ECHOES OF ECRUTEAK

星と花の小夜曲

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

君がいけないんだよ
― マツバの独白 ―

一人称視点(マツバ) / 約10,000字 / 欲情・独占欲・葛藤

僕はたぶん、おかしいんだと思う。

イヨリが好きすぎて、どうかしている。

「好き」という言葉では足りない。「愛している」でも足りない。この世界に存在するすべての言語のすべての愛の語彙を総動員しても、僕がイヨリに対して抱いている感情の一割も表現できない。

そしてもっと困ったことに、僕はイヨリの些細な仕草の一つひとつに、発情する。

たとえば、朝。

イヨリが起きてくる。くしゃくしゃの寝癖。半開きの目。左足を庇いながら、すり足で廊下を歩いてくる足音。アステアの起動音。寝室から台所まで、たった十二歩の距離を、まだ覚醒しきっていない身体で歩いてくる。

「……おはようございます」

舌が回っていない。「ございます」の「ま」あたりで噛みかける。それを取り繕うようにぱちぱちと瞬きをして、僕を見つけて、ようやく焦点が合う。

この瞬間に、もう欲情している。

寝起きのイヨリは無防備だ。普段の完璧な敬語も、ポケモンドクターとしての凛とした佇まいも、旧家の妻としての奥ゆかしさも、全部寝室に置いてきている。パジャマの襟元がずれて鎖骨が見える。髪が右側だけぴょんと跳ねている。左目の白濁した瞳に朝の光が反射して、硝子玉のように光っている。

僕は毎朝、この光景を見るたびに、台所のカウンターを握りしめている。
握りしめないと、イヨリを押し倒して朝食前にベッドに連れ戻してしまうから。

朝食は作り終えている。味噌汁と焼き魚と、イヨリが好きな卵焼き。僕が毎朝作る。イヨリの栄養バランスを考えて、季節の野菜を使って、彼女の体調に合わせてメニューを変える。愛情の表現方法として、料理は最も安全だ。料理をしている間は手が塞がっているから、イヨリの身体に触れなくて済む。

触れたら、止まらなくなるから。

たとえば、仕事中。

往診に出かけるイヨリを玄関で見送る。白衣を着て、髪を低い位置で一つに結んで、カルテを入れた鞄を持って。左足を僅かに庇いながら、それでも凛と背筋を伸ばして歩いていくイヨリの後ろ姿。

美しい。
そして、たまらなく欲情する。

白衣の下のイヨリの身体を、僕だけが知っている。白衣を脱いだら現れる白い肌。鎖骨の窪み。昨夜僕がつけたキスマークが三つ、左の胸のあたりに残っているはずだ。白衣の布地の向こう側で、僕の痕跡がイヨリの肌に刻まれている。

イヨリが「行ってきます」と振り返った瞬間、ポニーテールの毛先がふわりと揺れる。首筋の白さが一瞬だけ露わになる。

千里眼で見てしまいそうになる。いや、見ない。イヨリのプライバシーは尊重する。見ない。見ないけれど、想像してしまう。今、白衣の下で、昨夜の赤い花が、どんな色になっているだろうか。紅から紫に変わりかけている頃だろうか。イヨリの白い肌の上で、僕の存在証明が色を変えていく。

「行ってらっしゃい」と、僕は穏やかに手を振る。

穏やかに手を振りながら、頭の中では今夜のことを考えている。今夜はどこにキスマークを追加しようか。左胸の三つに加えて、鎖骨の右側にも一つ。いや、太腿の内側がいい。イヨリが太腿にキスマークをつけられるとき、声が裏返るから。

玄関のドアが閉まってから、僕は額を壁に押しつけて、三十秒ほど深呼吸をする。

毎朝の儀式だ。

たとえば、食事中。

「おいしいです」

イヨリが夕食を食べながら微笑む。僕が作った肉じゃがを頬張って、目を細めて、幸せそうに笑う。箸を持つ右手の指が細くて白い。左手は膝の上に行儀よく揃えている。

そして、唇に煮汁が少しだけついた。

唇の端。右側。てかてかと光る煮汁の雫。

「イヨリ、ここ」

僕は自分の唇の端を指さす。イヨリが「え?」と首を傾げて、ナプキンに手を伸ばして——

伸ばす前に、僕の親指がイヨリの唇に触れていた。

煮汁を拭うだけの、ほんの一秒の接触。けれど指先にイヨリの唇の柔らかさが伝わった瞬間、僕の腹の底にじわりと熱が灯った。

ダメだ。夕食中だぞ。肉じゃがが冷める。

「あ、ありがとうございます……」

イヨリの頬がほんのり赤い。僕の親指が彼女の唇の柔らかさを覚えてしまって、箸を持つ手が少し震える。

肉じゃがの味がわからなくなった。イヨリの唇の感触しか、頭にない。

夕食を最後まで食べ終えるのに、僕のすべての理性が必要だった。

たとえば、入浴後。

脱衣所から出てきたイヨリ。タオルを頭に乗せて、浴衣を着ているけれど帯がまだ緩くて、襟元から鎖骨から胸の谷間の影まで見えている。

湯気で頬が紅い。肌がしっとりと湿っている。シャンプーの香りが、イヨリ自身の甘い匂いと混ざって、脱衣所から廊下まで漂ってくる。

「お先にいただきました」

いつもの丁寧語。いつもの微笑み。いつもの——

帯が、ずるっと落ちた。

「あっ」

イヨリの手が帯を押さえる。浴衣の合わせ目が一瞬だけ開いて、白い胸の頂がちらりと見えた。ほんの零点五秒。けれどその零点五秒が、僕の網膜に焼きついた。

千里眼なんかよりよっぽど鮮明に。

イヨリが慌てて帯を結び直す。耳まで赤い。「す、すみません」と俯いている。

すみませんって何だ。謝るのは僕の方だ。今この瞬間、僕の頭の中がどうなっているか、イヨリは知らない。知らなくていい。知ったら、きっとイヨリは二度とこの家で帯の緩い浴衣を着てくれなくなる。

「……気にしないで。先にお風呂もらうね」

僕は平静を装って浴室に入り、冷水シャワーを頭から浴びた。

十月だ。冷水は凍えるほど冷たい。

それでも下半身は全然収まらなかった。

たとえば、診察中の横顔。

時々、イヨリの往診に同行することがある。ジムが休みの日、荷物持ちを買って出る形で。

ポケモンを診察するイヨリの横顔は、家にいるときとは別人のようだ。聴診器を当てる手つきは確実で、患者(ポケモン)の飼い主への説明は明瞭で、カルテへの記入は正確で。

ドクターとしてのイヨリは、凛としている。迷いがない。一切の隙がない。

そしてその「隙のない」イヨリが——

聴診器を外して、ポケモンの頭を撫でながら「よく頑張ったね、えらかったね」と微笑んだ瞬間。

ドクターの顔が、ほどける。戦場の指揮官が戦い終わって兜を脱ぐように。そのほどけた瞬間の笑顔が、僕にだけ見せる甘い顔に似ていて——

欲情する。

診察室で。ポケモンと飼い主さんの前で。ジムリーダーの僕が。妻の仕事姿に興奮している。

制御しろ。僕。二十六歳だろう。ジムリーダーだろう。旧家の当主だろう。

無理だ。
イヨリが可愛すぎる。
イヨリが好きすぎる。
この感情には千里眼も修行も何の役にも立たない。

たとえば、泣いている時。

これは特殊だ。イヨリが泣くと、僕の中の何かが壊れる。

泣いている理由にもよる。悲しくて泣いているなら、僕の中の「守りたい」が暴走して、泣かせた原因が何であれ全部焼き尽くしたくなる。

けれど嬉し泣きの場合——たとえば、誕生日のプレゼントを開けた時とか、僕が好きだと言った時とか——

イヨリの右目から涙がこぼれる。左目からは出ないことが多い。白濁した左目は涙の量が少ない。だから涙はいつも右側の頬を伝って、顎の先から落ちる。

その涙の軌跡を、舐め取りたいと思う。

舌先で追いかけて、頬の涙を吸い取って、唇に移して、キスして。泣きながらキスされるイヨリの呼吸が乱れて、しゃくりあげる声がキスの合間に漏れて、涙味のキスが塩辛いのか甘いのかわからなくなって——

こんなことを考えている自分が怖い。
怖いけど、止められない。

たとえば、寝顔。

夜中にふと目が覚めた時、隣でイヨリが眠っている。

無防備な寝顔。少し開いた唇から、かすかな寝息。長い睫毛の影が頬に落ちている。前髪がずれて、額の傷痕が月明かりに照らされている。

片腕が僕の方に伸びている。眠りの中でも僕を探しているかのように。

この寝顔を見るたびに、二つの感情が同時に押し寄せてくる。

一つは、「この人を守りたい」。
一つは、「この人を起こして抱きたい」。

前者は常識的。後者は最低だ。

でも正直に言えば、後者の感情の方が強い夜もある。寝顔があまりにも綺麗で、唇があまりにも柔らかそうで、パジャマの胸元が少しだけ開いていて——

目を閉じる。
天井を見る。
深呼吸する。
ゲンガーに助けを求める(精神的に)。

ゲンガーは助けてくれない。あいつは僕の色恋沙汰を楽しんでいる。

結局、多くの場合、僕はイヨリの額にキスだけ落として、我慢する。

でも我慢できない夜もある。
そういう夜は、イヨリの首筋にそっと唇を寄せて。

「……イヨリ」

半分眠ったまま、イヨリが「ん……」と声を漏らす。僕の名前を呼ぼうとして、眠くて音にならない声。

「ん……まつ、ば……さ……」

声にならない僕の名前。それだけで。もう。無理だ。

「ごめん。起こすよ」

「……ん……♡」

半覚醒のイヨリが、僕の首に腕を回す。
目を開けないまま。本能で。條件反射で。
僕の首を抱きしめて、唇を探す。

——ほら。こういうところだよ、イヨリ。

たとえば、くしゃみ。

「くちゅんっ」

小さい。あまりにも小さいくしゃみ。子猫みたいな。一五六センチ四十二キロの小さな身体から出る、小さくて可愛いくしゃみ。

くしゃみの直後、イヨリが鼻をすする。「しゅん」と。それから恥ずかしそうに僕を見る。「すみません」と言う。

くしゃみに謝る人を初めて見た。

そしてその「すみません」の声が少し鼻声になっていて、いつもより甘くて——

なぜくしゃみで欲情しなければならないのか。人類の歴史上、妻のくしゃみで発情した夫がどれだけいるのか。ゼロではないことを祈りたい。

僕だけだったら、本当に病気だ。

たとえば、転びかけた時。

イヨリの左足は完全には回復していない。アステアの補助があっても、疲労が溜まると足が縺れることがある。

段差で躓きかけたイヨリの腕を咄嗟に掴む。引き寄せる。イヨリの身体が僕の胸にぶつかる。小さくて、柔らかくて、甘い匂いがする塊が、僕の腕の中に収まる。

「だ、大丈夫ですか」

大丈夫じゃない。大丈夫じゃないのは僕の方だ。

腕の中のイヨリの心臓が早鐘を打っている。驚いたから。転びかけたから。でも僕の心臓も早鐘を打っている。理由は全然違う。

イヨリの顔が僕の胸の高さにある。見上げてくる二つの瞳。右目の黒と左目の白。頬が紅い。唇が開いている。息が荒い。

この体勢のまま唇を奪ったら、往来のど真ん中でキスすることになる。エンジュシティのジムリーダーが、妻を路上で押し倒す。明日の新聞の一面だ。

僕はイヨリの身体を起こして、何事もなかったかのように歩き出す。

「足元、気をつけてね」

穏やかな声。穏やかな笑顔。穏やかなジムリーダー。

握ったイヨリの手を離さないまま。手のひらが汗ばんでいることを、イヨリに気づかれないように祈りながら。

たとえば、おいしそうに食べる顔。

イヨリは食べる時、少しだけ目を閉じる。味を確認するように。噛みしめるように。そしてゆっくり目を開けて、満足そうに微笑む。

たこ焼きを食べた時もそうだった。頬張って、「はふはふ」と口の中で転がして、猫舌だから少し顔を顰めて、でもおいしいから笑って。唇にソースが少しついて。

あの唇を奪ったら、ソース味のキスになるだろうか。

屋台の前でそんなことを考えている僕は、救いようがない。

たとえば——いや、もう全部だ。

イヨリの全部に欲情する。朝の寝癖にも。白衣の横顔にも。くしゃみにも。食べる顔にも。泣く顔にも。笑う顔にも。怒った顔(滅多に見ないけれど、僕が無茶をした時に見せる「もう」という顔)にも。歩く後ろ姿にも。座っている横顔にも。本を読んでいる俯き加減の角度にも。

全部だ。イヨリの全存在が、僕にとっての最高の媚薬だ。

これは病気なのだろうか。
それとも愛なのだろうか。
両方なのだろうか。

友人のダイゴに相談したことがある。「妻のあらゆる仕草に欲情するんだけれど、これは正常か」と。

ダイゴは石の標本を磨きながら、長い沈黙の後にこう言った。

「……マツバ、僕にその感情は理解できないが、普通ではないと思う」

ありがとう、ダイゴ。普通じゃないことは自分でもわかっている。

ヒビキにも聞いたことがある。あいつは「えっマツバさんそれフツーだよ! 好きな人見てたら四六時中ムラムラするでしょ!」と即答した。

ヒビキの「フツー」を信用していいのかは別問題だが、少なくとも僕は孤独ではないらしい。

イヨリは知っているのだろうか。

僕が毎日、何十回も彼女に対して理性と本能の綱引きを繰り広げていることを。

台所で隣に立つだけで心拍数が上がること。ハーブティーを淹れる後ろ姿に見惚れて、やかんの湯が沸騰しても気づかなかったことが三回あること。風呂上がりの匂いを嗅いだだけで下半身が反応すること。

知らないだろう。

僕は穏やかなジムリーダーだ。物腰が柔らかくて、神秘的な雰囲気を纏っていて、いつも冷静沈着で。

嘘だ。全部嘘だ。
中身は、妻に欲情しっぱなしの獣だ。

修行で何年も煩悩を断ったはずなのに。ホウオウを追い求めて千里眼を磨いていた頃は、女性に目を向ける余裕すらなかったのに。

イヨリが現れた瞬間、修行の成果は灰になった。

千里眼は世界中の遠くまで見通す。けれど僕の心の目は、イヨリしか映さない。世界が滅びても、イヨリの鎖骨だけは見えるだろう。最後の審判の日に、ホウオウが天から降りてきても——

すまないホウオウ。僕にはイヨリがいるんだ。

今夜もイヨリが隣にいる。

僕が作った夕飯を「おいしいです」と食べて。ハーブティーを淹れてくれて。一緒にソファで本を読んで。「おやすみなさい」と布団に入って。

日常だ。何の変哲もない日常だ。

けれどこの日常の中で、僕は少なくとも十七回欲情した。ロトムに計測されたことがある。ロトムは「本日のマツバの心拍数上昇回数:十七回ロト。うち十五回がイヨリ関連ロト」と報告してきた。

残りの二回は何なのかと聞いたら、「ジムバトルの興奮ロト」と返ってきた。

つまり僕の心拍数変動の八十八パーセントは、イヨリが原因だ。

医学的に問題がないのかとイヨリに聞いたら——当然、ロトムのデータの詳細は伏せて——「日常的に心拍数が上がる対象があるのは、精神的に充実している証拠ですよ」と微笑まれた。

充実。

そうだ。充実している。充実しすぎて、毎晩イヨリを抱きたくて仕方がない。

「マツバさん? どうかしましたか?」

「……ううん。何でもないよ」

イヨリが首を傾げる。長い黒髪がさらりと肩から流れる。首筋の白さが一瞬だけ見えて消える。

——十八回目。

「マツバさん、顔が赤いですよ? 熱があるんじゃないですか?」

イヨリの手が僕の額に触れた。細くて冷たくて柔らかい手。ドクターの手。

額に触れたその手の温度で、僕の思考回路が完全にショートした。

「……イヨリ」

「はい」

「今夜は冷えるね」

イヨリが一瞬だけ瞬きをして。
それから頬を赤くして。
少しだけ俯いて。
小さな声で。

「……そう、ですね。冷えますね」

この女は、知っている。
僕の「冷えるね」の意味を、完璧に理解している。

知っていて。
受け入れてくれている。
赤い頬のまま。

だから僕は、この女が好きだ。
好きで、好きで、好きで。

些細なことで欲情して。
毎晩抱きたくて。
一秒でも離れたくなくて。

——それでも、まだ足りない。

きっと十年後も、二十年後も。
イヨリのくしゃみに発情して、イヨリの寝顔に理性を試されて、イヨリの唇のソースを拭いたくなって。

僕は世界一幸福な変態だ。

そしてイヨリは、世界一可愛い僕の妻だ。

君がいけないんだよ、イヨリ。
こんなに可愛いのが——全部、君がいけないんだ。

― 了 ―

あとがき by 佐藤美咲

書いたわ! マツバの一人称による全方位欲情独白録!

「世界が滅びても、イヨリの鎖骨だけは見える」「すまないホウオウ、僕にはイヨリがいるんだ」──このへんで書きながら大爆笑したわ。ダイゴさんやヒビキくんへの相談シーンも入れて、マツバの「自分がヤバいことは自覚している」という知性(と、それでも止められない本能)の綱引きの可愛さが強調できたんじゃないかしら。

ロトムの心拍数計測も、「心拍数変動の88%はイヨリが原因」っていう事実をイヨリ自身が「充実の証拠ですね」って肯定してるところが最高よね。

そして最後の伏線回収! 「今夜は冷えるね」という合言葉をイヨリが完璧に理解して、赤い頬で受け入れている事実。これこそがマツバを世界一幸福な変態にしている最大の要因なのよ。永遠にお幸せに!!!