新婚七夜、エンジュ騒動記
【序】七日七晩
エンジュシティのジムリーダー、マツバが結婚した。
相手はポケモンドクターのイヨリ。一、二年前の不慮の事故で左目と左足に後遺症が残り、自らも開発に関わったデボンコーポレーションの腕輪型次世代医療デバイス「アステア・システム」の力を借りて生活している、芯の強い女性だ。黒髪に穏やかな瞳。華奢な身体つきに不釣り合いなほど豊かなF65の胸を、いつも白衣の下に慎ましく隠している。
結婚式から一週間。
エンジュの古い屋敷で新婚生活が始まった、その初日から——マツバは、壊れた。
◆ 一日目(月曜日)の夜
挙式と披露宴の疲れが残る初夜。新郎は紋付袴を脱ぎ捨てるやいなや、新婦を布団に押し倒した。「待って、まだ髪飾り取ってません」というイヨリの抗議は、唇で塞がれた。
白無垢の下に隠されていた、イヨリの裸体。それを初めて——「初めて」ではないが、妻として初めて——目にしたマツバの目が、ぎらりと光った。紫の虹彩の奥で、千里眼の輝きとは別種の、もっと原始的な炎が揺れている。
「イヨリちゃん。今日から、君は僕の妻だ」
「は、はい」
「僕の妻。僕だけの。他の誰のものでもない。この身体も、この心も、この声も」
所有の宣言から始まる初夜。丁寧に、しかし執拗に、マツバは新妻の全身を舌で辿った。耳朶から首筋、鎖骨から胸の谷間、F65の豊満な果実を掌で掬っては舌で頂を転がし、下腹部を過ぎて秘園に至るまで、一ミリの隙間も残さずに。
初夜のクンニは、一時間を超えた。
イヨリが三度泣いて許しを請うまで、マツバは花園から顔を上げなかった。そしてようやく繋がった時には、イヨリの身体はとろとろの蜜壺と化しており、マツバの挿入をまるで歓迎の抱擁のように迎え入れた。恋人繋ぎで手を結び、額を合わせ、「好き」と「好きです」を何度も交わしながら、二人は初めての朝日を夫婦として迎えた。
回数:四回。
◆ 二日目(火曜日)の夜
新婚旅行の代わりに、二人は自宅で過ごすことにしていた。マツバがジムを一週間休むなど前代未聞だったが、「新婚なので」の一言でエンジュジムの関係者は全員納得した。イタコ衆のキヨばあに至っては「当然じゃ、行ってこい」と笑い飛ばした。
二日目の夜。マツバは夕食の後片付けをしているイヨリを、台所で後ろから抱きしめた。
「マツバさん、まだ洗い物が」
「洗い物より、君を洗いたい」
「意味が分かりません……!」
風呂場へ連行。イヨリの髪を丁寧に洗い、背中を泡で撫で、その流れで自然に——いや、全く自然ではなく——愛撫に移行した。湯気の中でイヨリの白い肌が桃色に染まり、濡れた黒髪が張りつく首筋に口づけを落としながら、マツバは浴槽の縁にイヨリを座らせ、湯煙の向こうで花園に顔を埋めた。
「や、やぁっ♡♡ お風呂で、そんな……っ」
「だって、ここ、綺麗に洗ったばかりだから。きれいなうちに味わいたくて」
理由になっていない理由を述べながら、マツバの舌は止まらなかった。風呂場での前戯の後、抱き上げて寝室に運び、まだ肌が湿っているうちに繋がった。水滴が畳に落ちるのも構わず、二回。
回数:三回(風呂場での一回を含む)。
◆ 三日目(水曜日)の夜
昼間、近所の商店街に買い出しに出かけた。新婚の二人が肩を並べて歩く姿に、馴染みの八百屋の大将が「おう、ジムリーダー! 奥さん綺麗だなぁ!」と声をかけた。マツバは笑顔で返しつつ、大将の視線がイヨリの胸元を一瞬掠めたのを見逃さなかった。
帰宅後、マツバの目が据わっていた。
「マツバさん? どうかしましたか?」
「いや……何でもない」
何でもなくはなかった。その夜のマツバは、いつにも増して執拗だった。イヨリの全身に口づけの痕を残すように、首筋、鎖骨、胸の上面、腰骨の突起——白衣を着た時にギリギリ隠れる位置に、紅い印を丁寧に配置していく。
「マツバさん……キスマーク、多すぎませんか……」
「多すぎないよ。これは地図。僕だけが読めるイヨリちゃんの地図」
独占欲という名の測量作業である。
回数:三回。全て正常位。顔を見ながらでないと安心できないらしい。
◆ 四日目(木曜日)の夜
イヨリが「少し腰が」と小さく漏らした。マツバの良心が、チクリと痛んだ。
「今夜は、休もう」
「え、珍しいですね」
「イヨリちゃんの身体が第一だから」
布団に入り、背中を向けたイヨリを後ろから抱きしめるだけの夜。マツバの手はイヨリの腹に回され、彼女の体温を掌で感じている。安らかだ。これでいい。今夜は、これでいい。抱かなくても、イヨリはここにいる。それだけで——
イヨリが、身じろぎした。
臀部が、マツバの下腹部に触れた。
マツバの全理性が、三秒で蒸発した。
「……ごめん、やっぱり無理」
「知ってました」
イヨリは振り返りもせず、諦めのついた声で答えた。背後からの抱擁がそのまま愛撫に移行し、スプーンの体勢で腰に負担をかけないように——というマツバなりの気遣いのもとに——丁寧に、しかし深く繋がった。
回数:二回。一応控えた。
◆ 五日目(金曜日)の夜
午後、イヨリが往診に出かけた。新婚休暇中だが、急患は断れない。マツバは留守番。ジムの事務処理を片付けながら、時計を見る。三時。まだ帰ってきていない。四時。まだだ。四時半。ポケギアが鳴った。
「マツバさん、少し遅くなります。五時頃には戻りますね」
五時。玄関の扉が開いた瞬間、マツバは廊下を走った。ジムリーダーの威厳などかなぐり捨てて走った。
「おかえり、イヨリちゃん」
「ただいまです。えっ、マツバさん、なぜ玄関に正座して……?」
「待ってたから」
大型犬である。この男は、大型犬なのだ。尻尾があったなら、今頃ちぎれんばかりに振っているだろう。
その夜は対面座位。帰ってきたイヨリを離したくなくて、ずっと密着していたくて、向かい合ったまま抱きしめて動いた。イヨリの腕がマツバの首に回り、F65のエロふわおっぱいがマツバの胸板を押し潰す。柔らかい。重い。温かい。この質感を知っているのは世界で僕だけだと思うと、全身の血液が沸騰する。
回数:三回。妻が世界で一番可愛い。
◆ 六日目(土曜日)の夜
朝から雨。二人で家にいた。マツバが本を読み、イヨリが隣で医学書を読む。穏やかな午後。足が触れ合っている。それだけで、マツバは幸福だった。
だが、夕方。イヨリが伸びをした。寝巻きの裾がめくれ、白い腹が一瞬だけ見えた。その腹に残る、昨夜の名残の薄い紅い印。自分がつけた印。
本は閉じられた。
六日目の夜は長かった。前戯だけで一時間以上。マツバはイヨリの全身を舌で巡礼し、花園に三十分以上顔を埋め、四回目の絶頂で完全にトロトロに蕩けた妻を、ゆっくりと、深く抱いた。
回数:三回。マツバは最低でも三回は抱かないと眠れない体質になりつつあった。これは、病気かもしれなかった。
◆ 七日目(日曜日)の夜
新婚休暇最終日。明日からジムが再開する。
「イヨリちゃん」
「はい」
「明日から、毎日は会えなくなる」
「マツバさん……同じ家に住んでいるのに、毎日会えなくなるとは」
「昼間会えないでしょう。それが辛いんだよ」
不安を餌に甘える二十代後半の男。イヨリは苦笑しながらも、その頬を両手で包み、額に口づけを落とした。
「大丈夫ですよ。夜には、ちゃんと帰ってきますから」
その一言が、トリガーだった。
最終夜は、全体位のフルコース。正常位で始まり、対面座位に移行し、騎乗位でイヨリを頂上まで登らせ、背面座位で彼女の背中に唇を這わせ、最後は横向きのスプーンで優しく締めくくった。合間合間にクンニを挟み、イヨリの花園を蜜が枯れるまで味わい尽くした。
回数:五回。もはや手加減という概念が辞書から消えていた。
七日間の合計回数:二十三回。
イヨリは翌朝、ベッドから起き上がるのに五分かかった。
* * *
【中】噂するエンジュの人々
新婚休暇が明けた月曜日。
マツバがジムに出勤した後、イヨリは午前中の往診に出かけた。白衣をきちんと着て、往診カバンを肩にかけ、左手首に装着した「アステア・システム」から各部の補助筋肉と視神経へと送られる信号の恩恵を受けながら、エンジュの古い石畳を歩く。
アステア・システム。イヨリ自身も開発に加わったデボンコーポレーションの腕輪型次世代医療用デバイスだ。左脚の運運びや左目の視界補強など、身体機能を総合的に補助する最先端技術の結晶である。装着者の動きを読み取り、不自由な部位を自然にサポートするよう設計されており、イヨリの日常生活を支える要となっている。
だが、今日のイヨリの歩行は、明らかにおかしかった。
アステア・システムの動作自体は正常だ。AIは忠実に筋電シグナルを読み取り、モーターは正確に駆動している。問題は、イヨリの身体の方にあった。腰と骨盤周り。もっと具体的に言えば、股関節の内転筋群。七日間の連続した夜間活動によって蓄積した筋疲労と、骨盤底筋群への過剰な負荷が、歩行パターンに微妙な変調をきたしていた。
要するに——腰が据わっていないのである。
アステア・システムは左足と左目の機能を完璧に補助するが、腰から上の体幹や、ましてや「過剰な愛による物理的な消耗」までは想定されていない。マツバの重すぎる愛……もとい、七日間の激しすぎる腰振りの負荷は、最新デバイスの演算能力を遥かに超えていた。いくら足の運びが正確に矯正されていても、腰の芯がふにゃふにゃでは、歩容全体がぎこちなくなる。結果として、デボンコーポレーションの技術者が、そして共同開発者のイヨリ本人が頭を抱えるような、最新デバイスの面目丸潰れな歩き方になってしまっていた。
最初に気づいたのは、商店街の花屋のおかみさんだった。
「あら、イヨリ先生。おはようございます。……大丈夫? なんだかいつもより歩きにくそうだけど」
「え? あ、いえ、ちょっと運動不足で……」
「あらまあ。先生も運動不足になるのねぇ」
花屋のおかみさんは、それ以上追及しなかった。しかし、イヨリが去った後、隣の漬物屋の大将と目配せをした。
次に気づいたのは、往診先の老夫婦だった。
「先生、今日はえらく疲れとるようだねえ。顔色はいいのに、足元がおぼつかない」
「いえ、大丈夫ですよ。ちょっと寝不足で……」
「寝不足? 新婚さんだもんねえ、ほほほ」
老婦人の含み笑いの意味に、イヨリは一拍遅れて気づいた。耳まで赤くなってカルテに視線を落としたが、もはや腰の違和感を隠し通すことは不可能だった。
エンジュシティは、地方の小さな城下町である。
焼けた塔とスズの塔を擁する歴史的な街並みは美しいが、人口はさほど多くない。住民同士の顔は知れ渡り、情報の伝播速度は光ファイバーよりも速い。特に、ジムリーダーの私生活に関する情報は、街の最優先ゴシップとして電光石火で流通する。
月曜の昼には、商店街のおかみさん連中の井戸端会議で話題に上がった。
「イヨリ先生、今日なんだか歩き方がおかしかったわよねえ」
「アステラなんとかってハイカラな機械つけてるのに、腰がふらふらしとったわ」
「まあ、新婚さんだもの。仕方ないわよねえ」
「ジムリーダーも若いんだし、お盛んなのは当然よ」
「だけど、先生の足は普通じゃないでしょう。あんまり無理させたら可哀想よ」
「まあねえ。でもイヨリ先生、顔色は良かったわよ。むしろ綺麗になってた」
「愛されてる女は綺麗になるって言うからねえ」
火曜日。イヨリの往診ルートは変わったが、歩行の違和感は解消していなかった。なぜなら、月曜の夜もマツバは「一日ぶりに離れて寂しかった」と言いながら三回抱いたからである。控えるという概念が、この男の語彙には存在しなかった。
水曜日。薬局の店主が、カウンター越しにイヨリを観察した。
「先生。今日もなんだか……お疲れのようで」
「いえ、元気ですよ……!」
「湿布、出しましょうか。腰用の」
「えっ」
「新婚さんには需要が高いんですよ、この時期」
薬局の店主は、善意百パーセントの笑顔で腰用湿布を差し出した。イヨリは礼を言いながら受け取り、薬局を出た後で壁にもたれて深呼吸した。エンジュの人々は優しい。優しいが、鋭い。鋭すぎる。
噂は、日を追うごとに具体性を増していった。
「ジムリーダーのマツバさん、相当お盛んらしいわよ」
「まあでも、あの人昔から一途だったからね。イヨリ先生にベタ惚れだって有名だし」
「一途なのはいいけど、加減は知ってほしいわねえ」
「デボンの機械がどんだけ良くても、ジムリーダーの腰振りには勝てないってことよ」
「あんた、品がないわよ」
「事実を言ってるだけよ」
木曜日には、焼けた塔の管理人が、仕事帰りのマツバに声をかけた。
「ジムリーダー。奥方を、大事にしてやんなさいよ」
「もちろん、世界で一番大事にしていますよ」
「……大事にする方向が、ちょいとばかり偏っとりゃせんかね」
マツバは首を傾げた。意味が分からない、という顔。この男は本気で分かっていないのである。自分が妻を愛し抜いている行為が、妻の公的な歩容に影響を及ぼし、それが街中に知れ渡っているという事実を。
金曜日。ついに、その噂は——
* * *
【転】父と母、参上
金曜日の午後。ジムの執務室で書類仕事をしていたマツバの元に、一本の連絡が入った。
受付の若手トレーナーが、青い顔で駆け込んでくる。
「ジ、ジムリーダー! ご両親がお見えです!」
マツバの手が止まった。
マツバの両親は、エンジュの旧家の出で、代々霊媒の血筋を継ぐ由緒ある家柄だ。父・マサキヨは温厚だが寡黙な男で、かつてはエンジュジムの副リーダーを務めていた。母・シヅは物腰の柔らかい上品な女性だが、怒ると般若の面を被ったように恐ろしくなることで知られている。
二人が、アポイントメントなしでジムに現れた。これは、只事ではない。
「お父さん、お母さん。どうしたの、急に」
マツバが応接間に入ると、上座に父が、隣に母が、共に正座で座っていた。座卓の上には茶が三つ。マツバの分も、すでに用意されている。
マサキヨが、静かに口を開いた。
「座りなさい、マツバ」
「……はい」
マツバは正座した。嫌な予感がする。父の声のトーンが、平常営業ではない。母に至っては、微笑んでいるのに目が笑っていないという、最も危険な状態にある。
「単刀直入に訊くぞ」
マサキヨの目が、息子を真っ直ぐに捉えた。
「お前、毎晩イヨリさんにどれだけ無理をさせている」
マツバの全身から血の気が引いた。
「な、何のことでしょう……」
「とぼけるな。商店街のキクさんから、お母さんのところに連絡が来たんだ。イヨリさんが毎日ふらふらの腰で歩いとるとな」
「それは、アステア・システムの調整が……」
「デボンの新品デバイスが、結婚して一週間で不調になるわけがなかろう」
父の正論が、マツバの弁明を完膚なきまでに粉砕した。デボンコーポレーションの技術力は世界最高水準である。その最新デバイスが、新婚一週間で不調を起こすなど、製品への冒涜だ。問題はデバイスではなく、デバイスの性能を上回る外的要因——つまりマツバの腰——にある。
母・シヅが、ゆっくりと口を開いた。
「マツバ。お母さんはね、あなたがイヨリさんを大切に想っているのは知っていますよ」
「あ、ありがとうございます……」
「でもね」
シヅの微笑みが、一度消えた。般若だ。般若が出た。
「大切にするということと、消耗させるということは、全く別のことなの。あなた、分かっているの?」
「は、はい……」
「イヨリさんの左足には、後遺症があるのよ。あの子は毎日、自分の足と向き合いながら、ポケモンドクターとしてこの街のために働いてくれているの。その子が、あなたのせいで満足に歩けなくなるなんて、冗談じゃないわよ」
「おっしゃる通りです……」
「しかもね、街中で噂になっているのよ?『ジムリーダーは相当お盛んらしい』って。お母さん、漬物屋さんにまで言われたのよ? 漬物買いに行っただけなのに、『お宅のご子息、お元気だねえ』って。お母さん、何て返せばいいの?」
マツバは、畳を見つめていた。返す言葉がなかった。
マサキヨが、腕を組んだまま続けた。
「マツバ。俺も若い頃は……まあ、お前の気持ちが分からんわけではない」
「お父さん……」
「だが、だからこそ言う。男の役目は、妻を守ることだ。自分の欲で妻の身体を損なうのは、守るとは言わん。それは、略奪だ」
静かだが重い言葉だった。かつてジムの副リーダーを務めた父の言葉には、戦いの中で培われた覚悟が滲んでいる。
「……すみませんでした」
マツバは、深々と頭を下げた。
シヅが、再び微笑みを取り戻した。般若が引っ込んだ。
「謝るのはお母さんたちにじゃなくて、イヨリさんによね」
「はい」
「それとね、マツバ」
「はい」
「あの子を大事にしなさい。身体だけじゃなくて、全部。あの子が笑っていられるように」
「……はい。必ず」
マサキヨが立ち上がり、マツバの肩をぽんと叩いた。
「まあ、そう萎縮するな。お前が嫁さんに夢中なのは、父として嬉しいことだ。ただ、加減を覚えろ。それだけのことだ」
「加減……」
「週に二回くらいにしとけ」
「ふ、二回……!」
マツバの顔に、絶望が走った。週に二回。それは、呼吸を週に二回にしろと言われるに等しい暴論だった。少なくとも、マツバにとっては。
シヅが夫の腕を取り、応接間を出ていく。去り際に振り返り、息子に最後の言葉を残した。
「あ、そうそう。イヨリさんに、お母さんの作った梅干しを渡してね。腰にいいから」
「……はい」
梅干しが腰に効くかどうかは定かではなかったが、母の愛情は確かに詰まっていた。
両親が去った後、マツバは応接間の畳に突っ伏した。
ジムリーダーのプライドが、粉々に砕け散っていた。
* * *
【結】マタニティマーク
それから、二週間。
マツバは——一応——頻度を落とした。毎晩ではなく、二日に一回。それでも父の「週二回」という勅命には遠く及ばなかったが、マツバにとっては血を吐くような自制だった。イヨリの腰への負担は明らかに軽減し、歩行のぎこちなさも改善されつつあった。
商店街の人々も、「おや、先生の歩き方が落ち着いてきたわね」「ジムリーダー、反省したのかしら」と囁き合い、一時の騒動は落ち着いたかに見えた。
しかし、ある日のことだった。
花屋のおかみさんが、往診帰りのイヨリとすれ違った。いつもの白衣。いつもの黒髪。いつもの穏やかな微笑み。しかし、おかみさんの目は、イヨリの往診カバンに見慣れないものがぶら下がっているのを捉えた。
丸い、ピンク色のキーホルダー。中央に、赤ちゃんのシルエット。
マタニティマークだった。
おかみさんの口が、大きく開いた。
「へっ……えっ……!?」
イヨリは、花屋の前で立ち止まった。おかみさんの視線が自分の鞄に注がれていることに気づき、少し恥ずかしそうに、でも幸せそうに微笑んだ。
「おかみさん。実は……」
イヨリは、自分の下腹部にそっと手を当てた。まだ目立たない、平らなお腹。しかしその奥に、小さな小さな命が宿っている。
「八週目なんです」
おかみさんは、三秒間あんぐりと口を開けた後、盛大に拍手した。
「おめでとう!! おめでとうございます、先生!!」
ニュースは、光よりも速くエンジュの街を駆け巡った。
花屋から漬物屋へ。漬物屋から薬局へ。薬局から八百屋へ。八百屋から焼けた塔の管理人へ。管理人からジムのイタコ衆へ。イタコ衆からジムの若手トレーナーへ。
そして——
「ああ、なるほどね」
商店街の中心にある休憩ベンチで、おかみさん連中が膝を打った。
「そういうことだったのね。ジムリーダー、張り切ってたわけだ」
「道理でお盛んだったわけよ。子作りに励んでたのね」
「いやあ、でも八週目ってことは……結婚してすぐだわよねえ。さすが若い人は違うわ」
「マツバさん、昔からイヨリ先生にベタ惚れだったもんね。そりゃあ張り切るわよ」
「でも、もっと早く言ってくれたらこっちも祝えたのに」
「妊娠初期は安静にしなきゃいけないから、言えなかったんでしょうよ」
「……あら。安静にしなきゃいけないのに、あのジムリーダーは毎晩……」
一同、沈黙。
「……まあ、あの人は加減を知らないからね」
「イヨリ先生がしっかりしてるから大丈夫よ。お医者様だもの」
「そうねえ。でも、誰かマツバさんに『妊婦の妻を労われ』って言った方がよくない?」
「ご両親がもう言ったんじゃないの?」
「言って効いてないから問題なのよ」
おかみさんたちの議論が白熱する中、当の本人はジムの執務室で、イヨリから渡されたエコー写真を眺めていた。
まだ豆粒のような影。しかし、そこに心臓が動いている。イヨリの身体の中で、二人の子供が育っている。
マツバの目から、涙が一筋こぼれた。
「イヨリちゃん」
「はい」
「僕たちの子供だ」
「はい。マツバさんと、私の子供です」
「……守るよ。二人とも。絶対に」
イヨリの手を取り、額に押し当てた。温かくて、柔らかくて、生きている手。この手の持ち主の中に、もう一つの命がある。その事実の重みが、マツバの魂を根底から揺さぶった。
「マツバさん」
「うん」
「安定期に入るまでは、その……控えめにしてくださいね」
「……っ」
「お医者様として言っています」
「……何回まで?」
「週に、一回……いえ、二回までなら、大丈夫、です」
イヨリの頬が赤い。医師として冷静に言おうとしているのに、内容が内容だけに照れが隠せていない。
「……三回は?」
「だめです」
「二・五回は?」
「半回って何ですか」
「途中で止める」
「マツバさんに途中で止める能力はありません」
「……否定できない」
二人は見つめ合い、それから同時に笑った。エコー写真の豆粒が、二人の間で静かに鼓動している。
遠く、エンジュの街並みの向こうで、スズの塔の鐘が鳴った。新しい命の誕生を予感させるかのように、澄んだ音色が秋の空に広がっていく。
エンジュシティ、商店街。
花屋のおかみさんが、店先にピンクのカーネーションを飾りながら、通りすがりの常連客に声をかけた。
「ねえ、聞いた? ジムリーダーのところ、赤ちゃんだって」
「聞いた聞いた。いやあ、若いっていいわねえ」
「ジムリーダー、張り切ってたもんねえ」
「張り切りすぎよ。イヨリ先生がもたないわ」
「でも、幸せそうだったわよ、先生。顔がね、ぴかぴかに光ってた」
「愛されてる女は輝くのよ。昔からそう言うじゃない」
おかみさんたちは、笑顔で頷き合った。
焼けた塔の向こうに広がる青い空。エンジュの秋は深く、穏やかで、新しい家族の始まりを静かに祝福していた。
― 了 ―
あとがき by 佐藤美咲
主ッ!! このリクエスト、あたしの全力の全力の全力を叩き込んだわよ!!
まず「七日七晩」のダイジェストよ!! 月曜日の初夜が四回で、最終日の日曜日が五回で、合計二十三回!! マツバさん、あんた二十代の基礎体力どうなってるのよ!? ジムリーダーの体力って、戦闘だけじゃなくてそっちにも使われてるの!?
そしてエンジュの商店街の人々の噂話パートね、これが書いてて最高に楽しかった!!「デボンの機械がどんだけ良くても、ジムリーダーの腰振りには勝てない」って一体誰が言い出したのよ!! アステア・システムの設計者が聞いたら泣くわよ!!
ご両親の説法シーンも渾身のコメディよ。お父さんの「週に二回にしとけ」にマツバさんが絶望する顔、読者の皆さんにも見えたでしょう? そしてお母さんの「漬物買いに行っただけなのに『お宅のご子息、お元気だねえ』って言われた」のくだり、お母さんの気持ちを考えると涙が出るわ(笑いの方の涙よ)。
でもね、最後のマタニティマークのオチで全部持っていかれるの。「ジムリーダー、張り切ってたわけだ」で街中が納得するの、最高のオチでしょう!? そしてエコー写真を見て泣くマツバさんと、「半回って何ですか」の夫婦漫才。こういう「笑えるけど泣ける」が、あたしの書きたかったマツバとイヨリなのよ。
この二人の子供、絶対に世界一幸せに育つわ。間違いないわ。だって、こんなに愛し合ってる両親の元に生まれるんだもの♡♡