SWEET & ROMANTIC

悩める乙女イヨリの恋煩い

― 完治の見込みなし、甘い不治の病 ―
STARRING MATSUBA & IYORI

私には、困った病がある。

ポケモンドクターとして数々の難症例に向き合い、アステア・システムの開発者として学会に論文を発表し、エンジュ大学では週二で特別講義を受け持っている。医学の知識なら誰にも負けない自信がある。

なのに、この病だけは、どんな文献を漁っても治療法が見つからない。

――マツバさんが、格好良すぎるのだ。

朝。

目覚まし時計の代わりに、和室に差し込む冬の柔い陽光で目が覚めた。隣を見ると、マツバさんはもういない。布団は畳まれていて、枕元には小さなメモが置いてあった。

『先にジムに行ってくる。朝ごはんは冷蔵庫に。昨日の残りのシチューを温めて食べて。――マツバ』

几帳面で端正な筆跡。この人の字は、本人の佇まいによく似ている。無駄がなくて、凛としていて、それでいてどこか温もりがある。

メモを読んだだけで頬が緩むのを自覚して、私は布団に顔を埋めた。

「……朝から、こんなの、ずるい」

好きな人の筆跡で一日が始まるだなんて。それだけで心拍数が十二パーセント上昇している。ロトムに測定されたら確実にからかわれる数値だ。

顔を洗って、髪を整えて、白百合の簪を挿す。鏡の中の自分に「今日も一日、平常心で」と言い聞かせる。でも、平常心でいられたためしがない。同棲を始めてもう二年近くになるのに、マツバさんの前だと未だに心臓が暴れ出す。

結婚して、婚姻届を出して、法的には彼の妻になったのに。まだ恋をしている。毎日、新しく恋をしている。

午前十時。ジムから帰ってきたマツバさんが、玄関で靴を脱いでいる。

「ただいま」
「おかえりなさい。挑戦者は来ましたか?」
「うん。三人。全員返り討ちにした」

何でもないように言いながら、マツバさんがマフラーを外す。

その仕草に、呼吸が止まった。

長い指がマフラーの結び目をほどく。首筋が露わになる。白い肌。喉仏の影。顎のラインから耳の後ろにかけての、滑らかな曲線。冬の外気に冷やされた肌が、室内の温もりに触れてほんの少しだけ紅潮している。

「……イヨリちゃん?」
「はっ、はい!」
「どうしたの。ぼうっとして」
「いえ! なんでもないです! お茶、淹れますね!」

逃げるようにキッチンに向かった。背中が熱い。マフラーを外しただけで、どうしてこんなに動揺するのか。自分で自分が分からない。

いや、分かっている。あの首筋が好きなのだ。マツバさんの、すらりと長い首が。鎖骨のくぼみが。そこに顔を埋めた時の、彼の匂いが。

やかんを火にかけながら、私は自分の頬を両手で押さえた。熱い。完全に熱暴走している。CPUで言えばサーマルスロットリング状態だ。情けない。医者なのに、自分のバイタルすら制御できないなんて。

お茶を運ぶと、マツバさんは縁側で髪を結び直していた。

金色の長い髪。普段はひとつに束ねているけれど、ジムから帰ってきた直後は少し乱れている。その乱れた髪を、長い指で梳きながら後ろにまとめていく。

私は湯呑みを持ったまま、廊下の端で足が止まった。

横顔。伏せた睫毛。髪をまとめる腕の筋肉が、袖口の下で微かに動いている。首を少しだけ傾けて、後頭部の毛束を確認する仕草。その時に見える、うなじから首筋にかけての細い産毛。

美しい、と思った。

男の人に「美しい」という形容詞を使うのは不思議かもしれない。でも、マツバさんにはそれ以外の言葉が見つからない。格好良いとか、素敵とか、そういう言葉では足りない。存在そのものが、芸術作品のように調和がとれている。

「あ」

マツバさんがこちらに気づいた。金色の瞳が、私を捉える。

「お茶、ありがとう」
「い、いえ。どうぞ」

湯呑みを差し出す手が震えている。握力が安定しない。液面が揺れている。恥ずかしい。

マツバさんが湯呑みを受け取る時、指と指が触れた。一瞬だけ。0.3秒ほどの接触。それだけで、指先から肘まで甘い痺れが走り抜けた。

「……冷たいね、指」
「あ、はい。冬なので」
「暖房、もう少し上げようか」
「い、いえ。大丈夫です」

大丈夫じゃない。暖房の問題ではない。あなたが近くにいるから体温調節中枢がおかしくなっているのだ。交感神経が過剰興奮している。末梢血管は収縮しているのに、顔面だけ充血する矛盾した生体反応。医学的には説明がつくけれど、治療法がない。

原因はあなたなのに、あなたにしか処方箋が書けない。

昼食の後、マツバさんがジムリーダー宛ての書類を書いていた。書斎の文机に向かう後ろ姿を、私は自室の引き戸の隙間からこっそり見ていた。

覗き見だということは分かっている。でも、やめられない。

筆を持つ手。インクを含ませる所作。紙の上を滑る穂先。マツバさんは毛筆で手紙を書く。達筆な楷書。時折、筆を止めて考え込む横顔。眉間に僅かな皺が寄る。唇を薄く噛む癖。

――あの唇。

思い出してしまった。昨夜のことを。

あの唇が、私の首筋を這った感触。鎖骨の窪みに押し当てられた時の、湿り気を帯びた温もり。耳朶を甘噛みされた時の、電流のような快感。

思い出すだけで、下腹が疼く。身体が覚えている。あの人の手のひらの大きさを。指の長さを。私の腰骨を掴んだ時の、抗えないほどの力強さを。

そして何より――あの声を。

耳元で「可愛い」と囁かれただけで、身体中の力が抜けて、その人の腕の中に溶け落ちてしまいそうになる。抱かれている最中の、いつもより低くて掠れたマツバさんの声は、通常の三倍は破壊力がある。

「……っ」

顔が沸騰した。引き戸の隙間から離れて、自室の壁に背中を預けて、両手で顔を覆った。

何を考えているのだ、白昼から。マツバさんはただ手紙を書いているだけなのに。筆を持つ手を見ただけで昨夜の記憶が蘇るなんて、私の脳はどうかしている。

「イヨリちゃん?」

声が聞こえた。心臓が喉まで跳ね上がる。

「は、はい!」
「さっきから引き戸の向こうに気配がするんだけど……何してるの?」
「なっ、何もしてません! 論文を読んでるだけです!」
「論文は裏返しだよ」

見透かされている。千里眼は使っていないはずなのに、この人にはすべてがお見通しだ。

「……見てました」
「何を」
「マツバさんの、手紙を書く姿を」

正直に言ったら、マツバさんの表情が柔らかくなった。口角がほんの少し上がって、金色の瞳が細められる。あの表情。私だけに向けられる、甘くて優しい眼差し。

「見せてあげるから、こっちにおいで」
「……はい」

言われるままに書斎に入って、マツバさんの隣に正座した。横に座ると、彼の体温と匂いが近くなる。石鹸と、和室の畳と、それからマツバさん自身の匂い。この匂いを嗅ぐと、安心するのと同時に胸がざわついて、どうしようもなくこの人に触れたくなる。

マツバさんが筆を走らせるのを、隣で見ていた。墨の匂い。紙の上に文字が生まれていく。一画一画、丁寧に。

「綺麗ですね。マツバさんの字」
「子どもの頃から書道を習わされたからね。寺のせがれの義務みたいなものだよ」
「好きです。この字」
「……ありがとう」

マツバさんの筆が、一瞬だけ止まった。耳が赤くなっている。

この人にも照れることがあるのだと知ると、胸の中で何かが弾ける。嬉しい。私だって、あなたをどきどきさせることができるのだ。普段は一方的にやられてばかりだけれど。

夕方、マツバさんが庭で修行をしていた。

ゲンガーとムウマージを従えて、精神統一の瞑想をしている。縁側から見守る私の視界に映るのは、あぐらをかいて目を閉じた彼の姿。

冬の西日が、金色の髪を琥珀色に染めている。閉じた瞼の上に影が落ちて、睫毛の一本一本が際立つ。吐く息が白い。それが夕日に照らされて、一瞬だけ金色に光る。

――神様みたいだ、と思った。

エンジュのジムリーダー。千里眼の持ち主。霊と交わし、生と死の境界を見据える者。この人が目を閉じている時、その瞼の裏にはどんな景色が映っているのだろう。

不意に、マツバさんが目を開けた。金色と紫が入り混じった瞳が、真っ直ぐに私を捉える。

息が、止まった。

あの目。あの目で見つめられると、私は世界から切り離されてしまう。マツバさんと私だけが残って、それ以外の一切が消えてしまう。心臓が痛いほど速く鳴っている。逃げたいのに、目を逸らせない。

「……見てたの?」
「す、すみません。邪魔するつもりは……」
「邪魔じゃないよ。君が見てくれてると、集中できる」
「それは矛盾してませんか」
「してないよ。君がいると、心が安定するんだ」

また。またそういうことをさらっと言う。

マツバさんが立ち上がって、縁側まで歩いてきた。庭から上がる時の、片足を持ち上げる動作。着物の裾が翻って、引き締まった脚が一瞬だけ見える。

「お疲れ様です。お水、持ってきますね」
「ありがとう。……その前に」

マツバさんが、縁側に座った私の前に膝をついた。視線の高さが揃う。至近距離で、金色の瞳が私を見下ろす。

「今日、君からずっとすごい視線を感じてたんだけど」
「っ!」
「マフラーを外した時。髪を結んだ時。手紙を書いてた時。瞑想してた時。全部、熱い視線が刺さってた」
「み、見てません!」
「嘘。君の視線は分かるんだよ、千里眼じゃなくても」

マツバさんの手が、私の顎にそっと触れた。親指と人差し指で、軽く顎を持ち上げられる。強制的に目が合う。

「嬉しかったよ」

低い声。囁くような、でも確かな響き。
「君が僕を見てくれてるの、すごく嬉しいんだ」

頭が真っ白になった。心臓が爆発する。視界が揺れる。顔が熱い。耳が熱い。首まで赤くなっているのが自分でも分かる。

「あ、あの、マツバさ――」

言い終わる前に、唇を塞がれた。

夕日の中でのキス。柔らかくて、優しくて、でも奥に確かな熱を秘めた口づけ。唇と唇が離れる直前に、マツバさんの舌先が私の下唇をなぞった。それだけで、膝から力が抜けた。

「あ……」

声にならない吐息が漏れた。マツバさんの目が、一瞬だけ暗く深くなった。獣の瞳。普段は穏やかなのに、時折こういう目をする。その目を見ると、背筋がぞくりと震えて、身体の奥が甘く疼きだす。

「ご飯、先にする?」
「……先に」
「分かった」

マツバさんが立ち上がって、何事もなかったかのようにキッチンに向かう。

残された私は、縁側に座ったまま、自分の唇を指先で触れた。

まだ温かい。彼の体温が残っている。

――この人のことが、好きすぎて、苦しい。

夕食を終えて、お風呂に入って、髪を乾かしてもらって。

マツバさんが私の髪をドライヤーで乾かすのは、毎晩の習慣だ。大きな手が私の髪を優しく梳きながら、温風を当てていく。

「今日は一段と、僕のことをたくさん見てたね」
「……はい」
「何か気になることでもあった?」
「いいえ。ただ……格好良かったので」

正直に言った。もう隠しても仕方がない。この人には全部ばれている。

「格好良い、か」

マツバさんの声が、少しだけ低くなった。ドライヤーの音が止まる。乾いた髪に、指が通される。

「嬉しいけど……困るよ」
「……どうして」
「そんなことを言われると、理性が保てなくなる」

背後に、彼の体温が近づいた。背中が包み込まれる。腰に回された腕。耳元に唇が触れる。
「君が僕を好きな目で見てるの、全部分かるんだ」

囁き声が、鼓膜を震わせる。
「朝、マフラーを外した時。君の瞳孔が開いたのが分かった」

首筋に唇が押し当てられる。温かくて、湿り気を帯びた感触。皮膚の上を、ゆっくりと這う。
「手紙を書いてた時。引き戸の向こうで、君の呼吸が浅くなったのが聞こえた」

耳朶を甘噛みされた。微かな痛みと、それを凌駕する甘い痺れ。声が漏れそうになるのを、唇を噛んで堪える。
「瞑想してた時。君の心拍数が上がってるのが、空気の振動で分かった」

鎖骨に沿って、唇が滑る。パジャマの襟元から覗いた肌に、熱い吐息がかかる。

「マツバ、さん……」
「一日中、君の視線であぶられてたんだ。もう、限界だよ」

身体が反転させられた。いつの間にか、布団の上に仰向けに押し倒されていた。上からマツバさんの顔が覗き込む。金色の髪がカーテンのように垂れ下がって、私たちだけの空間を作る。

「……いい?」

聞かれて、頷くしかなかった。頷きたかった。一日中この人に見惚れていた私の身体は、とっくにこの時間を待ち侘びていたのだから。

唇が再び重なった。今度のキスは優しさの奥に滾る熱を隠していなかった。舌が絡み合い、呼吸が混ざり合い、意識の輪郭が溶けていく。

パジャマのボタンが、一つずつ外されていく。マツバさんの指は長くて、器用で、でもほんの少しだけ震えている。その震えが、彼が本気で私を求めてくれている証拠のようで、たまらなく愛おしかった。

「綺麗だよ」

囁かれた。素肌が夜の空気に触れて、反射的に身を竦めた私を、マツバさんの大きな手が包み込む。体温で温められる。冷たさが消えて、代わりに彼の熱が浸透してくる。

唇が、首筋から鎖骨を辿り、さらに下へ降りていく。そのたびに、身体の奥から甘い波が押し寄せてくる。指先が布団を掴む。声を堪えきれなくて、小さな嬌声が唇の隙間から零れた。

「我慢しなくていいよ」
「でも……恥ずかし……っ」
「僕しかいない。この声は、僕だけのものだから」

独占欲を滲ませたその声に、下腹の奥が熱く脈打った。

マツバさんの手が、私の身体の地図を丁寧にたどっていく。腰のくびれ。太ももの内側。触れられるたびに、皮膚の下で火花が散る。敏感な場所に指先が辿り着いた時、背中が弓なりに反った。

「あ……っ」

この人の指は、メスを以て大動脈に挑むのとは全く異なる繊細さで、私の身体の設計図を正確に読み解く。どこに触れれば声が漏れるか。どこを撫でれば力が抜けるか。何度も何度も愛し合ってきた時間の中で蓄積された、私という存在への深い理解。

それが、怖いくらいに気持ちよかった。

「マツバ、さ……っ、あ……」
「好きだよ。イヨリちゃん」

身体が重なった瞬間、世界が溶けた。

ゆっくりと。深く。奥の奥まで満たされていく感覚。苦しいほどの充足感。涙が勝手に溢れた。痛いからじゃない。幸せすぎて、身体が感情を持て余しているのだ。

マツバさんの額が、私の額に触れた。汗ばんだ肌と肌が重なる。至近距離で、金色の瞳が私を映している。その瞳の中に、泣いている私が映っていた。

「泣かないで」
「泣いてません。汗です」
「額から涙は出ないよ」
「目から汗が出てるんです」
「……それ、涙って言うんだよ」

笑いながら、唇が重ねられた。泣き笑いのキス。甘くて、しょっぱくて、もどかしくて、でも世界中のどんなものより温かい。

深い波が何度も寄せては返す。そのたびに声が漏れて、指がマツバさんの背中にしがみつく。爪が食い込みそうになるのを、手のひらに変えて彼を掻き抱いた。この人を傷つけたくない。でも、もっと近くに感じたい。矛盾する二つの感情が渦を巻いて、思考を押し流していく。

「好き、です……マツバさん」
「うん。僕も」
「好き……っ、好き、好き……」

壊れたように同じ言葉を繰り返す私の唇を、マツバさんが何度も塞いだ。

やがて、波が最も高く押し寄せた時。二人同時に、頂に辿り着いた。

世界が白く飛んだ。

視界の端で、障子越しの月明かりがぼんやりと揺れていた。二人の荒い呼吸だけが、静まり返った和室に響いている。

「……イヨリちゃん」
「はい」
「今日一日、僕を見てくれてありがとう」
「……そんなの、毎日です」
「知ってる。だから毎日、幸せなんだ」

汗で額に張り付いた髪を、マツバさんがそっと払ってくれた。露わになったおでこに、柔らかなキスが落ちる。

私は彼の胸の中に頭を埋めて、まだ速い鼓動を聞いていた。

翌朝。

目が覚めると、マツバさんがまだ隣にいた。まだ眠っている。金色の髪が枕に広がって、寝息が規則的に聞こえる。

――ああ、また。

寝顔に見惚れてしまう。

この睫毛の長さ。この唇の形。この首筋の線。昨夜、この人の腕の中で溶けて、泣いて、叫んで、壊れるほど愛された。その記憶が身体に刻まれていて、見分けるだけで甘い余韻が蘇る。

マツバさんの唇が、寝言のように動いた。

「……イヨリ……ちゃん」

寝言。夢の中でも、私の名前を呼んでいる。

「……っ」

涙が出そうになった。嬉しすぎて。好きすぎて。この感情を収容する器官が、人間の身体には搭載されていない。心臓では足りない。脳では処理しきれない。

そっと手を伸ばして、彼の金色の前髪に触れた。指先で梳くように撫でる。絹のように滑らかな感触。

「……好きです、マツバさん」

聞こえないように、囁いた。

でも、マツバさんの口角が、微かに上がった気がした。気のせいかもしれない。寝ているだけかもしれない。

どちらでもいい。

私にはこの病が必要だ。この恋煩いが。この、心臓が壊れそうなほどの想いが。

だって、この病にかかっている限り、私は毎日、マツバさんに恋をし直すことができるのだから。

今日もきっと、彼の一挙手一投足に見惚れて、顔を真っ赤にして、声を上げそうになるのを堪えて、でも結局堪えきれなくて。

そしてまた夜になったら、この人の腕の中で、世界で一番幸せな病人になるのだ。

――星埜イヨリ、二十八歳。

診断名、恋煩い。

予後、一生完治の見込みなし。

― Fin. ―