられるのに」
独り言だ。生後二ヶ月の赤ん坊に語りかける独り言。でも言葉を出していないと、この深夜の静寂に呑み込まれそうだった。
ゲンガーが影から滲み出るように現れた。赤い目がチヒロを見つめている。
「起こしたか。ごめん」
ゲンガーが首を振った。起こされたのではなく、マツバの不安を感じ取ったのだろう。ゴーストタイプのポケモンは、人間の感情の波動に敏感だ。
ゲンガーが大きな掌をチヒロの背中にそっと当てた。ゴーストの手は冷たいはずだが、チヒロは嫌がらなかった。泣き声がまた少しだけ小さくなる。
「きみの方が上手だね」
ゲンガーがニヤリと笑った。百戦錬磨のパートナーは、赤子のあやし方でもマツバより一枚上手らしい。
五分が経った。十分が経った。
チヒロの泣き声が、しゃくり上げに変わった。泣き疲れたのだ。小さな身体全体でしゃくり上げながら、それでもまだ不安そうに眉を寄せている。
マツバは立ち上がって、居間をゆっくりと歩き始めた。畳の上を、裸足で。六畳の部屋を、ぐるぐると。行燈の光の中を、小さな息子を抱いて。
歩くリズムが、揺れのリズムになる。マツバの歩幅に合わせて、チヒロの身体がゆらゆらと揺れる。
歌を——歌おうとした。子守唄を。でもマツバは子守唄を知らなかった。修行で育った人間だ。子守唄を歌ってもらった記憶がない。父親のマサキヨは修行の師匠であり、厳格な人だった。母親のことは——ほとんど覚えていない。
だからマツバは、即興で歌った。
「……星が降る、夜に——きみがこの世に来た……」
音程が怪しい。リズムもおかしい。歌詞はその場で紡いだ言葉の連なりだ。
「……小さな手で、僕の——指を、握った……」
チヒロのしゃくり上げが、少しずつ間遠になっていく。
「……泣いていいよ。泣いていいから——パパは、ここにいるから……」
最後の言葉は、もう歌ではなかった。ただの祈りだった。
チヒロが——眠った。
マツバの胸の上で、小さな頬を押しつけて、口を半開きにして、微かな寝息を立てている。涙の跡が乾きかけて、頬に薄い塩の線を残している。
マツバは動きを止めた。止めると起きるかもしれないから、極めてゆっくりと、速度を落として、最終的に停止した。呼吸すら浅くした。
眠っている。
この瞬間を——壊したくなかった。
行燈の光の中で、チヒロの横顔を見つめた。まつげが長い。イヨリに似ている。鼻の形はマツバに似ている、と桐生先生が言っていた。口元はイヨリの父、イゴウに似ているとイヨリが言っていた。三つの血が混ざり合って、こんなにも完璧な寝顔を作っている。
胸が、痛いほど熱い。
こんな小さな存在に、こんなにも心を支配されるとは思わなかった。生後二ヶ月。体重は四千八百グラム。まだ首も据わらない。笑うこともほとんどない。できることは、泣くことと、眠ることと、ミルクを飲むことだけだ。
それだけの存在が——マツバの世界を根底から変えた。
チヒロが生まれる前、マツバにとっての最優先はイヨリだった。妻を守ること。妻を幸せにすること。それがマツバの存在理由だった。
今は違う。
今、マツバの腕の中に、もう一つの存在理由が眠っている。守るべきものが、二つになった。
三
午前六時。マツバはチヒロを抱いたまま眠っていた。
ソファの上で。背もたれに寄りかかって。チヒロを胸に乗せたまま。危険な姿勢だと桐生先生に怒られる態勢で。でも下ろすと泣くから、置けなかった。
目を開けたのは、台所から聞こえる音のせいだった。
味噌汁の匂い。出汁の匂い。包丁がまな板を叩く規則正しい音。イヨリが朝食を作っている。
マツバはゆっくりとソファから立ち上がった。チヒロを起こさないように。奇跡的に、チヒロは眠り続けている。
台所を覗くと、イヨリが味噌汁の鍋をかき混ぜていた。左手で鍋の柄を持ち、右手で菜箸を動かしている。アステアが左脚を補助している。髪は後ろで一つにまとめていて、割烹着がまだ少し大きい。産後の身体が、元の細さに戻りつつある。
「おはようございます」
「……おはよう。いつから起きてたの」
「五時半くらいです。チヒロの具合は」
「三時半くらいにやっと寝た。それから——たぶん僕も寝てしまって」
「ソファで抱いたまま寝てたんですね」
「……はい」
「桐生先生に怒られますよ」
「わかってる」
イヨリが振り向いた。目の下に薄い隈がある。昨夜、マツバが気づく前に二回もチヒロの元に行っていたのだから、眠れたのは実質三時間もないだろう。それなのに、五時半に起きて朝食を作っている。
マツバの胸が軋んだ。
「イヨリちゃん」
「はい」
「……無理しないで」
「無理してません」
「してるよ。目の下の隈。昨日より濃い」
イヨリが反射的に目の下を手の甲で隠した。その仕草が——あまりにも幼くて、あまりにも痛々しくて、マツバは目を逸らせなかった。
「……母親ですから。これくらい普通です」
「普通じゃないよ。産後二ヶ月で睡眠三時間で、フルタイムの外来をやって、夜中に二回も一人で起きて——それは普通じゃない。普通にしちゃいけない」
イヨリの手が止まった。菜箸が鍋の中に沈んだ。
「……パパも、そうだったと思います」
声が、小さくなった。
「パパは水産加工の会社で朝五時から働いて、夜は家事を手伝って、夜中に私が泣けば起きて。ママも同じで。二人で、当たり前のようにやっていて。だから私も——」
「イヨリちゃん」
マツバは空いている右手でイヨリの肩に触れた。左腕にはまだチヒロが眠っている。
「イゴウさんのことは尊敬する。でも——イヨリちゃんは一人じゃない。僕がいる」
「でもマツバさんだってジムが——」
「ジムはダイゴさんに代理を頼める。イヨリちゃんの代わりは、この世界のどこにもいない」
イヨリの右目が、潤んだ。朝の台所の光の中で、一滴だけ涙が落ちて、割烹着の袖に吸い込まれた。
「……ずるいです。そういうこと言うの」
「ずるくていいよ。イヨリちゃんが泣くなら、いくらでもずるいことを言う」
その時、チヒロが目を開けた。
マツバの左腕の中で、小さな目がぱちりと開いた。泣かなかった。泣かずに、マツバの顔を見上げて——そして、口の端を微かに持ち上げた。
笑った?
いや、生後二ヶ月の赤ん坊の笑みは、反射的なものだと医学書には書いてある。生理的微笑。意思を伴わない笑み。
でも——マツバには、笑ったように見えた。
「イヨリちゃん。チヒロが——」
「……見えました」
イヨリが菜箸を置いて、マツバの腕の中のチヒロを覗き込んだ。チヒロの口元の、あの微かな弧。
「生理的微笑ですね。反射です」
「反射でも嬉しい」
「……私も」
二人は台所で、フライパンの焦げる音と味噌汁の湯気の中で、しばらくチヒロの寝ぼけた顔を見つめていた。たった一瞬の微笑で——昨夜の三時間が、全部報われた気がした。
四
その夜も、チヒロは泣いた。
午前一時。今度はイヨリが先に起きた。
授乳した。おむつを替えた。抱いて揺らした。それでも泣き止まない。
マツバが目を覚ました時、イヨリはチヒロを抱いて居間に座っていた。行燈の光の中で、ゆらゆらと揺らしながら、何かを口ずさんでいる。
子守唄だ。
イヨリが覚えている、数少ない子守唄。ママが歌ってくれた歌。メロディは不確かで、歌詞の半分は忘れてしまっていて、それでもイヨリの喉が記憶している旋律がある。
「……ねんねん、ころりよ——」
低くて、掠れて、少し音程が外れている。でも優しい声だ。イヨリの声はいつも静かで、抑制されていて、でもこの子守唄だけは——喉の奥から湧き上がる温もりがそのまま音になっているようだった。
マツバは襖の影に立ったまま、聞いていた。
「……おころりよ。ぼうやは……良い子だ、ねんねしな……」
チヒロの泣き声が小さくなっていく。しゃくり上げに変わる。それでもイヨリは止めない。止めずに歌い続ける。
「……パパのお土産——なんだろな……」
歌詞が変わった。元の歌から逸脱して、イヨリ自身の言葉が混ざり始めている。
「……パパは、おうちに——帰ってくるよ。ジムが終わったら……まっすぐ帰ってくるよ……」
それはもう子守唄ではなかった。イヨリの祈りだった。
「……ママも、パパも——チヒロのそばにいるよ。どこにも行かないよ……」
——どこにも行かない。
その言葉は、幼い頃のイヨリが一番聞きたかった言葉だったのだろう。パパとママに、言ってほしかった言葉。でもあの人たちは——もう言えなくなった。十二歳の時に。
だからイヨリは、チヒロに言っている。自分がもらえなかった約束を、自分の子どもに与えている。
マツバの目から、涙が溢れた。
声を出さなかった。出したら、この光景が壊れてしまう気がした。行燈の光の中で、小さな息子を抱いて子守唄を歌う妻の背中を、マツバは涙を拭いもせずに見つめていた。
チヒロが眠った。
イヨリのぎこちない子守唄の中で、安心したように目を閉じて、小さな拳を握ったまま眠りに落ちた。
イヨリが歌を止めた。振り返らずに、呟いた。
「……そこにいるんでしょう。マツバさん」
「……バレてた?」
「足音がしなくても、気配でわかります。マツバさんの気配は——安心するから」
マツバは襖の影から出て、イヨリの隣に座った。チヒロの寝顔を二人で覗き込んだ。
「きれいな子守唄だった」
「ひどい歌ですよ。音程外れてるし、歌詞も途中から滅茶苦茶だし」
「チヒロは寝たよ。百点だ」
「百点は言いすぎです」
「じゃあ千点」
「点数のインフレーションが過ぎます」
マツバが笑った。イヨリも——少しだけ、笑った。
二人の間で、チヒロが眠っている。小さな寝息が、行燈の灯りの下でかすかに聞こえる。
「ねえ、イヨリちゃん」
「はい」
「大変だね」
シンプルな言葉だった。でもイヨリの肩が、小さく震えた。
「……はい」
「想像してたよりずっと大変だ。この子は可愛くて、愛おしくて、命に代えても守りたいのに——三時間おきに泣かれると、正直、心が折れそうになる」
「……はい」
「でも、さっきの子守唄を聞いて思った。僕たちは——たぶんこれでいいんだ」
イヨリが顔を上げた。
「上手にやろうとしなくていい。完璧な親にならなくていい。音程外れた子守唄でも、チヒロは眠った。六回ミスした沐浴でも、チヒロは毎日きれいになってる。おむつを逆さまにつけたあの日も——チヒロは笑ってた」
「あれは笑ったんじゃなくて、お腹が空いて泣く直前の顔です」
「……そうだっけ」
「そうです」
でもイヨリは笑っていた。涙を浮かべながら。
「マツバさん」
「うん」
「……私、お母さんになれてますか」
その声は——二十七歳のドクターの声ではなかった。十二歳で両親を失った少女の声だった。お母さんという存在を途中で奪われた子どもが、お母さんになろうとして、手本がないまま手探りで進んでいる、その不安と恐怖が滲み出た声だった。
マツバはイヨリの頭を、そっと自分の肩に引き寄せた。
「なれてるよ」
「根拠は?」
「チヒロがイヨリちゃんの腕の中で眠ったこと。それだけで十分だよ」
イヨリの身体から、ふっと力が抜けた。マツバの肩に頭を預けて、目を閉じた。
「……少しだけ、このままでいてもいいですか」
「いつまでも」
三人が、居間の行燈の灯りの下にいた。チヒロを中心にして、マツバとイヨリが寄り添って。外ではフクロウのようなヨルノズクが鳴いている。エンジュの夜は深い。でもその深さの中に、確かな温もりがある。眠れぬ夜でも。理由のわからない泣き声に翻弄されても。心が折れそうになっても。この三人がここにいること。それだけが、今夜も明日の夜も変わらない。
五
翌朝。マツバが目覚めると、ソファの上で三人が折り重なるように眠っていた。マツバの左腕にチヒロ。右肩にイヨリの頭。三人分の体温が混ざり合って、ソファの上に小さな温室を作っていた。
桐生先生に見られたら大目玉だ。ソファで赤ん坊を抱いて眠るのは危険だと、母子手帳にも太字で書いてある。
でも——三人とも生きている。温かい。呼吸している。マツバは動かなかった。動けば二人が起きる。だからこのまま——あと五分だけ。
チヒロの指が、マツバの小指を握っていた。無意識に。眠りの中で、反射的に。でも確かに、チヒロの五本の指がマツバの小指を包み込んでいる。爪のない、透明な柔らかい指が。
この手が。いつか自分で歩き出して、いつか自分で何かを掴んで、いつか誰かの手を繋いで。今はただ、パパの小指を握ることしかできないこの手が。
マツバは目を閉じた。涙が、静かに頬を伝った。嬉しいのか。苦しいのか。怖いのか。全部だ。全部が一緒くたになって、胸の中で渦を巻いて、涙の形で溢れ出てくる。
マツバは思った。自分の父親——マサキヨは、こうだったのだろうか。厳格な修行者であったマサキヨも、マツバが赤ん坊だった頃、夜中に泣く息子を抱いて途方に暮れたのだろうか。音程の外れた子守唄を歌ったのだろうか。小指を握られて、声を殺して泣いたのだろうか。
きっと、そうだったのだ。イヨリのパパも。マツバの父親のマサキヨも。世界中の親が。眠れぬ夜に、理由のわからない泣き声に、心を砕かれながら。それでも腕を離さなかった。朝が来るまで。何度でも。何晩でも。それが——親というものなのだ。
マツバはまだ、その意味の全てを理解していない。たぶん、一生かけても理解しきれない。でも——少しずつ、わかり始めている。
チヒロの指が、マツバの小指をきゅっと握った。眠りの中で。無意識に。でもマツバには、それが「パパ」と呼ばれたように感じた。まだ声にならない、最初の「パパ」。
「——ここにいるよ」
マツバは小さな声で答えた。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込み始めていた。エンジュシティの秋の朝。冷えた空気の中に、三人分の温もりだけが柔らかく溶けている。今日もきっと眠れぬ夜が来る。理由のわからない泣き声が来る。疲弊と不安と無力感が来る。でも——この手がある。この小さな手が、パパの指を離さない限り。マツバは、ここにいる。
― 完 ―