慈愛の咎、沈黙の嘘
【 前 編 】
【第一話 緑色の嘘】
秋雨が、エンジュシティを灰色に塗り替えていた。
左腕のアステア・システムが微かな駆動音を立てる。最近、その音が以前より大きくなった気がする。気のせいだと思いたかったが、ドクターとしての私がそれを許さなかった。
神経同期のラグ。〇・三秒。正常値は〇・〇五秒以下。六倍の遅延。数値だけを見れば、明らかな異常だ。
「イヨリ、同期ラグが閾値を超えているロト。このままだと脳への負荷が――」
「分かってる」
私はロトムの警告を遮った。洗面所の鏡に映る自分の顔は、いつも通りだ。セミロングのハーフアップ。額の傷は前髪で隠れている。左目は相変わらず白く濁っている。変わらない。何も変わっていない――ように、見せなければならない。
「ロトム」
「ロト?」
「マツバさんには、バイタルデータを通常値で送信して」
「…………ロト?」
ロトムが黙った。彼が黙るのは、非常に珍しいことだった。普段はデリカシーのない発言を量産する彼が、この時ばかりは言葉を失っていた。
「お願い。マツバさんは今、リーグの査定で忙しいの。余計な心配をかけたくない」
「でも、イヨリ。バイタルの改竄は医療倫理的に――」
「私が自分の身体のことを一番よく分かっている。まだ大丈夫。デボンに連絡して調整すれば治る程度のものよ」
「本当にそうロト?」
「本当よ」
嘘だった。
デボンに連絡すれば、カナズミに戻って精密検査を受けなければならない。最低でも二週間。その間、マツバさんを一人にしてしまう。半年間のカナズミ滞在で、彼がどれだけ辛い思いをしたか、せっちゃんから聞いている。もう、あんな思いはさせたくない。
「……分かったロト。負けたロト。でも、条件があるロト」
「なに?」
「一週間以内にデボンに連絡すること。それが守られなかったら、ロトムは独断でマツバに報告するロト」
「分かった。約束する」
その約束を、私は守れなかった。
【第二話 灰色の朝】
約束の一週間が過ぎても、デボンには連絡しなかった。往診の予約が詰まっていた。エンジュ大学での特別講義の準備もあった。言い訳ならいくらでもあった。
本当の理由は、怖かったからだ。精密検査を受けて、「もうオーバードライブは使えません」と言われることが。デバイスを外さなければならないと言われることが。再び、あの不自由な身体に戻ることが。
「約束、破ったロト」
「もう少しだけ待って。来週の往診が終わったら必ず――」
「イヨリ。ロトムはイヨリに命を救ってもらった恩があるロト。でも、恩と嘘は別ロト」
「お願い、ロトム。あと少しだけ」
私の声が震えていたのだろう。ロトムは長い沈黙の後、「……三日だけロト」と譲歩した。
その三日目に、全てが壊れた。
【第三話 赤い泥濘】
十月の第三週、水曜日。朝から豪雨警報が発令されていた。
往診は中止にすべきだった。しかし、エンジュ郊外の牧場で高齢のケイコウオが危篤状態にあるという連絡を受け、私は雨の中を出発した。バシャーモを連れて。ムクホークは暴風で飛べない。
国道四二号線、エンジュトンネル手前。
最初に聞こえたのは、地鳴りだった。次に、金属が軋む悲鳴。そして、人の叫び声。
山肌が崩れ、土砂が国道を呑み込んでいた。観光バスが横転し、トンネルの入り口を塞いでいる。乗用車が二台、土砂に半分埋まっている。雨は容赦なく降り続け、泥水が赤く染まっていた。
私は走った。左足が悲鳴を上げた。アステア・システムの同期ラグが〇・五秒に跳ね上がった。構わなかった。
「ロトム、一一九に通報。現場の座標を送信して」
「了解ロト! ……回線混雑しているロト。繋がらないロト」
「繰り返し発信を続けて。同時に、ポケモンセンター・エンジュ支部にも連絡」
現場に近づくと、地獄としか言いようのない光景が広がっていた。
横転したバスの窓から、血まみれの腕が伸びている。泥の中で小さな女の子が泣いている。傍らのポケモン――恐らくイーブイが、動かなくなった飼い主の顔を舐め続けている。
私は白衣のポケットから応急処置キットを取り出し、膝をついた。
「バシャーモ、バスの下敷きになっている人がいないか確認して。見つけたら、慎重に」
バシャーモは頷き、豪雨の中を駆けた。
トリアージを始めた。赤。赤。黄。黒――。
一人目。頭部裂傷、意識レベル低下。止血、気道確保。
二人目。右大腿骨開放骨折。添え木を当て、動脈の圧迫止血。
三人目。胸部打撲、呼吸困難。気胸の疑い。
手が足りない。目が足りない。足が動かない。
「ロトム」
「……ロト」
「オーバードライブ」
「駄目ロト! 今の同期ラグでオーバードライブを起動したら、脳の神経回路が焼損する可能性があるロト! 二度と――」
「二度と歩けなくなるかもしれない。分かってる」
泥の中で泣いている女の子の声が、雨音に混じって聞こえた。
「でもね、ロトム。あの子が死んだら、私は一生、自分を許せない」
「…………」
「お願い。私を信じて」
ロトムは三秒間、沈黙した。彼にとっての三秒は、人間にとっての三時間に等しい演算時間だ。
「――オーバードライブ、起動するロト。ただし、リミッターは外さないロト。最大出力の七十パーセントで制限するロト」
「ありがとう」
左腕のデバイスが蒼白い光を放った。全身に電流が走るような感覚。左目の視界が、突然鮮明になる。左足の痛みが消え、代わりに脳の奥で何かが軋む音がした。
私は立ち上がった。そして、走った。
何人救ったのか、覚えていない。
バスの中に閉じ込められていた老夫婦。土砂に埋まりかけていた若い男性。泣いていた女の子の母親は、肋骨を折りながらも娘を庇って意識を失っていた。イーブイの飼い主は――駄目だった。それでも、胸骨圧迫を続けた。雨と泥と血に塗れながら。
白衣はとうに赤黒く染まっていた。ハーフアップに纏めていた髪は解け、泥水で張り付いている。額の傷跡が剥き出しになっていた。
アステア・システムからの警告音が鳴り続けていた。ロトムの声が遠くなっていく。
「イヨリ、脳負荷が限界ロト! 今すぐ停止――」
「まだ。あと一人」
バスの下に挟まれた少年がいた。バシャーモが車体を持ち上げ、私が少年を引きずり出す。右腕が不自然な角度に曲がっている。複合骨折。しかし、出血量から見て動脈は無事だ。助かる。
「――大丈夫。もう大丈夫よ」
少年に声をかけた瞬間、視界が白く弾けた。
左腕のデバイスから紫色の火花が散り、ロトムの悲鳴のような電子音が響いた。
私の身体は、糸の切れた操り人形のように、泥の中に崩れ落ちた。
【第四話 緑色のランプ】
救助隊が現場に到着したのは、それから四十分後だった。
マツバさんが駆けつけたのは、さらにその三十分後。ジムでの業務中に、ロトムから送信された最期のデータ――位置情報だけが記録された、途切れた信号を受信したのだという。
後からせっちゃんに聞いた話では、マツバさんは千里眼で現場を「視た」らしい。
泥と血に塗れた私が、焦げ付いたデバイスを左腕に巻き付けたまま、意識を失って横たわっている姿を。
そして、マツバさんの手元の端末には、ロトムが最後まで律儀に送り続けていたデータが表示されていた。
心拍数:七二。血圧:一二〇/八〇。体温:三六・五度。
ステータス:正常。
全てが嘘だった。緑色のランプが、皮肉にも健やかな光を放ち続けていた。
【第五話 病室の刃】
目を覚ましたのは、三日後のことだった。
最初に見えたのは、白い天井。次に、点滴のチューブ。そして、窓から差し込む十月の弱い日差し。
左腕にアステア・システムはなかった。代わりに、包帯と心電図モニターのコードが巻かれている。左目は――変わらず、ほとんど見えない。左足は、指先の感覚が曖昧だった。
「……」
身体を起こそうとして、全身に走る鈍痛に顔を歪めた。頭の奥が、火照るように重い。
「起きたのか」
声は、病室の隅から聞こえた。椅子に座っていたマツバさんの姿を、右目だけで捉える。
いつもの穏やかな表情ではなかった。三日間、眠っていないのだろう。目の下に深い隈があり、金色の髪は乱れ、紫色のマフラーは首に掛かったまま皺だらけだった。
その瞳には、私が今まで一度も見たことのない色が浮かんでいた。怒り。悲しみ。絶望。それらが複雑に混ざり合った、名前のつけようのない感情。
「マツバ、さん。私――」
「三日間、意識が戻らなかった」
マツバさんの声は低く、平坦だった。いつもの柔らかな語尾が消えている。
「アステア・システムの神経同期回路が焼損した。ロトムは過負荷で一時的に活動停止している。左足の神経伝達率は、デバイス装着前の水準まで低下した」
「……」
「全部、ジョーイさんから聞いた」
私は何も言えなかった。マツバさんは立ち上がり、窓際まで歩いた。その背中が、いつもより小さく見えた。
「なぜ、黙っていた」
静かな問いだった。しかし、その静けさの底に、押し殺した感情の地鳴りを感じた。
「デバイスの不調に気づいていたんだろう。ロトムにバイタルを偽装させていた。……僕の手元の端末は、ずっと『正常』を表示していたよ。君が泥の中で死にかけている間も」
「……ごめんなさい」
「ごめんなさい、じゃないんだよ、イヨリちゃん」
振り返ったマツバさんの顔を見て、私は息を呑んだ。
泣いていた。泣きながら、怒っていた。涙が頬を伝っているのに、瞳は燃えるように金色に光っている。千里眼が、意図せず発動しかけているのだと分かった。
「君が倒れたって連絡を受けた時、僕は千里眼で君を視た。泥と血にまみれて、デバイスが焦げ付いて、白衣が赤くなって――人形みたいに横たわっている君を。それなのに、僕の手元のデータは『正常』って。心拍七二、体温三六・五度って! 嘘だって分かった時、僕は――」
マツバさんの声が、初めて震えた。
「僕は、自分の千里眼を恨んだよ。こんな力があるのに、君の嘘一つ見抜けなかった自分を、殺してやりたかった」
「マツバさん、私は――」
「どうして僕に言ってくれなかったんだ!」
怒鳴り声だった。マツバさんが、私に向かって声を荒らげたのは、これが初めてだった。病室の空気が凍りつく。心電図モニターが、私の心拍数の急上昇を無機質に刻んでいた。
「デバイスの調子が悪いなら、そう言ってくれればよかったじゃないか。カナズミに行くなら、僕も一緒に行った。二週間でも一ヶ月でも、君のそばにいた。なのに君は――」
「マツバさんに心配をかけたくなかったの!」
私は私も声を荒らげていた。起き上がった身体が悲鳴を上げたが、構っていられなかった。
「リーグの査定が近いのは知っていました。マツバさんがジムリーダーとしてどれだけ大切な時期か、分かっていたんです。そんな時に私の身体のことで足を引っ張りたくなかった」
「足を引っ張る? 君は僕の婚約者だろう! 足を引っ張るも何もない!」
「だから、婚約者だから迷惑をかけたくないんです! 私は貴方の重荷になりたくないの!」
「重荷? 君が重荷だったことなんか一度もない! 僕が怒っているのはそこじゃない! 嘘をついたことだ! ロトムに嘘をつかせて、僕を騙して、一人で全部抱え込んで――結局こうなった! また君は一人で死にかけた!」
「死んでないでしょう! 私は生きてる! そして、あの現場で十三人の命を救った! 一人は……駄目だったけど、でも十三人は助けられたの!」
「十三人救って、君が死んだら何の意味があるんだ!」
マツバさんの叫びが、病室の壁に反響した。私は一瞬、言葉を失った。
「僕にとっては、百人救おうが千人救おうが、君がいなくなったらこの世界は無価値なんだよ。分からないのか、イヨリ!」
「分かりません!」
気がつけば、私は叫び返していた。涙が右目から溢れ、左目からは――左目からも、濁った涙が一筋落ちた。
「分かりません、そんなこと! 私の命一つが、あの現場にいた十三人の命より重いなんて、そんな理屈は医者として認められない!」
「医者として? 医者として、か。じゃあ聞くけど、医者として自分の身体を壊すのは正しいことなのか! 自分のデバイスが壊れかけてるのを隠して、オーバードライブなんて使って――それが医者のやることか!」
「他に方法がなかったの! 救助はあと四十分来なかった! あの四十分間で、あの子たちは死んでいた!」
「なら死なせればよかったじゃないか!」
マツバさんの口から出た言葉に、私は凍りついた。彼自身も、言ってしまってから顔色を変えた。しかし、それを撤回する前に、次の言葉が続いた。
「違う、そういう意味じゃ――いや、そうだ。僕は本気で言っている。君の命と引き換えにしてまで救わなきゃいけない命なんて、僕にとっては存在しない」
「それは貴方の価値観でしょう。私はドクターです。目の前で死にかけている人を見捨てることは、私にはできない」
「だったら」
マツバさんの声が、残酷なほど冷たくなった。
「医者なんて、やめてしまえ」
時が止まった。
心電図モニターの電子音だけが、無機質に病室を満たしている。ピッ、ピッ、ピッ。規則的な音が、むしろ静寂を際立たせていた。
医者なんてやめてしまえ。
私がこの十二年間、歯を食いしばって積み上げてきたもの。両親を救えなかったあの日から、「もう二度と、目の前の命を見捨てない」と誓って歩き続けてきた道。タマムシ大学で寝る間も惜しんで学んだ六年間。ポケモンセンターの夜勤で、何度も吐きそうになりながら手術をし続けた日々。呪いで身体を壊されても、デバイスを開発してまで現場に戻った執念。
その全てを、世界で一番愛している人に、否定された。
「……撤回、してください」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「撤回して、マツバさん。今の言葉を」
「撤回しない。本気だ。君が医者を続ける限り、こういうことが繰り返される。君は何度でも自分の身体を犠牲にする。そして僕はその度に、君を失う恐怖に狂わされる。もう耐えられない」
「耐えられない? 貴方が?」
笑ってしまった。乾いた、冷たい笑いだった。自分でもこんな声が出せるのかと驚いた。
「貴方が耐えられないですって? 貴方は安全なジムの中にいて、千里眼で世界を覗いているだけの人でしょう。耐えられないのは、私の方よ」
「……イヨリ」
「止めないで。今だけは、言わせて」
身体の奥底から、黒い何かがせり上がってくるのを感じた。言ってはいけない。言ったら終わりだ。頭の中の冷静な自分がそう叫んでいる。でも、もう止められなかった。
「私が十二歳の時、何が起きたか知っているでしょう。貴方なら、千里眼で視ていたんでしょう、あの惨劇を」
「やめろ」
「私は見たの。目の前で。父と母が、私を庇って死んでいくのを。『助けて』って叫んだ私の声に応えて、二人は私の盾になって、そして――」
「やめてくれ、イヨリ」
「やめない。貴方が私の仕事を否定するなら、私にも言う権利があるわ」
マツバさんの顔が蒼白に変わっていくのが分かった。彼が最も恐れている場所に、私は今、意図的に踏み込もうとしている。分かっている。分かっているのに、止められない。
「マツバさんに何が分かるんですか」
声が震えた。涙が止まらなかった。嗚咽を噛み殺しながら、それでも言葉を吐き出した。
「目の前で両親を殺された苦しみが、マツバさんに分かるんですか?!」
マツバさんの瞳から、光が消えた。
「千里眼で『視ていただけ』の貴方に! 安全な場所から、遠くの景色を眺めていただけの貴方に! 私があの日から毎晩のように父の声を夢に聞いて、母の手の感触を思い出して、それでも生きていかなきゃいけなかった苦しみの何が分かるっていうの!!」
「…………」
「私が医者になったのは、あの日の贖罪よ! 助けてと叫んだ私のせいで両親が死んだ! だから、もう二度と、私のせいで誰かが死ぬのは耐えられない! それを、『やめろ』ですって? 私から贖罪を取り上げるつもりなの?!」
「…………」
「何か言ったらどうなの! マツバさん!」
マツバさんは、もう何も言わなかった。
金色の瞳は虚ろに開かれ、千里眼の光すら消え失せていた。彼の顔は、生きている人間の色をしていなかった。幽霊のように白く、表情が全て削ぎ落とされた、能面のような顔。
長い、長い沈黙があった。
やがて、マツバさんは口を開いた。掠れた、聞き取れないほど小さな声で。
「……ああ、そうだね」
その一言に込められた絶望の深さに、私は自分が何をしてしまったのか、ようやく理解した。
「僕は、視ていただけだった。あの日も。今日も。……君の隣に立つ資格なんて、最初からなかったのかもしれない」
「マツバさん、待って。今のは――」
「ごめん。少し、一人にさせてくれ」
マツバさんは椅子から立ち上がった。よろめくように。背中が、信じられないほど小さく見えた。あの広い肩が、世界の重みに押し潰されたように丸まっている。
「マツバさん!」
私が手を伸ばした時、病室のドアはもう閉じていた。
残されたのは、点滴の音と、心電図の電子音と、秋雨の響きだけだった。
私は伸ばした手をゆっくりと下ろし、シーツを握り締めた。爪が掌に食い込む。
何をしてしまったの、私は。
世界で一番愛している人の、一番深い傷を、この手で抉った。
「ーーーロトム」
返事はなかった。ロトムは、まだ活動停止したままだ。
生まれて初めて、私は本当の意味で一人になった。自分自身の手で、全てを壊してしまった。
病室の窓の外では、雨が降り続いていた。止む気配は、なかった。
【 後 編 】
【第六話 冷たい屋敷】
マツバさんが病室を去ってから、三日が経った。
彼は来なかった。せっちゃんが毎日顔を出してくれたが、マツバさんの話は一切しなかった。私も聞かなかった。聞けなかった。
左腕のアステア・システムは完全に停止していた。焼損した回路をデボンに送って修理するまで、私の左足は再び不自由になった。杖がなければ歩けない。左目は、以前と変わらずほとんど見えない。
要するに、あの日の事故の前――いや、デバイスを装着する前の自分に戻ったのだ。
退院したのは、事故から一週間後だった。
マツバさんの家には帰れなかった。帰る勇気がなかった。私はせっちゃんの家に転がり込むことも考えたが、結局、以前住んでいたマンションに戻った。解約していなかったことが、こんな形で役に立つとは思わなかった。
荷物のほとんどはマツバさんの家に運んでしまっていたから、マンションには最低限のものしかない。布団一組と、食器がいくつか。冷蔵庫は空。
杖をつきながら、埃っぽい部屋の窓を開けた。秋の冷たい風が吹き込む。エンジュの鐘楼の音が、遠くから聞こえる。
あの音を、マツバさんの家の縁側で聞いていたのは、ほんの数日前のことだ。もう、何年も前のことのように感じる。
「……」
無意識に、左腕に触れた。デバイスのない腕は、むき出しで、頼りない。ロトムの声もない。本当に、一人だ。
スマートフォンを確認した。マツバさんからの連絡は、一件もなかった。
【第七話 見合いの報せ】
退院から五日後。
マンションのドアを叩いたのは、せっちゃんだった。
「あんた、ここにいたの。マツバ君の家に行ったら荷物そのままだし、連絡つかないし」
「ごめんね。心配かけて」
「心配じゃなくて怒ってるの。……まあいいわ、上がるよ」
せっちゃんは靴を脱いで部屋に入り、何もない室内を見渡して眉をひそめた。
「イヨリ。何があったか知らないけど、あんたとマツバ君の間に何があったかは、全部聞いてる」
「……マツバさんから?」
「ミナキ経由。マツバ君本人は、あたしにも何も話さなかった。ミナキが心配して、ジムの弟子から事情を聞き出したらしい」
私はうつむいた。せっちゃんは私の隣に座り、しばらく黙っていた。
「それで、もう一つ聞いてほしいことがあるの」
「なに」
「マツバ君のところに、見合いの話が来てる」
心臓が止まるかと思った。
「……見合い?」
「コガネの名家だって。マツバ君の親戚筋から、正式に。マツバ君のおじいさんの代からの付き合いらしくて、相手の家柄も申し分ないし、お嬢さんは二十二歳で、健康で、家事も得意で――」
「やめて」
絞り出すような声で、私はせっちゃんを遮った。
「やめて、せっちゃん。もう分かったから」
健康で。その一言が、私の心臓を握り潰した。健康で、家柄も申し分ない、二十二歳のお嬢さん。左目が見えなくて、左足が動かなくて、額に消えない傷跡があって、デバイスなしではまともに生活できない私とは、何もかもが違う。
「マツバ君は断ったわよ。即答で」
「……」
「でもね、断り方が問題なの。『今はそういう話を受ける状況にない』って言ったらしい。『今は』って。『イヨリがいるから必要ない』じゃなくて、『今は』って。ミナキが、その言い方が引っかかるって」
私は黙って、自分の手のひらを見つめた。以前ならマツバさんは、迷うことなく私の名前を出して断っただろう。「僕にはイヨリちゃんがいますから」と。
それが、「今は」。
あの病室で私が突きつけた言葉が、彼の中の何かを砕いてしまったのだ。
「イヨリ、あんたまさか――」
「せっちゃん」
私は顔を上げた。泣いてはいなかった。泣く資格がないと思っていた。
「私、身を引こうと思う」
せっちゃんの目が見開かれた。
「マツバさんには、もっとふさわしい人がいる。健康で、傷のない、あの人の横を堂々と歩ける人が。私は……あの人の隣にいる資格を、自分で壊してしまった」
「何言ってんの、あんた」
「本当のことよ。私、あの人に一番言ってはいけないことを言った。『千里眼で視ていただけの人間に何が分かる』って。あれは……あれだけは、絶対に言ってはいけなかったの」
マツバさんがあの十二年前の事件でどれほどの罪悪感を抱えてきたか。千里眼でイヨリの両親の居場所を伝えたことが、結果としてあの惨劇に繋がったという自責の念。それを、私は知っていた。知っていて、武器にした。
「せっちゃん。私ね、あの人のことが世界で一番好きよ。でも、好きだからこそ、一緒にいちゃいけないって分かるの。私といると、あの人はいつも私のことが心配で、私の身体のことが心配で、私の仕事のことが心配で。私が存在するだけで、あの人の心に負荷がかかり続ける。それは愛じゃない。呪いよ」
「イヨリ!」
せっちゃんが私の肩を掴んだ。強い力だった。
「あんた、自分の言ってることが分かってるの? マツバ君は、あんたのために生きてるようなものなのよ。あんたがいなくなったら、あの人は――」
「だから、見合いの話があるうちに。私がいなくなっても、あの人には新しい道がある」
「馬鹿言わないで!」
せっちゃんの声が裏返った。珍しく、彼女の目にも涙が光っていた。
「あんたたち二人とも馬鹿よ。大馬鹿。お互いのことが好きすぎて、お互いを傷つけて、それで『離れた方がいい』なんて。そんなの誰も幸せにならないじゃない!」
分かってる。分かっているのだ。でも、あの病室でマツバさんの目から光が消えた瞬間を、私は忘れられない。あの絶望の顔を、私が作ったのだ。
【第八話 置き手紙】
翌日、私はマツバさんの家を訪れた。ジムの営業時間を確認して、彼が留守の時間を選んだ。卑怯だと分かっている。
合鍵で玄関を開けた。靴を脱ぐ。左足を引きずりながら、長い廊下を歩く。デバイスがないから、足音がいびつに響く。
奥座敷に、私の荷物がそのまま残っていた。彼は何も動かしていなかった。私の髪飾りが、鏡台の上にきちんと並べられていた。兄からもらった髪飾りと、マツバさんからもらった白百合の簪。
簪を手に取った。淡いピンク色のトンボ玉。あの日、彼が一人で買いに行ってくれたもの。
私はそれをお嫁入り道具の残りと一緒に鞄に詰めた。簪だけは、置いていくつもりだった。これは彼のものだから。
文机に便箋を広げた。万年筆を手に取る。
『マツバさんへ
先日は、取り返しのつかないことを言ってしまいました。
深く、深くお詫び申し上げます。
私は貴方にとって、隣にいるべき人間ではなかったのだと思います。
私の身体も、私の言葉も、貴方を傷つけることしかできませんでした。
見合いのお話を受けてください。
貴方にはもっとふさわしい方がいます。
健康で、貴方の横を堂々と歩ける人が。
簪は、お返しいたします。
あの日、贈ってくださった時の貴方の手の震えを、私は一生忘れません。
短い間でしたが、貴方の婚約者でいられたことが、私の人生で最も幸福な時間でした。
どうか、お幸せに。
星埜イヨリ』
書き終えた時、手紙は涙で滲んでいた。
簪を手紙の上に置いた。もう一度だけ、縁側から庭を見た。しだれ桜はすっかり葉を落とし、冬支度を始めている。
私は鞄を持ち、杖をついて玄関に向かった。
【第九話 千里眼の涙】
マツバがジムから帰宅したのは、夕刻だった。
奥座敷に入った瞬間、彼はイヨリの荷物がなくなっていることに気づいた。机の上に残された便箋と、白百合の簪。
手紙を読み終えた時、マツバの手は震えていた。
「……その程度、だったのか」
声にならない声で呟いた。
見合いを受けろ。ふさわしい人を見つけろ。お幸せに。
それが、イヨリの出した答え。
「僕への気持ちは……僕に怒鳴られたくらいで、消えてしまう程度のものだったのか」
簪を握り締めた。トンボ玉が掌に食い込む。あの日、イヨリが口に咥えて髪をまとめ上げ、自分の答えとして簪を挿してくれた。あの瞬間の幸福を、丸ごと返却された。
絶望よりも先に、怒りが来た。しかしそれは、イヨリへの怒りではなかった。自分自身への怒り。
「医者なんてやめてしまえ」と叫んだ自分。愛する人の魂を否定した自分。その罰として、彼女を失おうとしている。因果応報だ。
「……だとしても」
マツバは立ち上がった。
「君がいないこの家に、何の意味がある」
千里眼を起動した。普段は絶対に使わない。イヨリへのプライバシーの配慮として、彼女に対しては原則使わないと誓っていた。
しかし、今は。
視た。エンジュの街を。秋の薄暗い夕暮れの中を、杖をついて、左足を引きずりながら歩いているイヨリの姿を。重そうな鞄を片手に、右目から涙を流しながら。
マツバの千里眼が、彼女の唇の動きを読み取った。声は聞こえない。しかし、唇は確かにこう動いていた。
「マツバさん、ごめんなさい。ごめんなさい。好きです。ごめんなさい」
何度も、何度も。謝罪と愛の告白を、誰にも聞かれないように繰り返しながら、イヨリは一人で泣いて歩いていた。
マツバの千里眼から、初めて涙がこぼれた。
【第十話 壊れた砂時計】
マツバさんの家を出てから、三日が経った。
私はマンションの部屋で、ほとんど何もせずに過ごしていた。食事は最低限。風呂に入り、着替え、眠る。それだけの生活。往診の仕事はジョーイさんに休職の連絡を入れた。デバイスがなければ、ドクターとしての業務も満足にこなせない。
何もかも、失った。
マツバさん。アステア・システム。ドクターとしての日常。ロトム。
バシャーモだけが、モンスターボールの中から時折心配そうに顔を覗かせていた。彼は何も言わない。ただ、私のそばにいてくれる。
四日目の朝、水を飲もうとキッチンに立った時、足が縺れた。杖を取り損ねて、床に膝をつく。
「……っ」
痛みに顔を歪めながら、這うようにして杖を拾い上げた。
情けなかった。デバイスがあった頃は、走ることだって出来たのに。今は、水一杯を取りに行くことすら一苦労だ。
こんな身体で、マツバさんの隣に立てるわけがない。
そう思った瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
せっちゃんだろうと思い、重い足を引きずって玄関に向かう。扉を開けた。
マツバさんだった。
息を呑んだ。彼もまた、酷い顔をしていた。五日前に病室で見たよりも、さらに痩せていた。目の下の隈は深く、金色の髪には艶がない。
左手に、白百合の簪を握っていた。
「……返しに来たんじゃない」
マツバさんの声は掠れていた。
「返しに来たんじゃない。……返すな。これは君のものだ」
「マツバさん、手紙を――」
「読んだ」
短い沈黙。
「見合いを受けろ、と書いてあった」
「はい」
「ふさわしい人を見つけろ、と」
「……はい」
「お幸せに、と」
「……はい」
マツバさんの金色の瞳が、私を射抜いた。怒りでも悲しみでもない、もっと深い、底の見えない感情が渦巻いていた。
「ふざけるな」
低い声だった。病室の時と同じ温度。しかし、今度は震えていた。
「君以外の誰を愛せるっていうんだ。見合い? ふさわしい人? そんなものは要らない。僕に必要なのは君だけだ。それなのに君は――」
マツバさんの声が詰まった。
「君は、たった一度の喧嘩で僕を捨てるのか。僕への想いは、その程度だったのか」
「その程度じゃないっ!」
気がつけば叫んでいた。杖が手から落ちた。左足がよろめき、ドアの枠に手をついて辛うじて体を支える。
「その程度じゃない……。マツバさんのことが好きだから、身を引くの。好きだから。好きだから、あの人の隣にはもっとふさわしい人がいるって……」
「ふさわしい、ふさわしいって、何回言えば気が済むんだ! イヨリ、ふさわしいかどうかを決めるのは僕だ! 君じゃない!」
マツバさんが一歩、踏み込んだ。私は思わず後ずさる。杖がない。左足が言うことを聞かない。バランスを崩した私の腕を、マツバさんが掴んだ。
引き寄せられた。彼の胸に。
「離してください」
「離さない」
「離して。私は――」
「離さない。もう二度と」
マツバさんの腕が、震えながら私を抱きしめていた。強く。痛いほどに。
「僕を一人にしないでくれ」
その声は、かつて聞いたことのないほど弱かった。エンジュのジムリーダー。千里眼の使い手。名家の当主。そのどれでもない、ただの一人の男の声。
「君がいない家に帰って、君の匂いが残ってる布団で眠って、朝起きて隣に誰もいなくて。それを三日続けて。四日目に千里眼で君を視たら、泣きながら歩いていて――」
千里眼で視た。
私は身体を硬直させた。視られた。あの時の、誰にも聞かれていないと思って繰り返していた言葉を。
「聞いた。唇、読んだ」
「……っ」
「『好きです。ごめんなさい』って、何度も何度も。あれを見て僕は――僕は、自分が何をしたのか、ようやく分かった」
マツバさんが私の肩を掴み、正面から向き合った。金色の瞳が潤んでいた。
「僕が悪かった。『医者なんてやめてしまえ』なんて、絶対に言ってはいけなかった。君にとって医師であることがどれだけ大切か、僕は誰よりも知っていたはずなのに。君の魂を否定した。許してほしいなんて言えない。でも、言わせてくれ」
「マツバ、さん」
「ごめん。本当に、ごめん」
マツバさんが、頭を下げた。深く。旧家の当主、ジムリーダーのプライドも何もかもかなぐり捨てて、私に頭を下げた。
その姿を見た瞬間、私の中で何かが決壊した。
「私の方こそ……! 私の方こそ、ごめんなさい……!」
涙が溢れた。堰を切ったように、右目からも左目からも。
「『千里眼で視ていただけ』なんて。あんなこと、絶対に言ってはいけなかったのに。マツバさんがどれだけ苦しんできたか知っていたのに、私は。私は、一番愛している人の、一番深い傷を、自分の手で……!」
「イヨリ」
「許してなんて言えない。でもお願い、聞いて。私がデバイスの不調を隠したのは、貴方に迷惑をかけたくなかったから。現場でオーバードライブを使ったのは、目の前の命を見捨てられなかったから。どちらも、間違っていたかもしれない。でも、嘘をついたことだけは、言い訳できない。ロトムにまで嘘をつかせた。貴方を、裏切った」
「イヨリ、もういい」
「よくないの! 貴方は怒っていい。怒鳴っていい。私を、嫌いになっていい。でも――見合いの話を受けるのだけは、嫌」
「――え?」
「嫌なの! 手紙にあんなこと書いたけど、嘘! 全部嘘! マツバさんが他の誰かと結婚するなんて、考えただけで死にそうになるの! 自分で身を引くって決めたくせに、三日間ずっと泣いてた! 馬鹿みたい! 自分が馬鹿すぎて嫌になる!」
もはや敬語もなくなっていた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、マンションの玄関先で、私は醜いほどの本音を叫んでいた。
「離れた方がいいなんて嘘。一緒にいたい。マツバさんのそばにいたい。迷惑かけても、足引っ張っても、喧嘩しても、それでも、あの家で、あの縁側で、あの人の隣で生きていたい……!」
マツバさんが、泣き笑いのような顔をした。
「……言ったね」
「言った。撤回しない。これが本音」
「ああ。僕もだ。僕も、撤回しない」
マツバさんの手が、握り締めていた簪を私に差し出した。白百合のトンボ玉が、涙の反射で光っている。
「これを、もう一度」
「……っ」
「もう一度、挿してくれないか。あの日と同じように。君の答えとして」
私は震える手で簪を受け取った。泥だらけでも、涙で滲んでも、白百合はまだ美しかった。
乱れた髪を両手でまとめ上げる。左目では見えないけれど、手の感触で分かる。簪を、まとめた髪に挿した。
「……似合ってる」
あの日と同じ言葉。マツバさんの声は震えていたけれど、あの日よりもずっと温かかった。
「マツバさん」
「ん」
「私、完璧な婚約者にはなれない。身体は不自由だし、すぐ無茶するし、デバイスがないと歩くのも大変だし、たぶんまた、貴方に心配をかける」
「うん」
「でも、嘘はもうつかない。辛い時は辛いって言う。助けてほしい時は助けてって言う。……それだけは、約束する」
「イヨリ」
「なに」
「僕も約束する。二度と、君の仕事を否定しない。君がドクターであることを、僕の恐怖で縛らない。君が現場で誰かの命を救っている時、僕は君の帰りを信じて待つ。それだけの信頼を、君に持つ」
私たちは、玄関先で向かい合っていた。杖を落としたまま。片方の足は不自由で。目は真っ赤で。鼻もすすっていて。きっと、今まで交わしたどの誓いよりも格好悪い姿だった。
でも、今まで交わしたどの言葉よりも、これが本当だった。
「マツバさん」
「うん」
「キス、していい?」
マツバさんの目が少し見開かれて、それからふっと笑った。くしゃくしゃの、涙の跡が残った、でも本当に綺麗な笑顔だった。
「こっちの台詞だよ」
マツバさんの手が、私の頬に触れた。涙を、親指で拭ってくれた。左の頬も、右の頬も。丁寧に。
そして、唇が重なった。
甘くはなかった。塩辛かった。お互いの涙の味がした。
でも、今まで交わしたどのキスよりも温かくて、どのキスよりも正しかった。
長い秋雨が上がり、エンジュの空に夕焼けが広がっていた。鐘楼の鐘が夕暮れを告げている。
唇が離れた後、マツバさんは私の額に、もう一度唇を落とした。傷跡の上に。
「帰ろう。僕たちの家に」
私は頷いた。杖を拾い上げるより先に、マツバさんが私の手を取った。
「杖はいいよ。僕が支えるから」
「……重いですよ」
「四十二キロだろう。僕の腕は七十二キロの身体を支えられるように出来ている」
「計算が合いませんけど」
「いいんだよ。合わなくて」
ふふ、と笑った。何日ぶりだろう、笑ったのは。
マツバさんの腕に支えられて、私は一歩を踏み出した。左足は痛んだ。デバイスはない。でも、隣にマツバさんがいた。それだけで、歩ける気がした。
帰り道、マツバさんが小さな声で言った。
「それと、ロトムのことだけど」
「ロトム?」
「デボンに連絡した。修理は最優先で進めてくれるそうだ。ダイゴさんが、個人的に見てくれるって」
「……ダイゴさんが?」
「ああ。電話口で、『石に誓って、次はもっと頑丈に作ります』って言ってたよ。ダイゴさんらしいね」
「石に誓って……。本当にダイゴさんらしい」
二人で笑った。少しだけ、世界が色を取り戻した気がした。
「ねえ、マツバさん」
「ん?」
「帰ったら、ハーブティーを淹れますね。マツバさんの好きな、カモミールとラベンダーのブレンド」
「……うん。待ってた。その言葉を、ずっと待ってた」
エンジュの夕焼けが、私たちの影を長く伸ばしていた。二つの影は、ぎこちなく、不恰好に、でも確かに隣り合って歩いていた。
完璧じゃなくていい。傷だらけでいい。
この人の隣で、不器用に、泥臭く、生きていく。
それが、私の選んだ答え。
白百合の簪とともに、もう二度と、手放すことのないように。
― Fin. ―