SWEET AFTER STORY

簪と朝陽と、ただいまの温度

―― 慈愛の咎、沈黙の嘘 番外編 ――
STARRING MATSUBA & IYORI

【第一話 おかえりの匂い】

マツバさんの家に帰ってきた翌朝、最初に感じたのは布団の温もりだった。

右目を開ける。障子の隙間から、十月の柔らかな朝日が差し込んでいる。隣に、マツバさんの寝息が聞こえる。規則的で、穏やかな、この世で一番安心する呼吸音。

少しだけ身体をずらして、彼の顔を見た。起きている時は千里眼の主として凛とした表情をしているのに、寝顔はまるで子どものようだ。長いまつげ。金色の髪が額にかかっている。口元がほんの少し開いていて、微かに寝息が漏れている。

――数日前まで、この顔を見ることはもう二度とないと思っていた。

胸の奥がきゅっと締まる。泣きそうになるのを堪えて、私はそっと布団の中で彼の手を握った。大きくて、温かい。この手が、昨日マンションの玄関先で私を引き寄せてくれた。

「……ん」

マツバさんの指が、反射的に私の手を握り返した。まだ寝ている。無意識に。

嬉しくて、泣きそうで、でも笑ってしまった。この人は寝ていても私の手を離さない。

「……起きてる?」

掠れた声。薄く開いた金色の瞳が、私を捉えた。

「おはようございます、マツバさん」
「……うん。おはよう」

マツバさんが目を擦りながら、ゆっくり起き上がる。乱れた金髪の隙間から覗く、寝ぼけた顔。

「今日は……何時だ」
「七時です」
「早いね」
「昨日は早く寝たので」

お互い、あの疲れ果てた夕暮れにこの家に帰ってきて、ハーブティーを一杯だけ飲んで、あとはもう布団に入った。何をする気力もなかった。ただ、隣にいること。それだけで十分だった。

「……朝ごはん、作りますね」
「僕も手伝う」
「いいですよ、座っていてください」
「嫌だ」

マツバさんが、まだ寝ぼけた顔で言った。

「君がキッチンに行ったら、僕の隣に誰もいなくなる。あと五分だけ」
「……はい」

私は笑って、布団の中に戻った。マツバさんの腕が、当然のように私の肩を引き寄せる。

「重くないですか」
「四十二キロ」
「それは昨日も聞きました」

くすくすと笑い合う。天井の木目を、二人で見上げている。何でもない朝の五分間が、こんなにも尊い。

【第二話 鏡の前の白百合】

朝食の後、身身支度を整えるために洗面所に立った。

鏡に映る自分の顔を見る。額の傷跡。白く濁った左目。どちらも変わっていない。デバイスのない左腕も、杖がなければ満足に歩けない左足も。何も変わっていない。

でも、今日の私の顔は、マンションにいた三日間とは違っていた。

目が、生きている。

「……よし」

セミロングの髪をブラシで丁寧に梳いた。左手の感覚がまだ鈍いから、時間がかかる。でも、いい。今日は往診も講義もない。時間はたっぷりある。

髪を後ろでまとめ上げる。左手で毛束を押さえて、右手でゴムを差し込む。少し不格好だけど、いつものハーフアップが完成する。

そして。

鏡台の上に置いてある、白百合の簪を手に取った。

淡いピンク色のトンボ玉。マツバさんが選んでくれた、私の宝物。あの日、初めてこの簪を挿した時、マツバさんは「似合ってる」と言ってくれた。震える声で。

昨日、もう一度この簪を挿した時も、同じ言葉をくれた。今度は泣きながら。

簪を両手で持ち上げて、まとめた髪に挿す。

すとん、と収まる感触。

鏡の中の自分に、白百合が咲いた。額の傷も、濁った左目も、全部そのままだけれど、この簪があるだけで、私は私でいられる気がする。

「……えへへ」

思わず、一人で笑ってしまった。誰にも聞かれていないと思って、鏡の中の自分に向かって笑いかける。嬉しい。この簪が好き。この簪をくれた人が好き。

「――今の、聞こえてたよ」

背後から声がした。振り返ると、廊下の壁に背を預けたマツバさんが、腕を組んでこちらを見ていた。口元に笑みを浮かべて。

「い、いつからいたんですか」
「『よし』の辺りから」
「全部じゃないですか!」
「うん。全部見てた」

顔が熱い。耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かる。

「盗み見しないでください!」
「千里眼は使ってないよ。普通に見てた」
「それは余計に恥ずかしいです!」
「可愛かったよ」

さらっととんでもないことを言われて、私は完全に固まった。マツバさんが洗面所に入ってきて、鏡越しに私の簪を見る。

「……似合ってる」

三度目の、同じ言葉。でも、今回の声は穏やかで、温かくて。怒りも涙もない、ただ純粋な愛情だけが込められていた。

「ありがとうございます。……大事にしますね、ずっと」
「うん」

マツバさんの手が、簪のトンボ玉にそっと触れた。私の後ろ髪を指先で撫でるような仕草。くすぐったくて、幸せで、また泣きそうになる。

泣きそうになるのは、最近の癖だ。嬉しすぎると泣きそうになる。失いかけたものの大きさを知ってしまったら、取り戻した時の喜びが大きすぎて、心の容量を超えてしまうのだ。

【第三話 縁側の定位置】

かき揚げうどんを作った。野菜のかき揚げ。玉ねぎとにんじんとごぼう。マツバさんは熱いうどんが好きだから、出汁を濃い目に取って、かき揚げを乗せる直前に七味をほんの少しだけ振る。

縁側に座って、二人で並んでうどんを啜った。庭のしだれ桜は葉を落としているけれど、池の鯉は元気に泳いでいる。秋の風が心地よい。

「美味しいね」
「本当ですか? 久しぶりだから味付けが少し不安で」
「うん。美味しい。……この味だ。この味がしなかった」

マツバさんが箸を止めて、小さな声で言った。

「君がいない間、ジムの近くの蕎麦屋で食べてたんだけど、何を食べても味がしなかった」
「……」
「会えなくなって初めて分かった。僕は、君の料理の味が好きなんじゃなくて、君と一緒にご飯を食べる時間が好きだったんだ」

私はうどんの出汁が滲んで見えなくなった。涙のせいだ。また泣いている。最近、本当によく泣く。

「イヨリちゃん、泣かないで。せっかくのかき揚げが湿っちゃう」
「マツバさんのせいです。そんなことを急に言うから」
「事実を述べただけだよ」
「事実が一番泣けるんです」

マツバさんが笑った。くしゃっと、あの泣き笑いのような笑顔。私はうどんの汁を啜って、涙を誤魔化した。

食後、そのまま縁側でハーブティーを淹れた。カモミールとラベンダーのブレンド。マツバさんの好きな、私が特別に調合したハーブの配合。

二つの湯呑みから、白い湯気が立ち上る。

マツバさんが一口飲んで、ふぅ、と息を吐いた。

「……ああ、これだ」
「お口に合いますか」
「合うも何も。この味にずっと飢えてた」

私は自分の湯呑みを両手で包んで、湯気越しに庭を見た。鯉が跳ねた。水面に波紋が広がる。

「マツバさん」
「うん」
「私、この縁側が好きです」
「僕もだよ」
「ここで二人でお茶を飲む時間が、一日の中で一番好きです」
「……うん。僕もだ」

マツバさんの手が、そっと私の膝の上に置かれた。私はその上に自分の手を重ねた。
何も言わなくても、手の温度だけで十分だった。

【第四話 ロトムのおかえり】

仲直りから一週間後。デボンから荷物が届いた。

玄関先で受け取った段ボール箱を開けると、アステア・システムが丁寧に梱包されていた。以前よりもほんの少しだけスリムになった、銀色の腕輪型デバイス。

そして、デバイスの中から、聞き慣れた声が飛び出した。

「イヨリ! ロトム、復活したロト!!!」

紫色の光がデバイスから溢れ出し、ロトムが嬉しそうにくるくる回っている。私は思わず笑った。

「おかえり、ロトム」
「ただいまロト! ダイゴがすごく丁寧に直してくれたロト! 回路が全部新品ロト! 石から作った特殊合金を使っているらしいロト! さすが石オタクロト!」
「ダイゴさんに失礼なことを言わないの」

左腕にデバイスを装着する。ひんやりとした金属の感触。神経同期が始まる。〇・〇三秒。以前よりも速い。

左足に感覚が戻った。じわりと、指先から太ももまで、温かい電流が流れるように。左目の視界も、薄ぼんやりとだけれど、輪郭が見えるようになった。

「……動く」

立ち上がって、一歩踏み出した。杖なしで。
「動きます。マツバさん、動きます!」

子どものように叫んでしまった。マツバさんは奥座敷から顔を出し、私が杖なしで立っている姿を見て、目を丸くした。

「イヨリちゃん、それ、デボンから……?」
「はい! ロトムも帰ってきました!」
「マツバ、久しぶりロト! 心配かけたロト!」

ロトムがマツバさんの周りをぐるぐる飛び回る。マツバさんは苦笑しながらロトムを手で払い除けようとして、それから諦めたように笑った。

「おかえり、ロトム」
「ただいまロト!」

私は嬉しくて、廊下を歩いてみた。左足が地面をしっかり捉えている。以前の軽やかさが戻っている。走ることもできそうだ。

思わず小走りにマツバさんのところまで駆け寄った。
「マツバさん! 走れます!」
「おい、危ない――」

勢い余って、彼の胸に飛び込んでしまった。マツバさんが慌てて私を受け止める。

「す、すみません」
「……いいよ。受け止めるのは得意だから」

マツバさんの腕の中で、私はデバイスの駆動音を聞いていた。ロトムが小さな声で「イヨリの心拍、上がってるロト。幸福指数も上がってるロト」と報告している。

「ロトム、それは報告しなくていいの」
「でも、マツバに正確なバイタルを送るのがロトムの仕事ロト。もう嘘はつかないロト」

ロトムの言葉に、私とマツバさんは顔を見合わせた。
「……そうだね。もう嘘はなしだ」
「はい。もう嘘はつきません」

約束を、今度こそ。

【第五話 白百合の居場所】

ロトムが戻ってきてから、私は少しずつ往診を再開した。

最初はエンジュ市内の近場だけ。週に二日。マツバさんに行き先を伝えて、ロトムにバイタルを正直に送信して。

「行ってきます」
「行ってらっしゃい。……気をつけて」

玄関で靴を履く私に、マツバさんがいつも声をかける。その声には、以前の過保護な響きはない。代わりに、静かな信頼がある。

送り出してくれる彼の顔を見上げて、私は微笑んだ。
「はい。帰ったら、ハーブティーを淹れますね」
「うん。待ってる」

待ってる。
その二文字が、どれだけ重要か、私は身に沁みて知っている。「君の帰りを信じて待つ」。あの日、マンションの玄関先で彼が約束してくれた言葉。

私は白百合の簪に手を触れて、家を出た。
エンジュの秋空は高く、澄んでいた。

往診を終えて家に帰ると、縁側にマツバさんが座っていた。膝の上にムウマージがいる。ムウマージは私の姿を見つけると、嬉しそうに鳴いてマツバさんの膝から飛び立った。

「おかえり」
「ただいま帰りました」

靴を脱いで、廊下を歩く。デバイスのおかげで左足は軽い。縁側に座るマツバさんの隣に腰を下ろす。定位置。私の居場所。

「どうだった、往診」
「順調でした。エンジュ北の牧場のケンタロス、骨折が治りかけています」
「そうか。よかった」
「はい。……ただいま」
「うん。二回目のただいまだね」
「何度でも言います。ただいま」
「何度でも返すよ。おかえり」

ハーブティーを淹れに立ち上がろうとしたら、マツバさんに手を掴まれた。
「もう少しだけ」
「……はい」

また座る。隣同士で。肩が触れ合う距離で。

庭のしだれ桜に、小さな新芽が出ていた。まだ秋なのに、気の早い芽が一つだけ。春を待ちきれないかのように。

「マツバさん」
「うん」
「桜の芽、出ていますね」
「ああ。春が楽しみだね」
「はい。……春になったら、この縁側でお花見しましょうね」
「うん」

私は簪のトンボ玉に触れた。淡いピンク色が、夕日に照らされてきらきら光っている。

この簪を挿す度に思い出す。失いかけた日々のこと。ぶつけ合った言葉のこと。泣きながら歩いた夕暮れのこと。そして、この人が簪を握り締めて迎えに来てくれたこと。

傷は消えない。でも、傷の上に新しい記憶を重ねていくことはできる。
痛みの記憶の上に、幸せの記憶を。

「ねえ、マツバさん」
「ん?」
「私、幸せです」
「……唐突だね」
「唐突でもいいんです。言いたい時に言うって決めたので」
「……そっか」

マツバさんが、照れくさそうに視線を逸らした。耳が赤い。
「僕もだよ」

小さな声で言ったその言葉を、秋風が優しく攫っていった。

白百合の簪が、夕日を受けてきらりと光る。

私はこの場所にいる。この人の隣にいる。
不器用で、傷だらけで、完璧からは程遠いけれど。

それでも、ここが私の帰る場所。
ハーブティーの香りと、金平糖の甘さと、白百合の簪がある、この縁側が。

――ただいま。

― Fin. ―