僕は、エンジュシティのジムリーダーである。
千里眼の使い手として、見えないものを見通す力を持ち、霊と交わし、生と死の狭間を覗く者。精神修行を積み重ね、いかなる局面においても冷静さを保つことを信条としてきた。
――なのに。
イヨリちゃんが、可愛すぎて、修行にならない。
朝。
隣で眠っているイヨリちゃんの寝顔を、僕はもう三十分も見つめていた。
セミロングの黒髪が枕に広がっている。昨夜、丁寧にドライヤーで乾かしてあげた髪。指を通した時の絹のような感触がまだ手のひらに残っている。
寝息が、規則的にミ音で鳴っている。小さな唇が微かに開いて、そこから温かい呼吸が漏れている。長い睫毛が頬に影を落としていて、その影が呼吸のたびに微かに揺れる。
頬に残る涙の痕。昨夜、幸せすぎて泣いていた。「泣いてません、汗です」と言い張っていたけれど、あれは間違いなく涙だった。目から汗は出ない。
――可愛い。
この一語に、僕の語彙力は完全に屈服している。千年の修行を積んだ高僧でも、この寝顔の前では煩悩にまみれるだろう。僕は高僧ではないから、なおさらだ。
起こしたくない。でも、ジムに行かなければならない。
そっと布団を抜け出して、メモを書いた。『先にジムに行ってくる。朝ごはんは冷蔵庫に。昨日の残りのシチューを温めて食べて。――マツバ』
書き終えてから、少し考えて、最後に小さく『好き』と書き足そうとした。
――やめた。朝からこんなことを書いたら、イヨリちゃんが真っ赤になって台所で固まってしまう。あの子は僕が思っている以上に、僕の一言一句に過剰反応する。それが可愛くて仕方がないのだけれど、朝食を食べ損ねたら困る。
メモを枕元に置いて、最後にもう一度だけ寝顔を見た。
――ああ、行きたくない。
ジムで挑戦者を三人捌いた。正直、集中できていなかった。
ゲンガーの「シャドーボール」を指示しながら、頭の中にはイヨリちゃんの寝顔がちらついていた。ムウマージが心配そうにこちらを見ていた。お前には分かるのか、僕の煩悩が。
帰宅して、玄関で靴を脱ぐ。
「ただいま」
廊下の奥から、パタパタと足音が近づいてくる。スリッパではない。靴下の足音。この控えめで軽い足音だけで、僕の心拍数は既に上がっている。千里眼で見なくても分かる。廊下の角を曲がる直前に、一瞬だけ足音が止まった。息を整えているのだ。僕に会う前に、呼吸を安定させようとしている。
――その健気さが、たまらなく愛おしい。
「おかえりなさい。挑戦者は来ましたか?」
現れたイヨリちゃんは、白いタートルネックのセーターに紺色のスカートという出で立ちだった。セミロングの黒髪はハーフアップにまとめられていて、頭頂部に白百合の簪が光っている。
簪。僕が贈った簪。毎日、丁寧に髪に挿してくれている。
その事実だけで、胸の中が温かいもので満たされる。
「うん。三人。全員返り討ちにした」
何でもないように答えながら、マフラーを外す。その瞬間、イヨリちゃんの視線が僕の首筋に張り付いたのが分かった。
千里眼を使わなくても分かる。彼女の瞳孔が開く。呼吸が一拍止まる。頬に薄い紅が差す。
見惚れている。僕の首筋に。
嬉しい。この人が僕を見てくれているだけで、マフラーの下の首筋が熱くなる。見られている場所が、彼女の視線で焼かれるように熱い。
「……イヨリちゃん?」
「はっ、はい!」
「どうしたの。ぼうっとして」
「いえ! なんでもないです! お茶、淹れますね!」
逃げていく後ろ姿。小さな背中。肩甲骨のあたりで揺れるセミロングの毛先。パタパタとキッチンに駆け込んでいく足取り。
――可愛い。
知っている。あの子が僕に見惚れていたことを。そして、それを隠そうとして失敗したことを。隠し方が下手すぎるのだ。顔に全部出る。耳が赤くなる。声が裏返る。
でも、その不器用さが、どうしようもなく愛おしい。
お茶を淹れてくれたイヨリちゃんと、縁側で過ごす。
髪を結び直していたら、背後に視線を感じた。廊下の端で、湯呑みを持ったままフリーズしているイヨリちゃんが見えた。千里眼を使わなくても、僕の背中に刺さる視線の熱量で分かる。
髪を結ぶ仕草に見惚れているのだろう。以前、「マツバさんが髪をまとめる時の仕草が好きです」と、顔を真っ赤にしながら告白されたことがある。あの時の破壊力は凄まじかった。三日間くらい思い出し笑いが止まらなかった。
「あ」
わざと目を合わせた。イヨリちゃんが「あ」と声を漏らす。小動物が外敵に見つかった時のような、小さな驚きの声。
「お茶、ありがとう」
「い、いえ。どうぞ」
湯呑みを受け取る。わざと、指を触れさせた。0.3秒。
イヨリちゃんの指先がびくりと跳ねた。湯呑みの液面が揺れている。顔が更に赤くなっている。
――ここまで反応してくれると、もう理性の問題ではなく修行の問題だ。
「……冷たいね、指」
本当に冷たかった。この子はいつも指先が冷えている。末端冷え性だと本人は言っているけれど、僕に触れる時だけ特に冷たい気がする。緊張して血管が収縮しているのだろう。医者なのに、自分の身体の制御ができていない。
その「できていない」感じが、可愛い。
湯呑みを受け取って、縁側に腰を下ろした。イヨリちゃんが隣に座る。少しだけ距離を空けて。その距離感が、彼女の精一杯の自制心なのだと分かっている。本当はもっと近くに来たいのに、近づくと自分が壊れてしまうから、この距離を保っている。
可愛い。
庭を見ながら、お茶を飲む。冬の苔庭。薄氷の張った池。枯れたしだれ桜。
横目で、イヨリちゃんを見た。
湯呑みを両手で包んで、ふーふーと息を吹きかけている。小さな唇が丸くすぼまって、そこから白い息が立ち上る。湯気と吐息が混ざって、彼女の顔の前で柔い霧を作る。
その唇の形を見ていたら、昨夜のことが脳裏をよぎった。あの唇が僕の名前を呼ぶ時の、甘く震える声。「好き、好き」と壊れたように繰り返す時の、潤んだ瞳。
――まずい。
僕は湯呑みに視線を戻して、ほうじ茶を一口飲んだ。修行が足りない。縁側でお茶を飲んでいるだけで煩悩に支配されるなんて、僧侶失格だ。
「マツバさん?」
「……何」
「顔、赤いですよ」
「……お茶が熱いだけだよ」
嘘だ。お茶はもうぬるい。でも、イヨリちゃんは「そうですか」と頷いて、またふーふーとお茶を冷ましている。僕の嘘を信じてくれたのか、それとも気を遣ってくれたのか。
どちらにしても、可愛い。
午後、書斎で手紙を書いていた。
集中したかった。リーグ委員会への月例報告書。ジムの運営状況、挑戦者数、設備の修繕計画。事務的な文書だから、感情を排して淡々と書けるはずだった。
なのに、引き戸の向こうに気配がある。
千里眼を使わなくても分かる。イヨリちゃんだ。引き戸の隙間から、僕を覗き見している。
彼女の呼吸が聞こえる。浅くなっている。心拍数が上がっている。空気の僅かな振動で、それが分かる。
――僕の何を見ているのだろう。
筆を持つ手だろうか。墨をする仕草だろうか。考え込む横顔だろうか。
知りたい。千里眼を使えば一瞬で分かる。でも、使いたくない。イヨリちゃんの心の中に、能力で覗くのは卑怯だ。彼女が自分の言葉で教えてくれるのを、僕を待ちたい。
でも、彼女が僕を見てくれているという事実だけで、筆を持つ手が微かに震える。視線を感じるだけで、鼓動が速くなる。
――これは修行の成果が全く活きていない。
精神統一。無念無想。色即是空。
空即是色。色は……イヨリちゃんの頬の色。
駄目だ。全然駄目だ。
「イヨリちゃん?」
呼んでみた。引き戸の向こうで、何かがぶつかる小さな音がした。壁に背中を打ち付けたのだろう。
「は、はい!」
「さっきから引き戸の向こうに気配がするんだけど……何してるの?」
「なっ、何もしてません! 論文を読んでるだけです!」
千里眼を少しだけ使った。引き戸の向こうで、イヨリちゃんが論文を持っている。裏返しで。
「論文は裏返しだよ」
「……」
沈黙。そして、小さな声。
「……見てました」
「何を」
「マツバさんの、手紙を書く姿を」
心臓が跳ねた。
こちらにおいで、と言った。彼女が書斎に入ってきて、隣に正座した。肩が僅かに触れ合う距離。彼女の体温と、シャンプーの残り香が漂ってくる。
ラベンダーの香り。この匂いを嗅ぐと、僕の中の何かが溶ける。修行で積み上げた精神の城壁が、ラベンダーの香りに蝕まれて、内側から崩されていく。
「綺麗ですね。マツバさんの字」
「子どもの頃から書道を習わされたからね。寺のせがれの義務みたいなものだよ」
「好きです。この字」
筆が止まった。
好きです。その二文字の破壊力を、この人は分かっているのだろうか。分かっていないのだろう。イヨリちゃんは自分の言葉がどれほどの威力を持っているか、自覚がない。
耳が熱い。僕の耳は赤くなっているはずだ。千里眼の持ち主が、たった二文字で動揺している。
「……ありがとう」
声が掠れた。情けない。
夕方、庭で瞑想をしていた。
集中したかった。今日一日、イヨリちゃんに翻弄され続けた精神を、ここで立て直さなければならない。ゲンガーとムウマージを傍らに置いて、あぐらを組んで目を閉じた。
深呼吸。精神統一。意識を無の境地へ――
――彼女の視線を感じる。
縁側に座って、僕を見ている。千里眼を使わなくても分かる。あの温かい視線。包み込むような、でも時折こちらの中身を全部見透かそうとするような、研究者の眼差し。
イヨリちゃんは医者であり科学者だ。僕を見る時、その目には愛情と同時に、対象を理解しようとする知性が宿っている。僕の身体の仕組みを。心臓の動きを。瞳孔の反応を。全部を科学的に解剖しようとしている。
そのことが、たまらなく色っぽいと感じるのは、僕の修行不足だろうか。
目を開けた。彼女と目が合った。
イヨリちゃんの瞳が大きく見開かれる。頬が薄紅に染まる。唇が小さく開く。
世界で一番美しい驚きの表情だと思った。
縁側まで歩いて行った。彼女の前に膝をついた。
「今日、君からずっとすごい視線を感じてたんだけど」
イヨリちゃんの顔が、みるみる赤くなっていく。首まで。耳の先まで。透き通った白い肌が、桜の花びらのように染まっていく。
綺麗だ。
顎に手を添えた。目を合わせた。
「嬉しかったよ」
本心だった。彼女が僕を見てくれている。それだけで、世界のすべてが正しい場所にあるように感じる。
キスをした。夕日の中で。
イヨリちゃんの唇は、いつも少しだけ冷たくて、すぐに僕の体温で温まる。最初は固く閉じた唇が、二秒後にはそっと力を抜いて、僕を受け入れてくれる。その二秒間の変化が、毎回、毎回、僕の理性を決壊させる。
唇が離れた時、イヨリちゃんの目が潤んでいた。頬は紅く、唇は濡れて、髪が少しだけ乱れている。
――この顔を見ると、理性が本当の意味で危うくなる。
「ご飯、先にする?」
上げたのは、自分への最後の猶予だった。ここで「先に」と言ってくれなければ、僕はこのまま夕日の中で彼女を押し倒していたかもしれない。
「……先に」
助かった。
キッチンに向かいながら、深呼吸した。精神統一。無念無想。色即是空。
――空即は色。色は、やっぱりイヨリちゃんの頬の色だ。
夜。
イヨリちゃんの髪をドライヤーで乾かしている。毎晩の習慣だ。
指の間を流れる黒髪。艶やかで、柔らかくて、ラベンダーの香りがする。この髪を梳く時間が、一日の中で最も幸福な時間かもしれない。
温風の中で、イヨリちゃんの白いうなじが見える。ハーフアップを解いた状態のうなじ。簪を外した後の、少しだけ乱れた部分。
――綺麗だ。この首筋に唇を当てたい。
修行僧の心は、もうとっくに瓦解している。
「今日は一段と、僕のことをたくさん見てたね」
「……はい」
「何か気になることでもあった?」
「いいえ。ただ……格好良かったので」
――この人は。
こういうことを、あの大きな瞳で真っ直ぐに、少しだけ俯きがちに、頬を桜色に染めながら言うのだ。計算ではない。天然だ。天然の破壊力は、計算されたそれを遥かに凌駕する。
「格好良い、か」
ドライヤーを止めた。乾いた髪に指を通す。絹の川を遡るような感触。
「嬉しいけど……困るよ」
「……どうして」
「そんなことを言われると、理性が保てなくなる」
本当のことだ。
背後から彼女を抱きしめた。小さな身体が僕の腕の中にすっぽりと収まる。この人のために作られたかのように、僕の腕は彼女のサイズにぴったり合う。
耳元に唇を寄せた。
「君が僕を好きな目で見てるの、全部分かるんだ」
首筋に唇を当てた。ラベンダーの香りが濃くなる。彼女の肌は入浴後で温かく、微かに湿っている。その柔らかさに、唇が溶けそうになる。
イヨリちゃんの身体が微かに震えた。声を堪えているのだ。唇を噛んで、必死に。
――可愛い。
この「可愛い」は、今日一日で何百回も思った「可愛い」の集大成だった。朝の寝顔。おかえりの声。湯呑みの震え。引き戸の向こうの気配。ふーふーとお茶を冷ます唇。「好きです」の二文字。赤く染まった頬。
全部、全部が可愛くて、僕の理性はもう修行ではどうにもならない場所まで追い詰められていた。
「一日中、君の視線であぶられてたんだ。もう、限界だよ」
布団の上に倒した。
見上げてくる瞳。潤んだ、琥珀色の瞳。怖がっているのではない。待っていたのだ。僕と同じように、この時間を。
「……いい?」
上げたのは、最後の理性だった。
イヨリちゃんが、小さく頷いた。
その仕草が――あまりにも可愛くて、もう。
唇を重ねた。深く。舌と舌が絡み合い、呼吸を奪い合う。イヨリちゃんの指が僕の衣の襟を掴んでいる。その指の力が、僕を求めてくれている証のようで、頭の中が沸騰した。
彼女の衣服を、一枚ずつ、丁寧に脱がせていく。焦りたくない。この人の身体の一つ一つを、今夜も新しく知りたい。鎖骨の下の、僅かな窪み。肋骨の浮き出た繊細な胸郭。腰のくびれから腿にかけての、流れるような曲線。
唇で辿るたびに、イヨリちゃんの声が漏れる。我慢しようとして、でもできなくて、唇の隙間から零れ落ちる甘い声。その声を聞くたびに、僕の中の修行僧は完全に死ぬ。
「我慢しなくていいよ」
「でも……恥ずかし……っ」
「僕しかいない。この声は、僕だけのものだから」
――独占欲。たぶん、僕はそれが強すぎる。
この人の声を。この人の表情を。この人の、熱を帯びて上気した肌を。全部、僕だけのものにしたい。他の誰にも見せたくない。聞かせたくない。
身体を重ねた時、イヨリちゃんが泣いた。
いつもそうだ。幸せすぎると、この人は泣く。「泣いてません、汗です」と言い張るけれど、目から汗は出ない。何度言っても学習しないところも含めて、可愛い。
額と額を合わせた。至近距離で、彼女の瞳を覗き込む。泣いている。笑っている。その矛盾した表情が、世界で一番愛おしかった。
「好き、です……マツバさん」
「うん。僕も」
「好き……っ、好き、好き……」
壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す彼女の唇を、僕は何度もキスで塞いだ。塞ぐたびに、唇の間から「好き」が溢れてくる。止められない。止めたくない。
彼女の背中にしがみつく指が、爪ではなく手のひらに変わった。僕を傷つけまいとする優しさ。こんな時でも、この人は僕のことを気遣う。
――それが、どうしようもなく、愛おしくて。
絶頂は、二人同時だった。
世界が白く弾けて、それから静かに暗闇が戻ってきた。互いの荒い呼吸だけが、和室に響いている。障子越しの月明かりが、汗に濡れた彼女の肌を銀色に染めている。
「……イヨリちゃん」
「はい」
「今日一日、僕を見てくれてありがとう」
「……そんなの、毎日です」
「知ってる。だから毎日、幸せなんだ」
汗で額に張り付いた前髪を払ってあげた。露わになったおでこに、キスを一つ落とす。
イヨリちゃんが僕の胸に頭を埋めた。小さな頭。ラベンダーの香り。規則的に落ち着いていく心拍。
この人を守りたい。この温もりを、永遠に手放したくない。
翌朝。
目が覚めた時、イヨリちゃんがこちらを見ていた。
驚いた。いつもは僕のほうが先に起きるのに、今日は彼女のほうが早かったらしい。
至近距離に、大きな瞳があった。朝日の中で、琥珀色に透けている。涙の痕が残る頬。髪は少し乱れていて、セミロングの毛先が枕と頬の間に挟まっている。
そして――彼女の指が、僕の前髪に触れていた。
そっと。壊れ物に触るように。指先だけで、金色の髪を梳いている。
「……好きです、マツバさん」
聞こえた。彼女は聞こえないように囁いたつもりだったのだろう。でも、僕の耳は彼女の声だけは絶対に聞き逃さない。千里眼を使うまでもない。全身の細胞が、彼女の声に同調している。
口角が上がるのを、抑えられなかった。
寝たふりを続けた。目を開けたら、彼女が恥ずかしがって逃げてしまうから。もう少しだけ、この指の感触を。この囁きの余韻を。味わっていたかった。
――僕は、エンジュシティのジムリーダーである。
千里眼の使い手にして、霊と交わす者。生と死の狭間を覗く修行僧。
だが、この女性の前では、僕はただの恋する男だ。
彼女がお茶を冷ます仕草に見惚れ、「好きです」の二文字に動揺し、論文を裏返しに持っている姿に胸を撃ち抜かれ、泣きながら「汗です」と言い張る矛盾に心を鷲掴みにされる。
修行は、何の役にも立たない。立たなくていい。
この煩悩だけは、一生手放すつもりがないのだから。
――エンジュジムリーダー・マツバ、三十一歳。
診断名、恋煩い。
主治医、星埜イヨリ。
ただし、主治医が原因のため、一生完治の見込みなし。
― Fin. ―