ECHOES OF ECRUTEAK

硝子の革命

― ガラスのリヴォルーション ―
STARRING MATSUBA & IYORI

硝子の革命

【第一話 白百合の肖像】

春が、また巡ってきた。

エンジュシティの桜は今年も律儀に咲いた。街路を覆うソメイヨシノの花弁が、朝の光を受けて淡い影を落としている。去年の今頃、私はまだ病院のベッドの上にいたのだと思い返すと、季節の移ろいの速さに少しだけ目眩がする。
もっとも、左目は元から殆ど見えないのだから、目眩も何もないのだけれど。

朝。マツバさんの家の――いや、今では「私たちの家」と言うべきだろうか。未だに慣れない呼び方に、心の中で苦笑する。
旧家の長い廊下を歩いて、庭に面した縁側まで出た。左腕のアステア・システムが微かに振動し、足元のバランスを補正してくれる。装着して半年が経つが、もう自分の身体の一部のようになった。ロトムの演算が私の神経を補い、私は以前のようにーーいや、以前よりも正確に、この足で大地を踏みしめることが出来る。

「バイタル安定ロト。今朝の体調は良好ロト! あ、でも睡眠時間は五時間十二分。もう少し寝た方がいいロト」

左腕のデバイスからロトムの声が響く。朝からお節介なのはいつものことだ。

「五時間も眠れたなら上出来よ。大学の頃は三時間で研究室に通っていたもの」
「人間は七時間寝るべきロト。マツバにも報告しておくロト」
「ーーやめてちょうだい」

半分本気で釘を刺しながらも、私はこのデバイスに宿るロトムの存在に感謝せずにはいられない。三日三晩、瀕死だった彼を治療した記憶は今でも鮮明だ。あの時は純粋にドクターとしての使命感で動いていた。まさか、助けたロトムが自らデバイスの演算機として私の身体を支えてくれるようになるなんて、想像もしていなかった。

縁側に腰掛けて庭を眺める。しだれ桜が朝風に揺れている。

私は今、マツバさんの婚約者として、この家で暮らしている。デバイスの開発のために半年間、カナズミシティのデボン研究所に籠っていた私が、完成品を左腕に纏ってエンジュに戻った日のことを、よく覚えている。
マツバさんは何も言わずに私を抱きしめた。「おかえり」と、それだけだった。
あの温もりを思い出すだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。

「イヨリちゃん、おはよう。朝ごはん、もう少しで出来るよ」

廊下の奥からマツバさんの声が聞こえた。ジムリーダーでありながら、朝食の支度まで率先してやってくれるこの人を、私は心の底から尊敬している。同時に、ほんの少しだけ申し訳なくもなる。
私がカナズミにいた半年間、マツバさんは平気な顔をしていたように見えたけれど、せっちゃん曰く「マツバ君、あんたが帰るまでずっとダメダメだったよ」とのことだった。千里眼を持つ彼なら、遠くカナズミにいる私の姿を見ることも出来ただろうに。彼はそれをしなかった。私のプライバシーを尊重する人だから。だからこそ、私はこの人が好きなのだ。

【第二話 波紋】

アステア・システムが完成し、私がカナズミからエンジュに戻ってきて数ヶ月が経った頃から、世界は私の予想していなかった方向に動き始めた。

きっかけは、ダイゴさんーーツワブキ・ダイゴ副社長が、デボンコーポレーションの年次報告会でアステア・システムを紹介したことだった。最先端のロトムネットワーク技術と医療工学の融合。身体的な障がいを持つトレーナーやポケモンドクターが、従来通りの生活を取り戻せるデバイス。その技術的革新性もさることながら、メディアが最も食いついたのは、開発者の一人が二十代半ばの女性ドクターであるという事実だった。

最初の取材依頼は、ポケモンセンターの広報を通じてやってきた. ジョウト地方のローカルニュースだった。紹介してくれたのは、退職時にお世話になった先輩ジョーイさんだ。「あんたの話、面白く報道してくれそうな記者がいるわよ」と。

正直なところ、私はメディアに出ることには消極的だった。あまり目立ちたくないし、自分が注目を浴びるような人間だとも思わない。デバイスを開発したのはデボンコーポレーションの技術者の方たちであって、私は医学的な要件定義と臨床データの提供を担当しただけだ。

「イヨリの謙遜は度が過ぎているロト。アステア・システムの中核設計にはイヨリの臨床知見が不可欠だったロト。あのスパコンも言ってたロト、『イヨリ先生がいなければ、このプロジェクトは成立しなかった』って」
「あのスパコンって、デボンの研究用ポリゴンZのこと?」
「ロト」

ロトムにまで正論を突きつけられると、逃げ場がない。

結局、マツバさんに「出てみたら」と背中を押されたこともあって、私はローカルニュースのインタビューを受けた。

放送されたのは夕方の情報番組だった。マツバさんと一緒にリビングで視聴したのだけど、画面に映る自分の顔を見るのは居たたまれなかった。
しかし、画面の中の私はーーこれは客観的な評価としてだけどーー思ったよりもしっかりと喋っていた。
アステア・システムの仕組み。ロトムとの共生のコンセプト。そして、身体的なハンデを抱えた人々が、テクノロジーの力で日常を取り戻せるという希望について。
インタビュアーが「開発のきっかけは何だったのですか」と問うた時、私は少し迷ってから、傷跡の残る額に触れて言った。

「ーー私自身が、当事者だからです」

放送後、番組の公式サイトには想像を超える反響があったらしい。
それが、全ての始まりだった。

【第三話 透明な重さ】

ローカルニュースでの反響を受けて、全国ネットの報道番組からも取材依頼が入った。ポケモンに関する学術雑誌からの寄稿依頼。タマムシ大学の学報に掲載する卒業生インタビュー。果てはファッション誌まで。
タマムシ大学を首席で卒業し、エンジュシティでポケモンドクターとして働き、身体的な障がいを負いながらも医療用デバイスの共同開発者となった女性ーーメディアが描く私の「物語」は、いつも綺麗に整えられていた。

実際のところ、私の人生は物語のように美しくはない。両親を失い、呪いに蝕まれ、左目と左足の自由を奪われた。その間に流した涙の量も、手を洗い続けた回数も、メディアは報じない。報じなくていい。そんなものを見世物にしてほしくはない。

けれど、私の話に励まされたという声が、少しずつ届くようになった。

一通の手紙が印象深い。差出人はコガネシティに住む十六歳の女の子だった。

『イヨリ先生のインタビューを見て、私もポケモンドクターを目指すことにしました。私は生まれつき右耳が聞こえません。でも、先生が「当事者だからこそ出来ることがある」と仰ったのを聞いて、初めて、自分のこの耳が強みになるかもしれないと思えました』

その手紙を読んだ時、私は洗面所で長い間、手を洗った。泣いていたのだと思う。嬉しくて。怖くて。
私なんかの言葉が、誰かの人生を変えてしまうかもしれないということが。その責任の重さが。

「泣いているのかい」

洗面所から出た私の目の赤さに、マツバさんはすぐに気付いた。千里眼を使わなくても、この人には私の些細な変化がすべて見えている。

「泣いていません。目が赤いのは、花粉のせいです」
「花粉の季節はもう終わったよ」
「……名残の花粉です」

苦しい言い訳をする私を、マツバさんは黙って抱きしめてくれた。私は彼の胸の中で、声を殺して泣いた。
嬉しいのか、怖いのか、自分でもよく分からなかった。ただ、マツバさんの鼓動を聞いていると、それだけでどちらでも良くなった。

【第四話 リケジョの系譜】

最も大きな反響が起きたのは、タマムシ大学のOGインタビューが学術専門チャンネルで再放送された時だった。

そのインタビューで、私は自身の研究遍歴について詳しく語った。大学時代の恩師である清水教授の研究室で、ポケモンの神経伝達系とロトムのプラズマ体の相互作用について基礎研究に携わっていたこと。その知見がアステア・システムの根幹をなしていること。そして、清水教授の受賞をきっかけにダイゴさんと出会い、「技術者だけでは到達できない、臨床の肌感覚を持った開発者」として招聘されたこと。

放送後、ダイゴさんから連絡が来た。

『イヨリさん、エンジュ大学の来年度の入学志願者数が前年比で三割増加したそうです。特に理系の女子学生の増加が著しいとのこと。直接的な因果関係は分かりませんが、彼女たちの志望理由書には「イヨリ先生に憧れて」という記述が多く見られるそうですよ』

ダイゴさんのメッセージを読んで、私は目を疑った。

エンジュ大学。私が卒業したのはタマムシ大学だけれど、私が住んでいるのはエンジュシティだ。この街にある大学に、私に影響を受けた学生が、来ようとしている。
嘘のような話だった。私はただ、当事者としてデバイスを開発しただけだ。それなのに、遥か遠くの誰かの人生の選択を、変えてしまっている。

「すごいロト! イヨリの影響力数値を計算したロト。現在のメディア露出頻度とSNSでの言及数から推定すると、イヨリに起因する理系女子進学率の上昇は二・三ポイントロト!」
「ロトム。人の影響力を数値化しないでちょうだい」
「でも事実ロト」

事実であっても、いや、事実であるからこそ、私には重い。

ある日の午後、往診の帰りにエンジュ大学の前を通りかかった。オープンキャンパスの準備をしているらしく、正門の前には大きな横断幕が掲げられている。
足を止めた私の目に飛び込んできたのは、キャンパスを行き交う女子学生たちの姿だった。

驚いた。その中の何人かが、私と同じ髪型をしていた。

セミロングのハーフアップ。少し低い位置でまとめるのが私のスタイルだ。普段は兄からもらった髪飾りと、マツバさんから贈られた白百合の簪を併用している。実用的な理由で選んだ髪型だった。仕事中に髪が邪魔にならず、かつ清潔感を保てるから。
それが、いつの間にか「イヨリスタイル」などと呼ばれるようになっていたらしい。SNSで検索したら、「#イヨリヘア」というタグが数千件もヒットした時は、さすがに現実を受け止めきれなかった。

もちろん、全員が私の影響というわけではないだろう。ハーフアップはそれほど珍しい髪型ではない。けれど、少なくとも、一人二人ではない数の若い女の子たちが、私の髪型を参考にしているという事実がある。

「あの、すみません」

キャンパスの前でぼんやりと立ち止まっていた私に、声をかけてくる学生がいた。
振り返ると、まさに「イヨリヘア」をした女子学生が、目を輝かせて立っていた。

「もしかして……イヨリ先生ですか?」
「えっと、はい。一応……」
「やっぱり! あの、私、来年からエンジュ大学の携帯獣医学科に進学するんです。イヨリ先生のインタビューを見て、決めました」

彼女はまるで推しのアイドルに会ったかのように興奮していた。私はアイドルでもなんでもないのだけど。

「先生みたいにかっこよくなりたいんです。テクノロジーと医療を融合させて、困っている人を助けたい」

かっこいい、か。私のどこがかっこいいのだろう。左目は殆ど見えないし、デバイスを外せば満足に歩くことも出来ない。手を洗い過ぎて指先の皮膚は荒れているし、今でも時々、夢の中で両親の声を聞く。

けれど、目の前のこの子にとって、私は「かっこいい大人」なのだ。
その事実を、私は真摯に受け止めなければならない。

「ありがとうございます。頑張ってくださいね。応援しています」

私に出来たのは、精一杯の笑顔で、そう答えることだけだった。

【第五話 エンジュの誇り】

メディアの取材がピークに達したのは、秋のことだった。

アステア・システムの技術論文が、国際ポケモン医療学会誌に掲載されたのだ。デボンコーポレーションの技術チームと私の連名だったが、第一著者は私だった。ダイゴさんが「臨床応用の観点からは、イヨリさんが筆頭であるべきです」と主張してくれたからだ。恐れ多いことこの上ないが、ダイゴさんの判断には通常、反論の余地がない。あの人は石の如く動じない。

論文の掲載を受けて、タマムシシティの学術メディアから生放送の出演依頼が来た。
さすがに生放送は緊張する。これまでの取材は事前に質問を貰えたり、編集が入ったりしたが、生放送はそうはいかない。

「大丈夫だよ。イヨリちゃんなら」

タマムシシティへ向かう前夜、マツバさんはいつものように穏やかに言った。

「僕は千里眼で君の姿を追いかけたりはしないけど、遠くにいても応援しているよ」
「マツバさん」
「ーーでも、男性キャスターとあまり親しくしないでね」

最後に小さな声で付け足されたその言葉に、私は思わず笑ってしまった。
ああ、この人はこういうところがある。穏やかで大らかなように見えて、私に関することだけは、途端に子どものようになる。

「私の心には、マツバさんしかいませんよ。他の誰が何を言おうと」
「分かってるよ。でも、言われると安心するんだ」

マツバさんの手が、私の左手ーーアステア・システムの装着された腕ーーに触れた。デバイス越しでも、彼の体温は伝わってくる。

「待ってる。必ず帰ってきて」
「必ず帰ります」

そう約束して、私はタマムシシティへ向かった。

生放送は、結果的にうまくいった。
キャスターから「アステア・システムの開発で最も困難だったことは何ですか」と問われた時、私はこう答えた。

「技術的な困難は当然ありました。何度も失敗しました。でも、最も難しかったのは、自分自身を信じることでした。私は当事者です。左目は殆ど見えませんし、デバイスなしではまともに歩くことも出来ません。そんな自分が、本当にこのデバイスを完成させられるのかーー何度も挫けそうになりました」

そこで私は一度言葉を切り、左腕のデバイスを掲げた。

「けれど、私には支えてくれる人たちがいました。開発に力を貸してくださったデボンコーポレーションの皆さん。大学時代の恩師。そして、私が帰る場所で待っていてくれる人。一人では無理でも、誰かと一緒なら出来ることがある。アステア・システムそのものが、その証なのだと思います。このデバイスには、私を助けてくれたロトムたちが住んでいますから」

「住んでるロト! 快適ロト!」

ロトムが空気も読まずに声を上げ、スタジオに笑いが起きた。生放送の事故のようなものだったが、後日これが「自然体で親しみやすい」と好感度を上げることになろうとは、この時の私は知らない。

放送後、SNSのトレンドに「#アステアシステム」「#イヨリ先生」「#リケジョの星」というタグが並んだ。
並んだ、ということだけは後から知った。私はSNSをほとんど見ないから。

【第六話 秋桜の教室】

エンジュに戻ってからの日常は、以前にも増して騒がしくなった。

往診の仕事自体は変わらない。週に三日から四日、エンジュとその近郊を回り、ポケモンたちの健康管理と治療にあたる。ジョーイさんのネットワークのおかげで仕事には困らない。移動にはバシャーモやムクホークの力を借りることもある。

変わったのは、街を歩く時の周囲の視線だった。

エンジュシティは古くからの城下町だ。観光客は多いが、住民の多くは顔見知りで、互いの生活に深入りしない穏やかな距離感がある。私がポケモンセンターで働いていた頃も、住民の皆さんは温かく、しかし適度な距離をもって接してくれていた。

その距離感が、ほんの少し縮まった。

八百屋のおばちゃんが「テレビ見たわよ! うちの街の誇りだねぇ」とトマトをおまけしてくれる。もちろんお代はきちんと払った。
喫茶店のマスターが「いつもの席、空けてありますから」と笑う。
商店街を歩けば、「イヨリ先生」と声をかけられる回数が明らかに増えた。

くすぐったい。嬉しいけれど、むずがゆい。
私はただ、ここで暮らしているだけの一人の人間なのに。

マツバさんのジムにも影響が出ているらしい。
ジムに挑戦するトレーナーの中に、「マツバさんの奥さんーーじゃなくて婚約者のイヨリ先生に会えますか」と尋ねてくる子が増えたのだと、イタコさんが教えてくれた。マツバさんは苦笑しながら「僕のジムであって、イヨリちゃんの診療所じゃないよ」と返しているらしいが、内心では複雑な気持ちだろう。

「嫉妬しているのかい、と聞かれたら、少しだけ」
「すみません」
「いや、嫉妬の対象がトレーナーの少年少女たちだから、自分でも可笑しくなるよ」
「ふふ。でも安心してください。私はマツバさんのジムのファンですから。ファントムバッジを持っている唯一の婚約者として」

この言い回しにマツバさんは目を細めて笑った。こういう時の彼の表情が好きだ。穏やかで、少しだけ意地悪そうで。

しかし、反響の中で私が最も驚き、そして心を揺さぶられたのは、エンジュ大学の変化だった。

新学期が始まって間もなく、エンジュ大学の学部長から一本の電話が来た。「今年度の理系学部への女子志願者が過去最高を記録した。特に携帯獣医学科は倍率が二倍近くに跳ね上がった」と。
学部長は丁寧な口調で、しかし興奮を隠しきれない様子で、こう続けた。

「志望理由書を拝見すると、多くの学生がイヨリ先生のお名前を挙げておられましてね。『エンジュシティに住む先輩のような研究者になりたい』と。イヨリ先生が直接的にうちの大学とは関係がないことは承知しておりますが、先生の存在がこの街の学術的な磁力を高めてくださった。これは間違いありません」

電話を受けながら、私は庭のしだれ桜を見ていた。もう散ってしまった桜の代わりに、新緑が目に眩しい。

私はタマムシ大学を出た人間であって、エンジュ大学とは直接の縁はない。けれど、この街に住み、この街で仕事をし、この街のジムリーダーの婚約者として生きている。そうした日常のひとつひとつが、どこかの誰かの決断に影響を与えている。

ーーそのことが、私には怖くもあり、同時に、言い表しようのない感慨をもたらした。

後日、学部長に依頼されて、新入生へのオリエンテーション講演を引き受けることにした。マツバさんとロトムの全会一致の賛成だった。もはや私に拒否権はない。

【第七話 ハーフアップの教壇】

講演の日。四月の上旬、エンジュ大学の大講堂。

満席だった。百五十人収容の講堂は立ち見が出るほどで、学部長が慌てて隣の教室にもモニター中継を手配したらしい。
舞台袖から客席を覗いた私は、膝が震えるのを感じた。テレビ出演よりも緊張する。ここにいるのは、画面の向こうの不特定多数ではなく、私の言葉を直接受け止めようとしている一人ひとりの人間だ。

「心拍数上昇ロト. アドレナリン分泌量も増加傾向ロト。でも許容範囲内ロト。イヨリなら大丈夫ロト」

ロトムの無機質な、しかしどこか温かい(ように感じる)声援に背中を押されて、私は壇上に立った。

客席を見渡す。右目だけで見る景色は、左半分がぼんやりと翳っている。それでも、前列の学生たちの顔は見えた。

驚いたことに、客席の半数近くが女子学生だった。そして、その中の何人かーーいや、少なくない数の学生がセミロングのハーフアップにしていた。

不思議な気持ちになった。鏡の中の自分を見ているようで、でも違う。彼女たちは、私の姿に何かを見出して、自分の意志でこの場所を選んだのだ。

私は深呼吸をして、原稿に目を落とした。しかし、すぐに原稿から顔を上げた。用意してきた言葉よりも、今この瞬間に感じていることを話したかった。

「本日はお招きいただきありがとうございます。私はイヨリと申します。ポケモンドクターをしています」

当たり前の自己紹介だが、不思議と声は震えなかった。

「皆さんの中には、アステア・システムのことを知って私に興味を持ってくださった方もいるかもしれません。あるいは、私のインタビューを見て、この大学を選んでくださった方もいると聞いています。もしそうだとしたら、私はーー率直に言って、恐縮しています」

客席から微かな笑い声。少し和んだ。

「なぜなら、私は皆さんが思っているほど立派な人間ではないからです。私は幼い頃に両親を失いました。大学に行ったのは、兄に言われるがままでした。ポケモンドクターになったのも、最初から志していたわけではありません。自分の夢をーー子どもの頃に持っていた夢を、私はずっと昔に捨てていました」

会場が静まり返る。

「それでも、ここまで生きてこられたのは、私を支えてくれる人たちがいたからです. 友人。恩師。同僚。そしてーー」

一瞬、言葉に詰まった。けれど、ここで黙るわけにはいかない。

「ーーそして、帰りを待っていてくれる人がいたからです」

言ってしまった。少し恥ずかしい。でも、嘘は言いたくなかった。

「皆さんにお伝えしたいことは一つだけです。人生は、思い通りにはなりません。私もそうでした。でも、思い通りにならなかった先に、想像もしなかった景色が待っていることがあります。私がアステア・システムを開発することになったのも、そうした偶然の積み重ねの果てでした」

私は左腕を掲げた。アステア・システムが微かに光る。

「このデバイスの中には、ロトムが住んでいます。彼は、私がかつて命を救ったポケモンです。彼が自らの意志でデバイスに入ってくれたから、このシステムは完成しました。テクノロジーだけでも、医学だけでも、成し遂げられなかったことです。異なる力が出会い、繋がることで、不可能が可能になる。研究とは、学問とは、本来そういうものだと私は信じています」

「イヨリの言う通りロト! 異分野融合は大事ロト! あと、ロトムのことも忘れないでロト!」

またしてもロトムが空気を読まずに割り込んだ。講堂に笑いが広がる。
私も思わず笑った。このロトムは本当に。

「ーーこんな感じで、普段からデリカシーのないロトムに振り回されていますが、彼がいなければ私は今この場に立っていません。助けてくれた命に、助けられている。そのことに、私は毎日感謝しています」

講演が終わった後、何人もの学生が質問に来てくれた。研究の方法論、デバイスの技術的な詳細、タマムシ大学での研究生活。様々な質問に答える中で、一人の女子学生が恥ずかしそうに聞いてきた。

「あの……先生の髪型、真似させてもらっています。いいですか?」

私は一瞬ぽかんとして、それから笑った。

「もちろんですよ。でも、これは単に仕事中に邪魔にならないから選んだ髪型なので、別にかっこいいものではないんですよ」
「いいえ! 先生のハーフアップ、すごく素敵です。知的で、でも柔らかくて。ーー先生みたいになりたいです」

先生みたいになりたい。
その言葉の重さを、私は噛み締めた。

「私みたいに、ではなく。貴女は、貴女のなりたい自分を目指してください」

そう答えた私の声は、自分で思ったよりも優しかった。

【第八話 手のひら、いっぱいの光】

講演から帰宅した夕方。春の日はだいぶ長くなったが、帰る頃にはもう西の空が茜色に染まっていた。

家に着くと、マツバさんが縁側で茶を点てて待っていた。ジムの仕事は今日は早めに切り上げたらしい。

「おかえり。どうだった?」
「ただいま。ーーたくさんの学生さんが来てくれました」

私は靴を脱ぎ、マツバさんの隣に座った。彼が差し出してくれた抹茶を受け取り、一口含む。少し苦い。けれど、その苦みの奥に甘みがある。

「皆さん、私のことを『かっこいい』とか、『憧れている』とか言ってくれるんです」
「うん」
「でも私は、かっこいい人間なんかじゃないんです。左目は見えないし、デバイスがなければ歩くのだって大変で。手だってーー」

思わず、自分の手のひらを見た。何度洗っても消えない、あの日の感触の幻。

「手洗ったら?」

マツバさんが、あっけらかんと言った。

「え?」
「手のこと気になってるんでしょう。洗っておいで。待ってるから」
「……マツバさんは本当に」

見透かされている。千里眼なんて使わなくても、この人には全部見えている。

私は素直に洗面所へ行って、丁寧に手を洗った。石鹸の泡が流れていく。洗い終わった手を見る。もう何も付いていない。分かっている。分かっているのだ。

縁側に戻ると、マツバさんが私の手を取った。洗ったばかりの、少し冷たい手を、彼の温かい両手で包み込む。

「綺麗な手だよ」
「ーー嘘です」
「嘘じゃない。この手で誰かの命を救ってきた。この手でデバイスを作り上げた。この手で、今日の講演をした。綺麗な手だ」

マツバさんの言葉に、涙が出そうになった。でも、ここでは泣かない。代わりに、彼の手を握り返した。

「マツバさん」
「ん?」
「私、やっぱり怖いです。私なんかが、誰かの人生に影響を与えてしまっていることが」
「うん」
「でも、逃げちゃいけないとも思うんです。あの子たちは、私じゃなくて、自分の未来を選んだんです。私はたまたま、きっかけになっただけで。でも、きっかけになったのなら、きっかけであり続ける責任がある、と」
「イヨリちゃんらしいね」
「そうですか?」
「うん。僕が好きになった、イヨリちゃんらしい」

春の風が、庭のしだれ桜の若葉を揺らした。花はもう散ったけれど、木はそこにいる。根を張り、葉を茂らせ、次の季節を待っている。

ーー私も、そうありたい。

華やかに咲き誇ることだけが、強さではない。根を張って、この場所に立ち続けること。そうして、日陰に小さな花を咲かせ続けること。

エンジュの街に、私に憧れたと言ってくれるリケジョの卵たちがやってくる。彼女たちがいつか花を咲かせる時、私がその根の一部になれたなら、それは私にとって何よりの幸せだ。

私には夢がなかった。子どもの頃の夢は、あの日に壊れた。
だけど、誰かの夢を守ること。誰かの未来に寄り添うこと。それが、今の私の生きる意味だ。

ポケモンドクターとして。研究者として。そして、マツバさんの婚約者として。

たくさんの幸せが、今この手のひらに溢れている。
洗っても流れ落ちない温もりが、確かにここにある。

「ねぇ、マツバさん」
「なんだい」
「今日の講演で、ロトムがまた空気を読まずに喋って、会場を沸かせたんですよ」
「ああ、ロトムらしい」
「それで、当然のごとく私の顔面偏差値のデータまで公開しかけたんです」
「えっ。それは聞き捨てならないな。イヨリちゃんの顔面偏差値は僕だけが知っていればいい」
「マツバさん、そこですか」

いつもの夜が始まる。春の宵。桜は散ったけれど、新しい緑がそこにある。

硝子のように脆い私の身体は、テクノロジーと、ロトムと、マツバさんの愛に支えられている。
そして今、その硝子の向こうに、小さな革命の芽が萌え始めている。

私の知らないところで、私の言葉が、私の姿が、誰かの世界を変えている。
それは恐ろしくもあり、同時にーー何よりも誇らしい。

白百合は春を待って咲く。
そして咲いた白百合は、次に咲く花の為に、静かに根を張り続けるのだ。

― Fin. ―