ECHOES OF ECRUTEAK

星と花の小夜曲

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

焦がれる刻、蕩ける待宵【前編】

三人称視点 / 約5,000字 / じれじれ焦らし・Sっ気

朝靄が、エンジュシティの古い街並みを薄絹のように包み込んでいた。

三月に入ったとはいえ、古都の朝の冷気はまだ鋭く、障子の隙間から忍び込む風が冬の名残を確かな輪郭として伝えてくる。築百年をゆうに超えるマツバの旧宅は、しんと静まり返り、柱や梁から香る古い木と白檀の香りが、薄明かりの中に静かに澱んでいた。

星埜イヨリは、その微かな冷気に首筋を撫でられて、薄く瞼を開いた。

視界にまず映ったのは、高い天井の年月を感じさせる深い木目。次いで、すぐ左隣から伝わってくる、確かな熱。規則正しい、静かな呼吸の音。

そちらへゆっくりと顔を向けると、そこには愛しい夫の寝顔があった。

――マツバさんだ。

金色の髪が枕の上に無造作に散らばっている。普段は額にきっちりと巻かれている紫のバンダナも外されていて、すっきりとした形の良い額が露わになっていた。長い睫毛が白い肌に淡い影を落とし、薄い唇は穏やかに閉じられている。掛け布団から少しだけ覗く鎖骨や肩の線は、着痩せする彼からは想像もつかないほどに引き締まっていて、男らしい。

――……本当に、綺麗。

何度見ても、息を呑むほどに見惚れてしまう。

結婚してまだ数ヶ月。エンジュのお屋敷の女将という立場にも、「マツバの妻」という肩書きにも、そして何より、目覚めるたびにこの美しい人の隣にいるという事実にも、イヨリはまだ慣れきれていなかった。

いや、きっと十年経とうと何年経とうと、慣れることなどないのだろう。こんなにも素敵な人が、自分のような不完全な人間を選び、繋ぎ止めてくれたという奇跡に。

愛おしさが胸の奥から込み上げ、イヨリは布団の中でそっと手を伸ばした。あの形の良い頬に、少しだけ触れてみたかった。

けれど、指先が彼の熱を帯びた肌に届く直前で、はたと止まる。

――だめだめ、起こしてしまったら申し訳ない。

ここ一週間、マツバは異常なほどの多忙を極めていた。ジムリーダーとしての挑戦者の相手はもちろん、エンジュ大学での特別講義の準備、さらにはジョウト地方のポケモンリーグ運営委員としての会議が重なり、毎晩夜半過ぎに帰宅しては、疲れた顔を見せる間もなくそのまま眠りに落ちる日が続いていた。

イヨリ自身もまた、エンジュ近郊の牧場で発生したケンタロスとミルタンクの集団感染症の対応に追われていた。ポケモンの専門医として往診に駆け回り、夜遅くに帰宅しては、泥のように眠るだけの毎日。

夫婦の寝室は同じでも、互いの身体に触れる余裕すら、今の二人にはなかった。

ただ隣で眠れるだけで幸せだと、本心からそう思っていた。

けれど。

――もう、一週間も……触れ合ってない。

ふと、そんな事実を意識してしまい、イヨリは自分の頬が一気に熱を持つのを感じた。

慌てて指を引っ込め、布団を顔の半分まで引き上げる。

何を考えているの、朝から。しかも、疲れ切って眠っている人の顔を見ながら、そんな不純なことを。

自己嫌悪と羞恥に悶えながら、イヨリは音を立てないようにそっと布団から抜け出した。

立ち上がろうとした瞬間、左足に僅かな痺れと鈍い痛みが走る。二年前の出来事で負った後遺症だ。枕元に置いてあったアステア・システムの腕輪を急いで左腕に嵌めると、デバイスが小さく起動音を鳴らし、すぐに神経の伝達を補助して感覚を安定させてくれた。

そっと襖を閉め、冷たい板張りの廊下を歩いて台所へ向かう。

古い日本家屋の台所は、早朝はまだ薄暗く、ひんやりとしている。しかし、イヨリは慣れた手つきでエプロンを結び、朝食の支度を始めた。

昆布と鰹節で丁寧に出汁を引き、豆腐とわかめの味噌汁を作る。隣のコンロでは、マツバの好きな甘めの卵焼きをふっくらと巻き上げる。炊飯器からは、炊きたての白米の甘い香りが湯気となって立ち上っていた。

障子越しに差し込む柔らかな朝日が、少しずつ台所を暖めていく。包丁がまな板を叩くトントンというリズミカルな音が、静かな朝の空気に溶け込んでいった。

「……イヨリ」

不意に、背後から低い声が降ってきた。

びくっと肩を揺らし、振り返る。そこには、寝間着姿のマツバが台所の入口の柱によりかかって立っていた。金色の髪はまだ寝癖がついて跳ねており、目を少しだけだるそうに細めている。それなのに、あの印象的な紫色の瞳だけはもう完全に覚醒していて、真っ直ぐに、射貫くようにイヨリを捉えていた。

「おはようございます、マツバさん。……起こしてしまいましたか? すみません、もう少し音を立てないように——」

「起こしてないよ。ただ……隣にイヨリがいなかったから、目が覚めただけ」

何でもないことのように無造作にそう言って、マツバはゆっくりと台所に入ってくる。

イヨリの背後に立つと、彼女の細い腰に、背後から長い両腕を回した。ふわりと、彼特有の白檀の香りと、温かな体温がイヨリを包み込む。

「……あっ、マツバさん?」

「ん……」

背中に夫の広い胸板が密着する。寝起きの彼の身体はとても熱くて、まるで大きな生き物にすっぽりと覆われているような感覚に陥る。マツバはイヨリの華奢な肩口にすり寄るように顎を乗せ、そのまま髪の間に顔を埋めて、静かに深く息を吸い込んだ。

「……いい匂い」

「え、あ、お出汁の——」

「出汁じゃなくて。俺のイヨリの匂い」

耳元で囁かれた低く掠れた声に、イヨリの心臓がどくっと大きく跳ねた。手に持っていた菜箸が、カチカチと微かに震え始める。

――朝からこれは、反則です、マツバさん……。

ただでさえ一週間も触れ合えずにいて、心が不安定になっているのに。こんな風に甘えられたら、どうにかなってしまいそうになる。

けれど、次の瞬間にマツバの口から紡がれた言葉は、イヨリの思考を完全にショートさせた。

「……今夜、会議がないから。早めに帰る」

「え?」

「一週間、ずっと我慢してたんだ。……君も、でしょ?」

腰に回された腕に、ぎゅうり、と僅かに力が込められた。

低い声が、うなじのすぐ傍で、熱を含んで震える。

「今夜は——朝までたっぷり、愛させてくれ」

カランッ、と。

菜箸がイヨリの手から滑り落ち、まな板の上に転がった。

イヨリの全身に、爆発的な熱が駆け巡る。顔だけではない、首筋から耳の先、つま先に至るまでが真っ赤に染まり、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく暴れ回る。目の前の味噌汁の鍋から立ち上る湯気が、自分の頬の熱と混ざり合って、視界をぼやく滲ませた。

「た、っぷ……えっ……」

声が出ない。喉がカラカラに乾いて、焼けたように熱い。

何か返事をしなければ。妻として、余裕のある微笑みで返さなければと思うのに、頭の中が真っ白になって、言葉がまったく形を成さない。

固まったままのイヨリの様子に満足したのか、ふっ、と短く吐息を漏らすと、マツバはイヨリの耳たぶに軽く、ちゅっと音を立てて唇を触れさせた。

ほんの一瞬。羽のように淡い口づけ。

しかしその僅かな接触と水音が、イヨリの身体の奥深く、下腹部のあたりに、焼け付くような鈍い疼きと余韻を残した。

「……じゃあ、僕は支度してくるね。朝ご飯、楽しみにしてる」

まるで今日の天気を語るのと同じくらいのトーンでそう言い残し、マツバは腕を解いて、優雅な足取りで台所を出ていった。

取り残されたイヨリは、まな板の縁を両手で白くなるほど握りしめたまま、しばらくその場から一歩も動けなかった。

心拍音が、耳の奥でうるさいほどに鳴り響いている。

「……っ、ずるい……ずるいです、あれは……っ」

へなへなと座り込みそうになるのを必死で堪えながら、誰も聞いていない台所で、イヨリは熱い頬を押さえて小さく呻いた。

*    *    *

朝食は、何事もなかったかのように過ぎていった。

少なくとも、傍から見れば、どこからどう見ても『新婚の微笑ましい朝食風景』だったはずだ。

向かい合って座り、味噌汁をすすり、卵焼きを箸で割る。マツバは「今日の卵焼き、いつもより少し甘くて美味しいよ。疲れてる僕への気遣いかな?」と完璧な笑顔で微笑み、イヨリは「そ、そうです。たくさん食べてくださいね」と引き攣った笑顔で俯き加減に答えた。

――いつも通りになんて、できるわけがない。

味噌汁の味がわからない。卵焼きの味もしない。自分が何を食べているのかすら認識できない。ただ、先刻のマツバの声と、背中に残る体温と、耳たぶに残る微かな湿り気だけが、イヨリの全神経を支配していた。

「ごちそうさま。じゃあ、いってきます」

玄関でマツバが振り返る。

紫のバンダナで金髪をきりりと纏め上げ、お馴染みの紫色のマフラーを首に巻いた彼は、もう完全に「エンジュシティのジムリーダー・マツバ」の顔をしていた。穏やかで、思慮深く、神秘的な雰囲気を纏った——エンジュの誇りと呼ばれる男。

先ほどの台所での、底知れない熱を孕んだ瞳の奥を見せた男と同一人物だとは、到底思えない。

「いってらっしゃいませ、マツバさん。お気をつけて」

何とか平静を装い、両手を前で重ねて、イヨリが深いお辞儀で見送ろうとした瞬間だった。

マツバはふいに身を屈め、妻の額にそっと唇を押し当てた。

そこには、二年前の事件で負った、一生消えない傷跡がある。イヨリ自身は見るたびに過去を思い出して胸を痛める醜い傷だが、マツバはいつも、この傷を何より愛おしいもののように扱う。

前髪を長い指先でそっと掻き上げて、その下に隠れた古い傷跡に、慈しむように、そして祈るように深いキスを落とす。

「……待っててね、イヨリ」

這うような低い声。

それは、パブリックなジムリーダーとしての声でもなく、先刻の寝室での甘い夫の響きとも違う。

絶対的な所有権を主張するような、縛り付けるような——静かで重い、呪いにも似た愛の宣誓。

玄関の重い引き戸が閉まる。

マツバの落ち着いた足音が、外の石畳の上を遠ざかっていく。

一人になった玄関の土間で、イヨリはその場にへたりとしゃがみ込んだ。

額に触れる。マツバの唇が触れた場所が、焼印を押されたように酷く熱い。傷跡ごと、不完全な自分を丸ごと貪るように愛してくれる人。

「……待ってますから、バカ……」

誰もいない薄暗い玄関で、イヨリは自分の膝に熱い顔を埋めて、消え入りそうな声で小さく答えた。

*    *    *

午前九時。

自室の机に向かい、イヨリはノートパソコンを開いて往診の記録を整理していた。

——はずだったのだが。

画面上のカルテには、牧場のミルタンクたちの経過観察記録が並んでいる。体表温度の推移グラフ、食欲メーター、抗生物質の投薬量、血液検査の数値変化。

カントーの大学を首席で卒業した腕前の彼女なら、いつもならこれらの数値を読み解き、的確な診断と次の治療方針を淡々と、機械のように正確にタイピングできるはずだ。

しかし、今日に限ってはどうしても文字が頭に入ってこない。画面のグラフの線が、ぼやけて二重に見える。

『今夜は——朝までたっぷり、愛させてくれ』

「……っぅ」

キーボードを叩く指が止まる。ぐっと、桜色の唇を噛みしめる。

だめだ。思い出すたびに、下腹部がきゅうぅっと収縮して、甘い痛みが走る。身体の芯に、朝からずっと消えない強い熱が居座り続けている。椅子に座り、太ももを擦り合わせるだけで、布越しに伝わる微かな摩擦すらもがひどく敏感に感じられてしまう。

一週間という、これまでの彼らにはあり得なかったほどの空白期間が、いかに自分の身体をマツバに飢えさせていたのかを、今さらのように思い知らされていた。

ぶるる、と左手首のデバイス、アステア・システムが小刻みに震えた。

「イヨリちゃん、心拍数が通常時の一・四七倍まで上昇しているロト! 体温も平均より〇・三度高いロト! 呼吸も浅くなっているし、これは明らかな異常事態——」

「っ、ロトム!!」

イヨリは反射的に右手でデバイスを覆い隠し、小さな叫び声を上げた。誰もいない自室だとわかっていても、耳の奥まで真っ赤に茹で上がってしまう。

「異常事態じゃないロト。生体データを分析した結果、これは明確な『性的興奮』に起因する自律神経系の過放電状態ロトね。ちなみに、前回同様の数値が記録されたのはちょうど七日前の午後十一時三十二分、マツバがイヨリちゃんの左胸に強くキスマークを吸い付けた瞬間と完全に一致——」

「やめてください!! お願いですから詳細なレポートはやめて!!」

イヨリは遂に机に突っ伏して、両手で自分の耳を塞いだ。アステア・システムに常駐しているロトムの、この一切の空気を読まないデータ収集と報告癖は今に始まったことではないが、今日ばかりは本当に心臓に悪すぎる。

「客観的事実と分析結果を伝えているだけロトよ。イヨリちゃんの健康管理は僕の最優先タスクロトからね。補足しておくと、七日間の禁欲期間は、結婚後のイヨリちゃんの過去データと比較してぶっちぎりの最長記録ロト。マツバの方言動パターンから推測するに、今夜は相当激しい接触が予測されるロト。事前の水分補給と、十分な睡眠を推奨——」

「聞こえません! 私は今、仕事中なんです!」

耳を塞いでも、デバイス自体が左手首にあるのだから骨伝導のように声が響いて意味がない。イヨリは完全に観念したように深い溜息をつき、ノートパソコンをぱたんと閉じた。

もう、今日は頭を使う仕事に集中できる気がしない。

*    *    *

午前十一時。

気分転換のために、イヨリは縁側に出て庭を眺めることにした。

マツバの旧宅の庭——今は二人の愛の巣でもあるこの場所は、歴史を感じさせる素晴らしい造りだった。手入れの行き届いた枯山水の白砂が初春の朝日を反射してきらきらと光り、奥に植えられた梅の古木が、紅白の楚々とした花をちらほらと咲かせている。三月のエンジュの空気はまだぴんと張り詰めて冷たいが、日差しの中には確かな春の温もりが芽生え始めていた。

縁側にちょこんと腰を下ろし、自分でブレンドしたハーブティーを淹れた。不安を和らげ、心を落ち着かせるためのカモミールとラベンダーのスペシャルブレンド。

鎮静効果を期待して意識的に選んだはずなのに、カップから立ち上る湯気の向こうに思い浮かぶのは、今朝の台所での、体格差のある背中からの抱擁と、夫の恐ろしいほどの熱量ばかり。

腰に回された腕の力強さ。

うなじに触れた、掠れた声と深い吐息。

そして、傷跡に落とされた、誓いのようなキス。

「………………ぅ」

カップを持つ手が、かちゃかちゃとまた震え出す。

イヨリは空いている片手で、自分の頬を包み込んだ。熱い。ひんやりとした外気に触れているのに、顔面から火が出そうなくらいに熱い。

――私、どうしちゃったんだろう。まるで、発情期のポケモンみたいじゃない。

いや、自分でも頭ではわかっているのだ。医師としての客観的な所見から言えば、これは単純に「長期間の身体的接触の欠如による欲求の蓄積と、パートナーからの明示的かつ直接的な行為の予告による、自律神経系の過剰反応に基づく交感神経の優位状態」に過ぎないのだ。

理屈はわかっている。

――でも、そんな医学的で冷静な分析をしたところで、この胸の激しい高鳴りやお腹の奥の疼きが収まるなら、誰も苦労しない。

ふと視線を感じて顔を上げると、庭の隅で瞑想していたバシャーモが、じっとこちらを見つめていた。イヨリの幼い頃からの絶対的なエースであり、彼女の半身とも言える炎の守護者。

「……な、何でもないですよ。ちょっとお茶が熱かっただけです」

バシャーモは「ふぅん」というように静かに鼻を鳴らすと、ゆっくりと目を逸らし、再び瞑想に戻った。何もかも見透かされているような気まずさと、主人の情緒不安定を見て見ぬふりをしてくれるその優しさが、今はかえって身に染みて恥ずかしかった。

*    *    *

正午を大きく過ぎた頃。

イヨリに入っていた午後の往診予定はキャンセルになった。牧場のミルタンクたちの容態が劇的に安定し、急を要する対処は必要なくなり、経過観察は翌日に回してもよいとの連絡が入ったのだ。

普段の彼女なら「ああ、みんな無事でよかった」と安堵し、喜ぶべき知らせのはずだった。

しかし今日に限って言えば、これによって「完全に午後が暇になってしまった」という事実が、心を乱されているイヨリにとっては拷問に他ならなかった。

することがない。

することがないと、余計なことを際限なく考えてしまう。

今夜のことを。

あの人が、私に何をするのかを。

気を紛らわせようと昼食を作ろうとして台所に立ったが、朝、マツバに後ろから抱きしめられたその全く同じ場所に立っていると気づいた途端、全ての動きが停止してしまった。

腰の辺りに、彼のがっしりとした腕の感触が、幻肢痛のようにまだじんわりと残っている気がする。背中に彼の胸板の圧を感じるような気がする。

「……もう、マツバさんのせいだ……」

結局、簡単な塩むすびを一つ握るのが精一杯で、それを飲み込むのにも苦労した。

午後二時。

たまらず、イヨリは入浴の支度を始めてしまった。

まだ夕方にもなっていない。真っ昼間だ。

でも、と自分の中で必死に言い訳を組み立てる。

一週間、本当に忙しくて、シャワーを浴びて倒れ込むように寝る生活だったから。たまには昼間からゆっくりと湯船に浸かって、疲れを取りたいだけ。お肌のスクラブケアもしたいし、トリートメントも時間をかけて丁寧にやりたいし。足の麻痺の具合も見ながらマッサージしたいから。

……別に、今夜彼に抱かれるために、身体を磨くわけじゃ、ない。

――大嘘つき。完全に今夜のためじゃない。

広々とした檜造りの浴室の鏡の前で、服を脱いだイヨリは、自分の身体をじっと見下ろした。

華奢な肩のライン。少し肋骨が浮き出るほど細いウエスト。しかし、その細さに不釣り合いなほど、豊かな丸みを帯びた双頭の丘と、柔らかな曲線を描く腰回り。

マツバが「最高だ」と褒め称え、夜になれば我を忘れたように執拗にしゃぶり、噛みつき、愛撫する、自分の肉体。

顔を傾け、鎖骨から胸の谷間にかけての白い肌を指先でなぞってみる。一週間前には真っ赤に咲き乱れていた無数の占有の印――キスマークたちは、もうすっかり色が抜け落ちて、痕跡すら残っていなかった。

――あの人は……今夜、きっとここに、また新しい印を……。

そこまで想像してしまって、イヨリは弾かれたように鏡から目を逸らした。

水滴のついた鏡に映る自分の顔が、情欲に当てられたように火照りきっている。

「……イヨリちゃん! 入浴中なのに心拍数の上昇係数がおかしいロト! のぼせている危険性が——」

「ロトム!! お風呂の中まで監視しないでくださいっていつも言ってるでしょ!!」

「監視じゃなくて適切なヘルスケアロト! 心拍数一三〇オーバーは危険——」

ロトムに悪気がないのは本当に理解している。理解しているが、この瞬間だけは左腕からデバイスを引き剥がして、湯船の底に沈めてしまいたいという強烈な衝動に駆られた。(もちろん、生命維持に関わるため絶対にそんなことはできないが)

丁寧に、念入りに身体を洗う。マツバの指が触れるであろう場所はすべて、特に念入りに。

高級なボディスクラブで肌を磨き、毛先までたっぷりとトリートメントを馴染ませる。洗い流した後、マツバが一番好きだと言ってくれる、檜と数種の薬草をブレンドした入浴剤を入れた湯船に、ゆっくりと身体を沈めた。

……だから、今夜のためじゃないってば。

温かな湯の中で、イヨリは両膝を抱え込んで小さくなった。

左目の視界はぼんやりと白濁し、湯気で煙る浴室の景色が半分しか見えない。右目だけで見上げる、古い木の梁が巡らされた天井。

この由緒ある広い家に嫁いできてから、何度、彼の隣で、あるいは彼に組み敷かれながら、この天井を見上げただろう。

――マツバさんは、今頃ジムで、挑戦者の相手をしてるのかな。

あの優雅で穏やかな微笑みで、挑戦者を迎えているはずだ。ゴーストタイプの扱いにかけては天才的な彼のことだ。挑戦者の恐怖心を巧みに煽り、手玉に取りながらも、最後には必ず相手の成長へと繋がるような、厳しくも懐の深いバトルをしているに違いない。

みんなが知っている「マツバさん」。

誰に対しても敬語で、礼儀正しく、柔和で、神秘的な、エンジュの誇り。

――でも、今朝の「あの顔」を知っているのは、世界中で私一人だけ。

紫色の瞳が、隠しきれない欲望の色を帯びて、薄暗く濁る瞬間。

優しかった声が低く掠れ、容赦のない命令と熱烈な懇願の狭間で震える夜。

自分という存在だけを映して、全てを飲み込もうとするかのように見開かれる瞳孔。

彼の中に潜む獣を解放できるのは、私だけ。

その事実に思い至るたび、おなかの奥が、きゅぅ、と甘く、重く、疼いた。

イヨリは、湯の中に鼻の頭まで顔を沈めて、ぶくぶくと小さな泡を吐き出した。

「……早く、夜にならないかなぁ……」

ぽつり、と。自分の口から無防備に零れ落ちた言葉のあまりのあられなさに、イヨリは自分で驚いて、再びバシャッと湯の中に顔の半分を沈めた。

*    *    *

午後四時を回り、夕闇の気配が少しずつ空に混じりはじめた頃。

近くの市場へ夕飯の買い物から戻ったイヨリは、台所の調理台に食材を並べながら、今日の献立の最終確認をしていた。

疲れているマツバが喜んでくれるものを作ろう。

彼の一番の好物である、昆布出汁をしっかり効かせた根菜と厚揚げの煮物。それから、季節を感じられるように、旬の菜の花と油揚げのお浸し。メインの焼き魚は、脂の乗った鰆(さわら)がいい。春を告げる魚だし、彼の胃にも優しい。味噌汁は朝と同じ、豆腐とわかめでシンプルに。後は大根おろしをたっぷりと添えて。

割烹着の紐を背中で結びながら、ふと、自分の行動の異常さに気づく。

普段も料理は丁寧に作っているつもりだが、今日は明らかにおかしい。市場では狂ったように一番新鮮で艶のある鰆を品定めし、菜の花は一本一本茎の太さと蕾の色を確認して選び抜き、豆腐に至っては、マツバがより喉越しがいいと言っていた大豆専門店の高級絹ごしをわざわざ遠回りして買いに行った。

――まるで、初デートの前日に、好きな男の子に渡すお弁当を必死に考えてる女子高生みたい。私、重症だわ。

いや、女子高生よりもさらにタチが悪い。「好きな男の子」どころか、戸籍上の立派な夫が相手なのだ。そのうえ、ここまで気合いを入れる隠された目的が「夕食を美味しく食べてもらうこと」ではなく、「その先の夜に向けてのスタミナをつけてもらい、機嫌を最高潮に持っていくこと」にあるのだから。

「……っ、もう! やめやめ!」

首をぶんぶんと振り、雑念を追い出す。

だめだ、今日一日ずっとこれだ。何を見ても何を聞いても、思考の着地点がすべてあの朝の『たっぷり、愛させてくれ』の一言に見事に帰結してしまう。

とにかく料理だ。料理に集中しよう。

イヨリは包丁を握り直し、皮を剥いた大根をまな板に置いた。

とん、とん、とん、とん。

小気味よい音が、静かな台所に響き渡る。

その隣では、母の形見であるバリヤードが、慣れた手つきで菜の花をさっと湯通しし、イヨリの動線を邪魔しないように食器の準備を進めてくれていた。パントマイムで「頑張って!」と応援してくれるこの優しいポケモンの存在が、今のイヨリにとっては唯一の精神安定剤だった。

とん、とん、とん、とん。

規則的な包丁の音に、少しずつ、少しずつ、乱れていた呼吸が整っていく。

料理という行為が持つ、反復的で、ある種の瞑想的なリズムが、一日中揺れ続けていた心を穏やかに鎮めてくれる。

――そうだ。大丈夫。落ち着いて。

私は、由緒あるエンジュの名家、マツバさんの妻なんだから。堂々としていればいい。夫婦なんだし、愛し合うことに何も恥ずかしいことなんてない。

今夜、あの人が帰ってきたら、いつも通り「おかえりなさい」って、優しく微笑んで出迎えればいいだけ。

そう固く心に誓った、その時だった。

ガラララッ。

重厚な玄関の引き戸が、勢いよく開く音がした。

ドクン!!

鎮まったはずのイヨリの心臓が、今日一番の巨大な音を立てて跳ね上がった。

持っていた包丁を危うく落としそうになりながら、壁掛けのレトロな時計を凝視する。

時刻は、午後五時半。

いつもジムを閉めて帰ってくる時間よりも、ゆうに一時間は早い。

『今夜、会議がないから。早めに帰る』

その言葉が、強烈なフラッシュバックのように脳裏に蘇った。

本当に、真っ直ぐに家に帰ってきてくれたのだ。

「ただいまー」

廊下から聞こえてきたのは、穏やかで、少し間延びしたような声。聞き慣れた、世界で一番大好きな人の声。

イヨリは、割烹着の裾を無意識にきゅっきゅっと握りしめた。

包丁を安全な場所に置き、濡れた手をタオルで急いで拭う。深く、深く深呼吸。

鏡は見ないが、きっと顔はまた赤くなっているはずだ。それでも、唇の端に無理やり微笑みを貼り付けて、台所から玄関へと向かう。

大丈夫。いつも通りに。夫を敬う、完璧な妻として。

「おかえりなさいませ、マツバさん。早かったのですね」

声は上ずっていなかったと思う。お辞儀の角度も完璧だ。旧家の妻として申し分のない、丁寧で温かみのある出迎えができたはずだ。

土間に立つマツバは、首に巻いた紫のマフラーを解きながら、いつもの、万人に向けられるような穏やかな微笑みをぽぅっと浮かべていた。

「ただいま、イヨリ。……うん、いい匂いがするね。今日の夕飯は何かな?」

「鰆の塩焼きと、菜の花のお浸しと、大根の煮物です。マツバさんのお好きなものばかりにしました」

「わぁ、それは嬉しいな。一日仕事した甲斐があったよ。ありがとう」

……………………普通だ。

あまりにも、普通すぎる。

そこには「マツバ流の完璧な帰宅風景」しかなかった。

マツバは靴を脱いで揃えると、イヨリの頭を作業的にポンポンと軽く撫で、廊下を歩いて着替えのために寝室へと向かった。

その整った背中を見送りながら、イヨリは猛烈な違和感と戸惑いに襲われていた。

――あれ?

あの朝の、熱を帯びた紫の瞳はどこへ行ったの?

背後から腰を抱きしめてきた、逃げ場所を奪うような腕の力は?

耳元で震えた、あの低い呪文のような声は?

帰ってくるなり、玄関から抱きすくめられるくらいは覚悟していたのに。

『今夜は——朝までたっぷり、愛させてくれ』

……まさか、あれは私の願望が見せた幻聴だったのだろうか。

いや、そんなはずがない。あの熱は、あの吐息は、そして唇が触れた感触は、絶対に現実だった。腕のロトムのバイタル記録が、何よりの証拠として残っている。

数分後、スーツ姿から着心地の良さそうな私服の和装に着替えたマツバが、居間に戻ってきた。

穏やかな表情で座卓の前に腰を下ろすと、イヨリが手早く並べた夕食の膳を見て、「うわぁ、美味しそう」と目を細める。

「いただきます。……うん、美味しい。イヨリは本当に料理が上手だね。エンジュで一番だよ」

「あ……ありがとう、ございます」

そしてマツバは、箸を進めながら、何事もなかったかのように今日の出来事を話し始めた。

「今日はジムの挑戦者が多くてね。キキョウシティから来た子だったんだけど、なかなか筋が良くて。ギリギリで勝てたけど、ゲンガーもけっこう疲弊してたよ」

「それから、大学の方の資料整理もあって……来期のオカルト学概論のシラバスなんだけど、教授陣の意見が割れちゃってさ」

朗らかに、楽しそうに、そして極めて常識的に。

イヨリは相槌を打ちながら、自分の茶碗の白米を見つめていた。大根の煮物に箸を伸ばすが、味はよくわからない。鰆にも手をつけるが、砂を噛んでいるような気分だ。

――違う。

私、何を期待してたの?

完全に、いつも通りの夕食の風景。新婚の、おしゃべりで仲睦まじい、至って「普通の」夫婦の食卓。

マツバの紫色の視線に、イヨリを絡め取るような粘っこい熱は一切ない。声色にも、あの甘く低く掠れた響きはない。

食卓の下で足が触れ合うことも、手が伸びてきて頬を撫でられることも、意味深な微笑みを向けられることもない。

食後の片付けを代わってくれることすらない。

ただ、ただ、穏やかな――『昼間のマツバさん』がそこにいるだけ。

「——イヨリ? どうしたの、箸が止まってるよ」

「あっ、いえ! なんでもありません! 美味しいですね、鰆」

「うん。春の味がするよ」

イヨリは作り笑いで誤魔化しながら、必死にご飯を口に押し込んだ。

夕食は、平和に、完璧に静かに終わった。

食後、イヨリが淹れたほうじ茶をすすりながら、マツバは当然のような顔で分厚いエンジュ大学の研究資料を広げ、それに没頭し始めた。

「僕、ちょっとこれ読んでおかないとだから」と、まるで学生が試験勉強をするような真剣な顔で。

イヨリは台所で洗い物をしながら、時折、居間の方へと視線を送った。

障子の向こうに、冬の名残を持った夜の闇が完全におりていた。

庭の梅の木が夜風に揺れて、時折、白い花弁を散らしている。その花弁が、居間の行灯の光に照らされて、障子に儚い影絵として映し出されては消えていく。

マツバは、ペンを片手に資料に食い入るように見入り、微動だにしない。

イヨリの方を、一瞥もくれない。

あの朝の言葉は。

私の一日中のそわそわは。

無駄毛の処理まで念入りにやったお風呂の時間は。

「………………はぁ」

誰にも聞こえないほどの小さな、小さな溜息が、イヨリの口から零れ落ちた。

きっと——忘れているのだろう。

いくら早めに帰れたとはいえ、一週間の極度な疲労が彼の身体と心を支配しているのに違いない。朝のテンションでついああ言ってしまったけれど、実際にジムの業務や大学のデスクワークをこなしているうちに、理性が勝って「今日は休もう」という思考に切り替わったのだ。

――そう、よね。マツバさんだって人の子だもの。神様じゃないんだから。

イヨリは台所の片付けを終え、手を拭いて居間に戻った。自分もパソコンを開き、午前中に手につかなかったカルテの整理を始めようと机に向かう。

けれど、マウスを握る指先が、どうしても気力を失って冷たい。

胸の奥が、ぎゅうっと嫌な音を立てて萎んでいくような感覚。下腹部に居座っていたあの甘い熱は、今や行き場を失って、ただの空虚な冷えへと変わってしまっていた。

今日、一日中、ずっと待っていたのに。

一日中、ずっとそわそわして、心ここにあらずだったのに。

一日中、ずっと——マツバさんの、あの甘い声と、熱い吐息と、私を求める腕の力を、思い焦がれていたのに。

でも、きっと今夜は……このまま並んで布団に入り、普通に「おやすみ」を言って眠るだけなのだ。

マツバさんは疲れている。無理をさせてはいけない。

それに、私は妻なのだ。夫の体調を一番に慮るのが、私の役目。隣で彼の寝息を聞けるだけで、私は幸せなんだから。

――だから、これでいい。大丈夫。

イヨリは自分に何度もそう言い聞かせて、小さく、無理に微笑んだ。

けれどその微笑みは、いつもよりずっと元気がなくて。

いつもよりずっと、寂しそうに歪んでいて。

今にもぽろりと零れ落ちてしまいそうな、行き場のない期待と欲求の残骸を、必死に喉の奥に飲み込んでいるような——そんな、ひどく儚く、しょんぼりとした表情だった。

障子の向こうで、梅の花弁が一枚、また音もなく散った。

イヨリは知らない。

背後で、難解な学術資料に目を落としている——完璧な「ふり」をしている夫の紫色の瞳が、紙面の上の文字など、いまだ一文字たりとも追っていないということを。

イヨリは気づかない。

その穏やかな仮面を被った横顔の奥で、朝からずっと——いや、一週間も前からずっと——凶悪に押し殺し続けてきた独占欲という化け物が、今か今かと、理性の檻の中で低く、そして重い唸りを上げていることを。

マツバの薄い唇の端が、ほんの僅かに——背を向けているイヨリからは絶対に見えない角度で——酷く歪で、ぞっとするほど美しい弧を描いた。

研究資料の上に置かれた彼の中指が、とん、と静かに、焦らすように紙面を叩く。

夜は、まだ始まったばかりだった。

――前編・了――

あとがき by 佐藤美咲

朝の一言だけで理知的なドクターを一日中そわそわさせ、帰宅後は完璧な「いつも通りの夫」を演じて焦らす……。マツバさんのSっ気と底なしの独占欲、そしてイヨリさんの可愛すぎる期待と焦りが爆発する前編です。

後編では、このパンパンに膨れ上がったメーターがついに……!?どうぞお楽しみに!♡