エンジュシティの夜は、深い。
スズの塔から吹き降ろす風が、古い町並みの路地を縫って流れていく。瓦屋根の上を月光が這い、石畳に落ちる影が時折ゆらりと揺れる。人間の目には映らないものが、この街には息づいている。生者の世界と死者の世界が隣り合わせに存在する、日本で唯一の場所。
それを見守るのが、僕の仕事だ。
エンジュシティジムリーダー、マツバ。千里眼の使い手にして、霊と交わす者。この街の均衡を保ち、生と死の境界線を見張る番人。
――そして今は、一人の女性の、ただの夫。
深夜二時。ジムの当直室で、僕は目を閉じていた。
千里眼を展開する。意識が肉体を離れ、エンジュシティの上空に浮かび上がる。見えるのは、物理的な景色ではない。この街に満ちる霊的な気の流れ。スズの塔から湧き出る浄化の光。焼けた塔の底に澱む、千年分の怨嗟。それらが複雑に絡み合いながら、危ういバランスを保っている。
異常はない。今夜も、街は静かだ。
意識を戻す直前、一つだけ確認する。
自宅。和室。布団の中で、小さな寝息を立てている人影。セミロングの黒髪が枕に広がっている。安らかな寝顔。胸が規則的に上下している。
――イヨリちゃん。
無事だ。今夜も、安全に眠っている。
それを確認して、ようやく僕の心は凪ぐ。千里眼を閉じて、当直室の椅子に深く身を預けた。
ジムリーダーとしての夜回りは、月に数回ある。霊的な異変が起きやすい新月や満月の夜、季節の変わり目、スズの塔の祭礼の前後。そういった日には、ジムに詰めて街の監視を行う。
以前は、何も思わなかった。当たり前の職務だった。
でも今は、違う。
当直の夜は、イヨリちゃんが一人で眠る夜だ。僕がいない寝室で、あの小さな身体が布団にくるまっている。寂しくないだろうか。怖くないだろうか。暖房は切れていないだろうか。
――心配だ。
ゲンガーが影から滲み出てきて、僕の足元に座った。こいつは僕の感情に敏感だ。主人が落ち着かないのを察したのだろう。
「……大丈夫だよ。ちょっと、考え事をしていただけだ」
ゲンガーが不審そうな目でこちらを見ている。嘘を見抜かれている。ゴーストタイプは生者の心を読むのが得意だ。
「分かったよ。イヨリちゃんの様子を見てきてくれるか」
ゲンガーが影に沈んだ。数分後、戻ってきて、にやりと笑った。大丈夫だという合図だ。布団を蹴飛ばしていたのを直してきたらしい。あの子は寝相が悪い。冬なのに布団から足が出ていることがよくある。
「……ありがとう」
感謝を伝えて、僕はもう一度千里眼を展開した。街の見回りに意識を戻す。
エンジュシティのジムリーダーの仕事は、ポケモンバトルだけではない。
この街は特殊だ。スズの塔と焼けた塔。二つの塔が生と死のバランスを司り、ホウオウとルギアの伝説が息づく聖域。その均衡が崩れれば、街全体に霊的な災厄が降りかかる。
だから僕は、見張る。
朝。ジムのトレーナーたちとのミーティング。
「リーダー、北区の旧武家屋敷群で、また不審な霊圧の上昇が観測されました」
「どの程度?」
「微弱ですが、先月比で一・五倍。住民からの目撃情報はありません」
頷いて、地図を広げた。北区の旧武家屋敷群。江戸時代から残る古い建物が密集している地域だ。歴史が長い分、霊的な残留も多い。普段は安定しているが、季節の変わり目には揺らぐことがある。
「午後、僕が直接見に行く。ムウマージとヨノワールを連れていく」
「了解です」
ミーティングを終えて、ジムの執務室に戻った。机の上に、イヨリちゃんからのメッセージが入っていた。
『今日のお昼ごはん、ジムに届けますね。お味噌汁と、昨日の残りの煮物です。――イヨリ』
メッセージの最後に、小さな猫の絵文字が付いている。あの子は文面は真面目なのに、絵文字の使い方だけが異常に可愛い。
口元が緩むのを自覚した。返信を打つ。
『ありがとう。気をつけて来てね。――マツバ』
送信してから、「気をつけて」の四文字に、僕の全てが込められていることに気づいた。
気をつけて。
その言葉の裏にあるのは、「君に何かあったら、僕はこの街を守る理由を失う」という、切実すぎる本音だ。
昼。イヨリちゃんがジムに来た。
白衣の上にダッフルコートを羽織って、両手で重箱を抱えている。冬の冷たい風に頬を赤くして、少しだけ息を切らしている。小走りで来たのだろう。
「マツバさん、お昼ごはんです」
「ありがとう。わざわざ持ってきてくれなくても良かったのに」
「いえ。昨日作りすぎてしまったので、食べてもらわないと困ります」
嘘だ。この人はいつも「作りすぎた」と言って、僕に届けてくれる。僕のために作ったのだと素直に言えないところが、イヨリちゃんらしい。
執務室の応接テーブルで、二人で昼食を取った。味噌汁。煮物。卵焼き。白いご飯。どれも丁寧に作られている。イヨリちゃんの料理は、医者らしく栄養バランスが完璧で、でも味付けは優しい。
「今日の午後、北区の見回りに行く」
「霊圧の異常ですか?」
「軽微なものだけどね。念のため」
イヨリちゃんが箸を止めた。僅かに眉が寄る。心配しているのだ。
「危険はありますか」
「ないよ。微弱な残留霊圧の調整だから」
「……本当に?」
「本当だよ。嘘はつかない」
イヨリちゃんが僕の目を真っ直ぐに見た。琥珀色の瞳が、僕の表情を観察している。医者の目だ。患者の嘘を見抜く時の、鋭い眼差し。
「……信じます」
数秒の沈黙の後、彼女はそう言って箸を取り直した。信じてくれた。でも、その数秒間の逡巡が、彼女の不安の深さを物語っている。
僕は彼女の不安を解消することはできない。この仕事を続ける限り、危険は常に隣り合わせだ。僕にできるのは、必ず無事に帰ること。それだけだ。
「夕飯までには帰るよ」
「……はい。待ってます」
その「待ってます」の三文字に、どれほどの重みがあるか。僕には分かる。
イヨリちゃんはかつて、目の前で両親を失った。大切な人が帰ってこない夜を、知っている。あの子の「待ってます」は、祈りに近い。
午後。北区の旧武家屋敷群。
ムウマージとヨノワールを従えて、古い路地を歩いた。冬の午後の光が、砂利道に長い影を落としている。塀の向こうから、枯れた庭木の枝が伸びている。人の気配は少ない。
千里眼を半開きにして、霊圧を探る。
――あった。
旧庄屋の屋敷跡。もう何十年も人が住んでいない廃屋。その井戸の底に、僅かな霊圧の澱みがある。悪意のあるものではない。長い年月の中で溜まった、感情の残滓だ。喜びも、悲しみも、怒りも、全てが混ざり合って、形のない靄になっている。
放置しても害はない。でも、このまま蓄積すれば、いずれ形を成すかもしれない。予防的に浄化しておくべきだ。
ヨノワールに指示を出した。霊圧を穏やかに拡散させる。強引な除霊ではない。長い時間をかけて溜まったものを、ゆっくりと風に溶かしていく。僕が好むやり方だ。
作業をしながら、考えていた。
この街を守ることと、イヨリちゃんを守ること。それは僕の中では、同じ一本の線の上にある。
エンジュシティが安全であれば、イヨリちゃんも安全だ。この街の霊的な均衡が保たれていれば、彼女が夜一人で眠っていても、悪しきものが近づくことはない。
だから僕は、街を守る。
でも、それだけでは足りない。
この世界には、霊以外にも彼女を脅かすものがある。人間の悪意。病気。事故。自然災害。予測できない不幸。千里眼で見通せるものには限りがある。見えないものが、一番怖い。
だからこそ――できる限りのことをする。
浄化作業を終えて、帰路についた。
北区から自宅までの道を歩きながら、商店街を通った。顔見知りの店主たちが声をかけてくる。
「マツバさん、お疲れ様です!」
「今日も見回りですか? ありがとうございます」
「奥さんによろしくね!」
奥さん。イヨリちゃんのことだ。この街では、僕たちの結婚はすっかり知れ渡っている。ジムリーダーの妻がポケモンドクターで、エンジュ大学で講義を持っている。街の人たちはイヨリちゃんのことを慕ってくれている。
和菓子屋のおかみさんが、「これ、奥さんに」と言って包みを手渡してくれた。栗まんじゅうだ。イヨリちゃんが好きな和菓子。この街の人たちは、彼女の好みまで知ってくれている。
ありがたい、と思った。
僕一人では、イヨリちゃんを守り切れない。でも、この街の人たちが彼女を見守ってくれている。僕がジムにいる間も、見回りに出ている間も、彼女はこの街に守られている。
僕が街を守り、街がイヨリちゃんを守る。
そういう循環が、いつの間にかできていた。
帰宅したのは、夕方四時過ぎだった。
「ただいま」
玄関を開けた瞬間、温かい空気と出汁の匂いが流れてきた。台所から、かちゃかちゃと食器の音がする。
「おかえりなさい!」
台所からイヨリちゃんが顔を覗かせた。エプロンをつけている。頬に小麦粉が付いている。何か焼き菓子でも作っているのだろうか。
「無事に終わった?」
「うん。大したことはなかった。予防的な浄化だけだよ」
「そうですか。よかった」
安堵の表情。この人の「よかった」には、千里眼で聞こえないほどの深い吐息が混ざっている。ずっと心配していたのだ。昼食の時に「信じます」と言ったけれど、僕がこの玄関を通って帰ってくるまで、本当には安心できなかったのだろう。
そんな思いをさせていることが、申し訳なくて、同時にどうしようもなく愛おしい。
「はい、これ。商店街のおかみさんから」
栗まんじゅうの包みを渡した。イヨリちゃんの目が輝いた。
「わ……! 田中屋さんの栗まんじゅう!」
「イヨリちゃんに、って」
「嬉しい……! 後で一緒に食べましょう」
子どものように喜ぶ横顔。この表情を見るために、僕はあの商店街を通って帰ってきたのだ。
手を洗って居間に入ると、こたつが用意されていた。横に、温かいほうじ茶が置いてある。僕が帰ってくる時間を見越して、淹れてくれていたのだろう。
「今日、何かあった?」
こたつに入りながら聞いた。イヨリちゃんがエプロンを外して、向かいに座る。
「午前中にエンジュ大学でオンライン講義をして、午後はアステア・システムの論文の査読作業をしていました。それから、ロトムと一緒に新しいデータセットの前処理を……」
真剣な顔で一日の報告をしてくれる。学術的な内容がほとんどだ。でも、僕は全部聞く。彼女の世界を理解したいから。僕には医学も情報工学も分からないけれど、彼女が何に情熱を注いでいるかは、分かりたい。
「すごいね。イヨリちゃんは」
「え? 何がですか」
「全部。大学の講義も、論文の査読も、システムの開発も。全部を同時にこなしてる」
「そんな……マツバさんだって、ジムリーダーの業務をしながら街の治安維持をして、スズの塔の管理もしているじゃないですか」
「僕のは力仕事だからね。君みたいに頭を使う仕事じゃない」
「力仕事なんてとんでもない。千里眼で街全体の霊圧を管理するのは、膨大な情報処理ですよ。脳にかかる負荷は相当なはずです」
医者の目でそう指摘されると、返す言葉がない。確かに、千里眼の長時間使用は偏頭痛の原因になるし、深い集中は精神力を削る。でも、そんなことをイヨリちゃんに心配させたくない。
「大丈夫だよ」
「……またそう言う。マツバさんの『大丈夫』は、五割の確率で大丈夫じゃないです」
「手厳しいね」
「事実です。データに基づいています」
笑った。この人は、僕の嘘を統計的に解析しているのだ。何割の確率で「大丈夫」が本当なのか。学者として真面目に数えている姿が目に浮かぶ。
「じゃあ、今日は本当に大丈夫だよ。正直に」
「……本当ですか」
「本当」
イヨリちゃんが少しだけ笑った。信じてくれた、今度は本当に。
夕食の後、縁側で二人で月を見ていた。
冬の月は、高い。澄んだ空気の中で、鋭い白い光を放っている。庭の苔が月光に照らされて、仄かに青白く光っている。
イヨリちゃんは僕の肩にもたれかかっていた。小さな体温。コートの上からでも分かる、華奢な肩の骨格。この肩が背負っているものの重さを思うと、胸が締め付けられる。
ポケモンドクターとして。アステア・システムの開発者として。大学講師として。そして、かつて目の前で両親を失った少女として。
この人は強い。誰よりも強い。でも、その強さの下に、脆くて柔らかい部分があることを、僕は知っている。
「マツバさん」
「うん」
「今日、千里眼で私のことを見ましたか」
どきりとした。深夜に様子を確認したことを、聞いているのだろうか。
「……見たよ。深夜に一度だけ」
「やっぱり」
イヨリちゃんが小さく笑った。怒ってはいない。
「何で分かったの」
「朝起きた時、布団がちゃんとかかっていたので。私、寝相が悪いから、自分で直したはずがないんです。ゲンガーに直してもらったんだろうなって」
「……敵わないな」
彼女という人間の観察眼は、千里眼に勝る。
「嫌じゃない? 覗き見されてるみたいで」
「嫌じゃないです。安心します」
イヨリちゃんが僕の腕に自分の腕を絡めた。冷たい指先が、僕の手のひらの中に潜り込んでくる。
「マツバさんが見守ってくれてると思うと、安心して眠れるんです」
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥が熱くなった。
この人は、かつて守られなかった夜を知っている。大切な人がいなくなった朝を知っている。だからこそ、「見守ってくれている」という事実が、彼女にとってどれほどの意味を持つか。
手のひらの中の冷たい指を、そっと握った。温めるように。
「……ずっと見守るよ。千里眼が使えなくなっても、この目で」
「大袈裟ですよ」
「大袈裟じゃない。本気だよ」
イヨリちゃんが顔を上げた。月明かりの中で、琥珀色の瞳が濡れて光っている。泣きそうな顔。でも、泣かない。この人は簡単には泣かない。
「……ありがとうございます」
静かに、確かに。その声には、僕の言葉を全部受け止めてくれた重みがあった。
夜。布団の中で、イヨリちゃんの寝息を聞いている。
僕の胸の中に頭を埋めて、小さく丸まっている。規則的な呼吸。温かい体温。ラベンダーのシャンプーの香り。
千里眼を、薄く展開した。
自宅の周囲に、異常はない。庭にはゲンガーが影の中で見張っている。屋根の上では、ムウマージが静かに浮遊している。二匹とも、僕が命じなくても、イヨリちゃんがいる夜は自発的に警護についてくれる。主人の大切なものを、彼らも理解しているのだ。
千里眼の範囲を広げる。エンジュシティ全体を俯瞰する。
スズの塔。安定している。焼けた塔。異常なし。北区の浄化した地域。澄んでいる。商店街。人々の温かい生活の気配が、小さな光となって街を包んでいる。
この街は――優しい。
僕が守り、街が守り、ポケモンたちが守る。その何重もの輪の中心に、この人がいる。
千里眼を閉じた。
腕の中のイヨリちゃんを、少しだけ強く抱きしめた。起こさないように。でも、離したくなくて。
「……ん」
イヨリちゃんが寝言のように声を漏らした。僕の胸に、もう少しだけ深く顔を埋める。
この温もりを守るために、僕は存在している。
ジムリーダーとしてではない。千里眼の使い手としてでもない。
ただ、この人を愛する者として。
翌朝。
先に目が覚めた僕は、いつものようにメモを書いた。
『先にジムに行ってくる。今日は午前中で終わるから、昼には帰るよ。一緒にお昼を食べよう。――マツバ』
書き終えて、少し考えた。
そして今度は、躊躇わなかった。
メモの最後に、小さく書き足す。
『君がこの街にいてくれることが、僕の千里眼で見る一番美しい景色です。――好きだよ』
枕元に置いて、寝顔に一つキスを落として、朝のジムに向かった。
冬の朝の空気が冷たい。息が白い。石畳を歩く足音が、静かな街に響く。
スズの塔が、朝日を受けて金色に光っていた。千年以上この街を見守ってきた塔。僕は、あの塔ほど長くは生きられないだろう。でも、僕が生きている限り――この街を、そしてこの街で生きる彼女を、守り続ける。
ジムの門をくぐった。ゲンガーとムウマージが、待ちかねたように迎えてくれた。
「さて、今日も仕事だ」
僕は千里眼を開いた。
エンジュシティの朝が、光の中に広がっていく。人々が目覚め、ポケモンたちが活動を始め、街が息を吹き返す。
その光景の隅に、小さな和室が映った。
枕元のメモに気づいたイヨリちゃんが、布団の中で顔を真っ赤にしている。メモを胸に抱いて、布団に顔を埋めて、足をばたばたさせている。
――ああ。
思わず、笑みが零れた。
世界で一番、守りたい景色。千里眼で見る一番美しい光。
それは、スズの塔でも、ホウオウの翼でも、満月の夜の神聖な結界でもない。
布団の中でメモ一枚に悶絶している、あの小さな女性の姿だ。
今日も僕は、この街を守る。
この街が好きだからじゃない。
この街に、彼女がいるからだ。
――エンジュジムリーダー・マツバ。
千里眼の使い手。霊と交わす者。
エンジュシティの番人にして、星埜イヨリの騎士。
守るべきものは、たった一つ。
あの笑顔が、明日も見られること。ただそれだけだ。
― Fin. ―