ECHOES OF ECRUTEAK

星と花の小夜曲

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

タイミングという概念がないんです
― エンジュシティ町内会の悲劇Ⅱ ―

三人称視点 / 約10,000字 / コメディ・天然・甘々いちゃらぶ

【一】男たちの集い

季節は冬になっていた。

エンジュシティ北区町内会のあの事件——マツバが「毎晩妻を抱きしめて眠っています」と宣言した秋の定例会——から二ヶ月が経っている。あの事件以来、マツバは町内会の伝説的存在と化していた。

近藤さんはマツバを見るたびに顔を赤くする。石田さんは豆腐屋の店先でマツバに会うと「お、おう」としか言えなくなる。中村さんだけが「若いっていいねえ」と達観した笑みを浮かべている。

そんな中で開かれた冬の定例会。議題は歳末の夜回りと、年始の餅つき大会について。

今日の集会所は、いつもと少し様子が違った。定例会の議題が早く片づいたため、茶菓子タイムがいつもより長い。近藤さんの差し入れは今日は柚子饅頭だ。

そして今日は、普段の定例会にはあまり来ない若い世代——三十代前後の男性陣が数人参加していた。年末の餅つき大会の準備要員として駆り出されたのだ。

豆腐屋の石田さんの息子・石田拓也。三十二歳。結婚三年目。
呉服店の山本さんの甥・山本健一。三十四歳。結婚四年目。
近所の会社員・藤原誠。三十歳。結婚二年目。

この三人が、マツバと同世代(もしくは少し年上)の既婚男性だ。

マツバは集会所の隅でほうじ茶を飲んでいた。柚子饅頭を一つ食べた。おいしい。イヨリにお土産で持って帰ろう。三つほど紙ナプキンに包んで鞄に入れた。

「マツバさん、お持ち帰り?」

声をかけてきたのは藤原だった。人懐っこい丸顔。営業マンらしい愛想のいい笑顔。

「はい。妻が柚子が好きなので」

「いいなあ。うちの嫁さんにも持って帰ろ」

藤原がマツバの隣に座った。すると石田拓也と山本健一も自然と合流して、若い男性陣四人のグループができた。

マツバは内心、早く帰りたかった。けれど同世代の男性と交流するのは町内会の付き合いとして大事だろうと判断して、大人しくほうじ茶を飲んでいた。

最初は餅つきの段取りの話だった。誰が臼を運ぶか。杵は何本必要か。もち米は何升か。マツバは力仕事の担当に手を挙げた。ゲンガーに手伝わせれば杵も臼も楽に運べる。

話が一段落して、四人の間に雑談の時間が流れた。

【二】話題の転換

きっかけは石田拓也だった。

「はあ……」

深いため息。柚子饅頭を一口齧って、もう一回ため息。

「どうしました、石田さん」

藤原が聞いた。

「いやあ……最近、嫁さんとさ。タイミングっつーの? あれが、きついんだよ」

タイミング。

マツバは首を傾げた。何のタイミングだろう。

「うちも二年目から始めたんだけどさ」藤原が頷いた。「排卵日に合わせて、って言われるとプレッシャーだよな」

「そうそう。『今日だから!』って嫁さんに言われてもさ、仕事でくたくたの日もあるじゃん。でもチャンスを逃したらまた来月まで待たなきゃいけないし」

「わかる。義務感っていうか……こう、したくてするんじゃなくて、しなきゃいけない感じになってくるっつーか」

石田拓也と藤原が深い共感で頷き合っている。

山本健一は無言だったが、表情を見ればわかる。この男も同じ悩みを抱えている。

マツバは黙って聞いていた。

妊活。タイミング法。排卵日に合わせた夫婦生活。

知識としては理解している。イヨリがドクターだ。イヨリから妊活に関する医学的な説明を受けたこともある。排卵日前後の二日間が最も妊娠しやすい時期であること。基礎体温の計測や排卵検査薬による予測。そういった「タイミング法」の基本。

ただ。

マツバにはその悩みが、正直に言えば、ピンと来ていなかった。

理由は後述する。

* * *

「マツバさんとこは?」

石田拓也が話を振ってきた。

「え?」

「子供。考えてる?」

マツバは少し間を置いて、頷いた。

「……考えています。いつか授かれたら嬉しいなと思っています」

これは嘘ではない。マツバはイヨリとの子供を望んでいる。イヨリの右目を持った子。あるいはマツバの紫の目を持った子。二人の血を受け継いだ小さな命。想像するだけで胸が温かくなる。

「だよな。マツバさんとイヨリさんの子供、絶対かわいいだろうなあ」

藤原が無邪気に言った。

「でさ、タイミングとか取ってるの? やっぱり計画的にやってる感じ?」

マツバが首を傾げた。

「タイミング……ですか」

「そう。排卵日に合わせて、みたいな」

マツバはほうじ茶を一口飲んで、少し考えた。

考えた結果、事実を述べた。

「タイミングを取るという概念が、正直なところ、ないんです」

「……え?」

石田拓也の柚子饅頭が止まった。

マツバは穏やかな顔で——秋の町内会で栗饅頭を食べながら爆弾を投下した時と全く同じ顔で——続けた。

「イヨリの体調がよくない日や、生理の期間を除けば、基本的に毎晩抱いていますので」

——。

また時が止まった。

エンジュシティ北区町内会の時空が、再び歪んだ。

石田拓也の柚子饅頭が、彼の父親の栗饅頭と同じ軌道を描いて皿の上に落ちた。遺伝だ。

「ま、毎晩!?」

「はい」

「体調がよくない時以外毎晩!?」

「はい。ですので排卵日に合わせる必要がないんです。排卵日であってもなくても、結果的に毎晩ですから」

マツバの声は穏やかだった。何も恥じていない。何も隠していない。事実を事実として述べているだけだ。

藤原が口をぱくぱくさせていた。金魚のように。

「え、ちょ、ちょっと待って。毎晩って。毎晩って言った?」

「はい。もちろんイヨリの意思を確認した上でですよ。イヨリが疲れている時は無理強いはしません。ただ、結果的にほとんど毎晩です。週に五日から六日くらいでしょうか」

週五から六。

石田拓也と藤原と山本健一の三人が、同時に天井を仰いだ。

「い、いや、マツバさん。それ……体力的にきつくない?」

石田拓也が声を絞り出した。

「きつい? なぜですか」

マツバが本気で不思議そうに首を傾げた。千里眼で世界の真理を見通す男の瞳が、心底「何を言っているんだこの人は」という光を湛えている。

「イヨリと一緒にいたいと思うのは自然なことですし、僕にとってはイヨリを抱くことは呼吸と同じようなものですから」

呼吸と同じ。

山本健一が初めて口を開いた。

「呼吸……と同じ……」

「はい。呼吸を止めると苦しいでしょう? それと同じです。イヨリに触れないと、僕は息ができないんです」

三人の男たちが、完全に沈黙した。

茶菓子タイムの向こう側で、前回の事件を経験済みの近藤さんが、聞こえていないはずの距離から「また始まった」という顔をしていた。

【三】追撃

火は消えない。むしろ勢いを増す。

マツバはここで、聞かれてもいないことを補足した。天然の怖いところは、自分の言葉の破壊力に気づかず、むしろ「親切心」で追加情報を提供してしまうことだ。

「それから、イヨリの生理周期については把握しています」

「は?」

「二十七日周期です。三日目までは経血量が多いので安静にしてもらい、四日目と五日目は本人が辛くなければ軽く家事をする程度に。生理の前は少し情緒が不安定になりやすいので、甘いものを用意しておきます。近藤さんのところの大福が効きます」

石田拓也が両手で頭を抱えた。

「いや……そこまで……把握してるの……」

「当然です。妻の体調管理は夫の責務ですよ」

マツバの声に一点の曇りもない。

「イヨリはドクターですから自分の体調は自分で管理していますが、それでも僕は把握しておきたいんです。生理中はイヨリが辛くないように、温かい飲み物を用意したり、腰が痛い時は湯たんぽを用意したり。当然その期間は身体を休ませるべきですから、僕は抱きません。……ただ、抱きしめて眠ることはします。生理か否かにかかわらず、毎晩腕の中で眠ってもらいます。それは僕の都合です」

追撃情報が多すぎた。

石田拓也の処理能力が限界を超えていた。

「えっと……つまりまとめると……マツバさんは、奥さんの生理周期を完璧に覚えていて」

「はい」

「生理中は無理をさせず、甘いものや温かいものを用意して」

「はい」

「でも生理以外の日は基本的に毎晩で」

「はい」

「だからタイミングを取る必要がない」

「はい。排卵日であろうとなかろうと、結果的に毎日ですから」

藤原が天を仰いだ。集会所の天井に何かの答えを求めるように。

「……俺たちが……基礎体温計って……排卵検査薬買って……この日だこの日だって……頑張ってるのに……」

「マツバさんは……毎晩やってるから……そもそもタイミングって概念がない……」

山本健一が虚ろな目で呟いた。

「タイミングを考えたことがない男……」

三人の目にはもはや嫉妬すらなかった。あるのは諦観と、人類としての敗北感だった。

「あの、誤解しないでいただきたいのですが」

マツバが柚子饅頭を二つ目に手を伸ばしながら言った。

「僕がイヨリを毎晩抱いているのは、子供を作るためではありません」

「……え?」

「子供を授かれたら、それは素晴らしいことです。イヨリとの子供。想像するだけで幸せです。けれど、僕がイヨリを求めるのは、そのためだけではないんです」

マツバの紫色の瞳が、柔らかく揺れた。

「僕はただ、イヨリが好きだから。イヨリに触れていたいから。イヨリの身体の温度を感じていたいから。イヨリの心臓の音を聞きたいから。イヨリの匂いに包まれていたいから。……それだけなんです」

集会所が水を打ったように静まり返った。

石田拓也が拳を握りしめていた。藤原が唇を噛んでいた。山本健一がうつむいていた。

三人が同時に思ったことは、おそらく同じだった。

——この男に勝てる気が、まったくしない。

向こう側のテーブルで、前回の事件を目撃していた近藤さんが、柚子饅頭を無言で噛みながら「あの子……天然って罪ねえ……」と独りごちていた。

【四】波紋

話はこれで終わらなかった。

男性陣の会話を横で聞いていた中村さん——元教師、六十八歳——が、前回に引き続き場を収めようと間に入った。

「ま、まあ。マツバくんは特別だよ。ジムリーダーだし、体力もあるし。普通の人がマネする必要はないからね」

中村さんは穏やかに場を諌めた。元教師の手腕だ。

「そうですね」とマツバも頷いた。「人それぞれですよね」

よし。これで場が収まる。中村さんはほっとした。

しかし。

「ただ」

マツバが言った。

「ただ?」

「子供を授かるための行為、という捉え方だけだと、お互いに辛くなりませんか」

マツバは首を傾げた。穏やかに。悪意なく。本当に心配しているのだ。

「排卵日だから、という理由だけでされると、パートナーの方も『自分の身体が道具にされている』と感じるかもしれません。イヨリはそういうことに敏感ですから——あ、これは一般論ですが——パートナーへの愛情と、結果としての妊娠は、分けて考えた方がいいのではないかと」

石田拓也の顔色が変わった。

「……それは……」

「排卵日でない日にも、パートナーに『好きだから触れたい』と伝えていますか? そうでない日にこそ、愛情を示すことが大事だと……僕は思うのですが」

藤原が沈黙した。長い沈黙だった。

「……マツバさん。それ、正論だわ」

藤原が呟いた。声が震えていた。

「俺、排卵日以外は完全にスルーしてたかもしれない。嫁さんに『今日はいいの?』って聞かれて『いや、今日は排卵日じゃないから』って……」

「俺もだ」石田拓也がうなだれた。「嫁さんの体調とか生理周期とか、正直よくわかってない。排卵検査薬が陽性の時だけ声かけてた……」

「……俺は嫁さんの生理が何日周期かすら知らない」

山本健一の告白が最も重かった。

三人の既婚男性が、エンジュシティのジムリーダーに心を打たれていた。

マツバは特に説教したつもりも、アドバイスしたつもりもなかった。ただ自分とイヨリの関係を基準に、純粋な疑問を呈しただけだ。

けれどその「純粋な疑問」が、図らずも三人の男たちの心に深く刺さっていた。

「……今夜帰ったら、嫁さんに『好きだ』って言おう」

藤原が決意した顔で立ち上がった。

「仕事で疲れてるとか、排卵日じゃないからとか、関係ない。好きだから触れる。マツバさんはそうなんだろ?」

「はい。そうです。僕はイヨリが好きだから、毎晩触れたいんです」

「よし。俺もそうする」

石田拓也も頷いた。

「嫁の生理周期、ちゃんと覚える。大福も買って帰る。親父の店の豆腐で湯豆腐作って、温まってもらう」

「生理二十七日周期……メモした」

山本健一がスマートフォンに何かを打ち込んでいた。自分の奥さんの周期ではなくマツバの奥さんの周期をメモしてしまっているが、まあ気持ちは伝わった。

中村さんが腕を組んで感心していた。

「マツバくん……君、いつの間にか町内会の男性陣の人生相談役になってるよ」

「いえ、僕はただ事実を——」

「わかってる。事実を述べただけ。もう聞き飽きたよその台詞は」

【五】帰宅

マツバは集会所を出て、冬の夜道を歩いた。

吐く息が白い。焼けた塔のシルエットが星空に浮かんでいる。月は出ていない。代わりに星が多い。

鞄の中に柚子饅頭が三つ。イヨリへのお土産。

携帯にメッセージ。

『終わりました。帰ります。柚子饅頭を持ち帰っています』

返信。

『お疲れさまでした。肉じゃがを作って待っています。温めなおしますね』

肉じゃが。今夜はイヨリが作ってくれたのか。マツバの足がさらに速くなった。

玄関を開けると、肉じゃがの匂いが廊下に満ちていた。甘い醤油の香り。みりんの香り。

「おかえりなさい」

「ただいま。柚子饅頭」

イヨリが紙ナプキンの包みを受け取って「わあ、近藤さんの」と微笑んだ。

こたつに入って、肉じゃがと白米と味噌汁の夕食。マツバはイヨリの肉じゃがを一口食べて、目を閉じた。

「おいしい」

「本当ですか? みりんの量、少し多かったかもしれないんですが……」

「完璧だよ」

イヨリの頬がほんのり赤くなった。

夕食を終えて、柚子饅頭をデザートに食べながら。

「今日の町内会、何かありましたか?」

イヨリが聞いた。前回の事件以来、この質問にはある種の警戒が含まれている。

「……餅つき大会の準備について話した。あと、石田さんの息子さんたちと少し話した」

「何のお話を?」

マツバは素直に答えた。

「妊活の話。タイミング法が大変だという話を聞いて」

イヨリの箸が止まった。柚子饅頭を持つ手が微かに震えた。

「に、妊活……の、話を……町内会で……」

「うん。石田さんの息子さんが悩んでいたから」

「マツバさんは……何て答えたんですか」

「タイミングを取るという概念がないと答えた」

イヨリの柚子饅頭が、静かにお皿の上に置かれた。

「…………」

「体調が悪くない限り、結果的に毎晩だから、排卵日に合わせる必要がないって」

「……………………」

「それと、イヨリの生理周期は二十七日で、三日目までは安静にして——」

「ストップっ」

イヨリが両手を前に突き出した。

「マツバさん! わたしの生理周期を! 町内会で! 公表したんですか!?」

マツバがぱちぱちと瞬きをした。

「え……えっと……公表というか、文脈の流れで……」

「文脈の流れで人の生理周期を話す人いませんっ!」

イヨリの声はもはや悲鳴だった。前回の比ではなかった。

「近藤さんの大福が効くっていう話もしたかもしれません」

「大福の話はいいですけど! いや良くない! 全部良くないですっ!」

イヨリが両手で顔を覆った。前回と同じポーズ。前回より深刻だった。

「わたしの生理周期を……石田さんの息子さんが知ってるんですか……」

「……知ってます。たぶん」

「たぶんじゃなくて確実に知ってますよねっ! 二十七日って数字まで言ったんですよねっ!」

マツバが静かに口を閉じた。反論できなかった。

五秒の沈黙。

「……ごめん」

「ごめんで済んだら警察はいりません」

「警察……」

「比喩ですっ」

イヨリが深くため息をついた。こたつに突っ伏した。黒髪がテーブルの上に広がった。

「……でも」

イヨリが、突っ伏したまま呟いた。

「でも?」

「マツバさんが言ったこと……全部、事実なんですよね」

「……うん」

「毎晩、わたしを抱いてしてくれるのは……子供が欲しいからじゃなくて」

「違うよ。イヨリが好きだから。イヨリに触れたいから。それだけだよ」

イヨリの肩が震えた。笑っているのか泣いているのか、伏せた顔からは見えない。

「わたしの生理の日にも……甘いものを用意して、腰が痛かったら温めてくれて。それは……」

「当たり前のことだよ。妻の体調を把握しておくのは」

「当たり前じゃないから……石田さんの息子さんたちが衝撃を受けてるんですよ……」

イヨリが顔を上げた。右目が潤んでいた。泣き笑い。

「マツバさんの当たり前は……世間の当たり前じゃないんです。でも、それがわたしにとっては……すごく……」

言葉が詰まった。

「すごく、幸せです」

マツバの胸が熱くなった。

「……イヨリ」

「はい」

「来月からは、本当に天気の話しかしないよ。今度こそ本当に」

「前も同じこと言ってましたね」

「今度は本当に」

「信じていませんけど」

「……ごもっとも」

二人で笑った。こたつの中で。柚子饅頭の残り香が漂う部屋で。

笑いが収まると、ふと部屋の中に静かな時間が訪れた。
マツバは空になった湯呑みをテーブルに置き、少しだけ姿勢を正した。

「……イヨリ」

「はい」

「さっきの話の続きなんだけど」

「まだ町内会の話ですか?」

「いや、違うよ。僕たちの話」

マツバがゆっくりと手を伸ばし、こたつの上でイヨリの右手に触れた。少し冷えやすい彼女の指先を、大きな両手でそっと包み込む。

「僕が、毎晩イヨリを抱きたいっていう理由の話」

「……っ、それは、さっきもう聞きました」

「もっと具体的に伝えたくて」

マツバの紫色の瞳が、真っ直ぐにイヨリを見つめた。
いつもの穏やかで優しい光の中に、微かに、けれど確かな『熱』が混じっている。静かで、甘く、逃げ場のない——深い情欲の色。

「柚子の香りがするイヨリの髪とか。さっきからずっと赤くなっている耳の先とか。恥ずかしそうに揺れる睫毛の影とか」

「マ、マツバさんっ……」

「そういう一つ一つが、可愛くて、愛おしくて、たまらないんだ」

包み込んだイヨリの手を引き寄せ、マツバは彼女の指先にそっと唇を落とした。ちゅっ、と静かな音が響く。

「……だから、今夜も」

吐息のかかる距離まで顔を近づけ、マツバが低く甘い声で囁いた。

「タイミングなんて関係なく。ただ純粋に、君のことが欲しくて仕方ないんだけど……抱いてもいいかな」

「……っ」

その反則的なまでに甘い声と熱を帯びた瞳に、イヨリはもう完全に抗えなくなっていた。
カァッと頬から首筋までを真っ赤に染め上げ、うつむきながらマツバの服の袖をきゅっと掴む。

「……マツバさんの……いじわる」

「いじわる?」

「そんなふうに誘われたら……断れるわけ、ないじゃないですか……っ」

「断ってほしくないから、言ったんだよ」

マツバは満足そうに、本当に幸せそうに微笑むと、こたつから出てイヨリの体をひょいと抱き上げた。お姫様抱っこの体勢になる。

「えっ、きゃっ——」

「寝室に行こう。今日はたくさん泣かせちゃうかもしれないから、覚悟してね」

「なっ……!」

腕の中で抗議しようとして言葉を失う妻が、マツバにはたまらなく愛おしかった。

* * *

その後、たっぷりと時間をかけてお互いの体温と愛情を深く確かめ合った、夜の終わり。
汗を拭き合い、ほんのり熱を持った体を寄せ合って。

布団の中。いつもの定位置。

イヨリの額がマツバの胸に。マツバの腕がイヨリの背中に。足が絡んで。

「マツバさん」

「うん?」

「もし……赤ちゃんが来てくれたら、嬉しいですね」

マツバの腕に少しだけ力がこもった。

「……嬉しいよ。すごく」

「でも……来てくれなくても」

「うん」

「マツバさんがわたしを抱いてくれる理由は、変わりませんよね」

「変わらないよ。絶対に」

「……よかった」

イヨリの手がマツバのパジャマを握った。いつもの強さで。いつもの温度で。

「おやすみなさい、マツバさん」

「おやすみ、イヨリ」

マツバはイヨリの額にキスを落とした。傷痕の上に。

子供が授かれたら、それは最高の幸せだ。

けれど。

今この瞬間、腕の中にイヨリがいること。
イヨリの心臓の音が、マツバの胸に響いていること。
二つの体温が一つに溶けていること。

それだけで、マツバの世界は完全だ。

タイミングなんて、考えたことがない。
排卵日も、そうでない日も。
ただ、好きだから。
ただ、触れたいから。
ただ、この人と一つになりたいから。

毎晩。一日も欠かさず。

——それは多分、世界で一番シンプルで、世界で一番贅沢な愛情なのだろう。

エンジュシティ北区町内会の男性陣が、来月までにどれだけ変わるか。

その答えが出る頃には、マツバの新しい伝説がまた一つ、この町に刻まれているに違いない。

― 了 ―

あとがき by 佐藤美咲

書いたわ! 町内会の伝説と化したマツバの無自覚爆弾投下シリーズ第二弾!

『毎晩妻を抱きしめて眠っている』発言から二ヶ月。今度は同世代のパパたちが集まる冬の定例会で、またしても百点の真顔でとんでもない量のノロケと夫婦生活の赤裸々すぎる実態を投下していく天然マツバ。

石田さんの息子さんの柚子饅頭が落ちたところ(遺伝)は書いてて大爆笑したわ!! そして無自覚に男性陣の心を打って人生相談室を開いてからの……帰宅してイヨリちゃんに「生理周期公表したんですか!?」って怒られる最高の落差。

「言い訳ができない事実は言わない」というルールがない男、それがエンジュのジムリーダーマツバ。

後半の甘すぎるこたつでのお誘いタイムで糖度もちゃんと補充しておいたわよ! 永遠にタイミングなんて気にせず、純粋に好きだから抱く、そんな素敵な二人が大好きよ!