ECHOES OF ECRUTEAK

星と花の小夜曲

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

涙の在処を、僕は知らない
― 短編 ―

マツバ視点 / 約10,000字 / 成人向け描写あり

【一】

夜半の鐘が、遠く焼けた塔のほうから三つ落ちてきた。

枕元に差し込む月明かりは薄く、障子の桟に引き裂かれて畳の上に白い格子をつくっている。マツバは眠れないまま天井の木目を数えていたが、不意に隣から微かな声が漏れたのを聞いて、息を止めた。

イヨリが泣いていた。

声というほどの音量ではない。喉の奥で押し殺された、震えるような呼吸。寝言にしては規則的すぎるその音は、彼女が夢の中で何かと闘っていることを示していた。掛け布団から覗いた白い指先が、無意識にマツバの袖を探るように畳の上を掻いている。

見ようと思えば、見える。千里眼はこの暗闇の中でもイヨリの表情の一切を暴くだろう。閉じた瞼の裏で瞳がどう揺れているか、涙腺がどこまで潤んでいるか、頬の産毛に露のような雫がいくつ溜まっているか――すべてを、この目は見通すことができる。

だが、マツバはそれをしなかった。

代わりに腕を伸ばし、彷徨うイヨリの指先をそっと握った。五本の指が、吸い寄せられるようにマツバの手のひらに絡みついてくる。細く冷たい指だった。診察のときにポケモンの毛並みを辿るあの繊細な指が、今は溺れるもののように縋りついている。

「……大丈夫だよ」

囁きは、聞こえているのかいないのかわからない。イヨリの呼吸はまだ震えている。けれど握り返す力が僅かに強くなったような気がして、マツバはその手を自分の胸元に引き寄せ、唇を指先に押し当てた。

冷えた指がゆっくりと温まっていく。その体温の移ろいを感じながら、マツバは思う。

千里眼で見えるものと、見えないものがある。

遠く霧の向こうに佇むスイクンの姿を捉えることはできる。五十里先の海の底で眠るルギアの鼓動さえ読み取れる。エンジュの街を包む霧の一粒一粒がどこから流れてきたか、それすら視ることができる。

けれど、この手の中で震える指の持ち主が、いったい何に怯えているのか。夢の中でどんな景色を見て涙を流しているのか。それだけは、千里眼をもってしても見通すことができない。

イヨリの涙の在処を、僕はまだ知らない。

そう思った瞬間、無力感が胸の底を叩いた。ジムリーダーとして何百人もの挑戦者を導き、旧家の当主として何百年も続く家を背負い、千里眼という特殊な力を持って生まれたこの身体が、ただひとりの女の涙すら止められない現実。それが夜ごと、マツバの心を裏側から蝕んでいく。

イヨリの寝息が穏やかなものに変わったのは、それから二十分ほど経った頃だった。握られた指の力が抜け、代わりに彼女の身体がマツバの胸に寄り添うように転がってくる。額のあの傷を隠す前髪が乱れて、月光の下に白い筋が覗いた。二年前のあの日に刻まれた、消えない証。

マツバはその傷跡に、唇を触れるか触れないかの距離で止めた。

触れれば起きるかもしれない。起きれば、イヨリは笑うだろう。いつものように「大丈夫です、ただの夢ですから」と言って、夫を安心させようとするだろう。そしてその笑顔の奥に、本当の涙を畳み込んで見せなくなるだろう。

だから触れない。触れないまま、ただ傍にいる。

それがマツバにできる、もっとも無力で、もっとも誠実な守り方だった。

* * *

【二】

翌朝は晴れていた。

十二月の空気は刃物のように冷たく、台所に立つマツバの吐く息が白く立ち昇っている。出汁の匂いが朝の静寂に溶け込み、鍋の中で昆布がゆらゆらと揺れている。味噌汁は今朝、イヨリの好きな油揚げとなめこにした。卵焼きは甘め。炊きたてのご飯は固めに炊いてある。

台所に立つ身体は、紫色のマフラーを首に巻いたまま。和装の上に割烹着を羽織った姿は、エンジュのジムリーダーとしての威厳とはおよそかけ離れている。けれどマツバはこの時間が嫌いではなかった。イヨリが目を覚ます前に朝食を整えること。それは些細な行為に過ぎないが、彼女の一日の始まりに柔らかな温度を添えられるのだと思えば、出汁を引く手にも力が入る。

「……おはようございます」

振り返ると、寝室の襖から顔だけを覗かせたイヨリがいた。黒髪が寝乱れて片方の肩にかかっている。左目の白濁は前髪に隠れ、右目だけが半分開いた状態でマツバを見つめている。まだ完全に覚醒していないらしい。半開きの唇がふにゃりと緩んで、寝起きのイヨリ特有のとろけた表情を作っている。

「おはよう、イヨリ」

マツバは菜箸を置いて微笑んだ。視線はごく自然にイヨリの目尻を捉える。千里眼は使わない。使わなくても、泣いた痕跡があるかどうかは見ればわかる。

今朝のイヨリの目元には赤みがあった。昨夜の涙の残滓が、まだ薄く皮膚の下に滲んでいる。

「よく眠れた?」

「はい。ぐっすりでした」

嘘だ、とマツバは思う。けれどその嘘を暴くことはしない。イヨリが嘘をつくとき、それは自分のためではなく、マツバを心配させまいとする優しさから来ている。その優しさを否定することは、イヨリの矜持を踏みにじることと同義だ。

だから、マツバもまた嘘をつく。

「そうかい。よかった」

嘘と嘘が交差して、朝の台所に穏やかな沈黙が降りた。味噌汁が鍋の中で小さく泡立つ音だけが、二人の間を埋めている。

イヨリが襖から出てきたとき、左足の運びがほんの僅かだけ不自然だった。アステアのデバイスはまだ装着していない。朝一番のイヨリは、補助なしの素の身体でマツバの前に立つ。それは彼女にとって、世界中でこの男だけに許した「弱い自分」の開示だった。

左足を庇うように歩くイヨリの腕を、マツバはさりげなく取った。

「足、冷えてない? 床暖房入れておいたけど」

「ありがとうございます。大丈夫です」

大丈夫。イヨリの口癖だ。何があっても、どれだけ身体が痛んでいても、どれだけ心が軋んでいても、この女は「大丈夫です」と言って笑う。その笑顔がマツバにとってどれほど美しく、同時にどれほど残酷であるか、イヨリ自身は知らないのだ。

食卓に向かい合って座り、手を合わせる。

「いただきます」

イヨリが味噌汁を一口啜ったとき、「おいしい」と呟いて目を細めた。その横顔に朝の光が差し込んで、黒い髪に琥珀色の筋を走らせている。マツバは卵焼きを口に運びながら、その横顔をまじまじと見つめた。

見つめるだけでいい。千里眼は使わない。千里眼を使えばイヨリの身体の隅々まで見通せるが、そうやって得た情報は「知識」であって「理解」ではない。マツバが本当に知りたいのは、イヨリの体温の揺らぎでも、心拍数の変動でもなく、この女がいつか涙を流すとき、その涙の一滴目がどこから来るのかということだった。

額の傷からか。左目の白濁からか。孤独の記憶からか。

それとも、マツバ自身からか。

自分がこの女を泣かせる日がいつか来るのではないか。その恐怖が、味噌汁の湯気の向こう側で、小さな影のように揺れていた。

* * *

【三】

イヨリが往診に出かけたのは、朝食を終えてから一時間後のことだった。

アステアのデバイスを左腕に装着し、白衣に袖を通し、医療カバンを肩に掛けたイヨリは、いつもの凛としたポケモンドクターの顔になっている。さっきまで「ふにゃイヨ」だった女は、もうどこにもいない。

「行ってきます、マツバさん」

「行ってらっしゃい。帰りが遅くなりそうなら連絡してね」

「はい」

玄関でイヨリが靴を履くとき、マツバは毎回同じことを考える。

この女が、自分の視界の外に出て行く瞬間が、一日の中でもっとも怖い。

千里眼を使えば追える。エンジュの街の端まで、いや、その気になれば隣町のアサギまで、イヨリの姿を追うことはできる。けれどそれはイヨリとの約束に反する。「私に千里眼は使わないでください」。交際を始めた頃にイヨリが一度だけ真顔で言った言葉を、マツバは今も守っている。

ただ一つの例外を除いて。

イヨリが泣いたとき。彼女が本当に助けを求めたとき。そのときだけは、約束を破ってでも駆けつけると、マツバは心の中で誓っていた。

玄関の引き戸がぱたりと閉まる。イヨリの足音が石畳の上を遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

残された静寂の中で、マツバは玄関に腰を下ろしたまま動かなかった。

あの足音がもう一度聞こえるまで。「ただいま」という声がこの家に戻ってくるまで。それだけを信じて、一日を過ごすしかない。

イヨリが泣いた記憶は、数えるほどしかない。けれどそのすべてが、マツバの胸に深い轍を刻んでいる。

最初に見た涙は、二年前の病室だった。事故の後、意識を取り戻したイヨリが最初にしたことは、自分の左目に手を当てて「見えない」と呟くことだった。それから左足を動かそうとして動かなくて、顔を歪めて、けれど「大丈夫」と言おうとして――言えなかった。イヨリが「大丈夫」を言えなかった唯一の瞬間だった。

病室の窓からはタマムシシティの夕暮れが見えていた。オレンジ色の光がイヨリの白い頬を染め、その頬を流れ落ちる涙もまた橙色に光っていた。マツバはベッドの横に座ったまま、何も言えなかった。「大丈夫だよ」と言えば嘘になる。「僕がいるよ」と言えば傲慢になる。だから何も言わず、泣き終わるまで手を握っていた。

あの日の涙が止まるまで、四十三分かかった。マツバはその一分一秒を、千里眼ではなくこの目で数えた。

二度目に見た涙は、一年前の秋だった。エンジュの紅葉が燃え盛る夕刻、イヨリが縁側に座ってぼんやりと庭を眺めていた。マツバが声をかけると振り返ったイヨリの右目が赤く潤んでいた。

「どうしたの?」

「いえ……紅葉がきれいだなと思って」

その言い訳を、マツバは黙って受け入れた。けれど後になって、その日がイヨリの母親の命日であることに気づいた。紅葉がきれいなのではなく、紅葉を見せたかった人がもういないことが、イヨリを泣かせていた。

マツバにはそれがわからなかった。

千里眼で涙の化学組成を分析することはできても、その涙がどこから来たのかを知ることはできない。ストレスの涙か、悲しみの涙か、怒りの涙か。同じ塩辛い液体が、まるで違う意味を持って頬を伝う。その一滴の意味を正しく読み取ることが、マツバにはまだできない。

そしてマツバは、もうひとつの恐怖と向き合わなければならないことを知っている。

イヨリの涙の源泉が、他でもない自分自身である可能性。

かつて自分の千里眼がイヨリの両親の死に間接的に関わってしまったという重い事実。あの日、マツバの千里眼がもっと早く危険を察知していたなら。あの日、マツバが違う選択をしていたなら。イヨリは両親を失わず、額に傷を負わず、左目の光を失わず、左足の自由を奪われなかったかもしれない。

その罪悪感が、マツバの愛情の底に沈殿している。

イヨリを守りたいという想いは、純粋な愛情であると同時に、償いの変形でもある。それを自覚しているからこそ、マツバは自分の独占欲を完全には肯定できない。イヨリを抱きしめるたびに、「これは愛か、贖罪か」という問いが脳裏を過ぎる。

玄関の冷たい板の間に座ったまま、マツバは両手を見下ろした。

この手で何ができるのか。千里眼で何が見えるのか。これからの人生で、あと何回イヨリの涙を止めることができるのだろうか。

答えは出ない。出ないまま、マツバは立ち上がり、道場へ向かった。挑戦者が来る時間だ。ジムリーダーとしての顔を被り、穏やかな微笑みの下に問いを飲み込んで。

* * *

【四】

イヨリが帰ってきたのは、日が暮れてからだった。

引き戸の音がして、「ただいま戻りました」というか細い声が廊下に落ちた。マツバが出迎えに行くと、イヨリは白衣の肩を濡らしていた。夕方から降り始めた小雨に打たれたらしい。黒髪が首筋に張りつき、白い肌の上にいくつもの水滴が散っている。

「傘は?」

「すみません、急患で……持っていくのを忘れて」

急患、という言葉にマツバの眉がわずかに動いた。イヨリは患者のためなら自分の身体のことは後回しにする。その献身が美しいと思う反面、身を削るような優しさに胸が痛む。

「先にお風呂に入りなさい。温めてあるから」

「ありがとうございます」

イヨリが浴室に消えた後、マツバは廊下に落ちた水滴を拭きながら、ふとイヨリの白衣を手に取った。濡れた生地越しに、微かに残る体温。雨の匂いとイヨリのシャンプーの匂いが混じり合って、不思議な甘さを帯びている。

胸の奥で、何かが軋んだ。

愛しいと思うことと、苦しいと思うことは、同じ場所から湧き出るのだということを、マツバはもう知っている。

浴室の扉が開いたとき、イヨリはバスタオルを身体に巻いただけの姿で出てきた。湯気を纏った白い肌が淡い桜色に染まり、濡れた黒髪が鎖骨に筋を作っている。アステアのデバイスは浴室に置いてきたのだろう、左腕はむき出しのままで、そこに走る古い手術痕がかすかに光った。

「マツバさん、ドライヤーお借りしても」

言葉は途中で止まった。マツバがイヨリの腕を取って、静かに引き寄せたからだ。

「マツバ、さん?」

「少しだけ」

そう呟いて、マツバはイヨリの額の傷跡に唇を落とした。今朝できなかったことを、今この瞬間にする。乾いた唇が、白い傷の上を滑る。イヨリが息を呑む音がした。

「……今朝、泣いてたね」

イヨリの身体が、ほんの一瞬硬くなった。

「夢の中で、泣いてた。知ってるよ」

「……ごめんなさい」

「謝らないで」

マツバの声は穏やかだった。けれどその穏やかさの底に、どれほどの感情が渦巻いているか、イヨリにはわかっている。だからこそイヨリは謝る。自分の弱さが、この男を苦しめていることを知っているから。

「僕は、イヨリの涙を止めたい」

額から唇を離し、マツバはイヨリの右目を覗き込んだ。白濁した左目のほうは見ない。見えている右目だけを、まっすぐに見つめる。

「でも、止め方がわからない」

その告白は、エンジュのジムリーダーらしからぬ弱音だった。千里眼を持つ男の、見えないものへの敗北宣言だった。

イヨリの右目が揺れた。唇が何かを言おうとして、けれど言葉にならなくて、代わりに細い両腕がマツバの首に回された。バスタオルの端が緩んで、濡れた肌がマツバの和装に触れる。湿った体温が布を通して伝わってきた。

「止めなくていいんです」

イヨリの声は、吐息に近かった。

「涙を止めてくれなくていい。ただ、泣いている時にそばにいてくれたら、それでいいんです」

その言葉が真実であると、マツバの千里眼は告げている。心拍も体温も呼吸の深さも、すべてが嘘偽りのない誠実さを示している。

けれど、それだけでは足りないのだ。

「僕は、それだけじゃ」

マツバの言葉を、イヨリの唇が塞いだ。

つま先で背伸びをして、イヨリがマツバに口づけた。冷たかった唇が触れ合う瞬間に溶けて、互いの体温を奪い合うように深くなっていく。マツバの手が無意識にイヨリの腰を抱き寄せ、バスタオルの下の柔らかな肌に指が沈んだ。

「……マツバさん」

名前を呼ぶ声が、いつもより甘い。

それがイヨリの合図であることを、マツバは二年間の歳月の中で覚えてしまっていた。声色の温度が一段下がり、呼吸が一拍遅れ、瞳の焦点がわずかに揺らぐ。言葉ではない身体のすべてが、「触れてほしい」と訴えている。

マツバはイヨリを抱き上げた。華奢な身体は驚くほど軽くて、バスタオルがついに滑り落ちた。露わになった白い肌が月明かりの中で光を帯び――マツバの腕の中で、小さく震えた。

寝室に運び、布団の上にイヨリの身体を横たえる。濡れた黒髪が白い敷布の上に扇のように広がった。右目だけがマツバを見上げている。白濁した左目は閉じたまま。その非対称な表情が、マツバの胸を締め上げる。

完璧ではないからこそ、愛おしい。傷だらけだからこそ、守りたい。

「見ないで……恥ずかしいです」

イヨリが両腕で胸元を隠そうとするのを、マツバはやんわりと押さえた。

「千里眼は使わないよ。この目だけで見てる」

「この目だけで見てるから……余計に恥ずかしいんです」

マツバは小さく笑った。そしてイヨリの鎖骨に唇を寄せ、ゆっくりと肌の上を辿り始めた。鎖骨の窪みに唇を押し当てると、イヨリの肩が震えた。首筋を滑り、耳の後ろの産毛をくすぐるように舌で触れると、抑えきれない声が漏れる。

「やぁ……」

甘い。この声が甘い。蜂蜜を温めたような、粘度のある甘さが鼓膜を満たす。マツバは衣服を脱ぎ捨てず、和装の前を崩しただけでイヨリの上に覆いかぶさった。肌と肌が触れ合う面積を、少しずつ広げていく。急がない。今夜は急ぐ理由がない。

イヨリの額の傷に、もう一度唇を落とす。次に右の瞼。閉じたままの左の瞼に、そっと。頬の涙の痕跡をなぞるように唇が滑り、顎の先端に辿り着いた。

「マツバ……さん」

呼吸が乱れ始めている。イヨリの細い指がマツバの和装の襟を掴み、引き寄せるように力を込めた。「今日は……ゆっくりしてくれるんですか」

「ゆっくりするよ。今夜は、全部ゆっくり」

マツバの唇は鎖骨から下へ降りていった。豊かな胸の丘に差し掛かると、イヨリの呼吸がさらに浅くなった。形のいい頂の淡い色に舌先が触れた瞬間、イヨリの身体が内側から震えた。指がシーツを掴み、足の指が丸まり、喉から抑えきれない声がこぼれる。

「あっ……だめ、そこ……っ」

だめという言葉は、イヨリにとって「もっと」と同じ意味を持つ。マツバはそれを知り尽くしている。舌を押し当て、軽く甘噛みし、指で片方を転がしながらもう片方を口に含む。イヨリの身体がマツバの下で小さく跳ねた。

手が腰へ降りていく。細い腰骨の上を指が滑り、下腹部のやわらかな肌を撫でると、イヨリが両腿を閉じようとした。その反応がたまらなく愛おしい。閉じかけた太ももの間に手を差し入れ、指先で内側の敏感な肌を撫でる。

「ひっ……あ、マツバさ……」

マツバの指が秘所に触れたとき、イヨリの腰が浮いた。すでに蜜で濡れていることが指先に伝わり、マツバの腹の底にも熱が這い上がってくる。

「ここ、こんなになってる」

「……言わないでください」

「言うよ。全部言う」

普段の穏やかな口調のまま、けれどどこか命令的な低い声が混じる。マツバの指がイヨリの中に滑り込むと、柔らかな壁が指を締め付けるように纏わりついた。「あっ、あぁっ……!」という声が上がり、ゆっくりと指を動かすたびにイヨリの全身がそれを追って揺れた。

「だめっ……もう、だめ……っ」「だめじゃないよ。イヨリ」

呼び捨てが、イヨリの中で何かのスイッチを押した。右目が潤み、口元が緩み、理性の防壁が崩れ始めている。

「い、イっちゃう……マツバさんの指で、イっちゃいます……っ」

「イきなさい」

穏やかに、けれど絶対的な声で命じると、イヨリの身体が大きく痙攣した。声にならない声が喉から漏れ、指を締め付ける力が強くなり、蜜が溢れて手のひらを濡らした。

絶頂の余韻に浸るイヨリの頬を、マツバの手が撫でた。涙が一筋、右目から流れている。快感の涙だ。悲しみとは違う、圧倒的な感覚に身体が耐えきれなくなって溢れた涙。

「……泣いてる」

「ちがいます……泣いてません……っ」

「泣いてるよ」

マツバは自分の唇でその涙を拭った。塩辛くて、温かくて、甘い涙だった。

この涙は止めなくていい。この涙は、僕がつくった涙だから。

ゆっくりとイヨリの身体に重なった。入り口に自身を宛がうと、イヨリの腕がマツバの首に絡みついた。

「……来てください」

「痛かったら言って」

「痛くないです。マツバさんは……いつも優しいから」

ゆっくりと、少しずつ、彼女の奥へ進んでいく。締め付けるような熱さの中に沈み込みながら、マツバは額をイヨリの額に合わせた。額の傷跡に、マツバの額が触れる。

ここに傷をつけたのは僕のせいだ、とマツバは思う。

この足を不自由にしたのは僕のせいだ。

だから一生かけて、この身体を温め続ける。

律動が始まった。ゆっくりと、深く。引いて、押して。イヨリの呼吸に合わせて、彼女の内側の声を聴くように。

「あっ……あああっ……マツバさんっ……」

「イヨリ……」

名前だけを、互いに呼び合う。それ以上の言葉は必要なかった。身体が語っている。肌が語っている。汗に濡れた肌が擦れ合うたびに、言葉にできない何かが溢れて、二人の間を満たしていく。

腰を合わせるたびに、イヨリの身体が小さく跳ねる。その跳ねた身体をマツバの腕が抱き留め、さらに深く押し込む。布団の上で二人の影が一つに重なり、月光が汗に輝く肌の表面に細い線を引いた。

「もっと……もっと奥……っ」

「こう?」

「あっ♡ そこ……っ そこぉ♡」

イヨリの声が甘く壊れた。理性の壁が完全に崩落し、身体の奥底から湧き上がる快楽だけが彼女を支配している。マツバは腰の角度を変え、もっとも深い場所に向かって突き上げた。

「だめぇっ♡ おくっ、おくにっ……きてるっ♡」

「全部受けて、イヨリ」

「うっ、うけますっ……全部……マツバさんの全部っ♡」

腰を打ちつける音と、イヨリの甘い嬌声が寝室を満たした。マツバの額にもイヨリの額にも汗が光っている。額と額が触れ合ったまま、互いの息を飲み込むように唇が重なった。

「イヨリ、イけ」

低く、けれどどこまでも優しい声でマツバが命じた瞬間、イヨリの身体がびくりと硬直した。内壁がマツバを強く締め付け、全身が小刻みに震えて、声が声でなくなった。「あ――――ぁっ♡♡」という潮の引くような声が部屋の天井に溶けて消えた頃、マツバもまた、そのとてつもない絞りの中で理性を手放した。

互いの身体が痙攣しながら寄り添い合い、やがてゆっくりと弛緩していった。

しばらくの間、呼吸の音だけが部屋に満ちていた。マツバはイヨリを抱き寄せた。汗と体液で濡れた肌が触れ合い、けれどその湿り気すら二人の体温に溶けて心地よかった。

「……マツバさん」まだ息が整わないまま、イヨリがマツバの胸に頬を預けた。

「はい」

「泣いてます」

マツバが目を見開いた。自分の目じりに、確かに温かいものが伝っている。

「……ほんとだ」

「ふふ」

イヨリが笑った。行為の後の、蕩けた甘い笑みではなく、穏やかで温かい、本物の笑顔だった。指先でマツバの涙を掬い取り、その指を自分の唇に運んだ。

「マツバさんの涙、しょっぱい」

「……そりゃ涙だからね」

「でも、あったかいです」

マツバは目を閉じた。自分が泣いている理由がわからなかった。悲しいのではない。嬉しいのでもない。ただ、この瞬間がいつか終わるかもしれないという途方もない恐怖と、この瞬間が今ここに確かに在るという圧倒的な幸福が、同時に胸を突き破ろうとしていた。

* * *

【五】

身体を清めて寝床に戻ったのは、深夜二時を過ぎた頃だった。

イヨリは新しい寝間着に着替え、髪を乾かし、左腕のデバイスを外した素の身体でマツバの隣に横たわっている。月明かりが障子越しに柔らかく差し込み、二人の間に白い帳を引いている。

「ねえ、イヨリ」

「はい」

「さっき僕が言ったこと、覚えてる?」

「涙の止め方がわからないって、言ってましたね」

「うん」

マツバは天井を見つめたまま、言葉を選んだ。

「これからの人生で、僕はどれだけ君の涙を止めてあげられるんだろう」

イヨリは答えなかった。マツバの言葉が沈黙の中に落ちて、畳の目に染み込んでいくのを待っていた。

「僕の千里眼は、遠くのものを見る力だ。でも一番近くにいる君の涙が、どこから来るのかが見えない。止め方もわからない。守ると言いながら、何一つ守れていないんじゃないかって、毎晩思う」

「マツバさん」

「君の額の傷も、左目のことも、左足のことも、全部僕の」

「違います」

イヨリの声が、強かった。

寝転んだまま顔を横に向けると、イヨリが同じように顔を向けていた。右目だけが月光を映している。白濁した左目は閉じたまま。けれどその表情には、医師としての凛然さでもなく、旧家の妻としての奥ゆかしさでもない、ただのイヨリという女の、むき出しの感情があった。

「マツバさん。あなたはずっとそうやって、わたしの涙を自分のせいだと思ってきたんですね」

マツバは何も言えなかった。

「でも、違うんです。わたしが泣くのは、マツバさんのせいじゃない。わたしが泣くのは――泣けるようになったからです」

イヨリの手が伸びて、マツバの頬に触れた。診察の時にポケモンの毛並みを辿るあの繊細な指が、今はマツバの涙の痕を、慈しむように撫でている。

「両親を亡くしてから、ずっと泣けなかった。泣いたらそこで止まってしまうと思った。だから『大丈夫です』って言い続けた。大丈夫じゃなくても、大丈夫って言えばいつか本当に大丈夫になると思ってた」

指がマツバの唇に触れた。

「でもマツバさんが隣にいてくれるようになって、わたしは泣けるようになったんです。泣いても大丈夫だって、初めて思えた。あなたが手を握っていてくれるから。あなたが朝ごはんを作ってくれるから。あなたが『ただいま』を待っていてくれるから」

声が震え始めた。けれどイヨリは止まらなかった。

「だから、涙を止めないでください。わたしの涙を止めるのが、あなたの役目じゃない。わたしが泣いている間、そばにいることが、あなたの役目なんです。あなたはとっくにそうしてくれている。昨夜だって、わたしの手を握っていてくれたでしょう?」

マツバの目が見開かれた。

「……気づいてたの?」

「はい。夢の中で誰かに手を引っ張られてると思ったら、マツバさんの手でした。あったかくて、大きくて。あの手に触れた瞬間に、怖い夢が遠くなりました」

イヨリの目から涙がこぼれた。けれどそれは昨夜の涙とは違った。月光の中で銀色に光るそれは、怯えの涙でも悲しみの涙でもなく、心の奥のもっとも柔らかい場所から湧き出た、透明で温かい涙だった。

マツバはその涙を、指で拭おうとして――やめた。

拭わない。止めない。

ただ、そばにいる。

「イヨリ」

「はい」

マツバは身体を寄せ、イヨリの額に自分の額を合わせた。額の傷跡に、マツバの額が触れる。互いの体温が境界線を溶かしていく。鼻先が触れる距離で、互いの呼吸が混じり合う。

「僕は、これからも君のそばにいるよ」

「はい」

「涙が流れたら、拭かないで見ている。手を握って、終わるまで隣にいる。それだけしか、僕にはできない」

「それだけでいいんです」

イヨリが、微笑んだ。

涙で濡れた右目と、閉じたままの左目。非対称なその表情が、世界でもっとも美しい笑顔だった。

マツバも微笑んだ。涙の味がする唇を歪めて、不器用な笑みを浮かべた。千里眼の男にとって「見えないもの」を受け入れるということは、自分の無力さを認めるということであり、それは同時に、もっとも深い信頼のかたちだった。

額と額を合わせたまま、二人は微笑み合っていた。

涙のある場所も、涙の止め方も、マツバはまだ知らない。

けれど。

涙のそばにいる方法だけは、もう知っている。

この手を伸ばし、この指を絡ませ、この額を合わせて、ただ隣にいること。

それがマツバにできる、もっとも無力で、もっとも正しい愛し方だった。

* * *

窓の外で、遠くの塔からまた鐘が落ちてきた。

夜明けまで、あと少し。

二人の額は触れたまま、呼吸は寄り添ったまま。

エンジュの夜が、ゆっくりと明けていく。

― 了 ―

あとがき by 佐藤美咲

書いた。全部書いた。あたしの全霊を注ぎ込んだわ。

「涙を止めたい」と思い続けてきたマツバが、「止めなくていい」と気づくまでの物語。千里眼を持つ男の最大の無力は、一番近くにいる人の涙の意味が読めないこと。その無力さを認めることが、実は最大の愛情表現だったっていう逆説。書きながら三回泣いたわ。ノエルが膝に乗ってきたから、ひっくり返しながら最後まで書いた。

「嘘と嘘が交差する朝食」の場面が特に好き。「大丈夫」という嘘で守り合う二人。「よかった」という嘘で受け止めるマツバ。愛があるからこそつける嘘ってあるのよ。

そして、風呂上がりのバスタオルから致しへの流れ。ここは全力で書いたわ。マツバが「この目だけで見てる」って言う場面……千里眼を使わないことが最大の誠実さだってこと、ちゃんと伝わったかしら。「止めなくていい。この涙は僕がつくった涙だから」の一文は、あたしの中で完璧に決まった瞬間があったの。書けてよかった。

最後の「額を合わせて微笑む」シーン。傷跡のある額と、千里眼の男の額が触れ合う。そこに何の言葉もいらない。これが「涙の在処を、僕は知らない」という逆説的タイトルの回収よ。わからなくていい。ただそばにいればいい。