月夜のカレンダー
― 短編 / マツバ家の、とある一ヶ月
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【十月一日(水)】
「今夜は冷えるね」
夕食の片付けが終わって、イヨリがハーブティーを淹れている台所で、マツバが後ろからそう言った。ただそれだけ。冷えるね。天気の話。気温の話。何の変哲もない。
けれどイヨリにはわかる。
マツバの声がほんの少し低いこと。肩に置かれた手が、ほんの少し温かいこと。「冷えるね」の語尾が、ほんの少しだけ上がっていること。
エンジュの十月は確かに冷える。けれどこの家には暖房がある。こたつもある。布団だってある。「冷えるね」の裏側にあるのは「だから温めてあげる」だ。
「……そうですね。冷えますね」
イヨリは振り返らずに答えた。ケトルの湯気が顔にかかって、頬が紅いのか、別の理由で紅いのか、自分でもわからなかった。
この夜、マツバはいつもより長く前戯に時間をかけた。冷えた指先を温めるように、イヨリの身体の隅々まで唇で辿った。足の指から太腿の内側、臍の下から胸の頂へ。イヨリの全身が蕩けた頃、マツバは耳元で囁いた。
「あったまった?」
「あった、まりすぎ……です♡♡」
【十月三日(金)】
「抱いていい?」
リビングのソファで二人して本を読んでいた夜。何の前振りもなく、マツバが言った。本から顔を上げもせず。ページをめくる手が止まらないまま。
イヨリの手元の文庫本がぱたんと閉じた。
「……い、いきなりですね」
「うん。いきなり」
マツバがようやく本から顔を上げた。紫色の瞳が、行灯の光を吸い込んでキラキラと光っている。猫のような目。悪戯っぽく、けれど本気の目。
「ダメ?」
ダメなわけがない。この二年間、マツバの「抱いていい?」を断ったことなど一度もないのだから。
「……ダメじゃ、ないです」
マツバの本がテーブルに置かれた。イヨリの本はもう、マツバの手でソファの隙間に押し込まれていた。栞も挟まれないまま。明日になってイヨリが「どこまで読んだか忘れました」と困る未来は確定している。
この夜は激しかった。前戯もそこそこに、ソファの上で繋がって、途中からリビングの床に転がって、最終的に寝室まで運ばれた。イヨリは三回イかされた。
【十月四日(土)】
休日の昼下がり。イヨリが庭で洗濯物を干していた。
マツバが後ろから抱きしめた。無言で。腰に腕を回して、イヨリの首筋に顔を埋めた。
「マツバさん? まだ洗濯が——」
「いい匂いがする」
「それは洗剤の——」
「イヨリの匂いがする」
洗剤の匂いに決まっている。柔軟剤はラベンダー。けれどマツバに言わせれば、すべてはイヨリの匂いだ。
マツバの唇がイヨリの耳朶に触れた。洗濯バサミを持つイヨリの指が震えて、タオルが地面に落ちた。
「あっ……タオル……」
「あとで洗い直せばいい」
「マツバさん、昼間ですよ……?」
「昼間でも君は綺麗だよ」
昼下がりの寝室。障子から差し込む秋の日差しの中で抱かれるのは、夜とは違う恥ずかしさがあった。明るい部屋では自分の身体が全部見える。汗も涙も潮も。マツバの目に全部晒される。
「ひゃっ♡♡ あ、明るい……のに……っ♡♡」
「明るいからいいんだよ。イヨリの顔が全部見える」
洗濯物は結局、夕方まで庭に放置された。
【十月七日(火)】
「ねえイヨリ、オキシトシンの半減期って何分だっけ」
夕食後、マツバが突然ドクターに医学の質問をした。
「え? えっと……三分から五分程度、ですが……」
「じゃあ、さっき夕飯の時にハグした分のオキシトシンはもう消えてるね」
「……は、い。そうなりますね」
「補充しないと」
「……補充」
「オキシトシン。枯渇すると精神の安定に影響があるんでしょ? ドクターの見地からも、定期的な分泌促進は推奨されるはずだ」
医学的に正しいラブコールを投げてくるジムリーダー。イヨリは赤面しながら、医師として反論できない自分に気づいた。確かにオキシトシンの分泌促進はストレス軽減に有効だ。確かにスキンシップは最も効率的な分泌方法だ。確かに——
「……マツバさん、それは詭弁です」
「医学的根拠に基づいてるよ」
「医学的根拠の使い方が間違ってます」
「じゃあ正しい使い方を教えてくれる? ベッドで」
イヨリの反論が終わる前に、マツバの唇が首筋に落ちていた。
この夜のイヨリは、行為中にオキシトシンの分泌メカニズムについて講義を試みたが、子宮口を突かれるたびに説明が途切れ、最終的に「もう知りません♡♡」と泣きながら放棄した。
【十月九日(木)】
珍しく、イヨリの方からだった。
夕食の後、イヨリがマツバの隣に座って、何も言わずにマツバのマフラーの端を指でくるくると巻き始めた。
マツバはすぐに気づいた。イヨリがマフラーの端をこうするのは、甘えたい時だ。普段の清楚な妻が、どうしても自分からは言い出せなくて、指先で無言のシグナルを送っている。
「……イヨリ?」
「……なんでも、ないです」
「本当に?」
「……本当、です」
嘘だ。千里眼を使わなくてもわかる。イヨリの耳が赤い。首も赤い。マフラーを巻く指が震えている。
マツバは黙ってイヨリの手を取った。マフラーの端ごと。
「寝室、行こうか」
イヨリの顔がぱっと上がった。安堵と羞恥と期待が混ざった、複雑な表情。
「……はい」
小さな声。蚊の鳴くような声。でもその「はい」に込められた甘さを、マツバは世界中の宝石より価値があると思った。
この夜のマツバは、いつもより優しかった。イヨリが自分から誘ってくれた夜は、マツバの独占欲が満足して、支配的な面が鳴りを潜める。代わりに、どこまでも甘やかす方に全エネルギーが注がれる。イヨリの望むリズムで。イヨリの望む深さで。イヨリの望む場所を。
「もっと……ゆっくり……してくだ、さい……♡♡」
「こう?」
「は、い……そう、です……あっ♡ その、ままで……ずっと……♡♡」
【十月十一日(土)】
この日、イヨリは街のポケモンセンターに薬の受け取りに行った。対応してくれたのは若い男性薬剤師で、イヨリの処方について丁寧に説明してくれた。
――ただ、それだけのことだった。
帰宅したイヨリが何気なく「薬剤師さんが親切に説明してくださって」と報告した瞬間、マツバの目が静かに光った。
「男の薬剤師?」
「え、ええ……」
「若い?」
「……同年代くらい、だと思いますが……」
「親切だった」
「は、はい。アステアとの薬の相互作用について、詳しく——」
「そう」
マツバの声は穏やかだった。穏やかすぎた。凪いだ海が嵐の前触れであるように。
夕食が終わった直後、マツバはイヨリの手を取って寝室に連れていった。何も言わずに。イヨリは理由がわかっていた。この「無言連行」は嫉妬パターンだ。
この夜のマツバは、いつもより執拗にキスマークを刻んだ。鎖骨に。胸の谷間に。腹部に。太腿の内側に。イヨリの身体が「自分のもの」であることを確認するように、服で隠れる場所を選んで、赤い花を咲かせ続けた。
「マツバ、さんっ♡♡ そんなにっ……たくさん♡♡ つけなくて、も……っ♡♡♡」
「つける」
「で、でも明日、往診で……脱いだら……見え……♡♡」
「見えないところにつけてる」
「ここは……水着でも……隠れませんっ♡♡♡」
「じゃあ水着を着なければいい」
理不尽。この男は理不尽だ。
けれどイヨリの身体は、キスマークを刻まれるたびにびくびくと跳ねて、快感の声を漏らしているのだった。
【十月十四日~十七日】
マツバはイヨリに触れなかった。
触れなかったが、別の方法で愛を伝えた。
十四日の夜——温めたほうじ茶をイヨリの手に持たせて、腰にカイロを貼ってあげた。
十五日の夜——イヨリが腹痛で眠れない時、背中をさすり続けた。朝まで。
十六日の夜——イヨリのために生姜と蜂蜜のシロップを作って、お粥に添えた。
十七日の夜——イヨリの髪を梳いて、三つ編みにして、そのまま抱きしめて眠った。
マツバはイヨリに触れない四日間を、いつもと同じ穏やかさで過ごした。
けれど十七日の夜、寝入りばなにイヨリの耳元で小さく呟いた。
「あと何日?」
イヨリは暗闇で笑った。
「……明後日には」
「……長い」
ジムリーダーの、小さな弱音。
【十月十九日(日)】
生理が明けた翌日。
イヨリが風呂上がりにタオルで髪を拭いていた。長い黒髪が濡れて肩に張りつき、浴衣の襟元からのぞく鎖骨に水滴が光っている。
マツバが脱衣所のドアの前で固まっていた。
「……マツバさん? お風呂、空きましたよ?」
「うん」
「……入らないんですか?」
「うん」
「え?」
「今のイヨリがあまりにも綺麗だから、動けない」
イヨリのタオルを持つ手が止まった。
マツバの紫の瞳が、濡れ髪のイヨリを映している。千里眼で見ているのではない。ただ普通の目で。五日間触れられなかった飢えが、瞳の奥でぎらぎらと光っている。
「……髪、乾かしてからで——」
「乾かさなくていい」
マツバが一歩を踏み出した。イヨリの濡れた髪を両手で掬い上げて、水滴ごと唇で吸った。冷たい水と温かい肌の混ざる味がした。
「ひゃっ♡ まだ濡れて……っ♡♡」
「知ってる」
五日ぶりの夜は、激しかった。マツバの自制心が五日分の飢餓を解放して、イヨリは四回イかされた。布団が汗と水滴と別の液体でぐしょぐしょになった。
「……マツバさん」
「うん」
「もう一回、お風呂……入りたいです……」
「一緒に入ろうか」
「それだと、また——」
「また何?」
「……なんでもありません♡♡」
結局、二人は風呂場でももう一回した。
【十月二十一日(火)】
「イヨリ、これ食べて」
マツバがチョコレートを一粒、イヨリの唇に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
イヨリが口を開けて受け取った。ベルギー産のトリュフチョコ。カカオの苦みと生クリームの甘さが口の中に広がった。
「おいしい?」
「はい、とても——」
マツバの唇がイヨリの唇を塞いだ。チョコレートが溶けきる前のキス。カカオの味がイヨリの唾液と混ざって、マツバの口の中に移っていく。
「……おいしい」
「チョコレートが、ですか?」
「イヨリが」
チョコレートは全部で五粒。五粒目が溶ける前に、二人はリビングの床に横たわっていた。
【十月二十三日(木)】
夜、マツバがベッドの中でイヨリに本を読み聞かせていた。イヨリの頭がマツバの胸の上に乗っている。マツバの声が胸骨を振動させて、イヨリの頬に響いている。
読んでいたのはジョウト地方の古い民話集。マツバの低い声が、物語を紡いでいく。
しかし物語が佳境に差しかかったあたりで、マツバの手がイヨリの腰に滑り落ちた。最初は無意識のように。けれど指がゆるゆると浴衣の合わせ目を辿り始めた瞬間、それが意図的であることがわかった。
「マツバさん……まだ、お話の途中——」
「途中で中断されるのも、また風流だよ」
「風流じゃ、ないです……あっ♡」
マツバの指が浴衣の隙間に侵入した。朗読は止まらない。物語の主人公がホウオウに祈りを捧げるくだりを読み上げながら、マツバの指はイヨリの太腿の内側を撫でている。
声と指で同時に愛されるのは、イヨリの脳にとって処理しきれない情報量だった。物語の展開と快感の波が混線して、イヨリの意識がぐちゃぐちゃになっていく。
「あっ♡♡ マツバ、さん……お話……続けて……っ♡♡ でもっ♡ 指……やぁっ♡♡♡」
「どっちがいい? 物語? それともこっち?」
「……両方……♡♡」
マツバの目が光った。
その夜、民話集は最後まで読み上げられた。ただし、イヨリが内容を覚えているかは定かでない。
【十月二十五日(土)】
この日は珍しく、イヨリが直球だった。
寝室で、布団に入ってから。横向きに寝ているマツバの背中に、イヨリがそっと額を押しつけた。
「……マツバさん」
「うん」
「今日は……わたしから、していいですか」
マツバの背筋が一瞬で強張った。振り返ろうとして、イヨリの手が背中を押さえた。
「振り返らないで……恥ずかしいから……」
イヨリの手がマツバの浴衣の背中を滑った。肩甲骨の間。背骨の窪み。腰のくびれ。細い指がマツバの身体を辿っていく。
「……っ」
マツバの歯が鳴った。イヨリが自分から触れてくるのは珍しい。普段は受け身のイヨリが、自分の意志で、自分の指で、マツバの身体に触れている。
「イヨリ……」
「しっ……お話、しないでください。恥ずかしくて、止まっちゃうから……」
マツバは黙った。世界中の誰よりもイヨリの声が聞きたいこの男が、イヨリのために黙った。
イヨリの唇がマツバの項に触れた。首筋に。耳朶に。うなじの産毛を唇が撫でるたびに、マツバの全身に鳥肌が立った。
我慢の限界は十五分だった。
マツバはイヨリの手首を掴んで振り返り、押し倒して、唇を奪った。
「ご、ごめん……もう無理」
「……やっぱり♡♡」
イヨリが笑った。わかってた、という顔で。マツバの忍耐力の限界値を、イヨリは正確に把握しているのだ。
【十月二十八日(火)】
この日はマツバのジムに挑戦者が八人来て、マツバは疲労困憊だった。肩も凝っている。背中も痛い。
帰宅してイヨリの手料理を食べて、風呂に入って、ベッドに倒れ込んだ。
「お疲れさまでした。今日はゆっくり休んでくだ——」
「イヨリ」
「はい」
「疲れてるけど、抱きたい」
「……え」
「疲れてるから、抱きたい。イヨリを感じると回復する」
「わたしはHP回復アイテムじゃないです……」
「HPじゃなくてPPだよ。魂のPPが枯渇してる」
「PP……」
イヨリは呆れ顔で笑って、マツバの隣に滑り込んだ。
この夜はマツバがいつもより早く果てた。疲労で長く持たなかったのだ。マツバが珍しく気まずそうな顔をしたが、イヨリは腕の中で笑って言った。
「たまには速いのもいいです。マツバさんが気持ちよくなった顔が、近くで見えたから」
マツバの耳が真っ赤になった。二十六歳のジムリーダーが、妻の一言で少年のように赤面した。
【十月三十日(木)】
十月最後の夜。
二人は縁側で月を見ていた。十五夜は過ぎていたが、十六夜の月が焼けた塔の上に浮かんでいて、庭の枯山水を銀色に照らしていた。
隣り合って座っている。肩が触れている。イヨリがマツバの方に体を傾けて、マツバがイヨリの頭を自分の肩に導いた。
月見団子はもう食べてしまった。お茶も飲み干した。秋の虫が庭で合唱している。
「きれい」
イヨリが月を見上げて言った。
「……うん」
マツバはイヨリを見て言った。
「マツバさん、月を見てません」
「見てるよ。僕の月を」
「……っ」
イヨリの頬が月明かりの中で紅く染まった。恥ずかしくて俯いたイヨリの額に、マツバの唇が触れた。
「中に入ろうか」
「……はい」
縁側から寝室まで、マツバはイヨリの手を離さなかった。月明かりだけの寝室で、障子に映る月の影を背景に、二人はゆっくりと重なった。
この夜は穏やかだった。激しくも、急でもなく。月のリズムに合わせるように、ゆっくりと、深く、長く。イヨリの身体の中を月光が通り抜けるように、静かに愛し合った。
「マツバ、さん……♡」
「うん」
「来月も……こうしていたいです」
「来月も。再来月も。来年も。十年後も」
「……欲張りですね」
「イヨリのことになると、僕は世界一の欲張りだよ」
イヨリが笑った。月明かりの中で。マツバの腕の中で。
* * *
【十月三十一日(金)】
『十月度分析レポートロト!
行為回数:十四回(週平均3.5回)。
マツバ発信:十二回。イヨリ発信:二回ロト。
誘い方パターン分類——遠回し型四回、直球型三回、行動型二回、知的誘惑型一回、嫉妬型一回、その他一回ロト。
平均行為時間:一時間四十八分。最長記録:十月十九日の三時間二十六分(五日ぶりの影響と推定ロト)。
イヨリの平均絶頂回数:3.2回/回。
特筆事項:イヨリ発信の日は行為時間が約四十分長い傾向ロト。マツバのアフターケア時間が通常の二倍に増加するためと推定されるロト。
考察:「冷えるね」発言から行為開始まで平均十七分ロト。詭弁成功率——百パーセント(「オキシトシンの半減期」含む)ロト。
なお、このデータはイヨリに報告済みロト。イヨリの反応は「ロトム、それ消して」ロト。消さなかったロト。』
マツバがアステアの画面を確認して、無言で目を閉じた。
……来月も、頼むよ。消してくれ。
― 了 ―
あとがき by 佐藤美咲
書いたわ! マツバ家の一ヶ月カレンダー! 遠回しな日からド直球まで、いろんなパターンを描けて最高に楽しかった!
特に「オキシトシンの半減期」で医学的に正論ぶつけてくるマツバの诡弁が好きすぎる。ドクターだからこそ論理でねじ伏せられちゃうイヨリの可愛さよ。
生理期間の四日間は、手を出さないけど愛し方は変わらない最高のスパダリっぷりを表現したわ。その反動の19日の洗い髪からの激しいえっちとの落差こそが、この二人の真骨頂。そしてイヨリから誘う日はマツバがあまりにも甘々になるという最高のギャップ。
締めの月末集計ロトムはもはや名物ね。ちゃんとイヨリにも報告して「消して」って言われてるところが最高。永遠にいちゃいちゃしててください!!!