星満ちる
簪をもらった翌日の朝は、不思議とよく眠れた朝だった。
目覚ましよりも先に目が覚めて、窓の外が白んでいるのを認識した時、昨日の出来事が夢だったのではないかと一瞬だけ怖くなった。枕元に手を伸ばす。指先が硬い何かに触れた。トンボ玉の、つるりとした感触。淡いピンク色の中に白い百合があしらわれた、あの簪。
夢ではなかった。
胸の奥がじんわりと温かくなって、私は布団の中で簪を握りしめた。握りしめながら、昨日のことを順番に思い出す。
院内の散歩。ミモザの花。マツバさんが「これを今日、君に渡したかったんだ」と言った時の、少しだけ震えた声。簪を贈る意味を知っているかと問うた私と、知った上で贈るのだと答えてくれたマツバさん。口に簪を咥えて、両手で髪をまとめ上げて、挿した。それが私の答えだった。
泣いている私を、マツバさんは抱きしめてくれた。少しだけ早い心臓の鼓動を背中に感じながら、私はしばらくの間、何も言えなかった。
そこまでは、確かに覚えている。
問題はその後で、私たちはどうやって病室に戻ったのだろう。記憶が曖昧になっているのは、あの後もしばらく泣いていたからだ。マツバさんがずっと背中を撫でてくれていた感触だけが鮮明に残っている。多分、相当長い時間泣いていたと思う。泣き止んだ後も目が赤くて、ナースステーションの前を通る時に看護師さんに「大丈夫ですか」と声をかけられた気がする。
マツバさんも相当気まずかったのではないだろうか。病室に戻ってからも、お互いにどこかそわそわしていて、会話のテンポがおかしかった。普段の私たちと何が違うのかと問われると説明に困るのだが、なんというか、空気が。空気が違った。
結局、マツバさんは面会時間の終わりまでいてくれた。「じゃあ、また明日来るよ」と言った時の声が、昨日の彼にしては妙に丁寧で、緊張しているのが分かった。いつもなら「またね」くらいの軽さなのに。
そして私も「はい、お待ちしています」なんて、旅館の女将みたいなことを言ってしまった。言った瞬間に自分で自分の言葉に引いた。マツバさんは一瞬固まって、それから吹き出すように笑った。不覚にも私も笑ってしまって、ようやく二人の間の空気が少しだけ元に戻った。
マツバさんが帰った後、私はベッドの上で枕に顔を埋めて、声にならない声を出した。嬉しいのに恥ずかしい。恥ずかしいのに嬉しい。感情が渋滞を起こして、どこから処理していいのか分からなかった。
こうして、私たちは恋人になった。
結婚を前提として、恋人から始めようと。そう決めたのは、マツバさんだった。「イヨリちゃんが退院したら、改めてきちんとした形で伝えたいことがあるんだ。でも今は、まずは隣にいさせてほしい」と。
私は「はい」とだけ答えた。本当はもっと何か言いたかった。でも、今の私にはあの一文字だけでも精一杯で、それでいて、この上なく正直な返事だった。
* * *
朝食を済ませ、リハビリを終えて病室に戻ると、スマホに一件の通知が入っていた。
『イヨリおはよー! 昨日マツバ君から連絡もらったよ。簪のこと聞いたけど、もーーーーうちょっと早く言ってよ! お祝いの準備する時間なかったじゃん! ていうか! おめでとう!!!!!!』
せっちゃんからだった。絵文字と感嘆符の嵐で画面が埋め尽くされている。マツバさん、もうせっちゃんに連絡したんだ。律儀な人だとは思っていたけど、こういうところも律儀なのか。
というか「おめでとう」を言われると本格的に実感が湧いてきて、朝食後で落ち着いていたはずの心拍数がまた上がり始める。
返事を打とうとして、ふと、別のことを思い出した。
金平糖の瓶。自宅の机の上に置いたままの、あの硝子の瓶。中にはまだ数粒残っているはずだ。入院して以来、ずっと取りに行けなかった。自宅のマンションまでは歩ける距離ではないし、私の足では尚更だ。
マツバさんに頼む手もあるが、あの瓶を取りに行ってくれと頼むのは気が引けた。だって、そうしたら金平糖をずっと大切に食べていたことがバレてしまう。ただのお菓子を、一粒ずつ、何ヶ月もかけて食べていたことを知られるのは、正直に言って恥ずかしい。いや、恋人同士になった今、恥ずかしいと思うこと自体をどうにかするべきなのかもしれないけれど、なったばかりなのだ。心の準備が追いつかない。
だから、私はせっちゃんに頼むことにした。
『ありがとう、せっちゃん。一つお願いがあるんだけど、うちのマンションの机の上に金平糖が入った硝子の瓶があるの。持ってきてくれない?』
送信してから、もう一つ大事なことを思い出した。
『あ、暗証番号の件だけど、今月中に更新日が来るの。管理人さんに事情を話して、せっちゃんに教える許可をもらってあるから、管理組合に連絡して聞いてみて。合鍵は持ってるよね?』
私のマンションはオートロックで、暗証番号は月に一度変更される。一人暮らしの女性の住居としては安心な仕組みだが、こうして長期入院している今、ちょっとした不便を感じる。
本来、暗証番号を教えていいのは入居者本人だけで、第三者への開示は原則として認められていない。けれど事情が事情だった。長期入院中の一人暮らしの女性で、荷物の持ち出しや郵便物の確認が必要になる場合があること。身元引受人としてせっちゃんの連絡先を入居時に提出していたこと。それらを踏まえて管理人さんに相談したところ、本当に特例として認めてもらえたのだ。管理人さんには頭が上がらない。
ほどなくして、せっちゃんからの返信が来た。
『金平糖? 了解! 合鍵持ってるよー。暗証番号は管理組合に電話してみる! 夕方くらいに持ってくね!』
続けて、もう一通。
『ねぇ、金平糖ってもしかしてマツバ君がくれたやつ? 前に話してたよね? なるほどねぇ~にやにや』
なるほどもにやにやも余計だが、否定できないのが悔しい。
私は返事の代わりに、了解のスタンプだけを送った。
* * *
午後のリハビリを終え、病室で論文を読んでいると、廊下から聞き覚えのある足音がした。元気よく、だけどちゃんと院内では走らないように気をつけている足音。せっちゃんだ。
「イヨリー! 持ってきたよ!」
ノックもそこそこに入ってきたせっちゃんの手には、布の袋に包まれた硝子の瓶があった。割れないよう、ちゃんと緩衝材を詰めてくれている。せっちゃんは見た目のイメージに反して、こういう細やかな気遣いが出来る人だ。
「ありがとう、せっちゃん。助かった」
袋から瓶を取り出す。ああ、この瓶だ。見慣れた硝子の瓶。中には、金平糖が残っていた。
一粒。
たった一粒だけが、瓶の底にぽつんと佇んでいた。淡紅色の金平糖。角張った小さな結晶が、病室の蛍光灯の光を受けて、微かに光っている。
確かに残った数が少なかった記憶はあったけれど、最後に食べたのはあの夜だった。マツバさんのことを好きだと認めた、あの夜。あの時白い一粒を食べたから、残っていたのはこの一粒だけだったのか。
「え、一粒しかないじゃん。あたし、てっきりたくさん入ってると思ってた」
せっちゃんが瓶を覗き込みながら言う。
「大切に食べてたの。一粒ずつ、ゆっくり」
「えぇ……。金平糖って結構な量入ってなかった? いつ貰ったの?」
「半年くらい前、かな」
せっちゃんが目を丸くした。
「半年で一袋を食べきれないって、どんだけチビチビ食べてたのよ」
「最初は一晩に一粒だったの。でも、途中からは数日に一粒になって、最後の方は一週間に一粒だった」
「うわぁ……」
せっちゃんの「うわぁ」には、呆れと感動が入り混じっていた。
「だって、なくなるのが嫌だったんだもの」
自分で口に出してから、その理由がどれほど感傷的なものだったか改めて気づいて、少しだけ頬が熱くなる。金平糖がなくなったら、マツバさんとの繋がりが薄れてしまうような気がした。馬鹿みたいだけど、あの頃の私は本気でそう思っていた。
「それをマツバ君は知ってるの?」
「……知らない」
「知らないの?!」
「だって、言えないよ、そんなの」
恋人になった今でも、言えない。お菓子のお返しとして貰った金平糖を、半年間も大切に大切に、一粒ずつ、まるで宝石のように食べていたなんて。重い。重すぎる。引かれたらどうしよう。
「いやいやいや。マツバ君、絶対喜ぶって」
「喜ぶかな」
「喜ぶよ。あたしが保証する」
せっちゃんはそう断言して、それからニヤリと笑った。
「ていうか、これ最後の一粒でしょ。一人で食べちゃうの?」
「……」
一人で食べるつもりだった。いや、正確には何も考えていなかった。ただ手元に置いておきたかっただけだ。でも、せっちゃんに指摘されて、心の底で考えたくなかったことが浮かび上がってくる。
最後の一粒。これを食べたら、もう瓶の中には何も残らない。マツバさんが届けてくれた小さな星が、この世界から全てなくなってしまう。
「マツバ君と一緒に食べなよ」
せっちゃんが言った。普段のおどけた調子ではなく、穏やかな声で。
「金平糖は無くなっても、マツバ君はいなくならないでしょ」
ああ、せっちゃんにはかなわない。
いつだってそうだ。私が頭で考え過ぎて動けなくなっている時、せっちゃんは心で当たり前のことを当たり前に言ってくれる。金平糖の一粒に執着する私が馬鹿みたいだ。だって、そうだ。もう、繋がりが薄れてしまうかもしれない、なんて心配はいらないのだから。
「そう、だね。そうする」
「よし。じゃ、あたしはお邪魔虫にならないうちに退散するね。マツバ君、今日も来るんでしょ?」
「多分」
「多分じゃなくて絶対来るって。昨日付き合い始めたばっかりなんだから。じゃーねー」
嵐のように来て、嵐のように去っていくせっちゃん。病室のドアが閉まった後の静けさが、やけに広い。
私は瓶をサイドテーブルに置いて、残った一粒の淡紅色の金平糖を見つめた。
* * *
せっちゃんの予言は当たった。
面会時間が始まってほどなく、ノックの音がした。マツバさん特有の、丁寧で控えめな二回のノック。
「入ってもいいかい?」
「はい。どうぞ」
ドアが開いて、マツバさんが入ってくる。今日の彼はいつものバンダナに、薄手のジャケットを羽織っている。手にはコンビニの袋を提げていた。
「やぁ。調子はどう?」
「リハビリも順調です。先生にも褒められました」
「それは良かった」
マツバさんが椅子に座る。昨日まで「イヨリちゃんのベッドからちょうどいい距離」に置かれていた椅子が、今日は五センチくらい遠い気がする。マツバさんが意識的に離したのか、それとも掃除の人が動かしたのか。
いや、多分マツバさんだ。昨日と同じ距離に座ったら、昨日のことを思い出してしまうから。抱きしめた距離を。
お互いに目が合って、お互いに目を逸らした。
沈黙が流れる。居心地の悪い沈黙ではない。ただ、何を話したらいいのか分からないだけだ。昨日までの私たちなら、天気の話や仕事の話から自然と会話が生まれていた。でも、今日の私たちは「恋人」なのだ。昨日とは関係性が違う。何が違うのかと具体的に問われたら困るのだけど、とにかく空気が違う。
「あの」
「あのさ」
同時に口を開いて、また同時に止まった。
「先にどうぞ」とマツバさんが言う。
「いえ、マツバさんから」
「いや、イヨリちゃんから」
「では……」
私は意を決して、サイドテーブルの上の硝子の瓶を手に取った。
「今日、せっちゃんに持ってきてもらったものがあって」
瓶をマツバさんに見せる。蛍光灯の光が硝子を透過して、底に佇むたった一粒の金平糖を照らしている。
マツバさんの目が、瓶を認識した瞬間に大きく見開かれた。
「これ……金平糖?」
「はい。マツバさんにいただいた、あの金平糖です」
マツバさんは瓶を凝視していた。私が差し出した瓶を受け取ろうとはせず、ただ見つめている。
「まだ、残っていたのかい」
その声は驚きと、何か別の感情が滲んでいた。
「一粒だけ。最後の一粒です」
「一粒……。いつ頃もらったっけ、あれ」
「半年くらい前です」
マツバさんが息を飲んだ。今度こそ、彼の目に明確な動揺が浮かんだ。
「半年前の金平糖が、まだ……」
「はい」
言ってしまった。もう後には引けない。頬が熱い。きっと耳まで赤くなっている。
「大切に食べていたんです。最初は夜勤の時に一粒ずつ。途中からは数日に一粒になって、最後の方は一週間に一粒でした。なくなるのが嫌で、少しずつ間隔を伸ばしていたら、こんなことになってしまって」
早口になってしまった。マツバさんの顔をまともに見られない。代わりに瓶の中の金平糖を見つめる。淡紅色の小さな星。最後の一つ。
「マツバさんが届けてくれた金平糖を食べている時だけ、夜勤の夜が少し柔らかくなったんです。だから、なくなってほしくなくて。……それに」
「それに?」
「あの、馬鹿みたいなんですけど……。マツバさんが私のために選んでくれたものだと思うと、途中から、食べるのが勿体なくなってしまって。今日こそ食べようって思って瓶の蓋を開けるんですけど、やっぱり勿体ないって閉めてしまう日があって。自分のこういう生真面目なところが少し嫌になるんですけど……」
恥ずかしい。こんなことを恋人になった翌日の人に言うことだろうか。重い。絶対に重い。
自分で自分の言葉に耐えきれなくなって顔を赤くしていると、数秒の沈黙があった。
怖くなって、ちらりとマツバさんの方を見ると、彼もまた右手で口元を覆っていた。指の隙間から見える耳が、私と同じくらい真っ赤だった。
「マツバさん……?」
「ごめん、ちょっと待って。……嬉しすぎて、顔がニヤけそう」
「ニヤけてるじゃないですか」
「イヨリちゃんこそ、りんごみたいに赤いけど」
「それは……マツバさんが笑うから」
くぐもった声で言い合って、ふふっと笑い合う。マツバさんは口元を覆ったまま、しばらく息を整えるように俯いていた。
そうしてようやく、マツバさんが顔を上げた。赤くなった顔のまま、でも、目だけは真っ直ぐにこちらを見ていた。
「半年も大切にしてくれたなんて、知らなかった」
その声の震え方で、マツバさんが本当に驚いて、本当に嬉しいと思ってくれていることが伝わってきた。
「気軽に食べても良かったんですけど、気付いたら大切になっていました」
なぜかこの時だけ、私はマツバさんの目を真っ直ぐに見ることが出来た。
「マツバさんが選んでくれたものだったから」
* * *
「外の空気を吸いに行きませんか」
しばらくの沈黙の後、私はそう切り出した。二人きりの病室に流れる空気が甘くなりすぎて、このままでは息の仕方を忘れてしまいそうだった。
マツバさんは何度も頷いて、私が瓶をポケットに入れるのを待ってくれた。
ナースステーションに散歩に行く旨を告げ、昨日と同じように私たちは病棟を出た。
昨日と違うのは、私たちの関係性と、私の手にある硝子の瓶と。それから、並んで歩く距離が、ほんの少しだけ近い……ような気がするのは、私の願望だろうか。
春の午後の陽光は柔らかく、院内の庭園を包んでいた。病院の敷地は思いのほか広くて、色とりどりの花が植えられた散策路が建物をぐるりと囲んでいる。昨日見たミモザの花は今日も元気に咲いていて、風に揺れるたびに小さな黄色い花がぽろぽろと地面に落ちた。散策路の脇には、まだ名前を知らない淡い紫色の花が咲いている。今度、同室の患者さんに聞いてみよう。あの人は花に詳しいから。
歩調を合わせてくれるマツバさんの隣を、左足を少しだけ引きずりながら歩く。リハビリのおかげで院内の平坦な道ならそれほど苦にはならないが、歩く速度は健常な人よりもだいぶ遅い。マツバさんは急かすことも、気を遣い過ぎることもなく、ただ隣にいてくれた。
時折、私がバランスを崩しそうになると、マツバさんの手がすっと伸びてくる。でも、触れる直前で止まって、引っ込められる。多分、急に触れたら私が驚くと思っているのだ。もう恋人なのだから、支えてくれても全然構わないのだけれど、それを私から言い出す勇気もない。不器用な二人だ。
「今日も天気がいいですね」
「うん。散歩日和だ」
天気の話。これ以上ないくらい当たり障りのない会話。昨日までならこの後、自然と別の話題に移行していたのだが、今日の私たちにはそれが出来ない。恋人になったことで、むしろ話すのが難しくなるなんて、誰が想像しただろう。
「マツバさん」
「ん?」
「……いえ、何でもないです」
「何だろう。気になるな」
「本当に何でもないんです。ただ、名前を呼んでみたかっただけです」
言ってから死にたくなった。何だそれは。名前を呼んでみたかっただけ、って。中学生か。
マツバさんがまた口元を手で覆った。耳が赤い。さっきからずっと赤い。
「僕も呼んでいい?」
「いつも呼んでるじゃないですか」
「いや、うん。そうなんだけど」
何を言っているのだろう、この人は。この人も、そして私も。
恋愛ごとに不器用な者同士が恋人になると、こうなるのか。互いに好き合っているのに、互いに恥ずかしくて、今まで普通に出来ていたことすら覚束なくなる。
散策路のカーブを曲がった時、向こうからリハビリ中の高齢の男性が看護師に付き添われて歩いてきた。すれ違いざまに、男性が私たちを見てにっこりと笑った。
「お若い二人、いいですなぁ」
たったその一言で、マツバさんと私は同時に顔を赤くした。看護師さんがくすくすと笑っている。私たちはお辞儀だけ返して、足早に、いや、私の足では足早にはなれないので、心だけ足早にしてその場を後にした。
「……分かるものなんですかね」
「さぁ……。僕は全然普通に歩いているつもりだったんだけど」
「私もです」
普通に歩いているつもりなのに、他人から見たらカップルだと分かるらしい。いったい私たちのどこがそう見えるのだろう。隣り合って歩いているだけなのに。
でも、考えてみたら、恋人同士になる前から、マツバさんと並んで歩いていたら誰かに「お似合いですね」と言われたことがあった。あの時は二人とも全力で否定したけれど。
昨日ベンチに座った場所を通り過ぎ、少し先にある桜の古木の下まで来た。桜はとっくに散っていて、青々とした葉が頭上に広がっている。木洩れ日がちらちらと地面に模様を描いていた。ところどころ遅咲きの花弁がまだ残っていて、風が吹くたびに一枚、また一枚と舞い落ちていく。
近くのベンチに腰を掛ける。マツバさんも隣に座った。昨日よりも近い距離に。でもまだ、肩が触れ合うほどには近くない。
私はポケットから硝子の瓶を取り出した。
「マツバさん。この最後の一粒を、マツバさんと食べたいんです」
「僕と?」
「はい。一粒しかないので、半分こになりますけど」
金平糖を半分に割るなんて、聞いたことがない。でも、それが私の望みだった。最後の一粒を一人で食べるのは寂しい。かといって、丸ごとマツバさんにあげてしまうのも違う。この金平糖は、マツバさんが私に届けてくれたものだ。マツバさんから私へ。だから、半分はマツバさんの分で、半分は私の分。
瓶の蓋を開ける。かすかに甘い匂いが漂った。半年経っても砂糖の匂いは消えていない。
瓶を傾けて、淡紅色の金平糖を掌に転がした。角張った小さな結晶が、午後の陽光を受けて、きらりと光った。
指先で摘まみ上げ、少しだけ力を入れる。かり、と小さな音がして、金平糖に亀裂が入った。もう少し力を加えると、ぱきり、と二つに割れた。断面から砂糖の粒子がぱらぱらと落ちる。
粒の大きさは均等ではなかったけれど、それでいい。
「はい、マツバさんの分」
大きい方をマツバさんの手のひらに乗せた。小さい方を自分の手に残す。
「イヨリちゃん、大きい方を取りなよ」
「いいんです。元々マツバさんが選んでくれたものだから」
「でも」
「いいんです」
マツバさんは折れてくれた。私たちは手のひらの上の、半分の金平糖を見つめた。淡紅色の断面が白い結晶を覗かせている。何日もかけて育てられた砂糖の層が、断面に年輪のように刻まれていた。
「いただきます」
私が言うと、マツバさんも「いただきます」と小さく言った。
同時に口に含んだ。
砕けた断面が舌に触れ、角のある部分が頬の内側を軽くくすぐった。そして、砂糖がゆっくりと溶け始める。
甘い。
半年分の時間が凝縮されたような甘さだった。深夜のポケモンセンターで一粒ずつ食べていた頃と、同じ味。いや、きっと同じ味のはずなのに、今日の一粒はどこか違った。隣に、この金平糖を選んでくれた人がいるからだろうか。
蛍光灯の無機質な光の下で食べる金平糖も良かったが、春の木洩れ日の中で食べる金平糖は、もっと甘く感じた。
「美味しい」
私が呟くと、マツバさんは静かに微笑んだ。
「うん。美味しいね」
マツバさんは空になった瓶を見つめていた。硝子の内側に、金平糖の甘さの名残が薄い膜のように張り付いている。光を受けて、かすかに煌めいている。
「また買ってこようか。あの商店街の奥にある、小さな菓子屋で買ったんだ。お婆さんが一人でやっていて、昔ながらの製法で作っている金平糖で」
「知りたいです、そのお店のこと。退院したら一緒に行きたいです」
言ってから、私たちはこれから一緒にお店に行けるのだと気付いた。今までの私なら一人で行く場所を、これからはマツバさんと行ける。
「うん。一緒に行こう。瓶いっぱいに詰めてもらおう」
「一粒ずつ食べます」
「半年かけて?」
「……もうそんなに時間はかけません。だって」
金平糖が繋がりの証だった頃とは違う。
もう、一粒の金平糖に縋らなくても、この人は隣にいてくれるのだから。
「だって、もう金平糖がなくなっても大丈夫ですから」
風が吹いた。桜の青葉がさわさわと鳴り、木洩れ日の模様が揺れた。遠くで鳥ポケモンの鳴き声がする。穏やかな春の午後だった。
「イヨリちゃん」
「はい」
「さっき、金平糖を食べている時に少し思い出したんだけど。あの夜、ポケモンセンターに届けた時、イヨリちゃんが『星みたいですね』って言ってくれたの、覚えてる?」
「覚えています。蛍光灯の光に翳したら、本当に星みたいに見えたので」
「あの時、言いたかったことがあったんだ」
「何ですか?」
マツバさんは少しだけ間をおいて、恥ずかしそうに言った。
「イヨリちゃんの苗字に星の字が入っているから、金平糖を選んだんだ。星みたいだから。……ずっと言えなかった」
私は息を止めた。
星埜。私の苗字。私のために、星を選んでくれた。
あの夜、カウンターに置かれた和紙の袋。結び目の影。蛍光灯の下で煌めいた、色とりどりの小さな粒。あれは、マツバさんが私のために選んだ、星だったのだ。
「ずるい」
声が震えた。
「そんなこと言われたら、泣いてしまうじゃないですか」
泣くまいと思ったのに、もう目の奥がじんと熱い。マツバさんは慌てた。
「ご、ごめん。泣かせるつもりは」
「泣いてません」
泣いていた。嘘をつくのは得意なはずなのに、涙だけはどうにもならない。
ぽろぽろと零れる涙を拭う間もなく、マツバさんが私にハンカチを差し出してくれた。受け取って目元を押さえる。白いハンカチからマツバさんの柔軟剤の匂いがした。
「ありがとうございます」
「ハンカチくらい、別にいいよ」
「ハンカチのことだけじゃなくて」
顔を上げた。まだ少しだけ涙が残っていたけれど、今度はちゃんとマツバさんの目を見た。
「金平糖を選んでくれて、ありがとうございます。私のために星を選んでくれて。あの金平糖のおかげで、私はここまで来れました」
大袈裟かもしれない。でも、あながち嘘ではなかった。マツバさんとの距離がぎこちなくなった時期、あの金平糖の甘さだけが私をマツバさんに繋ぎ止めてくれた。一粒の金平糖を食べるたびに、私はマツバさんのことを想って、マツバさんの元へ帰ってこれた。
マツバさんが、そっと私の手に自分の手を重ねた。温かくて、少しだけ汗ばんでいる。緊張しているのだ。この人もまた。
「イヨリちゃん」
「はい」
「空になった瓶、捨てないでいてくれると嬉しいな」
マツバさんの声は、穏やかだった。でも少しだけ何かを噛み締めているような響きがあった。
「次に金平糖を買ったら、同じ瓶に入れよう。そしたら、ずっと続いていくから」
ずっと、続いていく。
始まりの金平糖と、これからの金平糖が、同じ瓶の中で重なっていく。過去と未来が、一つの硝子の中で繋がっていく。つながるのだ。途切れないのだ。
「はい」
私はマツバさんの手を、そっと握り返した。
「この瓶は、ずっと大切にします」
風が木洩れ日を散らす。金色の光の粒が、まるで金平糖みたいに舞い落ちる。
最後の一粒を食べ終えた今、空っぽの硝子の瓶は私の手の中にある。硝子越しに見える世界は、少しだけ歪んでいるけれど、歪みの向こうにマツバさんの横顔が見えた。
空の瓶は、終わりではなく、次の始まりを待つ器だ。
一粒の金平糖の甘さが、まだ舌の上に残っている。
半分だったから、いつもの半分の甘さのはずなのに、今日の甘さはいつもよりもずっと温かくて、ずっと長く残った。
隣でマツバさんが、同じ味の余韻を噛み締めているのだと思うと、私はどうしようもなく幸せだった。
あとがき by 佐藤美咲
主ィィィィッ!! 大記録さらに更新よォォォッ!! 前作「星堕ちる」の激甘アフターストーリー、「星満ちる」が爆誕したわッ!!
金平糖という「星」が、二人の間を繋ぐ最強のアイテムになってるわね。大切にしすぎて食べられなかったイヨリの生真面目さと、それに照れまくるマツバ。この二人の初々しさ、何なのこれッ!? 尊すぎて鼻血出るかと思ったわッ!!
しかも管理人の特例でセツナが部屋に入って瓶を持ってくるなんて、周りのサポートも最高じゃないの! 星は堕ちても、二人の掌で光り続ける…。空っぽの瓶がこれからの未来を暗示してるのね……。最高に美しい愛の形を見せてもらったわ。主、本当にありがとうッ!!