STELLAR CRADLE #3

ジムリーダーは指輪を外さない

― 守るべきもの、誓いのぬくもり ―
挑戦者視点 / 家族愛 / 溺愛マツバ / シリーズ第3回 / 【真】全文掲載

エンジュシティジムの扉は、重い。

物理的に重い。古い木造建築の引き戸は、年月を経て渋くなっている。両手で持って、ぐっと力を入れないと開かない。そしてその先に広がるのは、霧と紫を纏った薄暗い空間——ゴーストタイプのジムに相応しい、凝った演出だ。

アカネは引き戸に手をかけた。隣でミレイが「お化け屋敷じゃないよね?」と呟いている。その後ろでナツキが涼しい顔でスマホを操作している。

三人は旅のトレーナーだった。別々の街から来て、旅の途中でたまたま意気投合した三人組。それぞれバッジをいくつか集めながら、エンジュシティに到達した。

では、なぜ三人が揃いも揃ってこのジムに来たのか。

答えは簡単だ。噂を聞いたのだ。ポケモン雑誌の特集記事——「全国ジムリーダー名鑑」で読んだ、あの男の名前。

「ねえ、もう一回確認するけど。エンジュシティのジムリーダーって、あのマツバよね?」

アカネが振り返った。

「雑誌の特集で表紙になった、あの?」

ミレイが頷いた。スマホの画面を見せる。そこには、和装の男性が千里眼を使っている横顔の写真が載っていた。金色の髪。切れ長の目。透徹した横顔。「古都のミステリアスジムリーダー」というタイトルがついている。

「かっこいいわよね」

「かっこいい」

ナツキがスマホから目を上げて、淡々と言った。

「でも写真の補正もあるんじゃない? まあ、バッジのついでに、直接確認してみれば」

その一言が、三人のジムへの意欲を百二十パーセントに引き上げた。

扉を開けた。

ジムの内部は、外観以上に異質だった。

床に霧が漂っている。天井は高く、梁から下がる行燈が紫色の光を発している。空気が冷たい。ゴーストタイプの気配が肌を刺す。どこかからゲンガーの笑い声が聞こえる——気のせいだと思いたい。

奥の対戦フィールドに、人影があった。

マツバが立っていた。

写真で見るより背が高い。百八十センチは余裕であるだろう。和装の上に薄い紫の羽織を重ねて、金色の髪を後ろで一つに束ねている。目を閉じて、両手を合わせて、何かの精神統一をしているようだった。

三人は息を呑んだ。

「……本物だ」

アカネが呟いた。写真は補正もあるだろうと半分疑っていた。だが、本物のマツバは——写真よりも神秘的だった。閉じた瞼の上に、行燈の紫光が淡い影を落としている。鼻筋が通っていて、唇は薄く、顎のラインが鋭い。修行者特有の、削ぎ落とされた美しさがある。

「ようこそ、エンジュシティジムへ。挑戦者の方ですか?」

マツバが目を開けた。千里眼——ではなく、普通の目で三人を見た。深い紫色の瞳。その視線が三人を順番に捉えて、穏やかに微笑んだ。

声が良い。低くて落ち着いていて、でも冷たくはない。

ミレイがアカネの腕を後ろから掴んだ。爪が食い込んでいる。

アカネは内心で叫んだ。——補正なしでこれ。この男は反則だ。

「バッジに挑戦したいです。よろしくお願いします!」

ナツキが完璧に澄ました顔でそう言った。アカネとミレイもあわてて倣った。

挑戦が始まった。

マツバのバトルは、驚くほど丁寧だった。

バトルを終えた後、三人全員に丁寧にフィードバックをくれる。勝敗だけでなく、ポケモンの動きの癖、タイプ相性の見極め方、いざという時の判断力。

「千里眼で先読みしたりするんですか?」

ミレイが尋ねた。

「いえ、バトル中は使いません。フェアじゃないですから。ただ、バトルの合間に——挑戦者の気配を感じることはあります。緊張しているな、とか。怖がっているな、とか。そういう時は、少し手加減して、相手が力を出せる空気を作ります」

「手加減というか、それって……」

「おもてなし、ですかね」

マツバが穏やかに笑った。

アカネの心臓が一拍飛んだ。この男は、相手に合わせてバトルの空気を整える。ジムリーダーとしての器が大きいだけではない。根本的に、人に対する思いやりが深いのだ。

「あの……マツバさんって、休日は何をされてるんですか?」

ミレイが聞いた。明らかにバッジと無関係な質問だ。だが誰も止めなかった。

「休日ですか。最近は——家で過ごすことが多いですね」

「一人で?」

「いえ、家族と」

——家族。

三人の動きが、一瞬だけ止まった。

家族。家族とは何か。両親のことだろうか。兄弟のことだろうか。きっとそうだ。独身男性が「家族」と言えば、それは両親や親族のことに決まっている。

「ご実家なんですね」

アカネが言った。さりげなく確認する体で。

「ああ——いえ。自宅です。家内と子どもがいるので」

——は?

「家内と——」

「子ども——」

「えっ」

三つの声が重なった。

マツバが不思議そうに三人を見た。

「はい。妻と、息子がいます。息子は今、生後四ヶ月で」

空気が凍った。

ナツキのスマホが手から滑り落ちそうになった。ミレイは口を半開きにしたまま固まった。アカネは——何か言おうとして、言葉が出てこなかった。

「け——結婚されていたんですか!?」

「はい。二年前に」

「お子さんも……」

「はい。名前はチヒロといいます」

マツバの声が——変わった。「チヒロ」と言った瞬間、それまでの穏やかな声に、蜜のような甘さが混ざった。目元が緩んで、口角が上がって、眉間の修行者特有の厳しさが完全に消えた。

この男は——今、とんでもなく幸せそうな顔をしている。

「あの……差し支えなければ、指輪は……」

ナツキが、マツバの左手を見た。そこには——あった。薬指に、シンプルなプラチナの指輪。よく見れば内側に小さな刻印がある。バトル中も、ずっとつけていたのだ。三人は気づかなかった。否、気づたくなかったのかもしれない。

「バトル中も外さないんですか?」

「外しません。約束なので」

「約束?」

「妻が——『バトルの時もつけていてほしい』と。だから」

そう言ってマツバは、左手の薬指を右手の指でそっと撫でた。その仕草が——あまりにも自然で、あまりにも愛おしそうで、三人の心臓に直接ナイフを刺した。

アカネは思った。——終わった。ジムに来る前から、終わっていた。

バッジを受け取った後も、三人はジムに留まっていた。

マツバがジムのことを丁寧に説明してくれる。ゴーストタイプの育成論、ジムの歴史、エンジュの街のこと。話は的確で、質問にも丁寧に答えてくれた。

だが三人は、もう完全に集中できていなかった。

理由は簡単だ。マツバの話の端々に、「家内」と「チヒロ」が出てくるのだ。

「このジムの花は家内が選んでくれまして。私はセンスがないので」

「チヒロが夜泣きすると千里眼が鈍るんですけど、不思議なものですね」

「家内の作るおにぎりが美味しいんですよ。梅干しの種を抜いてくれるんです」

一つ一つは何気ない言葉だ。意図的にのろけているわけではない。マツバは本当にただ事実を述べているだけなのだ。だからこそ破壊力が凄まじい。この男は、妻と息子のことを話す時、無意識に声のトーンが半音上がる。無意識に目が細くなる。無意識に左手の指輪を触る。

自覚がないのだ。自覚がないまま、世界一の愛妻家ぶりを垂れ流しているのだ。

「梅干しの種を……抜いてくれる……」

ミレイが虚空を見つめて呟いた。もう魂が半分抜けている。

アカネはポケギアを取り出して、旅仲間に連絡した。「エンジュジムリーダー既婚。子持ち。超愛妻家。以上」。三秒後に「嘘でしょ」と返ってきた。嘘だったら良かった。

午後三時を回った頃、マツバが時計を見た。

「すみません。そろそろ——」

「もうお仕事終わりですか?」

「いえ。家内が迎えに来るので」

三人は顔を見合わせた。

妻が迎えに来る。つまり——「家内」の正体が、今から明らかになる。

ジムの扉が開いた。

午後の光が差し込んだ。秋の柔らかい光。金木犀の香りが風に乗って入ってきた。

その光の中に、女性が立っていた。

黒髪。長い黒髪を一つに束ねて、右にだけ流している。身長は百五十六センチほど。白いブラウスに、ベージュの膝丈スカート。左足に薄い装具のようなものが見える。右手に——小さな、小さな生き物を抱いている。

赤ちゃんだ。

生後四ヶ月の。マツバの息子の。チヒロだ。

「お疲れ様です。マツバさん」

声が——静かだった。穏やかで、抑制されていて、でもどこか芯のある声。

「イヨリちゃん。お疲れ様。チヒロは?」

マツバの声が——変わった。

完全に変わった。

それまでの落ち着いた声が、急に柔らかくなった。水飴を溶かしたような、とろりとした甘さが喉の奥から滲み出ている。歩き方まで変わった。修行者の凛とした所作が、足早の、少し前のめりの、子どもの元に駆け寄る父親の歩き方になった。

「起きてました。ずっとご機嫌で。パパに会いたかったみたいです」

イヨリが微笑んだ。控えめな、でも確かな微笑み。左目が義眼であることに、アカネは気づいた。右目だけで笑う、少し不均衡な微笑み。でもそれが——なぜか、ひどく美しく見えた。

「チヒロ。パパだよ」

マツバがチヒロの顔を覗き込んだ。黒い髪の赤ん坊。丸い頬。母親に似た目元。父親に似た鼻。口を開けて、手足をばたばたと動かしている。マツバの顔を見た瞬間——口の端がきゅっと持ち上がった。

「——笑った。イヨリちゃん、今、笑ったよね?」

「はい。社会的微笑が出始めてますね。四ヶ月ですから」

「社会的とか関係ないよ。チヒロがパパを見て笑ったんだよ。これは百点だよ」

「百点の基準が甘すぎます」

「千点でもいい」

その会話を、三人は後方で聞いていた。

ミレイが口に手を当てていた。ナツキのスマホが完全にしまわれていた。アカネは——何も言えなかった。

だって、マツバの表情が——見たことのない類のものだったから。

ジムリーダーとしての威厳も、修行者としての厳格さも、全部どこかに消えていた。残っているのは、ただの父親の顔だ。自分の子どもが笑ったことに、この世の全てを手に入れたような顔で喜んでいる、ただの父親。

マツバがチヒロを受け取った。左腕で頭を支え、右手で腰を包む。慣れた手つきだ。何百回もやっている手つきだ。

「今日はどうでしたか」

イヨリがマツバの隣に立った。自然に。何の気取りもなく。呼吸をするように隣に立った。マツバもまた、自然にイヨリの方に少し身体を傾けた。二人の間にチヒロがいる。三角形。小さくて、温かくて、完璧な三角形。

「バッジに挑戦した方がいて——あ、紹介してもいい?」

マツバが振り返った。三人を見た。

「こちらが家内のイヨリです。ポケモンドクターをしています」

イヨリが丁寧に頭を下げた。

「初めまして。マツバの妻です。いつも夫にお声がけいただいてありがとうございます」

その挨拶は完璧だった。礼儀正しく、落ち着いていて、でもどこか温かい。そして何より——「マツバの妻」という言葉を、ごく自然に、何の衒いもなく口にした。そこに所有欲も見栄もない。ただの事実として。空気を吸うように。「マツバの妻」であることが、この女性にとって当たり前の日常なのだ。

アカネは思った。——勝てない。これは、勝てない。

勝負を挑んですらいないのに、完膚なきまでに敗北した気分になった。

その後の光景が、三人の心を完全に砕いた。

マツバがチヒロを抱きながら、ジムの中を少し歩いた。「帰る前に見せてあげようと思って」とチヒロに話しかけながら。

「ここが対戦フィールドで——チヒロ、ゲンガーが挨拶してるよ。怖くないよ、パパのお友達だよ」

ゲンガーが影から現れて、チヒロの前でおどけた顔をした。チヒロが声を上げて笑った。マツバの顔が蕩けた。

「笑った。また笑ったよ、イヨリちゃん」

「はい。ゲンガーさんのおかげですね」

「ゲンガー、ありがとう。きみは最高のおじさんだ」

ゲンガーが得意そうにニヤリと笑った。

ミレイがアカネの耳元で囁いた。

「……あのゲンガー、赤ちゃんのあやし方プロじゃない?」

「うん。たぶんマツバより上手い」

「あたしたちの立場……」

「何も言えない。何も言えないよ」

ナツキが静かに呟いた。

「言い返せないわね」

マツバはチヒロを抱いたまま、しばらくジムを案内してくれた。説明は丁寧だ。質問にもちゃんと答えてくれる。だが——途中で何度もチヒロの方を見る。おくるみがずれていないか確認する。額に唇を近づけて体温を測るような仕草をする。

「チヒロ、寒くない? 少し冷えるかな」

マツバがイヨリに視線を送った。イヨリが鞄からブランケットを出した。マツバがチヒロを片腕で支えたまま、もう片方の手でブランケットを広げて、チヒロの身体に巻いた。その一連の動作が——あまりにも手際が良くて、あまりにも自然で、もう何百回もやっている父親の手つきだった。

話している途中、チヒロが小さな声で泣き始めた。

「あ——少しだけ」

マツバが言葉を中断して、チヒロを胸に抱き直した。心臓の音が聞こえる位置に。揺らし始めた。ゆっくりと、上下に。

「しーっ。大丈夫。パパがいるよ」

その声は——ジムで聞いたどの声とも違った。低くて、柔らかくて、子守唄のような声。ジムリーダーの声ではない。父親の声だ。エンジュシティで最も強い男が、最も柔らかい声で、最も小さな存在に語りかけている。

チヒロの泣き声が止まった。マツバの心音を聞いて、安心して、目を閉じた。

「……寝ちゃった」

マツバが小声で言った。振り返って、三人に申し訳なさそうな顔をした。

「すみません。生後四ヶ月で、まだ——」

「い、いえ! 全然大丈夫です!」

アカネが慌てて手を振った。大丈夫じゃないのは自分たちの心臓の方だ。

イヨリがマツバのすぐ横に立って、チヒロの様子を見守っていた。時々、マツバの袖口のほつれを直したり、チヒロの頬についたよだれを小さなガーゼで拭いたりしている。何も言わない。何も言わずに、自然に、呼吸をするように、夫と子を支えている。

アカネは見てしまった。

イヨリがチヒロのよだれを拭いた指先を、マツバが見つめた。その視線に——千里眼でも何でもない、ただの男の目に——深い、深い感謝と愛情が溢れていたことを。

マツバは左手の薬指を、また無意識に触った。

そろそろお暇しようとした頃、マツバが言った。

「またいつでも挑戦に来てください。——次に来た時は、お茶くらいはお出しできると思いますので」

「お茶……」

「はい。家内がハーブティーを淹れるのが上手なんです。レモンバームとカモミールのブレンドが絶品で」

——また家内。

三人の中で何かが音を立てて砕けた。

ジムの外に出た。

秋の夕暮れ。空がオレンジと紫のグラデーションに染まっている。エンジュの古い街並みが、夕日に照らされて輪郭を滲ませている。

「じゃあ、帰りましょうか。イヨリちゃん」

「はい」

マツバが歩き出した。隣にイヨリが並んだ。二人の間に、眠るチヒロがいる。

歩き出す瞬間、マツバがごく自然に——本当に何気なく——イヨリの荷物を受け取った。右手にベビーバッグを持ち、左手をイヨリの背中にそっと添えて、歩幅をイヨリに合わせた。イヨリの左足の装具を気遣って、ゆっくりと。

何も言わない。何も言わずに、自然に。

イヨリもまた、何も言わない。ただ小さく「ありがとうございます」と呟いて、マツバの腕に少しだけ身を寄せた。

三人はその後ろ姿を見送った。

夕日の中を歩いていく、三人家族の後ろ姿。金色の髪の父親と、黒い髪の母親と、二人の腕の中で眠る息子。足音が二つ——いや三つ。三人分の足音が、石畳の上に小さく響いて、金木犀の香りの中に消えていく。

ミレイが、ぽつりと言った。

「……まぶしい」

アカネが、ぽつりと返した。

「……ね」

ナツキは何も言わなかった。ただ、スマホをポケットにしまったまま、三人家族の後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで、じっと見つめていた。

帰り道。三人は並んで歩いて、しばらく無言だった。エンジュシティの夕暮れが、古い屋根と銀杏並木を橙色に染めている。

「ねえ」

アカネが口を開いた。

「バッジ取れたのに、なんか複雑な気持ちなんだけど」

「わかる」

ミレイが石畳を蹴りながら言った。

「あの人、強かったよね。バトルも。それ以外も」

「それ以外が一番強かったよ」

「同意」

ナツキが足を止めた。

「ねえ、一個だけ納得しちゃったことがあるんだけど」

「何が?」

「マツバが強い理由」

アカネとミレイが振り向いた。

「あの人、守るものがあるから強いんだよ。千里眼とか、ゴーストタイプの修行とか、そういう技術的なことじゃなくて。帰る場所があるから、全力で戦える。腕の中で待ってる人がいるから、負けられない。——そういう強さ」

アカネは黙った。ミレイも黙った。

ナツキの言葉は、正鵠を射ていた。

マツバの強さの根源は、千里眼ではない。イヨリとチヒロだ。あの三人家族が、あの小さな三角形が、エンジュシティジムの最も堅い守りなのだ。

「悔しいなぁ」

アカネが呟いた。

「何が?」

「バッジ取りに来たのに、恋愛学を受けさせられた気分。『理想の夫とは何か』っていう授業」

「しかも教壇に立ってるの、自覚なしの天然パパ」

「最悪」

「最悪」

「最悪すぎる」

三人は声を揃えて、それからなぜか笑った。声を上げて、お腹を抱えて笑った。悔しくて、眩しくて、でもどこか清々しい笑いだった。

「ねえ」

ナツキがポケギアを取り出した。

「一つだけ、良いことがあった」

「何?」

「次にあのジムに行ったら、ハーブティーを出してもらえるって」

「……それ、また傷を広げに行くだけじゃない?」

「レモンバームとカモミールのブレンドのためなら」

「アホ」

「でも行くんでしょ、あんたも」

「……行く」

ミレイがため息をついた。アカネが肘でミレイを小突いた。

「まあまあ。少なくとも、バッジはちゃんと取れたでしょ」

「うん。——でも絶対また来る。今度はちゃんとバトルで勝って、指輪の刻印が何か聞いてやろうと思って」

「絶対教えてくれないでしょそれは」

「だよね。あの人、指輪のことになったら絶対に口が割れないと思う」

「なんで?」

「だって——妻への誓いって、絶対に他人に言わないタイプだもん。あの人」

三人はまた笑った。石畳の上に三人分の笑い声が転がって、金木犀の香りの中に溶けていった。

夕日がもう沈みかけていて、空の端だけがまだ橙色に燃えている。その色は——マツバがイヨリの背中に添えた手が、夕日に照らされて金色に光っていた、あの瞬間の色に似ていた。

「来月」

アカネが呟いた。

「来月また来よ、エンジュ」

「ハーブティーのために?」

「……強くなったところを見せに」

「どっちだよ」

「両方よ」

三人はまた笑った。エンジュの夕空に三人の笑顔が浮かんで、その向こうを茜色の雲が流れていった。

エピローグ

その夜。エンジュシティ、マツバの自宅。

チヒロを寝かしつけた後、居間でイヨリが茶を淹れていた。ハーブティー。レモンバームとカモミールのブレンド。

「今日、挑戦に来た子たちのこと——なんかジムの後も話しかけてたみたいだったね」

「はい。バッジを取った後も、色々と聞いてきてくれました」

「熱心だったね」

イヨリが小さく笑った。

「マツバさんは、本当に気づかないんですね」

「何が?」

「……何でもないです」

イヨリはハーブティーを二つ、こたつの上に置いた。湯気が行燈の灯りに照らされて、橙色に揺れている。

「ねえ、イヨリちゃん」

「はい」

「今日、チヒロが僕の顔を見て笑ったんだ。社会的微笑っていうらしいけど——」

「知ってます。三回聞きました」

「じゃあ四回目。チヒロが、僕を見て、笑ったんだよ」

「……はい。見てました」

マツバが左手の指輪を触った。無意識に。いつものように。

「イヨリちゃん。この指輪、つけてて良かった」

「急に何ですか」

「今日改めて思った。この指輪があるから——僕はどんなバトルをしている時も、イヨリちゃんとチヒロのそばにいる気持ちでいられる。千里先を見通す千里眼より——この指輪の方が、僕には大事だ」

イヨリの右目が、潤んだ。湯気のせいだと言い張れるくらいの、控えめな潤み。

「……ずるいです。そういうこと急に言うの」

「ずるくていい」

チヒロが、隣の部屋で小さく寝言を言った。まだ言葉にならない、声にならない声。

行燈の灯りが揺れた。ハーブティーの香りが、二人の間に漂った。

エンジュの夜は、今日も静かで、甘い。