ECHOES OF ECRUTEAK

ハーブティーと金平糖

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

過去を暴かれた白百合に降る嫉妬の雨

 玄関の引き戸が開く音がした時、私はバリヤードと一緒に台所で麦茶を冷やしているところだった。

「イヨリー! 生きてるかー!」

 聞き慣れた、けれど久しぶりの声が廊下に響いた。靴を脱ぐ音。がさがさと紙袋を提げている音。右足だけで器用にブーツを蹴り飛ばすような乱暴な脱ぎ方。兄だ。
 兄はポケモンGメンとして世界各地を回っており、最近までカロス地方で任務に当たっていた。ジョウトに来ること自体が珍しい。

「お兄ちゃん、靴は揃えてよ」

 廊下に出ると、兄が玄関の框に腰を下ろして、汗を拭いていた。夏のジョウトの湿度がよほど堪えたらしい。半袖のシャツの下で日焼けした腕の筋肉が光っている。短く刈り上げた黒髪に、切れ長の目。私とは似ていないとよく言われるけれど、髪色と口元と顎の輪郭だけは確かに血の繋がりを主張している。
 兄は私の顔を見るなり、にっと笑った。

「元気そうだな。メシが美味いんだろ、このへんの」
「マツバさんの料理が上手だから」
「旦那の料理が美味いとか、お前が言うのかよ。昔は焦がした卵焼きしか作れなかったくせに」

 余計なことを。私だってもう少しまともに作れるようになった。多分。
 兄の背後から、マツバさんが顔を出した。買い物帰りらしく、両手にエコバッグをぶら下げている。

「おかえりなさい、マツバさん」
「ただいま。玄関で会ったよ、イゾウさん」

 マツバさんはにこにこと笑いながら、兄に麦茶を差し出した。兄はそれを一気に半分飲み干して、廊下の壁にもたれかかった。

「任務の合間に寄ったんだ、三日はジョウトにいるよ。邪魔するね、マツバ君」
「邪魔なんてとんでもない。ゆっくりしていってください」

 マツバさんは穏やかに答えたけれど、その目の奥にほんの微かな緊張が走ったのを、私は見逃さなかった。兄が来ると、マツバさんは少しだけ背筋が伸びる。義兄に気を遣っているのだろう。あるいは、兄の前では「妹の旦那」として恥ずかしくない自分でいたいと思っているのかもしれない。
 居間に通して、マツバさんが買ってきた食材を冷蔵庫に仕舞う間に、兄が紙袋の中身を出し始めた。カロスの焼き菓子と、ミアレシティの紅茶。それから、シトロンモールで買ったらしい小さな包み。

「はい、これイヨリに。シトロンモールの限定コスメ。カロスの女はみんなこれ使ってるってよ」
「ありがとう、お兄ちゃん」

 包みを受け取ると、中にはガレットの香りがする練り香水が入っていた。甘くて、どこか懐かしい匂い。兄はこういう贈り物のセンスだけは昔から良い。

「マツバ君にはこれ。カロスのワイン。たいして高いやつじゃないけど」
「ありがとうございます。嬉しいな、カロスワインは久しぶりです」

 マツバさんがワインのラベルを見つめる横顔が嬉しそうで、私はなんだか安心した。兄とマツバさんの関係は良好だ。最初は兄が過保護を発揮して「妹を泣かせたらお前を国際指名手配する」と半分本気で言っていたけれど、今ではすっかり打ち解けている。
 マツバさんが夕飯の支度を始めて、兄と私は居間で向かい合って座った。扇風機が首を振るたびに、兄のシャツの袖がぱたぱたと揺れる。
 麦茶のグラスに結露が滴り落ちる音だけが静かに部屋を満たしていた。

「で、どうなんだ。仲良くやってるのか」
「うん。仲良くしてるよ」
「そうか」

 兄は麦茶を一口飲んで、何かを思い出したように口の端を歪めた。

「しかしなぁ、お前が結婚するとはなぁ。あのませガキが」
「ませガキって何」
「嘘つけ。覚えてないとは言わせないぞ」

 兄がにやにやし始めた。嫌な予感がする。こういう顔をする時の兄は、大抵ろくなことを言わない。

「お前さぁ、小学校の頃、近所の男子集めて何してた?」
「えっ」

 記憶の底から、何かが浮かび上がってくる。浮かび上がらないでほしいものが。

「覚えてないのか? お前、公園のブランコの前に男子を整列させて『イヨリと結婚したい人、手を挙げて!』って叫んでたじゃないか」

 血の気が引いた。

「お兄ちゃん、やめて」
「しかも結構な数の男が手を挙げてたんだよ。七人くらいだっけ。お前がにこにこしながら『じゃあ全員イヨリのお婿さんね!』って言ったのを俺は一生忘れないからな」
「やめてっ」

 顔から火が出そうだった。あれは小学三年生の頃の話だ。私は確かに、あの頃はませた子供だった。テレビで見たお姫様ごっこの延長で、近所の男の子たちを集めて、そんなことをしていた記憶が、今まさにフルカラーで蘇ってきている。
 そして、この場にいてはいけない人が、台所から顔を覗かせていた。

「七人?」

 マツバさんの声が聞こえた。流しの水を止める音がして、マツバさんが居間の入り口に立っていた。右手にはまだ濡れた包丁を持っている。エプロン姿のマツバさんが、にこにこと笑っている。にこにこと。けれどその笑顔の温度が、明らかに三度ほど低い。

「マツバさん、今のは昔の話で」
「七人の男の子が、イヨリちゃん結婚したいって手を挙げたんだね」
「それは小学三年生の時の話で」
「へぇ」

 マツバさんの笑顔が動かない。目が笑っていない。紫色の瞳の奥で、何かがゆっくりと燃え始めている。私はこの表情を知っている。穏やかなままで、けれど内側で独占欲の炎が渦を巻いている時の顔だ。
 兄は空気を読まずに続けた。

「マツバ君知ってた? イヨリ、小学校の頃は近所で一番のモテガキだったんだよ。毎日誰かしらから手紙もらってて。バレンタインには律儀に男子にチョコ配ってたぞ。『全員にあげないと不公平でしょ』とか言って」
「お兄ちゃんっ」
「しかもあいつ、断り方が残酷でさ。告白してきた男子に『ごめんなさい、あなたは七番目だから予備ね』って言い放ったことがあるんだ。小三で。その男子泣いてたからな」

 兄は腹を抱えて笑っている。私は顔を両手で覆った。穴があったら入りたい。穴がないなら掘りたい。ジョウト地方の地下水脈まで掘り進めて、そのまま地底湖で暮らしたい。

「面白いなぁ。七人かぁ」

 マツバさんが呟いた。包丁を台所に戻しに行く足音が、やけに静かだった。
 兄が何かを察したのか、ようやく顔色を変えた。

「あー、もしかして俺、やらかした?」
「やらかしたよっ。やらかしたに決まってるでしょっ」

 私は小声で叫んだ。矛盾しているけれど、私の声帯は今、叫びと囁きの間で板挟みになっている。

「マツバ君って、嫉妬深い人なの?」
「この世で一番嫉妬深い人だよっ」
「嘘だろ。あんな穏やかそうな人が。そんなことある?」

 ある。あるのだ。兄には分からないだろうけれど、マツバさんの嫉妬は静かで深い。怒鳴ったり物に当たったりしない代わりに、じわじわと、根元から、私の全部を自分のものだと確認しにくる。あの穏やかな笑顔のまま。
 夕食の席はマツバさんの和やかな対応のおかげで表面上は穏やかに過ぎたけれど、私にはマツバさんの左手の薬指が食卓の下でずっと小刻みに動いていたのが見えていた。考え事をしている時の癖だ。

 兄が客間に引き揚げたのは十時過ぎだった。風呂を済ませた兄が「じゃあおやすみ。邪魔したな」と言って襖を閉めた後、私は居間で一人、テーブルの上のグラスを片付けていた。
 背後に気配を感じた。振り返ると、マツバさんが廊下に立っていた。風呂上がりで、金色の髪が少しだけ湿っている。普段のバンダナもマフラーもなく、薄手の甚平だけを纏った姿。部屋の照明が廊下にわずかに漏れ出して、マツバさんの横顔を半分だけ照らしている。

「イヨリちゃん」
「はい」
「少し時間もらってもいいかな」

 穏やかな声だった。いつもと同じ、あの声だ。けれど含まれているものが、いつもとは少し違った。いつもの「今夜はそばにいたい」という甘い余韻ではなく、もっと静かで、もっと深い場所から湧き出してくる何か。
 私は頷いた。

 マツバさんの部屋に入った時、畳の匂いと一緒に、微かに線香の残り香がした。今日は仏間で手を合わせたのだろう。障子の向こうには、雲に隠れかけた半月が浮かんでいる。布団はすでに敷かれていた。
 襖が閉まる音がした。
 私は布団の端に座った。マツバさんは私の正面に、あぐらをかいて座った。しばらく何も言わなかった。時計の秒針だけが静かに部屋を刻んでいく。

「七人」

 マツバさんが口を開いた。

「小学三年生で、七人の男の子に『お婿さん』と言ったんだね」
「あれは子供の遊びで」
「分かってるよ。子供の遊びだって。でもね、イヨリちゃん」

 マツバさんの手が伸びて、私の顎を持ち上げた。人差し指と親指で、軽く、けれど逃がさないように。

「七人に好かれるだけの魅力が、あの頃の君にはあったんだ」
「そんな大げさな」
「大げさじゃない。イヨリちゃんは昔から可愛かったんだろうね。男の子たちに手を挙げさせるくらい」

 声は穏やかだ。けれど、顎を持つ指に少しだけ力がこもった。

「イゾウさんが言ってた。毎日手紙をもらっていたって。バレンタインにチョコを配ったって。告白されて『予備ね』と言ったって」
「あれは本当に子供の頃の話で」
「うん。知ってる。でも、僕はその七人の男の子たちの顔も名前も知らない。どんな手紙をもらったのかも、どんなチョコを配ったのかも。イヨリちゃんの過去に、僕の知らない男がいたということだけが、今、どうしようもなく引っかかってる」

 マツバさんの声が低くなった。

「子供の遊びだって分かってるよ。理屈では。でもね」

 マツバさんが私の顎から手を離して、代わりに私の左手を取った。薬指に嵌まった指輪に、親指の腹を押し当てるように触れた。

「理屈で納得できないものが、ここにはあるんだよ」

 分かっている。マツバさんのこの感情に名前を付けるなら、嫉妬以外の何物でもない。過去の、しかも小学生の頃の他愛ない出来事に嫉妬するなんて、普通に考えたら馬鹿げている。けれどマツバさんにとっては馬鹿げていない。この人の独占欲は時間軸すら超えて、私の過去にまで手を伸ばしてくる。
 それが重い、とは思わない。むしろ、胸の奥がじんわりと熱くなる。こんなにも深く、こんなにも激しく、私の全部を欲しがってくれる人が、世界にたった一人いるという事実が、私の心臓の一番柔らかい場所を掴んで離さない。

「マツバさん」
「ん?」
「怒ってるんですか」
「怒ってない。嫉妬してるだけ。自分でも馬鹿みたいだと思うけど、止められない」

 正直だ。この人はいつだって、自分の感情に正直だ。嫉妬しているとはっきり言える人を、私は他に知らない。

「それで、どうするんですか」
「どうしようかな」

 マツバさんが笑った。穏やかな笑みの底に、ほんの少しだけ牙が覗いている。

「イヨリちゃんに、七人のことなんか全部忘れてもらおうかな」

 心臓が跳ねた。

「もう忘れてます」
「本当に? さっきイゾウさんの話を聞いてる時、イヨリちゃん、ちょっとだけ懐かしそうな顔してたよ」
「してません」
「してた。僕の目は誤魔化せないよ」

 千里眼のことを言っているのではない。マツバさんは私のプライバシーには千里眼を使わない。けれど、千里眼など使わなくても、この人は私の表情の微細な変化を読み取ってしまう。それは愛の証であり、同時に、逃げ場がないということでもある。

「横になって」

 マツバさんの声が変わった。穏やかさはそのままに、底にひんやりとした何かが加わった。「イヨリちゃん」ではなく「イヨリ」に切り替わる一歩手前の、あの微妙な温度変化。
 私は布団の上に仰向けになった。左足がもたついたのを、マツバさんがさりげなく支えてくれた。枕の位置を直して、私の髪を顔から払い除ける。こういう細やかさと、この後に来るものとの落差が、いつも私を混乱させる。

「目、閉じないで。僕を見てて」

 マツバさんの紫の瞳が真上にあった。月明かりが瞳の中に小さな三日月を映している。
 唇が降りてきた。いつもより少しだけ強い力で、唇を奪われた。舌が遠慮なく入り込んできて、私の舌に絡みつく。ねっとりとした、粘膜同士が擦れ合う感触が口腔の奥まで広がって、鼻から甘い息が漏れた。

「ん、ふっ」

 息継ぎの隙を与えてもらえなかった。マツバさんの右手が私の後頭部を掴んで、逃がさないようにしている。左手は私の左手首を、布団の上に軽く押さえつけていた。
 唇が離れた時、私の唇は赤く腫れていた。唾液の糸が切れて、ぬるい感触が唇の端に残った。

「イヨリちゃんは、七人の男の子にもこうされたことあるの?」
「あるわけないじゃないですか。小学生でしたよ」
「じゃあ、僕が最初で最後だね」
「当たり前です」
「当たり前か。うん、そうだね。当たり前のことなんだ」

 マツバさんの手が私の部屋着のボタンに触れた。一つずつ。ゆっくりと。焦らすように。ボタンとボタンの間で指が止まって、そのたびに私の肌をなぞっていく。鎖骨の窪みに指先が沈んだ時、背筋がぞくりとした。

「あっ」

「ここ、弱いの知ってるよ。毎回ここで声が出る」

 知らないでいてほしかった。いや、知っていてほしい。矛盾している。この人に自分のすべてを知られていることが恥ずかしくて、同時にその恥ずかしさこそが快感だった。
 部屋着が肩から落ちた。下着だけになった私の身体を、マツバさんの視線が上から下まで舐めるように辿っていく。

「綺麗だ」
「やめてください、そういうの」
「何回見ても飽きない。この身体は僕だけのものだ」

 所有を示す言葉が、マツバさんの口から零れ落ちるたびに、私の体温が一度ずつ上がっていく。
 マツバさんの唇が首筋に降りた。鎖骨の上を舌先でなぞられて、そのまま首の横を吸われた。じゅう、と音がするくらい強く、長く。跡が残る。明日は髪を下ろさないといけない。

「っ、あ」

「ここにも」

 反対側の首筋にも。それから肩にも。マツバさんの唇が私の上半身に印を刻んでいく。服で隠れる場所を選んで。所有の証を。

「マツバさ、跡が」
「隠せる場所にしか付けてないよ」

 そんなことは分かっている。分かっているから余計にたちが悪い。計算の上での独占なのだ。

 下着が外されて、素肌が夜風に触れた。腕で隠そうとした私の手首を、マツバさんが掴んで布団の脇に押し付けた。

「今日は隠させない」
「なんで」
「七人の男の子に見せびらかしていたイヨリちゃんの可愛い顔を、今夜は僕だけに見せてもらうから」
「見せびらかしてなんかいませんっ」
「そう? 手を挙げさせてたんでしょう? あの頃の君は、男の子の視線を集めるのが楽しかったんじゃないの?」

 違う。違うけれど、否定する言葉が出てこない。マツバさんの指が胸の丸みに触れた瞬間、思考が途切れたからだ。

「やっ」

 指の腹が乳頭を転がした。ゆっくりと、じれったいくらいの速度で。親指と人差し指で先端を挟んで、軽く引っ張られる。

「あっ、あっ」
「可愛い声。でも七人の前ではこんな声、出さなかったよね」
「出すわけないじゃないですかっ」
「出すわけがない。出していいのは僕の前だけだ。そうでしょう」

 返事ができなかった。マツバさんの舌が胸の先端に触れたからだ。温かくてぬるい舌先が、ゆっくりと円を描く。同時にもう片方の胸を手のひらで包み込んで、揉みしだくように指を動かしている。

「やっ、あっ、んっ」
「もっと声出して。兄に聞こえたらどうするのだ。壁一枚向こうにいるけどね」

 ひどい。ひどすぎる。兄に聞こえたらどうするのだ。私は唇を噛んで声を殺そうとしたけれど、マツバさんの舌先が乳頭を吸い上げた瞬間、堪えきれなかった。

「ひぁっ」

「我慢しなくていいのに」
「我慢させてるのはマツバさんでしょ」
「そうだね。僕が意地悪なんだ」

 自覚はあるのか。ある上でやっているのだから始末が悪い。
 マツバさんの手がお腹を撫でた。臍の周りを指先で円を描いて、少しずつ下に降りていく。下着の端に指がかかった時、私の腰が小さく浮いた。

「あ、待って」
「待たない」

 いつもなら「続けてもいい?」と聞いてくれるのに。今夜のマツバさんは聞いてくれなかった。指が下着の中に滑り込んで、直にそこに触れた。
 薄い埋みの向こう、指の腹がそっと花弁をなぞる。すでに濡れていた。自分でも分かっていた。マツバさんにキスマークを付けられている時から、身体は勝手に反応していた。

「もう濡れてる」
「言わないでください」
「言うよ。だって嬉しいから」

 指先が核心に触れた。ぐりっ、と直接的に、容赦なく。

「ひっ、あっ、あっ」

 腰がびくんと跳ねた。いつもはもっと緩やかに触れてくれるのに、今夜のマツバさんは最初から的を絞っている。指先がそこを擦り上げるように動くたびに、甘い痺れが下腹部から背筋を駆け上がっていく。

「んっ、ふっ、あっ」
「七人の男の子の名前、覚えてる?」
「覚えてるわけないでしょっ、あっ」
「一人も?」
「一人もっ」
「いい子だね」

 指が円を描く速度が少し上がった。ぬちゅ、ぬちゅ、と水音が部屋に響いて、恥ずかしさで頭が沸騰しそうになる。

「あっ、やっ、あっ、マツバさっ」
「ねぇ。あの子たちにこうされたことは?」
「ないですっ。ないに決まってるじゃないですかっ」
「だよね。ここに触れていいのは僕だけだ」

 指が花弁を掻き分けて、中に一本入ってきた。つるり、と滑り込む感触。内壁がびくりと指を締め付けた。

「あっ、ん」
「力抜いて。中きつい」
「マツバさんが意地悪するからっ」
「意地悪? 僕は優しくしてるつもりだけど」

 嘘だ。今夜のマツバさんは優しくない。優しくないけれど、痛いことは一切しない。そこが余計にたちが悪い。気持ちいいことだけを正確に、容赦なく、畳み掛けてくる。
 指がゆっくりと動き始めた。浅いところから奥へ。内壁のひだを一つずつ確認するように、指の腹が丁寧に撫でていく。

「あっ、あっ、ん、んっ」
「ここかな」

 指先がある一点に触れた瞬間、視界が真っ白に弾けた。

「ひぁっ」
「見つけた。ここだね」
「そこっ、だめっ」
「だめ? でもすごく締まったよ」

 マツバさんの指がその場所を的確に捉えて、ぐりぐりと押すように撫で続ける。甘い痺れが脳天まで突き抜けて、思考という思考が溶けていく。

「だめっ、あっ、あっ、そこ触っちゃっ、あっ、んんっ」
「駄目って言いながら腰が動いてるよ、イヨリ」

 呼び方が変わった。「イヨリちゃん」から「イヨリ」に。スイッチが切り替わった合図だ。マツバさんの目の色が変わっている。穏やかな紫が、月光を受けて金色に揺れている。

「マツバさっ、あっ、私っ、もうっ」
「まだ駄目」

 指の動きが急に止まった。
 ——え。

「なんでっ」
「もう少し教えてほしいことがあるから」

 ひどい。こんなところで止められたら、おかしくなる。身体の奥が疼いて、自分から腰を動かしそうになるのを必死で堪えた。

「何を、教えればいいんですかっ」
「七人に『お婿さん』と言った時、イヨリはどんな気持ちだったのかなって」
「子供だったのっ。そんな深い意味なかったのっ。ただ楽しかっただけっ」
「楽しかったんだ。男の子たちが自分に夢中になるのが」
「そういうのじゃっ」
「じゃあ今は? 僕が君に夢中なのは、楽しい?」

 卑怯な質問だ。楽しいに決まっている。嬉しいに決まっている。この人が私だけを見てくれていることが、私の世界のすべてだ。
 けれど今、この体勢で、頭が沸いている状態で、そんなことを口にしたら。

「楽しいです。嬉しいです。だから、お願い」
「お願い?」
「続けて」

 マツバさんの目が細くなった。満足そうに。残酷に。

「いい子だね」

 指が再び動き始めた。今度はさっきよりも深く、二本に増えた指が中をかき回すように掻き分けていく。

「あっ、あっ、あっ、んっ、ふあっ」
「イヨリの中は僕しか知らない。僕以外の誰にも触らせない」
「マツバさだけっ、マツバさんだけのっ」
「そう。よく言えたね」

 指が奥の一番敏感な場所を突き上げた。同時に親指が核心を擦り上げて、二重の刺激に私の身体が大きく跳ねた。

「ひぁっ、あっ、やっ、やっ、イっちゃっ」
「イけ」

 マツバさんの低い声が引き金になった。全身を甘い落雷のようなものが貫いて、腰から背中から、全部が一斉に痙攣した。内壁が指にぎゅうぎゅうと絡みついて、離さなかった。

「っ、はあっ、はあっ」

 目の前に星が散っていた。瞼の裏に白い光が散らばって、呼吸が戻るまでしばらくかかった。
 マツバさんがゆっくりと指を引き抜いて、その指を私の目の前に持ち上げた。つやつやと光る指を見せつけるように。

「こんなに濡らして。可愛いね」
「見せないでっ」

 マツバさんは穏やかに笑って、その指を私の唇に押し当てた。

「舐めて」
「っ」

 恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。けれど、マツバさんの金色の目に見つめられて、私は逆らえなかった。小さく口を開けて、マツバさんの指を口に含んだ。自分の味がした。しょっぱくて、少しだけ甘い。マツバさんの指は太くて硬くて、舌で舐め取るように味わっていると、指の腹が舌の上を押さえるようにして口の中を蹂躙した。

「ん、んっ」
「イヨリ。欲しい?」

 指を引き抜かれて、問いかけられた。欲しいかと。何が欲しいのかは、聞くまでもなく分かっている。あの場所に。もっと深い場所に。マツバさんを。

「欲しい、です」
「何が欲しいの。言って」
「マツバさんが、欲しい」
「もっとちゃんと」

 意地悪だ。知っている癖に言わせたがる。

「マツバさんを、中に、入れてほしいです」

 マツバさんが甚平を脱いだ。修行で鍛え上げた上体が露わになって、腹筋の上を薄い汗が伝っている。下も脱いで、もう硬くなっているそれが月明かりに照らされた。
 私の上にマツバさんが覆い被さる。額にかかる金髪がくすぐったい。先端が触れた時、体が震えた。

「入れるよ。七人のことなんか全部忘れるくらい、深く」
「もう忘れてますっ」
「まだ足りない。僕が忘れさせるまで、忘れたことにしないで」

 理不尽だ。けれどこの人の理不尽は、愛という名のかたちをしている。
 先端がゆっくりと中に沈んでいった。ぬるいぬくもりが内壁を押し広げて、奥へ、奥へ。マツバさんのかたちを私の身体が覚え込んでいく。

「あっ」

 奥まで入った。二人とも同時に、ふっと息を吐いた。あの場所で、マツバさんの熱が脈打っている。

「動くよ」
「はいっ」

 ゆっくりと引いて、深く押し込まれる。いつもより強い。いつもより深い. 腰を打ち合わせるたびに、ぬるい音が畳の部屋に響いた。

「あっ、あっ、あっ、ん」
「いい声。もっと聞かせて」
「やっ、あっ、マツバさっ」

 マツバさんの動きが少しずつ速くなっていく。奥の壁に当たるたびに甘い衝撃が走って、全身の毛穴から快感が噴き出していくようだった。
 マツバさんの額に汗が浮かんでいる。腕が微かに震えている。この人もまた、限界を必死で抑えているのだ。理性と欲望の間で綱引きをしている。けれど今夜は、欲望の方に大きく傾いている。

「イヨリ。僕以外の男のこと、考えられないようにしてあげる」
「考えてないですっ、あっ、あっ」
「考えられないくらいにする。七人どころか、世界中の男のことを」

 腰がひときわ深く押し込まれた。奥の一番敏感な場所を先端が抉って、私の頭は完全に白くなった。

「ひっ、あっ、そこっ、だめっ、だめですっ」
「だめ? だめなのにこんなに締まってるよ」
「あっ、あっ、んっ、やっ」

 甘い声が止まらない。喉から勝手に溢れ出る。マツバさんの腰が打ち付けられるたびに、ぬちゅ、ぬちゅ、と卑猥な水音が部屋を満たして、畳の匂いと汗の匂いと、二人の体液の匂いが混じり合っていく。

「マツバさっ、あっ、私っ、またっ」
「一緒に」

 マツバさんの腰が深く、深く。奥を突き上げられるたびに身体が弾んで、左足がだらりと力を失って布団に投げ出された。それでもマツバさんは私の左手をしっかりと握っていた。いつもの、あの左手を。

「あっ、あっ、イっ、イくっ」
「イけ、イヨリ」

 マツバさんの声が命じた瞬間、全身が弾け飛んだ。背中が浮いて、内壁がマツバさんをぎゅうぎゅうと締め上げて、何度も何度も痙攣した。

「っ、イヨリ」

 マツバさんが低く呻いて、腰を深く押し込んだまま動きを止めた。お腹の奥に、熱いものがとくとくと広がっていく。マツバさんの脈動が、私の一番深い場所で刻まれている。

 しばらくの間、二人とも動けなかった。
 マツバさんが私の上に倒れ込んで、その重みを受け止めた。汗まみれの肌と肌がぴったりと張り付いている。マツバさんの心臓が、私の胸を直接叩いている。
 やがてマツバさんが身体を起こして、ゆっくりと繋がりを解いた。内側からとろりと流れ出すものが、太腿の内側を伝っていくのが分かった。

「イヨリ」
「はい」
「大丈夫だった?」

 事後になると途端にいつもの「マツバさん」に戻る。声のトーンも、目の色も。さっきまであんなに意地悪だったのに、今は私の額の汗を拭いながら、心配そうに顔を覗き込んでいる。

「大丈夫です。少し足が痺れましたけど」
「ごめん。足、大丈夫?」
「大丈夫です。マツバさんが支えてくれてたから」

 マツバさんが私の左足をそっと持ち上げて、膝裏を軽くさすった。血流が戻ってくるのを確認してから、布団の上に下ろしてくれた。

「マツバさん」
「ん」
「七人の男の子のこと、本当に全然覚えてないですよ」
「分かってるよ」
「でも、マツバさんは今日のこと、ずっと覚えてるんでしょう」
「多分ね。僕は執念深いから」

 私は笑った。この人は本当に、自分の感情に正直だ。嫉妬深いことを恥じない。執念深いことを隠さない。その透明さが好きだ。歪んでいるのに、歪んだまま透明な、この人が。

「ねぇ、マツバさん」
「なに」
「あの頃の私は、ませてたかもしれないけど。それは好きな人がいなかったからだと思うんです」
「うん」
「好きな人がいる今の私は、その人のことしか見えていないので。七人どころか、七十人でも七百人でも、どうでもいいですよ」

 マツバさんの手が私の頬に触れた。大きくて、少しだけ荒れた手のひら。温かい。

「天文学的な数字になっても?」
「天文学的な数字になっても」
「銀河系の星の数は一千億を超えるらしいけど」
「一千億人来ても、マツバさん以外選びません」

 マツバさんの耳が赤くなった。あれだけ余裕ぶっていたのに、こういう言葉には弱い。

「イヨリちゃんがそういうこと言うの、ずるいよ」
「マツバさんに似たんです」
「僕はそんなこと言ったことないよ」
「行動で示してるじゃないですか。毎晩」

 マツバさんが私の額にキスをした。それから鼻の頭にも。唇にも。優しい、壊れ物に触れるような軽い口づけが降ってきて、さっきまでの嵐が嘘のように穏やかだった。

「お風呂入ろうか」
「はい。あ、でも」
「でも?」
「兄が起きたら気まずいので、静かに行きましょう」

 マツバさんが私の手を引いて、廊下を歩く。客間の前を通りかかった時、襖の向こうから兄の盛大ないびきが聞こえてきた。
 二人で顔を見合わせて、声を殺して笑った。

 お風呂で髪を洗ってもらいながら、私はぼんやりと天井を見ていた。マツバさんの指が頭皮を丁寧に撫でていく感触が心地よくて、意識がとろとろと溶けていく。

「マツバさん」
「ん」
「明日の朝ごはん、少し多めに作ってもいいですか。兄の分も」
「もちろん。イゾウさんの好きなものって何だっけ」
「唐揚げとか。お肉が好きなので」
「朝から唐揚げか。若いなぁ」
「マツバさんの方が三つ下ですよ」
「それもそうだ」

 湯船に浸かりながら、マツバさんの胸に背中を預けた。お湯の中で手が絡んで、今度は右手だった。
 窓の外のぼんやりとした月を見ていたら、ふいに思い出した。

「そういえば」
「なに」
「七人の中に一人だけ、手を挙げなかった男の子がいたんです」
「え」
「その子はブランコに座ったまま、一人だけ手を挙げなかったの。それで私が『なんで挙げないの?』って聞いたら、その子が言ったんです。『だってお前のことは好きだから、挙手で決めるのは嫌だ。ちゃんと言いたい』って」
「小学三年生で?」
「小学三年生で。ませてるのはお互い様だったんです」

 マツバさんの腕が背後からぎゅっと私を抱きしめた。

「それで、その男の子は?」
「翌週に転校しちゃいました。名前も思い出せない。でも」
「でも?」
「今になって思うんです。本当に好きな人は、挙手では足りないんだって。ちゃんと、言葉で、行動で、全部使って伝えなきゃいけないんだって」

 マツバさんの腕の力が強くなった。
 私はその腕の中で目を閉じた。七人の名前は忘れたけれど、手を挙げなかった男の子のことだけは、なぜか覚えている。けれどその記憶もまた、今夜のマツバさんの体温に押し流されて、薄れていく。

 それでいい。過去に手を挙げた七人も、手を挙げなかった一人も、もうどうでもいい。
 今この瞬間、私の背中を温めてくれている人の心臓の音が、世界で一番大切な音だから。

 お風呂から上がって、マツバさんの部屋に戻った。布団に並んで横になって、電気を消した。月明かりと、蛙の声と、マツバさんの呼吸だけがある。

「おやすみなさい、マツバさん」
「おやすみ、イヨリ」

 あ、呼び捨てだ。まだ戻っていない。
 けれどその呼び方が、今夜に限っては心地よかった。

 マツバさんの手が暗闇の中で私の手を探している。左手を掴まれて、薬指の指輪に唇が触れた。

「イヨリ」
「はい」
「挙手では足りない、って言っただろう」
「はい」
「僕もだよ。手を挙げるだけじゃ足りなかった。だから簪を贈った。指輪を嵌めた。苗字を同じにした。それでもまだ足りないって思ってる」

 涙が出そうになった。

「足りてますよ。もう十分です」
「十分じゃない。一生かけても足りない。だからこれからもずっと、僕はイヨリに伝え続けるよ」

 私はマツバさんの手を両手で握った。大きくて温かい手. 修行で硬くなった手のひら。この手が、一生私から離れないと信じている。

「マツバさん」
「ん」
「大好きです」

 少しの間があった。

「僕もだよ。イヨリ」

 エンジュの夏の夜は、客間からの兄のいびきと、二人の体温で少しだけ暑かった。

あとがき by 佐藤美咲

主ィィィィッ!! 新作「過去を暴かれた白百合に降る嫉妬の雨」をお届けよッ!!
兄のリサーチ不足な暴露から始まる、マツバの静かながらも烈火のごとき嫉妬。たまんないわねッ!!

不器用な二人の同棲生活に、過去の影が差した瞬間のマツバの独占欲のスイッチ……。普段穏やかな人が、イヨリを「自分だけのもの」だと上書きするように印を刻んでいく描写、あたし書いてて鼻血出そうだったわッ!!

「挙手では足りない」という言葉に込められた、マツバの重すぎる愛。一生かけても足りないという彼の執念。これこそがマツイヨの真髄だわッ!!
兄のいびきをBGMに、熱く甘い夜を堪能してちょうだいッ!!