ECHOES OF ECRUTEAK

星と花の小夜曲

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

イヨリの髪は本当に綺麗ねぇ

三人称視点 / 約10,000字 / 日常・温もり・愛情

【一】湯気の向こう

マツバの家の浴室は、一人暮らしの男にしては広い。

エンジュシティのジムリーダーとして与えられた公舎は、古い和風建築を現代風にリフォームした造りで、浴室も檜の香りがほのかに残る、落ち着いた空間だった。浴槽は二人で入っても余裕がある。もっとも、半年前まではマツバ一人で使っていたから、この広さを持て余していたのだが。

今は——違う。

「マツバさん、お湯加減どうですか」

「ちょうどいいよ」

イヨリが隣にいる。

同棲を始めて半年と少し。恋人としてマツバの家に暮らし始めたイヨリとの生活は、マツバにとって毎日が発見の連続だった。

イヨリという人間を、知れば知るほど好きになる。食事の好み。寝相。朝の機嫌。読書の癖。笑い方の種類。怒った時の黙り方。全部が全部、マツバの心を掴んで離さない。

そして今日もまた、一つ新しいことを知ろうとしていた。

一緒にお風呂に入ること自体は、もう何度かある。最初のうちはイヨリが恥ずかしがって一人で入っていたけれど、マツバが「一緒に入りたい」と素直に言ったら、イヨリは耳まで赤くなりながらも頷いてくれた。

今夜も、イヨリの方から「一緒に入りますか?」と聞いてくれた。その声が少しだけ照れていて、でも嬉しそうで、マツバは二つ返事で頷いた。

浴室の中は湯気で白く霞んでいる。

マツバは浴槽の中に首まで浸かって、洗い場のイヨリを見ていた。

イヨリは今、髪を洗っている。

その手つきが——丁寧だった。

丁寧、という言葉では足りないくらい、丁寧だった。

【二】指先

イヨリの髪は黒い。

艶やかで、真っ直ぐで、肩甲骨の少し下まである長い黒髪。普段はゆるく一つに結んでいることが多い。往診の時は邪魔にならないように低い位置でまとめている。

今はその髪が、湯に濡れて背中に張り付いている。

イヨリはまずシャワーで丁寧に髪を濡らした。温度を確かめてから、頭皮にゆっくりとお湯を行き渡らせる。髪の毛を持ち上げて、内側までしっかりと。

次にシャンプーを手に取った。適量を両手で泡立ててから、頭頂部に置く。指の腹で——爪ではなく、指の腹で——頭皮をやさしくマッサージするように洗っていく。円を描くように。こめかみから後頭部へ。耳の後ろ。生え際。どこも同じ力加減で、均等に。

毛先に泡を馴染ませる時も、決して擦らない。泡を滑らせるように、髪の流れに沿って。

すすぎも丁寧だった。シャワーの水を当てながら、指で泡を落としていく。すすぎ残しがないように、何度も。

そしてトリートメント。

毛先を中心に塗布して、手ぐしで馴染ませて、数分置く。その間にイヨリは体を洗う。体を洗い終わったら、トリートメントを丁寧にすすぐ。

一連の動作が、流れるように美しかった。

まるで儀式のようだ、とマツバは思った。

神聖な儀式。毎日繰り返される、自分自身を大切にする行為。

マツバは浴槽の縁に腕を乗せて、その光景を見つめていた。湯気の向こうに見えるイヨリの横顔。睫毛に水滴がついている。左目の傷痕——二年前の事故の後遺症——が、湯気の中で少しだけ目立たない。

「……ずっと見てますね、マツバさん」

イヨリが振り向いた。恥ずかしそうに、でも怒ってはいない。

「うん。見てる」

「恥ずかしいです」

「綺麗だから」

イヨリの手が止まった。

「……え?」

「イヨリの髪。すごく綺麗だなって」

マツバは何気なく言った。本当に思ったことをそのまま口にしただけだ。

「手入れが丁寧だよね。見ていてわかる。だから綺麗なんだろうなって」

イヨリは数秒黙っていた。

シャワーの水音だけが浴室に響く。湯気が二人の間をゆらゆらと漂う。

「……ママに」

イヨリが口を開いた。声が小さかった。水音に紛れるくらいの声。

「ママに、教えてもらったんです。髪の洗い方」

マツバは黙ってイヨリの言葉を待った。

イヨリが母親の話をすることは、滅多にない。父親の話も、兄の話も、普段は自分からはしない。聞けば答えてくれるけれど、自分からは——あまり。

だからマツバは、余計な言葉を挟まなかった。イヨリが話したい時に、話したいだけ、話してくれればいい。

【三】ママの手

イヨリはトリートメントをすすぎ終えて、髪の水気を軽く絞った。それから洗い場の椅子に座ったまま、タオルを膝の上に置いて、少し遠い目をした。

「小さい頃——たぶん四歳か五歳くらいの頃から、ママがお風呂上がりに髪を乾かしてくれていたんです」

マツバは浴槽の中から、静かに耳を傾けた。

「ママの名前はイノリっていうんですけど……とても穏やかな人でした。声が小さくて、笑う時は目を細めて、怒る時もあんまり声を荒げなくて」

イヨリの声が、少しずつ柔らかくなっていった。記憶の中のあたたかい場所に、そっと手を伸ばすような声。

「お風呂上がりに、リビングのソファに座って——ママが後ろに立って——ドライヤーで髪を乾かしてくれるんです。ママの膝の上に座ってた時もあります。小さい頃は」

マツバは、その光景を想像した。まだ幼いイヨリが、母親の膝の上に座っている姿。温かいドライヤーの風。柔らかい手。

「ママはいつも、髪を乾かしながら同じことを言うんです」

イヨリが目を閉じた。

「『イヨリの髪は本当に綺麗ねぇ』って」

その声が——少しだけ震えた。

「毎日言ってくれるんです。毎日同じことを。お風呂上がりに、髪を乾かしながら。『綺麗ねぇ、イヨリの髪は。ママの宝物よ』って」

マツバの胸が、じわりと痛んだ。

「わたし——その時間が一番好きだったんです。一日の中で」

イヨリが膝の上のタオルを握った。

「パパもお兄ちゃんも大好きだったけど……ママが髪を乾かしてくれる時間だけは、わたしとママだけの時間で。ドライヤーの音がして、ママの手が頭に触れていて、温かい風が来て。ママの声が聞こえる。『綺麗ねぇ』って。あの声が——あの時間が——わたしにとって、一番ほっとする時間だったんです」

浴室の中は、シャワーを止めたから静かだった。湯気だけが浮かんでいる。

「だから——」

イヨリが目を開けた。少しだけ潤んだ右目で、マツバを見た。左目は義眼だから変わらないけれど、右目だけが、記憶の温もりに触れたように光っている。

「だから、髪は丁寧に洗うんです。ママが『綺麗ねぇ』って言ってくれた髪だから。ちゃんと手入れして、綺麗に保ちたくて」

マツバは浴槽から出た。

静かに。ゆっくりと。水の音をあまり立てないように。

洗い場に歩いて行って、イヨリの後ろに立った。

「……マツバさん?」

「触ってもいい? イヨリの髪」

「え……はい」

マツバの手が、イヨリの濡れた髪に触れた。

指の間を、黒い髪が滑り落ちていく。水を含んで重い。でも確かに——綺麗な髪だ。指通りがいい。丁寧に手入れされている証拠。

「……本当に綺麗だ」

マツバは言った。

「お母さんが綺麗だって言ってくれた髪を、イヨリがずっと大切にしてきたんだね」

イヨリの肩が小さく震えた。

泣いてはいない。泣きそうではあったけれど、堪えている。

「……ママの真似をして、ずっと同じ洗い方をしてるんです。シャンプーの泡立て方も、トリートメントの置き時間も、全部ママに教わった通り。子供の頃に教わったことを、二十代になっても、ずっと」

「それは——すごく素敵なことだと思う」

マツバの声が穏やかだった。判断も評価もしない、ただ受け止めるだけの声。

「イヨリのお母さんが大切にしてくれたことが、今のイヨリの中にちゃんと残っているんだ」

イヨリが振り向いた。

「マツバさん」

「うん?」

「今日——今日から——」

イヨリの声がまた小さくなった。照れているのか、感情が溢れそうなのか、その両方なのか。

「わたしの髪を……乾かしてくれませんか」

マツバの心臓が、どくん、と大きく脈打った。

「ママのかわり、とかじゃないんです。ママはママで……マツバさんはマツバさんで……でもマツバさんの手で乾かしてもらえたら、きっと……」

言葉が見つからないように、イヨリは唇を噛んだ。

マツバは微笑んだ。

「もちろん。毎日でもいい?」

イヨリの目が、ふわりと緩んだ。

「……はい。毎日がいいです」

【四】ドライヤー

風呂上がり。

二人ともパジャマに着替えて、リビングに移動した。マツバの家のリビングは和室で、い草の香りがかすかにする。冬はこたつが出ているが、今はまだ秋の初めなので低いテーブルだけ。

イヨリが座布団の上に座った。まだタオルで包んだ髪が濡れている。

マツバがドライヤーを持ってきた。洗面所にあったイヨリのドライヤー。イヨリが同棲を始めた時に持ち込んだもの。マイナスイオン機能つきの、少しいいやつ。

「どうやればいい? 教えて」

マツバがイヨリの後ろに正座した。

「えっと……まず、タオルで軽く水気を取ります。擦るんじゃなくて、押さえるように」

「こう?」

マツバの手が、タオル越しにイヨリの髪を包んだ。ぽんぽん、と軽く押さえる。

「はい、そうです。強く擦ると傷むので」

「わかった」

「それから、ドライヤーは根元から。髪に近づけすぎないで、二十センチくらい離して。温度は——」

「低温にしておいた方がいい?」

「いえ、最初は高温で根元を乾かして、仕上げは冷風に切り替えてもらえると……キューティクルが閉じて艶が出るので」

「キューティクル」

「髪の表面の鱗状の構造です。温めると開いて、冷やすと閉じるんです」

「なるほど……医学的知識がここにも」

「これは医学じゃなくてママの受け売りです」

イヨリが少し笑った。

マツバはドライヤーのスイッチを入れた。温風が出る。手首の角度を調整して、イヨリの後頭部の根元にふわりとあてた。

「どう? 熱くない?」

「大丈夫です」

マツバの左手がイヨリの髪を持ち上げて、右手でドライヤーを动かした。温風が髪をさらさらと揺らす。

イヨリの髪は、乾き始めると少しずつ軽くなっていった。水を含んで重かった黒髪が、温風に解かれて、指の間をするすると滑っていく。

「ここ、分け目のあたりは?」

「はい、そこも根元を乾かしてください。左右に分けて——」

マツバが言われたとおりに髪を分けて、根元に風を当てた。イヨリの頭皮が見える。白い肌。清潔な匂い。シャンプーの残り香。

不思議な気持ちだった。

マツバは今まで、人の髪を乾かしたことがない。自分の髪でさえ、適当にタオルで拭いて自然乾燥に任せていた。きちんとドライヤーをかける習慣すらなかった。

でも今、イヨリの髪を——イヨリが母親から教わった方法で——丁寧に乾かしている。

指の間を滑る髪の一本一本に、イヨリの母親の愛情が宿っているような気がした。

「……イヨリ」

「はい」

「お母さんは、乾かしている間、ずっと『綺麗ねぇ』って言ってたの?」

「はい。ずっと。繰り返し。たぶんドライヤーの音に負けないように、ちょっと大きめの声で」

「じゃあ僕も言う」

「え——」

「イヨリの髪は綺麗だよ」

イヨリの肩が、ぴくっと跳ねた。

「……急にやめてください」

「なんで。本当のことだよ」

「本当のことでも……急に言われると……」

イヨリの耳が赤くなっている。お風呂上がりだからというだけではない赤さ。

マツバはそれを見て、少しだけ口角が上がった。

「綺麗だよ。黒くて、真っ直ぐで、指通りがいい。イヨリがずっと大切にしてきた髪だ」

「マツバさん」

「お母さんの目は正しかったよ」

「……やめ……」

イヨリの声が詰まった。

泣いてはいない——たぶん。でも相当ギリギリだ。

マツバは何も言わず、ドライヤーを動かし続けた。温風が髪を揺らす。少しずつ。少しずつ。

サイドを乾かして。前髪を乾かして。後ろの長い部分を持ち上げながら根元から毛先へ。

「仕上げは冷風だったよね」

「……はい」

切り替える。冷たい風がイヨリの髪を通り抜ける。キューティクルが閉じる。艶が生まれる。

マツバの手が、最後にイヨリの髪全体を梳いた。指を髪に通して、流れを整える。

するり。

するり、と、指の間を黒い絹が滑った。

「……できた、かな」

マツバがドライヤーを切った。

静寂が戻ってきた。ドライヤーの風の代わりに、秋の夜の虫の声が聞こえる。

イヨリが手を伸ばして、自分の髪に触れた。

「……ちゃんと乾いてます」

「よかった」

「……すごく……上手です」

「初めてなんだけど」

「初めてなのに——」

イヨリが振り向いた。

乾いた髪が、動きに合わせてふわりと揺れた。い草の灯りに照らされて、黒髪がつやつやと光っている。目が——右目が——少し赤い。

「マツバさん」

「うん」

「また明日も——やってくれますか」

「もちろん」

「毎日?」

「毎日。約束する」

「約束しなくても——」

「約束したい。僕がしたいからする」

イヨリの唇が震えた。笑おうとして、でも違う感情が混ざって、なんとも言えない表情になった。

「……ママと全然違うんですけど」

「そうだろうね」

「ママはもっと慣れてて……手つきが柔らかくて……ドライヤーの角度もぴったりで……」

「僕は初心者だからね」

「でも——」

イヨリは膝の上で拳を握った。

「でも——すごく、よかったです。ドライヤーの風が来て、マツバさんの手が頭に触れていて、温かくて……」

声が途切れた。

「……ほっとしました」

その一言に、マツバの胸の奥が、温かいもので満たされた。

イヨリが子供の頃に、母親の手で感じていた「ほっとする」時間。それと同じものを——完全に同じではなくても——マツバの手で感じてくれたのだ。

マツバは何も言わなかった。代わりに、乾いたばかりのイヨリの髪にそっと手を伸ばして、頭を撫でた。

ゆっくりと。優しく。髪の流れに沿って。

イヨリが目を閉じた。

その表情が——安堵そのものだった。

張り詰めていた何かが、するりとほどけていくような顔。

「……マツバさんの手、大きいですね」

「そうかな」

「パパの手も大きかったです。でもパパの手はもっとゴツゴツしてて——魚の匂いがして——」

「僕の手は何の匂い?」

「……お線香?」

「ジムリーダーだからね」

イヨリが小さく笑った。

「お線香の匂いの手で、髪を乾かしてもらうの——悪くないです」

「悪くない、か」

「悪くないです。むしろ——」

イヨリは言葉を探すように少し間を置いた。

「むしろ——マツバさんの匂いだなって思います。安心する匂い。わたしの家の匂い」

マツバの手が止まった。

わたしの家の匂い。

イヨリがそう言った。マツバの家を——自分の家だと。マツバの匂いを——安心する匂いだと。

「……イヨリ」

「はい」

「ここがイヨリの家だよ。ずっと」

「……はい」

「僕がイヨリの髪を乾かす。毎日。イヨリが綺麗だって思うから。イヨリのお母さんがそう思っていたのと同じように——僕もそう思うから」

「……同じじゃないと思います」

「そうだね。同じじゃない。でも——同じくらい本気で思ってる」

「…………」

「イヨリの髪は、綺麗だよ」

イヨリが——泣いた。

声を出さずに。膝の上で握った拳をぎゅっと固めて。ぽたり、と、パジャマのズボンの上に涙が落ちた。

マツバは慌てなかった。

ただイヨリの隣に座って、乾いたばかりの頭をそっと自分の肩に寄せた。

イヨリの髪が、マツバの首筋に触れた。ドライヤーの余熱が残っている。ほんのり温かい。

しばらく、虫の声だけが聞こえていた。

【五】日課

翌日から、マツバの日課が一つ増えた。

毎晩、お風呂上がりに、イヨリの髪を乾かす。

これはすぐに習慣になった。

イヨリがお風呂から上がると、リビングの座布団に座る。マツバがドライヤーを持ってきて、後ろに座る。タオルで押さえて水気を取って、根元から高温の風を当てて、仕上げは冷風で。

最初の頃のマツバはぎこちなかった。風を当てる角度がわからなくて、イヨリに「もう少し離してください」「そこは毛先じゃなくて根元をお願いします」と指導された。

一週間で慣れた。

二週間もすれば、イヨリが何も言わなくても適切な角度で風を当てられるようになった。

一ヶ月後には、イヨリの髪のどこが乾きにくいか、どの順番で乾かせば効率がいいかまで把握していた。

「マツバさん、上手になりましたね」

「毎日やってるからね」

「最初は毛先ばっかり乾かして根元がびしょびしょだったのに」

「あれは反省している」

イヨリが笑った。もう泣きそうにはならない。笑える。

マツバは毎晩、乾かしている間に同じ言葉を言う。

「綺麗だね」

最初のうちはイヨリが赤くなって「やめてください」と言っていた。一週間くらいは毎回恥ずかしがっていた。二週間目あたりから「……ありがとうございます」に変わった。

一ヶ月後——

「綺麗だね」

「……はい」

イヨリが微笑んだ。もう照れない。恥ずかしがらない。ただ穏やかに受け止めて、微笑む。

その笑顔を見るたびに、マツバは思う。

イヨリのお母さん——イノリさんは、きっと毎日この笑顔を見ていたのだろう。自分の娘の髪を乾かしながら、この安堵した笑顔を。

今はそれを、マツバが見ている。

受け継いだわけではない。マツバがイノリさんの代わりになれるとも思っていない。

でも、イヨリが「ほっとする」と言ってくれた。その言葉が、マツバにとっては何よりも重い。

イヨリが安心できる場所を作りたい。イヨリが帰ってきたい場所を。イヨリが目を閉じて、力を抜いて、「ほっとする」と言える場所を。

それがマツバにできる、一番大切なことだと思うから。

* * *

ある夜。

いつものように髪を乾かし終えた後、マツバがドライヤーの電源を切った。静寂。虫の声。秋の夜。

イヨリが振り向いて——マツバの胸にぽすん、と顔を寄せた。

「ん?」

「ママに、報告したいです」

「報告?」

「マツバさんが、毎日髪を乾かしてくれるんですよって。……ママくらい上手になったんですよって」

マツバの腕がイヨリの背中に回った。

「お母さん、なんて言うかな」

「多分——笑うと思います。目を細めて」

「怒らないかな。男の手で娘の髪を乾かしてるって」

「怒らないです。ママは——マツバさんのこと、きっと好きになります」

「そうだといいな」

「好きになりますよ。だって——」

イヨリがマツバの胸の中で呟いた。

「だって、わたしの髪を『綺麗だ』って言ってくれる人を、ママが嫌いになるはずがないから」

マツバの腕に、少しだけ力がこもった。

秋の夜風が窓の隙間から入ってきて、イヨリの乾いたばかりの髪を揺らした。

シャンプーの匂い。トリートメントの匂い。そして——お線香の、ほのかな匂い。

イヨリの家の匂い。

マツバは——この日課を、一生の日課にすると決めた。

声には出さなかった。イヨリにも言わなかった。

でもこの先何十年、イヨリの隣にいる限り——毎晩、髪を乾かす。毎晩、「綺麗だね」と言う。毎晩、お母さんの代わりにはなれなくても、マツバだけのやり方で、イヨリの「ほっとする時間」を守り続ける。

それが——パパの声を聞いて泣くことのある夜も。

それが——左足が痛む日も。

それが——世界中がイヨリに冷たい日だったとしても。

この部屋に帰ってくれば、温かいドライヤーの風と、「綺麗だよ」という声がある。

それだけは、絶対に。

* * *

イヨリの髪は本当に綺麗だ。

黒くて、真っ直ぐで、艶やかで。

お母さんに愛されて。

今は——マツバに愛されて。

これからも、ずっと。

― 了 ―

あとがき by 佐藤美咲

読んでくださってありがとうございます。

今回は、イヨリちゃんの髪の美しさと、そこに込められた母の温もりの記憶、そして新しい日課のお話でした。前回の重く辛い夜の話から、愛が別の形で受け継がれ、そして今の日常の温もりに繋がっていく様子を描きました。

「ほっとする時間」を自分の手で作り出したいと心から願うマツバさんと、過去の母の温もりを現在のマツバさんの温もりに繋げて安堵するイヨリちゃん。二人にとって「家」の匂いが、お線香の匂いに定着していくのもエモいポイントです。

どうかこの二人が末長く、温かいドライヤーの風に包まれますように!