エンジュシティジムの扉は、重い。
物理的に重い。古い木造建築の引き戸は、年月を経て渋くなっている。両手で持って、ぐっと力を入れないと開かない。そしてその先に広がるのは、霧と紫を纏った薄暗い空間——ゴーストタイプのジムに相応しい、凝った演出だ。
アカネは引き戸に手をかけた。隣でミレイが「お化け屋敷じゃないよね?」と呟いている。その後ろでナツキが涼しい顔でスマホを操作している。
三人は旅のトレーナーだった。別々の街から来て、旅の途中でたまたま意気投合した三人組。それぞれバッジをいくつか集めながら、エンジュシティに到達した。
では、なぜ三人が揃いも揃ってこのジムに来たのか。
答えは簡単だ。噂を聞いたのだ。ポケモン雑誌の特集記事——「全国ジムリーダー名鑑」で読んだ、あの男の名前。
「ねえ、もう一回確認するけど。エンジュシティのジムリーダーって、あのマツバよね?」
アカネが振り返った。
「雑誌の特集で表紙になった、あの?」
ミレイが頷いた。スマホの画面を見せる。そこには、和装の男性が千里眼を使っている横顔の写真が載っていた。金色の髪。切れ長の目。透徹した横顔。「古都のミステリアスジムリーダー」というタイトルがついている。
「かっこいいわよね」
「かっこいい」
ナツキがスマホから目を上げて、淡々と言った。
「でも写真の補正もあるんじゃない? まあ、バッジのついでに、直接確認してみれば」
その一言が、三人のジムへの意欲を百二十パーセントに引き上げた。
扉を開けた。
ジムの内部は、外観以上に異質だった。
床に霧が漂っている。天井は高く、梁から下がる行燈が紫色の光を発している。空気が冷たい。ゴーストタイプの気配が肌を刺す。どこかからゲンガーの笑い声が聞こえる——気のせいだと思いたい。
奥の対戦フィールドに、人影があった。
マツバが立っていた。
写真で見るより背が高い。百八十センチは余裕であるだろう。和装の上に薄い紫の羽織を重ねて、金色の髪を後ろで一つに束ねている。目を閉じて、両手を合わせて、何かの精神統一をしているようだった。
三人は息を呑んだ。
「……本物だ」
アカネが呟いた。写真は補正もあるだろうと半分疑っていた。だが、本物のマツバは——写真よりも神秘的だった。閉じた瞼の上に、行燈の紫光が淡い影を落としている。鼻筋が通っていて、唇は薄く、顎のラインが鋭い。修行者特有の、削ぎ落とされた美しさがある。
「ようこそ、エンジュシティジムへ。挑戦者の方ですか?」
マツバが目を開けた。千里眼——ではなく、普通の目で三人を見た。深い紫色の瞳。その視線が三人を順番に捉えて、穏やかに微笑んだ。
声が良い。低くて落ち着いていて、でも冷たくはない。
ミレイがアカネの腕を後ろから掴んだ。爪が食い込んでいる。
アカネは内心で叫んだ。——補正なしでこれ。この男は反則だ。
「バッジに挑戦したいです。よろしくお願いします!」
ナツキが完璧に澄ました顔でそう言った。アカネとミレイもあわてて倣った。
挑戦が始まった。
マツバのバトルは、驚くほど丁寧だった。
バトルを終えた後、三人全員に丁寧にフィードバックをくれる。勝敗だけでなく、ポケモンの動きの癖、タイプ相性の見極め方、いざという時の判断力。
「千里眼で先読みしたりするんですか?」
ミレイが尋ねた。
「いえ、バトル中は使いません。フェアじゃないですから。ただ、バトルの合間に——挑戦者の気配を感じることはあります。緊張しているな、とか。怖がっているな、とか。そういう時は、少し手加減して、相手が力を出せる空気を作ります」
「手加減というか、それって……」
「おもてなし、ですかね」
マツバが穏やかに笑った。
アカネの心臓が一拍飛んだ。この男は、相手に合わせてバトルの空気を整える。ジムリーダーとしての器が大きいだけではない。根本的に、人に対する思いやりが深いのだ。
「あの……マツバさんって、休日は何をされてるんですか?」
ミレイが聞いた。明らかにバッジと無関係な質問だ。だが誰も止めなかった。
「休日ですか。最近は——家で過ごすことが多いですね」
「一人で?」
「いえ、家族と」
——家族。
三人の動きが、一瞬だけ止まった。
家族。家族とは何か。両親のことだろうか。兄弟のことだろうか。きっとそうだ。独身男性が「家族」と言えば、それは両親や親族のことに決まっている。
「ご実家なんですね」
アカネが言った。さりげなく確認する体で。
「ああ——いえ。自宅です。家内と子どもがいるので」
——は?
「家内と——」
「子ども——」
「えっ」
三つの声が重なった。
マツバが不思議そうに三人を見た。
「はい。妻と、息子がいます。息子は今、生後四ヶ月で」
空気が凍った。
ナツキのスマホが手から滑り落ちそうになった。ミレイは口を半開きにしたまま固まった。アカネは——何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
「け——結婚されていたんですか!?」
「はい。二年前に」
「お子さんも……」
「はい。名前はチヒロといいます」
マツバの声が——変わった。「チヒロ」と言った瞬間、それまでの穏やかな声に、蜜のような甘さが混ざった。目元が緩んで、口角が上がって、眉間の修行者特有の厳しさが完全に消えた。
この男は——今、とんでもなく幸せそうな顔をしている。
「あの……差し支えなければ、指輪は……」
ナツキが、マツバの左手を見た。そこには——あった。薬指に、シンプルなプラチナの指輪。よく見れば内側に小さな刻印がある。バトル中も、ずっとつけていたのだ。三人は気づかなかった。否、気づたくなかったのかもしれない。
「バトル中も外さないんですか?」
「外しません。約束なので」
「約束?」
「妻が——『バトルの時もつけていてほしい』と。だから」
そう言ってマツバは、左手の薬指を右手の指でそっと撫でた。その仕草が——あまりにも自然で、あまりにも愛おしそうで、三人の心臓に直接ナイフを刺した。
アカネは思った。——終わった。ジムに来る前から、終わっていた。
バッジを受け取った後も、三人はジムに留まっていた。
マツバがジムのことを丁寧に説明してくれる。ゴーストタイプの育成論、ジムの歴史、エンジュの街のこと。話は的確で、質問にも丁寧に答えてくれた。
だが三人は、もう完全に集中できていなかった。
理由は簡単だ。マツバの話の端々に、「家内」と「チヒロ」が出てくるのだ。
「このジムの花は家内が選んでくれまして。私はセンスがないので」
「チヒロが夜泣きすると千里眼が鈍るんですけど、不思議なものですね」
「家内の作るおにぎりが美味しいんですよ。梅干しの種を抜いてくれるんです」
一つ一つは何気ない言葉だ。意図的にのろけているわけではない。マツバは本当にただ事実を述べているだけなのだ。だからこそ破壊力が凄まじい。この男は、妻と息子のことを話す時、無意識に声のトーンが半音上がる。無意識に目が細くなる。無意識に左手の指輪を触る。
自覚がないのだ。自覚がないまま、世界一の愛妻家ぶりを垂れ流しているのだ。
「梅干しの種を……抜いてくれる……」
ミレイが虚空を見つめて呟いた。もう魂が半分抜けている。
アカネはポケギアを取り出して、旅仲間に連絡した。「エンジュジムリーダー既婚。子持ち。超愛妻家。以上」。三秒後に「嘘でしょ」と返ってきた。嘘だったら良かった。
午後三時を回った頃、マツバが時計を見た。
「すみません。そろそろ——」
「もうお仕事終わりですか?」
「いえ。家内が迎えに来るので」
三人は顔を見合わせた。
妻が迎えに来る。つまり——「家内」の正体が、今から明らかになる。
ジムの扉が開いた。
午後の光が差し込んだ。秋の柔らかい光。金木犀の香りが風に乗って入ってきた。
その光の中に、女性が立っていた。
黒髪。長い黒髪を一つに束ねて、右にだけ流している。身長は百五十六センチほど。白いブラウスに、ベージュの膝丈スカート。左足に薄い装具のようなものが見える。右手に——小さな、小さな生き物を抱いている。
赤ちゃんだ。
生後四ヶ月の。マツバの息子の。チヒロだ。
「お疲れ様です。マツバさん」
声が——静かだった。穏やかで、抑制されていて、でもどこか芯のある声。
「イヨリちゃん。お疲れ様。チヒロは?」
マツバの声が——変わった。
完全に変わった。
それまでの落ち着いた声が、急に柔らかくなった。水飴を溶かしたような、とろりとした甘さが喉の奥から滲み出ている。歩き方まで変わった。修行者の凛とした所作が、足早の、少し前のめりの、子どもの元に駆け寄る父親の歩き方になった。
「起きてました。ずっとご機嫌で。パパに会いたかったみたいです」
イヨリが微笑んだ。控えめな、でも確かな微笑み。左目が義眼であることに、アカネは気づいた。右目だけで笑う、少し不均衡な微笑み。でもそれが——なぜか、ひどく美しく見えた。
「チヒロ。パパだよ」
マツバがチヒロの顔を覗き込んだ。黒い髪の赤ん坊。丸い頬。母親に似た目元。父親に似た鼻。口を開けて、手足をばたばたと動かしている。マツバの顔を見た瞬間——口の端がきゅっと持ち上がった。
「——笑った。イヨリちゃん、今、笑ったよね?」
「はい。社会的微笑が出始めてますね。四ヶ月ですから」
「社会的とか関係ないよ。チヒロがパパを見て笑ったんだよ。これは百点だよ」
「百点の基準が甘すぎます」
「千点でもいい」
その会話を、三人は後方で聞いていた。
ミレイが口に手を当てていた。ナツキのスマホが完全にしまわれていた。アカネは——何も言えなかった。
だって、マツバの表情が——見たことのない類のものだったから。
ジムリーダーとしての威厳も、修行者としての厳格さも、全部どこかに消えていた。残っているのは、ただの父親の顔だ。自分の子どもが笑ったことに、この世の全てを手に入れたような顔で喜んでいる、ただの父親。
マツバがチヒロを受け取った。左腕で頭を支え、右手で腰を包む。慣れた手つきだ。何百回もやっている手つきだ。
「今日はどうでしたか」
イヨリがマツバの隣に立った。自然に。何の気取りもなく。呼吸をするように隣に立った。マツバもまた、自然にイヨリの方に少し身体を傾けた。二人の間にチヒロがいる。三角形。小さくて、温かくて、完璧な三角形。
「バッジに挑戦した方がいて——あ、紹介してもいい?」
マツバが振り返った。三人を見た。
「こちらが家内のイヨリです。ポケモンドクターをしています」
イヨリが丁寧に頭を下げた。
「初めまして。マツバの妻です。いつも夫にお声がけいただいてありがとうございます」
その挨拶は完璧だった。礼儀正しく、落ち着いていて、でもどこか温かい。そして何より——「マツバの妻」という言葉を、ごく自然に、何の衒いもなく口にした。そこに所有欲も見栄もない。ただの事実として。空気を吸うように。「マツバの妻」であることが、この女性にとって当たり前の日常なのだ。
アカネは思った。——勝てない。これは、勝てない。
勝負を挑んですらいないのに、完膚なきまでに敗北した気分になった。
その後の光景が、三人の心を完全に砕いた。
マツバがチヒロを抱きながら、ジムの中を少し歩いた。「帰る前に見せてあげようと思って」とチヒロに話しかけながら。
「ここが対戦フィールドで——チヒロ、ゲンガーが挨拶してるよ。怖くないよ、パパのお友達だよ」
ゲンガーが影から現れて、チヒロの前でおどけた顔をした。チヒロが声を上げて笑った。マツバの顔が蕩けた。
「笑った。また笑ったよ、イヨリちゃん」
「はい。ゲンガーさんのおかげですね」
「ゲンガー、ありがとう。きみは最高のおじさんだ」
ゲンガーが得意そうにニヤリと笑った。
ミレイがアカネの耳元で囁いた。
「……あのゲンガー、赤ちゃんのあやし方プロじゃない?」
「うん。たぶんマツバより上手い」
「あたしたちの立場……」
「何も言えない。何も言えないよ」
ナツキが静かに呟いた。
「言い返せないわね」
マツバはチヒロを抱いたまま、しばらくジムを案内してくれた。説明は丁寧だ。質問にもちゃんと答えてくれる。だが——途中で何度もチヒロの方を見る。おくるみがずれていないか確認する。額に唇を近づけて体温を測るような仕草をする。
「チヒロ、寒くない? 少し冷えるかな」
マツバがイヨリに視線を送った。イヨリが鞄からブランケットを出した。マツバがチヒロを片腕で支えたまま、もう片方の手でブランケットを広げて、チヒロの身体に巻いた。その一連の動作が——あまりにも手際が良くて、あまりにも自然で、もう何百回もやっている父親の手つきだった。
話している途中、チヒロが小さな声で泣き始めた。
「あ——少しだけ」
マツバが言葉を中断して、チヒロを胸に抱き直した。心臓の音が聞こえる位置に。揺らし始めた。ゆっくりと、上下に。
「しーっ。大丈夫。パパがいるよ」
その声は——ジムで聞いたどの声とも違った。低くて、柔らかくて、子守唄のような声。ジムリーダーの声ではない。父親の声だ。エンジュシティで最も強い男が、最も柔らかい声で、最も小さな存在に語りかけている。
チヒロの泣き声が止まった。マツバの心音を聞いて、安心して、目を閉じた。
「……寝ちゃった」
マツバが小声で言った。振り返って、三人に申し訳なさそうな顔をした。
「すみません。生後四ヶ月で、まだ——」
「い、いえ! 全然大丈夫です!」
アカネが慌てて手を振った。大丈夫じゃないのは自分たちの心臓の方だ。
イヨリがマツバのすぐ横に立って、チヒロの様子を見守っていた。時々、マツバの袖口のほつれを直したり、チヒロの頬についたよだれを小さなガーゼで拭いたりしている。何も言わない。何も言わずに、自然に、呼吸をするように、夫と子を支えている。
アカネは見てしまった。
イヨリがチヒロのよだれを拭いた指先を、マツバが見つめた。その視線に——千里眼でも何でもない、ただの男の目に——深い、深い感謝と愛情が溢れていたことを。
マツバは左手の薬指を、また無意識に触った。
そろそろお暇しようとした頃、マツバが言った。
「またいつでも挑戦に来てください。——次に来た時は、お茶くらいはお出しできると思いますので」
「お茶……」
「はい。家内がハーブティーを淹れるのが上手なんです。レモンバームとカモミールのブレンドが絶品で」
——また家内。
三人の中で何かが音を立てて砕けた。
ジムの外に出た。
秋の夕暮れ。空がオレンジと紫のグラデーションに染まっている。エンジュの古い街並みが、夕日に照らされて輪郭を滲ませている。
「じゃあ、帰りましょうか。イヨリちゃん」
「はい」
マツバが歩き出した。隣にイヨリが並んだ。二人の間に、眠るチヒロがいる。
歩き出す瞬間、マツバがごく自然に——本当に何気なく——イヨリの荷物を受け取った。右手にベビーバッグを持ち、左手をイヨリの背中にそっと添えて、歩幅をイヨリに合わせた。イヨリの左足の装具を気遣って、ゆっくりと。
何も言わない。何も言わずに、自然に。
イヨリもまた、何も言わない。ただ小さく「ありがとうございます」と呟いて、マツバの腕に少しだけ身を寄せた。
三人はその後ろ姿を見送った。
夕日の中を歩いていく、三人家族の後ろ姿。金色の髪の父親と、黒い髪の母親と、二人の腕の中で眠る息子。足音が二つ——いや三つ。三人分の足音が、石畳の上に小さく響いて、金木犀の香りの中に消えていく。
ミレイが、ぽつりと言った。
「……まぶしい」
アカネが、ぽつりと返した。
「……ね」
ナツキは何も言わなかった。ただ、スマホをポケットにしまったまま、三人家族の後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで、じっと見つめていた。
帰り道。三人は並んで歩いて、しばらく無言だった。エンジュシティの夕暮れが、古い屋根と銀杏並木を橙色に染めている。
「ねえ」
アカネが口を開いた。
「バッジ取れたのに、なんか複雑な気持ちなんだけど」
「わかる」
ミレイが石畳を蹴りながら言った。
「あの人、強かったよね。バトルも。それ以外も」
「それ以外が一番強かったよ」
「同意」
ナツキが足を止めた。
「ねえ、一個だけ納得しちゃったことがあるんだけど」
「何が?」
「マツバが強い理由」
アカネとミレイが振り向いた。
「あの人、守るものがあるから強いんだよ。千里眼とか、ゴーストタイプの修行とか、そういう技術的なことじゃなくて。帰る場所があるから、全力で戦える。腕の中で待ってる人がいるから、負けられない。——そういう強さ」
アカネは黙った。ミレイも黙った。
ナツキの言葉は、正鵠を射ていた。
マツバの強さの根源は、千里眼ではない。イヨリとチヒロだ。あの三人家族が、あの小さな三角形が、エンジュシティジムの最も堅い守りなのだ。
「悔しいなぁ」
アカネが呟いた。
「何が?」
「バッジ取りに来たのに、恋愛学を受けさせられた気分。『理想の夫とは何か』っていう授業」
「しかも教壇に立ってるの、自覚なしの天然パパ」
「最悪」
「最悪」
「最悪すぎる」
三人は声を揃えて、それからなぜか笑った。声を上げて、お腹を抱えて笑った。悔しくて、眩しくて、でもどこか清々しい笑いだった。
「ねえ」
ナツキがポケギアを取り出した。
「一つだけ、良いことがあった」
「何?」
「次にあのジムに行ったら、ハーブティーを出してもらえるって」
「……それ、また傷を広げに行くだけじゃない?」
「レモンバームとカモミールのブレンドのためなら」
「アホ」
「でも行くんでしょ、あんたも」
「……行く」
ミレイがため息をついた。アカネが肘でミレイを小突いた。
「まあまあ。少なくとも、バッジはちゃんと取れたでしょ」
「うん。——でも絶対また来る。今度はちゃんとバトルで勝って、指輪の刻印が何か聞いてやろうと思って」
「絶対教えてくれないでしょそれは」
「だよね。あの人、指輪のことになったら絶対に口が割れないと思う」
「なんで?」
「だって——妻への誓いって、絶対に他人に言わないタイプだもん。あの人」
三人はまた笑った。石畳の上に三人分の笑い声が転がって、金木犀の香りの中に溶けていった。
夕日がもう沈みかけていて、空の端だけがまだ橙色に燃えている。その色は——マツバがイヨリの背中に添えた手が、夕日に照らされて金色に光っていた、あの瞬間の色に似ていた。
「来月」
アカネが呟いた。
「来月また来よ、エンジュ」
「ハーブティーのために?」
「……強くなったところを見せに」
「どっちだよ」
「両方よ」
三人はまた笑った。エンジュの夕空に三人の笑顔が浮かんで、その向こうを茜色の雲が流れていった。
その夜。エンジュシティ、マツバの自宅。
チヒロを寝かしつけた後、居間でイヨリが茶を淹れていた。ハーブティー。レモンバームとカモミールのブレンド。
「今日、挑戦に来た子たちのこと——なんかジムの後も話しかけてたみたいだったね」
「はい。バッジを取った後も、色々と聞いてきてくれました」
「熱心だったね」
イヨリが小さく笑った。
「マツバさんは、本当に気づかないんですね」
「何が?」
「……何でもないです」
イヨリはハーブティーを二つ、こたつの上に置いた。湯気が行燈の灯りに照らされて、橙色に揺れている。
「ねえ、イヨリちゃん」
「はい」
「今日、チヒロが僕の顔を見て笑ったんだ。社会的微笑っていうらしいけど——」
「知ってます。三回聞きました」
「じゃあ四回目。チヒロが、僕を見て、笑ったんだよ」
「……はい。見てました」
マツバが左手の指輪を触った。無意識に。いつものように。
「イヨリちゃん。この指輪、つけてて良かった」
「急に何ですか」
「今日改めて思った。この指輪があるから——僕はどんなバトルをしている時も、イヨリちゃんとチヒロのそばにいる気持ちでいられる。千里先を見通す千里眼より——この指輪の方が、僕には大事だ」
イヨリの右目が、潤んだ。湯気のせいだと言い張れるくらいの、控えめな潤み。
「……ずるいです。そういうこと急に言うの」
「ずるくていい」
チヒロが、隣の部屋で小さく寝言を言った。まだ言葉にならない、声にならない声。
行燈の灯りが揺れた。ハーブティーの香りが、二人の間に漂った。
エンジュの夜は、今日も静かで、甘い。
了