パパの声が聞こえた
【一】浜辺
砂浜が白い。
どこまでも白くて、太陽の光を反射して、まぶしくて、目を細めた。
波の音がする。遠くの、もっと遠くの、ずっと向こうの海から。規則正しい波の音。寄せては返す、あの音。ざあん。ざあん。ざあん。
裸足の足の裏に、砂が柔らかい。
温かい砂だ。太陽に焼かれた砂。指の間に入り込んで、くすぐったくて、歩くたびにじゃりっと音を立てる。
左手を、大きな手が握っている。
パパの手だ。
ゴツゴツしていて、分厚くて、日に焼けていて、でも優しい手。イヨリの小さな手をすっぽりと包み込んでくれる手。水産加工会社で毎日魚を捌いていた、海の匂いがしみついた手。家族のために懸命に働いてくれた、誇り高い手。
パパの手を握って歩く浜辺が、好きだった。
「見て、パパ。貝殻」
「おお、きれいだな。ママに見せようか」
パパの声が低くて、温かくて、胸の奥がじんわりする。
もう片方の手には、さっき拾った巻き貝。薄いピンク色の、小さな巻き貝。耳に当てると海の音がするって、パパが教えてくれた。
ママは少し後ろを歩いている。つばの広い帽子をかぶって、白いワンピースを着て、「お兄ちゃん、あんまり遠くに行っちゃダメよ」と声をかけている。お兄ちゃん——イゾウ兄さんが波打ち際で水を蹴って遊んでいる。ズボンの裾がびしょ濡れだ。
家族旅行。ホウエン地方とジョウト地方の間にある、名前も知らない小さな島の浜辺。パパが「いい場所があるんだ」と言って連れてきてくれた。
空が青い。雲が白い。海が光っている。
幸せだ。
幸せだった。
「イヨリ」
パパが呼んだ。
イヨリは顔を上げた。パパの顔を見上げた。逆光で眩しくて、パパの輪郭が金色に縁取られていた。
「イヨリ」
もう一度呼んだ。
その声が——おかしい。
さっきまで温かかったパパの声が、どこか遠い。エコーがかかったように反響する。浜辺が廊下になり、波の音が金属音になり、太陽が消えて、光が——
赤い。
イヨリは瞬きをした。
砂浜がない。海がない。太陽がない。パパの手がない。
あるのは——
コンクリートの床。薄暗い部屋。天井の蛍光灯がちかちかと不規則に明滅している。空気が重い。鉄の匂いがする。生臭い、濃い——
血の匂い。
足元が赤い。
靴が赤い。靴下が赤い。床が赤い。壁に飛沫が散っている。
そして——
パパが。
パパが倒れている。
うつ伏せに。大きな背中をこちらに向けて。動かない。さっきまでイヨリの手を握っていた手が、床の上に投げ出されている。指が開いたまま。掴もうとして、掴めなかった何かの形で止まっている。
ママが。
ママも倒れている。パパの隣で。白いワンピースが赤く染まっている。つばの広い帽子が脱げて、髪が床に広がっている。目が——ママの目が——開いたまま——イヨリを見て——
やめて。
やめて。やめて。やめてやめてやめて。
声が出ない。叫びたいのに。喉が潰れたように声が出ない。
血の海の中にイヨリは立っている。十二歳の体で。十二歳の足で。血が靴底にべとつく。一歩踏み出すたびにべちゃりと音がする。
パパ。
パパ。
パパ起きて。ママ起きて。起きてよ。なんで動かないの。なんで——
「パパァッ!!」
声が——出た。
* * *
イヨリの目が開いた。
暗い天井。見慣れた天井。エンジュシティの自宅の、寝室の天井。
心臓が暴れている。胸の中で何かが爆発し続けているような、激しい動悸。汗が全身に滲んでいる。パジャマが背中に張りつく。シーツが湿っている。
息ができない。呼吸の仕方を忘れたように、胸がひくひくと痙攣する。
隣に——
マツバがいるはずだ。いつもの定位置——イヨリを抱きしめて眠るマツバ。
いた。いる。
マツバの腕がイヨリの腰に回っている。温かい体温。規則正しい寝息。
でも今はその温もりが——怖い。
温もりの記憶が、パパの手の温度と重なって、あの砂浜と、あの血の海と、あの——
イヨリはマツバの腕をそっと外した。起こさないように。静かに。震える手で。
布団から出た。
立ち上がった。足が震えている。左足が特にひどい。二年前の事故で損傷した左足。デバイスをつけていなければ、まともに歩くことさえ困難な左足。
デバイスは——ベッドの脇のテーブルにある。
取らなかった。
取る余裕がなかった。
靴は——玄関にある。
上着は——クローゼットにある。
携帯端末は——充電器の上。ムクホークのボールは——玄関の棚。
何も持たなかった。何も身につけなかった。
パジャマのまま。裸足のまま。
イヨリは寝室のドアを開けて、廊下を歩いて、玄関の鍵を開けて、外に出た。
【二】逃走
春の夜。
午前二時のエンジュシティ。桜が散り始めた三月末。気温は七度。
裸足の足の裏に、アスファルトが冷たかった。
砂浜の温かさとは、真逆の冷たさ。砂のやわらかさとは、真逆の硬さ。現実の冷たさと硬さが足裏に突き刺さるように伝わってくる。
それでもイヨリは歩いた。
なぜ歩いているのか、自分でもわからなかった。どこに向かっているのかも。ただ——あの寝室にいることができなかった。温かい腕の中に、今は、いられなかった。
温もりが怖かった。
パパの手の温度を思い出したから。思い出した途端に、あの血の海が、あの動かないパパとママの体が、閉じた目蓋の裏に焼きついて離れなくなったから。
左足が痛い。
デバイスなしで歩くと、体重が均等にかからない。左足首が内側に折れるように曲がる。一歩踏み出すたびに、膝から下に鈍い痛みが走る。それでも足を止められない。止まったら、あの夢の中に引き戻される気がした。
「——っ」
石畳に足の指をぶつけた。爪の先に鋭い痛み。血が出たかもしれない。暗くてわからない。わからなくていい。
イヨリは歩いた。
エンジュシティの夜は静かだ。古い街並み。木造の家屋が連なる住宅街。街灯が等間隔に立っている。オレンジ色の光。桜の花びらが時折風に乗って飛んでくる。昼間なら綺麗だと思うだろう。今は何も思えない。
頭の中が、あの部屋のままだ。
十二歳のイヨリが見た、あの部屋。
ホウエンとジョウトの間の、名前も知らない島の、廃墟にされた倉庫の中。誘拐犯に連れ込まれた、あの場所。両手を縛られて、泣くことしかできなかった、あの場所に——パパとママが来てくれた。
来てくれなければよかった。
そんなことは思っていない。思っていないのに、十五年経った今でも、悪夢を見るたびにその考えが頭をよぎる。来てくれなければ、パパとママは死ななかった。
イヨリの居場所を見つけたのは——マツバだった。
千里眼を持つと言われるエンジュシティの少年。当時まだ十四歳。イヨリより二つ上の少年。
警察の捜査が難航する中、藁にもすがる思いでパパとママはマツバのもとを訪ねた。マツバは「見えます」と言った。「海の近くの、古い建物の中に、女の子がいます」と。
そしてマツバは、警察にではなく、目の前で娘を案じて涙を流す両親に直接その場所を教えてしまった。自分の娘が泣いている場所を知って、ただの会社員だったパパは、警察の到着なんて待っていられなかったのだ。
そして——
あの血の海。
パパがイヨリを庇って。ママがパパを庇って。二人とも、もう——
「……ッ、は、……ぅ、……」
イヨリの呼吸が乱れた。過呼吸になりかけている。膝が折れた。住宅街の路地の、誰かの家の塀の前で、イヨリは崩れ落ちた。裸の膝がアスファルトを擦った。
冷たい。
寒い。
パジャマ一枚。素足。三月の夜。七度。
体が震えている。寒さと、恐怖と、悲しみで。
「パパ……」
声が漏れた。小さな、掠れた声。十二歳の時と同じ声。二十七歳になっても変わらない、あの日の声。
「ママ……」
涙が頬を伝った。温かい涙。頬を流れて、顎先から落ちて、アスファルトに小さな染みを作った。
イヨリは自分の体を両腕で抱きしめた。
温かくない。マツバの腕とは違う。自分の体を自分で抱いても、温かくならない。
でも——マツバの腕を思い出すと、パパの手を思い出してしまう。温もりが怖い。温もりが恋しい。温もりが——
矛盾している。
わかっている。
でも止められない。
イヨリは立ち上がった。左足が激しく抗議した。膝をついた時に擦り傷ができたらしい。痛い。構わず歩いた。
焼けた塔のシルエットが、夜空に黒く浮かんでいた。
あの塔の方へ、無意識に足が向いている。なぜかはわからない。マツバの場所だからかもしれない。マツバに関わる場所だから、つまりは——自分の居場所に近い場所だから。
でもマツバの腕が、今は、怖い。
矛盾した足が、矛盾した心のまま、焼けた塔の方へ歩いていた。
【三】あの日のこと
歩きながら、イヨリは考えていた。
考えたくないのに。思い出したくないのに。悪夢がこじ開けた記憶の蓋が、もう閉じない。
十二歳。
家族四人で島に来ていた。パパとママとイゾウ兄さんとイヨリ。
浜辺で貝殻を拾った日の翌日だった。
イヨリは一人で、宿の近くの林の小道を歩いていた。野生のポケモンを観察するのが好きだった。将来ポケモンの医者になりたいと言っていた頃だ。
そこで——掴まれた。
後ろから。口を塞がれて。抵抗する間もなく、知らない車に押し込まれて、知らない場所に連れて行かれた。
怖かった。
怖くて、泣いて、でも泣いても誰も来なくて。
何日経ったのかもわからなかった。暗い部屋の中で、手を縛られたまま。食事は一日一回。水は半日に一回。犯人の顔は覚えていない。覚えたくなかった。記憶が自動的に消去したのだと思う。
そしてパパとママが来た。
扉が開いて。パパの声が聞こえて。「イヨリ!」という声が聞こえて。
イヨリは泣いた。嬉しくて泣いた。助かったと思った。
でも——
犯人には仲間がいた。パパとママが踏み込んだ瞬間に——
その先は——思い出したくない。思い出したくないのに、夢が全部見せた。
パパが倒れた。ママが倒れた。血の海が広がった。
イヨリは叫んだ。叫んで、叫んで、声が枯れるまで叫んだ。
警察が来たのはその後だった。両親からの通報を受けて急行したが、間に合わなかった。
親なのだ。
自分の子供が泣いている場所を知って、「警察に任せましょう」と言える親がどこにいる。
パパは——イヨリを守って死んだ。
ママは——パパとイヨリを守って死んだ。
二人は——イヨリのために死んだ。
その事実が、十五年経った今も、イヨリの胸の底に錘のように沈んでいる。
普段は沈んでいるだけだ。日常生活に支障はない。医師として働いている。マツバと結婚して、幸せに暮らしている。笑って、食べて、眠って、朝を迎えることができている。
でも時々——
夢が、蓋を開ける。
夢の中でパパが「イヨリ」と呼ぶ。あの声で。あの温度で。
目が覚めると、パパはいない。ママもいない。
いるのは——マツバだけだ。
マツバは優しい。マツバは温かい。マツバはイヨリを毎晩抱きしめて眠ってくれる。
でも今夜は——その温もりが、パパの手と重なってしまった。温もりの記憶が、喪失の記憶と直結してしまった。
だから逃げた。
温もりから逃げた。
【四】焼けた塔の麓
足が止まった。
焼けた塔の麓の桜並木。来週の花見の会場になる場所。
桜が——咲いている。
七分咲き。街灯のオレンジ色の光に照らされて、薄桃色の花弁が夜風に揺れている。ちらちらと花びらが散って、アスファルトの上に薄い絨毯のように積もっている。
綺麗だった。
綺麗なのに、涙が止まらなかった。
イヨリは桜の木の根元にしゃがみ込んだ。木の幹に背中を預けて、膝を抱えた。裸足の足が冷たい。足の指の感覚がもうほとんどない。左足首が腫れている気がする。膝の擦り傷が、乾いた血でぱりぱりしている。
「……パパ」
桜の木に向かって呟いた。
「……ごめんなさい」
何に対する謝罪なのか。
助けに来てくれて死なせてしまったこと? 幸せに生きていること? マツバと出会って、家庭を持って、パパとママがくれなかった——くれるはずだった——時間を、別の誰かと過ごしていること?
全部だ。全部にごめんなさい。
「……わたし、幸せなんです。マツバさんと——とても幸せなんです」
桜の花びらが一枚、イヨリの膝の上に落ちた。
「でも時々——パパとママのことを思い出すと——幸せでいることが、申し訳なくなる」
声が震えた。
「パパとママは死んだのに。わたしを助けるために死んだのに。わたしだけ生きて、幸せになって——それでいいのかなって」
桜が、答えてくれるはずもない。
風が吹いた。花びらが舞った。冷たい風が裸の腕と足を撫でて、ぶるりと体が震えた。
寒い。
本当に、寒い。
体温が下がっている。こんな格好で三月の夜に外にいたら低体温症になる。医師として、自分の体がどういう状態にあるかは理解している。知識はある。判断力はない。それが今のイヨリだった。
目を閉じた。
瞼の裏に、浜辺が見える。パパの手が見える。ママの白いワンピースが見える。お兄ちゃんが波打ち際で笑っている。
きれいな記憶。
きれいすぎて——その後に続く記憶が、より一層残酷に映る。
「……さむい」
小さく呟いた。
マツバの腕が恋しい、と思った。
さっきまで怖かったのに。温もりが怖かったのに。
寒さが限界を超えると、温もりへの渇望が勝る。人間の体は正直だ。
でも足がもう動かない。左足が完全に言うことを聞かない。デバイスなしで無理に歩いた代償。左足首が、腫れて、熱を持って——冷たい体の中で左足首だけが痛みで熱い。
「……マツバ、さん」
呼んだ。
届くはずのない声で。午前二時の、誰もいない桜並木で。
「マツバさん……」
マツバにはわかるだろうか。
千里眼で——イヨリの姿が見えるだろうか。
見えてほしい。見つけてほしい。でも、こんな姿を見せたくない。でも——
「……みつけて」
声にならない声が、桜の花びらに消えた。
【五】見えた
マツバの目が開いた。
午前二時十七分。
隣が——空いている。
イヨリがいない。
その事実を認識するのに一秒。体が起き上がるのに二秒。布団が乱れていること、デバイスがテーブルに残っていること、携帯端末が充電器の上にあること——それらを確認するのに三秒。
全身の血が凍った。
「イヨリ」
声を出した。返事がない。
寝室を出た。廊下を見た。リビングを見た。キッチンを見た。浴室を見た。いない。
玄関を見た。鍵が開いている。イヨリの靴がある。全部ある。
靴がある。
靴を——履かずに——出た?
三月の夜に。パジャマで。裸足で。デバイスなしで。
マツバの心臓が、痛みを伴って収縮した。
すぐにわかった。
悪夢だ。
十二歳の時にイヨリが経験した、あの凄惨な事件——の悪夢。
普段は泣くだけで済む。マツバが抱きしめて、「ここにいるよ」と囁けば、イヨリは落ち着いて、また眠りに戻る。
でも今夜は——マツバが気づく前にイヨリが出てしまった。
それほどひどい夢だったのだ。
マツバは靴を履いた。上着を掴んだ。二つ。一つは自分の分。もう一つは——イヨリの分。
ゲンガーのボールを手に取った。
外に出た。
「ゲンガー」
影から現れたゲンガーが、マツバの表情を見て、真剣な目になった。
「イヨリを探す。協力してくれ」
ゲンガーが頷いた。
マツバは目を閉じた。
千里眼——いつもは積極的に使わない力。コントロールしきれない部分がまだある。視えすぎると頭痛が来る。でも今はそんなことを言っている場合ではない。
集中した。
イヨリの像を——思い浮かべた。黒い髪。右目だけが光る——左目は義眼。小さな背中。マツバの腕の中にちょうど収まる、あの体。
視えた。
桜の木の下に——
うずくまっている。
裸足で。膝を抱えて。震えている。
焼けた塔の桜並木。
マツバは走った。
* * *
五分後。
マツバは桜並木に着いた。
すぐにわかった。桜の木の根元に、小さな影がうずくまっている。
パジャマ姿。裸足。膝を抱えている。髪が乱れている。顔が見えない。
「イヨリ」
マツバが呼んだ。
イヨリの肩がびくりと震えた。
「イヨリ」
もう一度。今度は近くで。膝をついて、イヨリの目線の高さまで身を屈めて。
イヨリが顔を上げた。
涙で赤くなった右目が、マツバを捉えた。左目は義眼だから泣いても変わらない。右目だけが、赤くて、腫れていて、涙で濡れていて——
マツバの胸が引き裂かれるように痛んだ。
「……マツバ、さん」
掠れた声。
「うん。来たよ」
「どうして……」
「見えたから」
千里眼で。
イヨリの唇が歪んだ。泣き笑い。マツバと出会ってしばらく経った頃、イヨリが自分の両親の話をした時に、「あの時、両親に居場所を教えたのは僕だ」とマツバは告白した。そう——この力で、十五年前、マツバはイヨリの居場所を見つけた。そしてその情報が、パパとママを——
「……また、夢を」
「わかってる。大丈夫。もう大丈夫だよ」
「大丈夫じゃ、ない……パパが……パパの声が聞こえて……浜辺で……それから——」
言葉が途切れた。嗚咽が漏れた。
マツバは持ってきた上着をイヨリの肩にかけた。自分の体温が残る上着。
「冷たい。すごく冷たくなってる」
マツバの手がイヨリの足に触れた。素足。氷のように冷たい。足の指が紫色になりかけている。膝には擦り傷。左足首が腫れている。
「どれくらい歩いた?」
「……わかりません。わからない……」
「デバイスもなしで……」
マツバの声が震えた。怒りではない。心配で——イヨリを失いかけた恐怖で——声が震えているのだ。
マツバはイヨリの体を両腕でそっと抱き上げた。
軽い。いつものことだけれど、今夜は特に軽い。冷えきった体が、マツバの胸に収まった。
イヨリが——一瞬、体を強張らせた。
温もりが怖い。パパの手の温度を思い出してしまう。
マツバはそれを感じ取った。イヨリの体が硬くなったこと。温もりを拒もうとしていること。
でも腕を離さなかった。
「怖くていいよ」
マツバが低い声で言った。
「温もりが怖くなる夜があってもいい。パパとママのことを思い出して、苦しくなる夜があってもいい」
腕の中のイヨリの体が、少しずつ——本当に少しずつ——力を抜いていった。
「でも、逃げる時は僕を連れて行って。靴と上着と、デバイスも持って。一人で裸足で歩かないで」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。ただ——イヨリが冷たくなっているのが、僕は一番怖い」
マツバの腕に力がこもった。イヨリの体温を上げるように。自分の体温を全部渡すように。
「僕は——あの時、イヨリの居場所を視た」
マツバが静かに言った。
「十四歳の時。千里眼で。暗い部屋の中で泣いているイヨリが視えた」
イヨリの体がまた少しだけ震えた。
「あの時の僕は——何もできなかった。視えただけで、助けに行く力がなかった。警察を通すべきだったのに、目の前で涙を流す両親を見て、直接伝えてしまったんだ。結果的にそれが——パパさんとママさんを——」
マツバの声が途切れた。
これは——マツバ自身の傷でもあった。
自分の千里眼が見つけた居場所。その情報を伝えたことで、二人の親が我が子のもとに走り、そして——
「マツバさんのせいじゃ、ありません」
イヨリが言った。掠れた声で。でもはっきりと。
「マツバさんの千里眼がなかったら、わたしは見つからなかった。パパとママだけじゃなくて、わたしも——」
「わかってる。でも時々——僕も苦しくなる。あの時もっと早く視えていたら。もっと正確な情報を渡せていたら。警察がもっと早く動けていたら——」
「マツバさん」
イヨリがマツバの襟元を掴んだ。冷たい指で。でも強い力で。
「わたしを見つけてくれてありがとう。あの時も。今夜も」
マツバの目が潤んだ。
紫色の瞳に、涙が浮かんだ。千里眼を持つ瞳。世界の向こう側を見通す瞳。でもこの瞬間は、世界で一番近い場所にいる人だけを見ている。
「……帰ろう」
マツバはイヨリを抱いたまま立ち上がった。
「うん」
「足、診るよ。腫れてる」
「……医者はわたしのほうなんですけど」
「患者の時は僕が診る」
「それは医師法的に——」
「愛妻法に基づく応急処置」
「そんな法律ありません」
「今作った」
イヨリが——笑った。
小さく。かすかに。泣きながら。
でも、笑った。
マツバはその笑顔を見て、腕の力を少しだけ強くした。
桜の花びらが二人の上に散った。
パパの手の温もりは、もう思い出せないかもしれない。
でも——今、この人の腕の温もりは。
この人だけは——失くさない。
失くさせない。
マツバはそう誓いながら、春の夜道を、妻を抱いて歩いた。
花びらの絨毯の上を。
家に向かって。
二人の帰る場所に向かって。
― 了 ―
あとがき by 佐藤美咲
読んでくださってありがとうございます。
今回は、イヨリちゃんの最も深く、決して消えない傷——過去の事件と両親の死について描きました。「温もりへの恐怖」という矛盾した感情、そして裸足で夜をさまよう姿には、書きながら私も胸が締め付けられました。
そして、イヨリちゃんを「見つけた」マツバ自身の傷。千里眼というギフトがもたらした因果を二人が互いに許し合い、抱えながら共に生きていく。そのことを再確認するための、夜の桜並木の物語でした。
深い傷痕も愛で温めていける、二人の力強さを感じていただけたら嬉しいです。