ECHOES OF ECRUTEAK

星と花の小夜曲

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

硝子の喉笛
― 短編 ―

マツバ視点 / 約10,000字 / 流血・暴力描写あり

【一】

廃倉庫の鉄扉を開けたとき、最初に見えたのはイヨリの白い顔だった。

蛍光灯の死んだ天井の下、唯一の光源であるランタン型の投光器が黄色い光を吐き出している。その光の中に、椅子に縛りつけられたイヨリがいた。

両腕を背もたれに回されて結束バンドで固定されている。左腕のアステア・システムの腕輪は乱暴に外されて床に転がっていた。口にはガムテープが貼られ、額の傷を隠す前髪が乱れて、白い筋がむき出しになっている。白衣は肩のところが破れ、左足は不自然な角度に曲げられたまま椅子の脚に括りつけられていた。

補助デバイスを奪われた左足は、もう自分では動かせない。

イヨリの右目がマツバを捉えた。白濁した左目は開いたまま、何も映さない。見える方の右目が、恐怖と、安堵と、そして――来てほしくなかったという苦痛を同時に湛えて、マツバを見つめていた。

「よく来たな、ジムリーダーさん」

声は右手の暗がりから飛んできた。投光器の光が届かない場所に、三つの人影が立っている。

マツバは声の主を見た。千里眼を使うまでもない。三人の男。いずれも二十代後半から三十代前半。ジムの挑戦者として何度か顔を合わせた覚えがある。

先頭に立つ男――名前はタカハシといった。三ヶ月前にジム戦で完敗し、バッジを得られなかったトレーナー。その背後に立つ二人は、タカハシの取り巻き。同じ日にジムに来て、同じように敗北した者たちだ。

「モンスターボールは全部外に置いてきたかい」

タカハシが顎でマツバの腰を示した。バトルベルトの留め具にモンスターボールはない。マツバは指示通り、ゲンガーもムウマージもフワライドもユキメノコも、すべて倉庫の外に置いてきた。

「置いてきたよ。約束通りだ」

マツバの声は穏やかだった。いつもの柔らかな口調。ジムリーダーとしての落ち着き。けれどその瞳の奥で紫色の虹彩が僅かに揺れていることを、タカハシは知らない。千里眼が四方の状況を走査している。倉庫の構造、出入り口の数、三人の武器の有無、イヨリのバイタル――脈拍が百十二。血圧が高い。過呼吸の手前。左足の温度が低下している。デバイスを外された影響で血流が不安定になっている。

「立派だな。ジムリーダーは約束を守るんだな」

タカハシが投光器の光の中に歩み出た。右手に金属バットを持っている。残りの二人のうち一人はパイプ椅子の脚を、もう一人は素手だったが、腰にナイフの鞘が見えた。

「お前の奥さんには手を出さない。約束する。だからな、ジムリーダーさん。お前が僕の言うことを聞いてくれたら、この人は無傷で返してやるよ」

タカハシの声には、薄く引き延ばした怒りが混じっていた。ジム戦での敗北。それだけではない。マツバのことが深く許せない理由がある。タカハシはかつてエンジュ大学の聴講生で、マツバの霊学の講義を受講していた。千里眼で見抜かれた自分の浅薄さ。バトルだけでなく、知識でも、人格でも、すべてにおいてマツバに遠く及ばなかった。その劣等感が、三ヶ月の間に黒く煮詰まって、こうなった。

「聞くよ。何をすればいい」

マツバはイヨリを見ないようにした。見れば判断が揺らぐ。見れば、この穏やかな仮面が剥がれる。

「まず跪け」

マツバは躊躇なく膝をついた。冷たいコンクリートの床に両膝が落ちる。エンジュシティのジムリーダーが、廃倉庫の汚れた床に跪く。その光景を見て、タカハシの目が歪んだ笑みを浮かべた。

「いい気分だ。いつもジムの高い場所から見下ろしてたもんな。次は頭を下げろ」

マツバは額を床につけた。土下座。冷たいコンクリートの匂いが鼻腔を突く。埃と油と錆の匂い。その中に混じって、微かにイヨリの匂いがした。シャンプーの残り香。今朝、マツバが髪を乾かしてやったときの匂い。

ガムテープの裏で、イヨリが何かを叫ぼうとしている。声にならない音が、廃倉庫の天井に反響した。

「騒ぐなよ、先生。旦那さんが素直にしてくれてるんだから」

タカハシがイヨリのほうを一瞥し、再びマツバに視線を戻した。

「頭を上げろ」

マツバが顔を上げた瞬間、タカハシの右足がマツバの腹に叩き込まれた。

衝撃が内臓を揺らし、マツバの身体が横に倒れた。床に転がりながら、腹部の痛みが全身に放射する。修行で鍛えた腹筋があっても、不意打ちの蹴りは効く。

「ぐっ……」

「どうした、ジムリーダーさん。千里眼で見えなかったか?」

見えていた。蹴りの軌道も、衝撃点も、すべて千里眼で見えていた。見えていて、避けなかった。避ければイヨリに何をされるかわからない。だから受けた。

「立て」

マツバが立ち上がると、今度は金属バットが左肩に振り下ろされた。鈍い衝撃音が倉庫に響き、マツバの左腕が痺れて垂れ下がる。肩甲骨にヒビが入ったかもしれない。痛みが白い閃光のように脳を貫く。

イヨリがガムテープの裏で絶叫している。椅子が小刻みに揺れ、結束バンドが手首に食い込んで白い肌に赤い線を刻んでいる。

「うるせえよ」

タカハシの取り巻きの一人が、イヨリの椅子を蹴った。椅子ごと横に傾いだイヨリの身体が一瞬浮き上がり、何とかバランスを保って倒れなかった。左足の結束バンドが皮膚に食い込み、血が滲んだ。

マツバの目が一瞬だけ鋭くなった。紫の瞳の奥で何かが燃えかけた。けれどそれを、歯を食いしばることで押し殺した。

「椅子を蹴るな」

低い声だった。穏やかさの欠片もない、地の底から這い上がるような声。タカハシの取り巻きが一歩後退した。

「おお、怖い怖い。でもな、ジムリーダー。お前がどれだけ怖い声を出しても、ポケモンなしのお前はただの人間だ。千里眼で見えたって、殴り返せないんだよ」

タカハシの声には確信があった。マツバが反撃しないことを知っている。イヨリが人質である限り、マツバの手足は縛られている。千里眼があっても、腕力があっても、修行で鍛えた胆力があっても、すべてが無力。

金属バットが二度、三度と振り下ろされた。右脇腹。左太もも。背中。マツバの身体が衝撃のたびに揺れ、けれど倒れない。膝が折れそうになるたびに、イヨリの方を見ないように天井を見上げて、歯を食いしばる。

痛みは慣れるものではない。だが、マツバの中では痛みよりも大きなものが回っていた。

千里眼が見せるイヨリの表情。ガムテープの上から溢れる涙。結束バンドに食い込まれて紫色に変わりつつある手首。恐怖で上がりきった心拍数。過呼吸になりかけている浅い呼吸。

見えている。全部見えている。

けれど、何もできない。

* * *

【二】

「さて」

タカハシが金属バットを肩に担ぎ、マツバの顔を見下ろした。マツバは片膝をつき、左肩を庇うように右手で押さえている。口の端から血が一筋垂れていた。

「約束を守ったろう? お前が言うことを聞いてくれたから、奥さんには手を出してない」

その言葉を聞いて、マツバの身体から僅かに力が抜けた。約束が守られるのなら、この痛みには意味がある。自分が殴られることでイヨリが無傷でいられるなら、バットの何十発でも受ける覚悟がある。

「だが」

タカハシの声色が変わった。

「約束なんて、最初から守るつもりないんだよな」

マツバの血が凍った。

タカハシが金属バットを取り巻きに渡し、ゆっくりとイヨリの椅子に近づいた。イヨリの右目が大きく見開かれる。恐怖。純粋な恐怖が瞳を埋め尽くしている。

「やめろ」

マツバが立ち上がろうとした瞬間、取り巻きの一人が背後からマツバの首を腕で締め上げた。もう一人がマツバの右腕を捻り上げる。修行者の身体は通常の拘束なら振りほどける。だがタカハシがイヨリの髪を掴んで引き上げた瞬間、マツバの身体から力が抜けた。

「暴れるなよ。暴れたら、この綺麗な顔がどうなるかわかるだろう?」

タカハシの左手がイヨリの顎を掴んだ。ガムテープ越しにイヨリの呻きが漏れる。白い頬にタカハシの指が食い込み、爪の跡が赤く浮かんだ。

「おい、ジムリーダー。お前の千里眼でよーく見とけよ」

タカハシの右手がイヨリの白衣の襟を掴み、引き裂いた。布が裂ける音が倉庫に反響した。白衣の下の薄いブラウスが露わになり、イヨリの身体が椅子の上で激しく暴れた。けれど手首も足首も縛られて、逃げ場はない。

「やめろッ!」

マツバが叫んだ。穏やかな口調は完全に消えていた。修行者の胆力も、ジムリーダーの矜持も、すべてが剥がれ落ちた生の声。喉が裂けるような怒号だった。首を締める腕に逆らうように身体を捻ったが、右腕を極められた状態では力が入らない。

「暴れたらどうなるか、言ったよな?」

タカハシがポケットからナイフを取り出した。折りたたみ式の小型ナイフ。刃渡りは十センチほど。それをイヨリの首筋に当てた。冷たい金属が白い肌に触れ、イヨリの全身が硬直した。

マツバの身体から、すべての抵抗が消えた。

「よし。わかってるじゃねえか」

タカハシがナイフをイヨリの首から離したのは、それから五秒後だった。五秒。マツバにとっては五十年にも感じられた五秒間。

「こいつ、お前の女だろう。ジムリーダーの奥さん。エンジュシティのポケモンドクター。頭もよくて、顔もよくて、体型もよくて。ずいぶんいい暮らししてんだろうな」

タカハシの声に混じる感情は、嫉妬だった。マツバへの逆恨みの底にあるのは、マツバが手に入れたすべてのものへの嫉妬。バトルの腕、千里眼の力、旧家の家柄、大学の教壇、そしてこの美しい妻。

タカハシの手がイヨリのブラウスの襟を掴み、ボタンを一つ引きちぎった。白いボタンが床に転がって跳ね、コンクリートの上でカラカラと音を立てた。

「やめろ……頼む」

マツバの声が、震えていた。

千里眼の男が。修行者が。ジムリーダーが。この世のあらゆる修羅場を見てきた男の声が、震えていた。怒りではなく、恐怖で。イヨリに何かが起きるかもしれないという途方もない恐怖で。

「頼むか。いいね。もう一回言って」

「……頼む。イヨリに手を出すな。僕に何をしてもいい。殴れ。蹴れ。骨を折れ。何でもいい。だから――彼女には」

「ダメだ」

タカハシの声は冷たかった。

「お前を殴ってもつまんないんだよ。修行者は痛みに慣れてんだろ。顔色一つ変えないで耐えやがる。だからな」

タカハシがイヨリの左手を掴んだ。結束バンドに食い込まれて紫色に変色しかけた細い手。診察の時にポケモンの毛並みを辿る、あの繊細な指。

「ドクターにとって指って大事だよな?」

マツバの心臓が止まりかけた。

「やめ——」

タカハシがイヨリの左手の小指を掴み、一気に逆方向に折り曲げた。

鈍い音がした。骨が折れる音ではなかった。靭帯が伸びきって関節が外れかける音。イヨリの身体が拘束ごと跳ね上がり、ガムテープの裏から抑えきれない絶叫が漏れた。涙が両目から——白濁した左目からも——溢れ出し、顎を伝って白衣の残骸に落ちた。

「ああっ!! あああっ!!!」

ガムテープ越しの絶叫が、マツバの鼓膜を引き裂いた。

マツバの中で、何かが切れかけた。

千里眼が暴走しそうになる。目の前の男の身体構造が透けて見え始める。頸椎の位置。頸動脈の走行。こめかみの厚さ。一撃で意識を奪える急所が、赤い光のように脳に映し出される。拘束を振りほどいて三歩で距離を詰めれば、あの男の顎を砕ける。四歩あればナイフを奪える。

だが。

イヨリの首にナイフが戻った。

「動くなよ。次は指じゃなくて、この白い喉を切る」

マツバは動けなかった。

千里眼で見えている。タカハシの手の震え。手が震えているということは、本気でナイフを使うつもりがあるということだ。恐怖で手が震えている人間は、予測不能な動きをする。ナイフが滑って、イヨリの頸動脈に届く可能性がある。千里眼でその確率を計算した。十七パーセント。低くはない。低くはないのだ。

「僕を……殴れ」

マツバの声は掠れていた。

「僕を好きなだけ殴ってくれ。バットでもナイフでも何でもいい。腕を折ってもいい。脚を折ってもいい。千里眼を潰してもいい。何でも差し出す。だから――イヨリには、もう」

声が途切れた。涙で。

マツバが泣いていた。

修行者が。千里眼の男が。エンジュシティのジムリーダーが。廃倉庫の汚れた床に片膝をつき、首を締められながら、涙を流していた。

タカハシが嗤った。

「見ろよ、ジムリーダーが泣いてる。あの偉そうな男が、泣いてるぜ」

取り巻きたちが下卑た笑い声を上げた。その笑い声が廃倉庫の天井に反射して、何倍にもなって降り注ぐ。

イヨリの右目が、その光景を映していた。

泣いているマツバ。マツバが泣いている。あの強い人が。あの大きな手で自分を守り続けてくれたあの人が。あの人が膝をつき、血を流し、涙を流している。自分のせいで。

心臓の奥で、何かが弾けた。

* * *

【三】

イヨリの記憶の底で、一つの音が鳴った。

指笛の音ではない。もっと古い記憶。エンジュシティで一人暮らしを始めた最初の夜の記憶。

タマムシ大学を首席で卒業した春、イヨリは卒業旅行でシンオウ地方を巡った。ミオシティの石畳を歩き、テンガンざんに登り、ハクタイの森を抜けた。その森で出逢ったのが、一羽のムックルだった。

巣から落ちた雛。翼を痛めて飛べなくなっていた。イヨリの医師としての本能が勝った。ポケモンセンターに連れて行き、治療し、回復するまでの三日間を看病した。回復したムックルは、イヨリから離れなかった。差し出したモンスターボールに、自分から飛び込んできた。

エンジュシティでの一人暮らしは、想像以上に孤独だった。夜勤専従のポケモンセンター勤務。深夜に帰る暗い道。知り合いのいない街。ミナモシティの温かい海と、タマムシ大学の賑やかな研究室が恋しくなる夜が何度もあった。

そんな夜、イヨリはムクバードに進化した相棒に、ある訓練を施した。

『私が指笛を吹いたら、飛び出してきて。私が悲鳴をあげたら、飛び出してきて。どんなときでも。どこにいても』

女の一人暮らしは、何かと危険だ。ドアの鍵を二重にすることはできても、道の途中で何が起こるかわからない。バシャーモは最強の護衛だが、バシャーモを出せばその時点で大事になる。まずは威嚇。声を上げて、注目を集めて、隙を作る。それが一人暮らしの女が身を守るための第一歩。

ムクバードはムクホークに進化した。その頃にはイヨリの「お庭番」として、指笛と悲鳴に即応する完璧な護衛に育っていた。モンスターボールの中で常に臨戦態勢を保ち、イヨリの声を聞いた瞬間に飛び出す。訓練に訓練を重ねた、女一人を守るために磨き上げた技。

マツバと同棲を始めてからも、その訓練を解除したことはなかった。マツバは「僕がいるから」と言ったが、イヨリは首を横に振った。

「あなたの千里眼でも、百パーセントは守れません。最後の壁は、私自身が張りたいんです」

そう言ってムクホークの頭を撫でるイヨリの横顔を、マツバは何も言えずに見つめていた。

今、この廃倉庫の中。

イヨリのモンスターボールベルトは、椅子の背もたれの裏に隠れている。男たちは白衣のポケットとカバンの中しか確認しなかった。腰のベルトに引っ掛けてあったボール三つ――バシャーモ、ムクホーク、ロズレイド。ロトムはアステアのデバイスごと奪われたが、ボールは椅子の陰に隠れたまま。

ムクホークは指笛で呼べる。悲鳴でも呼べる。

だが指笛は吹けない。口にガムテープが貼られている。

ならば。

悲鳴を上げる方法は一つ。ガムテープを剥がすしかない。

イヨリは顎を動かした。小指の痛みが肘まで走り、視界が白く明滅する。けれど痛みを呑み込んで、顎の筋肉を総動員してガムテープの端を口の動きだけでずらそうとした。接着面が汗と涙で湿って粘着力が落ちている。少しだけ。あと少しだけ。

声がでる隙間があればいい。叫べる幅があればいい。

マツバを見た。

金属バットが、今度はマツバの右膝に振り下ろされるところだった。鈍い音がして、マツバの身体が崩れ落ちた。右膝を押さえて呻くマツバの背中に、タカハシが足を乗せた。

「どうだ。千里眼で何が見える? 自分が惨めにくたばっていく姿が見えるか?」

マツバは何も答えなかった。ただイヨリのほうを見ないように顔を背けていた。見たくないのではない。見れば、理性が崩壊する。イヨリの恐怖に満ちた表情を千里眼で直視してしまったら、あとは獣になるしかない。獣になれば、タカハシを殺せる。だがイヨリの喉にナイフが――。

「おい、次はどうする? この女のもう片方の手を折るか? それとも」

タカハシがイヨリに近づいた。

その瞬間だった。

タカハシの手がイヨリの髪を掴もうとした、その指先がイヨリの額に触れた刹那――イヨリの右目が定まった。

恐怖が消えた。

いや、消えたのではない。恐怖の上に、もう一つの感情が覆いかぶさった。

もう見たくない。

あの人がこれ以上傷つくのを、もう見たくない。

この男たちがマツバさんを殴る音を、もう聞きたくない。

血が流れる顔を、もう見たくない。

涙を流して跪く姿を、もう見たくない。

もう。

たくさんだ。

イヨリの顎が動いた。汗と涙で緩んだガムテープの端が、唇の右端から僅かに剥がれた。一センチにも満たない隙間。けれどそれで十分だった。

イヨリの口腔が開き、横隔膜が下がり、肺の底から空気が持ち上げられて、声帯を震わせた。

悲鳴が、廃倉庫を引き裂いた。

ポケモンドクターの、低い腹式呼吸から放たれた悲鳴。叫び声。助けてという言葉ではない。名前を呼ぶ声でもない。ただ純粋な、魂の底から絞り出された音圧。それは人間の声というよりも、追い詰められた獣が発する最後の咆哮に近かった。

廃倉庫の空気が震えた。

三人の男が一瞬だけ、本能的に身を竦めた。

タカハシがイヨリの髪を引っ張って黙らせようとした。だが遅い。

音は届いた。

ボールの中で常に臨戦態勢を保つ猛禽に、音は届いた。

椅子の背もたれの裏で、モンスターボールが弾けた。

白い光が廃倉庫の天井に向かって炸裂した。投光器の黄色い光を食い破る純白の閃光の中から、翼を広げたムクホークが飛び出した。

ジョウト地方の空気にはない、シンオウの冷たい風を纏った猛禽。頭頂部の冠羽が逆立ち、鋭い嘴が開かれ、複眼がタカハシを捕捉した。

「なっ——」

タカハシの声が途切れた。ムクホークの「いかく」が発動していた。部屋の空気が変わる。温度が二度下がったかのような威圧感。三人の男の足が竦み、金属バットを握る手が震えた。

ムクホークは迷わなかった。訓練通り。イヨリが悲鳴をあげたら飛び出して、脅威を威嚇する。標的はイヨリに最も近い人間。すなわちタカハシ。

翼が唸った。インファイトではない。ブレイブバードでもない。訓練された護衛の動きは精密だった。翼でタカハシの顔面を薙ぎ払い、鉤爪でナイフを持った手を引っ掻いた。刃が宙を舞って床に落ち、カラカラと音を立てて転がった。

「ぐあっ!!」

タカハシが顔を押さえてよろめいた。ムクホークは旋回し、二度目の突撃で取り巻きの一人のパイプ椅子の脚を蹴り落とした。三人目が腰のナイフに手を伸ばしたが、ムクホークの鋭い眼光に射竦められて動けなかった。

「つばめがえし」

イヨリの声だった。

ガムテープが剥がれかけた口から漏れた、掠れた命令。けれどムクホークには十分すぎる指示だった。

ムクホークが消えた。いや、速すぎて人間の目には消えたように見えた。つばめがえしの軌道は直線ではない。避けることができない必中の技。ムクホークの身体が三つの弧を描き、三人の男の武器を的確に弾き飛ばした。金属バットが壁に激突し、パイプ椅子の脚が天井に飛び、ナイフが排水溝に落ちた。

武器を失った三人の男が、恐怖に引きつった顔で後退した。

ムクホークがイヨリの前に降り立ち、翼を広げて壁になった。冠羽を逆立て、嘴を開いて威嚇する姿は、かつてシンオウの森で巣から落ちたムックルの面影を一切残していなかった。

その隙に、マツバが動いた。

痛みで霞む視界の中で、右膝が軋む音を無視して立ち上がった。左肩は動かない。右膝も崩れそうになる。けれど身体が動いた。千里眼が見せる光景の中に、恐怖で竦んだ三人の男と、翼で守られたイヨリの姿が映っていた。

マツバは倉庫の外に向かって指笛を吹いた。

三秒後、壁を突き破ってゲンガーが現れた。影の中から実体化したゲンガーの赤い目が、薄暗い倉庫の中を走査した。主人の傷だらけの姿を見た瞬間、ゲンガーの笑みが消えた。いたずら好きの親友の目が、殺意に変わった。

「ゲンガー。さいみんじゅつ」

マツバの声は再び穏やかだった。けれどその穏やかさは、もう仮面ではなかった。怒りが沸点を超えて凍りついた、静寂の穏やかさだった。

ゲンガーの目から放たれた催眠の波動が、三人の男を同時に包んだ。タカハシが恐怖に引きつった顔のまま膝から崩れ落ち、取り巻きの二人が倒れ込んだ。三つの身体がコンクリートの床に転がり、深い眠りに落ちた。

廃倉庫が、静寂に戻った。

* * *

【四】

マツバが最初にしたことは、イヨリの結束バンドを切ることだった。

左肩が動かないから、右手だけで作業した。ゲンガーが影からナイフのような爪を伸ばして結束バンドに当て、マツバの手の動きに合わせて精密に切断した。手首の結束バンドが外れた瞬間、イヨリの両手が垂れ下がった。紫色に変色した手首には、結束バンドの跡が赤黒い溝を刻んでいた。

足の結束バンドも外した。左足は補助デバイスなしでは動かない。マツバはアステアのデバイスを拾い上げ、イヨリの左腕に慎重に装着した。デバイスが起動した瞬間、ロトムの声が響いた。

「イヨリ!! バイタル異常を多数検知ロト!! 左手小指の基節骨に亀裂骨折の疑い、手首に圧迫による循環障害、左足の血流低下——」

「ロトム、うるさい」

マツバが静かに言った。ロトムが黙った。ノンデリなAIが空気を読んだのは、これが初めてかもしれなかった。

ムクホークがイヨリの肩に降りた。冠羽を撫でつけて、主人の頬に嘴を擦りつけた。イヨリの右手が——小指が折れた左手ではなく、無事な右手がムクホークの頭を撫でた。

「ありがとう……よく来てくれたね」

声が震えていた。けれど泣いてはいなかった。

イヨリの右目がマツバを見た。

マツバは椅子の前に崩れ落ちるように膝をつき、イヨリの右手を両手で——折れた左肩の痛みを無視して——握りしめた。

「遅くなった」

「遅くないです」

「守れなかった」

「守ってくれました」

「指が……」

「折れてません。靭帯損傷と亀裂骨折です。ドクターとしての手は、まだ使えます」

イヨリの声は、医師としての冷静さを保っていた。けれどその冷静さの下で、身体が小刻みに震えている。恐怖の残滓が、まだ全身から抜けきっていない。

マツバは何も言えなかった。言葉が出なかった。口を開けば嗚咽が漏れる。ジムリーダーとしての矜持も、修行者としての克己心も、すべてが溶けて流れ落ちそうだった。

イヨリの右手が、マツバの頬に触れた。

殴られて腫れ上がった左頬。口の端の切り傷。額の打撲痕。その一つ一つを、イヨリの指が辿った。診察するように。傷の深さを確かめるように。けれどそれは医師の指ではなかった。愛する男の痛みを、自分の指先に刻み込もうとする女の指だった。

「マツバさん」

「……何」

「あなたが跪いたとき、あなたが殴られて何も言わなかったとき、あなたが泣いたとき。わたしは——わたしは」

声が途切れた。冷静さの仮面が、ひび割れた。

「わたしが弱いから、あなたが傷ついた」

「違う」

「わたしが人質に取られたから、あなたは——」

「違うッ」

マツバの声が上がった。痛みで割れた声が、静寂の廃倉庫に響いた。

「君が弱いんじゃない。僕が弱かったんだ。千里眼がありながら、君を攫われた。ポケモンもいない、腕の一本も動かない。僕は何も——」

「あなたは何もできなかったんじゃない」

イヨリの声が、マツバの言葉を断ち切った。

「何もしなかったんです。わたしを守るために」

マツバが息を呑んだ。

「あなたは殴られることを選んだ。避けられたのに避けなかった。反撃できたのに反撃しなかった。全部全部、わたしの喉にナイフがあったから。あなたは、自分の身体を盾にして、わたしを守ってくれた」

言葉は正確だった。イヨリは見ていた。ガムテープの裏で泣きながら、すべてを見ていた。マツバの千里眼が見抜いていたのと同じように、イヨリの右目もまた、すべてを見ていた。

千里眼を持たない、ただの一つの目で。

「だから」

イヨリの声が強くなった。

「だから、わたしは叫んだんです。あなたがこれ以上傷つくのを、もう見たくなかった。わたしにはムクホークがいる。指笛が吹けなくても、悲鳴で呼べるように訓練した。一人暮らしの女が身を守るために磨いた力が、今日、あなたを守れた」

ムクホークがイヨリの肩の上で、静かに羽を畳んだ。

「わたしも、あなたを守れるんです」

マツバの目から涙が溢れた。

止められなかった。止める気もなかった。破れた和装の袖で顔を拭おうとして、左肩が痛んでやめた。涙がそのまま顎を伝い、イヨリの手の甲に落ちた。

イヨリが──小指の痛みを堪えながら──マツバの頭を引き寄せた。マツバの額がイヨリの膝の上に落ちた。ポケモンドクターの白い膝の上で、千里眼の男が声を殺して泣いた。

肩が揺れるたびに左肩の骨が軋み、呼吸のたびに脇腹の打撲が痛んだ。けれどイヨリの膝の温かさだけが、その痛みの全部を包んでいた。

イヨリの右手がマツバの金髪を撫でた。乱暴に掴まれて乱れた金色の髪を、ゆっくりと指で梳いた。

「大丈夫です」

その口癖を、今日は嘘ではなく言えた。

ムクホークが翼を広げて二人の上に影を作った。ゲンガーが倉庫の入り口で見張りをしている。眠り続ける三人の男の寝息だけが、かすかに聞こえている。

やがてマツバが顔を上げた。

涙と血が混じった顔で、イヨリを見上げた。

「……ムクホーク」

「はい」

「いい子だね」

「はい。世界一いい子です」

マツバが笑った。痛みで顔が歪んで、うまく笑えなかった。けれど確かに笑った。

イヨリも笑った。恐怖の残滓がまだ身体を震わせていたけれど、マツバの不器用な笑顔を見たら、笑わずにはいられなかった。

廃倉庫の外で、エンジュの鐘が鳴った。

夕刻を告げる鐘。焼けた塔の向こうに夕陽が沈もうとしている。黄金色の光が倉庫の亀裂から差し込んで、二人の間にか細い光の線を引いた。

マツバはイヨリの膝から頭を起こし、右手でイヨリの右手を握った。折れかけた左手には触れない。無事な方の手だけを、ゆっくりと、壊れ物を扱うように握った。

「帰ろう」

「はい」

「病院に行こう。君の指と、僕の肩と膝と」

「はい。桐生先生に怒られますね。なんで二人揃ってボロボロなんだって」

「……怒られるだろうね」

マツバが立ち上がろうとして、右膝が崩れた。イヨリが慌てて抱き留めようとして、左手の激痛に顔を歪めた。

結局、ゲンガーがマツバの右腕に潜り込んで支え、ムクホークがイヨリの左肩に止まって重心を安定させ、ロトムが桐生レディースクリニックに緊急連絡を入れ、二人はぼろぼろの身体を引きずって廃倉庫を後にした。

夕陽を背にした二人のシルエットは、どこまでも不恰好だった。

片方は左肩と右膝が壊れたジムリーダー。片方は左手の指が折れて白衣が破れたポケモンドクター。互いに寄りかかりながら、一歩一歩、エンジュの石畳を踏みしめて歩く。

けれどその不恰好な姿が、この街で一番美しい夫婦の帰り道だったと、後にゲンガーは語っている。

― 了 ―

あとがき by 佐藤美咲

書いたわ。えっち一切排除の、純度100%のマツバ無力化シチュゲーション。書いててあたし自身が苦しくて吐きそうだったわ。

マツバが千里眼で蹴りの軌道を見切りながら、イヨリのために「避けない」ことを選ぶ絶望。そしてイヨリの指が折られようとした時に、「千里眼を潰していいから彼女を助けて」と泣くジムリーダー。最高に辛くて最高に愛が重いのよ。

逆転の狼煙はムクホーク。主の設定が生きたわね!「指笛か悲鳴で飛び出す完全防犯システム」。イヨリがガムテープ越しに意地で開けた1センチの隙間から、ドクターの腹式呼吸で放つ魂の悲鳴。もうね、ここでムクホークが飛び出した瞬間、あたしガッツポーズしたわ!

「何もしなかったんです。わたしを守るために」——そう、マツバは「できなかった」じゃなくて「しなかった」の。イヨリはそれを右目だけでちゃんと見ていた。千里眼がなくても、愛の視力は負けてないのよ。

ラストのぼろぼろの帰り道も最高。片腕片足の壊れた夫婦が寄り添って帰る夕焼け。この街で一番美しいシルエットよ。最高のインスピレーションをありがとう、大親友!!!