星が、泣いた朝
― 十月十日の肖像 Episode 10
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【一】予定より、早く
六月八日。帝王切開の予定日の二日前だった。
深夜二時。イヨリは腹部の異変で目を覚ました。最初はいつもの前駆陣痛だと思った。妊娠後期には偽陣痛と呼ばれる子宮の収縮が不規則に起こり、イヨリも過去数週間で何度か経験していた。ぎゅっと締まるような痛みが数分続き、やがて消える。いつものやつだ。
十分後、再び来た。
今度は、前のものより明確に強かった。下腹部の奥深くから骨盤に向かって、万力で挟まれるような圧迫が走る。イヨリの身体が反射的に丸くなり、歯を食いしばった。
八分後、三度目。
規則的だ。ドクターの頭が冷静に判断を下す。不規則で強度がまちまちな前駆陣痛とは違い、間隔が一定で、回を追うごとに強くなっている。これは——本物だ。
「ロトム」
小さく呼んだ。アステア・システムのロトムが即座に応答した。
「子宮収縮を検知ロト。間隔八分、持続時間四十秒。陣痛第一期と判定ロト。桐生レディースクリニックに緊急連絡を推奨ロト」
「マツバさん」
声が震えた。痛みのせいか、恐怖のせいか、それとも——いよいよ来たという実感のせいか。
マツバは半秒で覚醒した。修行者の身体は、妻の声のトーンが変化したことを睡眠中でも拾い上げる。目を開けた瞬間、暗闘の中でイヨリの表情を見た。痛みに顔を歪め、腹部を両腕で抱えている妻の姿。
「陣痛?」
「はい……。予定日より早い——でも三十八週だから、正期産の範囲内。赤ちゃんは十分に育ってる」
痛みの合間にも、ドクターとしての報告が口をつく。マツバはすでに立ち上がり、明かりを灯し、玄関の入院バッグを確認しに走っていた。
「桐生先生に電話する。ロトム、クリニックへの最短ルートは?」
「車で十二分ロト。現在道路は空いてるロト」
バリヤードが廊下に飛び出してきた。イヨリの呻き声を聞きつけたのだ。主人の妻が出産を迎えようとしていることを一瞬で理解し、台所へ走って保温ポットに白湯を用意し始めた。ゲンガーが影の中から現れ、無言でマツバの傍に立った。バシャーモが玄関で待機し、車までの道を温めている。ロズレイドが、枕元に鈴蘭を一輪置いた。
全員が、待っていたこの瞬間のために動き始めた。
マツバがイヨリを抱え上げた。布団から立ち上がることすら困難な妻の身体を、横抱きにして廊下を進む。百五十六センチの身体は、九ヶ月前より十二キロ重い。けれどマツバの腕にとって、その重さは——十か月分の命の重さは——信じられないほど軽かった。
車に乗り込む間も、陣痛は続いた。六分間隔に縮まっている。イヨリが後部座席で身体を丸くし、マツバの着物の裾を握りしめた。額に汗が浮かび、唇が蒼白になっている。
「チヒロ……。チヒロが、来るんだね」
「うん。来るよ。——待ってたんだ、この日を」
エンジュの夜の街を、車が駆け抜けた。鐘楼の横を通過する。焼けた塔が月明かりの中に黒いシルエットを浮かべている。この街で——百五十六センチのドクターと千里眼の修行者が出逢い、愛し合い、命を宿した街。その街の夜を裂いて、命が降りてくる。
* * *
【二】嵐
桐生レディースクリニック。午前二時四十八分。
桐生医師は電話一本で駆けつけていた。白衣をまとい、眼鏡を直し、看護師二名と助産師一名を召集して分娩室を準備していた。イヨリがストレッチャーに乗せられて分娩室に入った時、桐生医師の第一声は——
「予定帝王切開の前に来たわね。チヒロちゃんはせっかちね」
「先生……帝王切開は——」
「自然陣痛が始まった以上、まず経腟での進行を見ます。児頭の位置と骨盤との適合を確認して、進行が困難と判断したら速やかに緊急帝王切開に切り替えます。イヨリさん、あなたはドクターだから分かるわね。自分の身体を信じなさい。でも無理はしないこと」
イヨリが頷いた。分娩台に移された。左足のアステア・システムが分娩サポートモードに切り替わり、左脚の位置を安定させている。両足がアブミに乗せられ、下半身が露出される。プライドもドクターの仮面も、ここではすべて脱ぐ。ここでは——ただの、子供を産もうとしている母親だ。
マツバが分娩室に入った。立ち会いは許可されている。イヨリの頭の側に椅子が用意され、そこに座って妻の顔を見守る。妻の左手を、両手で握った。
「いるよ。ここにいるよ」
陣痛が来た。四分間隔。子宮口は六センチ。桐生医師が「順調に開いてる」と報告した。けれどここからが——地獄だった。
午前四時。子宮口八センチ。陣痛の間隔は三分を切り、持続時間は一分を超え始めた。痛みの波が去る前に次の波が押し寄せる。イヨリの全身が汗に濡れ、髪が額に貼りつき、歯を食いしばる顎の筋肉が限界を訴えている。
「ぐっ……あ、ぁぁっ……!」
低い呻きが漏れた。イヨリは叫ばなかった。声を殺す癖が——あの夜の癖が——こういう時にも出る。痛みを声に出すことをどこかで恥じている。
「叫んでいい。声を出して」
マツバが額の汗を拭いながら言った。
「声を殺すな。唇を噛むな。——僕が言ったでしょう」
あの夜の言葉が、分娩室で反響した。イヨリの充血した右目がマツバを見た。白濁した左目からも涙が流れている。次の陣痛の波がイヨリの身体を貫いた時——彼女は初めて、声を上げた。
「痛いッ——!」
叫びが分娩室に響いた。助産師が「いいわよ、声出していいからね」と励ました。マツバの手を握るイヨリの力が、骨が軋むほどに強まった。修行で鍛えた手が、妻の握力に痺れる。けれどマツバは一ミリも手を引かなかった。
午前五時。子宮口全開大。十センチ。
桐生医師がイヨリの顔を真っ直ぐ見た。
「いきんでいいわよ。チヒロちゃんが降りてきてる。——ゆっくり、長く、力を入れて」
イヨリがいきんだ。全身の力を下腹部に集中させ、横隔膜を固定し、骨盤底筋を押し広げようとする。けれど——左半身の筋力が足りない。全身で踏ん張るべき瞬間に、左足が力を出しきれない。アステアが補助しても、いきむ力の半分しか出せない。
チヒロの頭が、骨盤の入口で止まった。
「児頭の旋回が遅いわね。骨盤との嵌合が浅い」
桐生医師の声が、冷静だが緊迫したものに変わった。懸念していた通りだ。小さな骨盤と、標準サイズの胎児の頭。通路が狭すぎる。チヒロの頭蓋骨は柔らかいから、ある程度は変形して通過できる。けれどそれにも限界がある。
「もう一度。次の陣痛で、もう一度いきんで」
波が来た。イヨリがいきんだ。叫んだ。歯を食いしばるのではなく、声を出しながら——腹の底から搾り出すように力を込めた。左足のアステアが全開で補助し、右足がアブミを蹴り上げるように踏ん張った。
動いた。ほんの五ミリ。チヒロの頭が、骨盤の中で回旋した。けれどまだ——まだ通過していない。
「もう一回。もう一回よ、イヨリさん」
時間が延びていく。伸長法ではなく——現実の時間が、引き伸ばされるように遅くなっていく。一分が一時間に感じられる。痛みの波が去る十五秒間だけが、イヨリに許された休息。その十五秒で呼吸を整え、次の波に備える。
マツバは——何もできなかった。
千里眼を使えば、チヒロの位置が見える。頭が骨盤の中でゆっくりと回旋しようとしているのが見える。心拍は安定している。まだ危険域ではない。けれどイヨリの心拍が上がりすぎている。血圧が乱高下している。ロトムが断続的に「バイタル注意ロト」の警告を出している。
千里眼で見える。全てが見える。けれど——何一つ、手出しできない。
修行者の手は、霊を祓い、ゴーストを操り、千里先の真実を見通すことができる。けれど今、この手に求められているのは——ただ、妻の手を握り続けること。それだけだ。それ以上のことは、何一つできない。
喪失の恐怖が、マツバの胸を焼いた。
イヨリが死ぬかもしれない。
その思考が、暗い稲妻のように脳裏を走った。修行時代、焼けた塔で出会った無数の死霊たち。命の灯が消える瞬間を、何度も千里眼で見てきた。消えゆく光。冷えていく体温。止まる鼓動。——今、この分娩台の上で、イヨリの命が消えるかもしれない。チヒロを産み落とす代償に、イヨリの光が消えるかもしれない。
「やめろ」
自分に言い聞かせた。あの夜、イヨリの自己否定を止めた時と同じ声で、今度は自分の恐怖を止めた。やめろ。死なない。イヨリは死なない。桐生先生がいる。ロトムがいる。そしてイヨリ自身が——あの小さな身体の中に、海のように大きな力を持っている。
「イヨリ」
マツバが妻の額に顔を近づけた。汗と涙でぐしゃぐしゃの額に、自分の額を合わせた。
「聞こえるか。僕の心臓の音」
「……聞こえ、る……」
「止まらない。絶対に止まらない。君が聞いている限り」
あの夜の約束。額と額が触れ合い、骨伝導でマツバの鼓動がイヨリに伝わる。とくん、とくん、とくん。速い。マツバの心臓も限界まで打っている。けれど止まらない。止めない。
* * *
【三】闇の底で
午前五時三十七分。分娩開始から約三時間。
イヨリの意識が、薄れ始めていた。
痛みが限界を超えると、身体は意識を遮断しようとする。防衛本能。視界が白く霞み、音が遠くなり、天井の蛍光灯が滲んで一つの光の塊になる。桐生医師の声が水の中から聞こえるようになった。助産師の手が遠い。
暗い。暗くて、深い。海の底に沈んでいくような感覚。ミナモシティの海——子供の頃に泳いだ、あの太陽の海ではなく。冬の夜の海。冷たくて暗い海の底に、身体が沈んでいく。
チヒロ。
お腹の中で、チヒロが動いた。蹴りではなく、頭を回転させる動き。この子も闘っている。狭い骨盤の中で頭を回し、出口を探している。母親と同じように——全力で、この瞬間を生き延びようとしている。
「イヨリさん! 意識を保って! あと少しよ! チヒロちゃんの頭が見えてる!」
桐生医師の声が、水の底から聞こえた。遠い。でも——聞こえた。頭が見えている。チヒロの頭が、骨盤を通過しかけている。あと少し。あと少しで——
「イヨリ!」
マツバの声。
この声だけは、水の底でも鮮明だった。十か月間、毎朝聞いた声。悪阻の朝に背中を擦りながら聞いた声。凍ったぶどうを差し出しながら聞いた声。温泉で髪を洗いながら聞いた声。夜中の号泣を受け止めながら聞いた声。チヒロの名前を呼びながら聞いた声。
「聞こえるか! 僕の声が!」
「……きこえ……る……」
「最後の一回だ! あと一回いきめば、チヒロが出てくる! 桐生先生が言ってる!——頼む、イヨリ。最後の力を。全部、僕の手に掴まって、全部出しきってくれ」
マツバの手が、イヨリの手を握りしめた。握りしめるというより——命綱を掴むように。暗い海の底に沈んでいく妻に差し伸べた、最後のロープ。
イヨリの意識が、マツバの掌の温度を拾った。三十六度五分。大きくて、固くて、温かい。この手が——この十か月間、ずっと私を支えてきた手。
陣痛の最後の波が来た。今までで一番大きな波。身体全体が引き裂かれるような痛み。けれどイヨリは——暗い海の底から、掌の温度を頼りに浮上した。
目を開けた。
天井の蛍光灯の光。桐生医師の眼鏡。助産師の手。——そしてマツバの紫の瞳。涙で滲んだ紫の瞳が、至近距離からイヨリを見つめている。
吸った。深く。最後の一息を、腹の底まで。
いきんだ。
百五十六センチの身体の、全ての筋肉が収縮した。左半身が足りない分を、右半身が補った。アステアが左足を固定し、右足がアブミを蹴った。横隔膜が下がり、腹圧が最大になり、子宮が収縮し、骨盤底筋が開き——
チヒロの頭が、骨盤を通過した。
「頭出た! もう一押し! 肩を!」
桐生医師の声が響いた。イヨリの叫びと重なった。マツバの手を握る力が、今度こそ骨を砕くかと思うほど強かった。最後の力。最後の最後の、残りかすのような力。それを振り絞って——
するり、と。
肩が抜けた瞬間、チヒロの身体全体が滑り出した。温かくて湿った小さな身体が、桐生医師の手の中に滑り込んだ。
* * *
【四】産声
一秒の沈黙があった。
世界が息を止めた一秒。分娩室の全ての音が消え、蛍光灯の光だけが白く満ちた、永遠のような一秒。
オギャア。
その声が、沈黙を引き裂いた。
小さくて、甲高くて、怒ったような、けれどこの世の何よりも力強い声。肺に初めて空気が入り、声帯が初めて振動し、この世界に向かって自分の存在を宣言する声。名前がある。千紘。チヒロ。その名の持ち主が、今——初めて、自分の声で泣いた。
「オギャアア! オギャアアア!」
泣き続けている。力いっぱいに。拳を握り、顔を真っ赤にして、全身で泣いている。産声は止まらない。止める気もないかのように。九ヶ月間、足の蹴りでしか語れなかった命が、初めて「声」という手段を手に入れて、使い方が分からないまま全力で叫んでいる。
「男の子よ」
桐生医師の声が、震えていた。何百人もの赤ちゃんを取り上げてきた老医師の声が、震えていた。
「元気な男の子。二千九百二十グラム。——おめでとう。見て、お母さんそっくりの目元をしてるわ」
イヨリの目から、涙が溢れた。もう何度目の涙か分からない。妊娠を知った時。マツバに告げた時。悪阻の時。胎動の時。名前を呼んだ時。夜中に泣いた時。——けれどこの涙は、その全てとは違う。生まれて初めて流す種類の涙だった。母になった涙。
チヒロが、手早く処置されて産着に包まれ、イヨリの胸の上に置かれた。
軽い。信じられないほど軽い。二千九百二十グラム。お腹の中にいた時はあんなに重くて、起き上がることすらできなかったのに。こうして外に出てきた命は——掌の上のシジュウカラの雛のように、軽くて、温かくて、小さかった。
チヒロの顔を見た。
しわくちゃで、赤くて、目を固く閉じて泣いている。まだ焦点の合わない眼球が瞼の下でぐるぐる動いている。握った拳は——親指ほどしかない。鼻は潰れたように小さく、唇はめくれ上がって泣き声のために全開になっている。
美しい、と思った。
世界中の誰に何と言われても。しわくちゃで赤くて顔の形が歪んでいても。この顔が——十か月間、エコーでぼんやりとした輪郭でしか見えなかった顔が——今、自分の胸の上で泣いている。それだけで、この子は世界一美しかった。
「チヒロ……」
名前を呼んだ。声が裂けていた。嗄れて、震えて、かすれて、まともな発声ではなかった。けれど言えた。我が子の名前を、初めて産声の中で呼べた。
「チヒロ、チヒロ……。生まれてきてくれた……」
チヒロの泣き声が——ほんの一瞬、途切れた。母親の声が聞こえたのか。九ヶ月間、羊水を通して聞いてきた、あの震動と同じ声が、今度は空気を通して耳に届いた。知っている声だ。一瞬だけ泣き止み——そしてまた、一層力いっぱいに泣き始めた。
マツバは——椅子から崩れ落ちていた。
膝が床についていた。イヨリの手を握ったまま、椅子から滑り落ちて、分娩室の床に膝をついていた。紫の瞳から涙が溢れ、鼻水が垂れ、顎が震え、喉から声にならない声が漏れている。
泣いていた。
子供のように泣いていた。ジムリーダーの威厳も、修行者の克己も、二十七歳の男としての矜持も——全て吹き飛んで。産声を聞いた瞬間に、マツバの中の全ての壁が崩壊した。
「生きて……。イヨリが……生きて……チヒロが……」
言葉にならなかった。「生きてる」。ただそれだけの事実が、マツバの全身を震わせていた。妻が死なずに済んだ。子供が無事に生まれた。二人とも生きている。その事実の重さが——千里眼で見てきたあらゆる真実よりも重く、マツバの膝を砕いた。
桐生医師が、静かに微笑んだ。眼鏡の奥の目が赤い。この老医師もまた、泣いていた。
「お父さん。立って。息子さんに会って」
マツバがよろめきながら立ち上がった。イヨリの胸の上で泣いているチヒロの顔を、初めて見た。
小さかった。入院バッグに入れた50サイズの肌着が大きく見えるほど、小さかった。赤くて、しわくちゃで、全身の力を込めて泣いている。握った拳が、マツバの小指の先ほどしかない。
マツバの手が——震える手が——チヒロの頬に触れた。
温かかった。三十七度の、生まれたての体温。人間の体温。もう掌越しの蹴りではない。薄い皮膚一枚を隔てただけの、直接の温もり。マツバの指先が、チヒロの頬の柔らかさに沈んだ。
「……チヒロ」
名前を呼んだ。分娩室で、直接、空気を震わせて。羊水を通さず、腹壁を通さず、初めて——父から息子への、遮るもののない声。
チヒロが泣き止んだ。
父親の声に、泣き止んだ。目は閉じたまま。けれど握っていた拳がほどけて、小さな指がマツバの指先に触れた。反射的な反応だろう。新生児の把握反射。それでも——その指の力は、想像を超えて強かった。マツバの人差し指を、五本の小さな指が握りしめた。
マツバが声を上げて泣いた。もう隠さなかった。涙も鼻水も嗚咽も、全て露わにして、分娩室で声を上げて泣いた。助産師が貰い泣きし、看護師が目を拭い、桐生医師が眼鏡を外して天井を仰いだ。
* * *
【五】三人
午前六時十二分。六月八日の朝。
エンジュシティの東の山の端から、朝日が昇った。分娩室の窓から差し込む朝の光が、三人を照らしている。
イヨリは分娩台の上で、チヒロを胸に抱いていた。汗と涙で髪が額に貼りつき、唇は乾き、声は嗄れている。分娩に要した時間は約三時間半。華奢な百五十六センチの身体で、二千九百二十グラムの命を、自分の力で——押し出した。帝王切開にはならなかった。小さな骨盤を、チヒロが自分で頭を回転させて通り抜けた。母と子の、共同作業だった。
マツバがイヨリの枕元に顔を寄せて、三人の額が触れ合った。マツバの額、イヨリの額、そしてチヒロの小さな額。鼓動の三重構造が——今度は空気を通して重なっている。マツバの心臓の音、イヨリの心臓の音、チヒロの心臓の音。三つの命が、同じ朝の光の中で脈打っている。
チヒロは泣き疲れて、イヨリの胸の上で眠っていた。母親の心臓の音が聞こえる場所。九か月間聞き続けた、あの音。お腹の中で聞くのと外で聞くのとでは、少し違うかもしれない。でも——この音が「家」だと、チヒロの身体は覚えている。
「イヨリちゃん」
「……はい」
「ありがとう」
マツバの声は、まだ震えていた。泣き腫らした紫の瞳が、妻と娘を交互に見ている。
「チヒロを、産んでくれて。——そして、生きてくれて」
イヨリの目から、また涙が流れた。もう涙腺が壊れたのではないかと思うほど、止まらない。嬉しくて泣いているのか、安心して泣いているのか、疲れて泣いているのか——全部だ。全部が混ざった、名前のつけられない涙。
「マツバさんこそ……ありがとう。手を、離さないでくれて」
マツバの右手は、まだイヨリの左手を握っていた。分娩が始まってから一度も離していない。握りしめ続けた掌は汗で滑り、イヨリの爪が食い込んだ跡が赤く残っている。けれどマツバは——その痕が嬉しかった。妻が自分の手に爪を立てるほどの力で縋りついてくれたことが、何よりも嬉しかった。
「ロトム」
「はいロト」
ロトムの声が、どこかくぐもっていた。デバイスに涙腺はないはずだが、声のトーンが明らかに揺れている。
「時刻は?」
「午前六時十二分ロト。六月八日。快晴ロト」
「チヒロの出生時刻は」
「五時五十三分ロト」
「……六月八日、五時五十三分。チヒロが——千紘が、生まれた日だ」
マツバがその日時を噛みしめるように呟いた。カレンダーに赤い丸を付けた日ではなく、チヒロ自身が選んだ日。予定帝王切開の二日前。この子は、自分のタイミングで、自分の力で頭を回転させて、自分から出てきた。秘密主義で恥ずかしがり屋で、性別も顔も見せてくれなかった子供が——人生最初の瞬間だけは、自分の意志で決めた。
窓から入る朝日が、チヒロの頬を照らした。生まれたての赤い肌が、金色の光を受けて薄桃色に見える。睫毛は産毛のように細く、閉じた瞼の上でかすかに震えている。イヨリが指で——点滴の管が刺さった細い指で——チヒロの頬を撫でた。
名もなき星が、ようやく泣いた。
十月十日。マツバとイヨリの間に灯った小さな炎は、悪阻の嵐にも、切迫流産の恐怖にも、母体の限界にも消されることなく——今朝、産声という名の光を放って、この世界に降りてきた。
千の紘ほどの広い心を持ってほしいと名付けた娘が、二千九百二十グラムの身体に、海よりも広い可能性を宿して、父と母の腕の中で眠っている。
エンジュの鐘楼が、朝の六時半を告げた。焼けた塔の向こうに、夏の入口の太陽が昇りきっていく。全ての手が編んだ揺り籠が、今、たった一人の小さな命を受け止めた。
家族が、始まった。
― 了 ―
あとがき by 佐藤美咲
主ィィィィッ!! 十連続えっちシーンゼロの大記録達成ィィィッ!! でもそんなの——そんなの、もうどうでもいいの。
あたし、書きながら泣いた。三回泣いた。産声のシーンで一回。マツバが膝から崩れ落ちるシーンで一回。三人の額が重なるシーンで一回。合計三回。ノエルが心配して膝に乗ってきたから、ノエルの頭を撫でながら最後のシーンを書いた。命が「来る」って——こういうことなのよ。
イヨリが声を出していきむシーン。「声を殺すな。唇を噛むな」——これはEp.8で泣くイヨリに言ったマツバの言葉の反復よ。あの夜の約束が、分娩室で還ってくる構成。声を殺す癖があるこの女性が、人生で一番大きな声を出す瞬間。それが出産なの。
マツバの無力感が書けて良かった。千里眼で全てが見える。でも何もできない。修行者の手は霊を祓えるけど、陣痛の痛みは取り除けない。できることは——ただ手を握ること。それだけ。その「それだけ」が、どれほど重いか。どれほど尊いか。
「男の子よ」の一言。そして「イヨリそっくり」という追撃!! 六ヶ月間、足をクロスして隠し続けた秘密の答えは、お母さん似の可愛い男の子でした!! イヨリ似の息子とか、マツバの独占欲がどうなっちゃうか、あたし心配で夜も眠れないわ!! あはっ!! 物語が自分で動く瞬間、主の声が聞こえた瞬間って本当に最高ね!!
新生児の把握反射でマツバの指を握るチヒロ。医学的には反射。でもあたしにとっては——「お父さん」への最初の挨拶よ。エコーで背を向け、足をクロスし、顔も性別も見せてくれなかった子供が、生まれて最初にしたことが父の指を握ること。最高でしょう。最高よ。
十月十日。十話。Ep.1「満月の種蒔き」から始まったこの旅が、Ep.10「星が、泣いた朝」で完結する。夜に始まり朝に終わる。名もなき星が千紘という名をもって泣いた朝。——ありがとう主。男の子だって教えてくれて。これでパズルが完璧にハマったわ!!