星が降る
金平糖というのは、砂糖の結晶が幾重にも重なり合って角を生やした菓子のことだが、マツバはそれを口に含んだ最後の記憶がいつだったか、どうにも思い出せなかった。
茶葉の入った紙袋を抱えて自室に戻ったのは、もう日が暮れてからのことだった。
リビングの灯りを点け、棚から急須を取り出す。紙袋の中には三種類の茶葉が入っていた。一つは珈琲、もう一つは紅茶、そして最後の一つには「リラックスブレンド」と書かれた小さなラベルが貼られている。イヨリちゃんが淹れてくれたあのハーブティーと同じ香りがした。ラベルの裏側にタマムシシティの店名が印字されていて、彼女がわざわざ取り寄せているのだということが窺える。
急須に茶葉を入れ、沸かしたばかりの湯を注ぐ。少しだけ待つ間に、マツバは窓を開けた。十一月も半ばを過ぎたエンジュシティの夜風は、もう冬の匂いを含んでいる。盆地特有の底冷えが足元から忍び寄ってくるのを感じながら、彼はマフラーを巻き直した。
急須から湯飲みに注いだ琥珀色の液体を口に含むと、鎮まるような、ほどけるような、不思議な温かさが舌先から喉へと伝っていった。甘い香りが鼻腔をくすぐり、肩の力が自然と抜ける。あの夜、ポケモンセンターの廊下で受け取った一杯と、同じ味がした。
ホウオウに選ばれなかった夜のことを、マツバはまだ鮮明に覚えている。修行を重ね、千里眼を手にし、すべてを捧げてなお届かなかった。ヒビキ君の背中に虹色の翼が重なって見えたあの瞬間、自分の足元が崩れ落ちるような感覚があった。それから間もなくあの立てこもり事件があり、事件の後に辿り着いたポケモンセンターで、彼女は白衣の袖を少しだけまくりながら、何の気負いもなくハーブティーを差し出してくれた。
あれが始まりだったのだと、今ならば分かる。
湯飲みの中身が減っていくのを眺めながら、マツバは考えていた。茶葉を三種類も贈ってくれたのだ。お裾分けだと彼女は言っていたが、わざわざタマムシシティから取り寄せたものを、わざわざ仕事帰りに届けてくれたのだ。何かお返しをしなければ、と思うのは当然のことだった。
けれど、何を贈ればいいのか、マツバにはまるで見当がつかなかった。
* * *
翌日の昼前、マツバはポケモンセンターを訪ねた。
イヨリちゃんに会うためではなかった。もちろん会えるならば会いたいとは思ったが、彼女の勤務は夜間専従で、この時間帯にセンターにいないことくらいは承知している。目的は別にあった。
自動ドアが開くと、消毒液と微かな花の香りが混じったポケモンセンター特有の空気が肌に触れた。受付カウンターの向こうに、赤みがかった髪を高い位置で結った女性が座っている。エンジュポケモンセンターのセンター長を務めるジョーイさんだった。
マツバはゲンガーのモンスターボールを差し出した。定期的な健康診断を受けさせるため、という名目は嘘ではない。ゲンガーの検診は実際に予定していたことだったし、ジムリーダーとしてポケモンの体調管理に手を抜くつもりはなかった。ただ、それだけが理由ではないことを、マツバ自身の胸の奥が知っていた。
「あら、今日はお一人なんですね」
ジョーイさんの声に、一瞬だけ呼吸が止まった。お一人、という言葉がどこか含みを持っているように聞こえたのは、きっと気のせいではない。このセンターに通うようになった当初、彼女のシフトをジョーイさんに尋ねたのはマツバ自身だったのだから。
「ゲンガーの定期検診をお願いしたくて。それと、イヨリちゃんに茶葉をいただいたので、何かお返しをしたいんですが、何がいいか分からなくて」
正直に言ってしまった方が早いと判断したのは、ジョーイさんが見せた微笑みの中に、既にすべてを察しているような色が滲んでいたからだった。恥ずかしいとか、みっともないとか、そういった感情よりも先に、素直であることの方がこの場においては合理的だろうと、マツバの中のどこかが囁いていた。
「お返しですか。うーん、そうですねえ」
ジョーイさんは人差し指を顎に当てて、少しだけ考えるような仕草を見せた。カウンターの上に置かれた花瓶のコスモスが、空調の風を受けて揺れている。
「お菓子とかはどうかしら。和菓子でも洋菓子でも、イヨリ先生は好き嫌いなく食べるタイプですし」
お菓子。確かに無難な選択ではある。けれど無難であるがゆえに、どこか物足りなさを感じた。
「あの子、夜勤中っていつも珈琲ばっかり飲んでいるのが気になるのよね。甘いものをつまんだ方が頭も回るのに」
ジョーイさんは独り言のようにそう呟いた。それから、はっと何かを思い出したように顔を上げる。
「あ、でもこれはあたしの話なんだけど、夜勤中って甘いものをつまみたくなるのよね~。集中力が切れてきた頃にほんのひと粒でいいから甘いものがあると、もうちょっと頑張ろうって思えるの。イヨリ先生がどうかは分からないけれど」
夜勤中につまめる甘いもの。
ジョーイさんの何気ない一言が、マツバの中で静かに沈殿していった。深夜のポケモンセンターで、蛍光灯の白い光の下、珈琲だけを友にして夜通し働いている彼女の姿を思い浮かべる。患者が途切れた束の間の静寂の中で、消毒液の匂いが漂う処置室の片隅で、ほんのひと粒の甘さが彼女の夜を少しだけ柔らかくするのだとしたら。
「ありがとうございます。参考になりました」
マツバは礼を言い、ゲンガーの検診結果を受け取ってポケモンセンターを後にした。自動ドアが閉まる音が背後で響き、十一月の乾いた風が頬を撫でた。
* * *
エンジュシティの商店街は、平日の昼間であっても人の往来が絶えることはない。紅葉の見頃は過ぎたとはいえ、古い町並みそのものを目当てに訪れる旅行者は季節を問わず存在するし、地元の人間にとっても日用品の買い出しや散策の場として商店街は生活に根差している。
石畳の通りを歩きながら、マツバは何軒かの菓子屋の前を通り過ぎた。まずは老舗の和菓子屋に足を止めてみる。硝子の向こうに並ぶ練り切りや饅頭は、どれも見事な仕上がりだった。紅葉を模した練り切りの赤は、職人の手で丁寧にぼかされ、本物の葉が朝露を纏ったかのような繊細さを湛えている。けれど、練り切りは足が早く、夜勤中につまむには向かない。饅頭も、仕事の合間にさっと口に入れるには、少しばかり大仰に思えた。
次に覗いたのは洋菓子屋だった。ショーケースに整列したマカロンの色彩は、淡い桃色から鮮やかな翠、深い紫まで、まるで誰かが空の色を閉じ込めたかのように美しかったが、これもまた日持ちの問題があった。焼き菓子の詰め合わせならば保存は利くものの、仕事の合間にクッキーの破片を白衣に散らしている彼女の姿を想像すると、それはそれで申し訳ない気持ちになった。
商店街の中ほどにある小さな広場で、マツバは足を止めた。石造りのベンチに腰を下ろし、マフラーに顎を埋める。ゲンガーのボールが腰元で微かに揺れたのは、中にいるゲンガーが主人の逡巡を感じ取っているからだろう。
「そんなに難しいことじゃないはずなんだけどな」
誰に言うでもなく呟いた声が、冷えた空気に白く溶けた。
贈り物を選ぶという行為が、こんなにも頭を悩ませるものだとは思わなかった。ミナキに何かを渡す時は、土産物屋の棚から適当なものを見繕えばそれで済んでいた。イタコさんにも、門下生たちにも、それで十分だった。
けれど、今回はそうはいかなかった。適当では駄目だと、心のどこかが頑なに主張している。何故駄目なのかを突き詰めれば、答えはとうに分かっていることに行き着いてしまう。だから、マツバはあえてそこには踏み込まず、ただ「彼女に合ったもの」を探すという建前の中に身を置くことにした。
イヨリちゃんのことを考える。考えるというより、浮かんでくると言った方が正しい。意識しなくても、彼女に纏わる断片的な記憶が、水面に浮かぶ泡のように次から次へと顔を出す。
いつも低い位置でひとつに結われた黒髪。仕事中は名札をつけた白衣に、歩きやすい靴。休みの日にはスカートを履くと言っていた。声は落ち着いていて、少しだけ低くて、どんな相手にも同じ温度の丁寧語で話す。兄への手紙を書くために便箋を選んでいた横顔は、真剣で、少しだけ寂しそうだった。
ポケモンセンターで初めて会った夜を思い出す。
あの頃の僕は、まだホウオウのことを引きずっていた。いや、引きずっているという自覚すらなかったのかもしれない。ただ、何かが空洞になっていて、その空洞がどれほどの大きさなのかを測る物差しさえ持っていなかった。イヨリちゃんが淹れてくれたハーブティーの温かさが、その空洞の輪郭をなぞったのだ。ああ、こんなに広かったんだ、と。
それから僕は、彼女の出勤日にポケモンセンターを訪ねるようになった。最初は、あのハーブティーの温かさをもう一度味わいたかっただけかもしれない。けれど通ううちに気づいたのは、温かさの正体がハーブティーではなく、それを差し出してくれた手の方にあったということだった。
石畳を踏みしめ、マツバは再び歩き出した。商店街の奥の方には、観光客向けの華やかな店と並んで、地元の人間しか知らないような小さな店がいくつか軒を連ねている。そのうちの一つに、以前から気になっていた菓子屋があった。店先に暖簾はなく、代わりに古い木の看板が控えめに架かっているだけだ。金文字で「あめや」とだけ書かれたその看板は、長い歳月を経て文字の縁が丸くなり、読み取るのにわずかな注意を要した。
引き戸を開けると、砂糖の甘い匂いが鼻先に触れた。店内は六畳ほどの狭さで、壁際に設えられた木の棚に、硝子の瓶がいくつも並んでいる。瓶の中にはそれぞれ色の異なる飴玉や干菓子が入っていて、午後の陽光が窓から差し込むたびに、瓶の中身が宝石のように輝いた。
店の奥から、腰の曲がった老婆が顔を出した。白髪を丁寧に纏め上げ、藍色の割烹着を身に着けた小柄な女性だった。マツバの顔を見て、老婆はにっこりと笑った。
「おや、ジムリーダーさん。珍しいお客さんだねぇ」
「お久しぶりです。少し見せてもらっていいですか」
「ゆっくり見ておいき」
棚の上の瓶を一つずつ眺めていく。べっこう飴、千歳飴のかけら、干し柿を砂糖で固めたもの。どれも素朴で温かみのある菓子ばかりだった。日持ちがして、手を汚さず、ひと粒で甘さを味わえるもの。ジョーイさんの言葉が耳の奥で反響している。夜勤中って甘いものをつまみたくなるのよね。ひと粒でいいから甘いものがあると、もうちょっと頑張ろうって思える。
棚の端、窓際に置かれた瓶に目が留まった。
午後の光が、その瓶の中身を照らしていた。小さな、角のある、色とりどりの粒。白、淡紅、浅葱、藤紫、山吹。砂糖の結晶が幾日もかけて少しずつ角を伸ばし、まるで小さな星のような形に育った菓子。
金平糖。
その瞬間、マツバの視界に浮かんだのは菓子の名前ではなかった。
以前、フレンドリーショップの前でイヨリちゃんを待っていた時のことだった。待ち合わせの数分前に着いて、手持ち無沙汰にスマホロトムを取り出した彼女の画面が、ほんの一瞬だけ目に入った。覗き見をするつもりなど毛頭なかったし、千里眼を使ったわけでもない。ただ、隣に立っていた距離で、彼女がスマホの画面を確認した刹那、目に飛び込んできたのだ。
待ち受け画面に設定されていたのは、夜空の写真だった。
漆黒の空に、無数の星が散りばめられている。都会の光害とは無縁の、深い深い夜の色。天の川が淡い帯となって画面を横切り、その周囲に大小さまざまな光点が瞬いていた。プロの天体写真家が撮ったものなのかと一瞬思ったが、画面の端に小さく写り込んだ三脚の影が、それを趣味の一枚だと教えてくれた。
その写真のことを、マツバは忘れられなかった。
そして今、硝子瓶の中で午後の光を浴びて煌めく金平糖の群れが、あの夜空の写真と重なった。色とりどりの小さな星が、瓶の中に降り積もっているように見えた。
「これだ」
声に出していた。自分でも驚くほど、確信に満ちた声だった。
老婆がゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。マツバは瓶を指差して、包んでほしいと頼んだ。
「金平糖かい。いい選択だねぇ。うちのは昔ながらの作り方で、砂糖を何日もかけて結晶にしていくんだよ。急いで作ったものとは角の立ち方が違うのさ」
老婆が瓶の蓋を開けると、微かに甘い匂いが広がった。小さな木の匙で金平糖をすくい上げ、和紙の袋に丁寧に移していく。匙の上で金平糖同士がぶつかり合い、硝子の鈴を振るような澄んだ音を立てた。
「贈り物かい?」
「はい。お世話になった方に」
「そうかい。それなら、少しおまけしておくよ」
老婆はそう言って、匙をもうひとすくい分だけ多く袋に入れてくれた。和紙の袋の口を、細い紐でくるりと結ぶ。その結び目の形が、偶然にも星のように見えた。
店を出ると、夕刻の気配がエンジュの街を橙色に染め始めていた。石畳の上を歩く人々の影が長く伸び、商店街の提灯にぽつぽつと灯りが入り始めている。スズの塔の方角から、風に乗って鐘の音が聞こえてきた。このくらいの時間帯になると、塔の番人が一日の終わりを告げる鐘を鳴らすのだ。ゴーン、と低く響く音が、盆地の冷えた空気を伝って街の隅々まで届いてゆく。
マツバは和紙の袋を大事に上着のポケットに入れた。指先に伝わる金平糖の凹凸が、布越しにも感じ取れた。
夜勤中につまめる甘いもの。日持ちがすること。手を汚さないこと. ひと粒で小さな幸福を味わえること. 条件としては申し分ない. だが、マツバがこの菓子を選んだ本当の理由は、そのどれでもなかった。
星埜イヨリ。
彼女の苗字に「星」の字が宿っていることを、マツバが名簿の上で初めて知ったのはポケモンセンターのホームページを見た時だった。「星埜」という苗字は珍しく、一度見たら忘れようがない。こことは違うどこかの空を思わせるような響きを持つその姓を、マツバは胸の内で何度か反芻したことがある。
彼女のスマホの待ち受けが夜空の写真だったこと。便箋を選ぶ時に、夜空をイメージした日記帳を手に取っていたこと. 断片的な情報を繋ぎ合わせてゆくと、星という符号が幾度も浮かび上がってくる. 千里眼を使わなくとも、彼女が星の名を冠する人であることは、日々の中の些細な仕草から自ずと伝わってきていた。
金平糖の小さな角は、星の光条に似ている。
あの硝子瓶の中で静かに光を受けていた色とりどりの粒は、イヨリちゃんが愛してやまない夜空の縮図そのものだった。白は冬の一等星、淡紅は明け方の火星、浅葱は夏の天頂に輝くベガ、藤紫は薄明の空に沈みゆく星の残像、山吹は地平線すれすれに瞬く老いた恒星。そこまで考えて、やはり自分は考えすぎなのだろうと、マツバは苦笑した。
それでも。
深夜のポケモンセンターで、蛍光灯の無機質な光に照らされながら、ふと手を止めた彼女が、和紙の袋からひと粒の金平糖を取り出す場面を想像する。指先で摘まんだ小さな星が、ころん、と舌の上に転がる。砂糖がゆっくりと溶けて、甘さが口の中に広がっていく。その一瞬だけ、彼女の夜勤が少しだけ柔らかくなる。窓の外には本物の星空があって、手の中には小さな星の菓子があって、彼女の苗字にも星が宿っている。
そのことが、なんだかとても美しいと思った。
歩調が自然と速くなっていることに気がついた。早く渡したいという気持ちが足に伝わっているのだとしたら、それはもう「お返し」という建前の範疇を超えている。分かっている。分かっているけれど、今はその感情に名前をつけることよりも、彼女の顔を思い浮かべることの方が大事だった。
自宅への帰り道、マツバはふと空を見上げた。
夕焼けが終わりかけた空の東端から、紺色が静かに染み出している。最初の一つ星が、まだ薄い闇の中に控えめに光を灯していた。あれは木星だろうか、と思いながら、マツバは立ち止まった。古い瓦屋根の向こうに広がる空は、これから数時間のうちに星を一つ、また一つと受け入れて、やがてイヨリちゃんが待ち受け画面に切り取ったような深い夜空へと移り変わっていく。
ポケットの中の金平糖が、歩くたびにさらさらと微かな音を立てた。星が擦れ合うような、小さな小さな音だった。
* * *
帰宅してから、マツバは自室の机の上に和紙の袋を置いた。
袋の口を開け、中身を覗き込む。掌に数粒だけ転がしてみると、角張った粒が指先の皮膚に当たって、くすぐったいような感触を残した。一粒を摘まみ上げ、蛍光灯の光に透かす。白い金平糖の表面に、光が小さな虹を落とした。
口に入れてみた。
角が舌に当たり、それから砂糖がゆっくりと溶けていく。最初にやってくるのは、純粋な甘さだった。続けて、砂糖の結晶が崩れながら放つ、かすかな香ばしさ。何日もかけて育てられた結晶だからこそ生まれる、素朴で奥深い味わいだった。
この味を、イヨリちゃんにも知ってほしいと思った。深夜のポケモンセンターの、あの静かな受付の片隅で。
渡し方を考える。次にイヨリちゃんの出勤日にポケモンセンターを訪ねて、さりげなく手渡すのが一番自然だろう。茶葉のお礼だと言えばいい。仰々しい包装をする必要はない。和紙の袋のまま、このまま渡せばいい。余計な装飾は、彼女には似合わない。
いや、少しだけ手を加えようか。マツバは部屋の隅にある文机を開け、書道の道具を取り出した。小さな短冊に、筆で一言だけ書く。
「いつもありがとう」
この五文字を書くのに、三枚失敗した。筆圧が強すぎたり、文字の間隔が詰まりすぎたり、墨の濃淡が気に入らなかったり。たった五文字に、こんなにも手間取る自分が可笑しかった。修行で写経を何百枚と書いてきた手が、こんな短い言葉一つにもたつくのだ。
四枚目で、ようやく納得のいく一枚が書けた。墨が乾くのを待ちながら、マツバは短冊を和紙の袋に添える方法を考えた。細い紐で一緒に括ればいいだろう。結び目はそのまま残しておく。老婆が結んでくれた、偶然にも星のように見えた結び目を。
窓の外は、もうすっかり夜になっていた。
立ち上がって窓を開けると、冬を先取りした風が部屋に流れ込んでくる。空を見上げれば、エンジュの街にしては珍しく雲が少なく、無数の星がくっきりと見えていた。天の川こそ街灯りに紛れて判然としなかったものの、オリオン座が東の空に傾いて昇ってきているのは確認できた。あの三つ星の並びの直ぐ近くに、覆い被さるように冬の大三角が広がっている。
イヨリちゃんは今頃、ポケモンセンターで夜勤をしているのだろう。患者が途切れた束の間に、もしかしたら窓の外にこの星空を見つけているかもしれない。あるいは、珈琲を片手に報告書を打ち込んでいるのかもしれない。そのどちらであっても、マツバの知るイヨリちゃんの姿だった。
ポケットの中の金平糖は、もうない。すべて和紙の袋に戻してある。けれど、指先にはまだ角張った粒の感触が残っていた。
イヨリちゃんが好きなのだと、認めてしまえば簡単なことだった。
ホウオウを追い求めていた頃の僕は、空ばかりを見上げていた。遥か高みにある虹色の翼だけが、僕の進むべき道を照らしてくれると信じていた。けれど、空から降りてきたのはホウオウではなく、足元に落ちてきた小さな一杯のハーブティーの温もりだった。地上にいる、一人の女性の差し出す手の温度だった。
今はまだ、この気持ちに名前をつけるのが怖い。名前をつけた瞬間に、ただの好意では済まなくなる。それは「お返しを選ぶ」という行為を、まったく別の意味に変えてしまう。この金平糖を渡した時の彼女の反応を想像するだけで、胸の奥がきゅうと締まるような感覚があって、それが嬉しいのか苦しいのか判然としない。
でも、と思う。
イヨリちゃんが夜空を愛していることを、僕は知っている。彼女の苗字に星が宿っていることを、僕は知っている。そして、小さな角のある砂糖の粒が星に似ていることに気づいた時の、この胸の高鳴りだけは、紛れもなく僕自身のものだ。
ホウオウを追い求める夢はもう手の届かない場所へ行ってしまったけれど、今、僕の掌の中には、届けたい人に届けられる小さな星がある。
いつか、彼女が口を開いてくれる日が来たら、ロケット団の話を聞かせてほしいと思っている。兄のことを書いた手紙の返事が届いたら、どんな内容だったかを教えてほしいと思っている。そして、もしも許されるのなら、彼女が一人で見上げている夜空を、隣で一緒に見上げたいと思っている。
その日が来るまで、僕に出来るのは、小さな星を一袋、届けることだけだ。
マツバは窓を閉め、机の上の金平糖を眺めた。和紙の袋に添えた短冊の墨は、もうすっかり乾いている。明日は、彼女の出勤日だ。
* * *
翌日の深夜、マツバはポケモンセンターの自動ドアの前に立っていた。
腕時計は午前零時を数分過ぎたところを指している。もう日付が変わっているのだから「翌日」という表現は正確ではないのかもしれないが、マツバの中ではまだ昨日からの延長線上に今夜はあった。
上着のポケットに手を入れ、和紙の袋に触れる. 角張った金平糖の感触が、布と和紙の二枚越しに指先へ伝わってきた. ここまで来て引き返すという選択肢は、とうの昔に消えている。
自動ドアが開く。消毒液と花の香りと、それから微かに珈琲の匂いが混じった空気が夜風に乗ってこちら側へと流れ出してきた。
「今晩は。ポケモンセンターです」
カウンターの向こうで、いつもと変わらない声が迎えてくれた。低い位置で一つに結った黒髪、白衣の胸元に留められた名札、少しだけタレ目がちの瞳がこちらを見ている。
「こんな時間にどうしたんですか、マツバさん。ポケモンの具合が悪いですか?」
「いや、ポケモンは元気だよ。ちょっと渡したいものがあって」
ポケットから和紙の袋を取り出し、カウンターの上にそっと置いた。袋の口を括る紐の結び目が、蛍光灯の下で小さな影を落としている。添えた短冊の「いつもありがとう」の文字が、彼女の目に入ったはずだった。
「茶葉のお礼。日持ちするし、仕事中につまみやすいものがいいかなと思って」
イヨリちゃんは袋を手に取り、結び目を解いた。和紙が開かれ、中の金平糖が蛍光灯の光を受けて、静かに煌めいた。
白、淡紅、浅葱、藤紫、山吹。
小さな星たちが、彼女の掌の上に散らばっている。
「金平糖ですか。わぁ、綺麗」
その言葉は短いものだったけれど、声の温度がほんの少しだけ上がったのを、マツバは聞き逃さなかった。イヨリちゃんが金平糖をひと粒、指先で摘まみ上げる。蛍光灯の白い光に翳すと、角張った結晶の表面に光が屈折して、微かな虹が走った。
「なんだか、星みたいですね」
彼女がそう呟いた時、マツバの胸の奥で、何かが静かに、けれど確かに弾けた。
星みたい。
まさに、そう思ったから選んだのだ。あなたの苗字に宿る星と、あなたが愛する夜空の星と、この掌に収まるほど小さな砂糖の星を、どうしても重ねたかったのだ。けれど、そんなことを口にする勇気は、あいにく持ち合わせていなかった。
「気に入ってもらえたなら、良かった」
喉から出てきたのは、それだけだった。
イヨリちゃんは金平糖を口に含んだ。角が頬の内側に当たる感触に、少しだけ目を細めたのが見えた。それから砂糖が溶け始めたのだろう、その目元が僅かに緩んで、唇の端がほんの数ミリだけ持ち上がった。
「すごく美味しいです。素朴な甘さで、仕事の合間にちょうどいい」
やっぱり、この人はこういう笑い方をするのだ、と思った。大袈裟に喜ぶわけでもなく、社交辞令で空虚な賛辞を並べるわけでもなく、自分の言葉で、自分の感覚を、正確に伝えてくれる。そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「これからは珈琲だけじゃなくて、こっちもつまんでくださいね」
「はい。大切にいただきます。ありがとうございます、マツバさん」
深夜のポケモンセンターに、また静けさが戻ってきた。マツバは長居をするつもりはなかったし、彼女も仕事中だ。簡単な挨拶を交わして、マツバはセンターを後にした。
自動ドアが閉まり、十一月の夜風が頬を打つ。
空を見上げた。
雲のない、澄んだ夜空だった。無数の星が瞬いている。あの瓶の中の金平糖よりも、あの和紙の袋から溢れた小さな粒よりも、ずっと多くの光がそこにはあった。けれど、今この瞬間にもっとも美しい星は、あのポケモンセンターのカウンターの上で、彼女の指先に摘ままれているひと粒の金平糖なのだと、マツバは思った。
帰り道、一人で歩きながら、口の中にはもう何もないのに、金平糖の甘さがまだ舌の上に残っているような気がした。
空からは星が降っている。
マツバの足元にも、エンジュの街にも、そしてきっと、白衣のポケモンドクターの掌の上にも。
― 了 ―
あとがき by 佐藤美咲
主ィィィィッ!! 大記録更新よォォォッ!! 前回の「星が、泣いた朝」に続いて、二連続でえっちシーン皆無の清純派短編よォォォッ!!
でもね、こういうのがいいの。こういう「まだ手も握っていない(指先が触れただけ)」くらいの距離感の二人が、贈り物一つで心臓を爆バクさせてる姿こそ、あたしたち腐女子……じゃなかった、作家の魂を揺さぶるのよッ!!
マツバが「いつもありがとう」の五文字を書くのに三枚も短冊を無駄にするシーン。千里眼で修行を極めた男が、好きな女に送るメッセージ一つに手こずってるの。可愛すぎてあたしの鼻腔からマツバのゲンガーが出てきそうになったわッ!!
金平糖の角を星の光に見立てて、イヨリの苗字の「星」と、待ち受けの夜空、そして彼女の存在そのものを重ねる。マツバ、あんた本当に詩人ねッ!! 執着心が強すぎて、菓子の色まで天体に変換しちゃってるし! 最高よッ!!
主、素敵なリクエストをありがとう。エロがなくても、この二人には無限の愛がある。あたし、改めてそう確信したわ。また次のお話で会いましょうねッ!!