冬の朝は、いつもマツバさんの唇から始まる。
障子の向こうが白み始める頃、私はまだ夢と現の間を漂っていた。布団の温もりに包まれて、身体の輪郭が溶けていくような心地よさの中で、微かに意識が浮上する。
最初に感じたのは、額への柔らかな圧力だった。
温かくて、乾いていて、でもほんの少しだけ湿り気を帯びた感触。唇だ。マツバさんの唇が、私の額の傷跡の上にそっと押し当てられている。
「……おはよう、イヨリちゃん」
囁き声。低くて、掠れていて、朝一番のまだ温まりきっていない声帯が生み出す、世界で一番甘い振動。その声は鼓膜を通り越して、胸の奥まで直接響いてくる。
目を開ける前に、もう一度。今度は閉じた瞼の上に、睫毛を押し潰すほど近い距離で、唇が触れた。右の瞼。左の瞼。交互に。まるで「さあ、目を開けて」と言っているように。
「……マツバさん」
声が出ない。声帯がまだ眠っている。代わりに唇だけが動いて、音にならない彼の名前を紡ぐ。
「起きた?」
薄く目を開けると、金色の髪が視界いっぱいに広がっていた。朝日の中で見るマツバさんの瞳は、琥珀色に透けていて、その奥に小さな炎が灯っているみたいだった。
「まだ……起きてません」
「嘘だね。目が開いてる」
「心はまだ寝てます」
「じゃあ、起こしてあげる」
そう言って、マツバさんは私の鼻先にキスを落とした。ちゅ、という小さな音。子どもにするような、無邪気で軽いキス。
でも、次の瞬間、彼の唇は私の唇に降りてきた。
朝の口づけは、いつも優しい。寝起きでまだ柔らかい唇が、ただ触れ合うだけ。舌は使わない。息を交わすだけの、透明なキス。でもそこには、一晩中隣で眠っていた安堵と、目が覚めてもあなたがいてくれた喜びが、全部詰まっている。
「……好きだよ」
唇が離れるか離れないかの距離で、マツバさんが囁いた。吐息が私の唇を撫でる。
「朝一番に言いたかった。好きだよ、イヨリちゃん」
私の心臓が、ようやく目を覚ました。とくん、と大きく一回跳ねて、それから急速に鼓動を速めていく。
「……ずるいです。寝起きにそういうこと言うの」
「寝起きだから言うんだよ。一日の最初の言葉は、君への愛で始めたいから」
耳の先が熱くなるのが分かる。布団の中で身体を丸めて、マツバさんの胸に顔を押し付けた。ドクドクと脈打つ心音が聞こえる。私と同じくらい速い。つまり、こんなことを言っている本人も照れているのだ。
それが嬉しくて、くすくす笑ってしまう。
「笑わないでよ」
「だって、マツバさんの心臓、すごく速いです」
「……君のせいだ」
その一言に、私の心臓がさらに加速する。悪循環だ。二人の心臓がどんどん速くなっていく。このままだと、朝食を作る前に私の心臓が破裂してしまう。
朝食の支度をしている時も、マツバさんの唇は休まない。
キッチンに立って味噌汁を作っている私の背後に、足音もなく近づいてくる。千里眼の持ち主は、足音を消すのが異常に上手い。
「ひっ」
首筋に唇が触れた。うなじの、髪の生え際のすぐ下。味噌を溶いている手が止まる。
「マツバさん、料理中です」
「知ってる」
「危ないです」
「僕が支えてるから大丈夫」
背後から腰に手が回される。大きな手のひらが、エプロンの上から私の腰骨をそっと包む。そのまま、首筋に二度目のキス。今度は少しだけ長く、唇を押し当てる時間が長くなって、肌の上に小さな熱の跡が残った。
「い、味噌汁がしょっぱくなります」
「どうして」
「手が震えて味噌の量が分からなくなるからです」
「……可愛いね」
三度目のキスは、耳の後ろ。そこは私の弱点で、マツバさんはそれを完全に把握している。唇が触れた瞬間、背筋を甘い電流が走り抜けて、膝の力が抜けそうになった。
「っ……もう、朝ごはんが永遠にできません」
「いいよ。君がいれば、朝ごはんはいらない」
「いりますよ。人間は食べないと死にます」
「君がいないと死ぬ」
あまりにもさらっと、あまりにも真剣な声で言うものだから、私はお玉を持ったまま固まってしまった。
マツバさんの腕の中で振り返ると、金色の瞳が真っ直ぐに私を見つめていた。冗談を言っている顔ではない。本気だ。この人は本気で、私がいないと死ぬと思っている。
それは重い。重すぎる愛だ。でも、その重さが心地よいと感じてしまう私もまた、同じだけ重い愛を抱えているのだろう。
「……味噌汁、冷めますよ」
「冷めたら温め直すればいい」
「そういう問題じゃ――」
言い終わる前に、唇を塞がれた。
朝のキスよりも少しだけ深い。唇と唇の間に、ほんの僅かな隙間ができて、そこからマツバさんの吐息が滑り込んでくる。味噌の香りと、彼の体温と、冬の朝のひんやりした空気が混ざり合って、キッチンの中だけが春になったみたいだった。
「――味噌汁の味、する」
「当たり前です。味噌溶いてる最中にキスするからです」
「美味しい」
「味噌汁がですか、私がですか」
「両方」
もう、この人には勝てない。
食後、縁側に座ってハーブティーを飲んでいる時間は、一日の中で最も穏やかで、最も甘い。
マツバさんは湯呑みを両手で包みながら、庭を眺めている。冬枯れのしだれ桜。霜が降りた苔庭。池の水面に薄氷が張っている。吐く息が白い。
「寒いね」
「そうですね」
「もっと近くにおいで」
言われるままに、私は彼の左側に身体を寄せた。肩から腕にかけて、マツバさんの体温が伝わってくる。彼はいつも私より体温が高くて、冬場はまるで生きた湯たんぽのようだ。
マツバさんの右手が、私の左手を取った。デバイスの銀色の腕輪の上から、指を絡めてくる。
「冷たい」
「デバイスが冷えてるんです」
「指も冷たい」
「末端冷え性なので」
マツバさんは私の手を持ち上げて、指先に唇を当てた。人差し指の先端。中指。薬指。小指。一本ずつ、丁寧に口づけていく。
そのたびに、指先からじんわりと温もりが広がっていく。唇の熱だけじゃない。彼が私の指先を大切に扱う、その所作そのものが、身体の芯を温めている。
「こうすれば温まるかな」
「……なりません。物理的にはあまり意味がないです」
「でも、君の顔が赤くなった」
「それは温まったんじゃなくて恥ずかしいだけです」
「同じだよ。血が巡ってる」
屁理屈だ。でも、反論できない。確かに、頬が熱い。指先も、さっきよりほんの少しだけ温かい。
マツバさんが、今度は私の手のひらに唇を押し当てた。掌の真ん中。手相で言う「感情線」の始点あたり。そこに唇を当てたまま、小さな声で呟く。
「この手が好きだ」
「……え」
「メスを持つ手。ハーブティーを淹れる手。僕の手を握り返してくれる手。全部好きだ」
手のひらに残る唇の感触が、じんわりと浸透していく。まるで彼の言葉が、皮膚を通して血管に入り込んで、心臓まで運ばれていくような感覚。
私は空いているほうの手で湯呑みを持ち上げて、ハーブティーを一口飲んだ。誤魔化すために。でも、湯呑みが微かに震えているのを、マツバさんは見逃さなかっただろう。千里眼なんて使わなくても、この人は私のことを全部見透かしている。
午後、私は書斎で論文を読んでいた。
デボンとの共同研究で提出する次期アステア・システムの改良案に必要な文献を整理している最中、書斎の引き戸がことりと開いた。
「お茶、淹れたよ」
マツバさんが盆を持って入ってきた。ほうじ茶と、小皿に乗った金平糖。淡いピンクと水色と薄紫の粒が、宝石のように光っている。
「ありがとうございます」
お茶を受け取ろうとして手を伸ばした時、マツバさんが屈み込んで、私のこめかみにキスをした。
「集中してたね」
「はい。少しだけ行き詰まっていて」
「眉間に皺が寄ってた」
「え、本当ですか」
「うん。ここ」
マツバさんの指が、私の眉間に触れた。そしてそのまま、指ではなく唇で、皺を伸ばすように軽く口づける。
「……なにしてるんですか」
「アイロン」
「唇でアイロンは初めて聞きました」
「特許申請しようかな。マツバ式唇アイロン」
「却下です」
笑ってしまう。この人は、ふとした瞬間にこういう馬鹿馬鹿しいことを言って、私の緊張を解きほぐす天才だ。
ほうじ茶を一口飲んで、金平糖を一粒つまんだ。薄紫の粒を舌の上に乗せると、ゆっくりと甘みが広がっていく。
「美味しいです」
「よかった。……一つもらっていい?」
「どうぞ」
マツバさんが小皿の金平糖に手を伸ばす――かと思ったら、彼は私の顔を両手で包んで、唇を重ねてきた。
甘い。金平糖の甘さが、二人の唇の間で溶けていく。舌先がほんの少しだけ触れ合って、砂糖の結晶が彼の舌に移っていく感触に、背筋が震えた。
金平糖一粒分の、短いキス。でも、その甘さは砂糖の何倍も濃くて、胸の奥が熱く焦がされるようだった。
「……甘い」
「金平糖が、ですか」
「君が」
真顔で言わないでほしい。論文に戻れなくなる。
夕方、買い物に出た。
エンジュの商店街は冬の早い夕暮れに染まっていて、空がオレンジから紫に変わっていく途中だった。街灯がぽつぽつと灯り始めている。
マツバさんと並んで歩く。彼の左手が、当たり前のように私の右手を掴んでいる。手袋越しでも、彼の手の大きさと温もりが伝わってくる。
「今日は何を作るの」
「クリームシチューにしようかと思って。寒いですし」
「いいね。楽しみだ」
八百屋の前で立ち止まり、野菜を選ぶ。にんじん、じゃがいも、玉ねぎ。ブロッコリーも入れようかな、と手を伸ばした時、マツバさんが後ろから私のマフラーを直すふりをして、首の後ろにキスをした。
「ちょ――ここ、外ですよ!」
「マフラーで隠れてるから大丈夫」
「大丈夫じゃないです! 八百屋のおじさんが見てます!」
「見てないよ」
「見てます! 今こっち見てにやにやしてます!」
振り返ると、八百屋のおじさんが確かににやにやしていた。
「お二人さん、相変わらず仲良しだねえ」
「ありがとうございます。自慢の妻です」
「ッ! マツバさん!!」
顔から火が出そうだった。マツバさんは涼しい顔で支払いを済ませ、私の手を取って歩き始めた。
冬の空気が頬を冷やす。でも、顔の火照りは全然収まらない。繋いだ手の中が汗ばんでいるのが恥ずかしい。
「怒った?」
「怒ってません」
「嬉しかった?」
「……それも違います」
「嘘だね。耳が赤い」
マツバさんが歩きながら、私の手を持ち上げた。手袋越しに、手の甲に唇を当てる。まるで騎士が淑女にするような仕草。
「綺麗だよ、イヨリちゃん。夕日の中の君は、特別に綺麗だ」
「……お世辞ですか」
「僕が君にお世辞を言ったことがある?」
「……ないです」
「でしょう」
オレンジ色の空の下で、マツバさんが微笑んだ。風に靡く金色の髪と、夕日に透ける琥珀色の瞳。この人のほうがよほど綺麗なのに、本人はそれに全く気づいていない。
私は繋いだ手を、少しだけ強く握った。マツバさんが不思議そうにこちらを見る。
「どうした?」
「……なんでもないです。帰りましょう」
本当は、今すぐこの人の胸に飛び込みたかった。でも、ここは商店街の真ん中で、八百屋のおじさんはまだこっちを見ている。だから、手を握り返すことだけで、全部を伝える。
マツバさんの手が、私の手を包み込むように握り返した。分かってくれたのだと思う。この人は、私の言葉にならない言葉を、いつも正確に受け取ってくれる。
夜。
シチューを食べて、お風呂に入って、髪を乾かして。いつもの夜の支度が終わって、布団に並んで横になった。
障子の外に、月明かりが滲んでいる。十二月の満月に近い月。その光が障子を透かして、畳の上に淡い白い模様を描いている。
マツバさんが横を向いて、私の顔を見ている。暗闇の中でも、千里眼の持ち主の瞳は微かに光って見える。金色と紫が入り混じった、不思議な光。
「今日は一日、ありがとう」
「私のほうこそ。お茶も淹れてくれて、買い物も一緒に来てくれて」
「当たり前のことだよ」
「当たり前じゃないです。……当たり前だと思っていた幸福が、実は全然当たり前じゃないって、私は知ってますから」
マツバさんの表情が、一瞬だけ揺れた。あの数日間の空白を思い出したのだろう。でも、すぐに穏やかな笑みに戻る。傷を乗り越えた人間だけが浮かべられる、柔らかい表情。
「イヨリちゃん」
「はい」
「こっちにおいで」
言われるままに身体を寄せると、マツバさんの腕が私の身体を包み込んだ。胸の中に頭を埋める。ドクドクと鳴る心音。規則的で、温かい。
マツバさんの唇が、私の髪に触れた。頭頂部。つむじの少し右。そこから、少しずつ降りてくる。こめかみ。頬。顎のライン。
「好きだよ」
囁き声が、髪の隙間を通って耳に届く。
「君のこの髪が好きだ」
こめかみに、キス。
「君のこの目が好きだ」
閉じた瞼の上に、キス。
「君のこの鼻が好きだ」
鼻先に、キス。
「君のこの唇が好きだ」
唇に、キス。今度は少しだけ長い。唇と唇が触れ合って、離れて、また触れる。波が寄せては返すように。
「君のこの首が好きだ」
首筋を唇がなぞる。鎖骨のくぼみに、熱い息がかかる。肌が粟立つ。指先が布団を掴む。
「君のこの手が好きだ」
手首の内側に、そっと唇が押し当てられる。脈が跳ねているのが、彼の唇にも伝わっているだろう。
「君のこの指が好きだ」
指の一本一本に口づけが落ちる。丁寧に。ゆっくりと。まるで、私の身体の地図を唇で描いているように。
「マツバ、さん……」
声が震える。甘すぎて、優しすぎて、身体中の血液が沸騰しそうだった。目尻から涙が一筋、こぼれ落ちた。
「泣いてる」
「泣いてません」
「涙が出てるよ」
「これは涙じゃないです。体液です」
「同じだよ」
マツバさんが、笑いながら私の涙を唇で掬った。目尻に唇を当てて、塩辛い雫を吸い取る。
「しょっぱい」
「だから涙じゃないって言ったじゃないですか」
「嘘つき」
「嘘つきはもうやめたんです」
「じゃあ、正直に言って」
「……嬉しくて泣いてます」
マツバさんが、ふっと息を吐いた。笑っている。優しく、甘く、少しだけ泣きそうな声で。
「僕もだよ」
もう一度、唇が重なった。
今度のキスは、朝のキスとも、キッチンのキスとも、金平糖のキスとも違った。夜の闇の中で交わされる、ゆっくりとした、深いキス。唇の隙間から舌先がそっと滑り込んで、私の舌と絡まる。甘い。苦しい。もっと欲しい。
彼の手が私の背中を撫でる。指先が背骨の凹凸をなぞる。その度に身体が跳ねそうになるのを、必死に堪える。
唇が離れた時、二人の間に細い銀の糸が一瞬だけ光って、消えた。
「……イヨリちゃん」
「はい」
「もう一回、言っていい?」
「なにを」
「好きだよ」
何度でも。何百回でも。この唇が動く限り、永遠に。
マツバさんの唇が、もう一度降りてくる。私は目を閉じて、その温もりを受け入れた。
冬の夜は長い。でも、この人と過ごす夜は、いつだって短すぎる。朝が来るのが惜しい。でも、朝が来たらまた、額へのキスで一日が始まる。
唇の地図は終わらない。明日もまた、この人は私の身体に新しい口づけを刻むだろう。額に。瞼に。鼻先に。唇に。首筋に。手のひらに。
そのすべてが、「愛している」の翻訳で。
そのすべてが、私の居場所の証明で。
「――おやすみ、イヨリちゃん」
最後の口づけは、おでこに。
一日の終わりも、愛の言葉で閉じられる。
「おやすみなさい、マツバさん」
彼の腕の中で、私は目を閉じた。唇に残る温もりが、夢の入り口まで導いてくれる。
明日の朝も、きっとこの唇で目が覚める。
世界で一番甘い、おはようのキスで。
― Fin. ―