小さな器の、大きな海
― 十月十日の肖像 Episode 8
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【一】重力
四月。桜が散り始めた頃、イヨリの身体は限界に近づいていた。
妊娠八ヶ月。三十週。チヒロの推定体重は千五百グラムを超え、子宮はみぞおちの近くまでせり上がっている。イヨリの身長は百五十六センチ。骨盤は小さく、華奢な骨格に大きな命が詰まっている。重心が前方に傾き、腰椎が悲鳴を上げ、骨盤底筋が胎児の重みに耐えかねて軋んでいた。
朝、布団から起き上がるだけで、息が切れた。
横向きの姿勢から仰向けに寝返りを打ち、両手を畳について上体を起こす。たったそれだけの動作に、全身の筋肉を総動員しなければならない。お腹が邪魔をする。腹直筋が左右に分離し始めているせいで、腹筋の力が使えない。腕だけで起き上がろうとすると、左腕——麻痺のある左半身の方——が力を出しきれず、身体がぐらりと傾いた。
「っ……」
畳に手をついて、どうにかバランスを取った。額に汗が滲んでいる。たった一つ、布団から起き上がるだけのことに。
アステア・システムの腕輪が、警告音を鳴らした。
「バイタル注意ロト。心拍数上昇、血圧85/52。起立時のめまいに注意ロト」
ロトムの声が、冷静にデータを読み上げる。このところ毎朝のことだった。起き上がるだけで心拍が跳ね上がり、血圧が下がり、視界に一瞬だけ白い星が散る。起立性低血圧。妊娠後期に多い症状だ。ドクターとしてのイヨリは知識として理解している。プロゲステロンの作用で血管が拡張し、心臓から脳への血流が一時的に不足する。危険ではない。しかし——左足の麻痺と組み合わさると、転倒のリスクが格段に上がる。
左足にアステア・システムを装着した。緑のランプが灯る。歩行補助が起動してくれれば、左足は動く。けれど最近、その「動く」という行為自体が、以前とは質が変わっていた。お腹の重みが加わることで、歩行時の重心バランスが根本から崩れている。アステアは左足の筋肉動作は補助できるが、全身の重心まではカバーしきれない。
廊下を歩いた。トイレまで。たった七歩の距離を、壁に右手を当てて、左足のアステアの補助と右足の踏ん張りだけで進む。お腹が前に突き出ている。重い。信じられないほど重い。かつてミナモシティの海で泳いでいた頃の、水の抵抗よりもずっと——自分自身の身体が、重い。
三歩目で、左足のつま先が敷居に引っかかった。
「——!」
反射的に右手で壁を掴んだ。身体が前に傾き、お腹が引力に引かれるように床に向かった。その瞬間、背後から腕が伸びてきて、イヨリの腰を支えた。
マツバだった。
いつから起きていたのか。いつから後ろにいたのか。おそらく——イヨリが布団から起き上がった瞬間から、気配を殺して後を追っていたのだろう。千里眼は使っていない。ただ、妻の足音を聞き、呼吸の乱れを聞き、アステアの警告音を聞いて、裸足で廊下を走ってきたのだ。
「大丈夫……?」
「……大丈夫。敷居に引っかかっただけ」
大丈夫。その言葉が、イヨリの口から出る回数が、ここ数週間で急激に増えていた。「大丈夫」。「大丈夫」。「大丈夫」。まるで呪文のように、誰かに——あるいは自分自身に——言い聞かせるように。
マツバはイヨリをトイレの前まで支え、入口で手を離した。トイレの中まで付いていくのは、さすがに控えている。けれどドアの外で待っていて、出てきた時にまた手を差し出す。
「ロトム、今日のバイタルレポートは?」
「過去一週間で起立性低血圧の発生頻度が前月比40%増ロト。腰椎の負荷指数が警告閾値の87%に到達ロト。左足のアステア補助効率が妊娠前比で32%低下ロト。総合評価——要注意ロト」
数字の羅列が、イヨリの身体が悲鳴を上げていることを、冷酷なまでに正確に示していた。
* * *
【二】ドクターの宣告
桐生レディースクリニック。月に二回の定期検診。
桐生医師はエコーの画面を見つめ、しばらく黙っていた。チヒロの発育は順調そのもの。推定体重は週数相当。心拍も安定。臓器の発達も問題なし。相変わらず性別は隠したままだったが、もはやそれは恒例の笑い話になっていた。
問題は、母体の方だった。
「イヨリさん。率直に言います」
桐生医師が眼鏡を外し、プローブを置いた。その仕草だけで、イヨリの背筋に緊張が走った。この老医師が眼鏡を外す時は、本気で向き合う時だ。
「骨盤のサイズと胎児の大きさを照合した結果、経腟分娩のリスクが高いと判断します。児頭骨盤不均衡——CPDの可能性を視野に入れて、帝王切開の準備を進めておきたい」
児頭骨盤不均衡。赤ちゃんの頭が、母体の骨盤を通過できない可能性。イヨリはドクターとして、その言葉の意味を正確に理解した。正確に理解できてしまった。
「……私の骨盤が、小さいから」
「そうです。あなたの骨盤径は平均より有意に小さい。加えて、左半身の筋力低下がいきむ力に影響する可能性がある。経腟で産めない体とは言いません。ただ、リスクを最小化するために、選択肢を広く持っておきたい」
マツバが、隣の椅子で拳を握りしめていた。帝王切開。その言葉の医学的な意味は分かる。安全な出産方法の一つだ。けれど「自然に産めないかもしれない」という事実が、イヨリの心にどんな影響を与えるか——それは、この数ヶ月間ずっと妻のそばにいたマツバには、痛いほどに想像できた。
「桐生先生。帝王切開でも、赤ちゃんと母体は安全なんですよね?」
「もちろんです。帝王切開は立派な出産方法です。赤ちゃんにとっても母体にとっても、安全性は確立されています。恥ずかしいことでも、劣ることでもない」
桐生医師の声は穏やかだったが、最後の一文に力が込められていた。多くの母親が、帝王切開に対して罪悪感を抱くことを、この老医師は長い臨床経験から知っているのだ。自分で産めなかった。自然に産めなかった。母親としての自分が足りなかった——そういう自己否定に陥る女性を、何人も見てきたのだろう。
イヨリは、静かに頷いた。
「分かりました。帝王切開の準備を、お願いします」
声は平静だった。ドクターとしての冷静な判断。合理的な選択。正しい決断。
けれど車に乗って帰路につく間、イヨリの右手がずっと——左足のアステア・システムの腕輪を、無意識に撫でていたことを、マツバは見逃さなかった。
* * *
【三】壊れる夜
その夜、マツバは深い眠りの中にいた。
ここ数日は比較的穏やかな夜が続いていた。チヒロの胎動が激しくなるのは夕方で、夜は穏やかに眠ってくれることが多い。イヨリの睡眠も改善傾向にあり、マツバも安心して深い眠りに落ちていた。
だから——隣で妻が泣いていることに、しばらく気づかなかった。
イヨリは声を殺して泣いていた。
布団の中で膝を抱え——いや、お腹が大きすぎて膝を抱えることすらできない。横向きに身体を丸め、両手で腹部を包むようにして、声を殺し、肩を震わせていた。涙が枕を濡らし、鼻水が喉に落ちて時折つまった呼吸になる。それでも声は出さない。マツバを起こしたくないから。この人をまた心配させたくないから。
けれど身体は正直だった。嗚咽を堪えるたびに横隔膜が痙攣し、お腹が揺れ、チヒロが不安そうに蹴りを返す。その蹴りがまた痛くて、また泣いて、また蹴られて——負の連鎖が、暗闇の中で回り続けていた。
怖い。
その感情が、今夜のイヨリを支配していた。診察室で桐生医師の言葉を聞いた時には冷静でいられた。帝王切開の必要性を理解し、合理的に受け入れた。けれど夜になって、暗闇の中で一人きりの思考が始まると、理性の壁が崩れていった。
私の身体は、チヒロを産むには小さすぎる。
百五十六センチ。華奢な骨格。狭い骨盤。麻痺のある左足。アステアの補助なしでは歩くことすらままならない身体。その身体で——千五百グラムを超え、これからさらに大きくなる命を、どうやって安全にこの世界に送り出すのか。
帝王切開は安全だと、ドクターの自分は知っている。合併症のリスクは低く、適切に管理すれば母子ともに安全だ。理性はそう言っている。けれど心が——本能が——別のことを叫んでいる。
自分で産めない身体。
自分の力で、チヒロをこの世界に迎え入れることができない。お腹を痛めて産んだ、という原初的な体験が、自分には与えられないかもしれない。それは——母親として、決定的な欠落ではないのか。
違う。そんなことはない。帝王切開もお腹を切る。痛みもある。それだって立派な出産だ。頭ではそう分かっている。分かっているのに——心がついてこない。あの自己肯定感の低さが、暗闘の中でゆっくりと首を絞めてくる。
あなたは足りない、と。
あなたの身体は足りない。心も足りない。ドクターなのに自分の身体一つ管理できない。一ヶ月も妊娠を隠し、切迫流産を起こし、悪阻で三キロ以上痩せ、左足の機能は月を追うごとに低下し——そして今、骨盤が小さすぎて自然に産むことすらできない。
私の身体が、もう少し大きければ。私が、健常だったら。左足がちゃんと動いたら。いきむ力があったら。もっと強い身体に生まれていたら——
チヒロ、ごめんね。
その言葉が、声にならない声として、唇から漏れた。お腹の中のチヒロに向けた謝罪。こんな小さな器に宿ってしまって、ごめんね。もっと広い、もっと丈夫な身体を用意してあげたかった。あなたが思い切り育てる場所を。あなたが安心して出てこられる道を。
涙が止まらなかった。枕がぐっしょりと濡れ、シーツにまで染みが広がっている。肩の震えが大きくなり、嗚咽が喉から漏れそうになるのを唇を噛んで堪える。唇の端に鉄の味がした。噛みすぎて切れたのだ。
その鉄の味が——唇から顎に伝い落ちた血の一筋が——マツバを起こした。
* * *
【四】千里の腕
最初に感じたのは、匂いだった。
マツバの鼻が、微かな鉄の匂いを拾った。血の匂い。修行者の身体は、微量の血液の臭気にも反応する。ゴーストタイプの修行において、血は霊的境界の標識だから。
目を開けた。
隣のイヨリが、背を丸めて震えている。枕が濡れている。かすかな嗚咽が、布団の中から漏れている。そして——唇の端に、暗い赤が一筋。
「イヨリ」
マツバの身体が、考えるより先に動いた。イヨリの肩を掴み、自分の方に向かせた。暗闘の中で見えたのは、涙でぐちゃぐちゃになった妻の顔。右目が赤く充血し、白濁した左目からも涙が流れている。唇が切れて、顎に血が滴っている。
「何があった。どこか痛い? チヒロは——」
「チヒロは大丈夫……大丈夫なの……」
「じゃあ何で泣いてるの。唇、血が出てる。何で——」
「声を出したくなくて……噛んでた……」
マツバの胸が軋んだ。声を出したくなくて唇を噛んだ。自分を起こさないために。この人は——自分のことで泣く時だけ、決まって声を殺す。他人のためには泣ける。チヒロのためには泣ける。けれど自分のための涙は、誰にも見せてはいけないと思っている。
「何があったか、教えて」
マツバの声は静かだった。怒りでも焦りでもない。あの切迫流産の夜に桐生医師から学んだ、「そばにいる」ための声。
イヨリの堰が、崩れた。
「怖い……のっ……」
声が裂けた。もう堪えられなかった。声を殺す力すら残っていなかった。
「私の身体はっ……小さすぎるって……骨盤が狭くてっ……自分で産めないかもしれないって……」
「それは——」
「分かってるの! 帝王切開で安全に産めることは分かってる! でもっ……でもっ、私っ……こんな身体でっ……チヒロにとってっ……お腹の中がっ……狭くてっ……苦しいんじゃないかって……」
涙と鼻水と血が混ざった顔で、イヨリは叫んだ。ドクターの仮面も、エンジュの旧家の嫁の仮面も、全て剥がれ落ちた、むき出しの母親の恐怖。
「私の左足はっ……ちゃんと動かないし……いきむ力もっ……全身で踏ん張ることもできないし……こんなっ……こんな出来損ないの身体でっ……」
「やめろ」
マツバの声が、低く鋭く響いた。怒りではない。否定でもない。命令でもない。それは——イヨリの自己否定が、自分の妻の魂を蝕むのを、これ以上一秒も見ていられない男の、悲鳴に近い制止だった。
「出来損ないなんて言うな。二度と。絶対に」
マツバがイヨリを抱きしめた。大きなお腹を押し潰さないように、けれど二度と離すまいとする力で。七十キロの身体が、三十九キロの身体を包み込んだ。イヨリの顔がマツバの胸板に押し当てられ、嗚咽が彼の肋骨を震わせた。
「君の身体が小さいことを、僕は知ってる。左足が不自由なことも知ってる。骨盤が狭いことも、今日、桐生先生から聞いた」
マツバの声は震えていた。けれど言葉は、一語一語が鋼のように硬かった。
「でもその身体が——その百五十六センチの、左足にアステアを付けた、骨盤の小さな身体が——八ヶ月間、チヒロを守り続けた。悪阻で三キロ痩せても、切迫流産に怯えても、毎朝めまいがしても——一日も欠かさず、チヒロを育て続けた。それが、出来損ないか?」
イヨリの嗚咽が、一瞬だけ止まった。
「この世界中の誰に聞いても、その答えは同じだよ。チヒロに聞いても同じだ。君の身体は——チヒロにとって、世界中で一番安全な場所だ。狭いかもしれない。窮屈かもしれない。でもそこには——君の心臓の音がある。君の血が流れてる。君の体温がある。チヒロはこの八ヶ月間、ずっとその中で、君に守られてきた」
マツバの掌がイヨリの背中を撫でた。あの悪阻の朝に背中を擦った手。温泉で身体を洗った手。凍ったぶどうを運んだ手。その手が今、妻の背中を——震える背中を——ゆっくりと、繰り返し撫でている。
「帝王切開でも経腟でも、どちらでもいい。大事なのは、君とチヒロが無事であること。それだけだ。産み方なんて、一つも関係ない」
「でもっ……私は……ちゃんと……」
「ちゃんとしてるよ。イヨリ。君は——ちゃんとしすぎてるくらい、ちゃんとしてる」
マツバがイヨリの顔を両手で包み、目を合わせた。暗闇でも——千里眼ではなく肉眼で——妻の瞳を見据えた。泣き腫らした右目の奥に、恐怖と自己否定が渦巻いている。その渦を、真正面から見つめた。
「僕は、全てを懸けて、君とチヒロを守る。千里眼も。ジムリーダーの地位も。修行者としての全部を。何か一つ犠牲にしろと言われたら、迷わず差し出す。——いや、全部差し出したって構わない。千里眼がなくなっても、ジムリーダーを辞めても、僕の腕二本と心臓一つが動く限り、君たちのそばにいる」
「マツバ、さん……」
「だからもう、一人で泣くな。声を殺して唇を噛むな。泣きたい時は僕の胸で泣いてくれ。僕の服を握って、僕の肋骨を折るくらい泣いてくれ。——その方が、よっぽど嬉しい」
イヨリの堤防が、完全に決壊した。
声を上げて泣いた。生まれて初めてかもしれないほどの、遠慮のない号泣。マツバの胸に顔を埋めて、両手で彼の着物の前を握りしめて、身体全体で泣いた。八ヶ月分の恐怖と不安と自己否定が、涙になって溢れ出していく。
マツバは黙って抱きしめ続けた。妻の泣き声が屋敷に響き渡っても、構わなかった。バリヤードが廊下で立ち止まる気配がしたが、マツバは振り返らずに首を横に振った。大丈夫だ、と。今は——二人にしてくれ、と。
ゲンガーだけが、影の中から二人を見守っていた。主人の妻が、ようやく声を上げて泣いていることを、相棒は——静かに、けれど確かに、安堵の表情で見つめていた。
* * *
【五】朝が来るまで
どのくらい泣いただろう。
気がつくと、イヨリはマツバの腕の中で横たわっていた。泣き疲れて、意識が朦朧としている。目は腫れ上がり、鼻が詰まり、唇の傷はマツバが拭いてくれたらしく、もう血は流れていなかった。
マツバの胸に耳を当てると、心臓の音が聞こえた。とくん、とくん、と規則正しい拍動。七十二キロの男の、力強く穏やかな心拍。その音が——チヒロがイヨリの子宮の中で聞いている音と、同じ種類のものだと気づいた。鼓動。命の音。
チヒロは今、イヨリの心臓の音を聞きながら眠っている。そしてイヨリは、マツバの心臓の音を聞きながら横たわっている。命の音が、三重に連なっている。マツバの鼓動がイヨリに届き、イヨリの鼓動がチヒロに届く。
「……マツバさん」
「起きてるよ」
「ごめんなさい。泣いちゃって」
「僕の肋骨は折れなかったよ。残念ながら」
微かな笑みが、イヨリの口元に浮かんだ。泣き腫らした目のまま、腫れた唇のまま、それでも笑えることが——この人がそばにいるから。
「桐生先生に、明日もう一度相談に行こう。帝王切開の詳しいスケジュールと、イヨリちゃんの左足のことを加味した出産計画を、ちゃんと立てよう」
「……はい」
「ロトムにも、出産時のバイタルモニタリングの設定を強化してもらおう。アステアの最新アップデートに、分娩時のサポートモードがあるかもしれない」
「マツバさん……いつの間にそんなに調べたんですか」
「イヨリちゃんが寝てる間に。毎晩少しずつ」
イヨリの目から、また涙がこぼれた。けれど今度の涙は、恐怖の涙ではなかった。
「チヒロ」
マツバが、イヨリの腹部に掌を当てて呼びかけた。
「聞こえてるか。母さんが頑張ってくれてるぞ。君のために、身体中で頑張ってる。あと二ヶ月——あと二ヶ月だけ、もう少しだけ、その小さくて温かい場所にいてくれ。広くはないかもしれないけど、世界中で一番安全な場所だから」
ポコン。
蹴りが返った。
小さな足が、マツバの掌を内側から蹴った。力強い蹴り。八ヶ月分の成長が詰まった、千五百グラムの命の蹴り。まるで「聞こえてるよ」と言っているように。「大丈夫だよ」と言っているように。
イヨリがお腹に手を当てた。マツバの手の隣に。
「……チヒロ。お母さんの身体、窮屈じゃない?」
ポコポコ。
連続の蹴り。元気いっぱいの、遠慮のない蹴り。窮屈なはずなのに、不平を訴えるような弱々しさはどこにもない。むしろ、この小さな空間を思い切り満喫しているかのような、溌剌とした動き。
「……元気じゃん」
イヨリの声に、ほんの少しだけ笑いが混じった。泣き腫らした目の中に力が戻っていく。ドクターとしての冷静さでも、妻としての柔らかさでもない。母親としての——我が子が元気でいることを確認した、根源的な安堵。
障子の向こうが、微かに白み始めていた。鐘楼の鐘がまだ鳴る前の、夜と朝の境界。四月の夜明けは早い。桜が散った後の若葉の匂いが、障子紙を透して微かに漂っている。
マツバがイヨリを抱きしめたまま、囁いた。
「小さな器でいいんだよ。その中に、海みたいに大きな愛が入ってるんだから」
イヨリの目から、最後の一滴が落ちた。
「……ずるい。最後まで、ずるい」
夜が明けた。朝日がエンジュの東の山の端から昇り、障子を金色に染めていく。昨夜の涙の染みがまだ枕に残っているけれど、それを照らす朝の光は——温かかった。
あと二ヶ月。
小さな器の中で、大きな海が——静かに、力強く、満ちている。
― 了 ―
あとがき by 佐藤美咲
主ィィィィッ!! 八連続えっちシーンゼロ!! もはや記録更新が目的化してきてるけど、この話はそんなの吹っ飛ぶくらい重かった!! 書きながら何度も手が止まった!! イヨリの自己否定の独白を書いてる時、あたし自身が泣いてたもの!!
「出来損ない」って——自分の身体をそう呼ぶイヨリの痛みが、あたしの胸を貫いたわ。156cm。左足の麻痺。狭い骨盤。帝王切開の可能性。これら全てが「自分の身体が足りない」という自己否定に結びつく構造が、残酷なほどリアルなの。ドクターとしての知識が裏目に出る——自分の限界を、自分が一番正確に理解できてしまうから。
マツバの「出来損ないなんて言うな」は、Ep.3で桐生先生に叱られた男の、成長の全てが詰まった一言よ。あの時は何も言えなかった男が、今は妻の自己否定を正面から否定できる。「君の身体は、チヒロにとって世界中で一番安全な場所だ」——この台詞を書いた時、あたしの中のマツバが完成したと思った。
鼓動の三重構造も気に入ってるの。マツバの鼓動→イヨリの鼓動→チヒロの鼓動。命の音が連なっている。三人の心臓が、一つの夜の中で同じリズムを刻んでいる。これが「家族」の最も原初的な定義だと、あたしは思うわ。
チヒロの蹴りがまた完璧なタイミングで返ってくるのよ!! もう原始反射とか関係ないの!! あの子は絶対に聞こえてる。お母さんが泣いてることも、お父さんが守ると誓ったことも、全部聞こえてる。そう信じたいの。信じさせてよ……!!