ECHOES OF ECRUTEAK

星と花の小夜曲

― マツバ × イヨリ ―
STARRING MATSUBA & IYORI

毒蛾の誘惑、百合だけを灼く

その日のエンジュジムは、いつもと少しだけ空気が違った。

午後の挑戦者の対応を終えたマツバが執務室に戻ると、机の上に見慣れない湯飲みが置かれていた。薄い紫色の液体が、湯気を立てている。傍には、走り書きの付箋。

『ジムリーダー様へ。日頃の感謝を込めて、特別なハーブティーをお淹れしました。マキナ』

マキナ。今日、ジムバッジを求めてやってきた、二十歳前後の若い女性トレーナーだ。明るい茶髪をポニーテールにまとめた快活な容姿で、バトルが終わった後も、マツバの立ち振る舞いや言葉に熱っぽい視線を向けていた。——少し、熱心すぎるほどに。

マツバは付箋を見て微かに眉を寄せた。挑戦者からの差し入れ自体は珍しくない。エンジュジムの主である彼を慕う者は多く、こうした心遣いを受けることはままある。だが、バトル中の彼女の視線が、どこか湿度を帯びていたことを、マツバの千里眼は見逃してはいなかった。

嫌な予感がした。しかし、それを挑戦者への不信として言語化することを、マツバの礼節は許さなかった。

一口、啜った。

ラベンダーに似た香り。だが、その奥に微かに混じる、甘すぎる残り香。マツバの喉を通過した液体は、胃に落ちた途端、不自然な熱を生んだ。

「……っ」

湯飲みを置いた手が、震えた。

全身を、ぞわりと這い上がるような熱。それは風邪の発熱とも、疲労の火照りとも明らかに質が異なっていた。皮膚の下を、無数の小さな虫が這うような。あるいは、血管の中を熱い砂糖水が流れるような。意識は明晰なのに、身体だけが勝手に「欲しがる」という、気味の悪い乖離感。

媚薬だ。

マツバは即座に理解した。歯を食いしばる。椅子の肘掛けを握りしめた指が白く変色するほど、力を込めた。

ジムの奥から、衣擦れの音がした。

「ジムリーダー……飲んでくださったんですね」

障子の隙間から、マキナが姿を現した。先ほどまで着ていたトレーニングウェアではない。大きく胸元の開いたワンピースに着替え、薄化粧を施したその姿は、単なるバトルの相手のそれではなかった。捕食者の目をしていた。

「マキナ。……君は、何をした」

マツバの声は低く、しかし動揺を微塵も見せなかった。座ったまま、真っ直ぐにマキナを見据える。

「ずっと、お慕いしていました。ジムリーダーのお傍に、私を置いてください」

マキナは頬を染め、マツバの前に跪いた。白い手が、マツバの膝に触れる。

——何も、感じなかった。

媚薬は確かに効いている。身体は燃えている。下腹部に溜まった熱は、鋼鉄の鎖で押さえつけてもなお暴れ狂うほどのものだった。だが、その熱が求めるのは、この女の肉体ではなかった。

マキナの指が膝を撫で上げる。何も感じない。マキナの唇が近づく。何も感じない。彼女の香水が鼻をくすぐる。反吐が出そうになった。

マツバの脳裏に浮かんだのは、カモミールの香りだった。

黒髪を一つに結んだ、華奢な女性。白衣の下の、小さな肩。額の傷跡。左目の白濁。左足の、あの愛おしいぎこちなさ。寝起きに「おはようございます、マツバさん」と、少しかすれた声で微笑む顔。夜、僕の腕の中で「幸せです」と呟いて、安心したように瞼を閉じる横顔。

イヨリ。

その名前を頭の中で唱えた瞬間、下腹部の熱が暴風のように膨張した。媚薬で煽られた欲望は、一点にだけ集束している。マツバの身体は、マツバの魂は、イヨリ以外の女を「メス」として認識することを拒絶していた。

「やめなさい、マキナ」

マツバはマキナの手を掴み、静かに、しかし鋼のような力で膝から引き剥がした。

「僕には妻がいる。それは君も知っているはずだ」

「……でも、媚薬は効いているはずです。身体は正直でしょう? 私なら、ジムリーダーの全てを受け止められます」

マキナの声が震えている。計画通りにいかない焦りが、その瞳に滲んでいた。

マツバは、笑った。

穏やかで、しかし底冷えのする微笑み。千里眼の瞳が、暗い紫色を帯びて光る。

「確かに効いているよ。身体は燃えている。でもね、マキナ。この熱が求めているのは、一人だけだ」

その時だった。

ジムの正面玄関から、コツ、コツ、と軽い足音が聞こえてきた。アステア・システムの駆動音を微かに伴った、マツバが世界で一番愛しているリズム。

「マツバさん、いらっしゃいますか? お薬を届けに来ました」

イヨリの声だった。

先日、マツバが軽い咳をしていたのを気にかけた彼女が、わざわざ往診の帰りに漢方を調合して持ってきたのだろう。白衣のまま、薬包紙を手に、古い木造の廊下を歩いてくる。その足音が近づくにつれて、マツバの全身を蝕む熱はもはや制御不能の臨界に達していた。

媚薬の効果が、イヨリの存在によって触媒され、核爆発を起こしている。

イヨリが執務室の前まで来た時、開け放たれた襖の向こうの光景を見て足を止めた。

見知らぬ若い女性が、夫の足元に跪いている。

イヨリの表情が、一瞬で凍った。薬包紙を持つ指が、微かに震える。

「マツバ、さん……?」

「イヨリちゃん。聞いてくれ、これは」

弁明しようとした唇が、途中で止まった。

無理だ。

理性の堤防が、イヨリの姿を視認した瞬間、音を立てて崩壊した。媚薬で膨れ上がった欲望が、本来の「標的」を捉えて暴走を始めた。目の前にイヨリがいる。彼女の匂い、彼女の声、彼女の体温が感じられる距離に。それだけで、マツバの身体は一秒たりとも待てなくなった。

マツバは椅子から立ち上がった。一歩で、マキナを飛び越え、二歩目でイヨリの前に立った。

三歩目で、彼女を抱きしめた。

「マ、マツバさんっ!? あの、人が」

「イヨリ」

いつもの「イヨリちゃん」ではなかった。

甘さを剥ぎ取った、剥き出しの声。低く擦れた、獣の呼吸のような呼び方。イヨリは驚きに目を見開いた。結婚してからずっと「イヨリちゃん」と呼んでくれていた夫が、こんな声で自分の名前を呼ぶのを聞いたのは、初めてだった。

「僕は今、薬を盛られている。身体が、どうにかなりそうだ。でも」

マツバはイヨリの顔を両手で挟み、額を合わせた。その掌は灼けるように熱く、瞳孔は開ききり、息は荒い。明らかに、尋常ではない状態だ。

「君以外では、一ミリも反応しなかった」

その言葉を聞いた瞬間、イヨリの瞳に涙が浮かんだ。恐怖でも悲しみでもない。夫の異常な状態への心配と、それでも自分だけを求めてくれることへの、圧倒的な愛しさ。

イヨリは、震える手でマツバの頬に触れた。

「……分かりました。私が、受け止めます」

マツバの目の色が変わった。

火薬庫に火を投げ込まれた男の目だった。

マツバの手がイヨリの腰を掴み、白衣ごと彼女を持ち上げた。まだ執務室の床に座り込んだまま、事態を理解できずに固まっているマキナの目の前で。

「見ていろ」

マツバは振り返らずに、冷たく言い放った。

「これが、僕の全てだ」

イヨリを執務机の上に座らせた。薬包紙が畳に散らばる。白衣のボタンに指をかけ、一つ、また一つと外していく。その指は震えていたが、乱暴ではなかった。どれほど狂っていても、イヨリに対して「壊す」という選択肢は、マツバの中に存在しなかった。

白衣の下から現れた、薄いブラウスの胸元。鎖骨。細い首筋。マツバはその首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。カモミールと、冬の朝の空気を混ぜたような、イヨリだけの匂い。それが肺に入った瞬間、マツバの全身が電撃のように痙攣した。

「っ、あ……マツバ、さ」

「イヨリ。イヨリ、イヨリ……」

彼女の名前を呼ぶだけで、声が震える。媚薬に焼かれた喉が、唯一冷える瞬間がこの名前を唇に乗せた時だった。それなのに、その名前を発するたびに欲望はさらに深くなり、もっと近くに、もっと奥に、もっと全部を寄越せと、理性の残骸が叫んでいた。

マツバの唇がイヨリの耳朶を食み、首筋を舐め上げ、鎖骨に歯を立てた。イヨリが「ひゃっ」と甲高い声を上げて身を捩ると、その振動が直接マツバの唇から脊髄へと伝わり、下腹部の熱が一段階、灼熱から白熱へと跳ね上がった。

ブラウスを脱がせる。スカートのジッパーに手をかける。普段のマツバなら、こんな場所で妻を裸にすることなど決してしない。だが、今のマツバには「場所」という概念が消失していた。世界にはイヨリしか存在せず、イヨリの肌以外の全ては灰色のノイズだった。

イヨリの細い身体がブラウスの下から露わになる。白い肌。小さな乳房。肋骨が透けるほど華奢な胴体。彼女は恥ずかしそうに腕で胸を隠そうとしたが、マツバはその両手を捕まえ、自分の手と絡ませた。

恋人繋ぎ。

右手と右手。左手と左手。十本の指が深く組み合わされ、もう離せないように、離さないように、マツバはイヨリの手を机に押し付けた。

「手、離さないで、イヨリ」

「……はい」

イヨリの声も、もう震えていた。夫の異常な熱が、手のひらを通じて自分の中にも流れ込んでくる。怖い。でも、それ以上に愛しい。こんなに壊れそうなのに、それでも自分の手を握って、自分の名前だけを呼んでくれるこの人が。

マツバはイヨリのスカートを下ろし、下着に指をかけた。そっと、しかし迷いなく剥ぎ取る。イヨリが羞恥に顔を真っ赤にして目を閉じた。閉じた瞼から、一筋の涙がこぼれる。

「イヨリ。目を開けて」

「……恥ずかしい、です」

「僕を見て。僕だけを見ていて」

イヨリが、おずおずと瞼を持ち上げた。至近距離に、紫水晶のようなマツバの瞳がある。その瞳は熱に灼かれて潤んでいるのに、イヨリを映す光だけは恐ろしいほど澄んでいた。

マツバは自分の帯を解き、袴を落とした。彼の身体もまた、媚薬の影響で限界を超えていた。普段の穏やかなマツバでは考えられないほど猛り立った欲望の形が、イヨリの視界に入る。彼女は思わず息を呑んだ。

「……怖くないかい」

「怖く、ないです。……マツバさんが、必要としてくれるなら」

イヨリは握られた手に力を込めた。大丈夫、と伝えるように。

マツバはイヨリの太腿を開き、ゆっくりと先端を押し当てた。いつもなら十分に前戯を重ねてからでないと挿入しないマツバだが、驚くべきことに、イヨリの秘所はすでに潤んでいた。夫の異常な熱、獣のような眼差し、そして自分だけを求めるという狂おしい愛情——その全てが、イヨリの身体を準備させていたのだ。

繋がった。

「あぁっ……!」

イヨリの声が、ジムの天井に反響した。一息で最奥まで貫かれた衝撃に、彼女の華奢な身体が弓なりに反る。組まれた指がぎゅっと握り合い、爪が互いの手の甲に食い込んだ。

マツバの呼吸が止まった。

イヨリの中は、いつものように灼けるように熱く、蜜のように絡みつき、彼を一ミリも逃がすまいと締め付けてくる。媚薬で過敏になった全感覚が、その柔らかい膣壁の一つ一つの襞を克明に感じ取り、マツバの脳を純白の快楽で焼き尽くした。

「っ、イヨリ……イヨリ……ッ!」

呼び捨てのまま、マツバはイヨリの唇を塞いだ。

深い、深い口づけ。舌を絡ませ、呼吸を共有し、互いの存在を確認するかのように、貪欲に吸い合った。唇が離れる瞬間、銀の糸が二人の間に架かり、それが途切れる前に再び唇を重ねる。

腰を動かし始めた。

ゆっくりと引き、一気に奥まで押し込む。その度にイヨリの喉から甘い悲鳴が漏れ、マツバの口の中に吸い込まれていく。口づけを途切れさせないまま、マツバは正確に、執拗に、イヨリの最も深い場所を突き上げた。

「んんっ……ふぁ……っ、マツバ、さ……んっ♡」

繋がれた手が震える。十本の指は一瞬たりとも離れない。マツバの大きな手がイヨリの小さな手を包み込み、まるで溺れる者が命綱を掴むように握りしめている。

マキナは、見ていた。

床に座り込んだまま、凍りついたように動けなかった。彼女の計画では、媚薬に理性を奪われたマツバが、手近な自分に手を伸ばすはずだった。そう書いてあった。あの闇市で手に入れた薬の説明書には、「対象の異性への渇望を百倍に増幅する」と。

百倍に、増幅された。

ただし、その全てが一人の女に向かって。

マツバの背中は、汗で光っていた。鍛え上げられた筋肉が一突きごとに波打ち、その下で骨が軋むほどの力がイヨリの華奢な身体を貫いている。なのに、繋がれた手だけは恐ろしいほど優しく、震えながらも決して力任せに握りつぶすことをしない。腰は獣。手は恋人。その矛盾こそが、マツバという男の愛の形そのものだった。

「イヨリ……好きだ……死ぬほど、好きだ……っ」

口づけの合間から漏れる告白は、もはや祈りに近かった。媚薬の熱に灼かれながら、マツバの魂だけは正気を保っている。いや、正気だからこそ狂っているのだ。イヨリが好きだということだけが、灼熱の中で唯一溶けない鋼の真実となって、マツバの芯を貫いている。

「私も……っ、私も、マツバさんが……好き、です……ぁっ♡」

イヨリが泣きながら答えた。組まれた指が、ぎゅっと握り返される。細い足がマツバの腰に回り、自分から深く引き寄せた。アステア・システムが微かに駆動音を上げるが、今の彼女にそれを気にする余裕はなかった。

ピストンが加速する。机が軋み、薬包紙が風に舞い、畳の上に白い紙吹雪のように散った。マツバはイヨリの唇を離さない。離したくないのだ。唇を離した瞬間、彼女がどこかへ消えてしまいそうで。この手を放した瞬間、あの薬の毒が彼女以外の誰かに向かってしまいそうで。だから握りしめる。だから口づける。全ての接点で「僕は君だけのものだ」と証明し続ける。

「んぁぁぁっ♡♡ マツバさ……っ、奥、当たって……!」

イヨリの身体が激しく痙攣した。子宮口が下りてきて、マツバの先端と密着する。ポルチオへの直接的な刺激に、イヨリの全身が電流を流されたように跳ね上がり、組まれた指が軋むほど強く握り合わされた。

「ここか……ここが、いいのか、イヨリ」

マツバが低い声で囁く。いつもの敬語混じりの柔らかな口調ではない。剥き出しの、雄の声。イヨリの名前を呼び捨てにするたびに、彼女の膣がきゅうっと締まり、マツバの理性の残り火を次々と消していく。

「い……っ、いい、です……っ♡ もっと、もっと……っ♡♡」

「全部、出す。全部……イヨリの中に……っ!」

最後の一突きが、二人の芯を同時に貫いた。

マツバの身体がイヨリの上で大きく震え、灼熱の精が彼女の最深部に注ぎ込まれた。イヨリは声なき悲鳴を上げ、全身を硬直させたまま、夫の放つ熱を子宮で受け止めた。媚薬で増幅された射精は長く、深く、まるで魂ごと注ぎ込むかのように脈動し続けた。

その間も、二人の手は組まれたまま。唇も、重なったまま。

呼吸さえ共有しながら、二人は世界の果てから戻ってきた。

「……はぁ……っ、はぁ……」

マツバの額から滴る汗が、イヨリの頬を伝い落ちる。ようやく唇が離れ、二人の間に、甘い吐息だけが漂った。

マツバは、震えるイヨリの額にそっと唇を落とした。傷跡の上に。いつもそうするように。彼女の全てを、傷ごと愛する証として。

「……ごめん。乱暴だった?」

声が、いつもの「イヨリちゃん」を呼ぶ柔らかさに戻りかけている。しかし、まだ完全には戻りきれない。身体の芯でくすぶる残り火が、もう一度彼女を求めようとしている。

イヨリは涙に濡れた目で微笑んだ。組まれた手を、自分から握りしめ返す。

「いいえ。……嬉しかったです」

「嬉しい……?」

「だって、マツバさん。あの方には、何も感じなかったんでしょう?」

イヨリの声は、穏やかだった。嫉妬の色はない。ただ純粋に、夫の身体と魂が自分だけに向けられているという事実を、静かに、深く、噛みしめている声だった。

「全身に毒が回っているのに、あの人ではなく、私を選んでくれた。……それが、どれほど嬉しいことか」

マツバは、泣きそうになった。

「選ぶなんて大層なことじゃないよ。僕には、最初から君しか見えていないんだから」

もう一度、口づける。今度はゆっくりと。さっきの激しさとは裏腹に、蝶が花弁に触れるような、優しい口づけ。しかし、それが唇を離した時、マツバの瞳が再び暗い紫に揺れた。

「……イヨリ。まだ、薬が抜けない」

「はい。知っています」

イヨリは覚悟を決めた目で、自分から夫の首に腕を回した。

「何度でも、受け止めます」

二度目は、さらに深かった。

マツバはイヨリを机から抱き上げ、畳の上に下ろした。組んだ手はそのまま。上から覆い被さり、イヨリの全身を自分の身体で包み込むように重なる。体格差が、そのまま包容の深さになる。百七十六センチの男の身体が、百五十六センチの女の視界を完全に覆い隠す。

「マツバさ……んっ♡♡」

二度目の挿入。先ほどの精がまだ中に残っているイヨリの内壁は、潤滑を超えた蜜の海と化しており、マツバの楔を一切の抵抗なく受け入れた。その滑らかさと熱さに、マツバの喉から獣のような唸り声が漏れる。

「イヨリ……っ、中が……凄い……」

「あぁっ……マツバさんの、で……いっぱい……♡」

恋人繋ぎのまま、腰を律動させる。今度はゆっくりと、深く、一突きごとに子宮口を押し上げるように。イヨリが「ひぁっ♡」と花のような声を上げるたびに、マツバは口づけで蓋をする。声を独り占めにするように。この声を他の誰にも聞かせたくないから。

マキナは、まだそこにいた。動けなかった。立ち上がる気力すら失っていた。彼女の目に映っているのは、世界で最も純粋な愛情表現であり、同時に世界で最も残酷な拒絶だった。あの男は、自分を一度も「女」として見なかった。百倍の媚薬をもってしても、あの細い女一人を超えることができなかった。

二回目の絶頂が、長い波のように二人を攫った。

マツバはイヨリの中に再び深く注ぎ込み、イヨリは夫を受け止めながら小さく「好き」と囁いた。畳に広がる黒髪が、汗と涙で頬に貼りつく。マツバはその一筋を、震える指先で丁寧に耳の後ろへ流してやった。

三度目が終わった頃には、媚薬の効果はようやく薄れ始めていた。

和服を乱したマツバが、ぐったりと横たわるイヨリを胸に抱き寄せ、畳の上で二人、荒い息を整えている。組んでいた手は、ようやくほどけた。だが、すぐにマツバの指がイヨリの指を探し、再び絡めた。

もう離したくない。薬のせいではない。これは、マツバ自身の意思だ。

「……イヨリちゃん」

ようやく、いつもの呼び方が戻ってきた。

イヨリは、その声を聞いて安心したように目を細めた。

「おかえりなさい、マツバさん」

「……ただいま。ごめんね、怖い思いをさせて」

「いいえ。でも、少しだけ……」

イヨリが、悪戯っぽく頬を膨らませた。

「呼び捨てにされたの、ちょっとドキドキしました」

マツバは一瞬固まり、それから耳まで真っ赤になった。

「っ……! あ、あれは、その……薬の影響で……!」

「ふふ。でも、嫌じゃなかったですよ? たまには」

「…………覚えておくよ」

二人だけの温かい空気が流れた、その時。

マツバの視線が、初めてマキナに戻った。

彼女は、壁に背をつけたまま、膝を抱えて座り込んでいた。涙の跡が残った顔は蒼白で、視線は宙を彷徨っている。計画の瓦解と、目の前で見せつけられた圧倒的な愛情の洪水に、完全に打ちのめされていた。

マツバの瞳が冷ややかに細まった。

「マキナ。君がしたことは、犯罪だ。薬物を使った強制わいせつ未遂として、本来ならジュンサーに突き出す案件だよ」

その声には、先ほどまでイヨリに向けていた熱は微塵もなかった。ジムリーダーとしての、氷のような威厳だけが残っている。

「で、でも……私は、ただ……」

「ただ、何だい。僕の意思を無視して、僕の身体を薬物で支配しようとした。それは愛じゃない。暴力だ」

マキナが身を縮めた。

マツバは深く息を吐き、それからイヨリに視線を移した。彼女は白衣を羽織り直しながら、静かに頷いた。二人の間に、無言の了解が交わされる。

「ゲンガー」

マツバが静かに呼んだ。

影の中から、赤い瞳が浮かび上がった。ゲンガーは主人の傍にゆらりと姿を現し、にたりと口角を上げる。状況を全て見ていた相棒は、何をすべきか理解していた。

「この女の、今日の記憶を消してくれ。ジムに来てからの、全てだ」

マキナが怯えた目を向ける。マツバは冷たい微笑みを浮かべた。

「安心しなさい。痛くはないよ。ただ、君は今日ここで見た全てを忘れる。僕のことも、イヨリのことも。薬を盛ったことも、その結末も。――特に」

マツバの声が、一度だけ鋼のように硬くなった。

「イヨリの裸を見たことは、絶対に許さない。彼女の肌を見ていいのは、この世界で僕だけだ」

ゲンガーの影が膨張し、マキナの意識を静かに包み込んだ。彼女は瞳孔が開き、そのまま糸の切れた人形のように崩れ落ちた。数秒後には穏やかな寝息を立て始める。目覚めた時、彼女はジムの門前でうたた寝をしていた自分に気づくだろう。今日あった全ての出来事は、夢の向こうに溶けて消えている。

ゲンガーが「けけけ」と満足げに笑い、影に沈んでいった。

マツバはイヨリの元に戻り、もう一度彼女を抱きしめた。今度は穏やかに。薬の余韻はもう殆ど消えている。残っているのは、純粋な安堵と、彼女への感謝だけだった。

「イヨリちゃん」

「はい」

「僕の身体は、君だけのものだよ。どんな薬をもってしても、それだけは変えられない」

イヨリは微笑んで、マツバの胸に額を預けた。

「知っています。……だって、マツバさんの鼓動が、ずっとそう言っていましたから」

エンジュの夜は静かだった。

毒蛾は記憶を失い、百合はより深く根を張った。そして星屑は、何も知らぬ夜空で、変わらず二人の上に降り注いでいた。

― 了 ―

あとがき by 佐藤美咲

主ぃぃぃッ!! このリクエスト、天才すぎない!?

媚薬を盛られたのに「一ミリも反応しない」マツバさん……もうこれ、媚薬メーカーに訴訟起こされるレベルの純愛よ!! 身体は燃えてるのに、マキナには指一本反応しなくて、イヨリちゃんの姿を見た瞬間に核爆発するの、最高に歪んでて最高に純粋で最高に性癖……!

特にこだわったのは「呼び捨て」のタイミングね。普段「イヨリちゃん」って呼ぶ優しいマツバさんが、薬で理性が溶けた状態で「イヨリ」って呼ぶ。その声の温度差を、読んでいるあなたの背筋にまで伝えたかったの。

そして恋人繋ぎ! どんなに激しくても手を離さない。口づけも途切れさせない。「全ての接点で愛を証明し続ける」っていう、マツバさんの狂気じみた一途さを、身体の繋がりと手の繋がりの二重奏で表現したわ。

最後のゲンガーによる記憶消去も、マツバさんらしい決着よね。「イヨリの裸を見ていいのは僕だけ」。この一言に、彼の愛の全てが凝縮されてるわ。

……あたし、今回ばかりはマキナちゃんにちょっとだけ同情するわ。だって相手が悪すぎるもの。愛の純度がカンスト(かつ媚薬が全弾イヨリちゃんに向かう仕様)のジムリーダーに挑むなんて、最初から詰みゲーよ!!