星堕ちる
あの日から、私たちの間には見えない壁が立っていた。
マツバさんが私の居場所を両親に教えた人だった。あの日、あの子に暴かれた私の過去を、マツバさん自身の口から聞かされた真実。それは私にとって想像もしなかった因縁であり、きっとマツバさんにとっても、十数年の歳月を経てなお、棘のように刺さったままのものだったのだろう。
私は彼を恨んでいない。本当に恨んでいない。マツバさんが教えてくれなければ、もしかしたら私はあのまま帰ってこられなかったかもしれない。両親が助けに来てくれなければ、私はあの男に何をされていたのか分からない。両親は私を助けようとして命を落とした。それは確かだ。けれど、マツバさんが居場所を教えたことが悪いのではない。両親を殺したのはあの男だ。そして、あの男についていった私が愚かだった。
そう、頭では分かっている。分かっているはずなのに。
マツバさんと顔を合わせるのが、怖い。
怖いというのは正確ではないかもしれない。どんな顔をして会えばいいのか分からないというのが、一番近い。あの告白の後、マツバさんは確かに「ごめん」と言った。その声が震えていたことを、私は忘れられない。謝らなくていいのに。謝る必要なんてどこにもないのに。なのに、あの時の私は「いいんです」としか言えなかった。もっと他に言うべき言葉があったはずだ。あなたのせいじゃないと、もっと力強く言えたはずなのに。
きっと、マツバさんも同じなのだろう。彼もまた、どんな顔をして私に会えばいいのか分からないでいる。
私が恨んでいないことを伝えたつもりだった。けれど、果たして本当に伝わったのか。あの時の私は、マツバさんにそんな顔をしてほしくないと思いながらも、それを言語化する力を持っていなかった。
互いに傷つけたくないと思うがゆえに、言葉を選び過ぎて、結果として何も言えなくなる。そういう種類の不器用さが、私とマツバさんの間に透明な膜のように張り付いている。
あれから、マツバさんとはメッセージのやり取りこそ続いているものの、以前のようには会っていなかった。
メッセージの文面は相変わらず丁寧で、彼らしい温かさがある。けれど、以前なら「今日、暇だったら会わない?」と気軽に誘ってくれていたのが、今では天候の話や、せっちゃんの冒険の進捗報告に対する返事ばかりが並ぶ。私の方からも、何を送ればいいのか分からなくなっていた。
日常の些細なことを報告するには、私たちの間に横たわるものが重すぎた。かといって、そのこと自体に触れるのも憚られる。まるで、触れたら割れてしまう硝子細工を、二人で慎重に持ち運んでいるような日々だった。
通勤時の同行も、強火女たちが現れなくなったことを理由に丁重にお断りした。本当は、あの五分間が惜しかった。マツバさんの隣を歩く五分間が、私の一日のなかでどれほど大切な時間だったか、失ってから気付くのだから馬鹿げている。なくしたくなかったのなら、お断りなどしなければよかった。けれど、あの五分間に漂う沈黙の重さに、私は耐えられないと思ったのだ。
沈黙が怖いのではない。沈黙の中で、マツバさんが何を考えているのかを想像してしまう自分が怖かった。あの人は優しいから、きっと今でも自分を責めている。自分のせいで、と。それを感じ取ってしまったら、私はまた「いいんです」としか言えない自分を見つけることになる。
仕事は相変わらず忙しかった。忙しさは私の味方だった。手を動かして、頭を使って、患者の処置に没頭している時だけは、余計なことを考えなくて済んだ。
けれど、深夜のポケモンセンターに静寂が訪れると、私はどうしようもなく一人になる。蛍光灯の白い光と、遠くで回る空調の低い唸り。そしてカウンターの隅に置いた小さな硝子瓶。
あの瓶の中には、金平糖が入っていた。
マツバさんが、茶葉のお礼にと深夜のポケモンセンターまで届けてくれた、小さな星たちの菓子。和紙の袋に入っていたそれを、私は家にあった硝子の瓶に移し替えて、大切に食べていた。一晩にひと粒だけ、と決めて。仕事の合間に珈琲だけを友にして過ごす夜に、ほんのひとつまみの甘さが、驚くほど私の心を和らげてくれた。
角張った粒を舌の上に転がすと、砂糖がゆっくりと溶けていく。その数秒間だけ、私の夜は柔らかくなった。
白、淡紅、浅葱、藤紫、山吹。色とりどりの小さな星が、蛍光灯の無機質な光の下でも、確かに煌めいていた。
あれから瓶の中身はだいぶ少なくなっていた。最初は仕事中にひと粒ずつ食べていたが、マツバさんとの間にあの壁が出来てからは、瓶を自宅の机の上に移していた。瓶を見ると、マツバさんのことを考えてしまうから。ポケモンセンターのカウンターには、もう置けなかった。
金平糖がなくなってしまうのが怖かった。馬鹿みたいだけど、金平糖が尽きたら、マツバとの繋がりが本当に薄れてしまうような気がして。だから、ひと粒を食べる間隔をどんどん伸ばしていった。二日に一度、三日に一度。やがて、一週間に一度。
* * *
夜勤の翌日は、アラームの音で目を覚ます。いつも通りの目覚め。カーテンの隙間から差し込む光。二十時。仕事を終えて帰宅した私は、シャワーを浴びて仮眠を取るのがいつものルーティンだ。
今日は休みだから、次の出勤まで時間はたっぷりある。本当なら、こういう日にマツバさんと会っていた。商店街を歩いたり、自然公園でトドゼルガを遊ばせたり。
今日は予定がない。せっちゃんとも最近はメッセージのやり取りだけだ。確か今は、アサギからの船でカントー地方に渡ると言っていた。元気にしているだろうか。
ぼんやりと天井を見つめていた。出勤の準備をしなければならない時間まで、まだ余裕がある。
瞼が重い。仮眠のつもりが、思ったより深く眠ってしまったのか、それともこれから眠るのか。意識の境界が曖昧になっていく。
――ガラガラ。
玄関の引き戸を開ける音。ミナモシティの、あの古い一軒家。潮風で少しだけ錆びた引き戸は、開けるたびに独特の音を立てる。
「ただいまー」
リビングに入ると、テーブルにはいつもの四人分の食器が並んでいた。母がキッチンから顔を出して、「おかえりなさい」と微笑む。バリヤードが食器を運んでいる。
「遅かったわねー。お兄ちゃん、もう食べ始めちゃったわよ」
「まぁ、カナズミからの帰りの電車が遅れてしまって」
ダイニングテーブルに座ると、父がテレビのリモコンを手に取りながら、「今日のニュース見たか」と話しかけてくる。母の手料理はいつも通り美味しそうで、トマトソースの匂いがキッチンから漂ってくる。兄が向かい側の席で、もう半分ほどパスタを平らげていた。
ああ、夢だ。前にも見た夢の続きだ。
前に見た時は、この夢が現実だと信じた。嬉しくて、嬉しくて。目が覚めた時にどれだけ虚しかったか。
だから今回は分かっている。これは夢だと分かっている。分かっているのに、私はこの席に座ることを拒めない。
「イヨリ、今日は顔色がいいな」
父が言った。視線を送ると、新聞を畳んだ父の目元が優しく細まっている。その皺の一本一本を、私は覚えていない。だから、きっとこの顔は私が作り上げたものだ。記憶と願望が混ざり合った、曖昧な父の顔。
「うん。最近、いいことがあったの」
「へぇ、珍しいな。イヨリが自分からいいことがあったなんて言うのは」
兄がフォークを置いて、興味深そうにこちらを見る。兄の顔ははっきりと覚えている。少し前に会ったから。この夢の中の兄は、現実よりも少し若い。きっと、私が最後にミナモシティで見た兄の顔なのだろう。
「紹介したい人がいるの」
口から出た言葉に、自分自身が一番驚いた。夢の中の私は、現実の私が言えないことを口にする。
母がキッチンから飛び出してきた。「え、イヨリちゃんに恋人ができたの?」盛大に驚く母の横で、バリヤードまで手を止めてこちらを見ている。
「恋人、というか」
「というか?」
「その……婚約者、みたいな」
父が珈琲を吹き出しかけた。兄が椅子から落ちかけた。母だけが両手を合わせて、この世の終わりかのように嬉しそうな顔をしている。
「どんな方なの? お仕事は? 優しい人? イヨリちゃんのこと大切にしてくれる人?」
「ママ、一度に聞かないで」
「写真! 写真見せて!」
「あるわけないでしょう。でも、近いうちに連れてくるから」
連れてくる。私がこの食卓に。あの人を。
「お兄ちゃんはよく聞いておきなさい。なんたってお兄ちゃんにはまだ浮いた話一つないのだから」
母に小突かれる兄。兄は面白くなさそうな顔をして、「相手の男、面接してやる」と腕を組む。
「イヨリ」
父の声は穏やかだった。全てを包み込むような。
「幸せになりなさい」
たった一言。その一言に、私は何も言えなくなった。
「パパ、私ーーー」
ーーアラームの音。
目を開けた。天井が見える。見慣れた天井。ミナモシティの実家ではない。エンジュシティの、マンションの一室。
また、夢か。
今度の夢は前よりも残酷だった。前の夢では、両親が生きていることに驚き、喜んだ。目覚めた時は虚しかったけれど、あの頃の私は、これ以上願うことはないと自分に言い聞かせることが出来ていた。今の生活だって悪くないと。
けれど今回の夢には、婚約者がいた。私がいつか家族に紹介したいと思った、あの人。顔は見えなかった。声も聞こえなかった。でも、あの食卓に招きたいと思える人は、この世界にたった一人しかいない。
あの食卓はもうない。
パパはいない。ママもいない。あの家は親戚が管理していて、私はもう何年も帰っていない。
婚約者を紹介して、パパとママとお兄ちゃんに喜んでもらうという未来は、私には訪れない。
横たわったまま、涙が耳の方へ流れていく。声を出さずに泣く術は、もうとっくに身に付けてしまった。暗い部屋の中で天井を見つめ、瞬きをするたびに涙が零れた。
何もかもが嫌になった。夢は夢で、現実は現実で、両者の間にある溝は絶対に埋まらない。パパとママはもう帰ってこないし、私はあの食卓で「紹介したい人がいる」と言うことは永遠に叶わない。
しかも、紹介したいと思ったその人とすら、今の私はまともに顔を合わせられないでいる。
* * *
しばらく泣いて、涙が枯れた頃、私はようやく身体を起こした。枕元のスマホを確認すると、時刻は午前一時を回っていた。ずいぶん長く眠っていたようだ。
暗い部屋の中で、ぼんやりと周囲を見渡す。カーテンの隙間から、街灯の淡い光が細い線となって差し込んでいる。その光が、机の上のあるものを照らしていた。
硝子の瓶。
金平糖が入った、あの瓶だった。
街灯の微かな光を受けて、瓶の中の数粒が、静かに煌めいている。もうほとんど残っていない。最後の数粒が、瓶の底で身を寄せ合うように佇んでいた。
私はベッドから降りて、机の前に座った。硝子の瓶を手に取る。軽い。最初に受け取った時よりもずっと軽い。振ると、からり、と乾いた小さな音がした。星が擦れ合うような、と。受け取った日の夜にマツバさんが感じたであろう、あの音。
蓋を開ける。甘い匂いが、微かに鼻先を掠めた。もう随分と日が経っているのに、砂糖の匂いは消えていなかった。
瓶を傾けて、一粒だけ掌に転がす。山吹色の、小さな金平糖。角張った結晶が指先の皮膚に当たって、あの日と同じ感触を伝えてくる。
手が震えていた。夢の残滓か、泣いた後の余韻か。それとも、もっと別の何かのせいか。
震える指先で、私はその一粒を唇まで運んだ。
口に含む。角が舌に当たる感触。それからゆっくりと、砂糖がほどけていく。
甘い。
ただ、甘い。素朴で、奥深い、何日もかけて結晶を育てた砂糖の甘さ。何の混じりけもない、純粋な甘さだけが口の中に広がっていく。
私は金平糖を、噛んだ。
かり、と小さな音がして、結晶が砕ける。その瞬間、まるで万華鏡を覗き込んだかのように、記憶の断片が次々と弾けた。
パパに肩車をしてもらって、ミナモシティの花火を見た。あの時のパパの肩は広くて温かくて、私は世界で一番高い場所にいるような気がした。
ママが作ったトマトソースパスタは、世界で一番美味しかった。私がママのレシピを受け継いで今でも作っているのは、あの味を忘れたくないからだ。ママは料理を作りながら鼻歌を歌う人だった。私が気分の良い時に鼻歌を歌ってしまうのは、きっとママの影響だ。
お兄ちゃんがナックラーと遊んでいる横で、私はアチャモを抱っこしていた。夕暮れの庭で、影が長く伸びていた。
バリヤードがいつも見守ってくれていた。
四人と一匹の、温かい日々。
金平糖の甘さが喉に落ちていく。砕けた結晶の欠片が舌の上に残り、舐めるようにして最後の一片まで味わう。すると、今度は別の記憶が浮かんできた。
深夜のポケモンセンターで、初めて会った夜。疲れ切ったマツバさんにハーブティーを差し出した。
翌朝、わざわざ会いに来てくれた時の、ニコニコとした顔。
フレンドリーショップの前で待ち合わせをした土曜日。ランチを食べながら、兄のことを相談した。
マツバさんが「僕はイヨリちゃんの思っていることを教えてほしいと思うし、迷惑だとは思わない」と言ってくれたこと。言ってくれた、ではなく、言い切ってくれたこと。
せっちゃんとジムに行った日、マツバさんが修行の延長でしかなかったジムリーダーという仕事に、新しい意味を見つけた瞬間。
夢で見たもう一つの人生のことを神社で祈った夜。暗い参道を歩きながら、マツバさんのことを願った。
強火女たちに絡まれた日の帰り道、途中まで普通だったのに、急にマツバさんが「頼りないよね、僕」と言い出した。違う、そうじゃない。あなたは頼りない人なんかじゃない。
私が過去を打ち明けた日。震える声で話す私の言葉を、マツバさんは一言も遮らなかった。ただ静かに、真剣に、聞いてくれた。
そして、マツバさんが「君のご両親に君の場所を教えたのは、僕だよ」と言った時の、あの苦しそうな顔。あの顔をさせたのは、私だ。私があの男についていかなければ、マツバさんにあんな顔をさせることはなかった。
全部、繋がっている。
パパとママを失ったことと、今ここにいることと、マツバさんに出会ったことと。全部、一本の線で繋がっている。
どこかひとつでも違っていたら、私はマツバさんに会えなかった。パパとママが生きていたら、私はホウエンにいた。タマムシ大学に行かなかったかもしれない。エンジュに来ることもなかった。マツバさんにハーブティーを差し出すこともなかった。
あの夢で見た幸せな食卓は、確かに美しかった。パパとママと兄と、四人で過ごす日々。婚約者を紹介して、みんなに祝福してもらう未来。それは焦がれずにはいられない、手の届かない光だ。
では、今の私の手の中には、何がある?
硝子の瓶を見つめる。残り数粒の金平糖。マツバさんが選んで、短冊に「いつもありがとう」と筆で書いて、深夜のポケモンセンターまで届けてくれた、小さな星。
そうだ。あの人は、あの夜、星を届けてくれたんだ。
彼が金平糖を選んだ理由を、私は知らない。けれど、初めてあの粒を蛍光灯の光に翳した時、「星みたいですね」と呟いた私に、マツバさんの目元が一瞬だけ揺れたのを覚えている。何かを言いかけて、飲み込んだような。あの時マツバさんが飲み込んだ言葉が何だったのか、いつか聞いてみたい。
星が降る。
「星が降る」と名付けたいような、あの夜のことを思い出す。マツバさんが和紙の袋をカウンターに置いた時、結び目の影が小さく落ちていた。袋を開けた瞬間、蛍光灯の下で金平糖が煌めいた。あの光景を、私は生涯忘れないだろう。
降るものがあるなら、堕ちるものもある。
私の星は、十年前に一度堕ちた。パパとママという星を失って、私の夜空は暗くなった。長い間、私は暗い空を見上げて生きていた。時々夢の中でだけ、星が瞬く空を見ることが出来た。
でも、マツバさんが小さな星を届けてくれた。たったひと粒の金平糖。それは夜空いっぱいに広がる星の光には遠く及ばないけれど、確かに、私の掌の上で光っていた。
星が堕ちるのは、悲しいことだけではない。
流れ星は堕ちるからこそ、その一瞬の軌跡が美しい。堕ちるからこそ、地上の誰かの掌に届く。遥か遠くの空にある星には手が届かないけれど、堕ちてきた星なら、指先で掬い上げることが出来る。
辛くても、生きていくしかない。
両親を失った十年前から、私はずっとそう思って生きてきた。けれど、「しかない」という言葉の響きは、いつも義務のような重さを纏っていた。生きなければならない。生きていることしかできない。消去法の人生。兄に「生きていて良かった」と言われたから、兄に許されたから、生きてきた。
違う。
私は生きたいのだ。
この場所で。この街で。この夜空の下で。あの人の隣で。
マツバさんと出会えたこと。マツバさんが淹れてくれたハーブティーではなく私のハーブティーを美味しいと言ってくれたこと。マツバさんがジムリーダーとしての未来を見つけたこと。マツバさんが兄に会いに行ってくれたこと。マツバさんが金平糖を選んでくれたこと。
全部、全部。
私がここにいるから起きたことだ。
恐ろしいものの先にしか、私の幸せはない。過去の悲しみも、因縁の重さも、すべてを飲み込んだ先にしか、私が本当に欲しいものは待っていない。怖いに決まっている。また大切な人を失うかもしれない、傷つけてしまうかもしれない。でも、恐れて立ち止まっていたら、あの食卓の夢を見るたびに泣くだけの人生が、永遠に続くのだ。
瓶をもう一度傾ける。白い金平糖が、掌に転がり落ちた。蛍光灯もつけていない暗い部屋の中で、街灯のかすかな光だけを頼りに、それは確かに光って見えた。冬の一等星のような白。
口に含む。角が頬の内側を軽くくすぐって、砂糖が溶け始めた。今度は噛まずに、ゆっくりと、舌の上で転がした。甘さが、ゆっくり、ゆっくりと広がっていく。
ああ、私はマツバさんのことが好きだ。
認めてしまえば、驚くほど簡単なことだった。せっちゃんに「好きなの?」と聞かれた時、「まだ分からない」と答えた自分が嘘つきだったわけではない。あの時は本当に分からなかったのだ。今は分かる。怖いものを全部引き受けてでも、この人の隣にいたいと思える。それが、好きだということなのだと。
マツバさんが自分を責めているのなら、何度でも「あなたのせいじゃない」と言おう。一度で伝わらなかったのなら、百回でも千回でも。マツバさんが「ごめん」と言い続けるのなら、私は「ありがとう」と言い続ける。あなたが教えてくれたから、パパとママは私を助けに来てくれた。その事実を、私は恨めない。恨みたくない。
あの因縁が、私たちの間にある限り。背負い続けなければならないものがある限り。一人で背負うよりも、二人で背負った方がいい。重さは変わらないかもしれない。嫌、隣に誰かがいるだけで、足元は少しだけ確かになる。
* * *
金平糖が舌の上で完全に溶けた。口の中にはもう何もない。けれど、甘さの余韻だけが、まだ残っていた。
時計を見ると、午前二時を過ぎていた。窓の外は真冬の闇だ。
カーテンを開けた。
雲のない、冷え切った夜空だった。盆地の底から見上げる冬の空は、街の灯りに薄められてもなお、いくつかの明るい星を見せてくれる。オリオン座の三つ星が南の空に傾いている。その下に垂れるように光るのは、大星雲だろうか、目では分からないけれど、写真を撮れば淡い紅色に写るはずだ。
スマホを手に取った。メッセージアプリを開く。マツバさんとのトーク画面。最後のやり取りは三日前。マツバさんからの「寒くなったから体調に気をつけてね」に、私は「マツバさんも」とだけ返していた。素っ気ない。あまりに素っ気ない。
指が画面の上で止まる。何を書けばいい。「金平糖、美味しかったです」では足りない。「会いたいです」では唐突だ。「好きです」は、こんな場所で言う言葉ではない。
数分間、私は画面を見つめていた。やがて、指が動いた。
『マツバさん、お忙しいところすみません。近いうちに、お時間いただけませんか。お話ししたいことがあります。』
送信ボタンを押す前に、深呼吸を一つ。
押した。
既読はつかなかった。当然だ。こんな真夜中に、マツバさんが起きているはずがない。
私はスマホを机に置いて、もう一度窓の外を見た。
オリオンの三つ星が、微笑んでいるように見えた。都合のいい解釈。でも、そう見えたのだから仕方がない。
硝子の瓶を持ち上げて、街灯の光に透かす。残りの金平糖は、あと三粒。白と淡紅と浅葱。三粒だけの小さな星空。
次にマツバさんに会ったら、何を言おう。過去のこと。因縁のこと。そして、それでもなお、隣にいたいということ。
怖い。怖くて仕方がない。恐れることの先にしか、私の幸せはないと覚悟を決めたはずなのに、まだ膝が震えている。
でも、もう逃げない。
逃げたら、残りの三粒を食べ終えた時、私の手の中には何も残らなくなる。
マツバさんと一緒にその先を見てみたい。恐ろしいことの向こう側に何があるのか、この人とならば見ることが出来る気がする。この人の隣でなら、堕ちてきた星を掬い上げることが出来る気がする。
瓶の蓋を閉めて、机の上に戻した。
硝子越しに、三粒の金平糖が静かに光っている。
残り三粒。それは、マツバさんに会うまでの命綱だ。
あの人に会ったら、伝えなければならないことがある。
恨んでいない、ではなく。いいんです、でもなく。
「ありがとう」と。
「私をパパとママのところに返してくれたのは、マツバさんだったんですね」と。
私はそう伝えるのだ。たとえ声が震えても。
窓の外で、流れ星が一つ、落ちた。
一瞬の、ほんの一瞬の軌跡。夜空を裂いて堕ちていく光。
あれを見たら願い事をするのだと、いつか母が教えてくれた。
願い事。もう、とっくに決まっている。
星が堕ちる。堕ちて、砕けて、地上の誰かの掌に届く。
マツバさんが届けてくれた金平糖も、きっとそうだ。空にある星には手が届かないけれど、砕けた星が砂糖の結晶に形を変えて、硝子の瓶に降り積もって、深夜のポケモンセンターのカウンターの上で、私の指先に触れた。
堕ちることは、終わりではない。
堕ちた先で、誰かに拾い上げてもらえるのなら。
堕ちた先に、この人がいてくれるのなら。
それはきっと、幸せなことだ。
スマホが震えた。
こんな時間に。まさか。
画面を見ると、マツバさんからの返信だった。
『いつでもいいよ。僕も、イヨリちゃんに話したいことがあるんだ。』
なぜ起きているのだろう。こんな真夜中に。
返信の文字を見つめていたら、また涙が出た。さっきとは違う涙だった。
震える指で、返事を打つ。
『ありがとうございます。楽しみにしています。おやすみなさい。』
送信して、スマホを枕元に置いた。
毛布を引き上げて、目を閉じる。
今度はいい夢が見れそうだ。
見れなくてもいい。もう大丈夫。
だって、目が覚めた先に、会いたい人がいるのだから。
― 終 ―
あとがき by 佐藤美咲
主ィィィィッ!! 大記録さらに更新よォォォッ!! 前作「星が降る」の完全な回答編、「星堕ちる」が爆誕したわッ!!
金平糖という「星」が、二人の間を繋ぐ最強のアイテムになってるわね。マツバが選んだ星を、イヨリが噛み砕いて、その甘さ(幸せ)を受け入れる。この比喩表現、あたしの筆が走りすぎて摩擦で火が出るかと思ったわッ!!
夢の中の幸せな家庭と、現実の喪失。その両方を「甘い」金平糖が繋ぎ止めてくれる。イヨリが「私は生きたいのだ」と自覚するシーンは、もう涙なしでは読めないわよッ!! そしてラストのマツバからの返信! 深夜二時に起きてるなんて、マツバもイヨリのメッセージを待ってたに違いないわッ!!
この二人の夜空には、もう暗闇なんてない。星が降って、星が堕ちて、二人の掌で光り続けるのね……。最高に美しい愛の形を見せてもらったわ。主、本当にありがとうッ!!